Gomaler's~神社仏閣巡り~癒しを求めてII

主に関西の神社仏閣巡りと御朱印集めが趣味です。

百済寺・春日若宮神社(2017年4月1日参拝)

2017年05月18日 | 大和北部八十八ヶ所霊場
本日最後の参拝となるのが百済寺です。

大和郡山から北葛城郡に南下し約30分で到着。

ここは無住のお寺で同じ境内の春日若宮神社が管理しているそうです。

御朱印を西南院でいただいたので、
てっきり西南院が管理しているのかと思っていたけどね。

その百済寺の見所は何といっても三重塔です。

これを観に訪れました。

車は近くの百済公園に停めるか、
鳥居前に2台分程のスペースがありました。



所在地:奈良県北葛城郡広陵町百済1168
宗派:高野山真言宗
御本尊:毘沙門天
創建:不明
開山:不明
札所:大和北部八十八ヶ所霊場


【縁起】
伝承によればこの寺は聖徳太子建立の熊凝精舎を引き継いだ
百済大寺の故地であるという。

百済大寺とは7世紀前半に創建された官寺で、再度の移転・改称の後、
平城京に移転して南都七大寺の1つ大安寺となった。

舒明天皇11年(639)7月条に舒明天皇が、
「大宮及び大寺を造作らしむ」と命じた旨の記事があり、
大宮と大寺は百済川の側に造られたという。

この百済大宮と百済大寺の所在地を広陵町百済に比定する説は古くからあり、
江戸時代の延宝9年(1681)成立の地誌和州旧跡幽考も当地を百済大寺の旧地としている。

しかし当地における百済の地名が古代から存在した証拠がないこと、
付近から古代の瓦の出土がないこと、飛鳥時代の他の宮(岡本宮、厩坂宮等)の所在地が、
飛鳥近辺に比定されるのに対し、百済宮のみが遠く離れた奈良盆地中央部に位置するのは、
不自然であることなどから、この地に百済大寺が所在したことは早くから疑問視されていた。

1997年以降、桜井市吉備の吉備池廃寺の発掘が進むにつれ、
伽藍の規模、出土遺物の年代等から、この吉備池廃寺こそが、
百済大寺であった可能性がきわめて高くなっている。

現・広陵町の百済寺は室町時代には多武峰領となっていた。
江戸時代初頭の慶長年間(1596-1615)には6坊を数えたが、
江戸時代後期の天保年間(1830-1844)には、
中之坊と東之坊の2坊を残すのみであった。



【鳥居】


お目当ての三重塔の前に鳥居があります。

参拝した時は百済寺の単なる鎮守社の鳥居かと思っていましたが、
同じ境内に鎮座する春日若宮神社の鳥居でした。

奈良県では珍しい神仏習合のようです。


【狛犬】



【三重塔】






実に渋い。

さすが重要文化財の事はありますね。


【春日若宮神社・末社】








ここは稲荷社のみサラッと参拝。


【拝殿】




拝殿前は寂しいというか若干の廃れた感が漂います。

あんまり好きじゃない雰囲気です。


【三重塔】


いいですね~。

全く見飽きる事がありません。

素晴らしい。(^^


【万葉歌碑】





【本堂】


百済寺を参拝していると三重塔のみと勘違いしそうなんですが、
見落としがちな所に本堂はあります。

談山神社の本殿を移築したということらしいけど、
それにしてはちょっと小さいというか、物足りなさを感じる。

内陣には御本尊の毘沙門天が祀られているということですが、
当然のように内陣は見ることすら出来ませんでした。

後で調べたところ、隣に住む春日若宮神社の宮司さんにお願いすれば、
拝観させていただけるとのこと。

本当に宮司さんが百済寺を管理しているようだ。

それにしても御朱印は西南院が対応しているのに、
全くややこしいことになってるな。


【御朱印】


ちなみにwikiやブログでは十一面観音菩薩が御本尊と書かれているが、
境内の案内板によると毘沙門天が御本尊と明記されていたので、
ここでは案内板を信じて毘沙門天を御本尊とさせていただく。

