yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2024.8マイカーを廃車する

2024年08月19日 | よしなしごと

2024.8 マイカーを廃車する

 50年以上車を乗り回してきたが廃車することにした。記憶を紡ぎながら車遍歴を整理した。50年の記憶だから不正確なところもある。

コルト
 自動車免許を取ったのは26・7のころ、子どもが生まれたら車が必要だろうと仕事を終えてから自動車教習所に通い、筆記試験合格、実地試験も数時間の追加教習で合格、埼玉県鴻巣市にある運転免許センターまで出かけ最終試験に合格し、後日、運転免許証を受け取った。
 運転免許証にあわせ、O君が車検1年付きの格安の車を探してくれた。O君いわく、免許取り立ては事故りやすいので見栄えよりも頑丈さで探したそうだ。最初の車が三菱コルト1000cc?である。
 通勤で利用して走り方に慣れたころ、当時はシートベルトもチャイルドシートも、もちろんクーラーもナビも付いていないが、かみさんと赤ん坊を後ろのシートに乗せ、地図をにらみながら慣れない道路を走り、子どもを父母に見せに行ったりした。

ブルーバードSSS 
 コルトの車検が切れる少し前、O君が車検2年付きのブルーバードSSSを探してくれた。当時人気の車で、数千キロも走っている中古たが、エンジンの吹き上がりがいい。カーブでも安定している。毎日通勤で利用し、地図をにらみながら遠出もよくした。東名高速道路で名古屋や大阪まで何度か出かけた。
 中古のせいか電気系統が弱く、大雨のなかをしぶきを上げながら走っていたらエンストしてしまった。道路で立ち往生しながら雨がおさまるのを待ち、念のためエンジンをかけたらかかったのでその場は何とか切り抜けた。近所のガソリンスタンドの店員に相談し、絶縁スプレー?をかけてもらった。
 その後は、大雨の日は水しぶきを上げないように静かな運転にしたせいか、エンストは起きなかった。

コルト・ギャラン・ラムダ
 前述のスタンドの店員がブルーバードSSSの車検が近づいてきたとき、コルト・ギャラン・ラムダ・クーペタイプ2000ccの出物があると教えてくれた。同じガソリンスタンドで給油している人がギャランラムダを購入したが、何かの事情で手放すことにしたらしい。試し乗りしたところ身体にフィットし、吹き上がりもいいし、カーブでも安定していて気に入った。
 通勤に使い、遠出に使い、出張に使い、あちらこちらのドライブを楽しんだ。車検を2度取ったように記憶しているから5~6年ほど乗ったと思う。
 気に入っていたが、ある日、家を出て前述のガソリンスタンドを過ぎ、上りの左カーブにさしかかる寸前、下りのカーブを走る対向車がたぶんスピードを出しすぎてカーブを曲がりきれず、私の車めがけて飛び込んできた。
 急ブレーキをかけたが左は斜面で逃げる余地が無く、ストロボ撮影の画像を見るようにして相手の車と側面衝突し、私の車は180度回転しながら反対車線に飛ばされる事故になった。シートベルトは義務化されていないころでシートベルトをしていなかったが、全力でハンドルを握り、足は思いきっりブレーキを踏んで身体を支えたので、強い衝撃を感じたがけがはなかった。
 フロント右側はぐしゃりと変形し、右前輪のタイヤはパンクし、アルミホイールは割れていた。
 相手の車の車検証と運転免許証を預かり、ガソリンスタンドに救援を求めた。警察の事故調査が一段落したところで、救急車に乗り病院に検査を受け、首、腰の手当を受け、この日は欠勤し、自宅に戻って静養した。
 事故車は車検などで世話になっている整備工場に運んでもらった。整備工場の話では、修理は中古車が1台買えるほどの値段になるらしい。事故の記憶が残っている車は避けたかったので、整備工場の勧めるままコルト・ギャラン1500cc?に乗ることにした。

