西都モノクローム

西都大好きな市議会議員が、徒然なるままに街のこと、写真のこと、空手のこと語ります。

天気がイイナー

2010-02-28 14:46:03 | 日記
きのうは今日の天気を心配していました。だからブログに雨天決行と書きました。でも春を思わせるような天気です。身も心も軽く(身は少し重い)妻と自転車に乗って、まちなか地域福祉まつりに行きました。平助のメインステージには屋台が並んでいます、舞台では園児の芸の発表が行われています。私たちは昼食もここですませるつもりだったので、ぐるりと屋台をみます。本町の皆さんがやっている屋台が目にとまります、焼きそばです、清野憲一さん(私が西都3大天才と呼んでいる人)が一所懸命つくっています。ということで最初は焼きそばです(食い辛抱①)、オッツ、隣においしそうなサンドウイッチがあります(食い辛抱②)買います、食します。飲み物も必要です、ジュース(食い辛抱③)を買います、飲みます。空いた食器を返します。隣をみますと豚汁とご飯がセットで売っています(食い辛抱④)、買います、食します。たいがいお腹がふくれたので、平助通りをゆっくりと歩きます(この平助の通りの道幅は、コミュニテイー商店街にピッタリです)東米良の神楽里食品の新製品が目に入り買います、お茶さんがあります、ほうじ茶がとってもおいしかったので買います。あの狭い道に両側からお店が迫り、そこを沢山の方がお店を覗きながら、会話しながらゆっくり歩く。商店街のあるべき姿ですね。PAOまでいろんな方と話しながら歩きました。手打ちそばが売っています、最後の一つです(食い辛抱⑤)当然買います、おまけももらいます(らっきー)。都城の「花ふぶき一座」が広場でパフォーマンスやっています。噴水まわりにおひな様が飾ってあります。夢たまごで和菓子とお茶をいただきます(食い辛抱⑥)ぶらぶらしていたら荒谷館長からシュロでつくったハエ叩きをいただきました。妻はそれを見てニッコリします。どうもハエ用じゃなくて行儀の悪い私用に使うみたいです。またメイン会場に戻ります、守田フードのアイスクリームを買います(食い辛抱⑦)食べます。最後の催しは「妻中学校吹奏楽部」演奏でした。巧くなってました。イヤーとっても大満足の福祉まつりでした。豚汁を食べていたとき、同席した女性と話しをしました。「福祉まつりは以前西都原でやっていたけど、街中でやるようになって(2回目)本当に良かった、お年寄りも楽に来られるし、あらたまった場所でやるんじゃなくて、日常の中で街の通りでやるこの形はとっても賛成」と喜んでいました。実行委員長の志田君は閉会の挨拶で「・・コミュニテイーの中から福祉はできると思っています・・」と言っていました。交流によって健常者、障害を持っている方が互いに理解し合うことから福祉は始まるんですね。街中でおこなうこのまつりはまさに趣旨にあっています。実行委員会、街中商店街のみなさん、市役所福祉関係の皆さん、そしてその他このまつりに携わった皆さんお疲れ様でした、そして有り難うございます。ちょっと食べ過ぎましたが楽しい一日でした。写真は守田フードのアイスクリーム売りの看板娘さん
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歩行者天国だよーー

2010-02-27 18:46:45 | 日記
明日2/28は西都市の中心市街地(小野崎、中央、平助各通り)がホコテンになります(10:00-14:00)。まちなか地域福祉まつりと銘打って色々なイベントがおこなわれます。子供達の伝統文化の活動、おもちゃライブラリー、軽トラバザーがあります。各商店街は「まちなかワンコインショップ」をやってますよー。そして先日お伝えしましたが逢染ひなまつりの開催中です、一緒におひな様も楽しみましょう(特に河野藤太さん宅のひな人形はすごいですよ)これらの売上金は福祉推進会の貴重な活動費になります(軽トラバザー)。雨天決行です。私は街の商店街は単に買い物をするだけでなく、市民の交流の場と思っています。交流の場としての商店街こそが、大規模店舗に負けない商店街の一つの道だと思っています。と堅いことをいいましたが、イベントを楽しみましょう。さて・なにを買うかな(マイバックを持って)
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今日起こったこと

