2015年5月22日金曜、ドイツの旅11日目
昨日はマルティン・ルターが宗教改革を始めた町、ヴィッテンベルクを訪ねた。
プロテスタントを起こしたことは誰もが教科書で習ったはず。その始まりがヴィッテンベルクである。1517年、ここで95条の論題を発表し、カトリック教会から破門され、やがて農民戦争へと発展し、新しい教会プロテスタント=抗議者が定着していく。
2017年にルター500年祭を予定していて、ヴィッテンベルクでもルター修復工事が進められていたが、ルターゆかりの町を散策しながら、聖書の教えに忠実であろうとしたルターの思いを追想した。
昼近くヴィッテンベルクを出て、デッサウに向かう。ここで、当初の面影を残していまも教育活動を展開しているバウハウスを見学した。バウハウスはモダニズムの始まりを象徴していて、建築を学ぶ学生の必須事項である。建築におけるモダニズム3巨匠はコルビュジエ、ライト、ミースであり、4人といわれればグロピウスが入る。バウハウス初代校長がグロピウス、3代校長がミースであるから、バウハウスの功績がうかがい知れよう。ナチスによって閉校され、ミースはアメリカに亡命して、アメリカで名作を次々とデザインした。学生のころ、ミースのユニヴァーサル空間を勉強し、人間の平等を建築空間で表したことにいたく感動した。その原点にいると思うと感動はこみ上げてくる。昼食は、エルベ川沿いに建つコーンハウスでとった。自由であることの至福を感じた。
夕方、ドレスデン到着。今ごろは、7時は日本の5時頃の明るさ、ツアーの仲間とドレスデンビールを飲み干した。
そして、今日22日はたっぷりザクセンの中心として栄えたドレスデンを堪能した。第2次大戦で崩壊し、復元されたフラウエン教会、ザクセン公の居城だったレジデンツ城、フェルメールの「窓辺で手紙を読む女」などを展示しているアルテマイスター絵画館、エルベ川のクルーズなどを楽しんだ。
明日は、ポツダムを見学後、ベルリンである。が、ドイツは3連休になり、しかも日曜祝日はすべてが休み。日本と違って観光以外の「すべて」が休んでしまうそうだ。それもいい経験かな。
連日天気には恵まれている。まだ一度も傘を使っていない。日陰は風が冷たいが、日射しは強く、半袖Tシャツで歩く人も少なくない。
旅は順調。
2015年5月20日水曜、昨晩はアイゼンナハに泊まり、今日はアイスレーベンに寄って、クヴェトリンブルクのホテルに入った。
アイゼンナハはバッハが生まれた町、バッハハウスを見学した。ミュージアムで、学芸員が古いオルガン、ピアノを紹介し、実演してくれた。
アイゼンナハはルターが学生時代に学んだ町でもあり、そのときに住んだルターハウスもあるが、改装中だった。
アイゼンナハの町外れの丘の上にあるヴァルトブルク城は、ワーグナー作曲「タンホイザー」のモデルになった城である。見応えのある城で、学芸員は日本語テープを流しながら愛想よく案内してくれた。
ルターが宗教改革を唱えた後カトリックから破門されたとき、ヴァルトブルク城主がルターをかくまった。そのときルターが聖書の翻訳をした部屋も公開されている。
アイスレーベンは、ルターが生まれた町であり、晩年に戻ってきて息を引き取った町でもある。だから町は、正式には「ルターの町アイスレーベン」と呼ぶ。生まれた家、洗礼を受けた教会、マルクト広場、晩年の家などを見て回った。
クヴェルトリンブルクは木骨造の家並みがよく残されている。時代によって外観の表現が変わっていくのがよく分かる。
町外れに建つ聖セルバティウス教会は、ザクセン朝ドイツ王国初代国王ハインリヒ1世と王妃の墓所があり、貴重な財宝が収蔵されていた。
連日14~18度ぐらいでやや涼しい感じだが、雨は二度ほどパラパラと降った程度で、曇り~晴れの毎日。
ただし石畳を毎日1万~1万5千歩も歩いているので、足が疲れた。せっせと本場ドイツ地ビールで元気をつけている。
明日はルターが活躍したヴィッテンブルクを見学後、バウハウスを訪ね、ここで昼食をとってドレスデンに向かう予定。
2015年5月16日・土曜、ドイツ5日目
昨日~昨日はリューベック・ラディソンブルに連泊した。ホテルは運河沿いの好立地、旧市街が眺められ、マルクト広場まで6-7分と便がいい。
リューベックはハンザ同盟の中心、ハンザの通所の一つが北欧のニシン、タラなどで、保存のために大量の塩を必要とする。
リューベックに近いリューネブルクで地下の岩塩層が見つかり、塩街道を通じてリューベックに塩が運ばれた。
