Gomaler's~神社仏閣巡り~癒しを求めてII

主に関西の神社仏閣巡りと御朱印集めが趣味です。

成願寺(2017年2月19日参拝)

2017年03月13日 | 玉川八十八ヶ所霊場
大本山總持寺が能登から移転する前までに、
その地にお寺がありました。

その名は成願寺といい、現在も總持寺近くに存在しております。

總持寺で拝観した際、明治時代の写真を沢山拝見させていただき、
これは是非とも参拝しておかないとなと思った次第。




これは移転した時の總持寺です。

明治時代の鶴見も相当な農村だったようですね。(笑)


所在地:神奈川県横浜市鶴見区豊岡町6-1
宗派:曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼佛
創建:天正3年(1575)
開山:守聞和尚
札所:玉川八十八ヶ所霊場


【縁起】
天正3年(1575)聲庵守聞大和尚の開創にして、
寺尾に一字を建立し本尊釈迦牟尼佛を安置したことから始まります。

その後、元和(1615~1623)の頃薬師堂の別当として、
鶴見の二見台に堂宇を移設しました。

また、江戸時代初期の当時、寺領拾石の朱印状を付與されていたことが、
古記録により明らになっております。

後に第二十世加藤海応和尚の明治39年(1906)2月、
境内地を大本山總持寺移転再建地に献納し、
大正元年(1912)に再度鶴見豊岡に移転しました。


【山門】


平成27年(2015)に再建されたもの。


【仁王像】
 

山門が新築されたのに合わせたのでしょうか、
色が塗られて新しく見えますが、室町時代の作とされているそうです。


【境内】


無料駐車場、トイレがありました。


【本堂】


昭和12年(1937)再建されたもの。

残念ながら閉まっていました。


【旧本堂】


あー、こっちの方が良いわ~。

都会では防火の観点から茅葺屋根は厳しく制限されていますし、
2,30年に一度は葺き替えをしなくてはならないので費用もかさむ。

だから屋根が瓦になっちゃうのよね。

これも時代の流れ。
仕方ありません。


【薬師堂】


昭和51年(1978)に建立されたもの。




慈覚大師の御作と伝えられる薬師如来を中心に、
お馴染みの脇侍日光・月光両菩薩・十二神将が祀られていました。


【本堂内陣】


御朱印をお願いすると本堂内陣に上げさせていただいた。

嬉しい~。(^^

奥様ありがとう。






てっきり見る事も出来ないと思っていたので、
嬉しい誤算です。(^^

こういう時が御朱印をいただいて良かったなぁと思うし、
一番嬉しい時です。


【パネル】



【御朱印】


書置きのみとのことです。

浦島寺<慶運寺>(2017年2月19日参拝)

2017年03月11日 | 玉川八十八ヶ所霊場
成仏寺から京急本線の線路向かいにあるのが、
浦島寺こと慶運寺です。

浦島寺の前に近くの浄瀧寺というお寺にも参拝予定であったが、
本堂を囲むかのようにお墓ばかりだったので止めた。


所在地:横浜市神奈川区神奈川本町18-2
宗派:浄土宗知恩院派
御本尊:阿弥陀如来
創建:1390~1447
開山:定蓮社音誉聖観
札所:小机領三十三所子歳観音霊場


【縁起】
浄土宗寺院の慶運寺は吉祥山芳艸院と号します。
慶運寺は芝増上寺第三世定蓮社音誉聖観が永享年間(1390-1440)から、
文安年間(1441-1447)にかけて創建したといいます。

定蓮社音誉聖観は神奈川宿瀧村称明寺の運誉に従って剃髪、
摂州兵庫に西光寺を創建、橋場保元寺二世となった後、
慶運寺を創建したといいます。

慶長4年(1599)に徳川家康より寺領7石を拝領、
多くの末寺を擁する中本寺格の寺院でした。

江戸時代末期の横浜開港に際して、
慶運寺がフランス領事館として供用されていました。

明治期に入り浦島太郎の伝説が伝えられていた観福寺(浦島寺)を合寺したことから、
当寺に浦島太郎の伝説が残されています。


【石柱】



【寺頭】


このお寺もまた山門はありません。

境内に数台分の車を停めれるスペースがありました。


【本堂】




閉まったまま・・・


【観世音堂】


墓地の前にありました。

こちらは小さい穴があり堂内の浦島観世音が見れました。

少し救われました。


【浦島観世音】



【御朱印】


文字は全てスタンプです。


うーむ、予想していたとはいえ、
開かずの本堂と墓地ばかりの檀家寺の参拝が続くと、
精神的にとてもしんどい。

ましてや旅行先で知らない土地だと尚更。

あと三カ寺参拝予定であったが、ツラくなってきたので、
東神奈川界隈から離脱し鶴見へ行くことにした。

總持寺は昨日参拝したけど、
あの凄い伽藍を見て心をパワーをチャージしに行きます。

成仏寺(2017年2月19日参拝)

