yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2020.1シチリアの旅30 タオルミーナを歩く2 ドゥオーモほか

2021年07月28日 | 旅行

世界の旅・イタリアを行く>  2020.1 シチリアの旅 30 タオルミーナを歩く2 トレベリアン ナウマキエ 市庁舎 ドゥオーモ

 シチリアの旅8日目、5:30に起きる。このホテルの欠点は空調機がうるさいことで、少し早めに目が覚めてしまった。
 バルコニーの先にエトナ山が見える。薄明かりの中にそびえる標高3326mのエトナ山が雪を被っている。白い峰は神々しく感じる。少し左にはイオニア海がゆらゆらとさざめいている。眺めは素晴らしい。空調機の欠点は帳消しになった。同行の仲間の部屋も並びで、次々とバルコニーに出てきて絶景を写真に収めていた。
 7:30、1階に降り、エトナ山を眺めながらビュッフェ朝食を取る。日を浴びたエトナ山は一回りも二回りも大きくなったように感じる(写真)。さらによく見ると、富士山は峰が背伸びをしたように上に伸びている(たとえば、葛飾北斎「富士越龍」)が、エトナ山の峰は横に広いし、裾野も横に広がっている。‥エトナ山を見たら北斎はどんな龍をイメージするだろうか?‥。

 9:00現地ガイドMさんの案内でホテルを出発する。
 Mさんはホテル前の通りを避け、ホテルの隣の崖地に沿って北に延びているGiardino Pubblico市民公園に入った。石畳の散策路で緑陰の花壇をめぐるように整備されていて、ユニークな建物も建っている(写真)。
 女性の彫像も飾られていた(写真)。Mさんの話にweb情報を加える。スコットランドの貴族の出身のFlorence Trevelyanフローレンス・トレベリアン(1852-1907)は世界の船旅を楽しんだあと、タオルミーナに滞在して医師サルヴァトーレ・ガッツィオラと結婚し、ここを庭園として整備した。ユニークな建物は、赤みの地元産の石、溶岩、レンガを用い、1898年に建てられた。物見や休憩、客人の接待に使われたようだ。庭園には世界各地の樹木や花が集められたらしい。1906年には、エドワード7世とアレクサンドラ女王も訪問したそうだ。
 トレベリアンもイオニア海とエトナ山の絶景に魅惑され、その話が国王に伝わったようだ。
 トレベリアンの死後、庭園は市に寄贈され、市民公園として整備、公開された。

 Mさんの案内で、昨日とは別の坂道、階段を上る。途中、レンガ積みアーチの連続した構築物が見えた(写真)。紀元前1世紀、古代ローマ時代の体育場の回廊遺構らしい。
 長さ122m、高さ5mで、アーチごとに矩形の壁龕nicchiaが設けられ、神々や英雄の像が置かれていたと推定されている。
 遺構は、アーチ壁の向こうに市街への給水用の大きな貯水槽が設けられていたため、模擬海戦を意味するNaumachieナウマキエと呼ばれている。崖下にイオニア海が広がっているのにわざわざ船をここまで運んで海戦を演習することは考えられない。発掘した研究者の見当違いであろう。

 ウンベルト通りに出る。Mさんは特産の菓子屋に案内した。ショーウインドーには着飾った人形が菓子を求めて集まっているようなイメージで、菓子と大人、子どもがレイアウトされている(写真)。12月になるとクリスマスのイメージのように、季節にあった模様替えがされるのではないだろうか。道行く人はショーウインドーにつられて菓子を買いたくなりそうだ。
 試食用の菓子を食べたらやはり甘すぎたが、土産におすすめの菓子18個9ユーロを3袋買った。

 西に歩き、4月9日広場、時計門の解説を受ける‥前述‥。山側の階段の上には、シチリア・バロック様式で17世紀に建てられたChiesa di San Giuseppeサン・ジュゼッペ教会が空に鐘楼の尖塔を伸ばし、その先の急峻な崖の上にはいまにも転げ落ちてきそうに見えるSantuario Madonna della Roccaマドンナ・デッラ・ロッカ教会が見下ろしている(写真)。rocca=要塞だから、イオニア海を攻めてくる敵船の監視の要塞があったのだろうか‥後ほど絶景ポイントを訪ねた‥。

 時計門を抜けて西に歩くと、400mほどで左=南にドゥオーモ、右=北に市庁舎が向かい合って建ち、ドゥオーモ広場が続いている。
 市庁舎Municipio(写真)の銘板にはPalazzo dei Giurati 1704と記されている。直訳すると陪審員の館になるから、1704年に裁判所として建てられ、いまは市役所として活用されているようだ。
 外観は赤みの漆喰?で仕上げられ、窓周り以外には彫刻、装飾はない。裁判所だから、バロック様式の過剰な装飾を避けたのかも知れない。
 市役所銘板の中央には、タオルミーナの紋章である女ケンタウロスがデザインされている(写真)。ケンタウロスcentauroはギリシャ神話に登場する半人半馬族で、野蛮な種族として伝承されているが、ケイロンのような医術、狩猟、武術、音楽、預言に優れた一族もいる。タオルミーナの女ケンタウロスは右手に玉=地球?、左手に笏を持ち、頭上には王冠もデザインされている。文武に優れたケンタウロスのようだ。
 
