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「東京、はじまる」斜め読み2/2

2023年07月07日 | 斜読
斜読・日本の作家一覧>  book553 東京、はじまる 門井慶喜 文藝春秋 2020

第4章 スイミング・プール
 金吾と時太郎はアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、ベルギー・・を1年でまわり、その間に構想を練り、1889年、ネオ・バロック様式地下1階、地上3階、石造の日本銀行設計案を日本銀行総裁川田小一郎55歳に提出する。外側は瀬戸内海・北木島の花崗岩石積み、内側は煉瓦積みである。
 建設地の日本橋は軟弱地盤と予想し松杭を大量に発注しようとしたが、地盤は良好で松杭は不要になる。金吾は、地面を掘り下げ地階の床に厚さ2.7mのコンクリートを打つ。・・まだ建築構造や地盤強度の学問がない時代とはいえ、厚さ2.7m=現代建築の1階分の高さのコンクリートを打つとは驚きである・・。
 大雨のあと地下階に雨水が溜まり、スイミング・プールになっていた。金吾は、水を漏らさぬ構造、コンクリートが緻密で亀裂がないと自信を深める、職人を鼓舞する。


 日本銀行事務主任として高橋是清(=東太郎)39歳が赴任する。暗記力、記憶力、先見性に優れ、仕事が一段とはかどる。
 コンドル門下生の妻木頼黄(1859-1916、金吾の5歳下、旧旗本)の話が挿入される。妻木はニューヨーク・コーネル大学に留学し、帰国後臨時建築局に任用され、ベルリン留学後、大蔵省に任用された。金吾とは折り合いが悪く、高橋是清を通じて嫌みなことを伝えたり、このあと造家学会=建築学会や議事堂設計で対立する。


 日本銀行は1896年、2年遅れ、予算80万に対し実際は112万かかり、落成式を向かえる。式には、皇族、各国大使、政界、財界から大勢が参列し、金吾が案内をつとめる。
 金吾は、採光、動線、空間効率、美的効果を重視したと話し、1階の八角形の玄関ホール、営業場、次いで階段を下り、地階金庫室、次に2階に上がり、総会室、貴賓室、役員集会室、総裁室、さらに3階執務室を案内する・・日本銀行の中に入ったことはないので、金吾の案内=門井氏の描写で内部を想像する・・。
 3階からエレベーターで1階に下りるとき、駐日イギリス全権大使アーネスト・サトウが同乗する・・中禅寺湖畔にアーネスト・サトウが建てた英国大使館別荘があり、別荘を見学してアーネスト・サトウを知った。親日家である。HP「2022.5中禅寺湖・英国大使別荘」参照・・。
 第4章は日本銀行建設の様子が描かれている。


第5章 東京駅

 日本銀行竣工後、辰野金吾は帝国大学工科大学長に就任するが、1902年に辞任、教授も辞職し、辰野葛西建築事務所に専念する。日本銀行の支店を始め多忙を極めたようだ。
 日比谷公園の設計も依頼されたが、東京帝国大学農科大学教授の本多静六(1866-1952)に押しつける(2017.1ブログ「日比谷公園へ、本多静六の先見性・・」参照)。
 多忙ななかでも、金吾は日本銀行に比肩する仕事をしたい野心を燃やしていた。国会議事堂建設の話が持ち上がり、金吾、金吾と犬猿の仲の妻木頼黄らが議院建築調査会メンバーになる。金吾案が1位になるも予算が付かず立ち消えてしまう。


 曾禰達蔵はコンドルの勧めで三菱に入り、三菱1、2、3号館はコンドル設計+達蔵助手、4、5、6、7号館は達蔵が設計(三菱1号館は復元、そのほかは現存せず)する。達蔵は、時代は日露戦争さなか、戦争終結後に鉄道を国有化し、丸の内=三菱が原に中央停車場をつくる計画を知る。
 達蔵が中央停車場を設計してもいいのに、達蔵は笑顔で、金吾に君が日本を代表する建築家、君こそ中央停車場の設計をするべきと話す。金吾は中央停車場の設計に意欲を新たにする。
 第5章に東京駅設計の前段を描き、第6章へ話が展開する。


第6章 八重洲と丸の内のあいだ
 冒頭に1907年11月付の英国大使からキャンベル・バナマン首相宛の手紙が紹介される。前任英国大使アーネスト・サトウ(前述、親日家)は日本を独立国として認めるよう勧めているが、現英国大使は日本の急速な近代化を懸念し、鉄道を国有化して中央停車場を建設し日本中の鉄道を一本化しようとしている、これは軍事力の増強につながる、などと警鐘を鳴らす。現英国大使は国威の象徴となる中央停車場を危惧したようだ。


