yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2018.3 コンクリート造の名古屋城大天守は屋根5層、内部は地階1階地上7階、堂々たる構えを見せる

2018年03月31日 | 旅行

2018.3 名古屋城・岐阜城・犬山城&明治村を歩く④ 名古屋城天守
 本丸御殿を出ると、目の前はは二之丸とのあいだの石垣で、通路は狭い。この狭さも敵への備えだろうか?。通路を抜けると広場で視界が開け、左に大天守が姿を見せた(写真)。狭い通路は、大天守を劇的に見せるための仕掛けかも知れない。
 最上階の屋根の両端には話題の金のシャチがきらめいている。肉眼では分からないが、左の南側が雌、右の北側が雄で、雄の方がわずかに大きいそうだ。

 自然に足が大天守に向かう・・実は石垣の先に枡形があり、枡形の向こうの石垣に旧二之丸東二之門が設けられていて、ここに国の重要文化財である二之丸東鉄門が移築されていたそうだ。劇的な仕掛けで気持ちは大天守に向かっていたので、二之丸東鉄門を見落としてしまった・・前述した二之丸東鉄門は資料+webによる・・。

 大天守の左にコンクリート造で再建された小天守があり、ここが天守入口になっている。小天守は殺風景なホールといった感じで、トイレ以外の機能は無い。小天守で180°向きを変えると、大天守が再び姿を見せる。
 南側の石垣を積んだ地階から入城する。屋根は5層だが、内部は石垣の上の白壁~庇状の屋根までが1階、~唐破風+千鳥破風+唐破風までが2階、~2連の千鳥破風までが3階、~千鳥破風までのあいだに4階+5階、金鯱を載せた入母屋屋根までのあいだに6階+7階になっていて、地下1階、地上7階の建物である。

 階段を上りながら各階の展示を眺めた。地階には金鯱の模型、黄金井戸の復元が展示されているが、井戸はのぞけない。
 1階には名古屋城下のジオラマ模型や本丸御殿模型、本丸御殿障壁画、3階には藩主の暮らし、城下の一日を紹介する展示で、4階は石垣の再現、武具の展示、5階は絵巻などの展示と石曳き体験コーナーがあった。
 7階が天守閣展望室だった。展示室は全体に暗かったし、展示内容も展示方法も当たり障りなかった=格別の興味をそそらなかった。木造大天守の展示を期待したい。

 展望室から見渡すと、名古屋城周辺は名城公園として整備され緑地が広がっているが、その先は大都会の風景だった。大都会に発展する地の利に気づいた今川も織田もそして徳川も先見の明あり、ということのようだ。続く

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2018.3 名古屋城本丸御殿は玄関・表書院・対面所が復元され公開、天井、障壁画も見逃せない

2018年03月29日 | 旅行

2018.3 名古屋城・岐阜城・犬山城&明治村を歩く③ 名古屋城本丸御殿

 本丸御殿は慶長20年1615年に完成した。1614年夏の陣に続く冬の陣で西軍を制覇した年であり、格式とともに絢爛さがデザインされ、国宝に指定されていたが1945年の空襲で焼失した。
 たぶん国宝指定の際に、文献、資料、実測図、模写図が整理、保管されたのではないだろうか、実測図などをもとに2009年から復元工事が始まり、第1期分、第2期分が順次公開されてきた。第3期分も内装工事を残し、本体工事は終了している。


 表二之門の枡形を抜けると、玄関・表書院が正面に現れる。屋根は厚さ3mmほどの杉板を重ねた柿葺きコケラブキで、優美な曲線を見せている。

 見学者入口は右奥の中之口部屋になる。
 大廊下をぐるりと回って、まず玄関一之間、二之間を見る。玄関は本丸御殿の正式な入口、控えの間であり、虎が描かれていることから虎の間とも呼ばれた。
 一之間は18畳、二之間は28畳あり、一之間には床も設けられていて、襖、壁、障子に竹林、滝を背景に勇猛な虎、豹が描かれている。天井は白木の竿縁天井である。天井の造作を見比べると、格式の違いが分かりやすい。
大廊下を戻り、表書院を見る。正規の謁見が行われる場所で、三之間39畳、二之間24畳半、一之間24畳半、上段之間15畳、納戸之間24畳が並ぶ。
 上段之間の床は一段高くなり(写真、手前が一之間、奥が上段之間)、正面奥に床が設けられ、縁側に張り出した付け書院が備えられる。
 天井は一之間~三之間が白木を用いた格天井、上段之間が白木の折り上げ格天井で、襖、壁、障子には松、桜、梅の木、雉子、麝香猫などの花鳥画が描かれ、華やかな雰囲気を醸し出している。


 奥に進むと対面所になる。ここは藩主と身内などの対面や宴席に使われたところで、次之間18畳、上段之間18畳、納戸一之間24畳、納戸二之間24畳が並んでいる。
 上段之間の床は次之間より一段高くし、奥に床を構え、縁側に張り出して付け書院を設けるつくりは表書院に共通するが、天井は二重折り上げ黒漆塗りの格天井で表書院より格式が高くなっている。
 上段之間の襖、壁、障子には洛中・洛外の年中行事や庶民の生活が描かれていて、内々の対面、宴席にふさわしい和やかな雰囲気をつくっている。

 次之間の絵は和歌山の風俗画らしい。初代藩主となる家康の九男・義直の正室・春姫は和歌山出身のため、故郷を描いたとされる。

 各部屋の襖の引き手金具長押ナゲシの釘隠し金具はそれぞれ模様が違い、細工も入念だった。部屋のつくりの違い、障壁画と合わせ、見どころが多い。

 上洛殿はまだ内装工事が終わっていないので、見学は対面所までである。
 納戸之間の北側の縁側を進み、料理を配膳する下御膳所シモゴゼンショをのぞき、中之口部屋に戻る。外の陽気はよくても、素足だと足先が冷えてきた。案内係に礼を言い、外に出た。続く

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2018.3 名古屋城東南の石落としの千鳥破風が目を引く隅櫓、鉄板を打った表二之門は重文

2018年03月27日 | 旅行

2018.3 名古屋城・岐阜城・犬山城&明治村を歩く② 名古屋城 東南隅櫓 表二之門
 話を東門入口に戻す。東門あたりには、緑地化されている堀割に沿った石垣と石垣で囲まれた四角い広場=枡形の形が残っている。
 楼門や櫓などの建造物は残っていないが、二之丸東鉄門が残ったそうで、いまは本丸御殿の先の本丸東二之門跡に移築されている。1614年ごろに完成した本瓦葺きの高麗門形式で、柱、扉には鉄板を打ち付けた堅牢なつくりであり、国の重要文化財の指定を受けている。

 薬医門は本柱+扉+控え柱の上に屋根を架けるが、高麗門は本柱+扉の上に屋根を架け、左右の控え柱にはそれぞれ小屋根を架ける形式で、薬医門より簡略化され、規模も小さくなる。その分、守りが堅くなるようだ。二之丸東鉄門は移築されているので、天守見学前後に見ることができる。

 東門を抜けると、左手の生け垣の向こうに梅林があるが、これは帰りに寄った。その先に、清正公石曳きの像が置かれている。巨石の上で清正が扇子を振っているのだが、相当な巨石である。名古屋城の西側を堀川が流れているから、筏に巨石を積んで運んできたのだろうか?。どこの石だろうか?。説明坂は触れていない。
 右手に東南隅櫓が創建時の姿を見せている(写真)。名古屋城には東南=辰巳、西南=未申、西北=戍亥、東北=丑寅の4つの櫓がつくられたが、東北櫓は焼失した。現存3つの櫓はいずれも国の重要文化財であるが、西北隅櫓あたりは木造天守の木材加工所となってい城内からは見ることはできない・・西南隅櫓は帰りに見たので後述する・・。
 東南隅櫓は、内部3階、屋根2層で、堀側に石落としを設けた千鳥破風屋根が突き出ている。

