yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2017.11 歌舞伎座で様式美の仮名手本忠臣蔵、哀感漂う新口村、元禄忠臣蔵「大石最後の一日」を観る

2017年11月26日 | よしなしごと

2017.11 顔見世大歌舞伎観劇

 2017年11月、顔見世大歌舞伎・4時半開演の夜の部の観劇に出かけた。4時半まで時間があるので、上野・国立西洋美術館に寄って「北斎とジャポニズム展」を鑑賞してから、JRで上野駅から有楽町駅に行き、晴海通りをのんびり歩いて歌舞伎座に向かった。
 昼の部は11時開演、夜の部は4時半開演で、どちらも食事にぶつかる。かつての観劇のあいまに飲食する風習がいまに残り、11時、4時半開演が設定されているのかも知れない。1階桟敷席は食事付きで観劇を楽しむことができるが、1階桟敷席は20000円でとても手が出ない。歌舞伎座内にも、鳳、花篭、吉兆の食事処や喫茶檜があり、予約しておけば幕間を利用して食事ができる。弁当も売店で売られている。今回は、晴海通りの向かい側の弁当屋で購入し、幕間に頂いた。
 歌舞伎座の客席は1階~3階に分かれ、1階は20000円の桟敷席と18000円の1等席、14000円の2等席、2階は1等席、2等席で、年金生活には高嶺の花である。庶民は3階A席6000円かB席4000円になるが、当然ながら観劇しやすい席から埋まっていく。今回は、web受付と同時に購入予約をしたので、3階東を選ぶことができた。3階東は舞台の東端は見えにくいが、1列席なので前後に席はなく視界が広い。気兼ねもしなくていい。なにより花道を一望できる。楽しみだ。

 夜の部の第1は、「仮名手本忠臣蔵五・六段目」、一幕三場である。パンフレットのキャッチフレーズには「様式美と洗練された演出で描く男の悲劇」と記されている。様式美とは、歌舞伎固有の様式のことだろうか?。
 幕が上がると、舞台に粗末な住まいがしつらえられていて、片岡仁左衛門扮する早野勘平と片岡孝太郎扮する女房おかるの演技が始まる。
 義太夫狂言三大名作の一つだそうで、3階東の席からは見えないが、舞台の右手=上手に「ツケ打ち」が座っていて、「ツケ板(欅が使われる)」を「ツケ木(樫が使われる)」でリズミカルに打ち鳴らし、ツケに乗って物語の背景、物語の展開、演者の心情などが義太夫節で語られていく。
 義太夫によれば、塩冶判官エンヤハンガン(=浅野内匠頭)が高師直コウノモロナオ(=吉良上野介)に刃傷し、切腹、家名断絶となったとき、早野勘平は主君の一大事に居合わせなかったため、その責から猟師になっていた。しかし、なんとか主君の仇を討とうと、同志の板東彦三郎扮する千崎弥五郎に資金の調達を約束する。
 猟師ではそんな大金を得ることはできないので、おかるを身売りすることにして資金を手に入れる・・女房を身売りとは無茶な話だ・・。その資金を懐に入れていた父与市兵衛は、市川染五郎扮する斧定九郎に襲われて命を落とし、資金を奪われる・・金のために人を殺すなんて無茶な話だ・・。
 ところが猟に出た勘平が猪を撃つが誤って定九郎に当たり定九郎は命を落とす・・誤射とはいえ人を殺すのだからこれも無茶な話だ・・。なんと、勘平は懐の金を持ち逃げする・・これも無茶な話だ・・などの展開が、勘平、おかる、上村吉弥扮する勘平の母おかやの演技+会話とともに義太夫で語られていく。 
 そこへ片岡秀太郎扮するお才がおかるを引き取るため登場、次いでむしろで覆われた定九郎の遺骸が届けられる。おかるの話を早とちりし、勘平は自分が撃ったのが父与市兵衛と思い込んでしまう。
 そこに千崎弥五郎、板東彌十郎扮する不破数右衛門が現れ、いよいよ仇討ちのときが来たと話す。勘平は父を撃ち殺した不忠者だからと、弥五郎、数右衛門の目の前で切腹してしまう。
 ところが、父を殺めたのが定九郎だと分かる・・早とちりで切腹するのも無茶な話だ・・。息も絶え絶えの勘平は仇討ちの血判状に名を連ねることが許され、血判を押したところで息を引き取り、幕となる。名演技、義太夫の語りはさすがだが、話が無茶過ぎると思った。

