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YS Journal アメリカからの雑感

政治、経済、手当たり次第、そしてゴルフ

スカイセンサー5800

2011-04-25 00:12:00 | 非常に個人的な昔話
当時¥20,800 もしたらしいので親にねだって買ってもらったのだと思うが、罰当たりな私はそのいきさつさえ記憶していない。

小学校5年生の時の冬休みに、盲腸の手術をしてお正月を跨いで入院していた。(中川の末光医院だった様な記憶が)昼間安静にして寝転がっているので、小学生と言えども夜中になかなか寝れない。母がラジオを持ってきてくれていたのであるが、当時の私はウブで、深夜放送があるなんて知らず、シーンとした暗い病室(二人部屋だったけど一人で使っていた)で寂しくシクシク泣いていた。

このラジオは。中学生になっておませな同級生やテレビで見た宣伝(「ラジオオーストラリアは笑いカワセミの声で始まる」)に刺激されて欲しくなったのだと思う。日本中はBCLブーム だった。自分は一枚も貰った事が無いのは、受信記録(?)を出した事が無いからだ。

高校生になって深夜放送を熱心に聞いた。特にオールナイトニッポンは、二部でやっていた尾崎亜美や初期の松山千春を熱心に聞いていた。(初期の松山千春は大好きだった)

ラジオ大阪で日曜日の深夜にやっていた「鶴瓶、新野のぬかるみの世界」が大好きであった。(大学受験で初めて大阪に行った時に、わざわざ「千房」によって、メニューに載って無い「ぬかるみ焼き」を食べたりもした)

AM だけで無く、NHK FM 渋谷陽一の放送を熱心に聞いた様な覚えがある。当時、彼はセックスピストルズに嵌まっていた様だが、全然興味が行かなかった。それよりもゲスト出演した大友康平に方に興味が向かったりした。スカイセンサー5800 は、確か FM 用のステレオ出力の端子があったので、ヘッドホーンを突っ込んでステレオ放送は良いなーと思ったりした。

スカイセンサー5800 の売りであった短波は、聞いた記憶が無い。高校卒業して上京する時に持ってもいきもしなかった。

いつだったか帰省した時に気が付いたのだが、母が、真ん中に有るチューニングが懐かしいスカイセンサー5800 で FM 愛媛を聞きながら、裁縫を(アルバイトで和服の仕上げをしていた)していた。

500円玉一枚の香典

2011-02-26 11:52:19 | 非常に個人的な昔話
実家を飛び出した形になっていたのだが、父親の葬式(もう18年前)では、長男という事で喪主を務めさせていただいた。親戚や近所の人が、全ての手筈を整えて貰っており、自分でやる事は殆ど無いのだが、叔父さんに香典のまとめは喪主の仕事だと言われ、頂いた香典の会計を行った。(年の離れた従兄弟は、香典は預かりものだと言っていたのが印象に残っている。自分の手でお返し出来そうないのが、心苦しく)

その中に、名古屋から郵送されたものがあり、500円玉が一枚入っていた。名前に見覚えが無く、母親に尋ねた所、昔、近所に住んでいて、野村ダム建設で立ち退きさせられた中の一人で、こどもの所に身を寄せている人だと聞いた。お札ではない香典にちょっとビックリしたのだが、父の死を悼む気持がうれしかった。

父親とはキチンと話をした記憶が無い。反りが合わないと勝手思い込んでいた。戦後の混乱で地元の農業学校を中退だったし、本を読んでいる姿をみた事も無い。田舎者だと馬鹿にさえしていた。

死んだからと言って急に尊敬するとかという殊勝な気持はないのだが、百姓の長男として生まれた事をキチンと受け入れて、淡々と生きた父の人生を思うと、いつもわがままし放題であった自分の幸運が奇跡の様に思えてくる。又、それを許してくれた父を思うと何とも言えない複雑な心境となる。軍国主義の最中に育ちながら年が足りなく軍人になれず、農地改革で生まれた土地を離れ、野村ダムの建設で再び慣れた土地を離れなくてはならなかった事を思うと、本当に昭和という時代に翻弄された感じがある。

喧嘩どころか、怒られた記憶すら無いのに、とにかく怖かった。死ぬまで怖かった。どこへ行っても、誰に対しても、結構物怖じしない方なのだが、父の前に出ると、兎に角、怖がっている感じがありありと出てしまう私が、家内は可笑しくて仕方なかったらしい。

今でも、田舎に帰ると親戚や近所の人が優しくしてくれるのは、親父の遺産だと思っている。本当に感謝している。私が小さい頃に一緒に写っている写真には、男前で、素敵な笑顔の親父がいるのだが、そんな笑顔が記憶に無い。私は、つくづく親不孝ものである。

Sputnik moment

2011-01-27 10:34:13 | 非常に個人的な昔話
昨日、オバマ大統領の一般教書演説で、アメリカが研究、教育の分野で遅れを取っている事を、われわれ世代の "Sputnik moment" であると定義していた。(今一よく分からなかったので、昨日のスピーチ原稿(冒頭から3分の1位の所)を読んでみたが、やっぱり、さっぱり分からない)

スプートニクは、ソ連が1957年に打ち上げた世界で初めての人工衛星である。私の記憶では、"Sputnik moment" (スプートニク・ショックSputnik crisis)は、ソ連の人工衛星がアメリカの上空を飛んでおり、いつでも核弾頭を打ち込まれる軍事的、心理的な恐怖感を象徴していたと思う。

その恐怖感から、NASA が誕生し、勢い余って月まで人を送り込んだのである。オバマは、バイオ、IT、クリーンエネルギーで、アメリカが出遅れている現状を "Sputnik moment" と言っている様だ。この遅れを取り戻すために、予算を議会に提出しる、そして雇用の拡大をすると仰っている。

歴史的な背景と展開は、部分的に当たっているが、「われわれ世代の "Sputnik moment"」と言うのは、無理があるだろう。

第一、オバマは私と同い年なので、スプートニクが打ち上がった1957年には、生まれてないのである。私だってピンと来ない上に、「?」が付くのに、スプートニク・ショックを体験した人にしてみれば、尚更だろう。その辺の機微は意識しているらしく "Sputnik moment" と微妙な言い換えをしている。