 ドゥオーモDuomoは、もともと船乗りの守護神聖ニコラスに捧げられた小さな教会堂があり、アラゴン王国時代の1400年ごろ、現在のドゥオーモが建てられたそうだ。
 外観は堅固な石積みで、窓は少なく、屋根外周には胸壁を思わせるのこぎり状の小壁が並んでいて、要塞のようである(写真)。
 政争で両シチリア王国がフランス・アンジュー家のナポリ王国とアラゴン家シチリア王国に分裂した余波だろうか?。‥ヨーロッパを旅して、教会が戦時には指令本部、騎士団の拠点、住民の避難所になる例は何度も見たので不思議ではないが‥。
 西面をファサードにした、ラテン十字平面の3身廊である(写真)。アーチを支えるピンク色の円柱は地元産大理石が使われていて、柱頭はコリント式などのオーダーとは違い鱗?紋様がデザインされている。身廊天井は木造トラス構造を現し、木組みは黒く彩色されている。天井、壁にはフレスコ画、モザイクは描かれておらず、白一色で仕上げてあり、外観が無骨なだけに清楚さを感じる。

 入口近くにタオルミーナの守護神Sant'Agata聖アガタ像が飾られている(写真)。もともとサン・ドメニコ教会に祭られていたが戦時下の1943年に教会が破壊され、聖アガタ像がドゥオーモに移された。右手に大きなペンチで切り取った乳房を持っているが、顔は揺るぎない信仰の力強さを感じさせる。
 アガタ(231?-251?)は、ローマ帝国支配下のカターニアで生まれ、権力者のローマ人からの結婚を断たためキリスト教徒として弾劾され、乳房を切り落とされる拷問を受けて獄中で殉教する。のちに聖人に列せられ、鐘職人、パン職人、近年は乳癌患者の守護神として信仰を集め、カターニア、タオルミーナ、マルタなどの守護聖人として崇められている。
 祭壇に一礼し、広場に出る。

 ドゥオーモ広場Piazza Duomoには1635年製作されたバロック様式の大きな噴水が設けられている(写真)。
 円形基壇の四方の円柱には、ギリシャ神話の海神ポセイドンが乗る海馬が乗せられ、基壇中央には裸身立像で支えられた大きな円盤、その上に裸身座像がが支える中円盤が重なり、頂部にタオルミーナの紋章に描かれている冠を被り右手に玉=地球?、左手に笏を持った女ケンタウロス像が飾られている。
 ウンベルト通りは見どころが多い。訪れた人は観光で目を楽しませながら、シチリアの歴史、ギリシャ神話、キリスト教と聖人についての知見を学ぶことができる。  (2021.7)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020.1シチリアの旅29 タオルミーナを歩く1+ディナー

2021年07月22日 | 旅行

世界の旅・イタリアを行く>  2020.1 シチリアの旅 29 タオルミーナを歩く1 4月9日広場 時計門 カターニア門 メッシーナ門 +ディナー

 シチリアの旅7日目、16:20ごろ、ホテルに戻る坂道の目印を覚え、Corso Umbertoウンベルト通りを西に歩く。
 1861年、イタリア王国が成立し、ビットリオ・エマヌエレ2世(1820-1878)が初代王に就く。息子のウンベルト1世(1844-1900)が後を継いで王になり、その時代に整備されたのでウンベルト通りと名付けられたらしい‥ウンベルト1世は政策に失敗し暗殺されてしまうが、通りに名を残した。それも歴史である‥。
 いまは大勢が談笑しながら行き交い、店をのぞき、カフェでくつろいでいる。私たちは4月9日広場、メッゾ門、ドゥオーモ、市庁舎を眺めながらカターニア門まで行き、ホテルレストラン19:30集合を確認して自由行動になった。

 4月9日広場Piazza 9 Aprileは市民の憩いの場であり(写真)、眼下にイオニア海が広がり、南西に雄大なエトナ山が展望できる絶景ポイントの一つでもある。
 もともとこの広場は、写真左のサンタゴスティーノ教会にちなみ、サンタゴスティーノ広場と呼ばれていた。
 1860年4月9日、ミサが開かれていたとき、ジュゼッペ・ガリバルディ(1807-1882)率いる革命軍がシチリア島西端のマルサラから上陸するという知らせが入り、市民は大いに歓喜した。しかし、実際の上陸は5月9日で知らせは誤報だったが、その後の革命軍は破竹の勢いで進軍し、1861年、イタリア王国が成立する。市民は、誤報であったが4月9日の歓喜を歴史に刻もうと、Piazza 9 Aprileと呼ぶことにしたそうだ。

 もとの教会は、ペストから救済された1448年、聖セバスティアーノに捧げて後期ゴシック様式で建てられた。1530年、アゴスティーノ派?の神父が改修、拡張し、Chiesa di Sant'Agostinoと呼ばれるようになった。現在は市立図書館として活用されている。
 市民、観光客は4月9日広場で足を止める。絶景に向かって視界が広がるのも足を止める理由になるが、家族、仲間とくつろぎ、知り合いと挨拶を交わすためにこの広場に集まってくるようだ。
 帰り際に広場正面のMocamboのオープンカフェでビール(8ユーロ)を傾け、気持ちだけ広場のみんなに仲間入りした。風景が広々すると、気分も壮大になる気がする。
 