御朱印にも毘沙門天と書かれているので、
毘沙門天が正解でしょう。

ちなみに御詠歌の御朱印を西南院でいただけます。


春日若宮神社の御朱印は恐らく無いと思われます。

これにて本日の参拝は終了。

今回も充実した旅であったが、
次回はもう少し大和郡山を満喫したいと思う。

松尾寺(2015年4月12日参拝)

2015年05月23日 | 大和北部八十八ヶ所霊場
約4年3か月振りとなる松尾寺。

松尾寺といえば西国の方も有名ですが、
こちらは奈良県大和郡山市にある厄除寺として有名です。


<2011年1月23日参拝>
http://blog.goo.ne.jp/05100625/e/d183fb0702ee4bc6f1fa49d18c139e44



所在地:奈良県大和郡山市山田町683
宗派:真言宗醍醐派
御本尊:千手観音
創建:伝・養老2年(718)
開基:伝・舎人親王
札所:大和北部八十八ヶ所霊場


【縁起】
慶長11年(1606)成立の厄攘観音来由記、
延宝4年(1676)成立の松尾寺縁起等によると、
当寺は天武天皇の皇子・舎人親王が養老2年(718)に42歳の厄除けと、
日本書紀編纂の完成を祈願して建立したと伝わる。

中世以降は興福寺一乗院の支配下に属するとともに、
法隆寺の別院とも称された。

松尾寺は室町時代以降は修験道当山派の拠点としても栄えた。
当山派とは吉野の金峯山を主な修行の場とし、
醍醐寺三宝院を本山とする真言宗系の修験道で、
聖護院門跡を本山とする本山派に対する呼称である。

当山派では山伏の最高位である正大先達を中心として、
正大先達衆という組織を構成したが、
松尾寺には当山派正大先達衆に関わる多くの古文書が残されている。


【北惣門】


こちらは無料駐車場があります。


【石段】


108段を噛みしめて登るが、矢田寺の後だしめっちゃしんどい。


【閼伽井屋】



【本堂】




現存する本堂は建治3年(1277)に焼失した後、建武4年(1337年)に再建されたもの。
御本尊千手千眼観世音菩薩は秘仏で毎年11月3日のみ御開帳されます。

ちなみに御祈祷料は1万円から2万2千円と高額です。
私にはとても出せません。(^^;


【境内】


ここから見る境内がいいんですよね~。

三重塔がとても印象的です。


【神霊石の大岩】



【西国三十三所松尾山石仏観音】



【三重塔】




寺伝では承和2年(835)創建とされていますが、
明治21年(1888)に再建されたという説もあるそうです。

どっちやねん。(笑)

後水尾天皇持仏であった如意輪観世音菩薩が祀られています。


【本堂】



【十三重塔】


鎌倉時代のもので、舎人親王の毛骨を納祀したものと伝わるそうです。


【三重塔】


近くで見るとやっぱり明治時代に再建されたものを思う。


【宝篋印塔】



【七福神堂】


普段は唯一拝観料が必要な御堂です。


【阿弥陀堂】


阿弥陀如来と観音菩薩、勢至菩薩が祀られています。


【行者堂】


日本最大の役行者像と前鬼、後鬼が祀られており、
毎年9月1日~7日の修験道まつり期間のみ特別公開されるそうです。


【厄除の鐘】



【三尊像】



【御朱印】


海龍王寺(2015年4月4日参拝)

2015年05月12日 | 大和北部八十八ヶ所霊場
不退寺の次は国宝の十一面観音様が有名な海龍王寺です。

実は何故かこのお寺に足が向かわず、
初めての参拝となります。(^^;




所在地:奈良県奈良市法華寺北町897
宗派:真言律宗
御本尊:十一面観音菩薩
創建:8世紀前半
開基:伝・玄
発願:光明皇后
札所:大和北部八十八ヶ所霊場、大和路秀麗八十八面観音巡礼