 左手にきしめん亭があった。昼時なのでここできしめん+味噌カツ+稲荷のセットを頼んだ。小さな店で満席だったので、外のテラス席で食べた。簡単に腹ごしらえができたが、できれば「尾張名古屋は城でもつ」にふさわしい雰囲気をお願いしたい。

 きしめん亭の向かいが本丸の入口になる表二之門である。橋からのぞくと、内堀の水は抜いてあったがかなり深い。
 門の左右の袖は背丈を超えるほどに石垣を積み、その上にさらに背丈ほどの漆喰塗り土塀を巡らせ、丸い鉄砲用の狭間を設けている。
 1600年に西軍を破って天下統一をなしたがまだ不安が残るさなかの名古屋城築造だから、守りに徹したようだ。1612年の天守完成で東国の守りが万全となり、安心して1614年・夏の陣、1615年・冬の陣を仕掛けた、とも思えるほどの防備である。


 表二之門は二の丸東鉄門と同じつくりの高麗門形式で、本瓦葺き、柱、扉は鉄板が打ち付けられていて、門の先は枡形になっている。国の重要文化財であるが、耐震補強されていて門らしさがうかがえない。
 webを探し、耐震補強以前の写真を見つけた。門が小さいのは守備のためであろう。天下が太平になると、権勢を誇示するように規模が大きくなり、装飾が付加されていくが、御三家にもかかわらず尾張徳川家は名古屋城を旧情のまま保持したようだ。

   表二之門を入ると枡形になり、奥に本丸に入る表一之門があったが空襲で焼失していまはない。
 その奥の本丸御殿も天守も焼失したが、コンクリート造の天守が1959年に再建された。
 本丸御殿は2008年から復元工事が進められ、2013年に第1期分、2016年に第2期分、そして2018年6月に全体が公開される予定である。
 見学した3月時点では第2期分までしか公開されていないが、一方、木造天守の復元工事に伴い現コンクリートの天守は5月から閉館になる。
 名古屋城見学を計画している方は、今年5月6日までにコンクリートの天守を見学し、6月8日以降に本丸御殿を見学し、2022年以降に復元された木造天守を見学すると、すべてを見ることができる。
 そんなに何度も名古屋まで足をのばせない方は、コンクリート天守は解体されずいずれ資料館?として公開されるらしいから、2022年以降にまとめて見学する方法もある。続く

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2018.3 昭和モダンの名古屋市庁舎・愛知県庁舎→徳川家康築城の名古屋城へ 

2018年03月25日 | 旅行

2018.3 名古屋城・岐阜城・犬山城&明治村を歩く① 名古屋へ

 2017年4月に忍野八海を歩いた。忍野八海は富士山麓になるので、富士山麓が登場する松本清張著「黄色い風土」(book442)を読んだ。連続する不審死の一つは犬山が舞台だった。舞台の犬山をイメージしていて、国宝犬山城を連想した。木曽川を渡るとき遠望したが、まだ訪ねたことがない。犬山城に行くには名古屋を経由する。尾張名古屋は城でもつといわれるが、三名城にあげられる名古屋城は、外観は見たことがあるが天守に上ったことはない。名古屋と犬山のあいだに位置する岐阜城も訪ねたことはない。そこで、名古屋城→岐阜城→犬山城の城巡りをイメージした。犬山には明治村、リトルワールドもある。明治村、リトルワールドはだいぶ前に見学をしたことがあるが、時間にゆとりがあれば再訪することにして、2018年3月、城巡りの計画を実行することにした。