2010-02-27 00:44:59 | 日記
時系列に書いていきます。午前中妻と共に役所まわりをしました。私の本職は建設建築業です、その指名願い用の書類取りに高鍋の税務署、法務局、県税事務所を回りました。昨日の市議選の説明会である方が意見を言いました、なんでわざわざ宮崎の支店まで届けないといけないんですか(選挙はがきのこと)、高鍋はそこで処理できているじゃないですか。・・・いつの間にか保健所、法務局、税務署、などなどが西都から消え、高鍋に統括されました。これは私の個人的な意見ですが、(西都市の事を何故わざわざ高鍋町まで)と思っています。訃報が次々入りました、赤十字西都で頑張っておられる浜砂澄子さんのお母様が亡くなり、川南まで行って参りました。そのあと同じ建築士会のメンバーの長友さんがガンでお亡くなりなられ、通夜に参列しました。年は私とほとんど変わりません、まだ小学生がいるのにどれだけ心残りだったかと思うと、残念で仕方がありません。その後妻南小の少年団連絡協議会の会議がありました。その場は意見交換の後飲み方でした。終わって、南空会の父兄でありコーチもして頂いている、狩野さん関谷さんと子供たちのこと空手のことについて色々と話をしました。楽しい時間はあっという間に過ぎるモノです、今日の日記が明日の日付になっています。お休みなさい
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2つの説明会

2010-02-25 20:49:02 | 日記
今日2つの説明会に参加してきました。まずお昼から西都市議会議員選挙立候補手続および選挙運動等説明会に参加してきました。郵政事業(株)、警察、選挙管理員会の皆さんから色々と説明を受けました。初めて参加するので、知らないことだらけでしたが資料をしっかり読んで手続きをしたいと思います。夜7時からは法元公民館で西都市景観計画説明会がありました。H16年に「景観法」が我が国では初めて(設定している国がある)設定され、それに基づき西都市が宮崎県で4番目(日南、日向、綾、西都・・)に景観行政団体として県と協議して同意を受けました。H20年のワークショップを経て、今年4/1より運用されます。西都のコンセプトは(省略して書きます)悠久の歴史が経過した今も、西都原台地、流れる川、田園の緑からなる自然と風土、古代日向の都が西都のまちの原点としての文化が西都の誇りであり、次代に伝えて行くべき宝です。景観はその時代の先人達がそれぞれの想い、考えの中で長い年月の間積み重ねられた、まちへの愛着とこだわりの現れで、この景観を後世に引き継ぐための計画です。具体的には西都市を色々なエリアに分け、そこに高さや色、形のルールを設定します。そうやって将来に向けての素晴らしい西都らしい景観を市民と事業者行政が力を合わせて育てる計画です。詳細は西都市建設課都市計画係までお尋ねください。「後世に引き継ぐ想い」で私は、17年前西都原の活用を考えるため韓国の慶州に行ったことを思い出しました、慶州は古墳を観光の目玉にして、博物館、土産物売り場、新しく作り直した中をみれる古墳等々があり、沢山の観光客がいました。私はこの町をみて違和感(まったく私の個人的意見です)を感じました。それは観光客(だけではないと思いますが)のために造った人工物と感じたのです。そしてその時、西都原の本当の価値に気づきました。それは地域(寺原を中心とした)の人々が千数百年の間守ってきた西都原に、地域の人の思い、敬意の時間の積み重ねを感じたからです。2010年に生きる私たちが、ほぼ昔のままの景観をみることが出来るなんと幸せなことだろうと感じました。景観を大切にすると言うのは成熟した民度の表れかもしれないですね。
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写真の話

