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内モンゴルの省都フホホトは漢化され王昭君時代の草原は消えて、住民は暖房寝台カンで寒さをしのぐ

2017年03月06日 | 旅行

1995 内モンゴルのカン /1996
 内モンゴル自治区の中心都市フホホトは呼和浩特の漢字をあてるが、モンゴル語の意味は「青い城」である。
 モンゴルの遊牧民が、砂利混じりの短い草しかはえていないゴビを越えてここに来たとき、一面に広がる青々とした草原を見入って名付けたのではないだろうか。地名は、そこに住む民の思い入れを表すことが少なくない。
 モンゴルの遊牧民にとって草は貴重な資源であり、この草原で五畜に思う存分草を食べさせることができる、そう思った瞬間、「青い城」がひらめいたのかも知れない。

 ところが私たちが見たフホホトには草原がない。草がなければ当然、遊牧風景も見られない。「青い城」には整然とした道路が走り、大きなビルが建ち並んでいて、自転車が走り回っていた。中国のどこにでもある町並みがそこにあった。かなりの失望感である。
 アジアを馬だけで走り抜けヨーロッパに至る大帝国を築いたモンゴルは、話だけでも子どもの冒険心をわくわくさせる。それなのに彼らが青い城と名付けて感激したフホホトには、
 草原も遊牧民もいないのだから、失望するのもうなずけよう。言い換えれば、それだけ漢民族の文化が定着したことを意味する。それはまた、農耕の定着と一致する。
 漢民族は農耕を背景にした備蓄食糧を基盤に北へ、西へ、南へと勢力を広げていった。あわせて田や畑が開拓されていった。
 土を掘り起こし、種を蒔き、雑草を抜き、収穫を得ていくのである。備蓄食糧があれば冷害や飢饉をのりこえることができるから、寒い内モンゴルでは必至になって農耕地の開拓を進めようとしたはずだ。
 開拓にとって草原は雑草にしか見えず、農耕の目の敵になった。しかし、遊牧民からみれば、この草が五畜の貴重な餌に他ならず、五畜がいなければ遊牧民は生きていけないことになる。農耕民と遊牧民のし烈な土地争いが始まった。

 農耕民と遊牧民の和睦友好のため、漢・元帝の妃の一人、王昭君が匈奴に嫁いだ悲劇は農耕と遊牧の対立を象徴する。その墳墓がフホホトの郊外にあり、登ってみると見渡す限り畑であった(1995年にはそのような碑が立っていたが、王昭君の墳墓は不明との説もある)。
 畑地を寒い北風から守るためか、樹林が青々と繁っていて視界が止まる。ここの風景に関しては完全に農耕社会が圧倒している。王昭君の嫁入りが実を結んだともいえるが、このままでは遊牧のふるさとが消えてしまおう。農耕と遊牧が共存する社会が模索されてもいいように思うが。

 寒さの厳しい地方に進出すれば、漢民族も応じた住み方の工夫が必要になる。その答がカンと呼ばれる暖房寝台である。原理は韓国のオンドルに似ているが、オンドルが部屋全体の床を暖めるのに対して、カンは部屋の一隅に煉瓦と土を用いて寝台を作り、その中に煙を通して採暖する。
 一説には、遊牧民がテント内で煮炊き、あるいは暖房や明かりのため地面で火をおこし、その熱が地面に蓄熱されることを応用して、寝るところだけを暖めるカン、部屋の床全体を暖めるオンドルに発展したそうだ。廃熱を利用する原理は共通するし、何より先人の知恵に頭が下がる。
 フホホトで訪ねた馬さんのお宅を紹介しよう。煉瓦造、切り妻瓦葺き、平屋建ての長屋が東西方向に数列並び、回りを煉瓦塀で囲んでいて、中国各地の町屋に共通する。
 入り口はやはり南側にあり、その両わきに一部屋ずつ居室がある。西側の居室が寝室になっている。
 ここの寝台が煉瓦と土でつくられたカンで、寝台内部には煙道が設けられ、かまどの廃熱を通し蓄熱する仕組みである(写真)。寝室の奥に炊事室があり、壁の向こうにかまどが据えられている。
 かまどの煙道は切り替え式で、暑いときは炊事の煙を屋外に直接排気することができる。
 馬さんいわく、快適だそうだ。断熱性の高い煉瓦で部屋を包み、熱容量の大きい土でカンを暖める、定住農耕民の知恵がすっかり根付いている、そう感じた。
 地球環境が絶望的な危機に陥っているときに、こうした先人の知恵を使う生き方を謙虚に受けとめなくてはいけない、と思う。

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