yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2017 函館元町散策/蔦で覆われたレンガ造の明治館→北前船の重石を使った高田屋嘉兵衛資料館→・・

2017年08月31日 | 旅行

2017.8 北海道 大沼・函館を行く ⑧元町散策へ、明治館・高田屋嘉兵衛資料館・コンクリート電柱・旧イギリス領事館・ペリー提督像
10時ごろにチェックアウトし、荷物を預けて、開港通りの散策に出た。まず蔦で覆われた明治館に入った(写真)。蔦が伸びていない外壁から分かるようにレンガ造の建物である。
 明治44年1911年函館郵便局として建てられた。埠頭に近く、海運関係者には都合良かったのだろうが、市街が発展して郵便局が移転し、1962年に払い下げられ事務所、倉庫などに利用された。
 1983年からは主に観光客向けの商業施設に改装され、いまに至っている。オルゴールとガラス製品が目玉商品のようで、定期的にオルゴール演奏が開かれ、ガラス細工の体験ができるそうだ。テディベアミュージアムも併設され、ワインコーナーもあり、工夫を凝らしているが、詰め込みすぎで雑ぱくな雰囲気になっていた。

 明治館の少し西に高田屋嘉兵衛資料館がある。高田屋嘉兵衛(1769-1827)は淡路島の生まれで、廻船業で成功し、箱館の発展に尽くした。湾内埋め立て、掘り割り整備、道路改修、造船所建設などを進め、箱館の開祖といわれた。国後島、択捉島への航路を拓き、北方領土の開拓に尽力したのも高田屋嘉兵衛である。
 司馬遼太郎著b176-b181「菜の花の沖」に詳しく語られている。だからここに高田屋嘉兵衛資料館があってもおかしくないが、建物は高田屋嘉兵衛とはゆかりがなく、左は明治36年1903年建設で北前船の重石として使われた越前石を利用した石造、右は1923年建設の鉄筋コンクリート造で、コンブの倉庫だった。
 1986年、伝統的建物を転用して高田屋嘉兵衛資料館が開館した。なかには嘉兵衛が28才のときに建造した1500石積み辰悦丸の模型が展示されている。菜の花の沖に詳しく書かれているが荷をたくさん積める工夫を凝らした船だが、模型を見ているだけではどこが新しい工夫かは分からなかった。ほかに廻船に関する資料などが展示されていた。高田屋嘉兵衛に関心があれば入館してもいいが、嘉兵衛に興味がなければ、北前船の重石を使った伝統的建物外観を眺めるだけで良さそうである。


 開港通りをさらに西に歩くと、角にコンクリート電柱が立っている(写真)。観光マップには日本最古のコンクリート電柱と記されている。1923年、ここに鉄筋コンクリート造の銀行が建てられた。そのころの電柱は円形の木製が一般だったが、当銀行は資金を出し電力会社に四角いコンクリート電柱を要望して実現したのがこの電柱である。
 2本が対で立てられたが、1本は近年の再建で、写真の電柱が日本最古になる。日本で最初のコンクリート電柱を立てれば銀行の宣伝にもなる、と考えたのではないだろうか。前述のコンブ倉庫の1棟も1923年のコンクリート造だから、まだ鉄筋コンクリート造が珍しかったのかも知れない。


 路面電車通りを北に歩き、基坂を上ると左に旧イギリス領事館が建っている。1858年、日米友好通商条約が締結され、函館が開港した翌1859年、イギリスは仮領事館を置いた。1863年、元町に領事館が完成するが、明治40年1907年の函館大火で焼失、1885年に現在の場所に領事館が完成するがまたも焼失、1913年に再建された。
 その後、イギリス領事館は横浜に移り、この建物は病院などに利用され、1992年から旧イギリス領事館開港記念館として一般に公開されることになった。寄棟の瓦屋根が日本的な印象を与えるが、設計はイギリス工務省上海工事局で、内部は質素だがイギリスの伝統的な雰囲気をつくり出している。
 領事館の奥にバラが植えられたイギリス庭園が設けられている(写真)。カフェでイギリス紅茶を味わえるそうだが、コーヒー党だし、イギリス紅茶も元を正せばスリランカかインドなどで生産されている・・スリランカには何度か訪ねていて、そのたびに紅茶を土産にした・・と思い、通りに出た。