さて、私は愛媛県立宇和島東高等学校理数科卒業なのだが、オバマの演説よりずっと深く "Sputnik moment" が人生に拘わっている。(こっちには、出身者の一覧などがあって面白い)

高校3年生の時、英語の先生が、スプートニクのお陰で理数科のクラスが出来た事を言っていた。ウィキペディアでも、「日本でも、人類初の人工衛星は話題を呼んだ。文部省では、アメリカと同様に1971年(昭和46年)の学習指導要領改訂で理数教育の、現代化カリキュラムのきっかけとなった。」とある。

私が入学した頃の理数科は、進学校の上級(?)進学クラスという位置付けに堕落(?)しており、一応、普通科より1年生から数学の授業コマが多かっただけで、理科系進学クラスであった。理数科は一クラスしかなかったので五クラスある普通科と違って3年間クラス替えが無かった。愛媛県南予地方(といっても、八幡浜高校、大洲高校も進学校なので、北限は現在の西予市)の成績の優秀な中学生が集まっていた。私のように理数系に向かない同級生も中学の成績だけで入学したりしていた。結局、私も大学は物理学科へ行ったし、クラスの殆どが理科系の大学に行った。正確に言えば、40人同級生がいたが、半分が医者と歯医者になっている。後は、先生になったものが多い。(田舎の秀才君が、地元に戻ってそれなりの社会的地位で働こうとすると、医者、歯医者、先生くらいしかない。これって、日本の地方を考える上で非常に重大な問題だと思う)

ロケットサイエンティストには、1人もなっていない。(同級会、同窓会の類に顔を出していないので正確な情報が無く、風の噂と憶測によるのだが)

大学に入った時につくづく思ったのは、この理数科クラスのレベル(勉強出来るとか、頭が良いという意味で)がいかに高かったかと言う事である。まあ、私は40人中ビリから3番目位だったので当然なのだが、大学の同級生は、私のレベルで輪切りされた集団であり、勉強という事に限って言うと、その程度であり、刺激が無かった事を思い出す。

私のいた頃の宇和島東は、伝統のあるボート部が強くて全国制覇したりしていたが、その他のスポーツは全然であった。(校内レガッタが催される高校なんて全国でも珍しいであろう)甲子園で優勝したのも、卒業してから何年も経ってからである。今は済美高校の監督をやっている上甲監督が在学当時の監督で、母方の遠い親戚であった。今年度はサッカー部が全国大会に出場したり、いろいろと頑張っている。

余談だが、甲子園初優勝の時のメンバーは、リトルリーグ全国大会で優勝した地元チームがベースだったそうだ。運の良い事に、丸ごと宇和島東に入学してきたらしい。地元の中学校で先生をやっている理数科の同級生の教え子にメンバーの何人かがいて、中学生の時に、やりそうな雰囲気が既にあったそうだ。

地元でも有数の進学校だったのでクラスメートの殆どが宇和島東に通っていたと思うが、スプートニク・ショックがなくて、理数科が出来ていなければ、あんな40人(男38人、女2人)のユニークなクラスで3年一緒に過ごす事は出来なかったと、オバマの "Sputnik moment" を聞きながら、巡り合わせの不思議さを思わずにはいられなかった。

校歌がポップなので、甲子園で流れたら結構いけると、夢物語としてダベッた高校時代が懐かしい。(その頃は、甲子園に出場した事さえ無かった。松山商業、今治西は強かった)まあお一つ。


日本育英会奨学金

2011-01-15 05:24:42 | 非常に個人的な昔話
一浪した挙げ句、東京の私立大学へ入学したので、殊勝にも奨学金を貰う事を思い付いた。日本育英会は丁寧な団体で、奨学の説明会を田舎の高校にまで出向いて、進学予定の3年生に説明や受付をしており、優秀な高校の同級生は受験前に既に手続きを完了し、入学と同時に支給が始まる段取りになっていた。

大学入学後の枠も用意されており、大学でも説明会と受付があった。その場合、5月頃に申請して10月頃に無事合格(?)し、4月に溯って支給があったので、秋口に思い掛けない大金を手に入れたという記憶がある。計画的な同級生などは、それを元手に道具を一式揃えスキー旅行に行ったりしていた。

支給されるかどうかの大きな要因は親の収入なので、サラリーマンの子弟の場合は源泉徴収票(?)、うちの様な農家(とか自営業)は収入証明書(税務署が発行してくれる?)の提出が必要なので、早速、親に頼んで送ってもらった。

支給される事が決まったのは、成績優秀であった事が最大の要因であると固く信じているが、親の収入レベルが大きな効果をもたらしてたのは間違いない。私が大学入学した前年の我家の収入は百万円であった。収入証明を見た瞬間、世の中の事をさっぱり知らなかった私でも、大笑いしてしまった。

この百万という金額は、一町二反の水田を持った米作農家が米を販売して得た収入だけである。当時、一俵の生産者価格が2万円程度で、ちょうど50俵分だ。小さい頃、何かの会合(今思えば、納税)から帰ってきた父が、母に「来年からキチンと申告しないと、調べますよ」と税務署の人に言われたと笑いながら話していた事を思い出したりした。幸いその後も調べられなかったようだ。

当時は、生産者米価と消費者米価が逆ざやで、米作農家が自分で消費する分までを売って、米を買って食べる事は脱税行為だと言われたりしていた。

以前にも書いたが、父は器用な人で、小さな土木工事を請け負ったり、自動車教習所の先生をしたり、タクシーの運転手をしたり、工場への従業員送迎バスの運転手をしたりして、農作業の合間にそれなりの現金収入があったはずだ。当時どのように税金が徴収されていたのか分からないが、ザルと言えば、ザルの不名誉になる位いい加減であったのだろう。

御陰様で、一般では無く特別奨学生扱いとなり、支給月額も3万9千円、そのうち1万2千円分は返却免除であった。(一般奨学生は支給月額2万7千円)計画的でスキーに言った同級生は、私なんかよりずっと真面目で成績優秀なサラリーマンの息子であったので、親の収入がそれなりにあり一般奨学生にしかなれず、悪態をつかれたものだった。