 幕間に弁当を食べる。席が窮屈で足が縮こまってしまうから、館内をぐるりと歩いているうち、開演のベルが鳴った。

 演目の第2は、恋飛脚大和往来「新口村」で、坂田藤十郎扮する亀屋忠兵衛と中村扇雀扮する傾城梅川の逃避行がテーマである。飛脚問屋に勤める忠兵衛は遊女梅川を身請けするため商売の金に手を出し、追われる身になった。
 二人は忠兵衛の故郷新口村にたどり着く。雪化粧の忠兵衛の実家が舞台で、花道から中村歌六扮する忠兵衛の父孫右衛門が登場する。孫右衛門が雪で転び、鼻緒を切ってしまう。それを見た梅川は孫右衛門を助けおこし、鼻緒を直す。
 孫右衛門は梅川が忠兵衛の連れと気づき、親子が再会するが、追っ手が近いので、泣く泣く忠兵衛・梅川は孫右衛門に教えられた山道に逃げ、幕が下りる。解説によれば「哀感漂う味わい深い上方狂言の名作」である。動きは静かで、見得も切らないが、親子の悲しい別れが伝わってくる。

 最後の演目は元禄忠臣蔵「大石最後の一日」で、一幕だが途中で幕が下り舞台設定が変わる。吉良邸に討ち入り、主君の仇を討ったあと、赤穂浪士は4大名に分かれて預けられた。松本幸四郎扮する大石内蔵助始め17名は細川家に預けられた。
 舞台は細川家の屋敷である。浪士の一人市川染五郎扮する磯貝十郎左衛門は、吉良低の様子を探るため許嫁の中村児太郎扮するおみとの結納の日に姿を消していた。
 おみのは十郎左衛門の真意を確かめようと、男装して細川家を訪ね、内蔵助に苦しい胸の内を話す。内蔵助の計らいで十郎左衛門はおみのと再会し、二人は愛を確信するが、無情にも切腹の沙汰が伝えられる。
 赤穂浪士は順に花道を去って行き、最後に内蔵助が花道に消えて幕が下りる。解説には「赤穂浪士の最後の姿を描く史劇の傑作」とあるが、十郎左衛門・おみのの再会と別離もなかなかの演技だった。

 歌舞伎座は、新橋演舞場のスーパー歌舞伎などに対し、伝統が重んじられ、様式美が追求されるということのようだ。役者の名演技に拍手を送り、歌舞伎座を後にした。  

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2017.11 世界遺産西洋美術館の前庭でロダンの傑作カレーの市民、地獄の門、考える人を鑑賞

2017年11月23日 | よしなしごと

2017.11 国立西洋美術館とロダン  

 「北斎とジャポニズム展」を見終わったあと、前庭のベンチでロダンの彫刻を見ながら一休みした。
 そもそも、国立西洋美術館はル・コルビュジエ(1887-1965)の設計で1959年に竣工した(写真、前庭西からの眺め)。ル・コルビュジエはフランク・ロイド・ライト(1867-1959)、ミース・ファン・デル・ローエ(1886-1969)とともに近代建築の巨匠として知られる。巨匠ル・コルビュジエの設計だから建設当時から話題になった。建築に興味を覚えて間もなく見学に行ったし、上野の森に行くたびに整った佇まいを眺めた。ル・コルビュジエが近代建築の5原則としてあげたピロティ、屋上庭園、自由な平面、水平連続窓、自由な立面のすべては満たされていないが、5原則の片鱗はうかがえる。日本のモダニズム建築としての評価は高く、2007年に国の重要文化財に指定された。2016年には7カ国17資産で構成された「ル・コルビュジエの建築作品-近代建築運動への顕著な貢献」の一つとして登録された。

 もう一つの魅力は、前庭に展示されているオーギュスト・ロダン(1840-1917)の作品である。「地獄の門」「考える人」「カレーの市民」はいずれも教科書で学んだ記憶がある。
 前庭西に展示された「カレーの市民」は、フランスとイングランドとのあいだの王位継承を巡る百年戦争(1337-1453)時の1347年、フランスの重要港であるカレーがおよそ1年にわたりイングランド軍に包囲され、町の有力指導者6人が死を覚悟して敗北を認めた光景の群像で、1888に完成したロダンの代表先の一つである。12体が鋳造され、その一つが西洋美術館前庭に展示されている。衣服はぼろぼろでやせ衰えているが、誇りを失わないカレーの市民の気高さが感じられる。

 前庭東に威容を誇る「地獄の門」もロダンの代表作である(写真)。名前からもフィレンツェ出身・ダンテ・アリギエーリ(1265-1321)の代表作「神曲」を主題にしていることが推測できる。神曲は地獄編、煉獄編、天国編で構成されるから、ロダンは地獄の門に続いて煉獄の門?、天国の門?も構想したのかも知れない。1880年、パリの装飾美術館の入口の門扉を依頼され、試作を続けるうち、解説によれば、・・ダンテの神学的秩序は失われ次第に渾沌たる世界に変わっていき・・ダンテに取材したモチーフは「パオロとフランチェスカ」と「ウゴリーノと息子たち」の2つに限られ・・タンパンの中央に坐って墜ち行く人々を凝視する男は「考える人」に変わり・・門の頂に立つ「三つの影」はアダムに由来し・・夕ンパンの右端に「立てるフォーネス」と「瞑想」、左手に「オルフェウスとマイナスたち」のマイナス・・右扉の下部に「フギット・アモール」、左扉中央に「ネレイスたち」、左の付け柱に浮彫「美しかりオーミエール」、その柱の上に「うちひしがれたカリティード」、右の付け柱の上部に「私は美しい」の浮彫があり、この二人の男女を離したものが「考える人」の左の「うずくまる女」と左扉の上部から身をのけぞらせる男・・だそうだ。解説を読んでも実物の「地獄の門」の全容を把握しにくいほど、高さ5.4m、幅3.9m、厚み1mの躍動的な浮き彫りは鑑賞者を圧倒する。
 ロダンの助手の一人にカミーユ・クローデル(1864-1943)がいる。才能にあふれた彫刻家でロダンの愛人になったが、破局を迎え、精神を患ってしまった。一説には、地獄の門もカミーユ・クローデルの力が大きいそうだ。地獄の門にはカミーユ・クローデルの怨念が刻まれているかも知れない?。それほどの迫力を感じる。
 原型のが完成は1917年・・ロダンの死によって終了?・・だが、鋳造は1930年代になってからで、現在世界に7つの「地獄の門」が展示されている。その一つが前庭の展示になる。

 「考える人」は「地獄の門」の上部に飾られているが、1904年に拡大され、独立して展示されるようになった。世界に26体あるそうで、その一つが西洋美術館前庭の西側に展示されている。独立した展示としても、思索にふける?、悩み抜いている?その思いの深さを感じる。
 名作を鑑賞しながらの一息で、気分は爽快である。オープンカフェがしつらえられているともっとくつろげると思う、贅沢な希望かな。

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2017.11 「北斎とジャポニズム展」でモネ、ドガ、セザンヌ、ゴッホたちの印象派が北斎の影響を受けたことを学ぶ

2017年11月21日 | よしなしごと

2017.11 北斎とジャポニズム展

 「北斎とジャポニズム展」が上野・国立西洋美術館で開催されている。葛飾北斎(1760-1849)の人気は近年とみに高まっているうえ、浮世絵の影響を受けたモネ、ドガ、セザンヌなどの名だたる名画をいっしょに展示する企画だから興味津々になる。混雑を覚悟して出かけた。
 予想通りの混雑だった。最近はイヤフォンガイドが普及していて、ガイドを聞いている人たちが何人も絵を見ながら立ち止まるのが原因の一つのようだ。各展示コーナーの始めに解説文があり、上から下まで読もうと立ち止まるのも混雑の原因である。今回は北斎の作品と西洋画家の作品が隣り合わせで展示されていて、両方を見比べようとして時間がかかりのも混雑に拍車をかけていた。
 北斎と西洋画を見比べ、北斎からどのような影響を受けたのかを鑑賞するのがこの企画の最大のポイントだから見比べるのは当然で、混みあうのもやむを得ない。混みあっている作品は後回しにして、空いている作品を先に鑑賞するなど、自分なりの工夫をしながら、展示を楽しんだ。