 通りの反対側は広場になっていて、ペリー提督ブロンズ像が港を見下ろしている(上写真)。説明を読み、箱館開港の歴史を復習する。

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2017 運良く雲が切れ函館山から夜景を楽しむ+ホテルは明治の倉を再利用

2017年08月30日 | 旅行

2017.8 北海道 大沼・函館を行く ⑦運良く雲が切れた函館山からの夜景、明治の倉を再利用

 5時過ぎ、ラビスタ函館ベイにチェックインする。某旅行会社によれば函館一の高い評価で、人気のホテルだそうだ。ホテルのパンフレットなどにも、西洋文化と和の融合、大正ロマンをイメージしたクラシカルな雰囲気などをうたっていて、ロビー~ホールも部屋も雰囲気は確かにすばらしい。部屋は函館湾に面していて、眺めもすばらしい。急な予約だったため、東向きの部屋で、青函連絡船摩周丸が遠望できるが、眼下は倉庫やビルでちょっと地味である。西向きの部屋は函館山を遠望し、赤レンガ倉庫群などが下に見え、東向きに比べ賑わいがあり、夜景も良さそうだ。どちらかといえば、西向きの部屋がお勧めである。

 最上階の温泉も良かった。空中楼閣と名付けられた温泉から、函館湾、函館山を一望できる。内湯も広々としているし、露天の岩風呂で風景を眺めながらゆったりとした気分になれる。露天にはほかに陶器風呂、樽風呂、桧風呂が用意されていて、気分転換ができる。たっぷり湯を楽しんだ。部屋に戻り、函館海鮮市場で見つけた地ビールを味わいながら海を眺めてくつろいだ。

 ディナーは、1階のレストランノルテでシーフード+ステーキのフルコースを頂いた。まずはスパークリングワインで乾杯、シーフードには白ワイン、ステーキに赤ワインをあわせた。マリアージュについては詳しくないから、ワインの銘柄はスタッフに任せたが北海道ワインは置いてなくて、フランスワインとオーストラリアワインだった。地元振興を期待したいね。
 レストランノルテは西向きで通りに面して大きなガラスがはめ込まれ、彼方に函館山が見える。食事をしているうちに雲の流れが速くなり、山頂の明かりが見え始めた。ひょっとすると運が向いてきたか?。食後のコーヒーを慌ただしく飲み、そのままロープウエイ乗り場に向かうことにした。スパークリングワイン、白ワイン、赤ワインを飲んでいるから、足下がふらつき、坂がきつかった。ホテルから開港通りに出て西に向かい、二十間坂を上る。ハ~ハ~ゼ~ゼ~しながら、見上げるとロープウエイが動いている。南部坂に出るとすぐ先がロープウエイ山麓駅である。身体のほてりがおさまってくると、風が涼しく感じる。
チケット売り場は比較的空いていた。降車してくる人のほとんどはアジア系外国人である。函館山の夜景観光のようだ。ゴンドラはかなり広く、125人乗りだそうだ。3分ほどで標高334mの山頂に着いた。展望台は大勢が見学していて、人垣で市街が見下ろせない。もう一段上の展望デッキに上ると、人垣に隙間があった。雲が切れて、夜景が見える(写真・・カメラを持たず出たのでインターネットから転載・・)。ときどき雲が流れて夜景をぼんやりさせるが、風が強くすぐ雲が切れる。風は冷たい。上着の襟を立てながら、幻想的な夜景を眺める。100万ドルの夜景とか、日本の夜景トップとか言われるのが納得できる。ときどき雲がかかっては雲が切れる。それがまた夜景を神秘的に仕上げる。20~30分も夜景に見とれた。