当時は、日本育英会奨学金は無利子であり、その後16年、途中 MBA に行っている4年(働きながらで収入はあったのだが)は支払い猶予をしてもらったりして、数年前に返済が終了した。

アメリカで、この奨学金の話になった時、私は当然のように "Scholarship" という言葉を使ったのだが、アメリカ人の友人に、返済義務があるなら無利子であろうと「学生ローン (Student loan)」だと笑われた。

今では有利子になっているらしいので、日本育英会奨学金は本格的な学生ローンな訳だが、利子の有る無しにかかわらず返済義務があるのに奨学金というのは、天才的に微妙なネーミングだ。でも、日本育英会奨学生で、奨学金の事を英語で "Scholarship" と説明した事の有る人は、私のように笑われるか、思いっきり相手を混乱させてきていると思う。

ピョン、ピョン、ドカーン

2010-11-09 22:14:17 | 非常に個人的な昔話
私は声がでかい。その上、頭蓋骨の形が良いのか、良く響く。(俺は、映画ジェラシックパークに出てくる恐竜か!?)

難聴では?との指摘を受けた事が度々ある。15年程前に初めて人間ドックに入った時に、右耳が難聴気味(鼻をかみ過ぎた程度のと説明)だと診断され、妙に納得した事がある。そういえば電話したりするはいつも左耳なので、単純に利き耳が左耳だとばかり思っていたが、脳の働きとは全く無関係で、右耳では聞こえ難いだけだったようだ。

では、なぜ右耳が難聴になったかについては、全然思い当たる事がなかったのであるが(先天的だった可能性もあるが)、不意に娘が、私が以前に話した昔話を持ち出した事で思い出す事があった。

娘が覚えていた私の昔話は、小さい時に爆竹で遊んだ顛末である。昔は田舎の雑貨屋であんなに簡単爆竹が買えたのかは不明だが、近所の悪ガキと良く、爆竹で遊んだものだった。ヤカンの中に入れて蓋を飛ばしたり、カエルにくわえさせてバラバラに爆発したり、悪い事をしたもんだ。

カエルの口に爆竹を押し込んで着火すると、ピョン、ピョンと2回程跳ねて、ドーカンと吹っ飛ぶのである。

その他に覚えているのは、着火した爆竹を投げるのであるが、飛んでいる途中で爆発するのが楽しくて、導火線がぎりぎり短くなるまで持って投げるのである。一度長く持ち過ぎて、さあ投げようと振りかぶった瞬間に爆発した事がある。その時の耳鳴りを今でも覚えている。そう、ひょっとしたらこれが原因で右耳が難聴になったのかもしれないと思い当たったのである。

その時は、耳の事より指の方が心配であった。爆竹一本なので指が吹っ飛んでなくなるという事はなかったのだが、つまんでいた人差し指、親指ともに、握った爆竹の左右にあたる箇所に血豆が出来、血豆の間(爆竹をつまんでいた所)が割れていた。痛くて仕方がなかった。今考えてもドジな上に馬鹿な子供であった。

声がでかい事を告白したついでに、声がでかい事と本来は全く無関係なのであるが、電話で話しているとだんだん声が大きくなる。(トラックの運ちゃんしてた時の無線も同じだった)電話中に声が大きくなるのは母親譲りなのであるが、電話の相手は遠い所にいるという意識が強く、姿も見えない遠くの人に伝えるために大きく話すという事になるようだ。私は自分勝手に想像力が豊か(数百キロも離れている地図が頭に浮かぶ)だと自負している。

国際電話で、日本の母とアメリカの私が話す時はそばには近寄らない方が良いと思う。何せ、6,000マイル以上も離れている事を、お互い正しく認識し、想像出来るのだから。

えひめ丸、ポアゾンの似合ういい女

2010-10-25 05:01:51 | 非常に個人的な昔話
飲み会などで思わず語ってしまう持ちネタはいくつかあるのだが、そのうちの1つが宇和島水産高校の修学旅行ネタであった。

宇和島市には、母校である宇和島東、宇和島南、そして宇和島水産高校と3つ高校がある。百姓の出でインテリな私は、漁業は全く関係なく、また通学列車の中で宇和島水産高校の制服で堂々とタバコを吸う生徒(この生徒は八幡浜から通っていた)にビビったりして、宇和島水産高校は全然別の世界であった。しかし、それなりの情報は入ってくるもので、文化祭で学校特製のツナ缶売っているなど、興味をそそられる話題は何と無く知っていた。(水産高校へ行く友達もいなかったので、文化祭も行った事が無いのだが)一番、面白いと思ったのは、研修を兼ねてマグロ延縄をしながらハワイまで修学旅行に行くと言う話であった。70年代の田舎の高校生にとって海外に行く事のインパクトは強かった。

水産高校は全国に思ったよりはあるのだが、やはり特殊な学校なので、知っている人にお目にかかった事がない。(ハワイへの延縄研修は、海が穏やかという事でほとんどの水産高校が実施しているらしい)意外性があり確認のしようがない話題なので、私の人柄と合わさってガセではないかと疑う人が多かった。

最後にこのネタを楽しく披露したのは、90年代の終わりのロンドンのパブだったと思う。ロンドンのバブはラストオーダーで鐘を鳴らすのだが、鐘の音で水産高校の漁船のを連想しての事だったと思う。(ロンドンのバブへ行ったのは、その時が最初で今のところ最後)

披露した相手はPOISON(ポアゾン)の似合ういい女であった。アムステルダムのイタリアンフレンチレストランで鳩の小骨を吐き出す姿が様になる、海外で普通に働く日本女性のハシリみたいな人であった。偶然にも大学の同窓生。文学部出身と記憶しているが、たまたま夏の講義でとった電算機プログラム(その当時はそう言っていた)がキッカケでプログラマーになったと言っていた。

彼女とはアムステルダムで知り合ったのだが、その後ロンドンへ引越していた。

以前務めていた会社のヨーロッパ事務所がアムステルダムの世界貿易センターにあり、彼女のオフィスも同じフロアーにあった。ヨーロッパ事務所が一人事務所だったため、そこに務める同僚とアメリカから出張した私が一緒に出張で不在にする時に、何かをお願いしたのが、彼女と知り合ったキッカケであった。この出張の帰りにお礼にポアゾンを買っていったことで仲良くなり、食事や飲みに行く様になった。(いつも3人で、念の為)

