ゆうゆうの教会便り

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メリバの泉

2014-11-06 22:22:39 | 今日の聖句
今日の聖句は「民数記」20章全部です。

「メリバの泉」
さて、そこには共同体に呑ませる水がなかったので、彼らは徒党を組んで、モーセとアロンに逆らった。
民はモーセに抗弁して言った。 「同胞が主の御前で死んだとき、我々も一緒に死に絶えていたらよかったのだ。
なぜ、こんな荒れ野に主の会衆を引き入れたのです。 我々と家畜をここで死なせるためですか。
なぜ、我々をエジプトから導き登らせて、こんなひどい所に引き入れたのです。
ここには種を蒔く土地も、いちじくも、ぶとうも、ざくろも、飲み水さえもないではありませんか。」

モーセとアロンが会衆から離れて臨在の幕屋の入り口に行き、そこにひれ伏すと、主の栄光が彼らに向かって現れた。
主モーセに仰せになった。「あなたは杖を取り、兄弟アロンと共に共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、
水を出せと命じなさい。あなたはその岩から彼らのために水をだし、共同体と家畜に水を飲ませるがよい。」
 
モーセは命じられたとおり、主の御前から杖を取った。 そしてモーセとアロンは会衆を岩の前に集めて言った。
「反逆する者らよ、聞け。 この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか。」
モーセが手を上げ、その杖で岩を二度打つと、水がほとばしり出たので、共同体も家畜も飲んだ。

主はモーセとアロンに向かって言われた。「あなたたちは私を信じることをせず、イスラエルの人々の前に、
私の聖なることを示さなかった。 それゆえ、あなたたちはこの会衆を、私が彼らに与える土地に導きいれることはできない。」
これがメリバ(争い)の水であって、イスラエルの人々が主と争ったところであり、主がご自分の聖なることを示された所である。


なぜモーセは神に責められて、約束の地に入ることができないのか? 私にはその理由がいまだに頭に入っていません。
ここを読むのは何回目でしょう。 
ネットで「メリバの泉」と検索して、分かりやすい解説に当たりました・・・・・・・と、ここでフト、前回「民数記」を読んだ時は
どーだったのかな~?と気になって、自分のブログを検索してみました。
驚いたことに(私の物覚えの悪さに驚いたのです!)実は昨年の9月に「民数記」を読んだ際にも同じ疑問を持ち、
検索し同じサイトに行き当たり、リンクを張らせていただいていました


恐るべし! 私の貧弱な理解力と記憶力! 救いようが無いです。 (T__T)
しか~し! 今度こそ忘れないぞ~!! ということで、今回はその分かりやすい解説全文をここにアップさせていただきます。
いくら私でもモウ忘れないでしょう。


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メリバの水とは、これによってモーセが主の怒りを受け、約束の地に入ることを赦されなくなってしまった重要なできごとです。 
一見すると、モーセは主に命ぜられたとおりに行動しているだけであって、どこにも非がないように見えます。 
実を言うと私も、今回読むまでは、ずっとわからなかった次第です。 その意味もあって、ここは詳細に見ていくことにします。

まず、荒野にあって水が得られなくなった民が、モーセとアロンに迫るところから始まります。

20:2 そのころ会衆は水が得られなかったため、相集まってモーセとアロンに迫った。
20:3 すなわち民はモーセと争って言った、「さきにわれわれの兄弟たちが主の前に死んだ時、われわれも死んでいたらよかったものを。
20:4 なぜ、あなたがたは主の会衆をこの荒野に導いて、われわれと、われわれの家畜とを、ここで死なせようとするのですか。
20:5 どうしてあなたがたはわれわれをエジプトから上らせて、この悪い所に導き入れたのですか。
   ここには種をまく所もなく、いちじくもなく、ぶどうもなく、ざくろもなく、また飲む水もありません」。

聖書を読む私たちは、どうして、この民は何度も、「エジプトに居たほうがよかったのに」だの、
「あのとき一緒に死んでいればよかったのに」だのと、同じような不平を繰り返してばかりいるのかと思いがちです。 
性懲りもなく、不満をぶつけているという風に見えてしまうからです。 

しかし、彼らの置かれた過酷な状況を考えてみましょう。 荒野にあって、水が無いということは、即、死を意味するのです。
同じ死ぬなら、あっと言う間に地に呑み込まれたり、疫病にかかって苦しむ間もなく死ぬ方が楽だと思うのが人情でしょう。 
さんざん苦労してさ迷った挙句、じわじわ苦しみが増してくる中で、渇きによる死を迎えるぐらいなら、よほどましだと思うのも無理はありません。

モーセとアロンとは、例によって、という言い方はあまり敬虔ではありませんけど、主のみ声を仰ぎます。 
また、いつもの調子で・・・、という安易な姿勢があったのかもしれないのです。

20:6 そこでモーセとアロンは会衆の前を去り、会見の幕屋の入口へ行ってひれ伏した。すると主の栄光が彼らに現れ、
20:7 主はモーセに言われた、
20:8 「あなたは、つえをとり、あなたの兄弟アロンと共に会衆を集め、その目の前で岩に命じて水を出させなさい。
   こうしてあなたは彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませなさい」。
20:9 モーセは命じられたように主の前にあるつえを取った。

主は、モーセに、「岩に命じて水を出させなさい」 と言われました。
岩に命じるのはモーセであっても、それは主の命によって、命じるのです。 
私たちがとりなしの祈りをするときも、必ず、主イエスの御名によって祈ります。
主の力が、願い求めて祈る人を通して働くのであって、祈る人がすごい力を持つからではありません。

この場合も同じです。主の力がモーセを通して働くのです。主の力は、必ず、油注がれた人を介してはたらきます。 
そして、その人は、主に栄光を返さなければなりません。 さて、モーセは、この場合、どうだったか?

20:10 モーセはアロンと共に会衆を岩の前に集めて彼らに言った、「そむく人たちよ、聞きなさい。
   われわれがあなたがたのためにこの岩から水を出さなければならないのであろうか」。
20:11 モーセは手をあげ、つえで岩を二度打つと、水がたくさんわき出たので、会衆とその家畜はともに飲んだ。

モーセの言う「われわれ」とは、自分とアロンとのことか、もしくは、自分が主の側に立っていることを踏まえて、
主をも含めて言っているのかのどちらかでしょう。 
つまり、自分を主と同じ立場に置いていることになります。 
また、「水を出すように主が命じられたのだ」という肝心なことも言っておりません。

「モーセは手をあげ、つえで岩を二度打つと、」 モーセが、つえで岩を二度打ったとあるのは、どう考えるべきか。
自分の力だけで水を出そうとしたのだとも考えられますし、主から自分に与えられたはずの力を信じていなかったから
二度も打ったのだ、というようにもとることができます。 
結局、ここでのモーセは、水を与えるわざを、主の御名によって行うこともなく、さらには、
主に栄光をお返しすることもしていないということになります。

20:12 そのとき主はモーセとアロンに言われた、「あなたがたはわたしを信じないで、イスラエルの人々の前に
   わたしの聖なることを現さなかったから、この会衆をわたしが彼らに与えた地に導き入れることができないであろう」。
20:13 これがメリバの水であって、イスラエルの人々はここで主と争ったが、主は自分の聖なることを彼らのうちに現された。

この出来事は、モーセに重くのしかかります。 
あれほど、謙遜で、主のみこころのまま歩もうとしつつ、同時に民の平安を求めた優れた指導者としての姿は、
ここでは全くみられません。 
この出来事だけのために、モーセはカナンの地を棒に振ることになってしまったのでした。
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冬鳥の<アオジ>が公園に入っていました。
いよいよ冬の鳥撮りシーズンが始まります。


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