 8時半過ぎ、ロープウエイを下る。南部坂、二十間坂、開港通りを経てホテルに戻る。酔いも覚めたし、身体が少し冷えたので、空中楼閣の温泉に入る。まだ客が少なくのんびりできた。函館山は次第に雲が増え始め、やがて山頂駅の明かりが見えなくなった。絶妙のタイミングで夜景を見に行ったことになる。運が良かった。

 8月7日・月曜、気持ちよく目が覚める。見下ろすと、もう船が動いている。7時過ぎ、2階朝食会場の北の番屋に降りていったらエレベータホールまで人があふれていた。団体客がいるのだろうか?、とすれば8時ごろの出発が多いから、8時過ぎに出直すことにして、1階の資料展示室をのぞいた。

 このあたりは、箱館開港に伴い埋め立てがすすみ、倉庫などが建ち並んで急速に発展したところである。当時、蝦夷は稲作に不向きで、米は内地から運んでいた。明治8年1875年、米を貯蔵する常備倉が建てられた。赤レンガ造だった。1890年、食料供給の安定に伴って常備倉は廃止となり、倉は安田倉庫に払い下げられた。
 時代が変わり、海運の衰退とともに倉庫は利用されなくなり、2007年、安田倉庫の跡地に高層ホテル・ラビスタ函館ベイがオープンした。ラビスタ函館ベイは、1階に旧安田倉庫の赤レンガ壁とアーチ門を再利用し、外観は赤茶のレンガ色で仕上げ、赤レンガ倉庫の印象を継承している。
 昨晩、ディナーを食べたレストランノルテの道路側は再利用の赤レンガ壁で、函館山が見えた大ガラスはアーチ門の再利用だった。大正ロマンをイメージしたクラシカルなデザインのコンセプトが理解できる。歴史の痕跡を新しい建物に組み込む姿勢は賞賛したい。

 見学を終え、8時ごろ北の番屋に上がったら、まだエレベーターホールは順番待ちの行列が続いていた。仕方ない、狭いエレベータホールで並び、30分ほどかかってやっと順番が来た。時間を区切った予約制にするとか、1階レストランでも朝食を提供するとか、隣接するレストランでも朝食が食べられるようにするとか、何らかの改善が必要だと思う。
 しかし、食材は新鮮で豊富だった。ビュッフェ形式で海の幸がずらりと並んでいる。好みの食材を取って海鮮丼に仕立てた。野菜も煮物もおいしい。牛乳は濃厚で、ヨーグルトも味がいい。コーヒーも本格派で、これでは長居したくなる。30分も待った甲斐があり、おいしく頂いた・・食べ過ぎた・・。

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2017 明治40年函館大火後に再建された函館ハリストス正教会聖堂へ+函館湾ボートクルーズ

2017年08月29日 | 旅行

 

