yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2009.9 ラトビア リガ旧市街の聖ペテロ教会+展望室、聖ヨハネ教会を歩く

2020年05月31日 | 旅行

2009.9 バルト3国の旅 ラトビア16 リガ旧市街を歩く  <世界の旅・バルト3国右往左往

旧市街を歩く/聖ペテロ教会

 ワグナー・ホールVagnera zaleからカリチュ通りKaku ielaに出て、スカールニュ通りSkarnu ielaを左に曲がると聖ペテロ教会Sv. Petera Baznica=St. Peters Churhがそびえている(写真、西面ファサード)。
 ファサードはゴシック様式の石積みで、古びた印象である。入口は、取って付けたようなバロック様式で、左右に聖人?の彫像、頂部に頭の欠けた聖母?が飾られている。

 ブレーメンの音楽隊像のある北面、東面祭壇側はレンガ積みのゴシック様式である(写真)。こちら側は威厳を感じさせる。

 1209年に起きたリガ市街火災の記録に、聖ペテロ教会は石造のため火災被害がなかった、と記されているそうだ。1200年ごろリガに進攻したアルベルトは、直ちに城壁、城塞の建設に取りかかった。アルベルトを司教とするリガ大聖堂が完成したのは1211年である。
 となると、城壁、城館、リガ大聖堂の建設のかたわら、聖ペテロ教会もつくられていたことになる。

 聖ペテロ、聖ヤコブ、聖母マリア、聖ヨハネ・・・・を信仰する人々が、それぞれに自分たちが崇める神の教会堂をつくったということだろうか。

 そのためか、聖ペテロ教会は小規模だったらしい。たぶんロマネスク様式で、外壁は石造でも屋根は木造だったようだ。その後、しばしば反乱を起こしていた市民と協調し、その結果、信徒も増加し、リガの発展とともに豊かになり、増改築が行われた。初期の増改築ではゴシック様式、のちの増改築ではバロック様式が採用された。様式が進化したことから、増改築が長期だったことがうかがえる。

 1466年ごろ教会堂の増改築は一段落し、1491年に高さ136mの八角形の尖塔が完成する。ところが1666年、尖塔が倒壊してしまう。港を埋め立てて市街が築かれたから、地盤が支えきれなかったのではないだろうか・・ピサの斜塔の例もある・・。

 尖塔、ファサードは1677年に再建されたが、同年のリガ市街大火災で延焼する。1679年、木造屋根を石造屋根に改修、1690年にすべての改修が終了する。

 ところが、1721年、落雷で炎上する。再建工事が開始され、1721年に屋根、1746年には新しい尖塔が完成した。
 しかし、第二次世界大戦中の1941年に、砲撃で教会はまたも炎上する。1954年から修復作業が開始され、1970年に尖塔と頂上の風見鶏、1975年に尖塔の時計が改修され、1984年には塔にエレベーターが設置された。現在の塔の高さは123.5mで、エレベータで72mの高さの展望台に上ることができる。聖ペテロ教会も受難続きだったようだ。
 もともとローマ・カトリックだったが、16世紀の宗教改革でルーテル派になり、現在もルーテル派である。

 エレベータ+拝観料3Ls≒570円を払い、西正面から入場する。堂内は奥行き90m近く、幅30mほどのバシリカ式長方形平面に、身廊と両側廊の3身廊で、身廊の天井は高い(写真)。
 柱、壁はレンガ積みで、彫刻もフレスコ画も、ステンドグラスはない、簡素なつくりである。白漆喰のヴォールト天井の細身の交叉リブがかろうじて表情をつくっている。簡素なつくりはルーテル派に共通するようだ。

 エレベータで高さ72mの展望室に上がる。南にはダウガヴァ川のゆったりした流れ、手前に飛行船格納庫の中央市場、遠くにテレビ塔が見える(写真)。巨大建築がないので、はるか彼方まで見通せる。その先は一昨日までいたリトアニアであろう。
 ダウガヴァ川の西に目を向ける(写真)。放牧地、畑作地、樹園地だろうか、緑が広がっている。起伏はなさそうで、平野がどこまでも伸びている。今朝立ち寄った中央市場にはさまざまな野菜、果物が並んでいた。ラトビアの農業も安定しているようだ。
 写真手前にはリガ大聖堂が存在感を見せている。その奥はリガ城である。ダウガヴァ川に停泊しているクルーズ船も見える。ハンザ同盟の有力都市だったリガは、いまもバルト海主要都市との交流が盛んなようだ。
 
旧市街を歩く/聖ヨハネ教会
 聖ペテロ教会展望室の東の真下に聖ヨハネ教会が見える(写真)。展望室を後にして、聖ヨハネ教会Sv. Jana Baznica=St. John's Churchに向かった。

 1200?1201?年、リガを制圧したアルベルトは1202年、リヴォニア帯剣騎士団を創設し、城館と城壁の建設に着手する。1234年、城館の敷地の一隅にドミニコ会の修道士が聖ヨハネに捧げる小さな礼拝堂を建てる。1330年ごろ、礼拝堂は拡張され、ドミニコ会の教区教会聖ヨハネ教会になる。
 1340年ごろ、城館は現リガ城に移るが、聖ヨハネ教会はそのまま存続する。
 1522年、ルター派によるカトリック教会の没収、改宗により、聖ヨハネ教会もルーテル派になり、その後、ゴシック様式で拡張、改修される。
 1677年の大火災で大きな被害を受けたが修復され、尖塔が再建され、現在に残る形になったようだ(写真)・・リガの都市火災は何度もあったらしいし、教会堂の増築、改築、改修も何度か行われたようで、資料によって年代が異なる・・。