その塩は、コッゲ船と呼ばれる平底の船でバルト海を経て北欧に塩が運ばれ、塩漬けのニシン、タラなどが作られた。
リューネブルクはその塩で大いに栄えた。今日はそのリューネブルクを見学した。市庁舎は確かに当時の繁栄ぶりをいまに残している。
今日は土曜でマルクト広場市が開かれ、賑わっていた。ちょうど白アスパラの時期だそうで、白アスパラを求める人が長蛇の列を作っていた。
そのころ、北ドイツではブドウの栽培が難しく、もっぱらビールが醸造された。リューネブルクにもよく知られたビール醸造所があり、その一部がレストランになっていて、そこで昼食をとった。ドュンケルと呼ばれるビールは黒ビールに似た色合いで、甘みを感じる飲みやすさだった。
リューベックはデンマークの東側、バルト海に面している。リューネブルクはやや内陸に位置する。さらに西に走り、午後ハンブルクに到着した。ここはデンマークの西側、北海側になる。冷たい風が吹いていて、気温は12-13度と寒いほど。
ハンブルクもエルベ川を経由した水運が功を奏し、大いに栄えた。いまやドイツ第2の都市である。市庁舎も大きな聖堂もその栄華をよく表している。第2次大戦の空爆で破壊されたが、オリジナルに忠実に復元されている。同時に、現代的なデザインも取り入れられていてそれがうまく調和している。
夕食は古さをよく残したレストランで、船乗りの料理ラプスカウスを食べた・・説明が難しい・・。ビールは小麦を原料としたドゥクステインにした。苦みのないが深みのある味だった。
明日はブレーメン、ハーメルンに向かう。天気予報では最高気温14-15度、まだまだ涼しい。
2015年5月、ドイツの旅4日目(金曜)
昨晩からドイツ・リューベック、トラーヴェ運河沿いのラディソンブルに滞在、今朝は最低6度、今日の最高16度、曇り空で、涼しいというより肌寒い感じ。
今回の旅の前半はハンザ都市巡り、リューベックはハンザ同盟の中心だった町で、昨晩は、当時、船員たちが使っていたギルド会館を改装したレストランでニシン料理を堪能した。
一昨日は、やはりハンザ同盟の主要な町ロストクを訪ね、その後、蒸気機関車モリー号に乗り、ハンザ都市ヴィスマルで泊まった。
モリー号やバス移動中の田園は一面の菜の花畑、これでもかこれでもかと菜の花が続く。そこに環境先進国らしく、風力発電が何機も何機も、ぐるりぐるりと回っている。ときおり、牛や羊が草を食んでいる。
農業国ドイツ?を実感したり、水運国ドイツの歴史を目の当たりにしたり、第2次大戦で徹底的に空爆され、復興した建築土木力の力を見たり、そしてドイツ地ビールの味に引きつけられたりしながら、旅を続けている。
ほぼ毎日Wi-Fiがつながるので、時間があれば続報を。
イタリア紀行2004-28 サンタ・マリア・デル・フィオーレ ヴィラコラ アペニン山脈 ヴェネツィアへ
サンタ・マリア・デル・フィオーレの外観は全景をとらえることができないほど壮大であり、色違いの大理石を幾何学模様で構成したデザインは壮麗さを感じさせる。
ところが堂内は意外と質素である。シエナのドゥオーモの堂内は色違いの大理石の横縞模様で壁面、柱を仕上げていて壮観であったし、ピサのドゥオーモのモザイク画は圧巻だったが、比べるとフィレンツェの堂内は簡素である。
身廊の奥行き、高さが群を抜き、広々として明かるいため、いっそう淡泊に感じさせるのかも知れない。
身廊と翼廊の交叉部にブルネレスキ会心のクーポラが乗る。クーポラの天井にはジョルジョ・ヴァザーリの「最後の審判」がフレスコ画で描かれている。ただし、天井画がかすむほどの高さで、カメラのズームアップでなんとか識別できた。中央の明かり取りになるランターンの周りが天国、その下にイエスが両手を広げていて、その下に聖母マリアが座し、最下段が地獄になっているようだ。
集合時間にバスに乗り、アルノ川を渡った先のミケランジェロ広場に向かった。ここは高台になっていて、フィレンツェの市街を見下ろすことができる。一面の赤瓦の屋並みからサンタ・マリア・デル・フィオーレが抜きんでているのがよく分かる。フィレンツェを訪れたイタリア人、外国人は誰もがフィレンツェの力に圧倒されたに違いない。
このあと、かつての貴族の館を改装したホテルのレストランで昼食を取り、午後はアペニン山脈を越えてヴェネツィアに向かった。フィレンツェからおよそ3時間半、6時過ぎにヴェネツィアのサンタルチア駅近くの駐車場にバスが止まった。ヴェネツィア本島には車では入れないので、水上バスに乗り換えである。さっそく水の都を実感させられた。