アムステルダムの世界貿易センターはおしゃれではあるのだが、高層だが狭苦しいビルであった。エレベーターも小さくて、挨拶する前の彼女と相乗りになった事があり、ポアゾンの匂いがプンプンしていた。

味音痴で嗅覚も鋭いとは言えない私が何故、ポアゾンと分かったかというと、大学時代に付き合っていた女の子がつけていたからである。世の中で認識出来る香水が2つあるのだが、そのうちに1つがポアゾンでもう1つはシャネルの19番。20歳そこそこの小娘が普通にポアゾンをつけていた事だけをとっても、80年代の日本は異常であった。

当時彼女は40前くらいで、本当にポアゾンの似合ういい女であった。酔っぱらった勢いで、25歳のフランス人にアムステルダムを離れる時にバラの花束を贈られて言い寄られたとか楽しそうに話すので、私も女に持てない資質を全開にして、後2、3年で(女性として)終わりですから今のうちに楽しんで下さいなどと、盛り上がった。これが彼女との最後の飲み会であった。

2001年にえひめ丸が起きたとき思ったのは、不謹慎ながら、私から宇和島水産高校のマグロ延縄研修修学旅行のネタを聞かされた事のある人が、ただの与太話ではなく本当だったと思い出してくれるのではないかという事であった。

事故の後もネタとして登場さす事はあったのだが、えひめ丸の沈没で終わるので、話に怪しげな雰囲気がなくなり、亡くなった方の事が話し手、聞き手にもよぎるので重くなってしまう。最近は、披露する事も無くなってきた。


追記(11-13-10):YouTubeで永ちゃんの "Somebody's Night" を聞いていたら、歌詞の中に「毒薬(ポアゾン)の香りだけ、手掛かりの女」があるのに気が付いた。売野雅勇、良い詩を書くなー。

貝の浦 海水浴場

2010-08-05 12:17:18 | 非常に個人的な昔話
Outer Banks で子供と海で遊んでいたら、小学校の頃毎年の様に海水浴に行った貝の浦の事を思い出した。

貝の浦海水浴場は、宇和島市吉田町奥浦にあるリアス海岸のちょうど引っ込んだところにある、波が非常に穏やかな子供向きの海水浴場である。

今では当時の実家から貝の浦までは車で一時間も掛からないのだが、私が小さい頃は(もう40年位になる事に愕然)、日帰りではあるが、で大型観光バスを貸し切って出かける夏休み前半の一大イベント(後半のイベントは盆踊り大会)であった。当時(今もあまり変わっていないようだが)は、大型バスが海辺まで入って行けなくて、ミカン畑の間を向ける軽自動車がやっと通れるような道を歩いて降りていった。

ちょっとだけ開けた砂浜のところは海流も穏やかなため水温も高くちゃぽちゃぽ出来るし、湾の両端には岩場があり少し潜ったり出来るところがあり、吉田町の周辺では海水浴場としてそれなりに有名だった様だ。夏場には海の家風のお店も開いていた。母方の祖母の実家の親戚がやっており、アイスキャンデーを貰ったのが嬉しかった記憶がある。

大学生で帰省したときに泳ぎに行ったのだが、すっかり鄙びており、海の家もなくなっていたと思う。現在では、穴場的な海水浴場となっているようだ。

いつも母親が一緒に行っていた記憶があり、水着を持っていかないくせに泳ぎたくなるのか、毎年のようにシミーズ(?)で泳いでいた。

昔の事なので、皆弁当持参であるのだが、こういうときは決まって巻き寿司(太巻き)であった。海水浴だけでなく、運動会、遠足、イベントと言えばお昼は必ず巻き寿司であった。

Outer Banks の海辺で Dairy Queen で買ってきたホットドッグを食べながら、巻き寿司を食べたくて仕方がない自分がいた。

はやみおっちゃん

2010-06-29 20:22:48 | 非常に個人的な昔話
はやみおっちゃんは同じ明間出身の人なのだが、鳶職として全国を渡り歩いていたようで、小さい頃はほとんど見た事がなかった。帰省したときに、近所の友達と話を聞いたりした記憶があるだけであった。肉体労働者だけあって筋肉隆々としており、厳つい顔付きでもあったので、子供心に畏怖感を持った物である。

その後、同じ町内だが引越したりして明間の人々とは縁遠くなっていたのだが、はやみおっちゃんと一緒に働く事になったのである。

実家は農家だったのだが、田んぼは稲作だけで一町二反しかないので、田植えと稲刈りを除けば、後は水の管理と農薬散布位で、基本的に暇な仕事である。農閑期など近所に人々は出稼ぎにいったりしていたが、父は器用な人で、タクシーの運転手、みかんの選別工場に働きにいく人の送迎バスの運転手、小規模な土木工事の請け負い等をやっており、出稼ぎにいく事も無く、現金収入の術を持っていた。(免許があるか怪しいが、ユンボやブルドーザーも運転していた)

大学二年になる春休みに、免許を取る為に帰省した時に、父は近所のお寺の墓地の石垣工事を請け負っており、否応無く何日か手伝いをさせられた。父は手伝いとして、何と、はやみおっちゃんを雇っていたのである。そして、はやみおっちゃんの片足は義足であった。

聞いた所によると、鳶の仕事のはざまで帰省していたおりに、木材の搬出の仕事で足を飛ばしたとの事であった。うちの田舎の山林は険しい斜面ばかりで、林道の開発も進んでいなかったその頃は、切り出した木材をロープウェイの様な物を仮設して、トラックが入れる所まで運び出していた。事故の詳細までは聞かなかったが、ワイヤーロープに挟まったらしい。