 葛飾北斎は名前の通り葛飾=現墨田区の生まれである。墨田区のすみだ北斎美術館も北斎ゆかりの地として計画された。北斎は生涯に版画、浮世絵、肉筆画など3万点の作品を残したそうで、冨獄三十六景、千絵の海、富獄百景などはよく目にする。発想も画法も特異であり、表現もきわめて繊細で、見る者を圧倒する。一方、北斎漫画はユーモラスなスケッチが多いし、妖怪もしばしば登場するし、美人画もあれば、身の回りの動物、植物も題材にしている・・アメリカの雑誌ライフが1999年に企画したこの1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人に、北斎はただ一人の日本人として86番目にランクされている・・。


 19世紀後半、ヨーロッパでは産業革命、フランス革命を経て、社会が大きく変動していて、画家たちも新しい表現を模索していた。19世紀前半のころ、日本では浮世絵は日常品だったらしく、鎖国時代の漆器、陶磁器の交易に浮世絵が包装紙として使われていた。包みを開けた西洋人は漆器、陶磁器とともに浮世絵にも目を奪われたに違いない。新しい画法を模索していたヨーロッパの画家は、大胆な構図の浮世絵に新鮮な印象を受け、自分の画法に取り入れていった。印象派である。
 オランダ生まれのゴッホ(1853-1890)は長崎・出島を介した交易で浮世絵が身近だったのだろうか、主に歌川派だが、相当数の浮世絵を収集し、絵の背景に花魁や名所富士、桜などを描き込んでいる。今回の「北斎とジャポニズム展」では、1889年・・精神が変調したころ・・の「ばら」と北斎の「牡丹に蝶」が対比的に展示されていた。

 「北斎とジャポニズム展」では、印象派の代表格として知られるマネ(1832-1883)、モネ(1840-1904)、ドガ(1834-1917)、ルノアール(1841-1919)、ピサロ(1830-1903)、セザンヌ(1839-1906)、ゴーガン(1848-1903)、スーラ(1859-1891)ほかの作品が220点も展示されているそうだ。
 北斎の作品は110点が展示されているから、あわせて330点になる。展示は、1章「北斎の浸透」、2章「北斎と人物」、3章「北斎と動物」、4章「北斎と植物」、5章「北斎と風景」、6章「波と富士」に区分されているから、ヨーロッパの画家が北斎からどのような影響を受けたか理解しやすいが、どうしても始めの展示は気合いを入れて見ていくが、だんだんと疲れが出てくるし、余りにも数が多いと印象が錯綜してきて、出口に近づくころは見方が少し雑ぱくになり印象も浅くなってしまう。
 主催者は筋書を十分に練って展示しているのであろうが、前半はすべて飛ばし中ごろから気合いを入れて見始め、最後まで見て、いったん休憩を取り、気合いを入れ直して入口に戻り、前半を見るのもいいかもしれない。

 「北斎漫画」は、断片は見たことがあったが全15編の絵手本だったことを初めて知った。さまざまな対象がさまざまな視点から描かれた図集である。その中の相撲取りが腰に手を当てているスケッチを見て、ドガは「踊り子たち、ピンクと緑」を描いたそうだ。ドガの「踊り子」は何度も見ているが、そのポーズが北斎の影響だったことは今回の展示会でよく理解できた。
 モネの「陽を浴びるポプラ並木」も何気なく見ると印象派の表現で終わってしまうが、北斎の「冨獄三十六景、東海道程ヶ谷」と並べられると、松並木を躍動的に描くのがモネたちに新鮮に見えたのだと理解できる。
 セザンヌの「サント・ヴィクトワール山」は、北斎の「冨獄三十六景、駿州片倉茶園の不二」が手前に松、中景に茶園の風景、遠景に富士を配している表現に影響され、手前に樹木、中景に田園風景、遠景にサント・ヴィクトワール山を配している。セザンヌの絵だけを見ると気づかないが、北斎たちの影響がいかに大きかったかがよく分かった。

