つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る
2022.9 山梨・甲斐善光寺 武田神社を歩く 恵林寺参拝後、国道140号線=雁坂みちを下り、JR石和温泉駅あたりで左折して17:00ごろ石和温泉に着く。
1961年、石和町のぶどう園から温泉が吹き出したそうだ。高温の温泉が川に流れ込み、人々は天然の青空温泉を楽しんだらしい。その後、旅館、ホテルが次々と建ち、現在は40軒ほどの温泉町として人気を集めている。評判は耳にするが泊まるのは初めてである。
地図には、町中を笛吹川が流れていて、一号源泉や源泉足湯広場は支流沿いに記されていた。
宿の温泉に入る。アルカリ性単純泉である。単純泉は化学成分の量が少なく肌への刺激も少ないが、pH8.5以上のアルカリ泉なので肌がすべすべし美肌効果が高い。もちろん疲労回復にも効果がある。西沢渓谷ウオーキングの疲れを癒やす。
翌朝、国道140号線、県道6号線を西に走り甲斐善光寺に向かう。石和温泉から10分ほどだった。
甲斐・武田信玄(1521-1573)は越後・長尾景虎(1530-1578、のちの上杉謙信)と川中島の戦い(1553~1564)で拮抗していた。1558年、信玄は信濃善光寺(2015.11撮影)に戦火が及ぶのを恐れ、本尊一光三尊阿弥陀如来、宝物、仏具、鏡空上人を始めとする全僧侶を現在地に移し、甲斐善光寺を建立する。
武田氏滅亡後、本尊阿弥陀如来像は織田信長の長男信忠が岐阜に移し、本能寺の変後、次男信雄が清洲に移し、のち徳川家康が浜松に移したが(阿弥陀如来が夢に現れ?)甲斐善光寺に返し、天下を掌握した豊臣秀吉が震災で崩壊した方広寺に移したが、秀吉の病が本尊の祟りとされて信濃善光寺に返され、本尊阿弥陀如来像は40数年ぶりに里帰りすることができた、といわれている。
・・2015年11月、信濃善光寺に参拝したとき、本尊一光三尊阿弥陀如来の流転については読み落とした。次の機会に学び直したい・・。
武田信玄が建立した甲斐善光寺の七堂伽藍は1754年に焼失する。現在の金堂は1789年、山門は1796年の再建で、いずれも国の重要文化財に指定されている。
山門は間口17m、奥行き7m、高さ15m、銅板葺き入母屋屋根、木部を朱塗りにした楼門で、圧倒する構えである(写真)。
山門の偉容は信濃善光寺に匹敵する伽藍を目指そうとした意気込みの現れであろう。
山門は三門に通じ、三解脱を意味しよう。荒削りの仁王がにらむ(写真)。一礼する。
参道の先に堂々たる構えの金堂が建つ(写真)。創建時の本堂は間口50m、奥行き22m、高さ23mと信濃善光寺に並ぶ大きさだったらしいが、再建本堂は間口38m、奥行き23m、高さ26mで創建時より小さくなった。それでも堂々たる構えを見せる。
銅板葺き、手前は南向きの入母屋屋根、奥は東西軸の入母屋屋根の撞木造である。撞木造は本堂=金堂の平面が大きいときに用いられる構法で、信濃善光寺も同じ撞木造である。
裳階を回し、正面を唐破風に仕上げたのも信濃善光寺に類似する。
甲斐善光寺の本尊は阿弥陀三尊像である。
信濃善光寺の本尊一光三尊阿弥陀如来像は厨子に安置されているが、秘仏で7年ごとにしか開帳されない。ふだんは1195年に僧常尊が造立した前立仏である阿弥陀三尊像に合掌する。
1558年にすべてが甲斐善光寺に移され、信玄没後、本尊一光三尊阿弥陀如来像は前述のように織田家、家康、秀吉の元を流転して、信濃善光寺に戻された。
甲斐善光寺では、一光三尊阿弥陀如来像不在のあいだ前立仏である阿弥陀三尊像を本尊とし、いまも本尊として崇められている。
拝観券500円で内陣に入る。阿弥陀三尊像は信濃善光寺と同様に、開帳は7年ごとなので尊顔を拝することはできなかった。内陣で正座し、合掌する。
内陣の天井に巨大な龍が描かれている。印の場所で手をたたくと龍が鳴いたように共鳴する。規模が日本一の鳴き龍だそうだ。
内陣奥には「お戒壇廻り」がある。地下に下りる真っ暗な階段があり、左手で壁を触りながら下りていく。通路が「心」の字になっているそうで、真っ暗ななか壁をたどっていくと鍵?に触れることができる。この鍵が本尊との縁を結ぶといわれている。
真っ暗のなか壁をたどっていくともとの階段に戻る。真っ暗のなかで気持ちを集中させるから、本尊と縁が結べるのであろう。
金堂を出て、宝物館を拝観する。木造阿弥陀三尊像、源頼朝木像などを見学し、山門で一礼して、甲斐善光寺をあとにする。
次に武田神社を目指す。県道6号線を西に走り、甲府駅に通じる武田通りを右折する。正面に武田神社の扁額をかけた石の鳥居が見える(写真)。車を止めて近づくと、石灯籠の先に朱塗りの欄干の太鼓橋が架けられ、下をのぞくと堀割だった。太鼓橋の先には左右に石垣が積まれている。堀割+石垣なら城館であろう。
予想通り、説明板には武田氏館跡が紹介されていた。1519年、武田信玄(1521-1573)の父・信虎が、西~北~東の三方を山で囲まれ南に甲府盆地を一望できる、相川扇状地の開口部に城館を築いた。地名が躑躅ヶ崎だったので躑躅ヶ崎の館と呼ばれた。(武田信玄は躑躅ヶ崎に付属する要害山城で生まれる)。
躑躅ヶ崎の館はその後、増強整備され、信玄が武田家の家督を継いだあとも増強されて、当時、最大級の戦国大名居館といわれた。(武田勝頼は躑躅ヶ崎の館で生まれる)。
信玄没後、武田勝頼(1546-1582)は躑躅ヶ崎の館を本拠として戦いを続けるが、1575年の長篠の戦いで徳川・織田連合軍に大敗する。家康の攻勢で1581年に新府城(現在の韮崎市)を築いて躑躅ヶ崎の館から撤退するものの、徳川・織田連合軍に追われ、1582年、天目山で自害し、武田家が滅亡する。
武田氏滅亡後、甲斐国は織田信長が支配、信長没後は徳川家康が甲斐国を支配しそのころ甲府城の築城が始まる。家康が豊臣秀吉により関東に移封されたあと羽柴秀勝、加藤光泰が甲府城築城を引き継ぎ、浅野長政・幸長のときに甲府城が完成し、関ヶ原の戦い後、家康は将軍の子弟を甲府城主とした。
大正時代、武田家の遺徳を慕う県民の機運が高まり、1919年、躑躅ヶ崎の館跡に武田神社社殿が竣工する。祭神は武田信玄である。石鳥居で一礼し参道を進むと二之鳥居が建つ。一礼する。その先に拝殿が建つ。
拝殿は桧皮葺入母屋屋根に唐破風の向拝を延ばす(写真web転載)。二礼二拍手一礼する。
拝殿の奥に玉垣を回した本殿が建つ(写真)。本殿は桧皮葺切妻屋根である。参拝者、観光客が多かった。武田信玄の遺徳であろう。 (2023.5)
2022.9 山梨・恵林寺を歩く 西沢渓谷をあとにして国道140号線=雁坂みちを南に下る。30分ほど走り、県道38号線に左折すると恵林寺に着く。
恵林寺は2013年8月にも参拝していて2度目だが、10年も経つと記憶がかすむ。
参道は南の総門=黒門(下左写真)から真北に延びていて、彼方に赤門がかろうじて見える。
1330年、甲斐牧ノ庄地頭職の二階堂出羽守貞藤が、夢窓疎石を招いて自邸に禅院を創建したのが恵林寺の始まりとされる。
武田信玄(1521-1573)の尊敬を受けた快川和尚(のちに快川国師)が入山して寺勢を高め、1564年に信玄は寺領を寄進し当山を菩提寺と定めた。
信玄が没して3年後の1576年に武田勝頼(1546-1582)は快川を導師として父信玄の葬儀を行う。その後の歴史は勝頼に厳しく、1582年、勝頼は自刃、甲斐武田家は滅亡する。
同年、織田信長(1534-1582)は恵林寺を焼き討ちする。快川国師は「安禅必ずしも山水を須(もち)いず、心頭滅却すれば火も自(おのずか)ら涼し」と辞世し、大勢の僧侶とともに焼死する。
織田信長が本能寺の変で没したあと、徳川家康により復興され、徳川5代綱吉の時代に甲斐国主となった柳沢吉保の庇護で寺運は発展、柳沢吉保夫妻は恵林寺を菩提寺として霊廟を建てる。
・・境内図の北奥に武田信玄墓所、柳沢吉保霊廟が記されていたが寄らなかった・・。
総門=黒門で一礼する(前掲写真)。瓦葺き切妻屋根の薬医門だが、本柱と控柱をつなぐ梁の上に小屋根を乗せていているので高麗門に似る。寺であるから、雨から控柱を護るための造作であろう。
参道の両側にうっそうとして並ぶ木々は大きく伸び上がっていて、歴史の古さを感じさせる。夏の午後だが、木陰のせいで涼やかである。石畳を歩く音が響き、神妙になる。
参道の先に四脚門=赤門が建つ(前頁下右写真)。徳川家康の再建とされ、国の重要文化財に指定されている。
桧皮葺切妻屋根の四脚門である。柱はすべて円柱で、上部をすぼませた粽形式にしていて、桃山時代の豪放さと解説されている。額には、恵林寺の山号である乾徳山が記されている。
朱塗りのため赤門と呼ばれるが、坐禅によって悟りを開こうとする禅宗建築には似合わないと思う。あるいは浮き立つ朱塗りにも気を止めず修業せよ、ということだろうか。赤門で一礼する。
赤門の先に池があり、石の太鼓橋を渡ると、桧皮葺入母屋屋根、楼門形式の三門が建つ(下左写真)。三門=三解脱門は仏道で悟りにはいる前に透過しなければならない3つの関門(空門、無相門、無願門)を意味する。
1階の左右の柱には、「安禅不必山水」と「滅却心頭火自涼」と記されている。信長が焼き討ちしたとき、快川が「安禅必ずしも山水を須いず、心頭滅却すれば火も自ら涼し」と辞世し焼死した場所に三門が建てられたそうだ。三門で一礼する。
三門の先に開山堂が建つ(前頁下右写真)。禅宗では、例外も少なくないが、総門-三門-仏殿を南北に配置する。恵林寺も禅宗の伽藍配置に則っているようだ。
開山堂には創建者の夢窓疎石=夢想国師、寺勢を高め、信長の焼き討ちで焼死した快川紹喜=快川国師、家康の命で恵林寺を再興した末宗瑞曷の三像が堂内に安置されているそうだが、扉は閉じている。合掌する。
柿葺き入母屋屋根で、端正な外観である。
開山堂の真北に本堂が建つ(下左写真)。本堂の参拝入口は右に建つの庫裏になる(下右写真)。
本堂も庫裏も家康により再建されたが明治時代に焼失して、再度、再建された。
いずれももとは柿葺きで、再建時に鉄板を被せたようだ。切妻の大屋根は堂々とした構えである。本堂に唐破風屋根の式台が設けられていて、格式の高さをうかがわせる。
本堂に祀られている本尊・釈迦如来像の尊顔は拝せなかったが、「安禅必ずしも山水を須いず、心頭滅却すれば火も自ら涼し」と唱え、合掌する(次頁左写真)。
本堂の北の回廊に向かう。北には夢想礎石=夢想国師による庭園が造られている(右写真)。庭園は、心字型の池の中央に中島をつくり、奥を築山とし、築山から滝が流れ、立石や飛石をバランスよく配置している。国の名勝に指定されている。
夢窓疎石(1275-1351)は伊勢国の生まれで、9歳で出家して真言宗、天台宗を学び、18歳のとき東大寺で受戒する。20歳のときに建仁寺で禅宗を学び、鎌倉の円覚寺、建長寺などで修業を重ねる。
1325年(夢窓疎石50歳)、96代後醍醐天皇の要望で上洛して南禅寺住職、翌年、鎌倉に赴き円覚寺に滞在、鎌倉幕府滅亡後、足利尊氏・直義から厚く信仰され、のちに足利幕府の要請で西芳寺を中興し、金閣寺、銀閣寺、天龍寺を開山するなど多くの寺を中興、再興、開山し、足利家の調停も努めた。
1335年に後醍醐天皇から夢想国師の号を受ける。
改めて夢想国師の偉大な足跡を復習した。少しでもあやかろうと恵林寺庭園でしばし夢想する。 (2023.5)
2022.9 山梨・西沢渓谷を歩く 全国旅行割支援を活用し、コロナ感染対策にも考慮して、マイカーで泊まったことのない山梨の石和温泉、湯村温泉に出かける計画を立てた。見どころを調べ、秩父多摩甲斐国立公園に位置する西沢渓谷を見つけた。
中央道・勝沼IC から一般道に入り、塩山市街を走る。塩山といえば、遠い昔、JR塩山駅前の国の重要文化財・旧高野家住宅=甘草屋敷を見学した記憶がよみがえる(写真web転載)。web写真では周辺が整備されているように見える。観光資源として活用されてるようだ。
塩山市外を抜けて国道140号線=雁坂みち(秩父往還)を走る。国道140号線は、恵林寺あたりから笛吹川に沿った山あいの道になる。以前、笛吹川沿いの笛吹温泉に泊まり、恵林寺に足を延ばした。恵林寺は甲斐武田氏の菩提寺でもある。帰りに再訪することにして通り過ぎ、国道140号線を北に走る。
勝沼ICからおよそ1時間、13:50ごろ西沢渓谷市営駐車場に着いた。車は数台しか止まっていない。西沢渓谷は、笛吹川が花崗岩盤を浸食してできたそうだ。
案内板を見る。駐車場あたりから笛吹川の北側の林道を歩き三重の滝まで50分、三重の滝から七ツ釜五段の滝まで60分、七ツ釜五段の滝から笛吹川の南の林道を歩いて駐車場に戻ると85分、西沢渓谷を回遊するとのべ195分になる。
渓谷をのんびり歩き、森林浴=フィトンチッドと渓流のマイナスイオンで気分爽快が狙いだから、三重の滝までの往復を目標に歩き始める。
駐車場あたりから一般車両進入禁止だが、しばらくは舗装された林道を歩く(写真)。
笛吹川の上流では台風の大雨で斜面の崩落が何度か起きている。そのため森林を維持増進させる笛吹川民有林直轄治山事業が展開されていて、事業推進のため舗装整備されたようだ。
緑に覆われた林道を10分ほど歩くと、ナレイ沢にかかった橋を渡る。木陰の先になれいの滝が見える(写真)。眺めて通り過ぎる。
数分先に「西沢渓谷鳥瞰図」の説明板が立っていた(写真)。西沢渓谷の東には尾根を挟んで東沢渓谷もある。笛吹川は西沢渓谷に沿って流れていて、西沢渓谷の方が景観も変化に富んでいるようだ。
山に幾筋もの沢が描かれている。比較的柔らかい岩盤を削った沢は直線で流れ、固い岩盤のところでは柔らかい岩盤を探してクネッと曲り、もっと固い岩盤では岩盤を削れず滝になって流れる、などを妄想する。
沢や岩や滝には、ナレイ沢、ヌク沢、フグ岩、カエル岩、三重の滝、龍神の滝などの名前がつけられている。それぞれにいわれがあるのだろうし、それだけ人々に馴染んでいるのであろう。
左=南の崖下に笛吹川が流れていて、木々のあいだから流れが見える。岩盤を削って流れているためか川筋は細い。歩き始めて20数分、まだ余力あり、清々しい空気を吸い込む。
ほどなく西沢山荘がある。しっかりした山小屋だが、人影はない。休業のようだ。
近くに田部重治文学碑「笛吹川を遡る」がある。碑には「見よ笛吹川の渓谷は・・見上げる限りの峭壁をなし 其の間に湛える流れの紺藍の色は 汲めどもつきぬ深い色をもって 上へ上へと・・」と刻まれている。解説によると、1915年に田部重治が山岳行の途中で笛吹川の神秘な奇観を体験し、その紀行文が戦後新制高校の国語の教科書に選定されたそうだ。
文学碑を通り過ぎる。出発地点の標高は1100mほど、三重の滝あたりの林道の標高は1180mほど、標高差は80mほど、距離は2.5kmぐらいらしいので、林道の勾配はきつく感じない。道はしっかり踏みしめられていて歩きやすい(写真)。
歩き始めて30分ほど、笛吹川と東沢の合流点に架かる二股吊橋を渡る(写真)。二つの流れに跨がっているので名づけられたのだろうか。
両岸の支柱にメインケーブルを架け、ハンガーロープで橋桁を支えるシンプルな吊橋だが、床面の塗装が削れ風情はない。
吊橋の中ほどから緑の濃い山あいを流れる笛吹川を遠望する(写真)。見晴るかす風景は気分を遠大にさせる。このあたりは川幅が広く流れは穏やかである。田部重治の感激した奇観ではないが、さわやかな風と遠大な風景に癒やされる。しばらく風景を眺め、一息する。
歩き始めてから40分ほどのところに大久保の滝が流れ落ちている。斜面を下れば滝の迫力が感じられそうだが、帰りに斜面を上らねばならない。体力を温存して林道から遠望する(写真)。落差は30mぐらいで、水量が豊かなようだ。
大久保の滝から少し先が三重の滝である。鎖の手すりの木製階段を下りて、流れに近づく。上から見下ろしたときは滝が分かりにくかったが、下りきって見上げると、岩盤をえぐって流れ落ちた水が向きを変え、次の岩盤をえぐって流れ落ち、また向きを変えて岩盤をえぐり流れ落ちていることが分かる(写真)。
三段の岩盤をえぐって流れ落ちているので三重の滝と名づけられたのであろう。一段ずつの高さは低いが水量は豊かで、白いしぶきを上げ迫ってくる流れに岩盤をえぐる勢いを感じる。
マイナスイオンをたっぷり吸い込む。岩盤をえぐる笛吹川の力もお裾分けしてもらう。
林道の先に田部重治の感激した奇観や七つ釜五段の滝などの景勝地があるようだが、駐車場を出てから三重の滝までおよそ55分だったので、同じ道を45分で引き返し、あわせて100分のウオーキングに満足することする。
足下を確かめ、ほどほどに休みを取り、14:30ごろ車に戻る。
往復とも誰ともすれ違わなかった。西沢渓谷は森林セラピー基地に認定され、「平成の名水百選」「森林浴の森100選」「水源の森百選」などにも選定されているそうだ。大勢の活用を期待したい。 (2023.5)
2022.7 那須温泉神社・殺生石・那須高原展望台を歩く 那須温泉・鹿の湯に泊まった翌朝、温泉神社に参拝した。
那須高原から県道17号線=那須街道を上っていくと正面に大鳥居=一之鳥居が見える(写真)。県道17号線は大鳥居前で右に折れ、殺生石を過ぎ、さらに山道を上ると標高1915mの茶臼岳=那須岳に至るので、何度か大鳥居を通り過ぎたが、温泉神社の参拝は初めてである。
伝承では、34代舒明天皇(在位629-641)の時代、狩野三郎行長が白鹿を見つけて矢を放つが、矢傷を負った白鹿は山に逃げ、行長が白鹿を追って迷っていると温泉の神が現れ「矢傷の鹿は温泉で傷を癒やしている、温泉は万病をなおす効用がある、汝、万民の病苦を救うべし」と話したので、行長は温泉を民に教え、温泉の神を祀る神社を630年に創建したのが温泉神社の始まりとされる。
昨日泊まった那須温泉・鹿の湯は1300 年ほど前、僧浄薫が薬師如来のお告げにより発見し、傷ついた鹿が傷を癒しに来ることで鹿の湯と呼ばれたそうだ。
伝承はやや異なるが、傷ついた鹿が傷を癒やすのは共通する。温泉で傷が治り癒やされるのだから、霊験あらかたは確かであろう。
温泉神社は「ゆぜんじんじゃ」と読む(日本語は難しい)。
大鳥居で一礼し、石段を上る。左にさざれ石が置かれている。石灰石が雨水で溶解して小さな石が凝結し、長い時間をかけて一つの大きな岩の塊になった石灰質角礫岩である。長い年月で石が成長することから、神霊が宿ると信じられてきた。注連縄を巻いたさざれ石が神社によく置かれている。
さざれ石を過ぎ、石段を上り、二之鳥居で一礼する(写真)。社林が清々しい。
右に温泉神社を建立した狩野三郎行長を祭神とする見立神社が祀られている。
左には水琴窟がある。地上に設けられた小さな穴に水を落とすと、地中に埋められた甕に水音が反響する仕掛けである。静かに音色を聞く。小さな音色に気持ちが集中するので、気持ちが平らかになる。
石段を上がると三之鳥居が建つ(写真)。立て札に「奉献 1186年 那須余一宗隆」と記されている。
那須与一が源平合戦・屋島の戦い(1180~1185)でみごと扇の的を射た話はよく知られる。与一は弓を射るとき「南無八幡大菩薩・・・日光権現宇都宮、那須温泉大明神、願わくはあの扇の真中射させてたばえ給え」と祈願したそうだ
扇を射貫いた与一に源頼朝は20万石を与え、のちに与一は那須郡の総領になった。与一は那須に凱旋後、神意に感謝し社殿、鳥居などを奉献したと伝えられている。
与一は那須の豪族の11男に生まれ、10余り1で余一と命名された。与一はのちの改名である。
三之鳥居の右に神木である推定樹齢600年、高さ18m、周囲4mのミズナラの木がいまにも歩き出しそうな樹型で枝を伸ばしている(写真)。
「生きる」と命名されていて、活力、蘇生力、生命力のパワーが授けられる巨木として崇められているそうだ。
左には疱瘡神社、山神社、神明宮などの社が並ぶ。
石段を上ると左の岩に芭蕉の句「湯をむすぶ 誓いも同じ 石清水」が刻まれている(写真)。
説明板には(松尾芭蕉46歳の)1689年、奥の細道の途中、芭蕉は殺生石見物の際に温泉神社に参拝したこと、同行した曽良の日記に「温泉大明神の相殿に八幡宮を移し奉る両神一方に拝させたまふ」と記されていることが紹介されている。
上五の湯をむすぶは湯を掬(すく)うという意味である。温泉の湯を掬って清めたということだろうか。
季語は清水である。温泉神社の祭神である誉田別命(ほんだわけのみこと)は石清水八幡宮の祭神でもあるので、石清水八幡宮にかけて下五を石清水にしたとの説もある。
中七の誓いも同じは、那須与一と同じ誓いだとすると、芭蕉も弓を射て戦いに勝つことを祈願したことになってしまう。曽良の日記の両神一方に拝させたまふから推測すると、石清水八幡宮と温泉神社の同じ祭神である誉田別命に祈願したということだろうか。
俳句の理解は読み手の想像力に任されるらしいが、想像力の限界を感じる。俳句は難しい。
・・2016年5月、石清水八幡宮に参拝し(HP「2016.5京都を歩く1」参照)、本殿中御前の祭神である誉田別命にも二礼二拍手一礼したが記憶に残っておらず、温泉神社の祭神・誉田別命を知っても石清水八幡宮のことは思い出せなかった・・。
芭蕉は、温泉神社祭神・誉田別命から石清水八幡宮祭神・誉田別命を連想し、夏の季語である清水に結びつけて下五を石清水としたのだからまさに偉人である。
さらに石段を上り、温泉神社拝殿に参拝する(写真)。温泉神社は狩野三郎行長による630年の創建、その後、那須与一が鳥居とともに社殿を奉献したと伝えられている。何度か改修や建て替えがあっただろうが、現在の弊殿、拝殿は1985年の改修である。
祭神は大己貴命(おおなむちのみこと=大国主命)、少彦名命(すくなひこなのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと)である。二礼二拍手一礼する。
商売繁昌、家内安全、病気平癒、身体健全、縁結びの御利益、那須与一にちなみ必勝祈願の御利益があるそうだ。
温泉神社大鳥居あたりの標高は850mぐらい、弊殿・拝殿あたりの標高は880mぐらい、30mほど石段を上ったようだ。境内の右側は20~30mの崖で、真下に殺生石が見える(写真)。
弊殿・拝殿の横を通り抜け、坂道を下ると殺生石の横に出る。
殺生石は溶岩で、岩の割れ目から火山性ガスが噴出している。火山性ガスで生き物が死ぬことから、殺生石と名づけられたそうだ。木道でところどころガスが噴出する溶岩の斜面を回遊できる観光地になっているが(写真)、ガス濃度が高くなると立入禁止になるらしい。
殺生石には「九尾の狐」の伝承がある。「3500年前に中国、インドを荒らし回った九尾の狐が、平安時代に日本に飛来して美女に変身し、帝の寵愛を受けた。狐は帝を衰弱させて日本を我が物にしようと企んだが、陰陽師の阿部康成に正体を見破られたので那須野原に逃げ込んだ。
地元の武将・上総介広常と三浦介義純が狐を成敗すると、死んだ狐は巨石になり、毒気をふりまいて近づくものを殺し続けた。これを聞いた源翁和尚が杖で一喝すると、石は三つに割れ、一つは会津、もう一つは備後に飛び、一つがここ那須湯本に残ったそうだ。
松尾芭蕉は1689年に奥の細道の途中、温泉神社参拝の前に殺生石を見物していていて、「殺生石は温泉の出づる山陰にあり。石の毒気いまだ滅びず、蜂蝶のたぐひ真砂の色の見えぬほど重なり死す」と書き記し、
「石の香や 夏草赤く 露あつし」の句を残している(写真左の石碑)。
上五の石の香は殺傷石の放つ硫黄ガスであろう。中七の夏草が季語で、青々しているはずの夏草が有毒ガスで赤くなり、下五の朝?露も溶岩の熱気で熱く感じる、と理解すると芭蕉の驚きが伝わってくる気がする。
芭蕉の句碑の横に那須高原展望台に上る遊歩道がある(前掲写真)。殺生石あたりの標高が870mぐらい、那須高原展望台の標高が1048m、標高差は180mほど、距離は1kmらしい。
天気が崩れる心配もないので、歩き始めた。じきにうっそうとした森の山道になった(写真)。山道は歩きにくくはないが、森に覆われて見通しはない。
歩くことおよそ30分、息を切らしながら那須高原展望台に出た(写真、高原の遠望)。
なんと、2018年5月に茶臼岳=那須岳に登った帰り道、県道17号線=那須街道を下る途中、ここで那須高原を展望していた(HP「2018.5茶臼岳=那須岳を登る2」参照)。
恋人の聖地と銘打たれ、煉瓦積みの小窓があって、夜、この小窓からのぞきピエロが見えれば恋人は結ばれるそうだ。いまは昼間でピエロは見えないが、車で来たカップルが写真を撮って走り去っていった。
私たちは、どこまでも続く緑の那須高原を見ながら息を整えたあと、山道を下る。芭蕉の句碑の横を通り、殺生石園地を抜け、温泉神社駐車場に戻り、帰路についた。 (2023.5)
book551 洛中洛外画狂伝 谷津矢車 徳間文庫 2018
「魔境」 源四郎はひと月と聞いた瞬間、狩野の原点である墨絵が浮かんだ。筆を執る。次第に手が勝手に動き始める。天に配置を任せ、地に描線のあり方を聞く。自分は巫のように天と地のあいだを取り持つ。父松栄と一悶着する。松栄は源四郎が魔境に入ったと感じる。
源四郎が心の闇の中に目を向けると、真っ暗な闇から自分にしか見えない竜の姿が湧き出てきた。無心で筆を振るう。20日ほどで絵が出来、最後の工程の目に瞳を落とす。
竜の掛け軸を義輝に届けたあと、比叡山で修行し僧になった日乗が来る。日乗は、竜の屏風は上洛した越後の長尾景虎への贈り物に違いない、関白左大臣・近衛前継が長尾景虎について越後に下向したなどを話す。
源四郎は元信の一周忌に間に合わせようと、元信に連れられて見た京洛の図を描き続けた。自分の心の中に浮かんだままを描いた町の姿は、我褒めしたくなる出来映えだった。金泥や孔雀石の緑青、赤味の辰砂など高価な顔料を惜しみなく使い、父松栄をしのぐ絵を完成させる。
「競絵」 1564年、22歳の源四郎に、訪ねてきた日乗が東海で織田と松平(のちの徳川家康)が勢力を伸ばし、長尾景虎は上杉景虎として関東管領に就くが甲斐の武田、相模の北条と勢力が拮抗し、山陽の毛利元就も活発など、波乱の予感を話し京の平和はいまにも壊れそうなうたかたのようだと語る。
29歳の義輝は武のない和平に心を砕き、上杉と武田に停戦を呼びかけ、毛利と大友の戦いを調停しようと、山のような書状に目を通し、書状をしたためる。
義輝は各地の勢力を源四郎に語ったあと、この天下の形を変えなければならない、予の天下を支えてくれと話す。・・ただの絵師である源四郎にできることは何か、洛中洛外図屏風へと発展する・・。
義輝は越後の竜と甲斐の虎の諍いを鎮めようと働きかけ、義輝の和解案を大義名分に川中島で対陣していた上杉と武田が撤兵する。
義輝は源四郎に、闘鶏の真の勝者は場を仕切る主である、天下も同じである、予は大小さまざまな武家、公卿、坊主、神主、町衆などのぶつかり合いを調停し、戦を止める公方を目指す、と話す。
義輝は、元信の供養で寄進した源四郎の屏風を見た。源四郎の絵には力がみなぎっている。それはお前という人間の強さの現れであろう。その力で予の天下を描いてこいと、源四郎に命ず。
話は前後するが、松永弾正が重陽の節句の催しを開き、狩野源四郎と弟元秀の兄弟絵師の競絵を仕掛ける。父松栄から勝つように仕向けられ緊張する元秀に、源四郎は絵とは自分と向き合い、描くと決めたものを紙の上に描き出すだけ、と諭す。
元秀は題である菊の花を優美に描き、賞賛を浴びる。
源四郎は、白い紙があり天と地のあいだに自分がいると思うや、無心で筆を振るった。弾正は、心に入り込んで内から食い破っていくような絵である、両者に甲乙をつけてはならぬと評価し、源四郎に三好の元へ来いと口説くが、源四郎は弾正の誘いを避ける。
話を進め、義輝から予の天下を描けと命じられた源四郎が京の町を歩いて半紙に下絵を描いているとき、扇商・美玉屋と出会う。美玉屋は源四郎の絵は新しすぎて、町衆に売れないという。
美玉屋と別れたあと、源四郎は、自分を通すと周りから人がいなくなり、暗い獣道を独りで歩く羽目になる、一方で獣道の涯から一条の光が差し込んでくる、自分は真っ暗な闇を独りで歩き一筋の光を取ろうと願う人間だ、と思う。
源四郎は義輝に屏風の下絵を見せる。金雲によって空間を省略 し、右隻は内裏、左隻は公方邸を主題に、右隻第四扇~第六扇に正月の内裏、第一扇~第三扇に盂蘭盆会とした、季節はそれぞれが一番引き立つ時を選び、全体の体配を考慮して仕上げていく、と話す。
義輝は、左隻に細川邸、高畠邸、松永弾正屋敷、三好築前邸など、いまの世にあふれる勢力を共存させ、まだ京に屋敷はないが上杉を迎えて天下の均衡をとるつもりなので上杉の屋敷も描けと、告げる。義輝の希望する太平の世の姿である。
「業火」 1565年、源四郎は、義輝が思い描いた天下の形の下絵を描き終えた。そのとき、遠くから鬨の声が聞こえた。駆けつけると、二条御所の堀の外に松永弾正ら三好軍の一万超える軍勢が陣どっていた。
弾正は源四郎に、義輝に臣下を更迭し三好家の傀儡になるかまたは将軍職を返上せよと迫ったが、義輝はどちらも拒否し二条城に立てこもったので、弾正は義輝を弑したという(永禄の変)。
二条城が焼け落ちる。京に疫病が流行る。源四郎を慕い、源四郎を支えてくれた弟子の平次が疫病で息を引き取る。源四郎は、自分を取り巻いていたすべてが崩れ去ったと感じる。
廉の呼びかけもむなしく、源四郎は数ヶ月家に籠もる。ふっと膠の臭いに気づく。弟元秀が京洛図の下絵を見ていて、源四郎に「兄上は、絵とは描くと決めたものを紙の上に描き出すだけと言った]「兄上は天賦の才を持っている、才ある人間は責がある、血反吐を吐いても絵を作らねばなない」と迫る。
目覚めた 源四郎は元秀に手伝ってもらい洛中洛外図屏風を完成させる。
源四郎は僧日乗(実は毛利の間者だった)の仲立ちで関白左大臣・近衛前久(=近衛前継)と会い、次の天下の主を聞くと、前久は尾張の織田信長と答えた。前久は、三好の軍勢に屈服せざるを得なかったが、己の創りたい世のため生きることを選んだとも話す。
前久は、絵師狩野源四郎の名を聞くと、襖絵を依頼する。それから数年、源四郎は大名、公家、寺社の絵に没頭する。
「終」 1568年7月、織田信長が上洛し、「序」に綴られたように源四郎が洛中洛外図屏風を献上し、虎図屏風には魂がこもっていないと言い切る話につながる。
源四郎=永徳が信長に、義輝公の目指した天下を洛中洛外図として描いたと話す。信長は亡き公方様とおまえの合作であるゆえに輝いていると言い、わしはわしの、織田信長の天下を描く、と源四郎を圧倒し、刀を抜いて虎図屏風を一刀両断にする。
帰り道、永徳はわしは天下をも越えていくと述懐し、幕となる。
永徳が洛中洛外図屏風を完成させたのは20代前半、その後、信長は天下を取る前に命を落としたが、永徳は多くの力作、名品を残した。永徳は屏風絵、襖絵で天下を越えたといえよう。
断片でしか見ていなかった洛中洛外図屏風上杉本の実物が見たくなった。機会があれば米沢を訪ね、洛中洛外画狂伝を思い出しながら、義輝と永徳の合作である安寧の京洛をじっくり見たいと思った。 (2023.5)