2010-02-24 22:08:05 | 日記
 西都モノクロームという題なのに、なかなか写真の話しがないねという声が届きそうなので今回は写真の話しをします。私は宮崎市在住のある写真家(永友啓一郎氏)とある時より年に一回は写真展をしようと写真展の数を競い合っています(目指すは弥勒先生・・無理だ)年をとると健忘症になるので(先日テレビで言ってました、覚えられないんじゃなくて、覚えたことを引き出すことが難しくなったためだそうです。つまり覚えてはいるんです。ちょっと安心)写真展の記録を付けています、今日現在で38回しています。その中で思い出の深い写真展があります。それは結婚25周年の日に合わせて宮崎のみやはら画廊(残念なことに、閉館しました)でおこなったものです。橋口登志郎写真展-25-がそれです。その写真展に付けたコメントを今日は載せます。写真が好きになった経緯がわかると思います。それでは 「突然カメラが好きになってしまった。それはもっぱら精密感のあるメカとしてのカメラに対する物欲と、すいこまれるような深いコーティングの色をしたレンズに対する物欲であった。ある時、古本屋で一冊の写真集を買った。それは11PMやトゥナイトという深夜番組によく出ていたアラーキー(荒木経惟)の本だった。「わが愛陽子」というのがその本だった。その中にある、なに気ない日常の中の陽子さんにひかれ、そしてそれを撮ったアラーキーにあこがれた。愛を撮るってこういうものだと思った。この時から私の指向はカメラから写真そのものへシフトしていった。カメラ、写真は昔から興味はあった、実際初任給を使いペンタックスのKMというカメラを買った(10回ローンを組んで)、自分の家族のアルバムをよく見ていた、そこには写っているそのもの以外の空気感、それに関連する出来事(音楽が聞こえる錯覚さえする)を思い起こさせた。アルバムを見て記憶の中の時間を彷徨い楽しんだ。中学、高校は男子校だった。爆発するかのような思春期に回りは男ばっかり、かろうじて話す異性は母と妹と図書館の職員さんぐらい。こんな環境にいると女性への見方は変わってくる。つまり、女性を異性だと必要以上に強く認識してしまう、性差を超えた友人関係を作れず、無関係か一気にガールフレンドといった両極端に走るのだ(僕だけ?)。最近宮崎南高出身者と話していたら、彼曰く「何となくあの子は良いなと思っていても、異性としてよりも、同じ教室で学ぶ同級生という目で見てしまうので機会を作れずにいた。そこに突然学院生(注釈 日向学院のこと今は共学だけど、私たちの頃は男子校だった)が出てきて彼女にしてしまう事があった」当たり前である、飢餓感に雲泥の差がある。学院生は女性の見方が先に述べたように無関係か一気にガールフレンドといった両極端の2方向しか見られないのだ、相手の女の子に呆れられ、たいていダメになる(私だけ)。普通の異性の友人関係を作りにくい人種なのだ。(女子校はどうだったんだろう、聞いてみたい)そんな不幸な青春だったが、入った大学がミッション系の文化系大学。当然女子学生は多いし(半分以上、その上女の子は真面目に学校に来るけど、男は余りこないからキャンパスは女の子ばっかし・・・うーんパラダイス)やっと春がきた、spring has come。僕と同世代はブル-ス・リ-と空手バカ一代の洗礼を受けていると思う。当然ミーハーな僕はもろにその波をかぶっていた。アチョーッ大学の体育会所属の部はどの大学でも厳しい練習をしている。理屈が通る練習ならまだ良いが、通らない(通っていても、理解できない)部がある。応援団と空手部である。入学式が終わり、一通りのガイダンスが終わるとそこいら中、新入部員確保する為、先輩達がうようよいた。オバカな僕は空手着を着ている人を見つけ、入部したい旨を告げた。練習は毎日だが練習時間はそう長くなく、先輩もいい人みたいだし、何より経済学部の教授が顧問でほぼ毎日練習に来る(部は松涛館流だったが、先生は流派が違い細部の技が異なっていた)達人という噂があったし、何より温厚そうに見えた、で幸せな何週間が過ぎた。通称洗礼(ミッション系なので)という行事がある。それまでお客様扱いされた新入部員が、身を清めなさい、神(先輩、OBの事)の子になるんですと洗礼をうけるものだが、本当の洗礼なら聖水とパンとで行うだろうが、空手部の場合、聖水が突きで、パンが蹴りなのだ。 有り難いことに2時間それを浴び続けた。あまりのことに助けを求めようとして教授を見たが、優しい目をして、うなずいて・・・・新入部員の半数が退部した。もう一つ重大なことに気が付いた、空手部には女の子が一人もいないのだ。