yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2022.12埼玉 平林寺を歩く

2023年08月30日 | 旅行
日本を歩く>  2022.12 埼玉 平林寺を歩く


 埼玉県新座市野火止の平林寺が紅葉の名所としてテレビで紹介された。子どもが小さいころ家族で出かけたことがあるが、記憶にほとんど残っていない。紅葉の見ごろは例年11月下旬~12月上旬なので、12月に入った早々に車で出かけた。
 ナビの道案内で平林寺総門前に着く。すぐ左のお休み処に車を止め、昼時にあわせて来たので、お休み処でそばを食べる。
 車をお休み処に置き、総門に戻る(上写真)。茅葺き切妻屋根の四脚門で、柱梁の骨組みも太く、どっしりとした茅屋根に風格を感じる。右手前に天然記念物平林寺境内と刻まれた石柱が立つ。
 平林寺境内林は武蔵野の典型的な雑木林の景観を残していて、国の天然記念物に指定され、埼玉県ふるさとの緑の景観地にも指定されている。
 総門左の扉から入り、入山料500円を払う。入山料は平林寺境内林の整備に使われる。
 総門で一礼する。総門から紅葉に彩られた参道が西に真っ直ぐ延び、向こうに茅葺き入母屋屋根、楼門の山門が構えている(中写真)。山門も風格がある。
 山門の左右には厳しい顔の仁王が、阿吽の顔だちでにらんでいる。山門で一礼する。
 参道正面の仏殿は茅葺き入母屋の大屋根を乗せて、参拝者を迎える(写真)。本尊は釈迦如来坐像、脇侍は迦葉尊者と阿難尊者である。暗い堂内の釈迦如来像と目が合う。静かに合掌する。
 仏殿を回り込むと、参道が延びていて中門があり、その奥に本殿が建つが、中門、本殿は非公開である。


 もともとの平林寺は、1375年、現在の埼玉県岩槻に臨済宗建長寺派として建立された。豊臣秀吉の小田原征伐による戦禍で堂宇の多くを失う。徳川家康が江戸転封後に平林寺を再興し、以降、臨済宗妙心寺派になる。
 話は変わって、武蔵国伊奈町の徳川家康家臣大河内家に生まれた信綱は伯父の徳川家康家臣松平正綱の養子になる(正綱は日光杉並木の寄進者、HP「2021.11日光杉並木」「2022.5+2021.11日光神橋」参照)。
 松平信綱(1596-1662)は正綱の供をして伏見城で家康に会い、家光が生まれると小姓として仕え、のち1万石の大名、さらに3万石忍城主に出世する。家光が3代将軍に就くと老中を任じられる。
 1637年の島原の乱で、戦死した総大将に代わり信綱が総大将になって勝利し、6万石川越藩主なる。
 老中松平信綱は、江戸の水不足を解消するため1654年に多摩川から玉川上水を引く。1655年には玉川上水から武蔵野に野火止用水を引く。野火止用水により武蔵野台地が広く開墾された。
 信綱没後の1663年、(信綱の菩提寺として?)平林寺が岩槻から現在地の野火止に移される。現在の平林寺に並ぶ総門・山門・仏殿は移築にともなった建築である。
 
 仏殿から境内の散策路を歩く。仏殿の南に放生池(ほうじょういけ)がある(写真web転載)。水面に映る紅葉が鯉の泳ぎに揺れるのも風情がある。放生池の水は平林寺堀から引かれている。
 散策路は一周2kmほどと案内されている。武蔵野台地は平坦なので散策路に起伏はない。散策路を西に歩くと、島原・天草一揆供養塔が立っている。200年遠忌に立てられたそうで、江戸時代末期になる。2016年1月に天草に旅したがまだ旅行記をまとめておらず、松平信綱が総大将として一揆に勝利したことは失念していた。一揆鎮圧で大勢が犠牲になった。信綱の子孫がその供養で立てたのだろうか。
 散策路の先に松平信綱夫妻の墓を始めとする松平家廟所があり、続いて歴代平林寺住職の墓などが並んでいる。
 境内林のなかの素掘りの流れが平林寺堀のようだ(写真)。掘削の時期は不明だが、野火止用水から引かれたそうなので、信綱のころだろうか。
 境内林が開けたところに築山のような野火止塚があった。総門・山門・仏殿あたりは紅葉を愛でる人が大勢カメラを構えていたが、野火止塚あたりは人が少なく森閑としている。
 武蔵野は常緑樹も多いが、平林寺境内は紅葉も多い。一面は紅葉の落ち葉で覆われていて(写真)、散策路は落ち葉を踏む音が響く。イブ・モンタンの「枯れ葉」は切なさがあふれていた。初冬の枯れ葉は冬の到来を予感させ、人をもの悲しくさせるようだ。
 境内林を一周し、放生池に戻り、参道に出て仏殿に一礼し、平林寺を出る。
 