 伝承では、15世紀ごろ、2人の修道僧が聖人を願い壁のあいだの十字型のすき間に籠もったそうだ。小さな穴から市民が水や食べ物を差し入れたが、やがて息を引きとった。すき間には二人の骨がいまでもあるらしい。・・日本でも即身仏の記録があるから、神仏の究極の修行は共通するようだ・・。

 外壁はレンガ積みで、西側の階段状妻壁破風が目を引く。ゴシック様式の簡潔さが重々しさを感じさせる。
 堂内は身廊だけのバシリカ式長方形平面だが、会衆席側は角柱で上部は尖塔アーチ、祭壇側は円柱で半円アーチと演出を変えている(写真)。
 壁面に設けられた説教壇(写真左)は彫刻の施された木製、イエスの飾られた祭壇(写真正面)はバロック様式のようである。ステンドグラスは1900年ごろの作で聖人が描かれ、重々しい外観に比べ堂内は和やかな雰囲気である。

 天井の凹面ドームには、中央に収れんするようなリブが施されている(写真)。パイプオルガンの演奏を聞きながら祈りを捧げると、気持ちが集中できそうである。十字を切り、外に出た。  続く(2020.5)

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2009.9 ラトビア リガ旧市街の中央市場、ワーグナー・ホールを歩く

2020年05月24日 | 旅行

2009.9 バルト3国の旅 ラトビア15 リガ旧市街を歩く  <世界の旅・バルト3国右往左往

 リガ3日目、起きたときは小雨だったが、出かけるころには日が射してきた。夜は雨でも昼間が晴れだと観光旅行には都合がいい。念のため折りたたみ傘や寒いときのベスト、ミネラルウオーターなどをバッグに入れ、9:00過ぎにホテルを出発する。
 地図を見ながら、石畳のヴァリニュ通りValnu ielaを南に歩く。両側に歩道のついた広めの片側1車線で、高さを5階にそろえた新古典様式に近代的な建物が混じり、1階にはレストラン、ブティック、オフィスなどが並んでいる。
 400mほど歩くと旧市街のまわりを走るトラムの通りに出て、その先に1月13日通りと名付けられた大通りと、その向こうに高架の鉄道が並行している。

 1月13日通り13Janvaraはいわくがありそうだ。webを調べる。バルト3国がソヴィエト支配下だった20世紀末、独立の気運が高まり、1990年3月にリトアニアが独立を宣言する。
 ラトビアの独立の動きを押さえ込もうとソヴィエトは1991年初頭に特殊部隊をリガに出動させた。リガ市民はソヴィエト軍を阻止しようと1月13日にバリケードを築き、ソヴィエト軍との衝突で市民に犠牲が出たが、ほどなくソヴィエトでクーデターが起き、ラトビアは8月21日に独立を宣言する・・エストニアの独立宣言は8月20日・・。

 1月13日通りはバリケードを築いたリガ市民の勇気を称え、後世に記憶を伝えようと名付けられたようだ。

リガ旧市街を歩く/中央市場
 トラムの通り、1月13日通り、を渡り、高架鉄道のトンネルを抜けると、ピルセータス運河が流れていて、先に特異な形の中央市場Centraltirgus=The Central Marketgagaが見えた(写真)。

 1863年ごろまでリガの中央市場は旧市街のダウガヴァ川沿いにあったそうだが、狭く、不衛生になったので議論が重ねられた・・築地再建か清洲移転かに似ている・・。
 移転することになり、1922年に国際コンペが開催された。選ばれたのは、リガ出身の建築技術者による、現在地に飛行船格納庫を再利用するユニークな案だった。あまりにも斬新なアイデアだから、リガ技術大学で学んだ卒業生の発想ではないだろうか。

 飛行船を復習する。1900年、ドイツ人ツェッペリンZeppellin伯爵が最初の飛行船を開発する。・・もしかするとドイツは第1次世界大戦を見据え、爆撃機に転用しようとして?、飛行船開発を後押ししたのではないだろうか・・。
 アルミを枠材にし、水素を燃料として、最大級の飛行船は長さ235m、胴体直径30mに、乗員乗客65名が搭乗し、航続距離は1万kmに及んだらしい。
 1928年の初の世界一周では、1929年に日本にも寄港した。しかし、1937年にアメリカでヒンデンブルク号Hindenburg爆破事故があり、飛行船の人気は一気に衰えていった。

 ヒンデンブルク号爆破をテーマにした映画も作られ、テレビの再放送で見たこともある。

 その巨大な飛行船の格納庫を市場に活用しようという発想である。前掲写真は4棟が連続していて、ダウガヴァ川に並行する=ピルセータス運河に直行して並ぶ。1棟は長さ70mほど×幅25mほどである。5棟目は別棟で、ピルセータス運河に並行して配置され、長さ100mほど×幅25mほどで、1930年に市場がオープンした。
 コンペの1922年~完成の1930年は飛行船が花盛りのころなので、格納庫の需要も多かっただろうから、不要になった格納庫の再利用は考えにくい。
 飛行船格納庫の構造を市場に応用したか、あるいは同じ格納庫の部材を製作する会社に市場の部材を発注したということではないだろうか。