【縁起】
飛鳥時代に毘沙門天を本尊として建てられた寺院を、
天平3年(731)に光明皇后により海龍王寺としてあらためて創建されました。

平安時代となり都が平安京に移ると平城京は衰退し、
海龍王寺も同様に衰退していきましたが、鎌倉時代になると真言律宗を開いた
興正菩薩叡尊により伽藍の大修理を受けると戒律の道場や勉学所として栄え、
鎌倉幕府からは関東御祈願34箇寺に選ばれました。

しかし、室町時代になり応仁の乱が起こると奈良も影響を受け、
海龍王寺一帯も戦場となってしまい打ち壊しや略奪の被害を被ったことから
再び衰退の一途をたどります。

江戸時代になり徳川幕府から知行百石を受けることとなり、
本堂や仏画の修理が行われると同時に「御役所代行所」としての役割を果たしますが、
明治時代の廃仏毀釈の際に東金堂や什器を失うという大きな打撃を受けます。

昭和28年に松本重信が特任住職として海龍王寺に入寺。
かっては信尊和尚、興泉和尚、元澄和尚、光淳和尚、高瑜和尚と、
海龍王寺から五名の西大寺を長老を輩出。

真言律宗の中でも筆頭格の寺院であった輝きを取り戻すべく自身の手で復興を始め、
昭和40~42年には西金堂、経蔵の解体修理をはじめ国宝・五重小塔の返還、
西金堂への安置、本堂の修理及び伽藍の復興に心血を注いだ故に、
現在の海龍王寺の姿があります。


【山門】


なかなか渋い雰囲気を感じますね。

山門横に無料駐車場がありました。


【参道】


ここの雰囲気はいいです~。

海龍王寺のHPにも書かれていますが、
いかにも奈良といった風情があります。


【中門】


塀マニアも満足しそうな築地塀がたまりません。

ここで拝観料を支払い境内へ。


【地蔵尊】



お地蔵さんがお出迎え。


【桜】







【雪柳】





【御堂】



【本堂】




早速本堂内へ。


【十一面観音菩薩 】


堂内は撮影禁止でしたので、画像はネットで拾ったものです。

光明皇后が自ら刻まれ、慶派の仏師によって造られた仏様で、
実際に見てみると実に優美で完璧な美にうっとりしてしまう。

本当に素晴らしい仏様です。


【西金堂】






創建当時の建物で重要文化財。


【五重小塔】


西金堂の堂内に安置されています。

こう見えて国宝です。


【東金堂跡】




東金堂にも五重小塔があったという。

廃仏毀釈により重文の建物と国宝の小塔を失いました。

明治政府と当時の民達はとんでもないことをしてくれましたね。

新しい権力者は前の権力者のものを破壊する。
それは古今東西、古代から現代まで変わらない。

人類はいつになったら成長するんだろう。。。


【経蔵】


重要文化財。


【生木地蔵】





【御朱印】

不退寺(2015年4月4日参拝)

2015年05月11日 | 大和北部八十八ヶ所霊場
東大寺界隈から少し離れて業平公所縁の不退寺へ移動。

ここは2010年12月以来の参拝で久しぶりです。
あのお爺さんはお元気だろうか。



所在地:奈良県奈良市法蓮東垣内町517
宗派:真言律宗
御本尊:聖観音
創建:伝・承和12年(845)
開基:伝・在原業平
正式名:金龍山 不退転法輪寺
札所:大和北部八十八ヶ所霊場


【縁起】
大和國金龍山不退寺縁起によると、
第51代平城天皇は大同4年(809)に弟の嵯峨天皇に御譲位され、
平城京の北東の地に萱葺きの御殿を造営、萱の御所と呼称された。

その後、第1皇子阿保親王とその第5子在原業平朝臣が共に居住せられ、
業平朝臣は承和12年(845)仁明天皇の詔を奉り、
承和14年(847)平城天皇の旧居を精舎に改め、
自ら聖観音像を刻まれ、父阿保親王の菩提を弔うと共に衆生済度の為に
法輪を転じて退かずと発願し、金龍山不退転法輪寺と号して仁明天皇の勅願所となった。