2017年03月10日 | 玉川八十八ヶ所霊場
熊野神社から歩いて200メートルほどの場所にあるのが、
その名もズバリ成仏寺。

このお寺に参拝すれば成仏は確実かな?(笑)


所在地:神奈川県横浜市神奈川区神奈川本町10-10
宗派:浄土宗
御本尊:阿弥陀如来坐像
創建:永仁年間
開基:心地覚心



【縁起】


永仁年間、心地覚心(法灯円明国師)が開基して深厚山と称し、
真言宗・仏心宗(禅宗)・律宗・浄土宗の四宗を兼ねた(四宗兼学)が、
応永年間、後小松天皇が師岡熊野神社を勅願所に定め、
師岡保内12ヶ郷神領寄進の宣旨を下したことから、
同地域の寺院12ヶ寺を社務に定め、
当寺をその随一に置き後小松院の院号を賜ったという。

天正18年(1590)豊臣秀吉が門前に保内12郷の禁制を出した。
また、慶長年間には徳川家康から10石の朱印地と3町歩の境内地の寄進を受けた。

元和9年(1623)徳川家光の命により四宗兼学から浄土宗のみに改め、
知恩院の直末となり、浄土宗改宗の初祖は本譽呑無(万行)上人である。

寛永7年(1630)に徳川家光の上洛の際の宿泊所神奈川御殿が境内に造営された為、
代替地として与えられた現在地に移転、塔頭6坊を持つ大寺となり栄えた。
その後、本堂は享保2年(1717)に闡譽霊察によって再建された。
塔頭は宝永4年(1707年)までに4坊が、明治元年(1868年)に残る2坊が廃絶。
境内の鎮守熊野神社は同年の神仏判然令により分離した。

当寺の現在地である神奈川にあった神奈川宿は日米和親条約締結の舞台であり、
下田(現在の横浜港)開港の際に本堂が外国人宣教師の宿舎となった。

当時滞在した著名人にヘボン式ローマ字の創始者ジェームス・カーティス・ヘボン博士、
宣教師のブラウンやバラー、後に日本滞在記を遺したフランシス・ホールなどがいる。


【石柱】



【寺号標】


山門はありません。


【本堂】




本堂と墓地だけのお寺ですね。

しかも御本尊を見ることも出来ませんでした。
残念です。


【御朱印】

金蔵院(2017年2月19日参拝)

2017年03月08日 | 玉川八十八ヶ所霊場
桜木町から東神奈川駅へ移動。

東神奈川駅界隈には幾つものお寺があり、
中には由緒あるお寺があるので寄ってみました。


所在地:横浜市神奈川区東神奈川1-4-3
宗派:真言宗智山派
御本尊:阿弥陀如来
創建:寛治元年(1087)
開山:勝覚法印
札所:玉川八十八ヶ所霊場、新四国八十八ヶ所霊場、東国八十八ヵ所霊場


【縁起】


金蔵院は神鏡山東曼陀羅寺と号し、寛治元年(1087)堀河天皇の命を受けた
勝覚法印によって開創された勅願寺です。

勝覚法印は総本山醍醐寺の第十四世となり、
後に三宝院を開創し初世となった高僧です。

かつて金蔵院が別当を兼ねていた熊野三社権現の旧記によると、
勝覚法印が紀伊国から熊野権現の神霊を分祀したとされる。

平安時代以降の神仏習合時代は神社の祭祀等は別当寺が行う事が伝統であり、
金蔵院の開創も熊野神社の創建と同時期とみられる。

伊豆に流されていた源頼朝が挙兵し、鎌倉に入り東国政権を樹立。
そのおり熊野神社に戦勝を祈願し、金蔵院の住職が秘法を厳修したとされる。

武田家滅亡後、北条氏直が甲斐へ5万の兵を送ったとの知らせに、
徳川家康は8千の兵を率いて出陣、源頼朝の故事に倣い、
金蔵院住職が秘法を修して戦勝を祈願。
結果、家康は甲斐・信濃を領することになり、金蔵院に御朱印寺領地十石を寄進。

家康は慶長15年(1610)に神奈川御殿が建てられるまで、
金蔵院を宿泊所とし、境内の紅梅を愛でて出立のおりには必ず、
一枝を手折って持ち帰ったといい、以来、住職が紅梅の一枝を携えて江戸城に上り、
歴代将軍に献上する慣わしとなっていました。

元禄の頃には寺社詣でが盛んになったが、
明治時代の神仏分離令、廃仏稀釈により衰退するが、
歴代住職と檀信徒により寺門が支えられ現在に至る。


【通用門】


無料駐車場がありました。


【山門】


こちらは開かずの門という感じで、
格式の高さを感じるもんでしたね。


【本堂】


なかなか立派な本堂です。

残念ながら入ることはおろか、
堂内を見る事も出来ませんでした。

境内は本堂と納骨堂と墓地といった感じで、
昔は凄かった系のお寺のようですね。


【客殿庭園】



【紅梅】



【御朱印】

八幡山観音寺(2017年2月18日参拝)

2017年02月25日 | 玉川八十八ヶ所霊場
篠原八幡神社から徒歩数分の場所にあるのが、
八幡山観音寺というお寺。

こちらはあの川崎大師の御本尊が戦前に避難したお寺です。


所在地:神奈川県横浜市港北区篠原町2777
宗派:真言宗智山派
御本尊:十一面観世音菩薩
創建:不明
開山:不明
札所:玉川八十八ヶ所霊場、新四国東国八十八ヶ所霊場


【縁起】
当山は開山から現在に至るまでこの篠原の地で仏法の灯明を絶やすこと無く、
数多の善男善女の信仰を集め続ける真言宗の寺です。

創建年代については諸説あり、正確な年代は定まっていません。
当山には天正年間(1573~1591)祐覺和上によって、
開基されたとの一伝がありますが、これは新編武蔵風土記に紹介されるものです。

しかしながら当山鎮守の八幡宮(現・篠原八幡神社)における
別当寺としての性格も考慮する必要があります。
八幡宮の創建時期は鎌倉期と推察されますから、
観音寺の歴史も天正を遡ることは十分に予見できます。

明治時代の廃仏稀釈により、観音寺もまた鎮守である八幡社から切り離され、
上地令によって寺領を失いました。

明治15年には観音寺全山焼失。
大正期に晋山された隆超和上は寺の再興に尽力されて、
仮本堂と庫裏の建立を成し遂げました。

昭和20年4月に川崎大師平間寺の御本尊厄除け弘法大師像が当山に避難。
時の住職隆悦和上は秘密裡に境内の一画に専用の横穴を掘り、
そこに御本尊ご宝物を丁重に安置し、川崎大空襲の難を逃れました。

昭和29年に晋山された隆侃和上は、この隆超、隆悦両和上の遺志を継いで、
観音寺再興の任にあたり、苦節20数年して遂に現今の本堂を建立、
境内墓地等の整備を進めて明治以降衰退した観音寺の寺運を復興されました。

よって当山では隆侃和上を中興第1世と称してその高徳を顕彰しております。

その後平成12年に晋山しました現住職は不動堂の再建、六地蔵堂の建立、
遍照光明墓の新設を進め、本来あるべき観音寺の寺観整備に微力を尽くしております。


【参道】


ゴロゴロを持っていたので、
この坂はちょっとしんどかった。(^^;


【遍照光明墓】



【寺号標】



【本堂】


本堂裏手に無料駐車場がありました。


【二宮金次郎像】


石像や銅像ではよく見るけど、
こういうタイプは初めて見たな。


【幸福観音】



【十三石塔】



【彫り物】



【内陣】


外からでも内陣は見れます。

どこのお寺も最低限これぐらいしてほしいね。

御朱印をお願いすると、本堂にあげさせていただいた。(^^

ありがとう奥様。




小さ目の御本尊様でした。


【天蓋】


天女がいました。


【弘法大師】


ありがたや ありがたや。


【天井】


こういうのも初めて見ました。


【不動堂】


外から見たら分かりませんでしたが、
本堂横に不動堂がありました。


【般若心経】







【御朱印】


御対応いただいた奥様にお茶とお菓子をいただきながら、
しばし談笑。

御住職は観音寺の前には大阪府富田林の瀧谷不動明王寺に
いらっしゃったそうです。

奥様は京都の大本山智積院で修行されていたとか。
智積院の話やお遍路の話で盛り上がりました。(^^

話の中で驚いたのは新横浜は昔はド田舎と教えていただいたこと。

何故、川崎大師の御本尊がこちらに疎開されたのですか?という私の質問に、
川崎大師の二代前の管主が観音寺の御住職であった御縁ということと、
新横浜辺りは戦前は本当に何も無いド田舎だったからとか。

現在の墓地の所に防空壕を掘って御本尊を守ったとか。

マジっすか?

現在の新横浜って凄く繁栄してるから全く想像出来ない。(^^;

何でも昭和40年代でも新横浜駅とプリンスホテルしか無かったらしい。

昭和50年代ぐらいまでは田舎だったとか信じられんよ。(苦笑)

お寺のある篠原町も今では沢山の住宅がありますが、
平成の初めになってようやく開発されたとのこと。

奥様が関西に行く時は家がぽつぽつとある程度だったのに、
何年かして帰って来たら住宅がいっぱいあって驚いたそうです。(笑)

後で参拝した總持寺のボランティアのおば様にも聞いてみたら、
鶴見に比べると本当に何も無いド田舎でしたよ、と言われました。(笑)