 道路の向かい側も平林寺の境内林で「睡足軒の森」と名づけられ国の天然記念物に指定されている。一般公開されているので入園した(写真)。庭は手入れが行き届いている。「睡足軒」は江戸中~後期の飛騨の民家の移築で、明治中ごろまで平林寺の塔頭として使われ、いまは国の登録有形文化財である。
 茶室・紅葉亭も建っていたが、睡足軒ともども非公開だった。
 睡足軒の森では選定作業をしている職人以外に人はいなかった。国指定天然記念物、国登録有形文化財では制約も多いだろうが、大勢が訪れるような活用を期待したい。
  (2023.8)

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2022.11栃木 太平山を歩く

2023年08月26日 | 旅行
日本を歩く>  2022.11 栃木 太平山を歩く


 太平山(おおひらさん)は栃木市にある標高343mの山で、太平山神社が祀られ、桜、紫陽花、紅葉なども人気で、四季を通じて市民の憩いの場になっている。
 もともと太平山には11代垂仁天皇が祀った現在の奥宮(剣宮・武治宮)が鎮座していた。827年、53代淳和天皇は、風水害、疫病を鎮めるため、瓊瓊杵命(ににぎのみこと)、天照皇大御神(あまてらすおおみかみ)、豊受姫大神(とようけひめのおおかみ)の三座を祀る太平山神社を造営し、勅額を下賜する。その後、多くの神々が祀られた。


 筑波山の男体山本殿、女体山本殿を参拝した翌日、太平山神社を目指す。筑波山から西に直線で40km弱の道のりである。ナビの案内で11:30ごろ神社脇の駐車場に車を止める。すぐに満車になった。
 最近建てられたらしい鳥居で一礼し、坂を上る。太平山中腹の境内に、八幡神社、愛宕神社、浅間神社・・・・三輪神社、蛇神社、交通安全神社などの社が20ほど並んでいる。その最奥が太平山神社本殿(写真)である。二礼二拍手一礼する。
 人出は多い。神社の御利益と紅葉が人を呼ぶようだ。鮮やかな紅葉を眺める(写真)。
 20ほどの社の一つ一つの名前を確認しながら一礼する。社を選んで熱心に参拝している人がいる。社ごとに祭神が違い、霊験が異なるのであろう。
 浅間神社と愛宕神社のあいだに太平山頂5分と記された奥宮入口があった。段々に整備されているがかなりの急勾配である(左写真)。ぎりぎりすれ違えるほどの道幅しかない。息を切らしている人を追い抜く。参拝を終えた何人かとすれ違う。奥宮参拝者も多いようだ。
 5分ほどで山頂に着く。太平山神社奥宮に二礼二拍手一礼する(右写真)。11代垂仁天皇が東国平定のため武徳で国土を鎮護する天目一大神(あめのまひとつおおかみ)を祭神として祀った。武で治める=武治宮(ぶじのみや)と呼ばれた。天目一大神は天地霊剣を造作する神でもあったので、剱宮(つるぎのみや)とも呼ばれた。
 奥宮参拝を終え山道を戻る。また何人かとすれ違った。太平山神社は霊剣がありそうである。


 太平山神社本殿の真向かいに石段がまっすぐ下っている。この石段が参道のようで、随神門まで下りた(写真)。
 1723年、この地に8代将軍吉宗が瓦葺き入母屋屋根の楼門で、表側左右に大臣、裏側左右に仁王を並べた仁王門を建立する。明治維新の神仏分離令により仁王門は随神門と名を改める。
 さかのぼって、827年、慈覚大師円仁(794-864)は53代淳和天皇の太平山神社勅額を持参して太平山に入り、開山する。以降、太平山には多くの堂宇が建立され、神社、寺院ともに栄えたそうだ・・慈覚大師円仁は848年、日光山に三仏堂、常行堂、法華堂を開いている(HP「2021.12日光山輪王寺常行堂・法華堂」参照)。
 8代将軍吉宗が太平山に仁王門を建てたのは、太平山神社とともに円仁が開山した寺院も江戸鎮護に重視されたためであろう。
 随神門の先にも石段が下っている。石段はのべ1000段あり、始まりに六角堂が建ってるそうだ。石段に沿って2500株の紫陽花が植栽され、石段だがあじさい坂と呼ばれているらしい。
 随神門までの石段は250段ぐらいだろうか、一般的なマンションは1階分15段だから単純計算で250/15=16~17階分になる。1000段なら1000/15=66~67階分、体力、脚力に照らし1000段は止め、随神門から境内に戻ることにした。見上げると、紅葉が彩りを演出してくれている(写真)。
 随神門で一礼し、満開の紫陽花を想像しながら一息、途中の鳥居で一礼、一息、紅葉を見上げて一息、石段を上ることに気持ちを集中して、本殿にたどり着く。改めて二礼二拍手一礼する。
 