片足義足で土方をやっていたのである。要領はもちろんの事、力でも全然かなわず、午後の一休みした時に酒を勧められて飲んだ後など、私の方は仕事にすらならなかった。

父といきさつなどは知る由もないが、父は土木工事では必ず雇っていたらしい。さすがに義足は土方仕事に堪えられる様には出来ておらず、時々ねじが飛んだりして壊れる事があったりしたそうだ。その度、父がその当時(高速が無く、国道56号線)車で2時間くらい掛かっていた松山の義足屋まで、修理に連れて行ってたとの事だった。

そんな経緯で、はやみおっちゃんは父の事を尊敬しており、私もおこぼれに預かり、優しく接してくれた。私が免許を取りに帰省している事を知ると、自分も免許を取りたいので一緒に勉強したいと言う。車は運転出来るが、筆記試験が問題なのだと言う。聞いてみるとはやみおっちゃんは、漢字が読めないと言うではないか。

もうビックリである。はやみおっちゃんが、いつ田舎を飛び出し鳶になったのかは知らないが、そんな人が居るなんて事は全くの想像外であった。日本の識字率は99.8%、これからもこんな出会いはないと思う。

結局、はやみおっちゃんに筆記試験を教える事も無く、運転免許を取得した私はとっとと大学に戻ったのであるが、その後、はやみおっちゃんは苦労して何回も筆記試験を受けて、晴れて運転免許を取得したとの事であった。

仕事の後、うちで夕食をした時に腕相撲をしたのであるが、只でさえ弱い私は相手にもなかった。足を飛ばしたときに入院中が半年にも渡ったのだが床擦れが出来なかった話や、鳶をやっていた時に出来た首の所に有る背負い瘤(?)を見せてもらったりした覚えがある。

観音水

2010-05-27 21:46:31 | 非常に個人的な昔話
観音水は、小さいときから当たり前の様にあったので、罰当たりな私にとっては、特別な思い入れも無い。日本の名水百選に選ばれて、今では一日500人もの人が訪れるとか、地元の老人クラブがシーズン中はそうめん流しをやっているとかの方がインパクトが強い。(こちらの西予市観光ページを下の方へスクロールしてみて下さい。一番下に出てくる。)

多分、観音水からの湧水を飲んで育ったのだと思うのですが、当時の上水設備の記憶がないので、これも定かではない。私の生まれた時には水道は通ってたが、うちの庭には井戸もあった。観音水は、うちからすると小さな尾根の向こう側だったので、イメージ的には、田んぼに来ている農業用水という感じだった。

あんな山のなかの、ただただ水が湧き出す洞窟が、子供に面白い訳も無く、訪れるのは8月10日のお祭り(というか、地元の人が集まって、食ったり飲んだりするだけ)の時くらいであった。午前中に周辺の掃除を行い、午後は宴会というのどかな集まりであった。子供にとっては、ちびっ子相撲大会があるくらいで、水は冷たいし、すぐに沢になるので泳ぐ事も出来ず、小学校の高学年の頃には、参加もしなくなっていたと思う。

観音水の由来についても聞いた様な気がするが、全く記憶にない。地元の人気スポットという事で、ブログ等で写真や情報も豊富なので、興味ある人はそちらで。私が知っていたのは、常に水温 14゜C 位で、一日の湧水量は 8,000 トンだそうだ。

印象に残っているのは、観音水の湧き出す洞窟から沢にかけて、赤い色の部分が多い岩が転がっていた。小さい時に、平家の落人の血が染まったものだと聞いた事がある。四国の田舎に多い平家の落人絡みの話のひとつではなかったかと思う。(観音水の記事やブログを読んでも、赤い石の事が出てこないのが不思議である)横溝正史の『八つ墓村』を読んだ時に、妙に恐怖感が現実的だったのを覚えている。映画では平家の落人たちが騙されて村人に殺される場面があるのだが、夜の観音水(といっても夜に行った事は無いのだが)で、斬られた落人から滴り落ちた血が岩に染み込んいく映像イメージを想像してしまう。

水が流れるのは、人にとって特別な感情を喚起するようだ。とめども無く流れ落ちる水量世界一を誇るナイヤガラの滝を裏のトンネルから見た時に、何故か爆笑するしか出来なかった事を思い出した。でも、観音水は、友達との我慢比べで、足の痺れる様な冷たさが感覚的な記憶としてあるくらいか。

行ってみたい様な、みたく無いような。でも、娘たちに一度は見せてやらねばなるめーち。



今回のエントリーはninokoさんのブログ『おでかけにっき』がキッカケとなった。数日前にエントリーした水神森を書いている途中で彼女のブログに辿り着き、宇和町明間 『桜並木』の水没記念碑の写真(それも裏側の)に亡くなった父の名前や、記憶もあやふやになったが口に出せば思い出す当時の近所の人々の名前を見つけてコメントした所、丁寧な回答をしていただいた。感謝感謝。

どうも出身地が近いそうだし、おでかけ先が懐かしい所ばかりなので、すっかりはまってしまった。

そんななかで、佐田岬の風力発電には、ビックリ、騒音公害もあるようだ。伊方町には原発もあり、今は風力発電と、国のエネルギー政策と弱小地方自治体の涙ぐましい産業誘致の挙げ句に、大変な事なっているようだ。

すっかり変わってしまった私の生まれ故郷の風景を(写真ではあるが)改めてみた事、「水没被害者同盟」の役員をしていた父、伊方の事などが去来してここ数日ちょっと感傷的になっている。懐古趣味や実体験に基づいた甘ったれた開発反対を唱える気は毛頭ないのだが、高度経済性成長や地方活性化という地元とは全く無関係な動機でドンチャカやった事の意味を、今、キチンと考えている人がいるのだろうか?(特に行政側に)

水神森

2010-05-25 08:29:55 | 非常に個人的な昔話
生まれた家の直ぐそばに、肱川が流れていた。山の間を縫って流れるので流れが速かった。今思えば、水量はそれほどでもなかったと思うが、台風や大雨の後は増水する事もあり、私が小さい頃にはまだ木製であった橋は、崩壊して流れてしまった事があった。

野村ダムが出来るまでは、河川工事などはされてなく、山間の河岸段丘の真ん中をくねくねと流れていた。平野部の一番幅広い(といっても500メーター位?)所の真ん中に、出島の様な小高い所があり森になっていた。川はそこに当たって左に蛇行していた。この森が水神森、川が当たる正面は淵になっており、「でんがブチ」と呼ばれていた。(と思う)

水神森の裏側と、川の行かなかった右側の平野(といっても猫の額くらい)に、うちの田んぼと家があり、足踏み脱穀機で骨折したのもここの田んぼであった。

でんがブチは、流れが緩やかなので魚が多く、近所の人々には絶好の釣り場になっていた。かなりの大きさの鯉、フナ、ハヤドンコなどが釣れた。昔は、うなぎも上って来ていたようで、明間に唯一あったタバコ屋は、「あけまや」(明間屋?村の名前を訓読みにしただけ?)といううなぎ割烹もやっていた。うなぎは、野村ダムよりもっと下流の鹿野川ダムがで来た時点(1958年)で、うちの方までは上って来れなくなったとおもうが、「じんど」と呼ばれる漁具で、遠い親戚のおじさん(とおるおっちゃん)が鰻をとっていた記憶がある。(鹿野川ダムが出来ても、雪隠詰めの鰻が繁殖していたのだろうか?)

野村ダムの建設に伴い河川工事が行われ、蛇行していた川は真直ぐにされ、水神森もでんがブチもなくなった。うちも田んぼの大部分を失ったため、町内の離れた所に田んぼを買い、引越をした。

野村ダムの水は、みかん栽培の灌漑に使われたりしているので、因縁深いものがある。ダムの貯水池は、朝霧湖と命名され、現在はバス釣りの名所となっているらしい。という事は、鯉もフナもハヤもいなくなっているのだろう。

本当に小さな森で、昼間はなんて事のなかったが、今でも、横溝正史や京極夏彦のおどろおどろしい小説を読むだびに、うちのうらから見た夜の水神森を思い出す。

追記
ちょっと季節外れだが、宇和町の桜の名所になっているらしい。昔も明間神社から明間小学校にかけての対岸に桜があった様な。因に、水神森とでんがブチは、明間小学校の前に架かる橋から下流方向の正面にあった。

預金封鎖 (追記あり)

2010-05-16 05:55:28 | 非常に個人的な昔話
ギリシャの混乱で、日本の財政危機の事を改めて思うのだが、日本政府は昭和21年に預金封鎖と貨幣変更で、国民の預金を取り上げている事実に付いては、いろんな所で散見するものの、キチンとした著作等にはお目にかかった事がない。

個人的には、当時預金封鎖で被害にあった人々が比較的少なかった事、戦争という特殊事情で何と無く諦めた人が多かった事、預金封鎖を事前に知り得る人は事前に引き落しなどで逃げ切った事などで、うやむやになったのではないかと考えている。特に田舎の資産家は、食べ物に困る訳ではないので預金封鎖の影響は取り敢えずなかったのではないかと思われる。しかし、その後農地解放が行われて、農業中心の地方資産家は衰退する事になる。

預金封鎖は国家的詐欺で、月の引き落し上限を500円として、3,000円までしか引き落としが出来ず、それ以上は取り上げしまった。

「五葉の松」で、母の実家が地方の資産家だった事を書いたが,母の母(祖母)の実家も、同じ様な資産家だった。長女である母が昭和13年生まれなので、結婚もその頃であろうが、何と、持参金を5,000円を持っての嫁入りであったそうだ。そして、この持参金(だけではないと思うが)が、預金封鎖で取られてしまったらしい。母が、何かの拍子に口にした事で何と無く覚えているのだが、母にしても僅か8歳の時の事なので、祖父母なり親戚から事後に聞いただけであろうと思う。

母方の祖父母は、ガンで私が大学に入る前に両方とも亡くなっているので自分が預金封鎖に興味持った頃には亡くなっていた。僅か65年前の事なのに既に、埋もれた歴史になりつつある。戦後の地方衰退の契機として、預金封鎖の事は福田和也にでもじっくり書いてもらいたい。

宇和島市吉田町立間にある祖母の実家が、なぜ豊かだったかというと、驚くなかれ愛媛にみかん栽培を持ち込んだ人がご先祖様だったらしい。このご先祖様祭った神社もあるらしい。(伝聞のみで、真実かどうかは不明)

小学校くらいの時までは、何回か伺った事があるきりなので、現在どうなっているか全く不明であるが、庭には、やっぱり五葉の松があった。いつだったか、トヨタの重役が買いたいという話があったらしい。何でも日本で5本の指に入るといっていたらしい。入り組んだ所なのでトラックが入らないので、ヘリコプターでつり上げるという何故か変に具体的な事も聞いたが、実現したかどうかは知らない。池には、三尺もあろうかという立派な黒鯉が悠々と泳いでいた事を覚えている。(どうも、母の実家の五葉松と祖母の実家の五葉松をゴッチャに記憶していたようだ。こっちが500万円と言われていたらしい。)

では、何の脈略も無く、一句。

五葉松昭和は遠くなりにけり

おそまつ!


追記 (12-31-10):母の実家で、祖母の実家の祖先がミカンを吉田町に持ち込み広めた話を聞いてみた。当たらずとも遠からずで、ここにでてくる加賀山家から養子に来た人がいるとの事であった。諸説あるようで、この加賀山さんがお遍路の途中で土佐から持ち帰った説と、別の加賀山さんが紀伊から持ち帰ったのがごちゃごちゃになっていた。A (もしくは The )加賀山さんが(母方の祖母は清家さんなので、A (もしくは The )清家さんが)紀伊から(こっそり)と持ち帰ったと思い込んでいた。

ゴヨウの松 (訂正追記あり)

2010-05-05 12:06:10 | 非常に個人的な昔話
「ゴヨウ松」と記憶していたので、てっきり「御用の松」だと思っていたのだが、どうも「五葉松」が正しく、「の」は単に語調を整えるために入っていたようだ。

小学校までは、毎夏お盆に、母が実家に里帰りしていた。今でこそ、車で小一時間で行けるのだが、当時は、バス、汽車を乗り継ぎ半日掛けて、途中でみのりのかっちゃんに遭遇したり、大都会宇和島に立ち寄ったりして、結構な小旅行であった。

