本日のメインである教興寺へ。
どんな仏様達に出会えるか楽しみ。
場所は天理教の大きな建物を目印にすれば分かりやすいと思います。
由緒ある寺の近くに施設を建てる天理教が近くにあるということは、
教興寺がそれだけ由緒あるお寺ということです。
天理教の建物はとても立派で中を見たかったのですが、
どうも敷居が高くて入れませんでした。
天理教は変な宗教じゃないと認識していますが、
どうも気後れしてしまいます。
堂々と入れる神経の図太い男になりたいです。(笑)
所在地:大阪府八尾市教興寺7-21
宗派:真言律宗
御本尊:弥勒菩薩
創建:崇峻天皇元年(588)
開山:(伝)秦河勝
開基:聖徳太子
札所:河内西国三十三箇所、おおさか十三仏霊場
【歴史】
寺伝によれば聖徳太子が物部守屋の討伐を祈願する為、
秦河勝に命じ崇峻天皇元年(588)に建立したという。
寺は中世には荒れ果て鎌倉時代に奈良・西大寺の叡尊が復興した。
叡尊は河内布教の帰途の際、教興寺が荒れ果てているのを知り、
文永6~7年(1269~1270)にかけて再興した。
また叡尊は蒙古襲来の際に敵国降伏の祈祷をしばしば朝廷より命じられているが、
教興寺においても祈祷している。
室町時代には足利直義によって諸国に建てられた安国寺及び利生塔が置かれるなど、
河内を代表する寺院でありました。
戦国時代の永禄5年(1562)5月19日、
ここに陣を敷いた河内国守護畠山高政と三好義興・松永久秀の軍勢との合戦となり、
教興寺は戦火に巻き込まれ伽藍と多くの施設を焼失した。
再度荒廃した教興寺は江戸時代の貞享年間(1684~1687)に浄巌和尚によって再興された。
浄厳と親交のあった近松門左衛門がしばらく寺に寄宿していたと伝えられている。
明治18年(1885)の台風で本堂が崩壊した為、北側の客殿を仮本堂とし現在に至っている。
【山門】
この山門を通り住宅街を少し回れば無料駐車場があります。
初めての人は分かり難いと思いますので御注意を。
【石碑】
湯川直光は戦国時代の武将で畠山氏の重臣。
湯川氏第12代当主、紀伊亀山城第11代城主で河内守護代も兼ねた人物。
教興寺の戦いで戦死。
【宝篋印塔】
【大門池】
【不動尊】
【修行大師像】
【白髭玉津大明神】
【鐘楼堂】
【本堂】
御朱印をお願いすると本堂に上げていただいた。
扉を開けた光だけの堂内はやや薄暗く、
決して荘厳な雰囲気ではありませんでした。
しかし、御本尊弥勒菩薩、地蔵菩薩、千手観音菩薩、
弘法大師像等の諸仏を堪能出来ました。
御本尊の弥勒菩薩は蓮に座られ、印相は定印でした。
金箔も良く残っていましたね。
お顔をどことなく聖徳太子のお顔とダブりました。
地蔵菩薩や千手観音菩薩は墨が塗られてるかのように黒かったです。
残念ながら撮影禁止でした。
【焼香炉】
【御朱印】
二種類ありました。
【感想】
お寺の雰囲気はとにかく殺風景。
春になれば雰囲気も変わると思いますが。
近くの繁栄している天理教とは反対で、
お寺の経営も決して楽なものではないでしょう。
このような歴史あるお寺は後世に残していかなくてはならない。
その為に地域の方々にはもっと努力してもらいたいですね。
【大通寺】
教興寺から歩いて数分の場所に河内西国三十三箇所札所の大通寺があり、
寄ってみましたが、残念ながら不在で御朱印はいただけませんでした。
どんな仏様達に出会えるか楽しみ。
場所は天理教の大きな建物を目印にすれば分かりやすいと思います。
由緒ある寺の近くに施設を建てる天理教が近くにあるということは、
教興寺がそれだけ由緒あるお寺ということです。
天理教の建物はとても立派で中を見たかったのですが、
どうも敷居が高くて入れませんでした。
天理教は変な宗教じゃないと認識していますが、
どうも気後れしてしまいます。
堂々と入れる神経の図太い男になりたいです。(笑)
所在地:大阪府八尾市教興寺7-21
宗派:真言律宗
御本尊:弥勒菩薩
創建:崇峻天皇元年(588)
開山:(伝)秦河勝
開基:聖徳太子
札所:河内西国三十三箇所、おおさか十三仏霊場
【歴史】
寺伝によれば聖徳太子が物部守屋の討伐を祈願する為、
秦河勝に命じ崇峻天皇元年(588)に建立したという。
寺は中世には荒れ果て鎌倉時代に奈良・西大寺の叡尊が復興した。
叡尊は河内布教の帰途の際、教興寺が荒れ果てているのを知り、
文永6~7年(1269~1270)にかけて再興した。
また叡尊は蒙古襲来の際に敵国降伏の祈祷をしばしば朝廷より命じられているが、
教興寺においても祈祷している。
室町時代には足利直義によって諸国に建てられた安国寺及び利生塔が置かれるなど、
河内を代表する寺院でありました。
戦国時代の永禄5年(1562)5月19日、
ここに陣を敷いた河内国守護畠山高政と三好義興・松永久秀の軍勢との合戦となり、
教興寺は戦火に巻き込まれ伽藍と多くの施設を焼失した。
再度荒廃した教興寺は江戸時代の貞享年間(1684~1687)に浄巌和尚によって再興された。
浄厳と親交のあった近松門左衛門がしばらく寺に寄宿していたと伝えられている。
明治18年(1885)の台風で本堂が崩壊した為、北側の客殿を仮本堂とし現在に至っている。
【山門】
この山門を通り住宅街を少し回れば無料駐車場があります。
初めての人は分かり難いと思いますので御注意を。
【石碑】
湯川直光は戦国時代の武将で畠山氏の重臣。
湯川氏第12代当主、紀伊亀山城第11代城主で河内守護代も兼ねた人物。
教興寺の戦いで戦死。
【宝篋印塔】
【大門池】
【不動尊】
【修行大師像】
【白髭玉津大明神】
【鐘楼堂】
【本堂】
御朱印をお願いすると本堂に上げていただいた。
扉を開けた光だけの堂内はやや薄暗く、
決して荘厳な雰囲気ではありませんでした。
しかし、御本尊弥勒菩薩、地蔵菩薩、千手観音菩薩、
弘法大師像等の諸仏を堪能出来ました。
御本尊の弥勒菩薩は蓮に座られ、印相は定印でした。
金箔も良く残っていましたね。
お顔をどことなく聖徳太子のお顔とダブりました。
地蔵菩薩や千手観音菩薩は墨が塗られてるかのように黒かったです。
残念ながら撮影禁止でした。
【焼香炉】
【御朱印】
二種類ありました。
【感想】
お寺の雰囲気はとにかく殺風景。
春になれば雰囲気も変わると思いますが。
近くの繁栄している天理教とは反対で、
お寺の経営も決して楽なものではないでしょう。
このような歴史あるお寺は後世に残していかなくてはならない。
その為に地域の方々にはもっと努力してもらいたいですね。
【大通寺】
教興寺から歩いて数分の場所に河内西国三十三箇所札所の大通寺があり、
寄ってみましたが、残念ながら不在で御朱印はいただけませんでした。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます