yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2023.1京都 智積院+六波羅蜜寺を歩く

2023年10月22日 | 旅行
日本を歩く>  2023.1 京都 智積院&等伯→六波羅蜜寺&空也を歩く


 京都国立博物館南門を出る。左、七条通の突き当たりに、県道143号線=東大路通に面して智積院の総門が構えている(写真)。智積院の名はよく聞くがまだ訪ねたことはない。参拝することにした。
 このときは長谷川等伯・久蔵の国宝「桜図屏風」「楓図屏風」が収蔵されていることは知らなかった。不勉強を痛感する。そのときどきに復習、補習しよう。
 参拝者の入口は総門の少し南にある。境内は庭園が整備されていて、松、銀杏、紅葉などが整然と並んでいる。紅葉の名所らしい。境内奥に金堂が西向きに建つ(写真)。
 智積院について学ぶ。真言宗の開祖・弘法大師空海(774-835)は816年、高野山に入り金剛峯寺などの多くの伽藍を建立する。真言宗が平安末期に衰微したとき、興教(こうぎょう)大師覚鑁(かくばん)が高野山に登り、真言宗を再興する。覚鑁上人は晩年、紀州根来寺に移り住む。
 根来寺は1585年、豊臣秀吉によって全山を焼かれる。塔頭の智積院学頭玄宥(げんゆう)僧正は学僧とともに京に逃れる。
 豊臣秀吉(1537-1598)の子・鶴松が病死、秀吉は方広寺=大仏殿の隣に菩提を弔うため1593年に祥雲寺(臨済宗)を建立する。秀吉の命で、長谷川等伯・久蔵が祥雲寺の障壁画を描く(後述)。
 徳川家康は1615年、祥雲寺を智積院に寄進する。以来、真言宗智山派総本山智積院として今日に至る。
 当初の金堂は1705年に建立されたが1882年に火災で焼失し、1975年、弘法大師生誕1200年を期して現在の金堂が完成した。本尊は大日如来である。金堂で合掌する。


 境内を少し戻ったところに名勝庭園拝観受付がある。拝観料500円を払い、講堂に上がったとたん、襖絵に目を奪われる(写真)。墨絵で現された木々の風景はただただ静かである。東京芸術大学田渕俊夫氏の作で、2008年に奉納された60点の襖絵の一つだそうだ。ジーとみていると林の先に吸い込まれていくように感じる。
 講堂を抜け、名勝庭園の大書院に向かう。大書院の続き間の障壁画に目を奪われた。右の広間に描かれているのが長谷川久蔵(1568-1610)が25歳のときに描いた「桜図」(写真)で、左の広間の障壁画は長谷川等伯(1539-1610)が55歳のときに描いた「楓図」(写真)である。
 「桜図」の桜は太い幹が床=地面から天井を突き抜け空へ向かう勢いで斜め右に伸び上がっていて、金地の障壁いっぱいに桜が花開いている。雄大な風景である。
 「楓図」も劣らず雄大で、太い幹が地面から空に向かって斜め左に伸び、金地の障壁に色づいた楓=紅葉がちりばめられている。
 安部龍太郎著「等伯」(book552参照)によれば、久蔵は狩野永徳に狩野派の技法を学んだが狩野派を離れ、狩野永徳の父・狩野松栄から手ほどきを受けた長谷川等伯は久蔵と長谷川派を立ち上げようと意気込んでいた。しかし、久蔵は絵を描き終わったあとで急死する(狩野派の仕業とされる?)。等伯は長男・久蔵の死の悲嘆に暮れながらも渾身の力を込めて楓図を完成させる。
 その「桜図」「と楓図」が続きの広間に並んでいるのである。狩野派を学び、狩野派を超えようとする長谷川派の意気込みが見る者を圧倒する。秀吉は大満足で、このあとも等伯に絵を依頼している。
 阿部著「等伯」を読んだのは京都から帰ったあとだった。「等伯」を読んでから「桜図」「楓図」を見れば、見方がかなり変わったと思う。
 ついでながら、国宝「桜図」「楓図」は宝物館に収蔵展示されていて、大書院の障壁画は精密な複製画である。実物よりも鮮やかに復元されているから、大書院の障壁画がお勧めである。惜しいことに何度か火災に遭っていて障壁画を切り取って避難させたそうで、当初は長押の上まで桜、楓が描かれていたそうだ。


 大書院の庭園は、小堀遠州(1579-1647)が築庭した祥雲寺庭園をもとに江戸時代に修築された。
 小堀遠州=小堀政一の父は豊臣秀吉の弟・秀長に仕えていて、政一は豊臣秀吉に茶の給仕をし、千利休らと親交を深めたそうだ。秀長没後、政一は秀吉に仕え、古田織部に茶を学ぶ。秀吉没後、徳川家康に仕え、駿府城普請奉行を務め、以降、小堀遠州と呼ばれる。
 小堀遠州は城郭建築、庭園を数多く手がけ、茶は「きれいさび」と称される遠州流として続いていて、華道でも流派が生まれるほどの美意識が高かったようだ。
 祥雲寺庭園は中国・廬山をかたどって造られた池泉回遊式で、智積院庭園でも自然石のみを用い苅込を主体にしていて、深山のイメージだそうだ(写真)。池泉回遊式を再現して、池には石橋が架けられている。
 利休好み名勝庭園と案内されていたが、祥雲寺が完成する前に千利休は切腹させられているから、小堀遠州が千利休の好みを意識して築庭したということだろうか。
 利休好みは棚上げにして、冬枯れした苅込の庭園を眺める。振り返って続き間の「桜図」「楓図」を眺める。「桜図」「楓図」「庭園」をぐるりと眺めていく。桜が咲き、庭園が新緑になり、紅葉が訪れ、庭園が冬枯れする。縁側にいると、障壁画と庭園で四季を感じることができる。長谷川等伯・久蔵の狙いだろうか。
 
 智積院を出て、東山七条バス停から東大路通を北に走るバスに乗る。3つめの清水道バス停で下り、松原通を5~6分下ると西福寺の角に六波羅蜜寺の案内があった。六波羅蜜寺の境内に入る(写真)。本堂は南北朝時代1363年の建立で重要文化財に指定されている。1969年に開創1000年を記念して解体修理され、朱塗りも鮮やかである。
 本堂で合掌していたら、住職が宝物館の受付は16:30まで、閉館は17:00と教えてくれた。あわてて宝物館で拝観券600円を購入する。照明を抑えた1階に木像が並ぶが目当ての像がない。2階に上がる。
 いました!、空也上人立像(写真web転載、重要文化財、宝物館は撮影禁止)、教科書でも習う空也上人(903-972)の像である。空也は市井のなかで南無阿弥陀仏を唱え、人々に念仏を唱えることで救われると説いた(「捨ててこそ空也」book547参照)。
 空也上人立像は、空也が南無阿弥陀仏と唱えると、口から阿弥陀仏が6体ふわりと現れる様子を現している。作者は運慶の4男・康勝(生没不明)で、細身の体に短い衣をまとい、草履を履いて、胸に金鼓を下げ、右手に撞木、左手に鹿の杖を持っている。市井で念仏を唱えている空也が写実的に再現されている。
 空也は、963年、十一面観音像を彫り、守護諸尊像を造立し、大般若経600巻の書写を終え、新たな道場(西光寺=現六波羅蜜寺)の落慶供養を営んだ。「捨ててこそ空也」に空也の生き様が描かれている。京都の旅に本を持参したが読んだのは帰宅後になった。予習で先に読んでおけばさらに感慨が深くなったと思う。
 それでも康勝作の空也上人像から、「市の聖」と呼ばれるまでの空也のひたむきな伝道の姿が伝わってくる。百聞は一見にしかずである。
 閉館時間が近づいているので、平安時代の地蔵菩薩立像、薬師如来坐像、多聞天立像、広目天立像、持国天立像、鎌倉時代の増長天立像、地蔵菩薩坐像、閻魔大王像、吉祥天立像、弘法大師坐像、平清盛坐像、運慶坐像、湛慶坐像(すべて重要文化財)を順に拝観する。空也が自ら彫ったとされる本尊・十一面観音立像は国宝で、通常は非公開だった。本堂で改めて合掌する。


 六波羅蜜寺を出て、鴨川沿いを北に歩き、京阪本線祇園四条駅から三条駅へ、京阪三条駅から地下鉄東西線で烏丸御池駅に向かい、少し歩いて予約しておいた京料理屋に落ち着く。京町家を改修した料理屋のようで、6畳ほどのイステーブル席は坪庭に面していた。京風の会席料理にあわせ、夢酒くみやま、玉の光しぼりたて生原酒をいただいた。
 ほろ酔いで、堀川通を北に歩き、宿に戻った。なんと歩数計は23600歩、足をよく揉みほぐし、ぐっすり休む。
 (2023.10)


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「阿修羅」斜め読み

2023年10月17日 | 斜読
斜読・日本の作家一覧>  book557 阿修羅 梓澤要 新人物文庫 2009


 梓澤要著「捨ててこそ空也」(book547参照)は、丹念に調べた資料史料をもとに空也の生き方を梓澤流に構想していて筆裁きも軽快な大作であり、歴史がよく理解できた。梓澤氏は「阿修羅」も書いている。
 奈良・興福寺で、教科書でも習う国宝「阿修羅像」を拝観した(HP「奈良を歩く」参照)。現在は興福寺国宝館に安置されているが、もともとは734年に光明皇后(光明子701-760、45代聖武天皇夫人)が母・橘三千代(665-733)の菩提を弔うために建てた西金堂の28体の仏像のうちの八部衆の一体である。
 高さは153.4cmと小柄で細身の三面六臂である(表紙写真)。新しい技法の脱活乾漆造でつくられ、赤く彩色されている。作者は不明である。


 梓澤氏は仏師・田辺嶋を仮想し、「阿修羅像」のイメージに悩むところから物語を始める。読み出して、仏師・嶋20歳がいかに苦労してイメージを実体化し、新たな技法である脱活乾漆造を会得して、阿修羅像を完成させていく話が主軸かと思った。
 ところが、表紙に「阿修羅像に面影を刻まれた少年・・」とあるように、物語は面影を刻まれた少年=橘奈良麻呂泉王子721-757)が757年に起こした橘奈良麻呂の変に至る心の葛藤、政治を私化しようとする藤原氏との対決を構想した物語だった。
 P4に38代天智天皇から46代・48代孝謙天皇(阿倍内親王718-770)に至る阿修羅関係系図が図解されている。複雑に絡んだ系図は、いかに朝廷で主導権を握るかの権謀術数をうかがわせる。
 「阿修羅」の時代範囲は45代聖武天皇(701-756)から46代孝謙天皇(718-770)であるが、梓澤氏は38代から関係図を説き起こさないと理解しにくいと考えたようだ。それほど主導権を巡る骨肉の争い、娘に天皇の世継ぎを生ませようとする策謀が渦巻いている。
 P4の阿修羅関係系図には主人公となる橘奈良麻呂(泉王子721-757)が太字で記されている。奈良麻呂の母は藤原不比等(659-720)と橘三千代の次女・多比能(生没不明)である。姉は45代聖武天皇に嫁ぐ光明子(701-760、光明皇后)である。
 奈良麻呂の父・葛城王(684-757、橘諸兄)は橘三千代と美努王の長子であり、弟・佐為(佐為の娘・古那可智はのちに聖武夫人)、妹・牟漏(のちに藤原北家の房前と結婚)がいる。
 橘三千代は42代文武天皇(683-707)の乳母だった。三千代は野心があり、政治力の弱い美努王と別れて野心家の藤原不比等(藤原鎌足の子)の妻になり、光明子、多比能姉妹を生む。
 不比等と三千代は不比等の側妾が生んだ宮子を42代文武天皇に娶らせ、三千代はその子(首皇子おびとのおうじ701-756=45代聖武天皇)の乳母となる。三千代は文武天皇、聖武天皇親子2代の乳母を努めたことになり、708年、43代元明天皇から臣下の証である橘姓を賜り、以降橘三千代として、藤原不比等とともに朝廷の陰の実力者になる。
 葛城王は三千代と美努王の子であり、多比能は三千代と不比等の子だから葛城王と多比能は同母兄妹になる。同母兄妹の結婚は禁忌だった。梓澤氏は複雑な系図、朝廷に渦巻く策謀、禁忌された兄妹夫婦に生まれた奈良麻呂から物語を構想したようだ。
 物語は、第1章 眉曇り、第2章 藤四娘、第3章 初恋、第4章 出身、第5章 大仏開眼、第6章 訣別、第7章 決起、と展開する。


 現在の奈良市から真北7~8km、木津川の東(本では平城京から半日、泉川に近い丘陵地)の山背国相楽郡井出に葛城王の別荘がある。葛城王は都に住んでいるが、多比能は泉王子と井出の別荘で暮らし、嶋の母・佐々女は奈良麻呂の乳母として多比能に仕え、佐々女の娘=嶋の妹・由布女は泉王子と乳きょうだい(のち奈良麻呂の妻になる)、嶋は幼少だったころの泉王子の遊び相手、という設定である。
 橘三千代の葬儀に多比能とともに参列した泉王子は、藤原不比等の子(泉王子の従兄弟)である藤原4家(京家、式家、北家、南家)から、兄妹が結婚して生まれた子と揶揄され、自分は忌まわしい血の子であることを強く意識し、心が乱れる。
 733年、三千代の娘であり多比能の姉で、聖武天皇に嫁いだ光明皇后は、三千代の菩提を弔うため興福寺に西金堂を建立し、西金堂に28体の仏像を安置することにする。その一体である阿修羅を任された仏師・嶋は、なかなかイメージがまとまらないので気分転換に井出に帰り、母・佐々女、妹・由布女、葛城王夫人多比能、泉王子=奈良麻呂に再会する。
 すさんだ心の泉王子に嶋は、P25「自分が正しいと思うのであれば負けると分かっていても戦わねばならない」と説く。
 嶋は、泉王子のほっそりした肢体、憂いをふくんだ繊細な面ざし、きめの細かいやわらかそうな皮膚、痛みに耐えるようにきつく眉根を寄せ、色が変わるほど強く唇を噛みしめ、憎悪の炎が噴き出すような見開いた眸、細かく震える頬が、阿修羅像に結集していく。
 物語が終わるP441で、嶋は由布女と奈良麻呂の子・清友に、阿修羅像は「悩みや苦しみから解き放たれ、ほっとしているところ」と話す。阿修羅像の見方は美術家、識者が説いているが、「阿修羅」に描かれた奈良麻呂が心の葛藤を乗り越え、真義を貫ぬこうとした生き方を思うと、阿修羅像が悩みや苦しみを乗り越え、真義を貫くようにと諭しているように感じる。


 734年、西金堂落慶供養の日に橘三千代一周忌法要が行われ、母多比能と泉王子が参列する。藤原4家の従兄弟たちは藤原仲麻呂が聖武天皇、光明皇后の娘・阿倍内親王(のちの46代・48代孝謙天皇)と懇ろな仲などと噂し、泉王子を見るとまたも揶揄の目を向ける。父・葛城王の本邸に戻った泉王子は自分の忌まわしい血に荒れ狂う。
 ついに母・多比能が辛い目に遭った過去を泉王子に打ち明ける。多比能14歳の718年、姉・光明子18歳は首皇子(のちの45代聖武天皇)の子を生むが女の子だった(=阿倍内親王)。不比等、三千代は妹も首皇子に娶らせ、姉妹のどちらかが次の皇太子を生めば朝廷を掌握できると考え、多比能を入内させることにする。
 多比能は、首皇子の乳母を務めた母・三千代に似てたおやかである。姉・光明子は首皇子が自分よりも多比能を寵愛すると確信し、多比能に先を越されて男の子が生まれるのを恐れ、多比能を自分の部屋に呼び出し、葡萄酒を飲ませて酔わせ、胡国から来た男に犯させる。やがて多比能の妊娠が発覚する。入内の思惑が失敗した母・三千代(不比等は急死)は多比能を遠ざけ、侍女たちは多比能を好奇の目で見る。
 姉に騙され知らない男に妊娠させられた憎悪を胸に秘めて耐えている多比能を、異父兄で妻を亡くした葛城王が多比能に妻として迎えたいと説得し、多比能は葛城王の井出の別荘で泉王子を生んだ、と泉王子に話す・・梓澤氏のフィクションとはいえ、骨肉の争いが常態化していたようだからありそうな話だが、姉が妹を貶めるとはすさまじい世界である・・。


 724年、首皇子24歳が45代聖武天皇として即位する。政治の実権は反藤原家の左大臣・長屋王(43代元正天皇の妹の夫で、40代天武天皇の長男・高市皇子の子)に委ねられる。
 光明子に待望の男児が生まれるが、1年を待たず夭折する。その間に聖武夫人・広刀自に安積親王が生まれる(のちに井上内親王、不破内親王も生まれる)。男児のいない光明子の立場は弱い。光明子は長屋王を排除するための策謀を巡らせて長屋王一家を滅ぼし、729年、皇后の座に就く。
 735年、15歳になった泉王子は元服し、王族の子弟として教育を受けるため平城京にある葛城王の本邸に移る。井出を旅立つとき多比能は泉王子に、「姉・光明皇后を甘く見てはいけない、藤原家の恐ろしさを侮ってはいけない」ときつく言う。
泉王子は朱雀門の前にある大学寮で、葛城王の勧めもあって遣唐使として17年留学していた下道真備のもとで学ぶ。
 同年、葛城王は、妹・牟漏女王の働きかけで、母・三千代が賜った臣下の証である橘姓の継承を認められ、葛城王は橘諸兄、弟の佐為王は橘佐為、泉王子は橘奈良麻呂となる・・この時点では、光明皇后+藤原家が朝廷の実権を握っていた・・。


 天平8年736年から天然痘が猛威を振るう。737年には朝廷にも蔓延し、上級官人93人のうち36人が命を落とす。藤原4家のそれぞれの頭領も逝く。藤原の後ろ盾をなくした光明皇后は態度を一変し、橘諸兄に太政官を務めるよう勧め、諸兄は大納言を任じられる・・諸兄は、藤原4家の跡取りが実力をつけるまでのあいだ反藤原を抑えるための光明皇后の策略と分かっていても、佐為の娘で聖武夫人となった古那可智、息子奈良麻呂の後ろ盾にならねばならなければならないと考え、大納言を引き受ける・・。
 天然痘の猛威が治まり、朝廷も落ち着いた738年、突然、光明皇后は娘・阿倍内親王21歳の立太子を発表する・・光明皇后は、聖武夫人広刀自の長男・安積親王10歳が元服すれば次期後継者になりかねないと考え、先手をとろうとした。前述したが阿部内親王と懇ろなのが藤原南家の仲麻呂である。物語の構図が次第に見えてくる・・。
 同時に、諸兄は右大臣になる・・光明皇后の口止めか?・・。奈良麻呂18歳は大原真人明娘と結婚し、翌年、安麻呂が生まれる。


 聖武天皇は38歳と若いのに心労で疲れていたので、橘諸兄右大臣は気晴らしを勧め、井出に離れ殿を新築して聖武天皇を迎える。離れ殿建設や出迎えの陣頭指揮は奈良麻呂がとる。諸兄のきめ細やかな気配り、眼下ののびやかな田園風景に天皇は大いにくつろぐ。天皇は、奈良麻呂の労に報いて異例の叙勲をする。
 740年、太宰府の任に就かされていた藤原式家の広嗣が挙兵する。最終的には朝廷軍が反乱軍を取り押さえ、広嗣ら首謀者26名死罪、流罪47名など209名が断罪された。
 大友家持との交流が挿入される。奈良麻呂と気があったようだ。
 聖武天皇は藤原広嗣の反乱で神経過敏になり、ついには平城京を逃げだし、伊勢、鈴鹿、桑名、美濃、あてのない彷徨を始める・・奈良麻呂、諸兄は、聖武天皇が藤原4家の頭領が天然痘で命を落とし、広嗣が反乱したのは長屋王一族を断罪した怨念と信じ、藤原主導の平城京には長屋王の怨念が籠もっていると思い込みおびえている、と推測して天皇に遷都を奏上する。
 741年、山背国恭仁郷に新都恭仁京の建設が進む。奈良麻呂は大学頭に任じられる。一方、仲麻呂は民部郷に任じられる・・光明皇后は甥である仲麻呂と手を組もうと考えたようだ・・。
 井出で多比能に仕える佐々女の娘で奈良麻呂のちち兄姉である由布女が、奈良麻呂の子・麻呂を生む(のち、2人生まれる)。


 742年、聖武天皇は恭仁京の東北5里の紫香楽里(現在の滋賀県甲賀市)に離宮を新築し、甲賀寺に盧舎那大仏の造顕しようとする・・皇后と仲麻呂が天皇を橘親子が建都を進める恭仁京から引き離そうと紫香楽離宮、盧舎那仏造顕を勧めたようだ・・。
 紫香楽宮、盧舎那仏ともに巨額の費用が必要で人々の負担になるにもかかわらず、743年、紫香楽宮で聖武天皇は「天下の富は朕、天下の権勢は朕」と盧舎那仏造顕の勅を発し、代わって恭仁京の建設を中止する。
 奈良麻呂は藤原八束邸の宴で聖武夫人広刀自の子・安積親王16歳と会う。藤原家と一線を画す安積親王は新都恭仁京の建設を父・聖武天皇に進言すると言ったが、744年、自宅で突然死する・・仲麻呂による毒殺と噂される・・。
 745年、紫香楽宮が新京となる(恭仁京建設の橘諸兄が反恭仁京の藤原仲麻呂に負けたとの見方が広まる)。紫香楽郷で火災が頻発する(仲麻呂の仕業との噂される)。地震が起きる。聖武天皇は、6年に及ぶ彷徨を終えて平城京に戻る。甲賀寺大仏は金鍾寺(のちの東大寺)に移転となる。
 752年 東大寺(金鍾寺)盧舎那仏開眼供養会が開かれる。大仏殿も一部を残しながら完成する。
 元正上皇が崩御、行基大僧正80歳が遷化、2年続きの旱魃が続き、大仏の黄金不足が表面化する。聖武天皇の気力が萎えたところに、陸奥で黄金発見の知らせが届く。喜んだ聖武天皇は阿部内親王を46代孝謙天皇とし、自らは出家して上皇になる。
 太政官12名の新体制が発足する。橘諸兄は左大臣、仲麻呂は大納言、奈良麻呂は参議になる・・光明皇后、仲麻呂が孝謙天皇の背後で政を仕切る体制が整ったともいえる・・。


 754年に鑑真を乗せた遣唐使が戻る話が挿入される。
 同754年、陸奥の黄金は宇佐八幡宮八幡大神の神意との神託が伝えられ、祢宜尼大神杜女が盧舎那仏に参拝する。宇佐は古来より銅の産地で、八幡大神は鍛冶の神である。この神託を聖武上皇は信じる・・八幡大神の神託も仲麻呂によるでっち上げのようだ・・。


 756年、聖武上皇56歳の生涯を閉じる。遺言で40代天武天皇の子である新田部親王の子・道祖王(ふなどのおおきみ)を皇太子にするよう言い渡す。同年、橘諸兄に濡れ衣の嫌疑がかけられ、疑いは晴れたが諸兄は辞職し、翌757年、諸兄74歳が息を引き取る。
 同年、孝謙天皇は、遺言通り道祖王を皇太子としたが不行き届きがあり廃位とし、40代天武天皇の2男・舎人親王の子である大炊王(おおいおう)を47代淳仁天皇とする考えを朝議に諮り、決定する・・橘諸兄が没したので邪魔立てがいなくなり、政治は光明皇太后、孝謙天皇、藤原仲麻呂の思い通りの筋書きで展開していく・・。
 藤原仲麻呂の政治を私化した進め方に反発する貴族、有力者も少なくない。橘奈良麻呂は彼らと仲麻呂排除を話しあうが、挙兵寸前で密告されてしまう。
 「阿修羅」では謀反発覚後、多比能が姉である光明皇太后邸に乗り込んで償いを求め、その結果、孝謙天皇、光明皇太后から穏やかな解決を言い渡された。しかし、仲麻呂は追及の手を緩めず、奈良麻呂ら首謀者を捕らえ、奈良麻呂は過酷な拷問で命を落とす。
 「阿修羅」では、前述したように仏師・田辺嶋が妹であり奈良麻呂の妻である由布女と奈良麻呂の子・清友に、奈良麻呂のイメージで彫った阿修羅像は「悩みや苦しみから解き放たれ、ほっとしているところ」と話し、幕が下りる。


 歴史では、橘奈良麻呂の乱で仲麻呂は政敵を一掃し、右大臣、続いて太政大臣に上りつめるが、孝謙上皇の寵愛が弓削道鏡に移ってしまい、764年、藤原仲麻呂が乱を起こして一族は滅んでしまう。まさに栄枯盛衰である。
 梓澤流見立てのフィクションだが、光明子=光明皇后、藤原仲麻呂が暗躍した時代の歴史を復習できた。
 過去の栄枯盛衰の歴史を知っていても、その後も栄枯盛衰は繰り返されている。権力を握った人、あるいは権力を握ろうとする人は歴史が見えなくなるようだ。
  (2023.10)
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2023.9 ベートーヴェン・ブラームスを聴く

2023年10月04日 | よしなしごと
2023.9 ベートーヴェン・ピアノ協奏曲第5番皇帝&ブラームス・交響曲第1番を聴く


 日本フィルハーモニー交響楽団は、大宮のソニックシティ大ホールで定期的に演奏会を開いている。コロナ渦でご無沙汰していたが、ウェブサイトで小林研一郎指揮のさいたま定期演奏会を見つけ、2階最後列の席を予約して出かけた。


1曲目 ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番皇帝変ホ長調op.73
 ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートヴェン(1770-1827)は現在のドイツ・ボン生まれ、1800年ごろはウィーンに住み、難聴を発症していたにもかかわらず、交響曲1番、2番、3番、4番、5番やピアノ協奏曲などを次々と作曲していた。1809年、ナポレオンがウィーンに侵攻する。この年にピアノ協奏曲第5番皇帝を作曲するが、ナポレオン支配下だったため翌1810年にロンドンで出版、翌1811年ドイツで出版され、同年にライプツィヒで公開初演されたそうだ。
 皇帝の名は、同時代の作曲家・ピアニストのJ.B.クラマーが曲の印象から皇帝にふさわしいとして名づけたそうだ。
 第1楽章 allegroは、はなやかで輝き
 第2楽章 adagio um poco mossoは、静かで穏やか
 第3楽章 rondo allegroは、力強く優美な雰囲気 といわれる。
 指揮は日本フィル桂冠名誉指揮者の小林研一郎で、ピアノは現在桐朋学園大教授の仲道郁代が素晴らしい演奏を響かせてくれた。
 炎のコバケンと愛称される小林研一郎のまさに炎のような身振りの指揮に応え、仲道郁代が情熱を注ぎ込んでピアノ奏でてくれて、およそ40分の演奏に包まれた。


休憩後の2曲目 ブラームス 交響曲第1番ハ短調op.68
 ヨハネス・ブラームス(1833-1897)はハンブルク生まれで、20歳のときにロベルト・アレクサンダー・シューマン(1810-1856)に認められ、徐々に作曲家として知名度を上げ、30歳直前に先進音楽家が活躍したウィーンに本拠を移す。ベートーヴェンを敬愛するあまり交響曲の作曲に慎重だったらしい。
 交響曲のスケッチは20歳のころから始めていて、33歳のころには亡き恩人シューマンの夫人クララに第1楽章の原型をピアノで聞かせたと伝えられていてる。そして、1876年、ブラームス43歳のときに交響曲第1番を完成させ、初演された。
 第1楽章 un poco sostenuto-allegroは、ティンパニの連打の重々しい雰囲気からオーボエの柔らかな哀愁の雰囲気へ移る。オーボエとクラリネットの掛け合いが聴き応えがあった。
 第2楽章 andante sostenutoは、ロマンティックな雰囲気に包まれる。
 第3楽章 un poco allegretto e graziosoは、牧歌的な雰囲気に木管楽器の柔らかな音色が響く。
 第4楽章 adagio -allegro non trippo, ma con brioは、重々しい雰囲気から、ベートーヴェンの歓喜の歌を思わせる賛美歌風の旋律で高揚させられる。
 音楽素人だから、ベートーヴェンを彷彿させるとか、シューマンの幻想的な表現とか、ブラームスの独自な演奏技法とかは解説を読んでも分からないが、45分間、コバケンの炎の指揮棒に応えて日本フィルのメンバーが奏でる演奏に包まれた。
 ときには本格的なコンサートに身震いするのもいいね。
 (2023.10)

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2023.1京都 国家安康の鐘&京都国立博物館

2023年10月02日 | 旅行
日本を歩く>  2023.1 京都 方広寺+豊国神社+国家安康の鐘+京都国立博物館を歩く


 伏見稲荷大社参拝後、京阪本線伏見稲荷駅から七条駅に向かう。七条駅から県道113号線=七条通を東に上る。右向こうに三十三間堂、左向こうに京都国立博物館を見ながら、大和大路通を北に曲がった先に方広寺、豊国神社がある。目指しているのは徳川家康が豊臣家滅亡の口実にした国家安康と刻まれた鐘である。
 豊臣秀吉(1537-1598)健在のころ、秀吉は東大寺大仏(高さ14.7m)を上回る盧舎那仏を発願し、1595年、現在の方広寺に高さ約19mの木製漆塗金張坐像の大仏が完成した。大仏殿は南北88m、東西55mと推定され、1603年に完成する。現在の大和大路通には大きな石垣が築かれているが、これが当時の大仏殿=方広寺の石垣の名残である。
 当時は方広寺ではなく大仏殿と呼ばれたようだ。1596年の慶長伏見地震で大仏は損壊、1603年に大仏殿が焼失、1612年に2代目大仏2代目大仏殿が完成するが、1662年の寛文近江・若狭地震で2代目大仏が損壊、1667年に3代目大仏が完成するも、1798年の落雷で3代目大仏、2代目大仏殿が焼失、1843年に4代目大仏3代目大仏殿が完成する。
 明治維新後の廃仏毀釈で方広寺の大部分が収公され、現在の規模になった。石材なども転用された。後述の国家安康の梵鐘は残されたが、鐘楼は解体された。
 1973年、失火で4代目大仏、3代目大仏殿ともに焼失し、現在は基壇などの痕跡を残すだけになった。