2017.8 北海道 大沼・函館を行く ⑥函館ハリストス正教会、函館湾ボートクルーズ
 旧函館区公会堂から港に下る坂は基坂と呼ばれている。同じように山裾から港にむかって18本の坂が下っていて、それぞれ特徴を示す名前がついている。基坂は、函館から札幌へ向かう函館本道の起点で、里数を計る元標が建てられていたそうだ。先ほど上ってきた八幡坂は、名前から想像できるように、八幡神社があったのでこの名になった。このあと下った坂は二十間坂で、道幅が20間だったことによる。京の町のような一条、二条、三条・・・は位置関係を把握しやすいが、名前に由来があると町に刻まれた歴史に思いが飛ぶ。名前を募集して得票数で決めるよりも、町に愛着が生まれると思う。
 旧函館区公会堂の一本西の通りを南に歩くと、函館ハリストス正教会復活聖堂に出る(写真)。2001年にも訪ねていて、ホームページ日本の旅・北海道の旅に紀行文を書いてある。一部を抜粋し、加筆する。ハリストストはロシア語でKhristosと表記する。ローマ字読みをすればキリストと読めるように、正教会は1054年ローマ・カトリック教会から分離独立したビザンチン帝国のキリスト教会を起源としていて、ビザンチン帝国とロシア帝国が姻戚関係にあったことから、ロシアに正教会がもたらされた。明治2年1869年にロシア領事が箱館に着任する。ロシア正教会宣教師ニコライも同時に着任し、ロシア領事館付属の聖堂が建てられた。この聖堂は明治40年1907年の大火で消失してしまう。大正5年1916年ロシアからの多額の寄付をもとに、正教会の司祭を助けていた河村伊蔵の設計で再建された。レンガ造であるが、しっくいで仕上げられていて、こぢんまりだが存在感を十分に感じさせる。
 入り口は東側にあり、上部に八角錐の屋根をのせた鐘塔が空に向かって大きくそびえる。聖堂は寄棟の屋根をのせ、祭室は聖堂に寄り添うように緩やかな曲面の屋根でつくられている。正面からは鐘塔が大きくのびる形、側面では鐘塔・聖堂・祭室のバランスのとれた形、背面は曲線の柔らかな形と、小さいながらも変化に富んだ外観をみせる。
 堂内に入るり年老いた係に挨拶してから、奥のイコノタス=聖障(イコノタスの奥が至聖所)に描かれたイコン=聖画に参拝する。中央が最後の晩餐、その上がイエスの復活、正面左下が聖母、左端がマグダラのマリヤ、正面右下がイエス・キリスト・・のイコンが飾られている。このハリストス聖教会からも、江戸末期、ロシアが蝦夷に強い関心を持っていたことが推察できる。北方四島は未だ解決の道筋が見えていない。共存の道は探せないのだろうか。

 近くには、カトリック元町教会、聖ヨハネ教会もあり、観光案内には教会巡りのコースも紹介されている。私たちは教会巡りよりも休憩を選んで、角のカフェに入った。函館山の山頂はまだ雲がかかっている。店主にいつも雲がかかるのかなどを聞いたら、雲の具合を確かめてくれ、雲の動きが速いから運がよければ雲が切れるが、運が悪ければ雲で夜景は見えない、つまり五分五分だという。南部坂にロープウエイ乗り場があるのを確かめてから、二十間坂を下って、港に向かった。

 4時半ごろでまだ早い。山がだめなら海であろう。函館湾遊覧船はいくつか乗り場があるらしい。赤レンガ倉庫群あたりでKANEMORI BAY CRUISEを見つけた(写真)。モーターボートによるクルーズで一周20分ほどだそうだ。モーターボートは初体験なので乗ってみた。5人乗り合いで出発する。函館山は雲に隠れている(写真)。残念と言葉にしたら、同乗の人が函館は3度目だが3度とも雲に隠れていると語った。操縦士も、いまの時期は雲がかかりやすと慰めてくれた?。湾内でも波があり、スピードが出ると波に乗り上げて浮き上がる感じで、静かな遊覧船よりスリルがあった。函館山、赤レンガ倉庫群、青函連絡船摩周丸などを眺めながら函館湾を一周した。

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2017 明治40年の大火後、函館の繁栄をバックに赤レンガ倉庫群や函館区公会堂が建てられた

2017年08月28日 | 旅行

2017.8 北海道 大沼・函館を行く ⑤函館の赤レンガ倉庫群から旧函館区公会堂へ

 五稜郭公園前のプラットフォームに着くと、路面電車はほどなく来た。やはり便利である。西方面は函館駅前を通り、市役所前、市場通を経て、次の十字街で南の谷地頭行きと北の函館どつく前行きに別れる。
 十字街で降りてから埠頭沿いを歩き昼食の店を探した。海鮮の店が並んでいると思っていたが、どちらかというと若者、家族向けの外食系レストランばかりだった。ホテル前にイカイカ亭という名の店があった。イカイカと銘打っているからイカが新鮮に違いないと思い、ここで海鮮丼を食べた。1時を過ぎていたので、ご飯は少なめにした。