 中央市場の構造は鉄筋コンクリート+石材で、新古典様式でデザインされている。金属板で覆われたヴォールト型屋根は鉄骨造で、採光用の窓がとられ市場内部は明るい(写真)。
 内装はアールデコ様式Art Decoでデザインされたそうだが、所狭しと商品を並べた小売店がすき間なく並び(写真)、商品に目をとられアールデコには気づかなかった。
 のべ5000㎡の市場面積はヨーロッパでは最大級で、あらゆる商品が扱われているそうだ。主に食品売り場を見て歩き、自宅用蜂蜜、土産用チョコレート、ミネラルウオーター、缶ビールを買った。街中のミニショップよりもかなり安いこともあって、市民、観光客が買い物を楽しんでいた。
 
リガ旧市街を歩く/ワーグナー・ホール
 ホテルに戻って荷物を下ろし、10:00ごろホテルを出る。歩き慣れたテアトル通りTeatra ielaから右に折れワーグネラ通りVagnera ielaに入る。ワーグネラVagneraは教科書で歌劇の作曲家とした習うワーグナーWagnerのラトビア語読みである。
 リヒャルト・ワーグナーRichard Wagner(1813-1883)はザクセン王国ライプツィヒ(現在のドイツ)に生まれた。音楽の才能に恵まれていたが、青年期は収入が乏しく苦労したらしい。
 1837年、夫人と当時ロシア領だったリガに住み、劇場指揮者を務めていた。1839年、劇場を解雇され、逃げるようにロンドンに密航した。その後パリに向かい、1841年にザクセン王国ドレスデンに戻り、ザクセン王国宮廷楽団指揮者に任命され、1842年にさまよえるオランダ人、1845年にタンホイザー、1848年にローエングリン・・・・を次々と作曲して成功を収め、楽劇王とも呼ばれた。

 リガでのワーグナーの最初の住まいはカレーユ通りKaleju ielaのアパートらしい。このアパートは第2次世界大戦中の空爆で焼失し、いまはガレリヤ・センターGalerja centrsとして再開発されている。ガレリヤ・センターは何度も通り、dADaで食事もしたのにワーグナーのことは気づかなかった。
 ワーグナー夫妻は次に郊外に移り住んだが、この家もその後取り壊されたそうだ。

 ワーグナーが1837~1839年のあいだ主任指揮を勤めた劇場は、かつてリエル・イニツァ通りLielā Ķēniņa ielaまたはコミュニティ通りKomunālā ielaとも呼ばれたところに、1782年に建てられたそうだ。
 その後大幅に改修され、博物館、劇場、コンサートホールなどを併設したワグナー・ホールVagnera zale=Wagner Houseとして利用されている(写真)。外観は新古典様式で、壁にコンサートホールを連想させるレリーフが飾られている。

 借金がかさみ劇場を解雇され、逃げるようにロンドンに密航したようだから、リガでのワーグナーの評判はさほど高くなかったようだ。ところが密航船が嵐に遭い、その経験をもとに「さまよえるオランダ人」を作曲し、次々と名作が生まれ、名声を得るのだから、リガが転機といえなくない。
 世界的に知られるワーグナーにあやかろうと?、リエル・イニツァ通りがワーグネラ通りに改名され、改修された劇場もワーグネラ・ザーレ=ワーグナー・ホールと名付けられた・・ワーグナーが指揮をしていたころの面影はほとんど残っていないらしい・・。

 当日は休館?改修工事?で、1階レストランを除き閉まっていた。レストランのガラス窓に海の幸を思わせるユニークなデザインが施されていた(写真)。
 前掲外観写真右端の壁に取り付けた看板にも魚がデザインされている。ヨーロッパ、とくにドイツでは、看板や店頭に商いを象徴するユニークなデザインのエンブレム、シンボルがさりげなく表現されていることが多い。
 異文化の旅は発見の連続である。
 続く(2020.5)

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2009.9 ラトビア リガ旧市街を歩き+ダウガヴァ川クルーズへ

2020年05月20日 | 旅行

2009.9 バルト3国の旅 ラトビア14 リガ旧市街を歩く+ダウガヴァ川クルーズ   世界の旅・バルト3国右往左往

 ユーゲントシュティール建築をあとにしてストレールニエク通りStrelnieku ielaを南西に歩くと、目の前に林が現れる。Riga city center mapを見る。ピルセータス運河Pilsetas沿いに整備されたクロンヴァルダ公園Kronvalda parksらしい。旧市街を回り込む運河沿いはすべて公園に整備されているようだ。市街の真ん中に川の流れと緑が広がり、人々が気楽に憩えるのは羨ましい限りである。
 クロンヴァルダ公園を抜けると旧市街への早道になりそうなので、だいたいの見当をつけて公園を歩く。散策路が整備されていて、休憩用ベンチや彫像やレストハウス?があるが、そのうち右も左も林が広がっていて方向がつかめなくなった。
 行き交う人がいるので、地図を広げカタカナラトビア語でラーツ・ラウクムスRats Laukums?と聞いたら、指さしで△○□*¥と教えてくれた。市庁舎広場の方向とは違うので再度ラーツ・ラウクムス?と確認したら、**&##・・と言いながら、市庁舎広場の方を指さし、次いで最初に教えてくれた方向にまず行き、それから市庁舎に向かえといったような素振りをした。
 どうやらピルセータス運河に架かる橋を渡るためまず右手に進み、それから市庁舎広場へ向かえということのようだ。お礼を言い、日本流にていねいにお辞儀をして別れた。