 4月9日広場の西側にメッゾ門Porta di Mezzoが構えている(写真、左が広場、右端がビールを飲んだオープンカフェ)。
 紀元前8世紀以降、タオルミーナの争奪が激しくなり、タオルミーナに3重の城壁が築かれたらしい。12世紀、その城壁の石材を転用してメッゾ門が築かれた。1676年、侵攻してきたフランス軍によって門は破壊され、1678年に再建された。そのときに時計が設置されて、時計門が愛称になった。
 門の下部は、紀元前4世紀と推定される城壁の石材がつかわれている。門上部は小さな石が乱雑に積まれていて美しさには欠けるが、時計塔が伸び上がって、威を張っている。
 時計門から西端のカターニア門までは600mほど、東北端のメッシーナ門までは900mほどなので、距離的にはmezzo=中間ではない。心理的な中間ということのようだから、時計が目印の時計門の方が中間門より似合っている。

 ウンベルト通りの西端に構えるのがカターニア門Porta Cataniaである(写真、門外からの眺め)。
 粗い石積みだがていねいに積まれた城壁に、アーチ門が開けられている。門上部張り出しの石落とし、鉄砲狭間はいかにも城門らしいが、1440年、アラゴン時代の改修だそうで、門上部にアラゴンの紋章が飾られている。

 ウンベルト通り東北端のメッシーナ門Porta Messinaに話が飛ぶ。ブルボン・シチリア時代の1808年、フェルディナンド4世(1751-1825)が海沿いに下る道を整備したとき、もともとの城壁にこの門が新たに設けられ、フェルディナンド門と呼ばれた。
 いまはアーチ門と石積み城壁の一部しか残っていない(写真)。イタリア王国成立後はメッシーナ門と呼ばれている。
 カターニアに抜ける門だからカターニア門、メッシーナに抜ける門なのでメッシーナ門は、地理に疎い人にも分かりやすい。

 日が傾いてきたので、目印の曲がり角を下り、ミニショップでビールを買い、ホテルに戻る。
 ヴィラ・ディオドーロはイオニア海に面した崖地に建っていて、ロビー階が2階、レストランは1階になる。ロビーからもレストランから、もちろん客室からももイオニア海の青さを楽しめる。旧市街への利便性もいいし、素晴らしい眺めを満喫でき、旅の最後の宿は好評価で気分はいい。
 19:30、壁、天井はアイボリーを基調にし、仕切りのアーチ、ドア周り、調度品は焦げ茶色の木を使っていて、落ちついた雰囲気のレストランに着席する。
 英語版メニューによると肉料理、シチリア伝統料理が並んでいた。終盤なので、ハウスワインの赤と白(いずれも6.5ユーロ)を頼んだ。

 前菜はAir-Dried Beef Crescent with Fresh Goat's Cheeseである(写真)。山羊チーズも乾燥ビーフもヨーロッパでは珍しくないが、山羊チーズをたっぷり詰めこんだcrescent=三日月が5つも並んでいる。せいぜい1日に15gぐらいしかチーズを食べないので、赤ワインを合わせながらビーフを完食し、チーズは少し残した。
 前菜2のBaked Lasagneも何度か食べたことがある(写真)。チーズ味の効いた焼きパスタは、日本では和食オンリーの私にもおいしく感じる。白ワインを合わせて完食したが、ボリュームが多すぎる。
 主菜はこってりとしたタレに包まれたMeatloaf traditional styleである(写真)。これもヨーロッパでは馴染みだし、日本でも食べたことがある。タレを絡め、赤ワインを合わせておいしくいただいたが、腹八分を超えた。

 赤ワインも白ワインも飲み終えたところに、彩りのきれいなシチリア発祥のアイスデザートCassataが運ばれてきた。やはり私には甘すぎる。
 そこへシェフがろうそくを並べたケーキを運んできて、Hさんからお祝いの言葉をもらった。実はこの日が結婚記念日で、帰国便が誕生日になる。Hさんの気づかいに感謝し、ツアーの皆さんにも挨拶させていただいた。旅の終盤におおいに気分が盛り上がる。
 気分もお腹も十二分に満たされ、21:00過ぎ、ディナーを終える。 
 腹ごなしには足りないが階段を4階まで上る。バルコニーに出て、波に揺れる灯り、山裾をおぼろにしたエトナ山を眺めながら、みんなの気づかいに感謝する。今日の歩数計は16000だったので、バスで脚をほぐし、ベッドに入った。  (2020.1)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020.1シチリアの旅28 シラクーサを後にタオルミーナへ

2021年07月18日 | 旅行

世界の旅・イタリアを行く>   2020.1 シチリアの旅 28  シラクーサでランチ→タオルミーナへ
 
 シチリアの旅7日目、12:00、イオニア海を眺めながら、海岸通りを北に歩く。海の青さ、空の青さに挟まれて、私たちが泊まったホテルあたりの街並みが黄色く光っている(写真)。
 途中から通りがVia Ruggero Settimoに変わった。ルッジェーロ・セッテイモ(1778-1863)は、両シチリア王国海軍提督として活躍し、引退後リベラル運動を展開した。1848年のシチリア独立革命を主導したが、革命は失敗してマルタ島に逃げる。1860年、のちに国民的英雄となるジュゼッペ・ガリバルディ(1809-1882)から革命に誘われるが体調が思わしくなく辞退、ガリバルディの革命成功で1861年にイタリア王国が成立したあとセッティモは上院議員に指名されるが、1863年、マルタで死去した。
 通りの名からもシチリア、イタリアの歴史が垣間見える

