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2023.2静岡 龍潭寺を歩く

2024年02月03日 | 旅行
日本を歩く>  2023.3静岡 龍潭寺を歩く

 浜松城を出て国道257号を北北西に走る。10数分で三方原を通る。「三方原古戦場」の案内もあった(写真web転載)。このあたりが、1573年に徳川家康が武田信玄に大敗した戦場になる。三方原は、天竜川の扇状地が隆起して標高25~110mの台地が形成されたところで、傾斜の緩やかな広々とした原である。いまは格子状の道路が整備され、宅地開発が進んでいて、古戦場は想像しにくい。三方原古戦場の案内を眺めながら走りすぎ、井伊直虎にゆかりの龍潭寺を目指す。

 ほどなく山あいに入り、ナビの案内で左折して神宮寺川を渡ると正面に石の鳥居が建ち、駐車場が見えた。かつての神仏混淆で寺に鳥居が建つこともあるので駐車場に車を止める。
 鳥居で一礼し、参道を進むと石段の上に木の鳥居が建ち、その先に切妻屋根の四脚門が構えている。四脚門を抜けると、妻面を正面とした入母屋屋根の井伊谷宮が構えている(写真)。
 96代後醍醐天皇が奈良県吉野に南朝を興した南北朝時代(1336~1392)、後醍醐天皇第4王子宗良親王(1311-1385)は征夷大将軍として各地に赴き、1338年、井伊谷の豪族井伊家に身を寄せ、1340年まで滞在した。のち信濃国大河原を30年ほど拠点とするが、勝機を見いだせないまま1385年に井伊谷で薨去する(大河原で薨去などの説もある)。
 明治5年1872年、井伊家の末裔にあたる井伊彦根藩知事が、宗良親王を祭る井伊谷宮を創建する。参拝した井伊谷宮は宗良親王を祭る神社だった。
 教科書で習った南北朝時代を思いだしたが、宗良親王は習わなかったと思う。宗良新王は南朝歌壇の中心になった歌人で、新葉和歌集の選者だそうだが、新葉和歌集も始めて聞いた。遠い過去の活躍に敬意を表し、二礼二拍手一礼する。

 龍潭寺はどこか?。井伊谷宮の参道を戻るとき、右奥に切妻大屋根の庫裡が見えた。庫裡の正面に回る(写真)。1815年建立だそうだ。大きな切妻破風は禅寺特有の作りである。庫裡が龍潭寺の受付だった。遠回りしたが井伊谷宮から南北朝時代を思い出したから良しである。
 昼どきなので受付で食事処を聞き、境内を出て県道を渡った先の蕎麦屋で天麩羅そばを食べた。蕎麦屋の名前は曳馬路である(写真)。
 浜松城から車で20分ほどだから、家康が曳馬城を攻略したころ井伊谷の武将も駆けつけ、その歴史を留めようと蕎麦屋を始めた店主が曳馬の名前にしたのではないだろうか。蕎麦屋のスタッフに聞いたが、名前の由来は分からなかった。代わりに、井伊直虎を主人公にした大河ドラマが放映されたころ、龍潭寺に大勢が押しかけ、蕎麦屋曳馬路も大賑わいだったと話してくれた。
 浜松城も大河ドラマで大賑わいだったから、大河ドラマは地域振興、観光開発に寄与しているといえよう。

 食事を終え県道に出る。バスが何台も止まれる大駐車場が県道沿いに整備されていたから、当時の賑わいぶりが想像できる。
 蕎麦屋の向かいに、生け垣に挟まれた細い龍潭寺の参道が北に延びている。石敷きの参道を進むと明暦2年1656年に再建された本瓦葺き切妻屋根、四脚門の大門=山門が建つ(写真web転載)。小さな門であっても仏教の奥義は広く深いということだろう。大門で一礼する。
 大門の向かいは石垣で、左の階段を上り右に折れると1987年に建立された本瓦葺き切妻屋根の仁王門が構えていて、仁王がにらみを効かせていた(写真)。仁王門で一礼する。
 仁王門の正面に本堂が構えている(写真web転載)。本堂は、井伊家27代彦根藩主4代の井伊直興の寄進で、1676年に再建されたそうだ。
 本堂前庭は後述の庭園として整備されていて、参道は右の庫裏、左の井伊家墓所に別れているので、庫裡の受付に向かう。
 途中に1971年再建の鐘楼堂に続いておよそ400年前の旧鐘楼堂を転用した東門が建つ(次頁写真)。庫裡の受付で500円の拝観料を払い、縁起などを記した案内をもらう。
 