 ピルセータス運河を渡り、クロンヴァルダ公園を出ると、見覚えのある現代的なデザインが見えた(写真)。午前中にリガ城の城門を探してリガ城を一回りしたときに見かけたショッピングモール?である。現代的なデザインに、ユーゲントシュティールの精神が息づいているような新しい時代への挑戦を感じる。
 あとは、午前中に歩いたばかりの道である。リガ大聖堂の尖塔もときどき見えるから心配は無い。急に足が軽く感じる。

 市庁舎広場Rats Laukumsのオープンカフェに腰を下ろす。16:00ぐらいだからユーゲントシュティール建築からおよそ30分歩いたことになる。
 日射しがあり暖かいが、風は冷たい。広場を行き交う人は、半袖、長袖、ジャケット、コートと様々である。体感温度も違うだろうが、暖かい日向にあわせた格好で冷える日影を我慢するか、日影向きの格好で日向を我慢するか、ということだろう。ちなみに私は、半袖下着、長袖ポロシャツ、ジャケットで、暑ければジャケットを脱ぎ、寒ければ持参のVネックベストを着てこなしている。
 コーヒーを飲みながら、ブラックヘッドの会館Melenglavju names=the Black Headsを眺める(写真)。ハンザ同盟で物資とともに人間が行き交い、文化が交換された長い歴史がある。古い形式にとらわれていては遅れてしまう+商いが不利になる+民衆の気持ちが離れる+戦いに負けてしまう。
 ブラックヘッドの会館の壮麗さが文化交流の意義を語りかける。ユーゲントシュティール建築は文化交流の効果を裏付ける。その土地ごとのアイデンティティに根ざしつつも、新しさに挑戦する進取の気持ちが大事である。

 そんなことを思いながらコーヒーを飲む。ジュースと合わせ3.5Ls≒670円と日本では想像できないほど安い。物価からも社会の安定、政治の安定を感じる。

 ブラックヘッドの会館の西隣に直方体を横に倒したような黒い建物のラトビア占領博物館が建っている(写真、web転載)。映像と展示で占領の歴史を学ぶ博物館らしいが、クルーズの時間が近いので入館しなかった。
 黒色は報道が黒塗りされること、箱は自由が閉じ込められることを表現しているのであろう・・いまは5D cinemaに特化されているらしい・・。
 その先に、台座の上に立ち、軍服のコートをまとって背筋を伸ばした巨大なラトビアライフル部隊彫像Latvian Riflemen monumentが飾られている(写真、web転載)。
 ロシア領だったころリガの工業化はめざましく、ロシアもリガを重要視していた。ラトビア労働者の多くがボルシェビキに忠誠を誓い、ラトビア社会民主労働党に入党したそうだ。
 1914年、第1次世界大戦が勃発する。対ドイツ戦に備え、ラトビアライフル部隊が編成される。レーニン(1870-1924)のボディガードが任務だったとの説もある。ラトビアライフル部隊は対ドイツ戦で多数の犠牲者を出しながら善戦するが、1917年、ロシア革命が起き、ソヴィエト体制に移る。ソヴィエトはドイツと講話、ラトビアはドイツに占領される。

 1918年、ドイツが敗れ、第1次世界大戦終結と同時にロシア・ソヴィエト軍がラトビアに進攻する。ラトビアではボルシェビキ派に対し、独立を目指す反ボルシェビキ派が台頭する。ボルシェビキ派のライフル部隊red riflemenと反ボルシェビキ派のライフル部隊white riflemenの対立もあったようだが、同年、ラトビアは独立を宣言し国土を回復する。

 ライフル部隊彫像は赤い花崗岩で製作されていてred riflemenを連想するという人もいるらしい。彫像は2人にいるので、red riflemenもwhite riflemenもともにラトビア独立を目指したシンボルであるという人もいるそうだ。
 それぞれにいろいろな思いが交錯するようだが、ブラックヘッドの会館の再建、占領博物館、ライフル部隊彫像から、戦争の悲惨、自由の意義を改めて学び、復興への力強さを感じる。歴史的建物、彫像、シンボル、痕跡は、過ちをくり返してはいけないとのメッセージなのである。

 市庁舎広場のからカリチュ通りKalku ielaを西に下ると、ダウガヴァ川Daugava遊覧船乗り場がある。1時間クルーズ1Ls≒190円に乗船した。
 天気がいいのでデッキ席で景色を眺める。列車専用の鉄道橋はアーチ型に鉄骨トラスを組んでいる(写真)。鉄骨の骨組みを露わにしたデザインは力の流れに適っているのが視覚化されるせいか、安定感がある。斜張橋も力の流れが視覚化されているが、鉄骨アーチ橋の方が親しみやすく感じる。