 専門家は、ゴーガンの「三匹の子犬のいる静物」が、北斎の「三体画譜」に描かれている丸みを帯び、平面的に描かれた3匹の子犬に影響された表現と指摘している。北斎は3様のポーズの子犬を描いているが、ゴーガンはミルクを飲む3匹の子犬を描いていて、これが北斎の影響だと指摘されても、浅学の身にはなかなか理解しにくい。
 スーラの「とがったオック岬、グランカン」も北斎の「おしをくりはとうつうせんず」の影響と指摘されているが、前者は湾曲した岩であり、後者は冨獄三十六景にも出てくる船を飲み込まんとする波であり、輪郭は類似するが主題は異なる。ヨーロッパの画家たちは北斎たちの浮世絵の大胆な構図に魅了され、それをそれぞれが思い思いに自分の画風に取り入れたということらしい。まだまだ私は修行が足りない。

 アール・ヌーヴォを代表するガレ(1846-1904)のガラス細工「ランプ・朝顔」「花器・蓮」「花器・シカモアカエデ」ほかも展示されている。ガラスに刻まれた図柄は、見とれるほど素晴らしい。これは北斎の影響だとすぐ分かる。アール・ヌーヴォの家具も展示されていて、これらにも北斎の影響を見ることができる。
 足は棒になったが、満ち足りた気分で会場を後にした。印象派の作品を見ているときには気づかなかった北斎たちの偉業は、もっと取り上げられていいと思った。たいへん勉強になりました!。学芸員の労苦に賛辞を送りたい。

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2017.11 ぶらっとコンサートで白鳥の湖や火の鳥やマイフェアレディを聴きラデツキー行進曲で盛り上がる

2017年11月20日 | よしなしごと

 私の住むマンションの2ブロック先に区役所・保健所・図書館・研修室・ホールなどを併設した複合施設がある。毎日のようにさまざまな企画、イベントが開かれている。
 先日の日曜、大宮フィルハーモニ管弦楽団による「ぶらっとコンサート」が開催され、およそ2時間、名演奏を楽しんだ。

ぶらっと」の趣旨は、音楽のジャンルにこだわらず、ぶらっと立ち寄るような気軽な感覚で生の演奏を楽しんでもらおうというコンサートだそうだ。
 小さなお子様からご年配まで楽しむことができるようにと年齢制限がないので、乳児、幼児を連れた方も少なくなかった。 小さな子どもがいるとコンサートを楽しむことがなかなかできない。そんな悩みに応えようと企画された「ぶらっとコンサート」は大いに賞賛されていい。

 大宮フィルハーモニーは、1977年の結成で、社会人、主婦、学生、定年退職者などによるアマチュアオーケストラだが、しっかり練習を重ねているようで、名演奏だった。にもかかわらず、無料である。500円程度の有料にして、子ども音楽育英基金などにしてはどうかと思ったほど、演奏レベルは高い。

曲目は、「白鳥の湖より第3幕序奏」、
「交響詩・中央アジアの草原にて」、
「白鳥の湖より情景」、
「シェヘラザード第1楽章」、
「火の鳥より子守歌・終曲」、
休憩を挟んで、「ウィーンはウィーン」、
「ワルツ・金と銀」、
「サウンドミュージックよりドレミの歌」、
「キャッツよりメモリー」、
「マイ・フェア・レディセレクション」で終了だが、なんとアンコールに応えてくれ、2曲も演奏してくれた。
 最後の「ラデツキー交響曲」は全員で手拍子をあわせた。小さな女の子が楽しそうに手拍子をしていた。

 どれもよく聴く曲で、それぞれが短いから子どもたちも親しみやすいのかも知れない。一般は有料でいいから、こうした企画を続けて欲しい。

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2017.10 長崎くんちを堪能する=山車+神輿+御旅所+庭先回り?

2017年11月17日 | 旅行

2017.10長崎を行く⑥ 長崎くんち 山車・神輿・御旅所・庭先回り?