母の実家は、その地方ではそれなりに豊かな家であった。土佐、長宗我部の家来の末裔だったらしい。母は小学校の時(戦後間もない頃)にイギリス製の自転車を持っていたらしい。里帰り中は、蚊帳を張って寝るのだが、何とその蚊帳は、”絹”で出来ていた。自分ちの化繊の蚊帳とは、格段に感触が違うのを覚えている。

私の記憶の中では、母の実家は専業農家なのであるが、祖父は元々銀行員であった。(曾爺さんも銀行員だったと聞いた様な気もする)今考えると、満州鉄道の株、預金封鎖、農地解放で、昭和から戦後に掛けて歴史に翻弄された可哀想な地方の資産家であったと思う。

お蔵には鼓があったり、座敷には、名人戦で使われそうな碁盤や将棋盤があった。曾爺さんは、碁や将棋が上手かったらしいが、教わる機会もなく、里帰り中に五目並べと金転がし位しかやらなかった。それでも碁石の感触は覚えていて、これ以上の碁石に触った事はない。(碁をやらないので、偉そうな事は言えないのであるが)

その実家の庭に、高さ3メートル位の「五葉の松」があった。母の祖父、私の曾爺さんが大切に育てていた。子供心にも、枝振りの良い印象が残っている。母から聞いた話では、樹齢二百年でその当時(昭和30年代後半)に、静岡のお金持ちから5百万円で売ってくれという話があったそうだ。

高さ3メートルで枝振りが良く、面白い様にねじ曲がっている五葉松の盆栽を想像してみてもらえば、やんちゃ盛りの男の子にとっては、ジャングルジム以外の何物でも事は理解頂けると思う。

そうです、私はその当時5百万円の値の付いた「五葉の松」で木登りを覚えたのだ。さすがに曾爺さんも怒る訳にいかず、諦めていたそうだ。(ちなみに、私は父方の直系の長子長男で、母が長女だった事もあり母方の初孫、典型的な Spoiled Kid であった)

という訳で、私の木登りは自慢出来ると意味も無く自負している。

曾爺さんが亡くなった後、手入れがされず、その後、松食い虫にもやられて、数年前に伺った時には、伐採されて無くなっていた。母の実家でもこの松の写真を見た事が無いので(なぜか田舎の家族写真は家が背景である。多分、どの家も南向きで順光になるからか?)幻の様な思い出である。

追記訂正 5-16-10

地元にいる弟から指摘があり、値段の件では、母の実家と母方の祖母の実家の五葉の松をごっちゃにしていた様だ。私が木登りをしたのは、ただ単に枝振りの良いゴヨウの松だったとの事だ。木登り自慢も竜頭蛇尾、ちょっと寂しい。

ロンパールーム

2010-03-23 22:25:21 | 非常に個人的な昔話
ロンパールームは、1963年10月7日から1979年9月28日の放映で、みどりお姉さんも6人いるそうだが、私にとっては、二代目お姉さんのうつみみどりがロンパールームであった。

田舎臭い名前の私は、魔法の鏡で名前を呼ばれる事も無く、うつみみどりへの憧れだけが残った番組であった。ロンパールームの後、彼女も私生活などで色々あったが、どうしても憎めないのは幼い頃の刷り込みがあったからだと思う。

観ていた頃は勿論、その後も全然考えた事も無かったが、ロンパールームの番組スポンサーは、野村トーイであった。(野村トーイは1992年にバズブロに買収され、その後、98年にはバズブロも解散している。)なぜこんな話になるかと言うと、大学の同級生の野村君、何と創業者の孫がいたのである。大学中は大変お世話になり、一時は豊島園にある野村君の家にに居候させてもらった事もある。私だけでなくクラスの何人もがお世話になった。

野村ママ、その節は大変お世話になりました。(余談だが、野村トーイの創業者は、内臓が左右逆、つまり心臓が右側にあったそうだ、見た事も触った事も無いけど。(ブラックジャックのそんな人の話があったと思う))

この友人には弟がいて、何と、二人ともスポンサーの特権で、ロンパールームに出演した事があると言うではないか。本人達は、事の重大性が全然分かっておらず、それがどうしたという感じであった。その上、魔法の鏡で名前も呼ばれたらしい。

番組の終わりに牛乳を飲むコーナーがあるのだが、弟の方は、牛乳が嫌いで、スポンサーの特権でカルピスにしてもらったとケロッと言っていた。何と言う理不尽。

田舎者の歪んだ芸能界への憧れは、自分の友人(とその弟)のロンパールーム出演を知った事で一段と歪み、そのまま現在に至っている。未だに有名人や芸能人と会う度(そういう機会が極端に少ないという要因もあるが)に、距離感が取れずに変な感じになる。宿命と諦めている。

上の娘が、NHK「おかあさんといっしょ」第15代うたのおねえさんで、現在デトロイトに在住されている森みゆき先生に、もう3年も歌を習っているのだが、みゆき先生にお会いするたびに奇妙な感覚があるのは、ロンパールームを巡るトラウマが原因ではないかと思っている。

足踏み脱穀機

2010-03-17 00:25:56 | 非常に個人的な昔話
記憶が、日に日に怪しくなっているのが実感としてあるので、ディスクレーマーを冒頭に置いておく。


娘からクラスメートの男の子が学校で遊んでいて骨折した話を聞き、自分の幼い頃の骨折体験を思い出した。

多分、5歳位の時で右足だったと思う。小さかったので記憶があまりにもボンヤリしており、小さい頃の怪我で後遺症等も無いので、どの程度の骨折だったのか、どんな治療だったのかも憶えていない。ギブス姿の写真での追記憶で、辛うじて記憶とつながっているという感じである。だが、ハッキリしているのは(憶えているより、後々親や同居していた親戚に言われた事で補強されたと思うのだが)、どうやって骨折したかという事である。

なんと、足踏み脱穀機の足踏み板と本体に挟まれて骨折したのである。添付したウィキメディアを拡大すると足踏み板が見えるが、うちの脱穀機はもう少し奥に引っ込んでおり、本体手前の真下くらいにあった。その間に右膝から下がすっぽり入って、足踏み板が上がる勢いで折ったらしい。(今では考えるだけでとっても痛いのだが、痛みの記憶もない)小さいので、本体に掴まって漕いでいるうちに、そういう体制になったのであろう。大人だとこんな間にまず足が入らない。