 3月2日・金、さいたまは晴、9時ごろ家を出て、9:45ごろ東京駅に着く。10:00発のぞみの自由席は十分にゆとりがあったので、乗り込んだ。最近は、東京発の場合、自由席にして指定席料金を節約している。観光シーズンでもない限り2人分の席はだいたい確保できるし、混みあうときは1本か2本遅らせれば確実に座ることができる。
 品川、横浜の乗客で、8割ぐらいの乗車率になった。平日の旅はゆったりできる。天気はよく、富士も勇姿を見せてくれた。
 名古屋駅に11:40分過ぎに着く。コインロッカーにキャリーバッグを預ける。最近のコインロッカーはキーがない。表示モニターにロッカーのナンバーを入れ、スイカなどのICカードをかざすと、QRコードをプリントしたレシートが出てくる。レシートのQRコードが鍵の代わりである。時代の変化は早い。出歩かないと、社会から置いてきぼりを食いそうだ。キーに比べてレシートは見失いやすい。しっかり貴重品入れにしまった。
 地下鉄東山線に乗り、栄駅で名城線に乗り換えて、市役所駅で降りる。市役所駅あたりは初めてなので辺りを見回すと、筋向かいに昭和モダンを感じさせる建物が威厳を漂わせて建っている(写真)。
 その隣にも、堂々とした風格の建物が並んでいる。手前が名古屋市庁舎で、昭和8年1933年竣工、設計は公募の平林金吾(1894-1981、東京高等工業学校=現東京工業大学卒)、向こうが愛知県庁舎で、1938年竣工、基本設計は西村好時(1886-1961、東京帝国大学卒)・渡辺仁(1887-1973、東京帝国大)で、いずれも国の重要文化財である。
 平林金吾、西村好時は不勉強で初めて聞くが、渡辺仁は上野・東京国立博物館や銀座・和光の設計を手がけていて馴染みがある。
 どちらの建物も鉄骨鉄筋コンクリート造で、外壁は平滑なタイル貼り仕上げにしたモダンなつくりだが、名古屋市庁舎は中央正面や塔に古典的な付け柱を加えて重厚さを演出している。両者とも帝冠様式を思わせる屋根を載せているのが目を引く。名古屋城天守を意識し、モダンなデザインを試みたのかも知れない。

 市役所駅出口に周辺の案内看板があった。大通りを北に歩き、東門から入るようだ。このあたりの堀は埋められてしまったのか、緑地化されていて、グルメ街の工事が進んでいた。完成すれば城の見学者は便利になりそうである。
 工事場の雰囲気のある東門受付で大人500円の観覧券を買う。名古屋市内高齢者は200円である。国の重要文化財だから高齢の国民は一律に200円でもいいとも思えるし、名古屋市による維持管理に市民税が活用されているから高齢市民だけ200円という考えも妥当に思える。そもそも500円そのものが決して高額ではないから何のわだかまりも持たず、500円を出した。

 入ってすぐに二ノ丸庭園があり、そこに立てられた解説板には那古野城跡と書かれている。
 16世紀初頭、今川家9代・今川氏親が尾張進出の拠点としてここに柳ノ丸という城砦?を築造したらしい。
 1532年、織田信秀が今川から城砦?を奪取し、那古野城と改めた。信秀の嫡男・織田信長(1534-1582)は那古野城で生まれ・・別の説もある・・、後に那古野城主となるが、1555年に清洲城に移り、那古野城は廃城になる。

 時代は下って、天下を取った徳川家康(1534-1616)は九男・義直の居城としてここに名古屋城を築く。1610年に始まった工事は天下普請で行われ、天守台石垣は加藤清正によって築造されるなど、全国の武将が技術を競い、1612年大天守が完成する。
 さらに時代が下って、大政奉還、明治維新とともに名古屋城は新政府の所管となり、1930年には国宝に指定されたが、1945年の空襲で本丸御殿、大天守、小天守、東北隅櫓などが焼失した。
 1959年、コンクリート造の天守が再建された。
 本丸御殿は、文献、実測図などが残されていたので、2008年から復元工事が進められ、2013年に第1期分、2016年に第2期分が公開され、2018年から全体が公開されている。
 続いて、木造の大天守再建工事が着手されている。木造大天守の復元は2022年の予定だそうだ。「尾張名古屋は城でもつ」と言われた名城の復元が、楽しみである。続く