 ルッジェーロ・セッテイモ通りからVia della Amarfitaniaに右折する。アマルフィタニア通りは狭く、古びたバロック様式の建物が並んでいて、その一軒のレストランAntica Corte dei Bottariボッタリ家の古い宮廷?に入る。
 店内は石灰岩を積んだ円筒型のヴォールト構造の現しで、アーチ構造、ヴォールト構造は天井が高くなるから明るく広々としている(写真)。
 魚料理というので白ワインを頼んだら、シチリア産Barone Montalto(5ユーロ)が運ばれてきた。フルーツの香りのする飲みやすいワインだった。
 前菜はイワシパスタ(左写真)である。イワシもパスタも馴染みだが、イワシをどのように料理するか気になる。運ばれてきたのは、すり身にした粉末のイワシがたっぷりと絡めてあり、納得する。
 主菜はスズキグリル焼き+カポナータ(右写真)でスズキの網焼きは日本で何度も食べている。カポナータはシチリア原産の煮込み料理だが、これもイタリア、ヨーロッパに広まっているためか、似たような料理法が各地にあるのか、いろいろなところで食べた記憶がある。
 デザートにはカンノーロが出た。イタリア伝統の巻き菓子だが、強烈な甘さは私の限界を超える。パスタもスズキもカポナータも完食したが、カンノーロは二口ほど食べて残した。申し訳ない。
 13:15過ぎに食事を終え、海沿いをのんびり歩いてバスに向かう。

 13:35、シラクーサをあとにしてバスはタオルミーナTaorminaに向かう。タオルミーナはイオニア海に面した歴史都市で、シラクーサからは北におよそ200km、バスで2時間ぐらいである。タオルミーナに連泊し、帰国になる。旅の終わりが近づいてきた。
 シラクーサから100km、1時間近くで、ギリシャ植民都市から発展した歴史都市カターニアCataniaを通過する。車窓からも歴史を思わせる建物が見える。シチリアではパレルモに次いで2番目に大きい都市で、人通りも多く、活気を感じる。国際空港もあり‥私たちのツアーもカターニアからローマ乗り継ぎ、フランクフルト乗り継ぎ、成田の予定‥、カターニア泊+カターニア観光→帰国のコースを組んでいるツアーも少なくない。
 カターニアを通り過ぎる。地図を見ると左に標高3323mのエトナ山Etnaが大きな裾野を広げてそびえているはずだが、雲に覆われて見えない。予習で読んだ「シチリアに行きたい」(book505)にも雪を被ったエトナ山の勇姿を紹介していた。エトナ山もシチリアの代表的な観光地であり、世界自然遺産にも登録されている‥今回のツアーにはハイキング、トレッキングなどは組まれていない‥。
 
 15:00過ぎ、海沿いの幹線道路から急勾配で狭い道を上り、何度か大きくカーブを切り、崖下のイオニア海に目を取れていたら、連泊のVilla Diodoroに着いた(写真)。
 外観は、近代的なデザインで簡潔である。シチリア最後の宿になり、印象がよければ旅全体の思い出が良くなる。赤みのシンプルな外観の印象はどうか?。
 部屋は最上階の4階で十分に広い。スーツケースを広げてもたっぷり余裕がある。調度品も使い勝手がいい。バストイレも良し。眺望は?、カーテンを開けて、歓声が出た。
 広々としたバルコニーの左下に青々としたイオニア海が広がり、正面にエトナ山が大きく裾野を広げている(写真、チェックインのときは山頂が雲で隠れていたので翌朝の眺め)。素晴らしい景色の宿に連泊で、気分は大いに盛り上がった。

 タオルミーナTaorminaにはもともとシケル人が住んでいた・・西部はエリミ人、中央はシカニ人・・。紀元前8世紀に古代ギリシャの植民地になり、紀元前4世紀にシラクーサ、次いでアテナイ、続いてカルタゴに占領され、紀元前3世紀にローマ支配、その後はヴァンダル王国、東ゴート王国、イスラム支配、ノルマン・シチリア王国‥と、ほかのシチリアの歴史都市と同じ歴史を歩む。
 旧市街はタウロ山Tauroの中腹、標高200mぐらいの等高線になじませ、細長く伸びている。北東のメッシーナ門Porta Messinaから西のカターニア門Porta Cataniaまでがウンベルト通りCorso Umbertoと呼ばれる目抜き通りで、1500mほどしかない(図)。図左上のマドンナ・デ・ラ・ロッカ教会Santuario Madonna della Rocca(rocca=城塞)とカステッロ城跡Castello Saraceno(=サラセン人の城)あたりが標高400mぐらいで、町の北外れになる。
 ‥さらに山道を上ると、標高530mぐらいに展望のいいカステルモーラCastelmolaという街があるらしいが、そこは訪ねていない‥。

 16:00、旧市街の街歩きに出る。ホテル前のVia Bagnoli Croceは歩道がついているが、狭く見通しが悪い。ホテルから数100m上るとミニショップがあった。
 このあたりから右左に道が折れ、階段+坂道になり、どの道でも上りきると、人通りの多いウンベルト通りに出る(写真)。  続く(2021.7)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ピーター・トレメイン著「サクソンの司教冠」