円筒形のこぎ胴自体が弾み車になっており、クランクの原理で漕ぐ力を回転に変えて、慣性でこぎ胴が回り続ける様になっており、足踏み板は上下に勝手に動く構造となっている。脱穀にはかなりの力が必要で、こぎ胴の勢いを落さない為に、結構重量(慣性モーメント)があった。(足踏みミシンも基本的に同じ構造、今ではこれも珍しいかも)逆回転も簡単に出来るので、そういう意味でも危険であった。

ところで、脱穀機とは何ぞや思う人の為に、解説を。

昔は稲刈りをすると束ねて、田んぼに稲木と呼ばれる物干の様なものと組んで、天日で暫く乾燥させた。(地方によって違いがあるかも)暫く乾燥させた後に脱穀機で、稲穂から、籾(穀)を取る(脱する)のである。よって、脱穀機。この後、籾すりをして、玄米になり、精米して白米になるのである。うちにあった籾すり機は、このウィキメディアの籾すり機とは違い、木製だった。(動力は発動機だったと思う)

病院ではなく、骨接ぎ医院で治療をしてもらった様な覚えがある。写真も今の様な石膏のギブスではなく、添え木に包帯風であった。

右足は、大学のときにもう一度、複雑な骨折をするのであるが、その話はそのうち。

下の娘が、ちょうど5歳で、これが何でもやりたがる。男親の私が見ててもハラハラするときがあるのだが、これが男の子で、脱穀機が目の前にあれば、じっとしていないと思う。今更ながらに親に心配ばかり掛けていたと改めて思う。

みのりのかっちゃん 追記有り

2010-03-11 14:10:59 | 非常に個人的な昔話
突然、毛色の違うシリーズなので不思議に思われる方は、「非常に個人的な昔話」シリーズを書こうと思った訳をお読み下さい。

出身の宇和町は予讃線が通っている。卯之町駅は今でも特急が止まる駅である。卯之町は、開明学校、高野長英の隠れ家や江戸時代の街並みが残っていたりして、昔から栄えた宿場町である。確か二宮敬作が開業医をしており、オランダお稲も暮らした事がある街である。

小さい頃、汽車(小さいときに蒸気機関車が走っていたかどうかは記憶が無い、でも今でも電車ではなくディーゼル機関車)に乗るのは、母の里帰りのとき位である。母の出身は北宇和郡(現宇和島市)三間町で、歯長峠を挟んで山一つ向うなのだが、当時はバス、汽車しかないので、予讃線、予土線を乗り継いで行っていた。明間から国鉄バスで卯之町に出て、卯之町駅で汽車に乗るのである。(四国遍路すると、42番(仏木寺)から43番(明石寺)の途中で、歯長峠を越える事になる)

さて、みのり食堂は、駅から歩いて数分の商店街(昔の目抜き通り?)から、ちょっと入ったところにある。この食堂に知恵遅れの子供(私が子供の時には、既に大人だったと思う)がいた。彼が「みのりのかっちゃん」だ。

卯之町駅を使う度にかっちゃんを見かけたので、毎日のように駅に行っていたのだろう。かっちゃんは、自分が卯之町駅の職員だと思い込んでいたのではないかと思う。駅員さんも心得たもので、そんな彼を優しく扱っていた。あとで聞いた噂では、卯之町駅から宇和島までの汽車は只で乗っていたらしい。沿線駅の職員も心得たもので、それを許していたようだ。のんびりした時代であった。かっちゃんも、掃除などの簡単な頼まれ事を喜んでやっていたと思う。(JR四国になって、無賃乗車は出来なくなったと言う噂も聞いた)

国鉄時代であったので、職員は凛と(田舎なので威張っている感じは無かった)した感じがあり、当時の駅の持っている威厳と秩序を、かっちゃんは好きだったのだと思う。(勿論汽車も)

私のかっちゃんをの思い出は強烈である。どうも私はかっちゃんが大切にする駅の威厳を無視したようなのである。年に1回か2回しか汽車に乗る子供が、駅でじっとしているわけは無い。改札の横に柵があったのだが、これが丁度遊ぶのにもってこいだったので、弟とジャングルジムのようにして遊んでいると、かっちゃんに大声で怒られたのである。

それ以前にかっちゃんを知っていたかどうかは覚えてないが、変な感じ(知恵遅れ独特の風貌と言うと分かってもらえるかなー)のおじさんが、真剣な顔をして怒っているのである。本能的に危険を感じて母親のもとに逃げた。このときは本当に怖かった。

その後、町内に一つしかない卯之町にある中学校に通うようになって、みのり食堂の近所に住む同級生から、上記の様なかっちゃん情報をいろいろ教えてもらう事になった。

私にとっては怖いだけの存在だったが、近所ではそういう人と言う認識で受け入れられていたようだ。かっちゃん、男の人に呼びかけるときは、必ず「あにきー」というので、これは友達内ではギャグにしていた。その後も、街でかっちゃんを見かけると、友達は普通に接していたが、私はどうしても恐怖心が抜けきらず、接近遭遇はついに無かった。

しかし、こんな人が普通にいた時代や場所の経験は、心の奥の大事なところにあるような気がする。

昔から私にとっては年齢不詳であったが、もう亡くなっていると思う。4年程前、家族で帰省したときに、みのり食堂に行ったのだが、さすがにかっちゃんの聞く事は出来なかった。

みのり食堂は、正統派の田舎の食堂だ。味も田舎風だが悪くない。(4年前から変わっていなければだが)


追記:3-13-10
早速、地元の友人からメールを貰った。みのりのかっちゃんは健在だそうだ。友人は、人生の大先輩なので語る時は【「みのりのかっちゃん」(さん)】と敬称をつけなければダメと言われてしまいました。

尚,健在と言う事もあり「知恵遅れ」の表現は不適当との指摘も受けました。エッセンスが失われる様な気がするので本文の訂正はしませんが、後は本人や関係者にご迷惑が掛からない事を祈るばかりです。