 一息してから、赤レンガ倉庫群をのぞいた(写真、クルーズボートからの眺め)。1887年、大分出身の実業家・渡辺熊四郎は長崎から箱館に渡り、埋め立て地に森屋洋物店を開いた。海運が盛んになり倉庫が不可欠と考えた渡辺は倉庫を買い取り倉庫業を始めたが、明治40年1907年の大火で倉庫群が焼失した。
 1909年、渡辺は耐火性のあるレンガを用いて倉庫群を再建した。昭和後期になると海運が衰退し、倉庫は使われなくなったが、赤レンガ倉庫群が伝統的建造物として脚光を浴び始めた。赤レンガ倉庫の一棟がヒストリープラザとしてオープンし、1989年には赤レンガ倉庫群を含めた元町・末広町の一部が重要伝統的建造物群保存地区に指定され、BAYはこだて、金森洋物店などが開館していった。
 のぞいたら、日本人観光客も少なくないが、英語、中国語、韓国語?が併記されていて、外国人観光客が圧倒していた。ちなみに、外壁に記された「逆L+森」の「逆L」は大工道具の一つである曲尺カネジャクのカネ(=金)を意味し、「逆L+森」で金森の屋号を表しているそうだ。


 赤レンガ倉庫群を抜け、路面電車の通りを北に曲がった先の八幡坂を西に上った。かなりの急勾配である。正面に函館山が見えるが雲に隠れている(写真)。山頂が雲に隠れていれば、逆に山頂からの眺めも期待できないことになる。夜景は無理かな?。八幡坂を休み休み上りきる。振り返ると港が見下ろせる(写真)。すばらしい眺めで、先客が写真を撮りあっていた。

 お年寄りが両方の手の杖をつきながら、休み休みして上ってきた。観光客にとってのすばらしい眺めでも、お年寄りにはたいへんなご苦労と思う。かなりの勾配だから、上りはきついし、下りは足下が危ない。お気を付けて。
 坂の上には高校が建っていた。若者たちは、毎日この景色を眺め、港の先に広がる世界を夢見るに違いない、とも思った。あとで丘に立つペリー提督と梅を眺める新島襄のブロンズ像を見た。港を開かせたペリー提督、海外の先進を学ぼうとした新島襄、その人の状況によって風景は異なって人に働きかける。

 北に歩くと、旧函館区公会堂に出る(写真)。明治40年1907年の大火で町会所が焼失し、豪商の相馬哲平が5万円を寄付し、総工費5.8万円で1910年に完成したのが現在の旧函館区公会堂である。1907年大火では海に面した金森倉庫群も焼失しているし、山の手の町会所も焼失しているから、相当な広範囲に大火が及んだことが想像できる。総工費5.8万円のうちの5万円を寄付するほどの実業家がいた、というのも驚きである。町会所が設けられたほど、函館が飛躍的に発展したことも驚嘆に値する。そのいずれも箱館開港で海運が栄え、函館が繁栄していったことを裏付けよう。

 木造2階建てとはいえ、なかなか絢爛豪華な仕上がりである。中央玄関を中心に左右対称とし、左右にポーチを設け、2階前面は左右をつなぐ回廊とし、中央玄関、ポーチそれぞれの2階に開放されたベランダを配置している。玄関、ポーチ、回廊を支える円柱は木造ながら石造に似せ、コリント式の柱頭飾りを乗せている。縁取りの黄色が金色に見えるのも建物を華やかにしている。