 車に戻り、太平山遊覧道路を下る。随神門前を通って間もなく謙信平駐車場に車を止める。広めの駐車場だったが満車に近い。道路の北側=山側に茶店、料理屋が並んでいて、道路の南側は遊歩道が延び、展望台が設けられていた。遊歩道の先は崖で、関東平野が一望できる(写真)。
 戦国時代、後北条3代氏康(1515-1571、初代北条早雲についてはbook471「箱根の坂」参照)と対立する上杉謙信(1530-1578)が太平山から関東を臨んだと伝えられ、謙信平の名が付いたらしい。
 謙信平と名づけられたように茶店、料理屋が並ぶあたりの遊歩道は広々していてイステーブルが置かれ、大勢が関東平野を望みながら飲食、歓談していた。
 遊歩道沿いの並木には紅葉もあり、崖の斜面にも紅葉が植えられていて、晩秋に彩りを添えていた。案内板に謙信平の桜はさくら名所100選と紹介されていた。桜越しに眺める関東平野は絶景になりそうである。


 謙信平を出て、一般道を走りながら食事処を探すうち、渡良瀬遊水池に着いた(写真)。
 かつて渡良瀬川は群馬、栃木の山あいを源流とし、江戸湾に流れていていた。徳川家康江戸入城にともない江戸湾に流れていた利根川を銚子の太平洋へ流す付け替えが行われ(利根川の付け替えはbook482「家康、江戸を建てる」参照)、ともなって渡良瀬川は利根川の支川になり、渡良瀬川下流域は大湿地帯になった。
 渡良瀬川の洪水で足尾銅山の鉱毒が渡良瀬川に流れ込んでいることが判明し、足尾鉱毒を沈殿させ無害化するために渡良瀬遊水池が計画された。1930年に完成し、その後の洪水で洪水調節機能が増強され、現在に至っている。現在の渡良瀬遊水池は33k㎡、栃木県、群馬県、埼玉県、茨城県にまたがっている。
 道の駅かぞわたらせで、渡良瀬遊水池を眺めながら名物のうどんを食べた。1泊2日の旅だが、晩秋の紅葉を楽しみながら体を動かし、新たな知見を得たり、古い記憶を復習したり、心身の刺激を受け、帰路についた。
 (2023.8)

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2022.11茨城 筑波山を歩く

2023年08月21日 | 旅行
日本を歩く>   2022.11 茨城・筑波山を歩く


 晩秋、紅葉の盛りは過ぎたが山の眺望を楽しもうと、茨城・筑波山→栃木・大平山に出かけた。事前の調べでは、紅葉の時期は筑波山、大平山とも駐車場は混雑、駐車場待ちの渋滞予測が出ていた。晩秋の平日だから渋滞はないだろうが、念のため筑波山ケーブルカー宮脇駅に近い宿を予約し、宿の駐車場に車を置いて筑波山に登ることにした。
 筑波山は2017年11月に、筑波山ロープウェイつつじヶ丘駅駐車場に車を止めて、女体山→男体山→女体山を歩いている(HP「2017.11筑波山を歩く」参照)。今回はケーブルカーを利用し男体山→女体山→男体山を歩く。時候も同じなので歩きの予測がつく。
 13:50ごろ宿に車を預け、筑波山神社に向かう。
 筑波山は標高871mと標高877mの二峰からなり、古くから霊峰として信仰を集めた。二峰であることから前者が男体山、後者が女体山と呼ばれ、筑波男大神、筑波女大神が祀られた。日本神話に伊弉諾尊、伊弉冉尊が登場してから、男体山=筑波男大神=伊弉諾尊女体山=筑波女大神=伊弉冉尊として崇められたそうだ。
 現在の男体山本殿は1955年の再建、女体山本殿は1979年の再建である。
1875年、筑波山の南斜面、標高270mほどに、筑波山男女二神を遙拝する筑波山神社拝殿が建てられた。もともとこの地に真言宗の中禅寺があった。本尊は千手観音で、筑波山男女二神は千手観音を本地仏とする筑波山両部権現として祀られた。