セドリック
 住まいの近くに日産の整備工場があり、ときどき話を交わしていた近所のMさんはその整備工場の工場長?次長?で、コルト・ギャランに乗り換えることになった事故の話をしたら、しばらくして私にお似合いですと言ってセドリック2000ccを勧めてくれた。
 自動車メーカーは毎年のように車をマイナーチェンジするようで、上級職の人が試し乗りしたり、販売店で試乗車に使われた新車が、新古車と販売されるらしい。走行距離は千キロにもならず、仕様内装などはマイナーチェンジされた新車とほとんど変わらないそうだ。
 セドリックに試し乗りをしたところ乗り心地はとてもいい。内装も装備も至れり尽くせりだった。かなり値が張ることと、ガソリンはハイオク仕様で燃費もさほどよくないのが欠点だが、Mさんに年相応のデザインとおだてられ、コルト・ギャランを下取りしてもらって、セドリックに乗り換えた。
 Mさんは通るたびに車をチェックしてくれていて、1年点検や車検をあらかじめ教えてくれ、バッテリーやタイヤも時期相応に交換してくれた。お陰で車のトラブルも無く、通勤に出張に遠出に、ずいぶんと走り回った。

プジョー
 60が近づき、定年退職を見据えてもとの住まいから20分ほどのマンションに転居した。ほどなく、人間ドック、健康診断では問題は指摘されていないがいつも車を利用していたので腹回りが気になり、健康増進のため通勤は電車+自転車に切り替えた。
 セドリックは車で遠出するとき以外は、もっぱらかみさんが利用した。セドリックの車検が近づいたので燃費のいい小型車に変えようかと考えていたら、貿易を手がけているSさんがプジョー1600ccを探してくれた。
 フランスを旅したときにプジョーをよく目にした。石畳の古都に似合うデザインの小型車である。
 試し乗りをしたところ、身体がフィットし、足回りもいい。燃費もいい。国産小型車用に用意していた金額で購入できるので、プジョーに乗ることにした。日常はかみさんが利用し、私は電車+自転車通勤なので、遠出のときにプジョーの快適な乗り心地を楽しんだ。
 定年退職し、コロナ渦になり、公共交通機関を避け人出の少ない高原、温泉に出かける機会が増え、プジョーに乗ってあちらこちらに出かけた。セドリックでは走れそうもない山の細道でも小回りがきき、登りも強い。
 そのプジョーも何回目かの車検が近づいた。エアコン用のホースが劣化してクーラー用のガスを補充していたときエンジンの不具合も見つかった。
 2年ごとの車検、バッテリーやタイヤ交換、自動車税、自動車保険、駐車場料金などを勘案するとけっこうな出費になる。
 私は日常的に乗らないし、かみさんも無ければ無いで何とかなると言う。遠出も公共交通機関を使い、必要に応じてレンタカーを利用すれば支障なさそうである。

 思い切って廃車することにした。車を生活の足に使ってきたので、車遍歴を思い起こすとさまざまな記憶が蘇る。記憶を思い起こしながら車に感謝して、一杯傾けた。  (2024.8)

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2024.8上野deクラシック三井静+伊豆栄

2024年08月18日 | よしなしごと

2024.8 上野deクラシック97 三井静・チェロ+伊豆栄

 東京文化会館小ホールで「上野deクラシック97 三井静」を聴いた(写真、東京文化会館北側正面)。三井静がチェロを弾き、秋元孝介がピアノを奏で、およそ1時間、名演奏に浸った。
 三井静氏は神奈川県横浜の出身で、桐朋学園大学ソリストディプロマコースを経て、ザルツブルク・モツァルテウム大学で学び、その後、第15回東京音楽コンクール弦楽部門第2位を始め国内外のコンクールで入賞し、現在はミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団チェロ奏者として活動し、ソリスト、室内楽奏者としても活躍しているそうだ。
 ・・2019年9月のオーストリアの旅でザルツブルクを歩き、モーツァルトの家を見学した。モツァルテウム大学はモーツァルト夫人が設立に関わったそうだが、三井静はザルツブルクではなくミュンヘンを拠点に活動しているようだ・・。
 ピアノ奏者の秋元孝介氏はミュンヘン国際音楽コンクールピアノ三重奏部門で優勝し、現在はミュンヘン音楽演劇大学大学院で研鑽している。

 三井静氏はミュンヘンで演奏活動をしているので、ドイツの風を感じて欲しいと、ベートヴェン(1770-1827)とシューマン(1810-1856)の作品を選んだそうだ。ベートヴェンもシューマンも教科書で習うし、演奏会でもよく演奏される。三井氏は秋元氏のピアノで次の3曲を演奏してくれた。

ベートーヴェン モーツアルト「魔笛」より「恋を知る男たちは」の主題による7つの変奏曲 へ園ホ長調 Wo046
シューマン 幻想小曲集 Op.73
  1. Zart und mit Ausdruck
  2. Lebhaft, licht
  3. Rasch und mit Feuer
ベートーヴェン チェロ・ソナタ第3番 イ長調 Op.69
 1. Allegro, ma non tanto
  2. Scherzo. Allegro molto
  3. Adagio cantabile-Allegro vivace
である。
 ドイツにも何度か旅をしたがドイツの風を意識することがなかったので、三井氏のいうドイツの風は分からなかったが、1時間の演奏を楽しんだ。

 演奏が終了するころが昼時である。良い演奏を聴いたあとはふさわしい食事が良い。上野東照宮の南隣に何度か利用した伊豆栄・梅川亭がある。幕末~維新を時代にした小説に登場する伊豆栄は不忍池の南端に位置するが、旨さは変わらないであろう。梅川亭3階席から上野東照宮五重塔を眺め、土曜丑の日に一日違いの鰻をいただいた。聴覚、視覚、味覚、嗅覚を刺激し、免疫力も高まった。 (2024.8)

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「峠しぐれ」斜め読み2/2

2024年08月14日 | 斜読

book568 峠しぐれ 葉室麟 双葉社 2014

5話
 雪姫一行を見送ったあと、吉兵衛は半平・志乃が留守のあいだ、結城藩勘定奉行・佐川大膳が6人の家来を連れて半平・志乃を成敗にに来たと話し、志乃が15年前の出来事を回想するのが5つめの話になる。
 志乃は結城藩馬廻り役150石の家に生まれ、評判の美人になり、17歳のとき家老の息子・天野宮内に見初められて嫁ぎ、1年後に娘・千春が生まれる。夫の用事で出かけた帰りに雷雨にあい、阿弥陀堂で雨宿りしていると、24・5歳の武士=結城藩勘定方佐川大蔵の家士・伊那半平が阿弥陀堂に駆け込んでくる。2人は阿弥陀堂から、杉林の先で天野宮内率いる5~6人の武士が1人の武士=勘定方組頭・小野忠之進を派閥争いで斬り殺すのを目撃してしまう・・夫のいる志乃が武士と同じ阿弥陀堂にいることは斬首に値するの時代であるうえ、夫による斬殺を見てしまったのだから、志乃は気持ちが押し潰されるように感じたのではないだろうか・・。

 3ヶ月後、天野宮内宛に、志乃と小野忠之進が不義密通を働いたので小野を殺したとの書状が届く。宮内は志乃に、志乃が阿弥陀堂にいたのを見た佐川大蔵が宮内を陥れるために仕掛けているようだと話し、病気療養ということで千春を置いて1人で天野家の親戚である宮下村の三右衛門のところへ行くよう告げる。
 志乃が泣きじゃくる千春を置いて三右衛門宅に身を寄せるが、何ヶ月経っても宮内からの連絡がない。そのあいだにも天野宮内の仲間が斬られた。
 志乃はある晩、千春に会おうと密かに屋敷を出るが、村外れで佐川大蔵派の武士に囲まれる。半平もその1人だったが、志乃を助けるため佐川派の武士を峰打ちにし、2人は天野宮内の屋敷に向かう。宮内に問い詰められた伊那半平は阿弥陀堂での一件を話す。宮内は思案の末、志乃に宮下村へ戻れと厳命する。

 志乃と半平が宮下村に近づいたとき、宮内派の林田鉄馬たちが宮内の命で志乃を斬ろうとする。死を覚悟した志乃に半平は娘に会うためにも生きなければならないと言い、鉄馬たちを斬り倒して2人は弁天峠を越え逃げた。志乃は、その後の風の噂で、宮内は派閥争いに勝ち筆頭家老に上りつめたことを知る。
 ・・主導権を握るために同じ藩でも対立する者を斬り、秘密を闇に葬るために自分の妻をも殺そうとする。4話でも跡継ぎ争いで若君を殺そうとした。葉室氏はどろどろした人間の性を淡々と描いていく・・。  

6話

 春のある日、金井長五郎が茶店に来て、結城藩では中老・岩見辰右衛門、勘定奉行・佐川大蔵が主導権を握り、天野宮内は閉門蟄居になったこと、結城藩城下で夜狐一味が大店を3軒襲い2000両を盗んだことを知らせる。その晩、裏口に男装したゆりと17・8の武家の娘が現れる。志乃は一目で娘・千春と分かり、2人は抱き合う。
 千春によれば、父・天野宮内は出世のため自分を見失っていたが、家老になりひとの心を慮る大切さに気づいた、いまは志乃と半平の心も分かり2人のなかを許したい、岡野藩家老・酒井兵部の次男・小四郎を千春の婿として迎え家督を譲りたい、岩見と佐川は商人と結託して賄賂を取っていて藩が危うくなる、岡野藩家老・酒井を後ろ盾に頽勢を挽回し藩を救いたい、と考えているようだ。
 千春は結城藩の内情を酒井兵部・小四郎に伝えようと岡野藩に向かう途中で武士に襲われ、夜狐の頭・お仙から逃げ隠れていたゆりが千春を助けて茶屋に連れてきたそうだ。このあと、志乃と千春が岡野藩酒井兵部・小四郎に会う話が6つめになる。
 ゆりによれば、夜狐お仙は島屋を乗っ取ったあと佐川大蔵の庇護を受けていたが、潮時と考え大店から2000両を盗み、峠の茶屋を襲うと見せかけて岡野藩に逃げ込むつもりらしい。お仙と半平、天野宮内と佐川大蔵が6話にからんで展開していく。

 まず志乃と千春の話。志乃と千春、ゆりは安原宿大野屋で長五郎に会い、岡野城下に新たな見張り番所を設けて若侍が見張っていると聞いて、大店の内儀一行に扮することにする。見張り番所で奉行・永尾甚十郎の会いに行くと伝えると、髷を切られて頭巾を被った鹿野永助がいちゃもんをつけたので、志乃は一人番所に残り、千春、ゆりに酒井兵部と会うように目配せする。
 志乃が鹿野に脅されているところへ永尾甚十郎が現れ、いきさつを察知して志乃を連れ出す。甚十郎の屋敷で千春、ゆりと会った志乃は、敬之進に頼んで小四郎に来てもらう。小四郎を見た志乃は千春を託せると確信する。
 酒井屋敷は見張られているので、志乃は千春に男装させる。敬之進、男装した千春とゆりが酒井屋敷に近づくと、鹿野たちが敬之進を取り押さえ、千春とゆり、志乃に斬りかかってきた。ゆりが数人を斬り倒すが多勢に無勢、そのときお仙が手下と現れ、自分が千春を助けるから志乃にゆりのことを頼むと言い残し、鹿野たちと短刀で斬り合って千春たちを門内に入らせ、お仙は深手を負ってしまう。
 千春が酒井兵部に届けた天野宮内の書状を見て兵部はただちに登城、殿に結城藩の苦境を訴え、結城藩の騒動を鎮めることになった。
 志乃とゆりが酒井屋敷に運び込まれたお仙に会うと、お仙はゆりに一度だけ母親らしいことをしたかった、私の自慢の娘だ、幸せになるんだと言って、息絶える。

 半平の話に移る。峠の茶屋で志乃、千春、ゆりを送り出した半平は、夜狐一味の襲撃に備える。盗賊が放った火矢を消し、目つぶしを受けながらも何人かを倒すが、鉄砲を撃たれてしまう。その瞬間、お仙が半平に体当たりし、命は助かる。お仙は半平に、性悪で女に酷いことをした商人は殺したが半平のお人好しに惚れたと言い、佐川大蔵が天野宮内を殺そうとしていることを教える。
 志乃、千春を助けに岡野藩酒井屋敷に向かえば結城藩天野宮内を助けられない、半平はお仙に、志乃、千春を助けに行けば千春の父である宮内は殺され千春が悲しむことになる、志乃は娘を悲しませたくないから自分たちより宮内を助けて欲しいと言うだろう、母にとって娘に憎まれるほど辛いことはないと話す・・この言葉がお仙を動かしたのだろうか、前述したように、お仙は娘を思う母親らしく行動する・・。

 結城城下に入った半平は天野屋敷の築地塀を乗り越え、身を潜める。雨が降り出す。佐川大蔵と岩見辰右衛門配下の武士6~7人が裏門から入ってくる。佐川が宮内にかつて正室だった志乃を嘲ると、宮内は自分に見る目がなかった、結ばれるべき縁は結ばれ、離れるべき縁は離れていくと答える。それを聞き、半平は改めて宮内を助けようと決意する。佐川の命令で武士たちが宮内に斬りかかろうとした瞬間、半平は宙を飛び、佐川大蔵を斬り倒す。
 腕の立つ岩見配下の武士6~7人が半平を囲む。半平は悲壮な覚悟を決める。この先の決闘は描かれていない。
 志乃は半平が気になり千春を酒井小四郎に託し、峠の茶屋に戻って半平を待つ。翌日、翌々日・・雨のなか、足を引きずるように黒い人影が峠を登ってくる。志乃が駆け出す。読み手はよかったと胸をなで下ろして、幕になる。

 江戸時代のお家騒動、権力争いは多くの作家が取り上げて物語を構想しているので、「峠しぐれ」は新しい着想とはいいにくい。半平も志乃も、千春もゆりも、お仙、天野宮内までも優等生過ぎるのももの足りなさを感じさせる。悪が倒れ善が勝つ、勧善懲悪、おおむね良しの筆さばき、幕引きだから、気楽に読み終えることができるのは間違いない。 (2024.7) 

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「峠しぐれ」斜め読み1/2

2024年08月13日 | 斜読

book568 峠しぐれ 葉室麟 双葉社 2014

 葉室麟(1951-2017)は松本清張賞、直木賞、山本周五郎賞、司馬遼太郎書などの多くの受賞歴があり、徳川家康の策略で弘前藩に嫁いだ正室ともともとの正室の心の揺れを主題にした「津軽双花」(book554参照)を読んで、歴史に翻弄されながらも歴史に正面から向き合った人々を物語にした筆さばきの巧みさを感じた。

 「峠しぐれ」は、岡野藩領内の朝霧峠=弁天峠で茶店を営む40過ぎの半平と35・6の志乃が物語の主人公である。峠を西に下ると弁財天を祀ったお堂があることから弁天峠と呼ばれたが、志乃の顔だちの良さに加えてほのかな色気があり、志乃は峠の弁天様と親しまれていた。
 半平と志乃にはいわくがあり、物語の展開とともにいわくが明らかになるのだが、そのいわくが武士の時代とはいえ常軌を逸しているように思えるし・・葉室氏は常軌を逸した武家社会を描きたかったのかも知れない・・、半平・志乃の縦糸に絡めた2組の母娘が横糸として物語を織り上げているが、娘があまりにも優等生すぎて物語が平凡な展開になったように感じる。
1話
 朝霧峠=弁天峠から西に下れば、麓の安原宿まで5里≒20km、岡野城下まで18里≒70kmになる。東に下れば隣国の結城藩で、国境に番所≒関所が設けられていて、開門は明け六つ≒朝6時、閉門は暮れ六つである。結城藩の番所を朝の開門と同時に通って峠を目指すと昼近くになる。
 最初の話は、朝早いのに東から男女と子ども3人が疲れ切って茶店の前を通り過ぎ、志乃が結城藩からの夜逃げと直感して声をかけるところから始まる。男は味噌問屋三根屋の吉兵衛、女はお澄、子どもは太郎吉、次郎吉、せつである。結城藩ではいままで家老・天野宮内が実権を握っていたが、最近、中老・岩見辰右衛門と勘定奉行・佐川大蔵が主導権を握り、新しく専売制度を採り入れ、味噌を含む商いの専売権が島屋五兵衛に任され、その賄賂が岩見や佐川に流れ、専売権のない問屋は成り立たなくなり、吉兵衛親子は夜逃げになったそうだ。志乃の好意で一息した吉兵衛親子は岡野城下を目指して峠を下る。
  
 10日ほど前、岡野城下の材木商・稲葉屋で、主人夫婦が殺され、300両と金品が奪われる事件があった。町奉行所役人・永尾甚十郎が盗賊夜狐の一味とにらみ調べを進めていて、旅籠大野屋を改めたところ、泊まっていた吉兵衛の荷から稲葉屋から盗まれたと思われる珊瑚の簪が見つかった。娘のせつが峠の弁天様にもらったと言い出す。稲葉屋は安原宿宿場役人・金井長五郎が営んでいて、金井長五郎と半平・志乃と顔なじみであり、長五郎が茶店に出向き、志乃をともなって奉行所に戻る。志乃が、吉兵衛親子は昨日茶店に寄ったと証言し、10日前の強盗の罪は晴れる。
 永尾甚十郎は夜狐一味が弁天堂に盗品を隠しているとにらみ、捕り手とともに弁天堂に向かうと、5人の盗賊が弁天堂に火をつけ待ち構えていた。そこへ薪を持った半平が現れ、仕込み杖で斬りかかってくる盗賊を薪でつぎつぎと倒す。残った小柄な若者は腕が立つが、半平が仕込み杖をたたき落とすと闇の中に走り去った。
 半平は志乃に、逃げた若者は17・8の女で、太刀筋は雖井蛙流と話す。志乃は故あって捨てた娘・千春と同い年と思い愕然とする・・雖井蛙流とは何か、千春をどうして捨てたのか?・・。

2話
 侍の仇討ちが話が挿入され半平のみごとな腕前が描かれるが、本筋に関わらないので、割愛。
 2つめの話しは盗賊夜狐の頭・お仙と娘・ゆりが副題になる。
 半平が夜狐一味の仕返しに備えていると、一味が現れる。半平は手下を倒し、若者=女を捕らえる。女の名はゆりで、母は盗賊夜狐の頭のお仙、お仙は15年前に行き倒れと見せかけ、結城藩城下で雖井蛙流の剣術道場を開く西村幸右衛門に助けられ、やがてゆりが生まれ、ゆりは幸右衛門に雖井蛙流を習うが、お仙の強盗が露見したため幸右衛門はお仙とゆりを逃がしたあとで切腹したと話し、ゆりは立ち去る。
 3ヶ月が過ぎ、茶店に結城藩の豪商・島屋五兵衛と女房・おみね(=お仙)の乗った駕籠が立ち寄る。供にゆりがいる。お仙が五兵衛の茶に薬?毒?を入れるのを見た志乃は茶を取り替えようとして、お仙と一悶着したあと、一行は岡野藩に向かう。
 5日後、宿場役人・金井長五郎が茶店まで来て、岡野城下の山城屋に泊まっていた島屋五兵衛が胸をひと突きされて殺され、女中のゆりが消えた、おみねが茶店でそそのかされたに違いないと言い張るので半平に出向いて欲しいと告げる。

 おみね=お仙は泊まっている山城屋に半平を呼びつけ、半平は結城藩勘定奉行・佐川大蔵の家士・伊奈半平で、結城藩家老・天野宮内の奥方・志乃と駆け落ちしたと半平・志乃の秘密を明かしながら、隠し持っていた短刀で半平を刺そうとする。半平はとっさにおみねをねじふせるが、実は半平をおびき出したうちに峠の茶店をやくざに襲わせ、半平・志乃を訪ねてくるであろうゆりを殺そうという算段だった・・命を助けてくれた西村幸右衛門を死に追いやり、亭主だった島屋五兵衛を刺し殺しのも、母が娘を殺そうとするのも常軌ではない。葉室氏は、最後のどんでん返しのために、お仙を鬼子母神のように仕立てようとしたのだろうか・・。
 一方、峠の茶店に3人のやくざが現れ、茶店を店仕舞いさせる。志乃と手伝いに来ていた吉兵衛が危うくなるところに黒装束のゆりが現れ、やくざを倒し、迷惑になるからと立ち去る。