女子の多い大学で女子部員がいない・・同じ武道系でも柔道、剣道、少林寺にはいるのに、なんてこった。結局男だけの部は空手部とメールクワイヤー(男声合唱団)だった。大学一年の時、栄(名古屋の繁華街)に、同じ大学の応援団の木村と一緒にいた、前のほうから同じ大学の少林寺の女子部員らしい2人が歩いてきた。どこの大学でもそうだと思うが、武道系の部は、タテのつながりが強い(異なる部でも先輩には礼をかかさない)僕達は彼女たちを先輩だと思いアイサツをした。彼女を初めて認識したのはこの時であった。中学、高校、そして大学まで飢餓状態にあった僕とずっーと男女共学の彼女、戦いの結果は火を見るよりあきらかである。そんなこんなで大学時代付き合い続け、付き合ったら結婚しなくちゃと思っていた僕は、それを彼女に言い続け、大学を卒業して2年後の1981年3月に結婚した。結婚して住んだマンションはメゾンカリという所であった。新婚旅行を終えてマンションに帰ってはじめて、2人でむかえた朝のことを妙に覚えている。朝起きてみると、今から住み続ける部屋に彼女がいる。この状態が今からずーっと続くんだと不思議な感覚にひたっていた。ゆっくり流れ、またなんて事のない日常の中にこそ、大切でかけがえのないものはあるんじゃないかと思う。義父と酒を飲みながら話をした。彼女が5才か6才の時、今池(名古屋の繁華街)のパチンコ店に一緒につれていったことがあったそうだ。パチンコに夢中になり彼女がいなくなっているのに気付かなかった。あわてて、いろいろ探したけど、なかなか見つからなかった。夕方も近くになり、家の近くの公園に行ってみると、ペタッと座り込んで猫とじゃれている娘を見たそうである。夕日を浴びて、あきもせずにずっと猫と遊んでいたそうである。私は言葉で聞いただけであるが、まるで自ら見たようにその情景を感じることができた。3番目の子どもができたとき、彼女は私にこう言った。「私の人生の自由を奪ったね」まったくだ。子どもが二十歳になった時、私達は60近くになっている。うーむー責任を感じる。                                                 笑顔の写真は後でみると切なく感じてしまうのは何故なのだろう
                                            名古屋で生まれ育ち、子供の頃は宮崎に住むことなど想像もしていなかったに違いない。何の因果か僕と知り合い今一緒にいる。村上春樹さんの「パン屋再襲撃」の中に次のような文章がある。 「僕は彼女がひどく気の毒に思えた。彼女は間違った場所に置き去りにされたのだ。もっと別の場所にいれば、あるいは彼女はもっと幸せになれたかもしれないのだ。」あのとき栄で会わなかったら、彼女は別の人生を歩き今よりもっと幸せになっていたかもしれない。時々そんなことを考えることがある。 考えても仕方がないことなんだけど・・・ 永遠に続くことなんてありゃしない、別れ、死は訪れる。古来多くの人が「死を忘れるな」という警告を発してきた。ヨーロッパ中世の絵画には、通常の絵の隅にどくろを描いて死を思い起こさせる趣向のものがある。このように警告が鳴らされるには理由がある。死を忘れていると、生きていることのありがたさを忘れてしまう。死に直面するとき、はじめて人間は生きることの大切さを知る。それまで、異性に恵まれていない、脚が短い、金が自由にならない、病気ばかりしている、と不平ばかりいい、目先の利害に一喜一憂している人が、死を意識すると一時的に真人間にもどり、それまでの生活を悔い改め、自然の美を見出し、人類愛に目覚め、脚が短いことにも感謝するのである。人間が愚かな行為をするのは死を忘れているからだ。死と向かい合って生きるのが人間のあるべき姿である。こう考えられるのだ。哲学者の土屋賢二氏の言葉より。・・・メメントモリ                    いやー長がったでしょう、ここまで読んで頂いて有り難うございます。来年3月は30周年なのでまた写真展をする予定です。こうご期待。写真は昨年1月日本カメラコンテスト表彰式の際、受賞者代表でスピーチしたときのもの。(東京八重洲)                                                                                                          
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