 屋台が並んでいる通りは朝方よりも賑わいを増していた。人混みに紛れて南に向かう。商業施設の夢彩都と大波止の交叉点を結ぶ通りはかなり広いが祭礼のため自動車は進入禁止で、両側に並ぶ屋台は人垣に隠れてしまうほどの混雑ぶりだった。
 まだこの時点では私は祭礼をほとんど理解していない。交通整理が始まり、群衆が交叉点の方に流れ始め、大波止の先の県庁坂通りの方からかけ声が響いてきた。急いで信号機の近くに行き、背伸びをして県庁坂通りを眺めると、山車が勢いよく下りてきた。山車は信号待ちしたあと、一気に大波止交叉点を駆け抜けていった。
 山車には築町と書かれた提灯が下がっていたから、築町の山車であろう。唐破風の屋根の上には龍がうねっていた。続いて、もう一台山車が下りてきた。今度は信号が青なので、転ぶように駆け抜けていった。長崎くんちの神事はおおよそ決まっていて、山車・神輿の通る道と時間がパンフレットに書かれているが、観光客には地理が分からない。偶然にも山車に出会えたのは幸運である。山車が通り過ぎると、もとの賑わいに戻った。


 昼時なので、出島ワーフに向かった。波止場に面した長崎港?という店に入り、海鮮丼を頂いた。2017年8月に函館を訪ね、海鮮丼を食べた。函館はイカがおいしかったが、長崎はハマチやサーモンなどの刺身がおいしかった。所変われば品変わるである。

 長崎くんちの人出に大型客船で一時寄港した観光客が加わり、目の前は人の流れが途切れない。港を眺めていると、大型客船、貨物船、小さな船が行き交うなかを帆船が入ってきた。船の動きも絶えない。活気づいている。たぶん、長崎港は鶴の首のように細長いため、船の出入りが絶えないように見えるのであろう。向こうには世界遺産の一つであるジャイアントカンチレバークレーンが見える。世界遺産登録も賑わいに拍車をかけているのかも知れない。

 昼食後、出島ワーフをさらに南に歩く。長崎美術館がある。設計は隈研吾氏+日本設計で、2005年に開館した。コンセプトを引用すると「生き物が呼吸をするように、美術館の外にあるさまざまな情報や刺激を吸い込み、それを新しい形の刺激として再び外に放出しながら周囲の人や環境とともに成長を続けてゆく」生きた美術館を目指しているそうだ。長崎水辺の森公園に隣接し、運河を挟んだ西棟と東棟は渡り廊下で結ばれていて、緑、水、太陽、風を感じながら回遊することができる。西棟から入館し、吹き抜けホールの階段を通り、渡り廊下を経て、東棟の階段を下り、運河沿いを歩いて、通りに戻った。
大波止交叉点に向かう。どよめきが聞こえてきた。先触れだろうか、黒い帽子をかぶり黒い紋付きを着た人たちが歩いたあとから神輿が練り歩いてきた。金箔の方形屋根の上に鳳凰がきらめいている。警察官が車を止めているなか、神輿が3台練り歩きながら、交差点を渡っていった(写真)。
 屋台の通過では信号に従っていたが、神輿は赤信号でも車は遠慮し、神輿が優先する。神のお通りだからであろう。大勢があとを付いていく。一緒に流れていくと、夢彩都をぐるりと回った先に御旅所が設営されていて、そこに神輿が安置された。御旅所内は祭礼関係者で埋め尽くされているし、神輿を見ようと大勢が押しかけていて、熱気に包まれていた。遠くの方から写真を撮り、拝礼して御旅所を出た。

 今日の宿はハウステンボスに隣接するホテルオークラである。夕食はホテルの予定であり、ハウステンボスにはJR シーサイドライナーを利用するので、長崎駅に向かった。なんと、駅前広場で踊りが披露されていた。長崎くんちでは、市内 の各地で踊りを披露し福をお裾分けし、お祝いするという趣旨の庭先回りという踊りが行われるそうだ。駅前の踊りが庭先回りかどうかは分からないが、立ち止まって見ていたら係員が奥に誘導してくれたので、ありがたく見物させてもらった。 
 昨日の諏訪神社参拝、今朝のテレビで見た神事、走り抜けた山車、練り歩く神輿、御旅所、そして庭回り?の踊り、それぞれ断片だが、長崎くんちを堪能できる幸運に恵まれた。今日は運続きである。

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