 徳川家康は、1590年に江戸城に入城すると筑波山を霊峰として崇めた。中禅寺は幕府の鬼門の祈願所として庇護を受け、家康から神領500石、寺領500石が寄進された。3代将軍家光は、1633年、中禅寺の本堂、三重塔、後述の神橋、仁王門などの堂宇を造営する。5代将軍綱吉は中禅寺に加増し、堂宇の改修を行う。江戸時代の中禅寺は隆盛したようだ。
 明治維新、1868年に神仏分離令が発布される。中禅寺の多くの堂宇が失われた。推測だが、中禅寺の筑波山両部権現に代わり波山男女二神を遙拝するため、1875年、中禅寺本殿跡地に筑波山神社拝殿が建てられたのではないだろうか。


 話は戻る。宿の少し先、石段の上に筑波山神社の鳥居が建つ(写真)。鳥居も筑波山神社拝殿建立にあわせ建てられたのであろう。一礼する。
 石畳の先に3代将軍家光が寄進した神橋が建てられている(写真)。柿葺き切妻屋根、間口1間、奥行き4間、朱塗りされた反り橋で、通行禁止である。
 神橋は、5代将軍綱吉により1702年に改修されている。


 石段を上った先に3代将軍家光寄進の旧仁王門=随神門が建つ(写真)。銅板葺き入母屋屋根、八脚の楼門で、間口は5間2尺、奥行きは3間である。
 江戸時代、神仏習合時代は仁王門で、左右に仁王像が祀られていたそうだ。1754年に焼失し、その年に再建されたが、1767年にまたも焼失、1811年に再建された。
 神仏分離後は随神門と呼ばれ、左右には10代崇神天皇の皇子・豊木入日子命と12代景行天皇の皇子・倭武尊の随神像が飾られた。倭武尊=日本武尊は東征のおりに筑波山に登拝したと伝えられる。
 随神門から先が筑波山神社の境内である。随神門で一礼し、境内に入る。
  石段を上ると正面に1875年建立の筑波山神社拝殿が建つ(写真)。銅板葺き入母屋屋根に千鳥破風をのせ、唐破風を向拝のように伸ばしている。
 本殿+拝殿を一体で建立し、山頂に奥宮や奥の院を祀るのが多いが、本殿は山頂、拝殿は中腹という配置は珍しい。
 中禅寺であれ筑波山神社であれ、あるいは本殿と拝殿が離れていても、神体は男体山=筑波男大神=伊弉諾尊と女体山=筑波女大神=伊弉冉尊である。強いていえば、寺なら合掌、南無阿弥陀仏・・、神社なら二礼二拍手一礼、神ながら奇しみ給え・・、いずれでも平らかな気持ちで信じることである。拝殿で二礼二拍手一礼する。


 拝殿手前を左に折れ石段を上ると、ケーブルカー宮脇駅がある。神社の脇だから宮脇と名づけたようだ。
 宮脇駅の標高は305mで、展望台から関東平野が遠望できる(写真)。展望台周りには晩秋の紅葉が色づいているが、冬の気配を予感させるように色合いは元気を感じない。
 往復チケット1700円を購入し、もみじ号に乗る(写真)。定員は100名ほどらしいが、晩秋の平日のためか定員の半分ほどの混み合いだった。途中で大きくカーブして、およそ8分で筑波山頂駅に着く。
 筑波山頂駅の標高は800mで、御幸ヶ原と呼ばれる平場になっている。売店、飲食店もあり、遠足の生徒たち、家族連れ、友達同士、外国人も少なくなく、関東平野の眺めを楽しんでいた。ケーブルカーで気軽に登れるからであろう。


 筑波山登山mapによれば、筑波山頂駅から女体山も男体山も徒歩15分である。まず女体山に向かう。
 鶺鴒(せきれい)が止まり、イザナギノミコトとイザナミノミコトに夫婦の道を教えたと伝えられるせきれい石、茨城県新治村の農民の息子・永井兵助が「さあ~さあ~お立ち合い!御用とお急ぎでなかったら、ゆっくりと聞いておいで・・」で始まるガマの口上は子どものころおもしろがって聞いたが、がまの油に由来するガマ石の説明を見ながら歩く。
 筑波山の山頂あたりは斑糲(はんれい)岩が主でブナ林が優勢、山麓は花崗岩が主で常緑広葉樹が優勢だそうだ。
 山頂の御幸ヶ原はところどころ斑糲岩?が顔を出しているが、歩きやすい(上写真)。女体山に近づくと斑糲岩?がむき出しの岩場になり(中写真)、急な石段を上りきると標高877mの山頂に出る。
 筑波女大神=伊弉冉尊を祀る女体山本殿に二礼二拍手一礼する(下写真)。1979年に改築された一間社流造である。
 本殿の後ろ側の岩のあいだに「天浮橋(あめのうきはし)」が架かっている(前掲写真左)。伊弉諾尊、伊弉諾尊が天の沼矛を下ろしてかき回したところしたたり落ちた塩で島ができた、この島が筑波山の始まりだそうだ。
 日本神話の伊弉諾尊、伊弉冉尊と男体山・筑波男大神、女体山・筑波女大神を結びつける伝承のようだ。
 
 天浮橋の岩場を下り、御幸ヶ原で関東平野をぐるりと眺めながら一息する(上写真)。御幸ヶ原は標高が800mほどだから、肉眼でも平野の様子がとらえられる。今回はケーブルカーの往復利用だが、筑波山神社と御幸ヶ原は標高差500mほど、登山路も整備され、登り90分、下り70分で、トレッキングする人も少なくない。身近な山である。
 筑波山頂駅後ろの段々の山道を上る(中写真)。筑波山登山mapには15分と記されていたが、眺望を眺めながらゆっくり登り18分ほどで標高871m男体山頂に着いた。
 男体山本殿は1955年に改築された一間社流造で、筑波男大神=伊弉諾尊を祀る(下写真)。二礼二拍手する。男体山頂から女体山に一礼し、男体山を下る。
 
 筑波山ケーブルカーは紅葉号と若葉号があるが、下りも紅葉号で、半分ほどの混み具合だった。宮脇駅から石段を下り、筑波山神社拝殿の前で一礼する。
 境内の銀杏が夕陽に輝いていた(写真)。紅葉は盛りを過ぎたが、銀杏の輝きが補ってくれた。
 随神門、神橋、鳥居を下り、門前町に出て、向かいの宿にチェックインする。
 関東平野を望む部屋を予約しておいた。パノラマ露天温泉からも関東平野が望める。単純アルカリ性単純泉のパノラマ露天温泉に入るころ日が落ち始め、風が急に冷たくなる。うっすらともやもかかり、関東平野がボーとしてきて、家々の灯りが橙色ににじんでくる。
 露天温泉に首までつかり体を温め、温泉を出て体を冷まし、また温泉につかり、温泉を出て体を冷やす・・、を繰り返す。ずーと温泉に入っているより、暖め+冷ますを繰り返す方が体が芯まで温まり、血行が良くなるといわれている。単純アルカリ性単純泉は疲労回復に効くそうだ。
 夕食で地元の食材を使った料理をいただきながら、女体山、男体山登頂を祝し、地酒で乾杯する。
  (2023.8)

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2022.11埼玉 嵐山渓谷+武蔵丘陵森林公園

2023年08月16日 | 旅行
日本を歩く>  2022.11 埼玉 嵐山渓谷と武蔵丘陵森林公園を歩く


 テレビで国営武蔵丘陵森林公園などの紅葉が紹介された。天気のいい平日に、車で嵐山渓谷→武蔵丘陵公園に出かけた。国道16号線、国道254号線=嵐山バイパスを走り、嵐山渓谷入口交差点の次の交差点を左折し、標高179mの大平山の北側駐車場に車を止める。
 「武蔵の小京都 嵐山(らんざん)渓谷」の案内板に、1928年、本多静六博士(1866-1952、「2017.1ブログ 日比谷公園・本多静六の先見性」参照)が現在の嵐山渓谷あたりを調査していて、槻川の渓谷が「京都の嵐山に似ている、武蔵嵐山」とつぶやいたことから、当地を武蔵嵐山(らんざん)、町名を嵐山(らんざん)町にしたなどの由来が紹介されている。武蔵嵐山が知られ、訪れる人が増え、東武東上線菅谷駅は1935年に武蔵嵐山駅に改名したそうだ。
 駐車場から大平山の斜面林の遊歩道を下る(写真)。大平山の斜面林は、さいたま緑のトラスト基金と嵐山町により公有地化されさいたま緑のトラスト保全第3号地として整備、管理されている。遊歩道は整備が行き届いていて歩きやすい。
 西から流れてきた槻川は大平山の麓で南に向きを変え、大平山から南に伸びた高台の先端を回り込み、180度向きを変えて北に流れ、大平山の麓で東に向きを変える。
 高台の始まりに広場が整備され、真っ赤に色づいた紅葉の先に展望台が建っている(写真)。
 展望台や広場では、大勢がくつろいだりお茶を飲んだりしながら渓谷の眺めを楽しんでいた。展望台に上り嵐山の風景を遠望する。
 
 高台は南に延びている。雑木林のあいだ歩いて行くと、与謝野晶子(1878-1942)の歌碑があった(写真)。与謝野晶子は夫鉄幹とともに教科書でも習う歌人である。晶子が弟を思い、「君死にたまふことなかれ」と呼びかけた言葉の意味を教わり感動した覚えがある。
 与謝野鉄幹没後の1939年、晶子は娘と嵐山渓谷を訪れ、「比企の渓」29首を詠んだそうだ。歌碑には「槻の川 赤柄の傘を さす松の 立ち竝びたる 山の しののめ」と彫られている。朝日が山の稜線に顔を出し、槻川に並ぶ赤松をいっそうに赤く染めている風景が浮かぶ。
 歌碑の先は雑木林が途切れ、すすきのあいだを道が延び(写真)、進むと槻川に出る。槻川が180度向きを変える場所で、河原では若い人や子どもが川の流れを楽しんでいた。


 広場に戻り、槻川に沿った遊歩道を東に歩く。緩やかな下りで、左は大平山の斜面、右の雑木のあいだに槻川が見え隠れする。途中で槻川に下りる枝道があり、180度向きを変えて下ると槻川に架かったコンクリート造の冠水橋に出る(写真)。
 名前から察すると増水時には川水が橋を越えて流れるようだ。かつては木造で増水時に何度も壊れ、コンクリート造に変えたのかも知れない。今日の槻川は穏やかに流れている。
 冠水橋はすれ違えるほどの広さで、行き交う人に挨拶しながら渡る。橋を渡り対岸の遊歩道を下ると、川に飛石が並べられている(写真)。
 飛石はすれ違いが難しい。向こう岸の人と間合いを取り、交互に渡り、元の川岸に戻った。
 渓谷というと巨岩がごろごろした荒々しい風景を想像するが、嵐山渓谷は両岸に林が伸びていて、風景が穏やかである(写真)。川幅も空の広さもほどよく調和している。本多博士はこの風景から京都・嵐山を連想したのであろうか。
 穏やかな風景にいると、飛石を渡るときの間合いを取るゆとりが生まれるようで、向こうとこちらで呼吸をあわせて行ったり来たりしていた。
遊歩道を戻り、展望台広場を過ぎ、斜面林を抜け、車に戻る。およそ60分の嵐山渓谷散策になった。


 嵐山渓谷駐車場を出て、国道254号線沿いの和食処でランチを取ったあと、県道173号線を北西に7kmほど走り、国営武蔵丘陵森林公園の南端に着く。武蔵丘陵森林公園の開園は1974年で、開園間もなく子どもを連れて来たことがあるが、記憶に残っていない。
 公園は304ha、東西4.8km、南北7.2kmと広大で、駐車場は南、西、北、中央の4ヶ所に設けられている。紅葉が見ごろのカエデ園に近い中央口駐車場に車を止める。駐車料金は700円、入園料はシルバー210円だった。国営は廉価である。
 中央口を入り針葉樹見本園に沿って北に歩く。マツ、スギ、マキ、ヒノキなど、見慣れた針葉樹の若木が並んでいた。
 続いて原種シクラメン、秋咲き桜が植えられているが、最盛期は過ぎたようでパラッ、パラッと花が片鱗を残していた。


 その先がカエデ園である。遠くからも鮮やかな紅葉が輝いていて、園路に入ると紅葉に圧倒される(写真)。
 もともと紅葉する植物すべてをもみぢと呼んでいたが、紅葉する木の代表であるカエデもみじと呼ぶようになったそうだ。世界にはカエデの木が150種ほど、日本には30種ほど自生していて、カエデ園では日本の20種と外国の3種が植えられている。
 カエデ園紅葉ガイドマップを見ながら、トウカエデ、イロハモミジ、ウリハタカエデ、オオモミジ・・を見上げる。次第に紅葉のとりこになり名前はおろそかになった。
 入園してから60分たった。カエデ園の先のボタニカルショップでコーヒーを買い、ベンチでカエデを眺めながら一息する。
 その先のハーブガーデン、バラ園をぐるりと眺め、紫、ピンク、赤のセージを植え込んだボーダー花壇(写真)を歩いて、カエデ園に戻る。
 カエデ園には複数の園路がある。別の園路を歩いて、真っ赤に燃えた見事な紅葉(トウカエデだろうか)を見つけた(写真)。夕陽を浴びた輝きは神々しく感じる。
 心身に鋭気をもらい、車に戻る。およそ100分の紅葉鑑賞になった。 
 (2023.8)

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2022.11東京 奥多摩・数馬峡

2023年08月12日 | 旅行
日本を歩く>  2022.11 東京 奥多摩・数馬峡を歩く


 全国旅行割を利用し、紅葉を見ながらハイキングしようと奥多摩に出かけた。多摩川上流の奥多摩湖、御嶽山・御嶽神社・御岳渓谷、鳩の巣渓谷は2020年11月、2021年10月、2021年12月に歩いていて記憶に新しい(いずれもHP「東京を歩く」に記載)。
 圏央道青梅ICを下りて、多摩川、JR青梅線に沿った国道411号線=青梅街道を西に走る。JR青梅線御嶽駅を少し過ぎた左に石垣を積んだぎん鈴という旅館?があり、そば処の幟と音威子府そばと書かれた看板があったので入った。多摩川がはるか下を流れる畳敷きの部屋に通されて品書きを読むと、音威子府そばは終売していて、牡丹そばが案内されていた。どちらも北海道産のそば粉で、幻のそばと呼ばれるそうだ。野菜天麩羅付きの牡丹そばを食べた。そばの色は黒く、艶があり、コシもあった。
 次々と客が入れ替わっていたからよく知られた店のようだ。


 国道411号線=青梅街道をさらに西に走りJR青梅線終点・奥多摩駅に寄った。駅前広場右の観光案内所、国道411号線に面したビジターセンターの情報によると、多摩川、多摩川に合流する日原川沿いに氷川遊歩道が整備されていて、紅葉も見ごろだそうだ。
 案内図を見ながら、三本杉を目印に小径を下る(写真)。根元から3本に別れてまっすぐ伸びた杉で、高さはおよそ43mあり、奥氷川神社の神木とした崇められている。神社に一礼する。
 小径を下り、日原川に架かる吊橋の氷川小橋を渡る(写真)。枝が吊橋に伸びだしてきて、眺めはいい。紅葉は盛りだが、紅葉が少なく、緑が旺盛すぎる。
 このあたりは大きな岩が川に迫り出していて、峡谷をなしている。大雨のときは激流になり、巨岩をうがったようだ。吊橋を渡り、コンクリート造アーチ橋である氷川大橋を見上げる(写真)。紅葉の色合いはいいが、緑の勢いが旺盛で、紅葉が寂しい。氷川沿いの散策を切り上げ、車に戻る。


 国道411号線をさらに西に走り、奥多摩湖に向かう。1938年、東京都民の飲料水を確保しようと多摩川を堰き止め貯水池をつくる工事が始まった。完成まで20年かかり、1957年、小河内ダムが完成した。人造湖の正式名称は小河内貯水池だが、奥多摩湖と愛称されている。2020年11月、2021年12月に奥多摩湖を訪ね、水と緑のふれあい館を見学し、見はらしの丘遊歩道を歩いている(HP「2020.11+2021.12奥多摩湖=小河内貯水池を歩く」参照)。
 水と緑のふれあい館の奥の山は日射しを受けて赤茶色に染まっている(写真)。だいたい15:00、山の日暮れは早い。
 さっそく見はらしの丘遊歩道を歩く。登り口の奥多摩湖口は標高が530m、見晴らしのいい八方岩展望台は標高が600m、標高差は70mできつくはない。
 登り始めてすぐに、真っ盛りの紅葉、奥多摩湖、色づいた山並みの広々とした眺めに足を止める(写真)。見はらしの丘案内板には春の桜、秋の紅葉の見どころが記されている。夏は新緑のハイキングも楽しめる。水資源の学習にもなる。なにより広々とした眺めがいい。
 見はらしの丘遊歩道はいくつかのコースがあるので、前回とは違ったコースを選び、35分ほど歩いて八方岩展望台に着いた。満々と水を湛えた奥多摩湖を眺める。
 下りも別のコースを選ぶ。紅葉の絨毯を歩きながら、深まった秋の紅葉を見上げる(写真)。 落ち葉はやがて腐葉土となり、その栄養分が木を育て、木の根が伸びて土を固め、水を蓄え、地中にしみこんだ水が奥多摩湖に集まり、都民の水需要を支える。おおざっぱだが、当たらずとも遠からず、であろう。
 およそ60分で登り口に戻った。
 