 奈良時代、733年、井伊谷に行基が地蔵寺を開いたとされる(のち自浄寺、龍泰寺と寺号を改めた)。平安時代に井伊家の祖先井伊共保が生まれる。井伊家は有力武士として保元物語にも記されたらしい。鎌倉時代には源頼朝に仕え、南北朝時代には前述の後醍醐天皇第4王子宗良親王を迎えて北朝と戦った。共保ゆかりの井戸が県道の向かいにあり、橘の木が生えていて、井伊家の旗印は井戸の井桁、家紋は橘だそうだ。
 室町時代、20代直平が禅宗に帰依し、臨済宗妙心寺派になる。1560年の桶狭間の戦いで22代直盛が戦死し、直盛の戒名をとって龍潭寺(りょうたんじ)と寺号を変える。
 直盛には女子(出家して次郎法師=のちの直虎)がいたが、男子がいなかったため養嗣子となった直親が井伊家23代として跡を継ぐ。1562年、直親は今川氏に殺される。1565年、龍潭寺住職の計らいで次郎法師が直虎として井伊家当主になる。直虎は次郎法師とは別人との説があるらしいが、龍潭寺の井伊家の墓所には始祖共保、直盛、直虎、直親、直政たちの墓が祀られているのは事実である。


 話を戻して、徳川家康は井伊家を支援していた。1573年三方原の戦いで家康は浜松城に敗走したが、同年、武田信玄が病没し家康は勢力を回復したので、直虎は直親の遺児虎松(=のちの直政)を養子とし、1575年、15歳になった虎松を徳川氏家臣松下氏の養子にする。虎松は家康の目に適い、小姓として取り立てられ、家康は万千代と名乗らせる。
 1582年、直虎が没し、22歳の万千代は元服して直政と名を改め、井伊家24代となる。井伊直政は家康のもとで頭角を現し、関ヶ原の戦いで東軍指揮の中心となって活躍し、徳川四天王の筆頭となり、石田三成の旧領である近江国18万石の領主になる。
 彦根城築城中の1602年、直政が没し、直政の次男直孝が彦根藩30万石の藩主になり、幕末まで続く。幕末、36代井伊大老直弼が日米修好通商条約に調印し開国を断行するが、1860年、桜田門外の変で暗殺されたことは教科書でも習う。
 歴史を振り返ると、女性の次郎法師が直虎として井伊家の当主にならなければ、井伊直政の活躍もなく東軍の勝利は長引いたかも知れず、さらには井伊直弼による開国もなかったかも知れず、井伊直虎の存在の大きさを改めて感じた。

 庫裡で受付を済ませ、渡り廊下で本堂に向かう。最初の部屋に丈六の釈迦如来坐像が安置されている(写真)。丈六≒4.8mだが、坐像の高さは2.8m、台座を入れても3.55mである。
 かつては仁王門近くに釈迦堂=大仏殿があり、釈迦如来坐像が安置されていたそうだ。その当時は台座が大きく?、光背が大きく?、丈六だったのかも知れない。合掌。
 本堂の廊下は鶯張りである。キュッキュッと鳴らしながら、補陀楽(ふだらく)の庭と名づけられた本堂前庭を眺める(写真、中ほど奥が仁王門)。補陀楽はインド南端の観音霊場だそうだ。
 霊場は神仏の霊験あらたかな場所だから険しい山岳修行などを思い浮かべてしまうが、この前庭は緑の植栽と白砂が見事に造形されていて、気持ちが休まる。気持ちをやわらげ仏の慈悲を感じよ、ということであろう。気持ちを静め、本尊虚空蔵菩薩に合掌する。
 長押の上に龍が彫刻された蛙股が飾られていた(写真web転載)。かつての釈迦堂=大仏殿の蛙股で、左甚五郎作と伝わっているそうだ。

 順路に従って渡り廊下を進み、稲荷堂、開山堂、井伊家の位牌を祀る御霊屋に合掌し、本堂に戻って背面=北側の廊下を歩く。北庭が国指定名勝の龍潭寺庭園である(写真)。
 小堀遠州作といわれる池泉鑑賞式庭園で、中央の小高い築山に置かれている石が守護石で、池の左右の端に仁王石が配され、池は心字形である。禅寺庭園の特長だそうだ。
 小堀政一(=遠州1579-1647)は、父が関ヶ原の戦いの功で備中松山城主となり、父没後の1604年、城主を継ぐ(HP「2023.2備中松山城を歩く』参照)。駿府城普請奉行などを経て、1619年、近江国小室藩主となる。小堀遠州は、各地で城などの作事を行い、多くの庭園を手がけ、茶人としても知られる。
 いまは冬で庭園に彩りはないが、パンフレットでは花が彩りを添えていた。四季折々の変化を感じさせる作りになっているようだ。
 池の手前に坐禅用の礼拝石が置かれている(前掲写真の手前日陰にある)。守護石に対座して瞑想し、気持ちを無にして精神を統一する修行のためらしい。廊下に座り、庭に向かって目を閉じ、しばし気持ちを無にする。
 北廊下から庫裡に戻り、庫裡奥の書院の廊下から庭園を眺めたあと、前庭を通り過ぎ、井伊家墓所を参拝し、庭に展示してある本堂の大瓦を眺め、仁王門で一礼して参拝を終える。
  (2024.2)

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