2021年07月14日 | 斜読

book532 サクソンの司教冠 ピーター・トレメイン 創元推理文庫 2012  <斜読 海外の作家一覧>  

 偶然、トレメイン著の修道女フィデルマシリーズを知った。1993年に短編が出版され、その後、長編、短編が数多く出版されている。
 著者ピーター・トレメイン(1943-)はイングランド生まれの歴史家、推理作家、伝記作家で、アイルランド、ケルトの歴史文化の権威だそうだ。フィデルマシリーズは7世紀のアイルランド、イングランドが舞台らしい。
 手にしたのは1995年に出版された長編「サクソンの司教冠」で、舞台はローマだった。原題はShroud for the Archbishopで、直訳すると大司教の経帷子になる。サクソン、キリスト教を予習しながら読み始める。

 表紙を開けると物語のさわりが紹介されている。
 664年の夏、アイルランド人フィデルマは、所属修道院の宗規にローマ教皇の認可と祝福を受けるためラテラーノ宮殿を訪れる。
 長旅の途中は、フィデルマシリーズ前作でウィトビア事件を解決したサクソン人エイダルフがカンタベリー大司教指名者ウィガードの秘書官兼通訳として随行していた一行と、同行することができた。
 ところがウィガードがラテラーノ宮殿来客棟の寝室で殺され、アイルランド人ローナン・ラガラッハ修道士が逃げようとして捕まる。
 ローマ教皇の伝奏官ゲラシウス司教は、アイルランドとサクソンの争いを避けるため、フィデルマとエイダルフに調査を依頼する。

 扉の次に歴史的背景が述べられている。アイルランドを補足する。
 アイルランドにケルト人が住み始めたのは紀元前1600年ごろで、この物語の7世紀ごろ、アイルランドには4王国と大王の国の5王国があった。フィデルマはその一つモアン国(現在のマンスター)王の妹であり、キルデアの修道院を経験した修道女の設定である。そのため、物語ではキルデアのフィデルマと呼ばれる。
 アイルランドでは女性が男性と同等に活躍していて、フィデルマは、弁護士、裁判官の資格を持つ‥文中にアイルランドの男女同等の所作や法が登場し、巻末の訳注で解説されている‥。
 ケルト人は432年ごろ伝わったキリスト教を受け入れ、ブリテンなどに布教した。ケルト人のカトリック教会はローマ・カトリック教会と相違が多かった。たとえば、聖職者の結婚は325年ニカイアの総会議で論じられ、5世紀には修道院長、司教などの結婚は禁じられたが、ケルト・カトリック教会では容認された。
 ‥この結婚観の違いが事件の真相の手がかりで、中盤に伏線がさらりと記され、終盤でフィデルマが全容を明かすが、穏便な解決に収める。‥この収め方がフィデルマシリーズの人気の理由であろう。
 なお、ケルト教会は9世紀以降にローマ教会に同化する。

 サクソンも補足する。5世紀、ゲルマン人がブリテン島に侵攻し、それまでの覇者だったローマ人は撤退する。代わってゲルマン系サクソン人がブリテン島に広がり、アングロ・サクソン人の民族基盤となってイングランドを支配する。5世紀~9世紀に7王国が存立し、その一つがケント王国(現在のケント州)である。
 サクソン人もキリスト教を受け入れるが、当初はケルト・カトリック教会の宗規に則っていた。
 597年、ローマ教皇の指示で、アウグスティヌス司教がケント王国カンタベリーで布教を始め、初代カンタベリー大司教にはアウグスティヌスが就く。
 664年、ウィトビア教会会議でケルト・カトリック教会の宗規を廃し、ローマ教会に従うことが決定される。当時、6代カンタベリー大司教はサクソン人では初めてのデウスデーディトゥスだったが、教会会議終盤で病没する。後任の大司教指名者にウィガード司教が選ばれる。史実では、ウィガードは聖別前にペストで死亡する。

 物語では、ウィガードがローマ教皇の叙任を受けるため、664年にラテラーノ宮殿を訪れているとき殺害される設定である。エイダルフは、カンタベリー大司教指名者に随行していたので、カンタベリーのエイダルフと呼ばれる。
 フィデルマ、エイダルフは前作で殺人事件を解決したらしいが、前作を読んでいなくても支障はない。
 「サクソンの司教冠」を読む限り、エイダルフは短絡的に事件をとらえる傾向があり、事件の鍵を拾い集め、科学的に検討し、論理的に組み合わせてパズルを解くのは苦手のようだが、直感的な推理は巧みである。

 ウィガード殺人事件の舞台となるラテラーノ宮殿Palazzo Lateranoには、かつてローマ貴族プラティウス・ラテラーヌスの宮殿が建っていた。ラテラーヌスはネロ暗殺計画に関わったとして処刑され、跡地にラテラーノ宮殿が造営され、14世紀に教皇庁がバチカンに移るまで、歴代教皇の住居として使われた。隣接して、サンジョバンニ(聖ヨハネ)大聖堂San Giovanni in Lateranoが建つ。
 フィデルマには初めてのローマである。エイダルフ修道士、2人を手伝う宮殿衛兵隊フーリウス・リキニウス小隊長と、事件解決のため現場のラテラーノ宮殿、七つの丘、テヴェレ川、円形闘技場、カタコンベ、水路橋などなどを調べ歩くとき、7世紀ごろのローマ人の暮らしぶりに重ね、ローマの名所が詳述されていく。訪ねたことのある人には、物語の臨場感が増す。
 
 フィデルマたちは、教皇の専属医師であるギリシャ人アレクサンドリアのコルネリウスに会い、遺体を検分し、検死結果を聞く。ウィガードは、寝台の手前にひざまづき、寝台にうつぶせになって、自分の祈祷用細帯で首を絞められ殺されていた。
 ‥祈るときに疑われずにそばにいて、ウィガードの細帯を取り上げて首を絞めることができるのは誰か?、ローナン修道士はアイルランド人だからサクソン人への恨みでカンタベリー大司教の首を絞めたのか?。‥フィデルマを通して著者から謎かけが出される。

 ウィガードは、サクソン諸王国から教皇への高価な献上品、金貨銀貨の袋を持参していて居間の長櫃に納めていたが、すべて消えていた。来客棟の衛兵隊がローナン修道士を見つけたとき手ぶらだったし、ウィガードはすでに冷たかったと証言する。
 献上品を盗むため先にウィガードを殺し、献上品を運び出しているのに時間がかかり、遺体が冷たくなったのか?。
 ローナンはなぜ献上品のことを知っていたのか?。物盗りのため修道士が大司教指名者を殺すのか?。ウィガードの部屋は3階で、来客棟は衛兵隊が見回っていた。ローナンはどこから進入したのか?、献上品はどのようにして運び出したのか?。‥次々と謎が謎を呼ぶが、まだ手がかりはない。
 ローナン修道士が牢から逃げた、と知らせが入る。

 ウィガードの葬儀模様、アウレリアヌス城壁、地下墓所=カタコンベなどの紹介がていねいだが、割愛する。

 ウィガード殺害当時、来客棟3階にはエイダルフ、ウィガードの召使いであるイネ修道士、スタングランド修道院のパトック院長、パトックの召使いのエインレッド修道士、セッピ修道士、2階にシェピー修道院ウルフラン院長、イーファー修道女が泊まっていた。フィデルマたちは一人ずつ聞き取りを始める。常套手段であろう。
 イネから、ウィガードは身分の低かった聖職者のころ結婚し子どもが2人いたが、ピクト人に妻子が殺されたこと、ウィガードの就寝の手伝いに行ったとき誰かと会うと言っていたことを、聞き取る。‥このときは読み流したが、実は事件を解明する重要な鍵だった。著者はさりげなく伏線を挟み込むのがうまい。

 話を飛ばしてエインレッドの聞き取りで、夕食後、円形闘技場を見学した後、コルネリウスの別荘に招かれ葡萄酒を飲みながら美術品の話を聞き、来客棟に戻って事件を知ったと証言する。‥ここにも読み流すように仕組まれた伏線が仕込まれていた。
 パトックは高圧的で、フィデルマを威嚇し、カンタベリー大司教指名者は自分のほかにいないと豪語するなど、野心を露わにする。
 セッピから、パトックがカンタベリー大司教に叙任されると、セッピがスタングランド修道院長に昇進すること、パトックは女性への欲望が強いこと、パトックは不眠症で悩んでいて、奴隷だったエインレッドは薬師の腕がよかったが主人を殺し死刑になるところだったので買い取り、不眠症の薬師としていつも同行させていること、エインレッドは妹と小さいときに奴隷に売られ、妹が主人の臥所に連れて行かれた翌日、主人の首を絞め殺したこと、を知る。‥これも伏線のように思えたが、事件とのつながりが見えない。

 ウルフランは傲慢に、姉はケント王国王女、自分は東アングリア・アンナ王の王女と言い放つが、首に巻いたスカーフが外れ首の赤い傷跡が見えてしまう。‥首の赤い傷跡は奴隷に特有である。
 イーファーは神経質におびえ、フィデルマに何かを探られまいとしているように答えるので聞き取りを終える。

 前後して、フィデルマたちは、来客棟に盗品が隠されていないか各部屋を調べるが盗品は見つからない。中庭側の部屋の外には10cmに満たないの張り出しがある。すぐ隣の外事局の入っている建物には30cmほどの張り出しがついている。‥これも重要な伏線になる。
 次に、聖ヘレナがエルサレムから持ち帰った18段の石段やキリスト磔刑の十字架など見ながら、ラテラーノ宮殿を抜け、アクア・クラウディア水路橋近くのローナンの宿に向かう。
 ローナンの部屋は実に質素で持ち物も限られ、盗品は無かった。フィデルマは、寝台の下から文字の書かれたパピュルスの切れ端を見つける。
 ローナンが働く外事局の上司ギリシャ人のオシモ・ランドーは、ローナンはおとなしい修道士で殺害犯ではないと断定し、フィデルマの見つけたパピュルスはアラム語で、図書館、聖なる病、フィルス、値段、交換などの単語が書かれていると教える。

 現場検証、関係者の聞き取りを終えるが事件の手がかりはつかめず、動機も見えてこない。行き詰まっているフィデルマに、ローナンからアイルランドの文字で、地下墓所で会いたいと手紙が来る。
 地上の墓地に着いたフィデルマは遠くにパトックとエインレッドを見かける。2人を避け地下墓所に降りたフィデルマは、首を祈祷用細帯で絞め殺されたローナンを見つける。ローナンはアラム語の書かれたパピュルスの切れ端を持っていた。近くには、ウィガードの長櫃にあった聖餐杯が落ちていた。
 アラビア人の声が近づいてきたので、パピュルスと聖餐杯を鞄にしまい地上に出ようとしたとき、誰かに頭を殴られて気を失い、パピュルスと聖餐杯を取られる。地上に運び出されたフィデルマはコルネリウスの声で気がつく。遠くからウルフランがイーファーを呼びつける声も聞こえる。
 ‥ローナン殺しはだれか?、パピュルスと聖餐杯はどこへ?、パトック、エインレッド、コルネリウス、ウルフラン、イーファーはなぜ墓地にいるのか?、著者は謎かけを楽しんでいるようだ。

