2009.9 バルト3国の旅 ラトビア16 リガ旧市街を歩く <世界の旅・バルト3国右往左往>
旧市街を歩く/聖ペテロ教会
ワグナー・ホールVagnera zaleからカリチュ通りKaku ielaに出て、スカールニュ通りSkarnu ielaを左に曲がると聖ペテロ教会Sv. Petera Baznica=St. Peters Churhがそびえている(写真、西面ファサード)。
ファサードはゴシック様式の石積みで、古びた印象である。入口は、取って付けたようなバロック様式で、左右に聖人?の彫像、頂部に頭の欠けた聖母?が飾られている。
ブレーメンの音楽隊像のある北面、東面祭壇側はレンガ積みのゴシック様式である(写真)。こちら側は威厳を感じさせる。
1209年に起きたリガ市街火災の記録に、聖ペテロ教会は石造のため火災被害がなかった、と記されているそうだ。1200年ごろリガに進攻したアルベルトは、直ちに城壁、城塞の建設に取りかかった。アルベルトを司教とするリガ大聖堂が完成したのは1211年である。
となると、城壁、城館、リガ大聖堂の建設のかたわら、聖ペテロ教会もつくられていたことになる。
聖ペテロ、聖ヤコブ、聖母マリア、聖ヨハネ・・・・を信仰する人々が、それぞれに自分たちが崇める神の教会堂をつくったということだろうか。
そのためか、聖ペテロ教会は小規模だったらしい。たぶんロマネスク様式で、外壁は石造でも屋根は木造だったようだ。その後、しばしば反乱を起こしていた市民と協調し、その結果、信徒も増加し、リガの発展とともに豊かになり、増改築が行われた。初期の増改築ではゴシック様式、のちの増改築ではバロック様式が採用された。様式が進化したことから、増改築が長期だったことがうかがえる。
1466年ごろ教会堂の増改築は一段落し、1491年に高さ136mの八角形の尖塔が完成する。ところが1666年、尖塔が倒壊してしまう。港を埋め立てて市街が築かれたから、地盤が支えきれなかったのではないだろうか・・ピサの斜塔の例もある・・。
尖塔、ファサードは1677年に再建されたが、同年のリガ市街大火災で延焼する。1679年、木造屋根を石造屋根に改修、1690年にすべての改修が終了する。
ところが、1721年、落雷で炎上する。再建工事が開始され、1721年に屋根、1746年には新しい尖塔が完成した。
しかし、第二次世界大戦中の1941年に、砲撃で教会はまたも炎上する。1954年から修復作業が開始され、1970年に尖塔と頂上の風見鶏、1975年に尖塔の時計が改修され、1984年には塔にエレベーターが設置された。現在の塔の高さは123.5mで、エレベータで72mの高さの展望台に上ることができる。聖ペテロ教会も受難続きだったようだ。
もともとローマ・カトリックだったが、16世紀の宗教改革でルーテル派になり、現在もルーテル派である。
エレベータ+拝観料3Ls≒570円を払い、西正面から入場する。堂内は奥行き90m近く、幅30mほどのバシリカ式長方形平面に、身廊と両側廊の3身廊で、身廊の天井は高い(写真)。
柱、壁はレンガ積みで、彫刻もフレスコ画も、ステンドグラスはない、簡素なつくりである。白漆喰のヴォールト天井の細身の交叉リブがかろうじて表情をつくっている。簡素なつくりはルーテル派に共通するようだ。
エレベータで高さ72mの展望室に上がる。南にはダウガヴァ川のゆったりした流れ、手前に飛行船格納庫の中央市場、遠くにテレビ塔が見える(写真)。巨大建築がないので、はるか彼方まで見通せる。その先は一昨日までいたリトアニアであろう。
ダウガヴァ川の西に目を向ける(写真)。放牧地、畑作地、樹園地だろうか、緑が広がっている。起伏はなさそうで、平野がどこまでも伸びている。今朝立ち寄った中央市場にはさまざまな野菜、果物が並んでいた。ラトビアの農業も安定しているようだ。
写真手前にはリガ大聖堂が存在感を見せている。その奥はリガ城である。ダウガヴァ川に停泊しているクルーズ船も見える。ハンザ同盟の有力都市だったリガは、いまもバルト海主要都市との交流が盛んなようだ。
旧市街を歩く/聖ヨハネ教会
聖ペテロ教会展望室の東の真下に聖ヨハネ教会が見える(写真)。展望室を後にして、聖ヨハネ教会Sv. Jana Baznica=St. John's Churchに向かった。
1200?1201?年、リガを制圧したアルベルトは1202年、リヴォニア帯剣騎士団を創設し、城館と城壁の建設に着手する。1234年、城館の敷地の一隅にドミニコ会の修道士が聖ヨハネに捧げる小さな礼拝堂を建てる。1330年ごろ、礼拝堂は拡張され、ドミニコ会の教区教会聖ヨハネ教会になる。
1340年ごろ、城館は現リガ城に移るが、聖ヨハネ教会はそのまま存続する。
1522年、ルター派によるカトリック教会の没収、改宗により、聖ヨハネ教会もルーテル派になり、その後、ゴシック様式で拡張、改修される。
1677年の大火災で大きな被害を受けたが修復され、尖塔が再建され、現在に残る形になったようだ(写真)・・リガの都市火災は何度もあったらしいし、教会堂の増築、改築、改修も何度か行われたようで、資料によって年代が異なる・・。
伝承では、15世紀ごろ、2人の修道僧が聖人を願い壁のあいだの十字型のすき間に籠もったそうだ。小さな穴から市民が水や食べ物を差し入れたが、やがて息を引きとった。すき間には二人の骨がいまでもあるらしい。・・日本でも即身仏の記録があるから、神仏の究極の修行は共通するようだ・・。
外壁はレンガ積みで、西側の階段状妻壁破風が目を引く。ゴシック様式の簡潔さが重々しさを感じさせる。
堂内は身廊だけのバシリカ式長方形平面だが、会衆席側は角柱で上部は尖塔アーチ、祭壇側は円柱で半円アーチと演出を変えている(写真)。
壁面に設けられた説教壇(写真左)は彫刻の施された木製、イエスの飾られた祭壇(写真正面)はバロック様式のようである。ステンドグラスは1900年ごろの作で聖人が描かれ、重々しい外観に比べ堂内は和やかな雰囲気である。
天井の凹面ドームには、中央に収れんするようなリブが施されている(写真)。パイプオルガンの演奏を聞きながら祈りを捧げると、気持ちが集中できそうである。十字を切り、外に出た。 続く(2020.5)