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2018.1メキシコの旅12 コルテスはアステカ王城跡に宮殿を建設、コルテスの命じた大聖堂は威容を誇る

2018年03月23日 | 旅行

2018.1 メキシコの旅12 3日目 メキシコシティ/テンプロ・マヨール サグラリオ教区教会 メトロポリタン大聖堂 ソカロ広場 国立宮殿

 9:30、大聖堂の左手、東の一区画に位置するテンプロ・マヨールTemplo Mayor=アステカ王国中央神殿跡をのぞく(写真、ホームページ参照)。

 1300年代初頭、テスココ湖の島にテノチティトラン国が築かれたことはメキシコの旅10に記した。1519年にアステカ王国を滅ぼしたコルテス(1485-1547)は、アステカの都市を破壊し、チチカカ湖を埋め立て、テノチティトランの都跡にスペイン風の街をつくり、メキシコシティMexicocityと呼んだこともすでに書いた。
 格子状の道路で整然と区画され、街の中心にソカロ広場が配置され、メトロポリタン大聖堂が建てられた。テノチティトランなどアステカの街は地上から姿を消し、忘れ去られた。
 1913年、大聖堂の東で地下へ降りる階段が発見された。さっそく発掘が始まり、テノチティトランの遺構と判断された。1979年には直径3.25mの巨大な石板が発掘された。1450~1500年ごろの石板で、アステカ神話の月の女神コヨルシャウキが彫られていて、ここがテノチティトランの中央神殿テンプロ・マヨールTemplo Mayorだったことが分かった。

 歴史的な発見であり、アステカ王国の遺構の全容の発掘が待たれるが、地上にはメトロポリタン大聖堂を始めとしたスペイン風の街並みが建ち上がっていて、発掘はなかなか進まないようだ。
 さらには、テンプロ・マヨールの下にも遺構があるらしい。古い神殿の上に重ねて新しい神殿を建て、時代が過ぎると?王が替わると?天変地異が起きると?、さらにその上に重ねて新しい神殿を建てたらしい。伊勢神宮の式年遷宮であれば20年ごとに隣の敷地に建て替えていくが、アステカでは上に重ねて建て替えていくのかも知れない。

 写真奥は崩れたピラミッドである。ピラミッドの石も建物の外壁に転用されたり、チチカカ湖の埋め立てに利用されたりして、原形をとどめていない。復元も難しそうである。入場すると赤い神殿跡や生け贄を載せたチャック・モールの石像、蛇頭像などが見られるらしいが、私たちは上からのぞいただけで大聖堂に向かった。
 9:55、メトロポリタン大聖堂Catedral Metropolitanaはソカロ広場を圧倒するほど巨大な威容を誇っている(写真、左が双塔のそびえる大聖堂、右はサグラリオ教区教会)。
 アステカ王国時代の王城は現ソカロ広場の東あたりに建っていたらしい。1519年にアステカを征服したコルテスは王城を破壊し、1523年、王城跡に宮殿を建て始めた。同時進行で、ソカロ広場やコルテスの居城であり植民地の本拠となる宮殿を中心に、スペイン風の街づくりが進められていった。
 1563年、ソカロ広場の北に大聖堂の建設が始まった。コルテスは1540年にスペインに帰国、1547年に死んだが、コルテスは居城と同時に大聖堂の建設も命じていたようだ。建設は、街の骨格ができ、住民の居場所が定まり始めたころに着手されたのではないだろうか。コルテスのスペイン帰国やカリフォルニア遠征、コルテスの死なども影響したのかも知れない。

 大聖堂の右に建つのはサグラリオ教区教会Parroquia Asuncion Sagrario Mtoropolitanoである(写真、ホームページ参照)。1749~1769年に、大聖堂付属の宝物、図書、資料、司祭の衣類の保管所としてつくられた。
 大聖堂の外観は灰色の石を基調にするが、サグラリオ教区教会は赤みの石を基調にして、隅角部やファサードに灰色の石を配し、小さいながらも存在感が強調されている。ファサードの彫刻は細かな動きまで表現された、秀逸な造形である。が、外観を眺めて通り過ぎた。

 サグラリオ教区教会の先に大聖堂の入口がある。メトロポリタン大聖堂は、スペインの力を誇示し、キリスト教への改宗を促すため?、高さ29m、奥行き110m、幅55mの巨大さを誇る豪壮な構えである。
 完成は着工から120年後の1681年になった。堂内は、オーダーを載せた円柱には古典的なつくり、高い天井とリブドームにはゴシック的なつくりがうかがえるが、金を用いた装飾を始めとして基調はバロック様式で、明るく華やかである(写真、ホームページ参照)。
 中央に、スペインの大聖堂では一般的な形式の高位聖職者席・聖歌隊席コロが配置され、大聖堂の品格を表している。 

 コロ壁面の身廊側祭壇には褐色のイエス像が飾られている(写真、ホームページ参照)。褐色の聖母マリアはスペイン・グアダルーペ修道院で見た・・スペインを行く22・・。メキシコでも褐色のグアダルーペの聖母が現れ、その後寺院が建てられ、いまでも巡礼者が絶えないそうだ。フランス、ポーランドでも褐色の聖母マリアが祭壇に飾られているらしい。しかし、褐色のイエス像は珍しいのではないだろうか・・webにはペルーのヘスス・マリア教会に飾られていたとの情報あり・・。先住民にキリスト教改宗を受け入れやすくするためのアイデアかも知れない。

 大聖堂前の広場の床にガラスがはめ込まれ、アステカ王国の遺構がのぞけるようになっているが、ガラスが曇っていて見えなかった。webには地面の沈下の様子が分かるとの説があったが、テノチティトランは小島の上に建設された都だから地盤は固いと思う。ガラスの曇りが誤解を招いたのではないだろうか。
 
 メトロポリタン大聖堂の南がソカロ広場Zocaloになる(写真、ホームページ参照)。催し物が開かれているようで、テントが張られ、大勢が行き交っていた。ソカロ広場の南東、写真中央奥は最高裁判所で19世紀の建物、写真右は政府庁舎として使われている建物で、連続アーチの開廊が設けられているから商業系の建物を兼ねていて、年代も古そうだが、詳細は分からない。
 ソカロ広場の東、写真の左の建物は国立宮殿Palacio Nacionalである。前述したが、コルテスはアステカの王城を破壊し1523年、王城跡に自らの居城の建設を始めた。アステカの財宝を略奪して資金は潤沢であり、先住民を労働力としたから贅を尽くした居城になったに違いない。
 その居城は1624年に火災に遭い、1692年に倒壊し、その後再建されたのが現国立宮殿である。全長200mにおよぶ壮大さは、メキシコに君臨する為政者の威厳を表しているようだ。

 ガイドブックには、正面階段を覆い尽くす壁画が最大の見どころで、「メキシコの歴史」と題された壁画はディエゴ・リベラの最高傑作だと書かれているが、私たちは次の観光があり、通り過ぎてバスに乗った。

 10:10、バスはソカロ広場から北に向かって走り出した。レフォルマ通りを渡った右に三文化広場Plaza de la Tres culturasがある。三文化の3とは、アステカ王国時代のトラテルロコ遺跡、スペイン植民地時代の16世紀に建てられたサンティアゴ教会、現代的な高層団地のことで、三文化を一望にできる広場として整備された。
 広場には・・耐えがたい苦しみの末、メスティーソの国が生まれた・・いまのメキシコである・・と刻まれた碑があるそうだ。メキシコが、耐えて耐えて生き抜いた人々の国であることを象徴する広場のようだが、バスはあっという間に通り過ぎた。続く

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