 少し飛ばして、リキニウスは、パトックが椅子駕籠を雇いスラム街となったティヴェレ川沿いのかつての石工の街マルモラータに行けと指示するのを聞きつける。フィデルマ、エイダルフはリキニウスの小型馬車で追跡する。なんとパトックは売春宿の湯槽で、全裸の娘と抱き合っていた。
 ‥パトックの本性を押さえたが、事件とは無縁である。

 宮殿に戻ると、オシモが水路橋から身を投げて即死、の連絡が届く。フィデルマたちは、オシモの住まいに向かおうと聖ヘレナ礼拝堂を抜けるとき、エインレッドと修道女が抱き合っているのを目撃する。‥この伏線は何を意味するのか?。
 オシモの部屋はローナンの部屋の向かいだった。オシモの部屋からアレクサンドリア図書館の学術書2冊、ローナンへの愛の書き付け、聖餐杯の脚が見つかる。女将の話で、オシモの部屋からコルネリウスがアレクサンドリア図書館学術書3冊を持ち出したことが分かる。

 事件の全容を確信したフィデルマは関係者全員を集め、殺人+盗難事件の謎を解いていくが、ネタバレになるのであとは読んでのお楽しみに。
 7世紀のケルト、サクソン、ローマにおけるキリスト教の様相、当時のヨーロッパ情勢がよく理解できたし、ローマを思い出しながら新たな知見を加えることもできた。
 著者は、当時のキリスト教の様相を詳らかにしつつ、立身の欲望のために魂を悪魔に売ってはいけないと警告しているようだ。 (2021.7)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020.1シチリアの旅27 オルティジア島旧市街を歩く 2

2021年07月08日 | 旅行

世界の旅・イタリアを行く>  2020.1 シチリアの旅 27  オルティジア島旧市街 2 ドゥオーモ サンタ・ルチア カラバッジョ アレトゥーザの泉

 シチリアの旅7日目、フランシア・ナヴァ宮殿を過ぎ、サヴェリナ・ランドリナ通りを南に歩く。11:25過ぎ、ドゥオーモ広場Piazza del Duomoで視界が開けた。東側にドゥオーモが建つ。
 ドゥオーモ側の建物は南北一直線に建っている(写真右、広場南端からの眺め)が、西側の建物は西にカーブして並んでいる。最初のPalazzo Beneventano Del Bosco(写真左奥の建物)が少し西に振れ、続くPalazzo Arezzo Della Targia(写真左手前の建物)が弓形に湾曲して建つ。
 次のシラクーサ市役所Municipio di SiracusaとPalazzo della Sovrintendenza ai Beni Culturali di Siracusaが向きを少し東に戻して建つ。
 その次の建物が東に振れ(写真右奥の建物)、広場南端のサンタ・ルチア埋葬教会で広場が終わる(写真正面)。
 ドゥオーモ広場Piazza del Duomoは、ドゥオーモのファサードあたりが最も広くなるように西側の建物が計画的に配置されていて、そのため劇的な空間を構成しているのである。
 西側に並んでいる建物はpalazzoが多い。貴族の館が1693年の大地震後にバロック様式で改修され、その後、所有者の趣向、あるいは建物の用途によって新古典様式などが採用されたようだ。

 いまのドゥオーモDuomoは、紀元前480年、シュラクサイ=現シラクーサがカルタゴに勝ち、その賠償金でギリシャ神話の女神アテネに捧げる神殿を建てたのが起源とされる。創建時のドーリア式オーダーを乗せた円柱14本が残されている(写真)。
 東ローマ帝国時代の640年、ビザンチン様式で聖ルチアに捧げる教会堂に改修された。‥聖ルチアがシュラクサイの守護聖人として信仰を集めていて、教会堂が熱望されたためではないだろうか‥。
 教会堂にするため、列柱のあいだを石積みの壁でふさいで外壁とし、奥行き方向に増築したバシリカ式の長方形平面とし、アーチをかけた内壁を設けて3廊式とした(後掲写真参照)。
 
 話は聖ルチアに飛ぶ。サンタ・ルチアSanta Lucia(283-304)は、父が亡くなり母と暮らしていた。母の病が治らないので聖アガタの奇跡を信じ祈りを捧げたところ、ルチアの夢に聖アガタが現れ、母の病が治った。聖アガタの奇跡を実感したルチアはイエスに一生を捧げようと決心したようで、縁談を断った。
 当時のローマ皇帝ディオクレティアヌス(244-311)はキリスト教を弾圧していて、密告されたルチアは拷問で両目をえぐられるが目がなくても見えたそうだ。最後は、剣を喉に刺されて絶命する。
 両目をえぐられ剣で刺されたので、聖ルチアの象徴は目と剣である(写真、ドゥオーモ内サンタ・ルチア礼拝堂)‥
 ルチアはのちに聖人に列せられ、シュラクサイ=シラクーサの守護聖人として崇敬される。聖ルチアはナポリの船乗りたちの守護聖人でもあり、聖ルチアを歌ったナポリ民謡「サンタ・ルチア」は広く知られている。