 明治44年1911年、皇太子嘉仁親王=のちの大正天王の行啓の宿舎として使われた。1909年には東京赤坂に嘉仁親王の住まいとして東宮御所(片山東熊設計)が建てられているが、旧函館区公会堂は決して遜色がないほど、絢爛に感じる。
 大正11年1922年には摂政宮殿下=のちの昭和天皇も休憩に利用されている。眺望も優れているし(写真)、函館のなかではほかに類を見ない絢爛な建物だった証であろう。
 1階では、明治時代?のハイカラな衣装を着て記念写真を撮る衣装館があり、若い女性が大はしゃぎで衣装を選んでいた。明治時代を思わせる建物だから、タイムスリップしたいい記念写真になるに違いない。

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2003スリランカ南部はウエットゾーンで自然池、人工池、水路を利用し、低地で稲作を行う

2017年08月27日 | studywork

「スリランカのウェットゾーンにおける水共生術」 日本建築学会2003年度大会

1 はじめに  スリランカの南部は、5月~9月の南西モンスーンの時期に雨季になるが年間を通して雨があり、降水量は2400mm/年(コロンボ)でウェットゾーンをなす。雨が年間を通して多く、島の中央南に集中する山岳地帯からの川があるため、ドライゾーンのような1/100万の地図にのるほどの巨大な人造湖は少ない。
 しかし、熱帯であり乾燥は早い。しかも、ヨーロッパの進出後のウェットゾーンの開発にともない、首都スリー・ジャヤワルダナプラやスリランカ最大の都市コロンボ、国際空港ニゴンボをはじめとする行政・産業の中枢はウェットゾーンにあるため人口集中が続き、水不足が深刻な問題になりつつある。
 水供給システムと生活スタイルに関する調査研究の蓄積は少ない。本稿では、ウェットゾーンに位置するカットタ村(Kattota、ニゴンボに近い農村)を対象とした、水供給と水利用についての事例報告である。調査は前報と同じ2001年3月、2002年8月、2003年3月に行った。

2 ウェットゾーンの水供給システム  カットタ村には人造湖はないが、カットタ村に隣接した標高の高いホラゴラ村(Horogolla)に小規模なホラゴラ池(Horogolla pokuma 自然池、乾季の水面の最長は数百m)とホラゴラ湖(Horogolla wewa 人造池、乾季の水面の最長は数百m、写真)があり、この二つの池からの水路がホラゴラ村を通り、カットダ村に流れこんでいる(図)。
 カットタ村には、これとは別に自然の流れである水路が2本流れていて、計4本の水路がカットタ村の低地を通り、最後はマラマトゥ川(Malamathu oya)に合流する。自然池・人造池・水路とも、水量の変化はあるものの年間を通して水が涸れることはない。
 人造池・自然池から直接または水路から田んぼに水が引きこまれ、順次低い田んぼを潤した水は、水路または川に流れ込む。このように、ウェットゾーンではドライゾーンのような巨大な人造湖をつくり水路で複層的に連続させる潅漑貯水システムはつくられない。水路に沿って、人が集まりやすい場所に井戸が掘られる。井戸の水も多少の水位の変化はあるが年間を通して涸れることはなく、水面は地表面に近い。井戸には水場が設けられていて、後述するように共同利用される。使い終わった水は田んぼに流れ込む。

 ウェットゾーンの水系を模式化すると図のようになる。ドライゾーンの潅漑貯水システムを取り入れながらも、ウェットゾーンの水の豊かさを最大限に生かしている様子がうかがえる。