 船はまず上流に向かい、テレビタワーの立つザチュサラ島Zakusalaと呼ばれる中州近くでUターンし、下流に向かった。
 右手に格納庫のようなアーチ屋根が並び、その向こうに大きな建物が見える(写真)。地図を見比べると、アーチ屋根は中央市場Centraltirgus=The Central Marketdeで、ホテルから直線で600mほどだから、明日訪ねることにした。
 背後の建物はラトビア科学アカデミーZinatnu Akademijaで、ロシア領だった1940年代に建てられたそうだ。
 1999年、モスクワを訪ねたとき、スターリン(1878-1953)時代の1933~1955年に建てられた巨大な高層建築を街中で何度も見かけた。スターリンゴシック様式と呼ばれるスタイルだが、同じ形で7棟も建てられたので、街のどこに行っても同じような高層建築が目に入り、方向感覚が惑わされてしまった。
 ラトビア科学アカデミーは、ロシアのスターリンゴシック様式にうり二つである。高さは108mで、高さではモスクワのスターリンゴシック様式にはかなわないが、スターリンに象徴される権威主義をいまに伝えている。展望室があるようだが、権威主義の建築はパスすることにした。

 遊覧船乗り場のあるアクメンス橋Akmens Tilts=Stone Bridgeの右手には、右に聖ペテロ教会の塔、左にリガ大聖堂の塔が見える(写真)。
 左手前の焦げ茶色の建物はリガ技術大学らしい。ユーゲントシュティールの建築技術者はここで技術を習得したことになる。港の交易で栄え、ハンザ同盟を牽引したリガの中核には、ブラックヘッドの会館、市庁舎、ローランドの像などで賑わいがつねに発信されている。そのすぐ隣であれば、学生に刺激的な発想が生まれるのは当然であろう。

 リガ城が見えてきた(写真)。かつての星形要塞を築き、ダウガヴァ川沿いに大砲を並べ、中庭を囲む城館を二重に建てていた姿は想像しにくい。いまは友好的な印象の城館に見える。
 このまま北に下ればリガ湾、バルト海になる。バルト海に出てサンセットを楽しむクルーズもあるが、1時間クルーズはほどなく船着場に引き返した。

 遊覧船を下り、市庁舎広場を抜けてカリチュ通りKalku ielaを東に歩き、リーブ広場Livu laukumsに向かう。オープンカフェやレストランを眺めながら歩いていて、ガラス越しに中の見えるkabukiという店を見つけた。
 昨日、今日とリガ旧市街を歩いていて、寿司を看板にした日本料理屋を何度かみかけた。バルト海の新鮮な魚であれば、寿司ネタも美味しいはずだから、ラトビア人を始めバルト3国の人々にも人気があるのは想像できる。
 kabukiも寿司を看板にしていて、店のつくりは日本的である。日本人の経営?か、日本で修業したラトビア人か?、寿司ならオーダーもしやすいので入店した。
 はっぴを着た若いスタッフに、写真付きのメニューを指さして握り寿司、天ぷら、日本酒を注文すると、カタカナ日本語で○○、△△、アリガトウゴザイマス、と答えた。ネタは期待通り美味しかった。ご飯も遜色はなかったが、初めて食べたアボガド?の握りは私好みではない・・いまや健康食として日本でも人気らしい・・。

 二人で23Ls≒4400円だった。海鮮ヌードル、コーヒーの値段に比べやや高く感じてしまうが、賑わっていたからディナーとしては順当な値段のようだ。
 カレーユ通りKaleju ielaをぶらぶら歩きながらホテルに戻った。歩数計は12200、はき慣れたウオーキングシューズだがほとんど石畳なので足の負担は少なくない。よくほぐしてベッドに入る。
続く(2020.5)

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2009.9 ラトビア リガ新市街のユーゲントシュティール建築を歩く2

2020年05月16日 | 旅行

2009.9 バルト3国の旅 ラトビア13 リガ新市街のユーゲントシュティール建築を歩く 2   世界の旅・バルト3国右往左往

 地図⑥(地図はリガ新市街のユーゲントシュティール建築を歩く1参照)の一つ先地図⑦は「ラトビア11 ユーゲントシュティール建築とは何か」の4分類a折衷的ユーゲントシュティールEklektisks jugendstils=Eclectic ArtNouvaeuの代表例で紹介された、エイゼンシュテイン設計、1903年竣工のユーゲントシュティール建築である(写真、再掲)。
 新市街の建築規制に従った5階建てで、ファサードを7スパンに縦分割し、中央1スパンを広めにして3~4階を半円形の出窓風にせり出し中心性を演出しようとしている。
 縦分割で垂直性を強調し、3~4階を半円せり出しとし、写真には写っていないが1階は円形窓とし、4~5階の壁に青いレンガ・・タイルのように見えたが・・を用いるなど、新たな芸術への挑戦が見られる。
 しかし、3~4階半円せり出しと1階入口ポーチとのデザインに関連は見えないし、中央頂部のライオン、半円部分や柱頂部、壁面の人面、軒周りや柱、壁の植物・幾何学紋様のレリーフがファサードを埋め尽くしているが物語的な語りかけを想像させないただの飾りに見えてしまうなど、デザインの熟度が不十分なため初期的な折衷的ユーゲントシュティールに分類されたようだ。

 エイゼンシュテイン設計の1901年・地図②は、ファサード構成に物語的な統一感が感じにくかった。地図⑦ではファサードの縦分割、中心性の演出、艶めかしい女性裸像をやめてライオンの顔、人の顔に絞るなどの工夫が見られるが、ファサード構成がまだ散漫に感じられる。

 しかし、新古典主義で囲まれた街並みに慣れていると、折衷的であっても斬新なユーゲントシュティールが人々を魅了したのは疑いがない。次々とエイゼンシュテインに設計が舞い込んでいたことがその事実を実証している。

 アルベルタ通りの南側、北面する建物7棟のうち5棟は新古典様式を基調にしたスタイルである。地図⑧も新古典様式を基調にした5階建てで、1階はねずみ色で重厚な感じの石積み壁にアーチ窓、2~4階は柱形をねずみ色、壁は赤みの小麦色とし長方形窓を大きく開け、窓上下の壁に植物・幾何学紋様のレリーフを飾っている。4階にはレリーフで飾られた小庇を回し5階をのせていて、水平性を強調し、安定感を感じさせる(写真)。
 他の新古典様式もほぼ同じつくりで、街並みは整然としている。反面、新古典様式の街並みは整いすぎてしまい、堅苦しく感じる人が出始めたのは前述エイゼンシュテインに設計が続いたことからうかがえる。

 新たな芸術運動であるユーゲントシュティール=アールヌーヴォーは、新古典様式などの歴史的な街並みからの解放を目指そうとしたのである。ゆえに、ユーゲントシュティールという一つの型があるのではなく、自由、解放を目指そうとする動きを包括する概念ととらえた方が分かりやすい。

 その1例が、地図⑧の隣、アルベルタ通りの南側に建つ地図⑨で、「ラトビア11 ユーゲントシュティール建築とは何か」の4分類c ナショナルロマンティックユーゲントシュティールNacionālais romantiskais jūgendstils=National Romantic Art Nouveauの代表例で、エイゼンス・ラウベEižens Laubeの設計により1908年に竣工した(写真、再掲)。
 アルベルタ通りの北側を始めエリザベテス通り、ストレールニエク通りにはエイゼンシュテイン設計で1901~1906年に竣工したユーゲントシュティール建築が並んでいる。
 建て主もラウベも、新古典様式からの解放と同時に、エイゼンシュテイン流ユーゲントシュティールからの解放も目指そうとしたに違いない。
 地図⑨は石の質感を前面に押し出し、水平性にも垂直性にもこだわらずファサードを面としてとらえ、窓、出窓を配置する。それぞれの窓もファサードのバランスを崩さないよう形を変え、変化に富んだ配置としている。壁面は平坦に仕上げながら、単調さを避けて淺浮き彫りを施している。

 類似のデザインをほかで見なかったから市民からの評価は高くなかったようだが、個性的な表現としては成功していると思う。

 話は変わって、1996年3月、中国・青島を訪ねたとき、1906年竣工の青島福音教会に出会い衝撃的な感動をおぼえた(写真)。青島では分離派ゼツェッションデザインと紹介していたが、その当時、ドイツに領有されていた青島で新しい芸術運動が実現されていたのである・・この衝撃が、ドイツの都市計画による歴史街区調査に発展する・・。
 地図⑨は建築規制、建物の用途と採算性、建て主の好みの結果のデザインだろうが、青島福音教会に一脈通じていると思う。バルト3国ラトビア・リガのユーゲントシュティールと中国・青島のゼツェッションに文化のダイナミックな伝搬・移植の不思議を感じる。

 アルベルタ通り北側、地図⑦の隣は新古典様式を基調にした建物が並び、その隣のストレールニエク通りとの角地に、地球の歩き方にはユーゲントシュティール後期民族ロマン主義と記された・・前述4分類c ナショナルロマンティックユーゲントシュティールに相当しよう・・地図⑩が建っている(写真、web転載)。
 ペークシェーンスKonstantīns Pēkšēns 、ラウベEižens Laubeの設計で、1903年、ペークシェーンスのマンションとして建てられた。ドイツの古い街並みによく見られる館を連想させるが、個性的なユーゲントシュティール建築である。
 1階はねずみ色の重厚な感じの石積み、上層階は明るい小麦色の平坦な壁の5階建てで、赤い屋根には塔が伸び上がっている。写真手前、角の部分の隅を切り落とし、1階は丸い部屋を突き出し、上階にはバルコニーを設けている。写真左のストレールニエク通りStrelnieku iela側の入口はオーダーをのせた円柱+アーチ、その上階の三角形の切妻壁の破風は曲線の段々とし、破風周りなどの要所要所にラトビアの動植物をモチーフにしたレリーフを飾っている。
 エイゼンシュテインの一連の建物とも地図⑨とも異なったデザインで、新古典様式からの解放、自由が目指されている。こうしたさまざまな挑戦が新しい芸術運動のうねりとして社会を動かしていくのであろう。

 現在はユーゲントシュティール博物館Jugendstula uzejs=Jugendstila Centrsとして公開されている。3Ls≒600円で入館した。
 階段は逸品のデザインである(写真)。直線の廊下と曲線の階段を組み合わせたらせん階段は斬新ながら安定感があり、手すり子は楽譜を連想させて上り下りが楽しくなる。天井に彩られた植物?昆虫?をモチーフにした紋様はほのぼのとした暖かみを感じさせる。建て主でもある設計者の気質が表われているようだ。
 広々としたリビングルームは床を寄木にし、壁、天井は青みの漆喰でデイジーがふんだんにあしらわれている(写真)。ラトビアの自然がテーマになっているようだ。間仕切り、家具調度品、照明などなどが、ユーゲントシュティールのデザインで装飾されている。
 ベッドルーム、ダイニングルーム、キッチンなど、当時の暮らしを想像しながらユーゲントシュティールデザインを見学した。ペークシェーンスは裕福な階層だったようだ。

 アルベルタ通りの南側とストレールニエク通りの角の地図⑪、その隣の地図⑫ともにエイゼンシュテイン設計で、それぞれ1904年、1905年に竣工している。
 エイゼンシュテインの人気ぶりがうかがえるが、これほどアルベルタ通り近辺に集中すると、建て主の要望に応えながらも、より個性的、より斬新なユーゲントシュティールをイメージしなければならない苦労が想像されてしまう。
 地図⑪は、1~2階を目地幅の大きい石積みで3階にバルコニーをぐるりと回し、3~4階を目地幅の小さい石積みとし4階上部に小庇を回し、5階は平滑な面で仕上げ、壁面を3段に構成している。
 そのうえで、アルベルタ通りとストレールニエク通りの隅角部を丸くし、頂部に円形の塔屋をのせ、アルベルタ通り中央3スパンの両端の4階は円柱がせり出し、5階は半円の部屋になり、その上にドーム屋根をのせ、3スパンのあいだにはコリント式オーダーをのせた円柱が3~4階に伸び上がるなど、垂直性も強調している(写真)。

 彫刻も多彩で、アルベルタ通り側中央3スパンの両端の柱には歌を歌うかのように口を開けた女性の顔、その上には踊るような女性像(写真)、3階バルコニーを支える半裸身の女性像のほか、数多くの女性像が植物・幾何学紋様とともに飾られている。
 建て主があれも欲しい、これもデザインしてと要望したのだろうか?、ユーゲントシュティール満艦飾といった印象であるが、見飽きることはないから観光的には成功している。

 地図⑪(写真左)に隣り合わせた地図⑫(写真右)は、⑪と高さをぴったりにそろえ、ファサード構成も⑪の調子を踏襲している。しかし、1~2階は白い石壁、3~4階、5階は青レンガを用い、⑪とは色調を大きく変えている。
 ⑪の3階は長方形窓、4階はアーチ窓、5階は1スパンに2連窓だが、⑫は3階をアーチ窓、4階を長方形窓、5階は1スパンに3連窓のように、建物の個別性を表そうとしている。
 彫刻も4~5階の柱の女性像(写真)、塔屋の男性像に絞り、植物・幾何学紋様を加えるていどにしていて、⑪に比べ装飾は抑え気味である。
 建て主が⑪との個別性や、周辺のユーゲントシュティールを参考にして青みのレンガ、清楚な女性像、控えめな装飾などを望み、エイゼンシュテインが腕をふるったのであろう。
 ファサードから設計者の問いかけを想像したり、建て主の気質をイメージしたりしながらユーゲントシュティールを楽しんだ。

 ストレールニエク通りのユーゲントシュティール建築はここで終わる。あとは新古典様式、近代~現代的な建物の景観に変わり、急に足の疲れを感じた。時計は15:30ごろ、旧市街のカフェを目指す。 続く(2020.5)

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2009.9 ラトビア・リガ新市街のユーゲントシュティール建築を歩く1

2020年05月13日 | 旅行

2009.9 バルト3国の旅 ラトビア12 リガ新市街のユーゲントシュティール建築を歩く 1      世界の旅・バルト3国右往左往

 エリザベテス通りErizabetes ielaは広めの歩道+街路樹+広めの片側1車線の車道+歩道で、両側には高さを5階+屋根裏、または6階でそろえたビルが並んでいる。

 道路の区画や形状、建物の高さはアントニヤス通り、アルベルタ通り、ストレールニエク通りいずれも共通する。新市街開発の基準で街並みが整然としている。だからこそ、ユーゲントシュティールで個性を表現しようとしたのかも知れない。
 多くの建物は石積みを模した外壁で、窓上部に三角形や水平、円弧などの飾りペディメントをつけローマ建築を思わせる新古典様式の外観だが、近年建て替えられたガラス張りのモダンな建物も混じっている。

 アントニヤス通りに近づくと、ユーゲントシュティール建築が現れた(写真、地図①)。手前の補修工事用のネットで覆われた建物もユーゲントシュティール建築だが、ネットではっきり見えない・・地球の歩き方には1903年、エイゼンシュテイン設計と記されている・・。
 地図①のユーゲントシュティール建築最上階の、半円を描いた左右の窓、中央の大きな円弧の窓が目を引く。ほかの窓は縦長の長方形である。明らかに設計段階からファサードの構成が計画されていて、円弧窓の左右と中央の3本の柱は垂直な溝型が彫られ垂直性を強調している。
 円弧窓の部屋には半円の小バルコニーが設けられ、下面には太陽像が輝いている。垂直な柱の頂部ではライオンがうなり声を上げている(写真)。それぞれの彫刻の意味合いは分からないが、ユーゲントシュティール造形は道行く人の目を楽しませようとしているようだ。