 聖ルチアは、ルチアにちなんで名付けられたシラクーサのChiesa di Santa Lucia al Sepolcro聖ルチア墓地教会?に埋葬されたが、アラブ人の侵攻で遺体は東ローマ帝国・コンスタンティノポリスに移された‥左肩の骨はシラクーサに残されたようだ。後述‥。遺体は十字軍時代にヴェネツィアのChiesa di San Geremiaに移された。‥その折々に大金が動いたという尾ひれも付いている‥。
 1860年ごろ、ヴェネツィアに鉄道が新設され、Chiesa di San Geremiaは解体された。遺体は、聖ルチアにちなんで名付けられたChiesa dei Santi Geremia e Luciaに移された。新駅はルチアにちなみ、サンタ・ルチア駅と名付けられた。
 ‥誇張、誤解の含まれた諸説があるが、聖ルチアは、遺体が争奪され、教会、駅、歌にルチアと名付けられるほど信仰を集めたというのは事実であろう‥。

 カラバッジョに話が飛ぶ。ミラノ生まれでイタリアバロック絵画の名作を残したミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァジョ(1571-1610)は、35歳のとき喧嘩で相手を殺してしまい、マルタ島に逃げる。マルタ騎士団総長はカラヴァッジョの絵を高く評価して団員として迎える。カラヴァッジョも期待に応え「ヨハネの斬首」などを描く。‥1999年、マルタの旅で、聖ヨハネ准司教座聖堂に飾られた「ヨハネの斬首」を見た。光の効果による表情豊かな描写は傑作であ‥。
 ところがカラバッジョはまたも諍いを起こして騎士団を除名になり、1608年、シラクーサに逃げる。シラク―サ滞在中に描いたのが「サンタ・ルチアの埋葬」(写真、web転載)で、Chiesa di Santa Lucia al Sepolcroに飾られた。カラヴァッジョは、その後メッシーナ、パレルモ、ナポリと転々とし、ローマに向かう途中の1610年に病死したというのが有力な説である‥。

 カラヴァッジョの描いた「サンタ・ルチアの埋葬」はChiesa di Santa Lucia al Sepolcroから移され、現在はドゥオーモ広場南端のサンタ・ルチア埋葬教会Santa Lucia alla Badia(写真)に移されて展示されている。この教会堂はもと修道院で、1693年の大地震後にバロック様式で再建された‥内部は撮影禁止であり、私たちのツアーは見学していない‥。

 話をドゥオーモDuomoに戻す。東ローマ帝国時代に教会堂に改修されたが、アラブ・シチリア首長国時代にはモスクとして使われた。
 ノルマン・シチリア王国時代に教会堂に復活し、採光用の高窓が増設された(写真、連続アーチが東ローマ帝国時代、高窓がシチリア王国時代)。
 1693年の大地震後、バロック様式で再建が始まり、1753年に完成する(写真)。石灰岩の黄色みが日射しで輝き、コリント式オーダーを乗せた円柱を壁面から前に出して奥行きが強調されている。
 軒先蛇腹や壁の胴蛇腹soffietto、ファサード上部や開口部上部の段型・半円・破断ペディメントfrontone、入口上部の飾り迫り縁archivolt、彫像のどれも彫りが深いうえ、バランスよく配置されている。ファサードは宮殿のような壮麗さを醸している。
 ファサード2階中央は無原罪の受胎像、左は聖マルシアン像(シュラクサイ生まれ、使徒ペテロがシュラクサイを訪れたときの弟子)、右は聖ルチア像、1階左は聖ペテロ像、右は聖パウロ像だそうだ‥彫像の判別は難しい‥。入口アーチ上にはシラクサのシンボルである鷲が羽を広げている。聖母、聖人などの彫像、彫刻も効果的に配置され、ファサードの壮麗さを高めている。
 
 ドォーモ内のサンタ・ルチア礼拝堂に参拝する(写真)。ガラスケースの中に安置されている聖ルチアの左腕の骨に、日本流に合掌する。
 ‥釈迦の遺骨は細かく分けられ、8万余の寺院に配布されて仏教が広まったというのが定説である。聖ルチアの遺体がヴェネツィア、左腕がシラクーサに安置され、それぞれ多くから信仰されているのは違和感はない。ただ、両目をえぐり出すとは凄まじ過ぎる。悪魔に魂を売ってはいけない‥。

 ドゥオーモ広場から南西に歩くと、海沿いのアレトゥーザの泉Fonte di Aretusaに出る(写真)。
 ギリシャ神話では、ゼウスZeusの浮気でレートーLetoが産んだ双子の姉アルテミスArtemisはオルティジア島で生まれた。
 伝説では、ギリシャに戻った女神アルテミスに仕えていたのが妖精アレトゥーザAretusaで、ギリシャ・ペロポネソス半島を流れるアルフィオス川の神アルフィオスAlfeiosがアレトゥーザに言い寄る。アルフィオスを嫌ったアレトゥーザはアルテミスに願い出て水に姿を変え、ギリシャから海底を流れ、オルティジア島で再び地上に現れ、泉になったそうだ。
 ‥諸説があるらしいが、ギリシャ神話の男はすぐに女を口説きたがるのは定説のようだ‥。
 海沿いだが、神話、伝説の通り真水が湧き出ていて、古来より飲用水、生活水として利用されてきた。泉にはパピルスが生えている。川魚もいるらしい。
 だいたい12:00、オルティジア島旧市街の見どころ見学を終える。  (2021.7)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする