昨日は予定通り、伊勢佐木町にある横浜ニューテアトルという映画館で『ヨコハマメリー』を観てきた。
横浜ニューテアトルにはこれまで何度か足を運んだことがあるのだけれども、かなりレトロな雰囲気の映画館でお客さんの入りもどちらかと言えば寂しいことが多かった。がしかし、昨日はまったく違った。青ポタ車を走らせて映画開始10分前くらいにニューテアトルに着いてみたら、映画館の前ばかりか、伊勢佐木モールにまで観客の列が出来ていて正直かなり焦った。
入場を待つ人々
とりあえず適当なところに自転車を置いて、整理券!をもらってすぐに列に並んだのだけれども、整理券番号は90番だったのでぎりぎりに着いていたら入場できなかったかもしれない。間に合って良かった。
番号順に入場するとすぐに客席は満席になった。満席の館内には、普段とは別種の空気が流れているように感じられた。これから特別な映画を観るのだという期待のようなものが館内に静かに溢れているように感じられた。これはメリーさんが長らく仕事場にしていた伊勢佐木町という土地柄によるものなのかもしれない。
映画は終始淡々と展開していく。メリーさんを知る人、メリーさんの生きた時代を知る人、当時の横浜や横須賀を知る人などが、彼女のことについて、当時のこの土地について、そして自分のことについて語っていく。そうしたことばのひとつひとつは、派手さはないが、生き生きして温かみに満ちている。そして同時にどこか物悲しかったりもする。それらのことばは、静かに確実に心に何かを残していく。
この映画には仰々しい演出や、いわゆるあざとく狙った演出は一切ない。ただ様々な人の証言やわずかな写真や映像からメリーさんという謎めいた女性のことを少しずつわれわれに伝えるだけだ。しかしそうした証言によってさえも、メリーさんの肝心な部分についてはわれわれに知らされることはない。なぜ娼婦になったのか、なぜ高齢になってもなお娼婦を続けたのか?そういったことは結局わからないままだ。でも、われわれはそれらについてわからないまま、わからないにもかかわらず、メリーさんを自然に受け入れはじめてしまう。それは多分メリーさんの生き方そのものが、過剰な演出などを必要としなくても、人に何かを感じさせずにはいられないものだったからだろうと思う。
淡々と展開していく映画にもやはりクライマックスという部分はある。それはとても美しく、優しく、そしてやはりどこか悲しいクライマックスだった。僕はかなり涙もろいたちなので、映画のいわゆる泣かせ所ではたいていいつも目を潤ませてしまうのだけれども、そうしたときはどうして涙が流れたのかが自分でもよくわかっている。けれども、まれにどうして涙を流してしまうのか自分でもはっきりわからないまま、涙が溢れ出てとまらなくなってしまうことがある。この『ヨコハマメリー』のラストではそんな種類の涙が流れ出して、正直結構困った。
僕はあまりうまくこの映画について伝えている自信がないのだけれども、ポスターにある『人生の深みと温かさが、心を揺るがす感動の物語』というのは正しいキャッチではあると思う。誰が観ても楽しいというような映画ではないけれども、良い映画であることは間違いないと思うので、興味のある方は是非ともご覧になられると良いと思います。横浜ニューテアトルでの上映は6月2日までのようですが、6月3日からは横浜の相鉄ムービルでの上映がはじまるようなので。
映画を観終わって外に出たら、次の回のための行列がまた出来ていた。本当に関心の高い映画なのだなと思った。僕は多分自分ではこの映画を観ようとは思わなかっただろうから、勧めてくれた友人には感謝である。これは部屋で観るよりも、映画館で観るべき映画だと思う。今回はとくに伊勢佐木町で観れて良かった。サンクス。
この街にメリーさんはいたんですね。
横浜ニューテアトルにはこれまで何度か足を運んだことがあるのだけれども、かなりレトロな雰囲気の映画館でお客さんの入りもどちらかと言えば寂しいことが多かった。がしかし、昨日はまったく違った。青ポタ車を走らせて映画開始10分前くらいにニューテアトルに着いてみたら、映画館の前ばかりか、伊勢佐木モールにまで観客の列が出来ていて正直かなり焦った。
入場を待つ人々
とりあえず適当なところに自転車を置いて、整理券!をもらってすぐに列に並んだのだけれども、整理券番号は90番だったのでぎりぎりに着いていたら入場できなかったかもしれない。間に合って良かった。
番号順に入場するとすぐに客席は満席になった。満席の館内には、普段とは別種の空気が流れているように感じられた。これから特別な映画を観るのだという期待のようなものが館内に静かに溢れているように感じられた。これはメリーさんが長らく仕事場にしていた伊勢佐木町という土地柄によるものなのかもしれない。
映画は終始淡々と展開していく。メリーさんを知る人、メリーさんの生きた時代を知る人、当時の横浜や横須賀を知る人などが、彼女のことについて、当時のこの土地について、そして自分のことについて語っていく。そうしたことばのひとつひとつは、派手さはないが、生き生きして温かみに満ちている。そして同時にどこか物悲しかったりもする。それらのことばは、静かに確実に心に何かを残していく。
この映画には仰々しい演出や、いわゆるあざとく狙った演出は一切ない。ただ様々な人の証言やわずかな写真や映像からメリーさんという謎めいた女性のことを少しずつわれわれに伝えるだけだ。しかしそうした証言によってさえも、メリーさんの肝心な部分についてはわれわれに知らされることはない。なぜ娼婦になったのか、なぜ高齢になってもなお娼婦を続けたのか?そういったことは結局わからないままだ。でも、われわれはそれらについてわからないまま、わからないにもかかわらず、メリーさんを自然に受け入れはじめてしまう。それは多分メリーさんの生き方そのものが、過剰な演出などを必要としなくても、人に何かを感じさせずにはいられないものだったからだろうと思う。
淡々と展開していく映画にもやはりクライマックスという部分はある。それはとても美しく、優しく、そしてやはりどこか悲しいクライマックスだった。僕はかなり涙もろいたちなので、映画のいわゆる泣かせ所ではたいていいつも目を潤ませてしまうのだけれども、そうしたときはどうして涙が流れたのかが自分でもよくわかっている。けれども、まれにどうして涙を流してしまうのか自分でもはっきりわからないまま、涙が溢れ出てとまらなくなってしまうことがある。この『ヨコハマメリー』のラストではそんな種類の涙が流れ出して、正直結構困った。
僕はあまりうまくこの映画について伝えている自信がないのだけれども、ポスターにある『人生の深みと温かさが、心を揺るがす感動の物語』というのは正しいキャッチではあると思う。誰が観ても楽しいというような映画ではないけれども、良い映画であることは間違いないと思うので、興味のある方は是非ともご覧になられると良いと思います。横浜ニューテアトルでの上映は6月2日までのようですが、6月3日からは横浜の相鉄ムービルでの上映がはじまるようなので。
映画を観終わって外に出たら、次の回のための行列がまた出来ていた。本当に関心の高い映画なのだなと思った。僕は多分自分ではこの映画を観ようとは思わなかっただろうから、勧めてくれた友人には感謝である。これは部屋で観るよりも、映画館で観るべき映画だと思う。今回はとくに伊勢佐木町で観れて良かった。サンクス。
この街にメリーさんはいたんですね。
良く涙が出そうになる事があります。
最近映画館ってあまり行かないで
DVDばかり見ているけど
たまには映画を見に行くのもいいかな
でもチビがいるのでなかなか難しいです。
ところでこのエントリーの写真
写真が少しセピアっぽいのは気のせい?
今回のヨコハマメリーは部屋で観るにはちょっとつらい映画のような気がしました。でもほとんどの映画であればDVDを借りてきて、家で観るのも楽しいですよね。今年は結構映画館で映画を観ていますが、基本的には僕も部屋でDVDを観ることのほうが多いです。
器が大きいせいか拍子抜けするほど
空席が目立ちました。
やはりメリーさんが生きていた伊勢
佐木町の劇場でこその映画なんでし
ようか。
映画は私の人生のなかでも心に染込
むものでした。自然と涙が溢れて
きました。最後の結末に至るまで
メリーさんとメリーさんの周りの
人と過去になってしまったかつての
横濱の物語に時間のたつのを忘れて
しまいました。うまく言葉には表現
できませんが確かに魂が揺さぶられ
る映画でした。多くの人に見せてあ
げたいですね。若い人にも。
『ヨコハマメリー』、じわりと胸にくる映画ですよね。団塊マリノスさんと同じく、私もうまくことばにできないのですが、人生の優しさや悲しさなどが凝縮された映画のように感じました。またメリーさんが娼婦になった理由などが明らかにされないからこそ、そこにあっただろう痛みや辛さ、それから胸に秘めた決意の強さなどを共有することができたような気がしました。
多くの人と同様に、私もメリーさんのことを不気味なおばあさんとしか思っていなかったクチなので、それだけにこの映画を観ることができて良かったと思いました。
本当に多くの人にすすめたくなる映画でした。この映画には大切なものがたくさん散りばめられている気がします。