 金吾は辰野葛西建築事務所があまりにも忙しいいので、大阪に辰野片岡建築事務所を開設する。
 金吾は、中央停車場の設計を明治天皇56歳、桂太郎首相に説明する。建築家が天皇に会うというのはよほどの名誉だったのではないだろうか。
 その金吾に、助手の松井清足が・・かつて金吾がコンドルに反発したように・・、中央停車場のクイーン・アン様式は時代遅れ、煉瓦積みも古い工法、いまやコンクリートの時代、と主張する。金吾は聞き流す。
 建設地の地盤を4m掘り下げ、丸太をスチーム・ハンマーで隙間無く打ち込むのに1年3ヶ月かかる。地階に厚さ1.2mのコンクリートを打つ。構造は鉄骨煉瓦造で、全長335m、高さ34m、地上3階地下1階の長大な建物で、中央を帝室用乗降口、右を乗車口、左を降車口にする。
 金吾は芸術性が重要と話し、松井清足はこれからは効率重視の時代と反論するも・・第1章で金吾は効率性を主張しコンドルは美術の重要性を説いた野だが・・、1914年12月、辰野式ルネサンスと呼ばれる東京駅が完成する。
 完成後、右乗車口、左降車口は使いにくく不評だったようだ。金吾は中央皇室乗降口が念頭にあり、一般乗降口はさほど気にしなかったのではないだろうか。金吾は鉄道利用の普及を読めなかったようで、松井清足に時代遅れと言われても仕方なし、である。


第7章 空を拓く
 金吾は開業直前の東京駅の右の八角形ドームの回廊に上がり、縦長窓に腰掛けてコンドルと語り合う。金吾は、江戸を東京にした自負はあるがまだ満足できないと話すと、コンドルはそれは金吾の性分と言い、金吾が心頼みにしているのは私コンドルではなく曾禰達蔵と言い当てる。


 その後も金吾は多くの建物を建てたが、気持ちは国家を向いていて、次は議事堂と思う。すでに敵対していた妻木頼黄は没していたので、議院建築調査会委員を弟子で固め、設計競技とした。どんな案が選ばれても自分がデザインを手直しするつもりだったようだ。ところがこのころインフルエンザ=スペイン風邪が大流行し、大勢が命を落とした。
 金吾もスペイン風邪を罹患してしまう。妻秀子、子どもたちが金吾を看護する。、弟子たちが見舞いに来る。大蔵大臣高橋是清からも見舞いの使者が来る。
 曾禰達蔵も来る。金吾は達蔵に、俺は逝く、その前にどうして東京駅をゆずったのか、と問いただす。金吾はこれまでの人生のあらゆる機会で達蔵にゆずられてきた。工部大学校首席、海外留学、教授、建築学会長、東京駅を始めとする重要な設計を、金吾は達蔵にゆずられてきた。
 本心を知りたがる金吾に、達蔵は、歴史を勉強したかったが幕末で無一文、不向きだが少しでも金になる造家=建築を選んだので、東京駅のような第1等の仕事は君のような第1等の男がするのが正しい、と応える。
 金吾は、達蔵68歳は日本一ではないが多くの著名な建築を設計していて三位は下らない、コンドル先生の言う通り達蔵は優秀で、生涯かなわなかった、と思う。
 息を引き取る前、金吾は秀子に俺につかえ子どもを育て40年、じつにいい妻だった、いい母だったと言い、子どもの名を一人ずつ呼んで感謝し、万歳を繰り返し、曾禰達蔵に議事堂を頼むと言って大往生し、「東京、はじまる」は幕となる。


 大学生のころ丸の内のO設計部でアルバイトをしていたので、辰野金吾設計の東京駅を通り、コンドル・曾禰達三のデザインをいまに伝える三菱1号館あたりを歩き、ときどき本多静六設計の日比谷公園で息抜きをした。
 東京駅舎建て替えの話が持ち上がったときは「赤レンガの東京駅を愛する市民の会」に入会し、駅舎保存運動を支援した。その後も東京駅はよく利用するし、復元された三菱1号館や日比谷公園にも足を延ばした。
 毎年正月3日に箱根駅伝応援で日本橋に出かけ、そのたびに日本銀行の前を歩く。
 東京国立博物館にもよく出かけ、表慶館も見学する。
 幕末に生まれた辰野金吾、曾禰達蔵、片山東熊らが、江戸の終わった東京を近代化するため、イギリス、ドイツ、フランスなどの先進国の建築、都市を手本に奮戦した。彼らには西欧を手本にしながら、東京を、日本を、自らつくろうとする意気込みがあった。門井氏の軽快な筆裁きで、その意気込みを改めて感じることができた。
 (2023.7)


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