吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

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鹿児島の川内の新田神社境内の可愛山陵の「えのやま」という読みについて No374

2014-05-05 00:17:04 | 神霊界考察
ニニギの陵については「日本書紀」に
「筑紫日向可愛山之山陵」という記載がある。

具体的には以下のように記載されている。
久之天津彦彦火瓊瓊杵尊崩。
因葬筑紫日向可愛(此云埃)之山陵。

※「此云」については、「日本では~という」の意
あるいは「日本では~という発音」の意

ところで日向可愛の山陵の場所については
明治7年(1874年)7月10日に明治天皇の裁可を経て
鹿児島の川内の新田神社境内が「瓊瓊杵尊陵」の指定を受けており
大正3年(1914年)には宮内省直轄となっている。

ところで宮崎県延岡市の北川町俵野にある可愛岳にもその伝承がある。

さて可愛山の読みであるが此云埃と記載されているから
塵埃=じんあいという熟語の読み通りにあいと読めば
可愛山=埃山=あい山と読めそうである。

しかし両方の場所で可愛はえのと読まれていて「えのやま」「えのたけ」である。
いくら調べても埃に「え」という読み方はない。
また厳密に言えば愛という字をえと読むのも
愛媛のように接頭辞の特殊な場合であり
愛される媛で意味が通る場合はいいが
愛知は愛される知では意味が通らずえちとは読まない。
そういう意味でぎりぎり「えやま」とは読んでも
「えのやま」とは本来は読まない事になる。


書記には埃宮という宮の名が記載されているが
そこは神武天皇東征の際の安芸国での行宮(あんぐう)の地となっている。
ここでも埃宮=えのみやと読まれているらしい。
しかし疑問なのは可愛の読みを埃とわざわざ記載しているが
可愛山はその字の通り「かあいやま」か「あいやま」と
読むのが筋ではなかろうか?
また日本書紀の埃宮は古事記では多祁理宮となっている。
多祁理宮の読みはたぎりのみやである。
漢字一文字で書けば滾である。
この錯誤には何か秘密がありそうだ。

日本書紀 卷第一 神代巻 第八段一書第二に
「素戔嗚尊、安藝國の可愛の川上に下り到る。」とある。

伝承地である安芸国高田市の吉田を流れる川を
可愛川=えのかわといい
下流は江の川と書いてごうのかわと呼んでいる。
川の場合の可愛は川合から来ている可能性が高い。
それならばやはり読みは可愛=かあいとなる。

可愛を「え」と読むようにしたなんらかの経緯がありそうだ。
吉田一氣が新田神社に参拝した感じでは
この地域が神亀山と呼ばれていたことも含めてこの地は出産にかかわり
えな山と呼ばれていたのではないかと感じた。
えなとは「胞衣」のことで出産時に胎児と共に出てくる胎盤の事だ。
とにかくここは古く偉大な歴史を持っていると感じさせる神域である。

新田神社の可愛山陵墓看板

出生にまつわる伝承が埋葬にまつわる伝承に替わったとすれば
そこにどんな理由があるのか?
今は結論は出ていないがこの新田神社の地は「胞衣」を埋めた山であることから
えな山と呼ばれていたのが読み方はそのままにニニギの陵墓とするために
可愛山としたと仮説を立てている。
では誰の胞衣なのかであるが、ここは天津彦彦火瓊瓊杵尊としたい。
記紀で高天原からの天孫降臨と記載している以上は
ニニギの命の胞衣は降臨する前であるから高天原にないとつじつまが合わない。
それで胞衣山が稜墓とされたと仮定する。
ならば本来の陵墓である読みでいえば「あい山」があるはずだが
残念なことに見つけ出せていない。

ちなみに天照大神の胞衣伝説として
中央アルプスに胞衣山=恵那山=えなさんという山がある。
イザナギ、イザナミの命が天照大神を産んだときに
胞衣を埋めたので胞衣山という。
ここの山頂は標高2,191 mであり古代においては簡単に登れる山ではなかったので
高天原から降りてきてここに埋めたという伝承にも違和感が無い。

古代において胞衣を埋める行為はふつうであり
神功皇后が品陀和気命を産んだ時の胞衣については
胞衣を箱に入れて埋納したということから付けられた福岡市の筥崎宮や
和歌山県の衣奈(えな)八幡神社に伝承がある。






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