 写真①の向かい側、アルベルタ通りの角の地図②もユーゲントシュティール建築である。地球の歩き方には、「1901年、エイゼンシュテイン最初期の作品、さまざまな建築様式が見られる」と記されている。
 石積み風外壁で、壁面の3スパンにはコリント式オーダーの円柱を並べ、4階上部には小庇をぐるりと回すなど新古典様式を基調にし、上階バルコニーを支えるような女性像を窓の両側に造形している(写真)。ギリシャ神殿のカリアティードとは違い、裸婦が体をくねらせて艶めかしい。
 随所に男性像、ライオンの頭、人間の顔、植物・幾何学紋様の造形が配置されているが、ファサード構成には物語的な統一感は感じにくい。
 後述のエイゼンシュテイン設計による十分に練られたファサード構成や壁面を造形で埋め尽くすデザインとも違う。エイゼンシュテイン初期のユーゲントシュティールは試行錯誤だったようだ。

 写真②の角を右に曲がり、アントニヤス通りAntonijas ielaに入る。6階建てでそろった新古典様式や近代的な建物が並ぶ。
 途中に、入口ポーチの庇の角に翼を広げたは虫類の彫刻が、ボーとしていると飛びかかるぞと言わんばかりに見下ろしている建物があった(写真、地図③)。建物は近代的なデザインで、ほかにユーゲントシュティール的造形はない。
 周辺に建つユーゲントシュティール建築と馴染ませようとしたのだろうか。近代的デザインのシンプルさでは通り過ぎてしまうが、ユーゲントシュティールやバロックの造形は人を立ち止まらせる効果がある。街並みの景観も変化に富んでくる。ユーゲントシュティール建築巡りが楽しくなり、観光にも寄与していると思う。
 近代、現代の建物もちょっとした造形を工夫すると街歩きが楽しくなる。期待したい。

 アルベルタ通りAlberta ielaに入る。アルベルタ通りは東西軸で、通りの北側には南面した建物が8棟建っている。そのうち6棟がユーゲントシュティール建築である。対して通りの南側には北面する建物が7棟建っているがユーゲントシュティール建築はわずか2棟で、ほかは新古典様式を基調にしている。
 日本では南面指向の住居の人気が高い。ラトビア・リガはモスクワとほぼ同じ北緯57°ぐらいだから、日当たりのいい南面指向が強いのではないだろうか。とすると、ユーゲントシュティールは南面で威力を発揮していることになる。

 地図④はエイゼンシュテイン設計で1906年竣工した(写真)。低層階は重厚な質感、上層階は軽快な質感として、ファサード構成を上下に分けようとしている。上階では柱間を狭くしたうえで、柱形に細幅の赤タイルをはめ込み、垂直感を強調している。
 低層階柱頂部に未開人?の男の顔、最上階柱頂部には兜をかぶった女?の顔(写真)、窓の上下の壁には植物、幾何学紋様のレリーフを飾るなど、造形が整理されている。
 ファサードを見る人に、造形から物語を想像させようとしているのだろう。造形が過剰すぎるが、造形の謎解きも街歩きを楽しくさせる。1901年設計の写真①から6年経ち、エイゼンシュテインのユーゲントシュティールは熟達したようだ。

 地図④の隣の地図⑤(写真)もユーゲントシュティール建築である。ファサードは5つに縦分割され、両端の壁面に対し中の3壁面は前に出ていて、さらに2列、4列目の2~3階は出窓風にせり出している。そのため垂直性は弱められ、変化に富んだファサードになっている。
 一方の人面像、植物や幾何学紋様の造形は小さく、控えめで目立たない。
 設計者名、竣工年は不明である。ユーゲントシュティール=新たな芸術運動に触発された建て主、建築技術者が、堅苦しくなりがちな新古典様式を改良し、ユーゲントシュティールが過剰とならないていどに造形を加味した表現法といえようか。
 建築表現は社会とともに生きている。建て主、建築技術者が時代、社会の動きを読み取り、自由に発想するのが建築の進歩を促す。

 地図⑤の隣、地図⑥はエイゼンシュテイン設計で1904年に竣工した(写真)。ファサード構成が十分に練られたようで、5階建て5スパンの表現を統一しながら、中央の5階分3スパンを一つのキャンバス絵のように見立てて造形しようとしている。中央3スパンは左右よりも前面に出ていて、左右の2スパンも段差がついているのでファサードが立体的である。
 中央3スパンの2階は大きめの角形窓(写真には写っていない)、3階は小さい角形窓、4階は大きな円弧窓、5階は3連のアーチ窓で、表情豊かなファサードになっている。
 屋根の左右でライオン像が左右ににらみを効かし、中央にはメドゥーサをイメージさせる女性像が造形されている(写真)。
 軒周り、窓周り、バルコニーの頬杖などには、ファサードの構成をリズミカルに品良くまとめる効果を狙った幾何学紋様のレリーフが造形されている。
 1906年竣工の地図④は造形がより強調されている。1904年竣工の地図⑥を見た地図④の建て主が地図⑥よりも積極的な造形、ファサードの迫力を望んだのかも知れない。言い換えれば、地図④は調和の取れたファサードで完成度が高いが、地図④のような迫ってくる迫力感に欠ける。
 設計には建て主の好みが表出される。同じ設計者のユーゲントシュティール建築が連続すると、ユーゲントシュティール造形の違いから、建て主の気質まで想したくなる。

 地図⑥の隣もエイゼンシュテイン設計、1903年竣工のユーゲントシュティール建築だが、メモも写真もない。工事用ネットがかかっていてファサードがはっきり見えなかったのかも知れない。 続く(2020.5)

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