3 集住のかたちと水利用  ホラゴラ村もカットタ村も起伏があり、低地を主として田んぼにし、高い方を宅地に利用し、水路は土地の高低を読み取って設けられている。起伏があるため、田んぼの形状も宅地の配列も起伏のかたちを反映している。
 図はカットタ村の一部であるが、北側と南側の高いところが宅地になり、中ほどの低いところを田んぼにしていて、宅地と農地が混在する。宅地の間口は30mほどの場合もあれば10mに満たない場合もあり、奥行きも菜園などをつくるゆとりのある宅地もあれば、山や崖地のためほとんど裏庭をとれない宅地もあり、一様にはなっていない。そのうえ、平坦なスペースが少ないため、住居の大きさや向き、入口の取り方は宅地の立地を反映して、一定しない。
 間取りは住居の規模によってニダナカーマラヤが増え、各部屋が大きくなるが、構成は共通する。前頁図右下2軒目の住居Bを例に間取りと住み方を紹介する(写真、通りからの外観)。家族は、両親と子ども2人、両親の両方の母親の6人である。道路側に対面して入口がとられ、入口を入るとサーラヤになる。サーラヤは家族が団らんしたり、客を接待したりするが、さらに主人の母親の寝室を兼ねる。サーラヤの奥にニダナカーマラヤがあり、両親と子ども2人が使う。ニダナカーマラヤの奥にクッシーアがあり、調理と食事に使われるが、さらに主婦の母親の寝室をも兼ねる。
 クッシーアを出た南側に井戸がある。数回の調査を総合すると、Bさん宅は原初的な間取りに近く、かつてはサーラヤ、1室のニダナカーマラヤ、クッシーアの構成が一般だったようだ。図4右下の住居は、比較的大きなサーラヤ、ニダナカーマラヤが5室、食堂1室にクッシーアの構成で、規模はかなり大きいが、サーラヤ+n×ニダナカーマラヤ+クッシーアの基本は共通する。

 カットタ村の田んぼは低地が利用されていて、水は前頁図で示したような水路の流れで田んぼを潤していく。カットタ村では、田んぼのほかに宅地のなかでココナツキングココナツ、果物、野菜が栽培されるが、働きに出ている人も多い。年間を通して雨が降るので水の心配はないが、晴天が続き乾燥の激しいときは井戸の水を利用する。Bさんは、主人がサラリーマンで、庭のココナツ、果物は自家消費される。果物、野菜に水が必要なときは井戸の水を使う。

 水路沿いには写真に示す井戸が掘られ共同の水場として利用される。主な使い方は、沐浴と洗濯で、ほかの共同井戸・共同水場も使い方は共通する。Bさんの場合は、大人はこの共同井戸・共同水場で沐浴・洗濯を行うが、子どもは宅地内の井戸で沐浴を行う。一方、生活水のほとんどは井戸の水を利用する。しかし、宅地は土地の高いところに立地しているため、井戸はかなり深く掘らなければならず、井戸をもたない住居も見られる。その場合は近所の井戸を利用する。

 カットタ村では、起伏があるため農地が低いところ、宅地が高いところに立地し、農地・宅地が混在する。宅地の配置は一定しないが、多くの住居は奥に菜園・井戸をもつ。間取りはサーラヤ・ニダナカーマラヤ・クッシーアを基本としながらも、規模に大小が見られ一定しない。宅地配列や間取りは一定しないが、沐浴・洗濯に共同井戸を利用し、また井戸利用で水の相互扶助が見られるなど、地域コミュニティがうかがえる。

4おわりに  ウェットゾーンでは、ドライゾーンで見られる潅漑貯水システムを応用しながらも年間を通した雨を活用し、さらに起伏と水系を活かした土地利用で集住地を形成している。また、日常的な水の共同利用や相互扶助も見られ、環境への認識と地域コミュニティ意識をうかがうことができる。このように、ヴァナキュラーな集住文化を支えてきたすぐれた環境共生の技術や環境認識、地域コミュニティを読み取ることができた。しかし、ウエットゾーンの開発にともないドライゾーンの人口流出が進行し、ドライゾーンでは潅漑貯水システムの維持が少しずつ衰退していること、ウェットゾーンでは新たな水供給問題が発生していること、ドライゾーン・ウェットゾーンともに生活の向上にともなう水汚染が始まりだしていること、伝統的で馴染みやすい環境共生の技術に代わって新しい人工的な技術が使われ出していることなどが課題になってきた。集住地に文化として伝承される環境共生技術、環境認識、地域コミュニティの調査、再評価と活用が急がれる。

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