Gomaler's~神社仏閣巡り~癒しを求めてII

主に関西の神社仏閣巡りと御朱印集めが趣味です。

法華禅寺(2015年9月20日参拝)

2015年10月26日 | 諏訪三十三ヶ所観音霊場
諏訪大社本宮の東参道の上に行くと法華禅寺がある。

参拝するまでお寺があることすら知らず、偶然見つけたんですが、
それがあの織田信長と明智光秀の因縁の地であるとは。



所在地:長野県諏訪市中洲神宮寺856
宗派:臨済宗妙心寺派
御本尊:釈迦如来
創建:弘仁6年(815)
開山:伝教大師
札所:諏訪三十三ヶ所観音霊場、諏訪八十八ヶ所霊場、諏訪湖畔七福神巡り、
信州伊那諏訪八十八霊場



【縁起】


伝教大師が東国布教の際この地に巡錫し開山されたと伝えられ、
もと天台宗の寺であったが、鎌倉時代に領主・蓮仏入道盛重が中興し、
建長寺蘭渓道隆を招いて臨済宗に改めたといい、諏訪大社上社神宮寺であった法華寺は、
往時は七堂伽藍が揃った規模の大きな寺院であったといわれる。

甲斐武田氏追討の為に高遠城を落した織田信長の嫡男・信忠の率いる軍勢は、
天正10年(1582)諏訪に入り武田氏が崇拝していた諏訪大社上社本宮を焼き討ちにし、
上社本宮の社殿等は全て灰燼と帰してしまうが、
その際、隣接する法華寺は類焼を免れている。

織田の軍勢に追いつめられた武田勝頼・信勝父子が田野の地で自害し、
甲斐武田氏が滅亡すると、19日に信長自らが上諏訪に入り、
しばらくの間、この法華寺に本陣を置いた。

盟友であり武田氏討伐戦に加わっていた家康公は信長と会見すべく法華寺を訪れている。

法華寺には信長の諸将が集結し信長はここで論功行賞を行ない、
武田氏滅亡後の知行割をして甲斐・信濃両国などの支配を定め、
家康公には信長より駿河一国が与えられている。

尚、一説ではこの時、信長の家臣である明智光秀は信長の怒りに触れ、
居並ぶ諸将の面前で欄干に頭を押し付けられて殴られるという辱めを受けたといわれる。

この後、信長は 6月2日未明、信長は本能寺の変で討ち死に。
ここ法華寺での信長の光秀に対する処遇がその原因の1つであったともいわれている。
 
又、忠臣蔵・赤穂義士の討入で有名な吉良上野介義央の外孫で、
のちに養嗣子になった義周の墓がある。

義周は討入の翌年の元禄16年(1703)赤穂の浪人が討入った折に防戦につとめながらも、
その働きが武士らしくなかったとして幕府より咎めを受け、領地を召し上げられ、
江戸時代、流刑の地となっていた諏訪の地へ流されることになった。

諏訪高島藩にお預けの身となった義周は、高島城南の丸におかれたが、
3年後の宝永 3年(1706)1月20日に病気のために死去した。幕府の検死後、
断絶した吉良家に義周の遺骸を引き取る者はおらず、
幕府より死体取り捨ての沙汰を受け、この法華寺に土葬されたとのことである。

尚、平成11年(1999)7月放火によって本堂などの堂宇が焼失してしまい、
わずかに山門を残すのみとなっていたが、本堂などがようやく再建された。



【蠶玉神社】


諏訪大社東参道の鳥居の外に鎮座。

諏訪大社とは関係が無さそうだし、
法華寺の鎮守社という風でも無い。

確認していないのでよく分からない。

蠶とは蚕の旧字体で蠶玉大神が祀られていました。


【山門】




以前の山門は明治18年に諏訪市の極楽寺に売却。
その後、昭和6年に再建されたもので楼上には観音菩薩を中心に、
西国三十三ヶ所観音像が祀られています。


【本堂】


明和2年(1765)に再建されたものであったが、
平成11年7月27日未明の放火により焼失。

平成17年5月、庫裏と共に再建されました。

しかし、本堂を放火するとは何たる罰当たりな。

こんなヤツは本当に死んでも良いと思う。
生きてる価値なしです。(怒)


本堂に祀られている釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩は、
本堂再建と同じく九州の仏師川崎氏により復元されたもの。


【庭園】



【吉良義周の墓】





【本堂】



【宝篋印塔】



【石仏】



【大黒天】





【茶筅塚】



【宝篋印塔】



【黒縄神社】




神社の裏手に信玄公の墓碑があるので行ってみました。


【諏訪大社上社五重塔跡】




諏訪大社に五重塔があったんですね。

それがあの悪名高い廃仏稀釈で取り壊されたんですね。

もうね、怒りとため息でいっぱいですわ。

明治政府が主導して一般市民及び神官により破壊されし尽くしましたが、
明治天皇は見て見ぬ振りだったんでしょうか。

天皇陛下が一言、朕が蛮行を許さぬ、と仰っていれば、
簡単に止めれたハズなんですけどねぇ。


【神力手石】



【普賢堂跡】




こちらも廃仏毀釈で破却されたとか。


【神宮寺跡】





【鐘楼跡】



【神宮寺仁王門跡】




信玄公の墓碑がなかなか見つからない。

この辺りは寂しい場所なんだが、
パターゴルフらしき小さいコースがあった。(^^;


【忠魂碑】



【武田信玄墓碑】


案内板もなくどこにあるのか分からない。

もう諦めようかと思ったが、
この上に登って無ければ帰ろうと思って行ってみた。

するとあった!




字が読めなくてどっちか分からない。(泣)




多分こっちだろうと撮影し、帰宅してから調べたら正解だった。(苦笑)


それにしても余りにもこの墓碑は寂し過ぎる。

何でここにあるのか分からないし、
何でこんあに貧相な墓碑なのか分からない。

扱いが余りにも酷過ぎる。

諏訪にとって武田信玄公は敵意識があるのかな。

吉良義周との扱いが全然違うから法華寺とは関係無いのかもしれない。


【御朱印】



偶然見つけたお寺がまさか明智光秀が信長に折檻を受けた場所だったとは。

居並ぶ諸将の面前で欄干に頭を押し付けられて殴られたというのは、
以前から知ってましたが、てっきり安土城で起こったものだと思ってたから。

まぁ、折檻を受けたのも史実とは違うかも知れないし、
この寺で起こったというのも事実では無いかも知れないけどね。

来迎寺(2015年9月20日参拝)

2015年10月17日 | 諏訪三十三ヶ所観音霊場
諏訪大社下社秋宮から車で数分の場所にあるのが、
銕焼地蔵菩薩が売りの来迎寺というお寺です。



所在地:長野県諏訪郡下諏訪町3454-1
宗派:浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
創建:応永2年もしくは3年(1395か1396)
開基:諏訪右衛門尉
開山:加祐大僧正
札所:諏訪三十三ヶ所観音霊場、諏訪郡霊場百番札所、諏訪八十八ヶ所霊


【縁起】
古くは青塚と呼ばれる地にあるお寺で加祐大僧正によって創建され、
天文10年(1541)に遵蓮社願誉栄海上人により中興したと伝えられています。

開基は下社大祝金刺家の分家といわれる諏訪右衛門尉。
後、増上寺二十二世位産上人はこの寺で得度したといい、本堂・庫裏を再建。
しかし明治40年(1907)の火災で焼失、昭和11年(1936)に再建された。

「かなやきさま」と呼ばれる銕焼地蔵菩薩は、
かつては小湯の上の林久寺の御本尊でしたが、
寺が焼失した際にこちらに移されたといわれています。
また和泉式部の守本尊だったと伝えられています。

湯屋別当に奉公していた娘・かねは、湯屋の妻に焼け火箸で顔を打たれますが、
かねてより信仰していたお地蔵様に縋ったところ、顔の痛みも消え傷一つなく、
代わりにお地蔵様の顔からは血が流れ出ていたとか。

後にかねは美しい娘に成長し、時の帝に召し出されて京へ上り、
和泉式部と呼ばれるようになりました。

晩年彼女が尼となり営んだ庵へ、鎌倉時代に至り最明寺入道北条時頼が訪れます。
時頼はお告げによりお地蔵様を下諏訪へ運びました。
これが銕焼地蔵菩薩です。



【参道】


無料駐車場はこの参道を進み、
山門横にあります。

しかしこの参道を車で行っていいのか躊躇ったよ。

参拝した時はわざわざ参道手前で車を停め、
歩いて停めれるか確認したほどです。(^^;


【山門】


なかなか品のある山門です。


【鐘楼堂】



【小池泉庭園】



【かねとお地蔵様】



【本堂】




本堂は残念ながら閉じられたままでしたね。


【狛犬】


何故か焼香炉の上にいました。


【境内】



【和泉式部供養塔】



【和泉式部歌碑】


あらさら無 この世のほか能 於も悲てに
似ま飛とたひの 阿うこともか那


【地蔵堂】


享保16年(1731)に建てられた記録があり、
建立年が分かるものとしては下諏訪町最古の建物。

堂内に地蔵尊と笈が安置されていています。

銕焼地蔵菩薩は普段は厨子に安置されている秘仏で、
4月24日のみ供養の為御開帳が行われるとか。


御朱印は残念ながら御不在でいただけませんでした。