3話
 3つめの話は半平を軸に、4つめの話は志乃を軸に同時に進み、5つめの話が織り込まれる。宿場役人・金井長五郎が茶店に登ってきて、半平は奉行所役人・永尾甚十郎の息子・敬之進が奉納試合に出るので稽古をつけ(3つめ)、その間、不用心なので志乃は長五郎の旅籠・大野屋を手伝い(4つめ)、茶店は吉兵衛夫婦が切り盛りする、ことになる(5つめの伏線)。
 3つめは半兵が剣術指南をする話である。永尾敬之進は17・8歳、小柄なおとなしい性格で、天道流の道場に通っている。奉納試合の相手は同じ天道流で、二刀流を使いこなす狩野永助である。半平は敬之進におよそ20貫の庭石を持ち上げる訓練から始め、二刀くだきを教授する。しかし、相手は二刀くだきのはめ手を使うだろうから、罠を仕掛ける者には天然自然の理で立ち向かうようにと敬之進に教える。
 奉納試合当日、敬之進は正眼に構え、狩野永助は両手を下げて薄笑いし、敬之進が打ち込むと狩野は左の木刀で払い右の木刀で打ち込み、敬之進は追い込まれる。鹿野が二刀を十字に構えたとき、敬之進は腰をかがめ、木刀を真っ直ぐ突き出して鳩尾をつき勝利する。
 試合を終えて半平が茶店に戻ろうと城下の外れに来たとき、鹿野と4人が刀を抜いて半平に斬りかかってきた。半平は5人の刀を取り上げ、5人の髷を切り落とすと、5人は逃げた。

4話
 4つめは、志乃が安原宿の大野屋に着くと奥座敷で九州・備前榊藩の若君が出府途中で具合を悪くし伏せっていて、世話をすることになったお家騒動の話である。
 江戸藩邸にいる榊藩主・忠徳の容態が思わしくなく、長男・千之助を跡継ぎにしようとしたが素行が悪く問題を起こしたため廃嫡にし、次男萩丸を急ぎ出府させようとした。ところが側室の子・鶴丸を跡継ぎにしようとする家老の仕業で萩丸は毒を盛られたので、妹の雪姫が萩丸が快復して江戸に着くまでのあいだの身代わりを努めることになった。雪姫は、若君の身代わりで出府しなければならない気苦労で伏せってしまったようだ。そこに、家老の指図で刺客が宿場に送られたとの情報が入る。
 志乃は雪姫を案ずる32・3歳の老女・藤(=雪姫の母)に、雪姫を姫君らしい格好にすれば気持ちが晴れると説得する。雪姫は萩丸の身代わりから本来の雪姫に戻って元気になり、一行は江戸に向けて出立、志乃は半平に書き置きを残し、雪姫の供をする。
 一行が峠の茶店に着くころから雪交じりの雨が降り出し、茶店で休んでいると刺客が現れる。刺客が雪姫に斬りかかろうとしたとき、馬で駆けつけた半平が六尺棒で刺客を次々と倒していく。家老の企みが露見し、雪姫一行は安心して江戸に向かう・・この話はここで終わる・・。  続く

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2024.8 墓仕舞いする

2024年08月08日 | よしなしごと

2024.8 墓仕舞い=市営霊園から築地本願寺へ改葬

 子どものころ、東京都大田区山王に両親弟妹と住んでいた。私が結婚して家を出て、その後大宮市(現さいたま市西区)に家を建てて間もなく、父が急死した。葬儀は大田区山王の浄土真宗K寺にお願いした。
 そのころ、大宮市で市営霊園を募集していたので、母の了解のもと、大宮市営霊園(現さいたま市営霊園)を墓所とし、霊園そばのS石材店に墓石をお願いした。納骨は、S石材店の紹介で上尾市の浄土真宗M寺に法要をお願いした。
 大宮の家から市営霊園までふだんは車で40分ほどだが、お彼岸お盆などの混雑時は1時間を超えることもあった。
 月日が経ち、私は定年退職を見据えてさいたま市北区に転居した。北区から市営霊園までは車で20分ほどに短縮されたが、お彼岸、お盆の混み合いはさら進み、40分を超えることが多かった。