 国道411号線を下り、多摩川に面した石神温泉の宿に向かう。温泉はアルカリ性単純硫黄泉で、微かに硫黄の臭いがする。アルカリ性は肌に良さそうだし、硫黄泉も皮膚に効き目がありそうだ。
 温泉で体をほぐしたあと、奥多摩産紅鱒、青梅産豚バラ角煮、青梅産ロース塩麹漬け、ヤマメ塩焼きなど地元の食材を多用した料理に、地元の純米吟醸喜正とおうめワインをいただいた。
  すっかり満足したところに、丸十五目御飯が出た。丸十は薩摩藩主島津家の家紋にちなみサツマイモを意味し、サツマイモ炊き込み御飯だった。香りにつられ、口に入れるとサツマイモの甘みが広がる。食べ過ぎに注意しながら食事を終える。旅の宿では日ごろ食べない料理を味わえるのがいい。視覚、味覚、嗅覚の刺激になる。
 宿のあたりで多摩川は凹字形に流れている。朝、河原まで下りた。対岸に巨岩が立ちはだかっている(写真)。よほど岩盤が固いようで、激流はこの巨岩で押し戻され、凹字形に流れを変えたようだ。河原は岩場に石がごろごろして歩きにくい。
 散策を切り上げ、2021年10月に歩いた鳩の巣渓谷上流(HP「2021.10白丸ダム・鳩の巣渓谷を歩く」参照)の数馬峡に向かった。


 JR青梅線白丸駅を過ぎて、数馬峡橋に近い国道411号線に面した駐車場に車を止める。白丸・数馬峡橋周辺遊歩道案内図を確認し、多摩川に架かった数馬峡橋を渡る。多摩川は深い谷底を流れていて、両側の急斜面の秋らしい色どりが水面にも映っている(写真)。
 ちなみに峡谷、渓谷は似たような地形だが、峡谷は谷が深く川幅が狭くて川縁を歩くことが出来ない地形、渓谷は深い谷でも川幅が広く川縁を歩くことが出来る地形と区別されている。数馬峡橋から見る限り、斜面ぎりぎりまで川が流れているようだ。
 数馬峡橋を渡り、右に折れる。正面に瓦屋根の冠木門が立ち、奥多摩ハンバーグ・アースガーデンと書かれていた。そういえば、駐車場近くにも大きな看板が出ていた。多摩川を見下ろしながらハンバーグをいただくのも良さそうで、ランチが楽しみになる。


 冠木門手前の数馬峡橋・1km・白丸ダムの案内に従って、階段を下る(左写真)。階段の先に遊歩道が伸びている(右写真)。遊歩道は斜面の中腹に設けられていて、多摩川はずーと下を流れている。遊歩道はしっかり踏み固められ、起伏もゆるやかで歩きやすい。フィトンチッドをたっぷり吸収しながら歩く。


 勾配は緩やかだが水面が近づいてきた。対岸の急斜面には秋の色がモコッ、モコッと常緑樹の緑の合間あいまを彩っていて、その色合いが水面に映り、素晴らしい風景をつくっている(左写真)。
 歩き始めて25分を過ぎたころ、白丸ダムが見えた(右写真)。穏やかな多摩川と思って眺めていた水面は白丸調整池=白丸湖だった。2021年10月は白丸ダムの魚道を見学後、下流の鳩の巣渓谷までのあいだを往復した(HP「2021.10白丸ダム・鳩の巣渓谷」参照)。
 1年前を思い出しながら、白丸ダムの堤頂を渡ったら、新たに再生可能エネルギーPR館が建っていた。豊かな奥多摩の水資源を利用した水力発電=再生可能エネルギーがジオラマなどで紹介されていた。
 館の趣旨が違うのだろうが、多摩川を遡上する魚のために遠大な魚道を設けたことも紹介して欲しいね(HP「2021.10白丸ダム・鳩の巣渓谷」参照)。
 お役所仕事は縦割りであっても、自然の営みには縦割りも横割りもないのだから。そんなことを思いながら、遠大な魚道を見下ろす(写真)。


 白丸ダムから下流の鳩の巣渓谷に向かう遊歩道は斜面崩落?のため通行禁止になっていたので、遊歩道を戻る。およそ30分、往復60分で、奥多摩ハンバーグ・アースガーデンの冠木門前に着いた(写真)。
 行列が出来ていた。よほど知られた店のようだ。昼時である。しばらく並び、窓際の席で奥多摩を眺めながら六白黒豚ハンバーグをいただいた。


 国道411号線を下り、JR青梅線御嶽駅近くに建つ玉堂美術館に寄った(写真)。
 川合玉堂(1893-1957)は自然の描写が巧みな日本画の巨匠として知られ、晩年の10余年を御岳で過ごしたことから、1961年に近代和風建築の巨匠である吉田五十八(1894-1974)の設計でここに玉堂美術館が建てられた。吉田五十八の設計に川合玉堂の絵で心持ちが静かになる。1泊2日奥多摩の旅で心身が爽快になった。 
(2023.8)

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