略して不退寺、業平寺とも呼ばれる。
  
平城天皇第3皇子真如親王の御奏請により、
平城旧京の水田55町を超昇寺と共に施捨されたとする記事があり、
これが正史における初見で、かなり広大な荘園があったらしいが、
平安時代末期、養和元年(1181)平重衡による南都焼討のために諸堂が炎上し、
鎌倉時代、西大寺の興正菩薩叡尊により再興された。
  
中世には南都5大寺の一つで、中世から近世にかけて、
西大寺と興福寺一乗院の末寺になり、二重の支配を受けた。

江戸時代、慶長7年(1602)徳川幕府より御朱印0石が安堵され、
元和3年(1683)には二町四方七堂伽藍であった。

文政元年(1818)の阿保親王御廟詮議によると、当寺は幕末から無住で、
西大寺三光院の住職が兼務をしていたらしい。
明治6年(1873)から大正12年(1923)までは完全に無住で、西大寺住職が兼務していた。

大正12年に松村龍祥が住職となり、浄財を集め伽藍を復興しようと努力していた頃、
昭和5年(1930)4月久邇宮邦英殿下(京都青蓮院門跡)の御来山を仰ぎ、
御言葉添によって国庫補助が下り、昭和5年に本堂が昭和9年(1934)には多宝塔、
南大門解体修理され、昭和40年代から境内整備が進み現在に至る。


【南大門】


鎌倉時代中期の正和6年(1317)に建立された重要文化財。

この門の前に無料駐車場があります。

拝観料を支払い境内へ。


【境内】


ここは相変わらず綺麗に庭が手入れされています。


【石棺】


寺の女性にまずはここへと促されるとあるのが、
古墳時代の石棺です。

興味無い人はフーンで終わると思う。(^^;


【本堂】






鎌倉時代後期建立の重要文化財。

堂内に入るとお爺さんがいた。
生きてて良かった。(失礼)

この人がめちゃくちゃ早口で説明してくれる。
一通り説明が終わると後は黙ってくれます。(笑)

聖観音菩薩、五大明王等が祀られていました。

堂内は当然のように撮影禁止です。


【境内】








この時期でもいろいろな花が咲いていました。


【多宝塔】




鎌倉時代中期の重要文化財。

廃仏稀釈により二層目が失われ、
快慶作の千体地蔵が安置されていたらしい。


【池】









【百人一首第17段歌碑】




「業平朝臣 ちはやぶる 神代もきかず 竜田川からくれないに 水くくるとは」


【御朱印】

空海寺(2015年4月4日参拝)

2015年05月10日 | 大和北部八十八ヶ所霊場
知足院から僅か数百メートル離れた場所にあるのが、
その名もずばり空海寺。

東大寺の近くには余り知られていない、
弘法大師所縁のお寺があるんです。



所在地:奈良県奈良市雑司町167
宗派:華厳宗
御本尊:阿那地蔵尊
創建:不明
開基:弘法大師
札所:大和北部八十八ケ所霊場


【縁起】
空海寺は弘法大師が草庵を営み、弘法大師作の阿那地蔵尊を御本尊として、
石窟に安置したのに始まるとされる。

御本尊の地蔵菩薩石像は俗に穴地蔵と呼ばれている。

唐から帰国した弘法大師は東大寺の第14代別当として4年間住持。
その為東大寺との関係は深く、東大寺歴代別当や奈良に所縁の文化人の墓地がある。


【石号標】


駐車は山門前に縦列駐車で停めることが出来ます。


【山門】


門は閉じられており、一般人が気軽に入れない雰囲気。
ピンポンを押して御朱印をお願いすると、入ってくださいとのこと。


【本堂】


山門から本堂までは左右に墓地があります。
こういうのは好きじゃないですね。

本堂は非公開で60年に一度御開帳される御本尊が祀られています。


【地蔵十王石仏】




光背の左右に浮き彫りの十王像と地蔵様が刻まれていました。

台座をよく見ると矢田地蔵と読めますね。
明治時代に矢田寺から移されたそうです。



【石仏】



【御朱印】