 1598年に没した豊臣秀吉は、翌1599年に大仏殿=方広寺の東の阿弥陀ヶ峰に埋葬され、麓に廟所=豊国神社が建立された。1615年の豊臣氏の滅亡後、徳川家康の意向で豊国神社は廃絶される。
 1868年、明治天皇は豊国神社再興を布告、1880年に方広寺大仏殿跡地に社殿が建設された。これが現在の豊国神社である。
 もと二条城の唐門で南禅寺塔頭金地院に移されていた唐門が豊国神社に移築された(写真、国宝)。大きな唐破風が特徴の唐門は桧皮葺入母屋屋根で、金細工を施し、浮き彫りの彫刻が施されている。もと二条城の唐門は伏見城の唐門だったとの説もある。絢爛豪華さは秀吉好みということであろう。
 方広寺と豊国神社のあいだに鐘楼が建つ。1614年、豊臣秀頼は秀吉の追善供養のため、大仏殿=方広寺に鐘をつくる。鐘上部の銘文に「国家安康」「君臣豊楽」が刻まれていたことから、家康の文字を二分して呪詛し、豊臣を君主として楽しむという底意がうかがえると家康が激怒し、豊臣家滅亡の火種となったいわく付きの鐘である。
 高さ4.2m、外径2.8mの鐘は豊臣家滅亡後、そのまま放置された。徳川時代は触らぬ神に祟りなしということだったのであろう。
 明治時代、豊国神社再興に続き、1884年、鐘楼が建て直され、鐘が吊り下げられた(写真)。天井は、もと伏見城の女性用化粧室の天井画だそうだ。それまでの所在は説明されていなかったが、絢爛さはうかがえる。
 唐門で豊国神社に一礼し、石鳥居をくぐり、石段を下り、大仏殿の名残を伝える石垣を見ながら、大和大路通を南に戻る。


 左に京都国立博物館が建つ。もともとは方広寺境内だった敷地で、1895年、片山東熊(1854-1917)の設計で帝国京博物館が建てられ、1897年に開館した。片山東熊は工部大学校造家学の1期生で、辰野金吾らとともにジョサイア・コンドルに学び、卒業後、宮内省で多くの作品を手がけた宮廷建築家である。
 帝国京都博物館(現在は明治古都館と名づけられている)は、片山東熊得意のネオルネサンス様式でデザインされた(写真、重要文化財)。当初は3階建てが計画されたが1891年の濃尾地震で煉瓦造の被害が大きかったため、煉瓦造平屋建てに変更されたそうだ。
 表門は大和大路通に面していて(前掲写真)、円形噴水、ロダン(1840-1917)作「考える人」(写真)の先に堂々+華麗な正面玄関が見える。
 表門からは判然としないが、正面上部のペディメントには仙人?仙女?が浮き彫りされている(写真)。片山東熊は旧東宮御所=現迎賓館赤坂離宮や東京国立博物館表慶館でもユニークな浮き彫りをデザインしていて、重々しい建物ながら軽快感を演出している。

 表門は使用されておらず、七条通の南門が出入口になる。南門は後述の谷口吉生の設計で、ミュージアムショップ+カフェが併設されている(次頁写真)。カフェは前田珈琲の経営で、ここで京都国立博物館+庭園を眺めながらランチを食べた。
 ランチ後入館した。一般700円だが70歳以上は東京国立博物館と同様、無料である。旧帝国京都国立博物館本館=明治古都館は免震改修などの計画中で閉館されていて、代わって2013年完成、2014年開館の平成知新館(写真)で展示が行われていた。
 平成知新館は谷口吉生(1937-)の設計で、明治古都館-表門の軸線に平行して、庭園の北側に建つ。前面に水面を配置した横長の簡潔なデザインで、東京国立博物館法隆寺宝物館に共通する谷口吉生らしさを感じる。 
 平成知新館エントランスの床や館内ホールに、方広寺の南之門跡、回廊跡の柱の根石の位置が示されている。方広寺=大仏殿がいかに広大だったかがうかがえる。
 平成知新館は地上3階、地下1階(講堂)で、3階に古代の出土品、陶磁器、2階に絵巻、仏画、中世・近世・中国の絵画、1階に彫刻、書跡、染色・金工・漆工の工芸品が展示されていた。1階奥の特別展示室は新春特集「卯づくし」の展示で、兎の登場する工芸品が並べられていた。季節感のある特集展示は分かりやすい。
 庭園に面したロビーで一休みしながら、狩野松栄の次男=狩野永徳の弟である狩野宗秀が描いたとされる「韃靼人狩猟・打毬図屏風」の高細密複製画を眺める(写真)。
 狩野派らしい金箔を大胆に用いた動きのある表現である。高細密複製画の活用を広げ、国宝、重文の屏風絵、壁画、天井画が身近に鑑賞できるのを期待したい。 
 (2023.10)

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