 大田区山王に住んでいた母が亡くなり、大田区山王のK寺に葬儀をお願いし、墓所の納骨法要は上尾市のM寺にお願いした。

 定年退職後、近場の旅行に出かける以外に車をほとんど使わなくなった。車検など車の維持費もかかるので廃車することにした。車が無いと、墓参りは電車で大宮駅まで出て、バスで市営霊園バス停まで行き、バス停から墓まで7~8分歩かねばならない。年を重ねるごとに墓参りはしんどくなる。
 私は東京で生まれ育ち、学校も東京だったから、築地本願寺は既知で何度か参拝したこともある(写真)。築地本願寺は、江戸時代に浄土真宗西本願寺別院として建てられ、関東大震災後に伊東忠太の設計で建て替えられた。伊東忠太は築地本願寺の設計にあたり仏教の源流を調べようとインドを歩いたことを知ったので、1987年のインドの旅で仏教遺跡アジャンタ、エローラを訪ね、帰国後、改めて築地本願寺に参拝し、感動を新たにした(写真、本堂内観)。
 銀座方面に出かける機会は多い。少し足を伸ばして築地本願寺に参拝し、毎月、パイプオルガンコンサートを開いていることや合同墓を募集していることを知った。コンサートを聴いたあと、合同墓について話を聞いた。
 気持ちのなかに、さいたま市営霊園から築地本願寺への改葬が閃いたのかも知れない。合同墓契約書類一式を受け取っておいた。

 合同墓は、遺骨を粉状にして骨袋に入れて納め、築地本願寺が責任を持って管理を行ってくれ、年間管理費や寄付は不要である。(さいたま市営霊園の管理費は4290円/年、M寺への寄付は5000円/年)。
 墓所と法要が同じ築地本願寺になるし、墓所の維持管理、法要は築地本願寺が行ってくれるし、私の生前申込もあわせて申し込めるので没後も安心である。
 さいたま市営霊園に改葬について問い合わせ、必要書類と手続きの流れを教えてもらった(改葬許可申請書、印鑑証明書、実印など)。並行して、S石材店に改葬について問い合わせ、墓石撤去、骨出し・乾燥・運送などの手続きを教えてもらう。


 気持ちが固まったところで築地本願寺に合同墓を問い合わせたところ、申し込みは予約制で、数ヶ月先まで予約が入っているが7月○○日○○時がキャンセルになったとのことだった。流れにのるのがよい。
 合同墓申込書を記入(命日、本名、法名、行年など)、印鑑証明書を準備、実印を押印、合同墓管理委託冥加金一人30万円を用意し、7月○○日○○時に築地本願寺に出かけ、申し込み手続きを終えた。
 およそ3週間後、築地本願寺合同墓管理受託証明書が届いた。この合同墓管理受託証明書を持参してさいたま市営霊園管理事務所に出かけ、見沼区役所提出用の改葬許可申請書と石材店が提出する改装工事届を受け取る。
 市営霊園管理事務所は、事前の電話で相談したあと必要な書類を作ってくれていて、説明もていねいで分かりやすかった。

 その足でS石材店に行く。こちらも事前の電話で準備を整えていてくれた。墓石撤去一式11万円、骨出し一体3.3万円+乾燥代3.3万円、梱包発送一包1.1万円、仏壇処置1.1万円などを支払う。
 真夏なので骨出し法要は止め、築地本願寺で納骨法要を行うことにした。さいたま市営霊園から築地本願寺へ遺骨を運ぶのが悩みだったが、S石材店のアドバイスでゆうパックを利用することにし、築地本願寺では遺骨を預からないので近くの京橋郵便局留とした、など皆さんの助言を受け、流れに準じて進めた。
 築地本願寺と打ち合わせ、8月○日の納骨と納骨合同法要を予約した。同時に、S石材店に京橋郵便局到着日を連絡する。

   8月○日13:30過ぎ、猛暑日のなか、京橋郵便局でゆうパックを受け取り(合掌)、骨壺をS石材店でいただいたバッグに移す。京橋郵便局から築地本願寺までバッグを提げ200~300m歩き、築地本願寺サービスデスクに遺骨を運ぶ。予約の14:00から納骨の手続きを行う(改葬許可証、合同墓管理受託証明書、築地本願寺合同墓納骨届け)。
 14:30に法要室に移り、住職により納骨法要を受ける。法要後、住職の案内で合同墓に遺骨を運ぶ(合同墓写真web転載)。
 阿弥陀如来像の前に遺骨を安置し、合掌する。住職から、あとは築地本願寺が責任を持って納骨、管理しますと言われ、安堵する。
 浄土で安らぐ肉親を思い浮かべ、改めて阿弥陀如来に合掌し、合同墓をあとにする。  (2024.8)

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