ゆうゆうの教会便り

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「善きサマリア人」の譬え

2018-08-18 16:59:48 | 今日の聖句
新約聖書は「ルカによる福音書」を読んでいます。
今日の聖句は 10章25節~37節 イエス様の譬え話のひとつ「善きサマリア人」です。

10:25すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、
永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」 10:26イエスが、「律法には何と書いてあるか。
あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、 10:27彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、
力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』と
あります。」 10:28イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
10:29しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
10:30イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。
追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。 10:31ある祭司がたまたま
その道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 10:32同じように、レビ人もその
場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 10:33ところが、旅をしていたある
サマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、 10:34近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯を
して、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。 10:35そして、翌日になると、デナリオン銀貨
二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、
帰りがけに払います。』
10:36さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
10:37律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。
「行って、あなたも同じようにしなさい。」

「私の隣人とはだれですか」という律法の専門家の問いに、なぜ主イエスは「だれが追いはぎに襲われた
人の隣人になったと思うか」と問い返されたのでしょう。
「その人を助けた人です」と専門家は答えましたが、私は、追いはぎに襲われた旅人の隣人は、祭司、
レビ人、サマリア人の三人だと思いました。
そして、旅人(隣人)を自分のように愛した人はサマリア人だけだったのです。
このサマリア人は対立関係にあるユダヤ人を隣人としました。

この譬えで主イエスは「隣人を愛するとはどういうことなのか」を語られたのだと思います。
この聖句からそのことを理解するのは難しいこととは思われません。
実行するのはとても難しいことですが・・・・・
イエス様の仰ることを実行することはどれも、私のような人間には難しくいつも反省・・・・(・・;)
それにしてもこの問いのすり替えはどういうことなのでしょう。

律法の専門家の問いは、確かめたかったことは、誰が自分にとっては隣人か、つまり誰までを愛さねば
ならないのか?ということかな、と私は考えました。それに対して主イエスは「だれが襲われた旅人
の隣人になったか?」という問いで答えました。
「隣人とはだれか?」にたいして「誰が隣人だったのか?」 うーん、禅問答のように深くて目がくらみます。

と、ここで、この記事を書いている最後の今になって気づいたのですが、ここで大切なのは律法の専門家が
ゴダゴタ訊ねているような隣人が誰か?ということではない! 主イエスは隣人を自分のように愛するとは
どのような事なのかを教えようと、語ろうとなさっている。
それは、必要とされ求められる時に傍らに寄り添う人、それが本当の隣人(愛の人)であり、あなたもその
ようになりなさい、と主は言われている。
それを気づかせるために「だれが隣人になったのか」とあえて問われたのでしょう。
そういうことでしょうか、なんか、ようやく気付いて・・・・・・はぁ~深すぎる!


「加藤常昭著 信仰講和3 主イエスの譬え話 2001年刊」という本が家にありました。
そこに二章にわたって「善きサマリア人」の解説が載っています。
私にはとても難解で、分からないところがたくさんありましたが、参考になりました。
以下は、その本から私が勝手に抜き出した文章です。

「善きサマリア人」とは英語の「グッド・サマリタン」からの翻訳だが、ドイツなどでは「憐れみ深い
サマリア人」の物語と呼ばれ、その方がよりふさわしい。

追いはぎに会った人に対して誰かが隣人になってあげねばならない。その時に手を出すことが愛の始まりで、
その必要を見ぬいて隣人になってあげることが大切。
律法学者の「隣人とはだれのことか」という考え方からすると、祭司もレビ人もユダヤ人の仲間であるから、
本当は隣人のはず。けれどもここで隣人になることを拒否した。

律法の専門家が、自分を正当化しながら問うたのは、主イエスに質問をしたのは「私の隣人とはだれですか」
ということでした。
ところがこの譬え話の最後に主は、「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と問われました。
律法の専門家の狭い隣人理解を広げようとなさったのではありません。博愛という言葉があるように、ひろく、
誰でも愛する大きな隣人愛を勧められたのではありません。差別を捨て、報われようと報われなかろうと、
誰でも愛さなければならないと言われたのではありません。キリストの教会が語る隣人愛を、ただそのような
ものだと理解するだけでは正しくありません。
傷ついていた旅人にとっては、だれであろうと、その傍らに行き、隣人になってあげる人が求められていたのです。
誰が、自分の隣人である値打ちを持つかということではなくて、自分が本当に隣人を必要としている人の隣人に
なってあげることができるか。それが急所なのです。(76頁後半から77頁前半部分)

主イエスがこのサマリア人の話をされたとき、律法の専門家にもこの憐れみの心を体得してほしいと願って
おられた。主イエスが来てくださったのはこの憐れみの木頃が人間の心に回復されることを願ってのこと。

サマリア人がやったことはそう特別なことではない。誰でも出来ることで、愛の業というのはささやかな
ものでいい。自分に出来ること、ささやかなことをしながら、それを必要とするひとの傍らに隣人となる。
そこに神の永遠のいのちに生きる愛の道が拓けてくる。



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ヤンマのぶら下がり、今日は<オニヤンマ>です。
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