こんにちは! ただち恵子です

政治と社会、日々の暮らしの小さな喜び。思いつくままに綴ります。

「想いを繋いで生きていく」ということ

2018-05-06 13:31:30 | つぶやき
庭の片隅で1年と少し前に少し前にいただいた、ミニ薔薇の小さな苗から赤い花が咲き始めました。大地と太陽の恵みに感謝です。


ブログが書けなかった3日間でした。。

投稿できなかった3日間は、ほとんどPCを開くこともなく、その前の3日間も「書いた」とは言えない中味で、「ブログが書けない1週間」が正確かもしれません。


こんな日もあろうかと、後援会ニュースの「ブログ 毎日更新中!」を、先月号は「ほぼ毎日更新」に、そっと直しておきました。


議員としての活動を始める前から、ほぼまるまる30年、身近にいて支えてくださった同志であり、人生の先輩であり、、一回り以上の歳の差はありながら気持ちの通じる友人でもあった大切な方とのお別れの日を迎えることになりました。




ドクターには「いつ、急変してもおかしくない」といわれるほど、病気の進行を示す数値が良くない中でも、少しでも長く人の助けを借りることなく「自由に暮らす」ことを望みました。

そして、最後の最後まで「人の役に立つこと」を考え、行動していました。それを証明する最後に交わしたメールのやり取りを「永久保存」にします。


命尽きる最後の時まで、最後の一呼吸まで、誇り高く生きる姿を見せてくださいました。命の終わる時を、息子さん、娘さんと一緒に見届け、棺が炎に中に消える最後の最後の厳粛な瞬間も親族の皆さんと一緒に居る。それは、私がもらった最後の贈り物でした。



14歳で工場で働き始めてから49年。働き続けて教職を退く前から、そして退職後もずっと地域で社会保障を守り創る活動に力を注ぎ続けました。

一緒に活動しながら、交わした言葉が、甦ります。


はっきりと会話ができた最後の日、5月1日の最後の言葉は「ありがとう」でした。


今日の葬儀に参列してくださった皆さん、親族の皆さんに、昨年の4月に書かれた短い文章をお渡ししました。

昨年の4月、1年前に「戦後71年 平和への想い」のシリーズで後援会ニュースに掲載したものです。


本人の許可を得ることはできなくなりましたが、きっと許してくれると思うのでここに転載します。


洗濯板少年の戦中・戦後


 戦中の食料不足のため、ほとんどの子どもたちの胸は、洗濯板のようだった。やせはやせの中でも格差があった。私は特に小さくやせていたと思う。

    飢えと寒さと・・・
父は、私が国民学校に入学する前に2度目の徴兵。復員したのは1949年の夏だった。母と姉・妹・まだ赤ん坊の妹が残された。財産もない、決まった仕事もない、あっても赤ん坊がいては働けない。毎日3度の食事はとっていたが、何をおかずにしていたか思い出せない。母に頼まれて商店街で買うのは「でんぶ」要するにふりかけだ。栄養不足、粗末な衣服、暖房は火鉢ひとつで、冬の寒さは正味こたえた。
 私が3年生になった頃、母はあまりにも貧しい生活に耐えかねたのか、四国の実家に私を預けた。
 父の実家で食べる飢えからは解放された。麦飯、かんころめし、ふかしいもなど、食べる物は充分にあった。食べさせてもらうだけでなく、ずいぶん働かされた。だんだん畑農業の手伝いが主だった。
 食の飢えからは解放されたが、家族と一緒に暮らせない心の飢えに耐えかねて、頼み込んで家族のもとへ帰った。
4年生になった頃、先生が「人間は何のために生まれてきたのか」と聞いた。教室中がシーンとして誰も手をあげない。私が「天皇陛下のために死ぬために生まれてきた」と答えると大絶賛された。教育勅語の暗唱に力を入れた。最近「教育勅語を暗唱させる幼稚園」が問題になっているが、戦争中でも1、2年生にはさせなかった。


   学童疎開で奈良へ
せっかく家族といっしょに暮していたのに、米軍の本土への空襲が激しくなって、大都市の国民学校児童の集団疎開が始まった。姉は奈良県王寺の寺へ、私は同じ奈良県の郡山の近くにある天理教の分教場に疎開した。
 疎開生活での飢えは、すさまじかった。朝食・昼食に何を食べたか全く記憶にない。夕食は、粥というよりライススープ。汁を吸って米粒だけにすると盃に一杯くらいの量しかなかった。副食はかやくがほとんど入っていないカレー汁か、おからの煮物。空腹のために寝られないこともしばしば。
 疎開先でも空襲警報が発令されることがだんだん多くなった。近くの神社の森に逃げた。5年生になる少し前ごろから生駒山の上が夜になると夕焼けのように真っ赤に染まるようになった。大阪が空襲で焼かれていたのだ。
 しばらくして、母と叔父が「家族疎開をするので」と迎えに来てくれて学童疎開生活は終わった。


   終戦・・・中学1年で中退
 その年の8月に終戦。戦争が終わっても、我が家には新たな生活苦と飢えが待ち構えていた。姉たちは国民学校卒業後織物工場へ。私は新制中学の1学期で中退。14歳で針金工場に就職。後に中学卒業の認定試験を受け夜間高校で学んだ。
 最近のニュースを見ていると、またもや私たち一家と同じ経験をしなければならない恐れが、黙って放っておくと本当に近いように思われる。
(元市内小学校教員 K・S)



「黙って放っておいてはいけない」という想いを、行動にする。

「生きている今日」が、どれほど大切か。

それを私に伝えてくれた。最後まで。


ありがとうございました。
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