yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

519 アルファ・ロメオのエンブレムの人を飲み込む蛇=ビジョーネはミラノのシンボル

2015年07月31日 | 旅行

 昨日、30日はさいたま市大和田公園で恒例の花火大会が開催された。私のマンションからおよそ1.8kmで、さえぎる建物がないため、色とりどりに花開く大輪を楽しむことができる。
 娘と孫たちは毎年花火を目指して夕方集まってくる。スターマインという花火が主体だが、5000発がおよそ2時間に渡って次々と打ち上がるのだから、孫たちは大喜びだ。大はしゃぎしながらよく食べ、花火が終わったら、引き上げた。私もおつきあいで、ときどき花火を見ては、ビールを傾けた。

イタリア紀行2004-41 イタリア6日目 スフォルツァ城 ヴィスコンティ家 アンブロジウス ビジョーネ /2015.7記
 ミラノの最初の見学はスフォルツァ城である。ミラノは11世紀ごろ、貴族による自治都市となった。やがてヴィスコンティが台頭してきて、1277年、ミラノの支配権を確立する。1395年、領主ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティが神聖ローマ皇帝から公位を与えられる。ミラノ公国の始まりである。
 ヴィスコンティはいまのスフォルツァ城に居館を建てる。繁栄もつかの間、1450年、跡継ぎが絶えたヴィスコンティに代わり、元傭兵隊長だったスフォルツァがミラノ公を僭主してしまう。スフォルツァはヴィスコンティの館を改築、増強した。これがスフォルツァ城である。その後、荒廃したが、20世紀に復元され、公開された。
 城門には高さ70mの塔がそびえ、扉上部にはミラノの守護聖人アンブロジウス像が飾られている。アンブロジウスは東ローマ帝国皇帝がテオドシウスのころのミラノの高級官僚だった。ちょうどミラノ司教が倒れ、後継者を調停することになったが、アンブロジウスの人望が高く、結果的には、大急ぎで洗礼してキリスト教徒になり、いろいろなステップを飛ばして叙階され、ミラノ司教になった。そのころ、皇帝テオドシウスが民衆を殺害する事件があり、アンブロジウスはテオドシウスに謝罪させてしまう。皇帝に謝罪させるとは、アンブロジウスの力量がうかがえる。テオドシウスは深く反省し、392年に東ローマ帝国の国教をキリスト教と定め、のちにローマ帝国を統一し、全ローマ帝国の国教をキリスト教とした。
 キリスト教徒からすればテオドシウスは大帝にふさわしく、彼を動かしたアンブロジウスは守護聖人にふさわしい、ということになろう。
 スフォルツァ城の城門にはミラノ公国の紋章も飾られている。ミラノ公国の紋章はヴィスコンティ家の紋章だった人を飲み込む蛇=ビジョーネと、神聖ローマ帝国のシンボルである鷲の組み合わせである。
 ミラノを本拠としたアルファ・ロメオのエンブレムは、赤十字とビジョーネの組み合わせである。赤十字は、第1回十字軍に参加したミラノ人のエルサレム奪還を記念し、ミラノの市章とされた。ビジョーネはもちろん、ミラノ公国、さかのぼればヴィスコンティ家の紋章である。
 紋章にも歴史が刻まれている。

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518 本場スリランカカレーを味わい、大いに歓談する=津波被災生徒の支援になる

2015年07月28日 | よしなしごと

 2009年 救えスリランカ・宮あじ会 スリランカの子どもへ奨学金累計100万円

 埼玉県宮代町を本拠とする国際交流・宮あじ会の発足は1996年にさかのぼる。20年を超えた活動の秘訣は「知恵のある方は知恵を、ふところの豊かな方はカンパを、料理の得意な方は料理を、友だちの多い方は友だちを、・・何もなければ顔を出そう」といった気楽な、無理をしない、普段着のままの活動のためであろう。
 2004年インド洋大津波で、メンバーの故郷であるスリランカも大きな被害を受けた。速報では高さ10mを超える津波で死者3.5万人、家を失った方は83万人以上・・だった。宮あじ会でも息の長い支援が検討され、本場スリランカカレーを用意し、参加者にカンパをお願いすることになった。
 2005年2月、「救えスリランカ 宮あじ会」がスタートした。カレーチャリティ第1回は23名の参加、以降、毎月1回ずつカレーチャリティを開いてきた。こちらも10年を超えた。
 7月24日の定例会はおよそ30名の参加で、チキンカレー、ナスカレーを汗をかきながら、味わった。差し入れも半端ではない。そもそもお米が毎月、Fさんから届けられる。ナスはHさんから。漬け物が2種、チリメンの山、ワイン5本、日本酒およそ2升、ビールは飲みきれないほど、どこかに出かけたときの土産類などなど・・。会費は2000円で、食材費などを差し引いた残り・・だいたい1000円以上が積み立てられ、10年間の累計は2015年5月現在300万円を超えている。
 話を戻して、2005年7月にスリランカを訪ね、被災学校6校の現状を見て回った。校長先生とも話し合い、支援を強く希望していたマハマヤ女学校の生徒に奨学金を支給する案がまとまってきた。仔細を宮あじ会で話し合い、2005年12月、現地セイロン銀行ニゴンボ支店に口座を設け、奨学基金を送致した。
 翌2006年1月からマハマヤ女学校の生徒13名に毎月1000ルピーが支給され始めた。マハマヤ女学校への奨学金は3年ほど続けられた。その後はセントメリーカレッジの生徒に奨学金が支給された。これも3年間ほど続いた。この間、文具、図書、備品などの支援を行ったり、寺に付設される教育施設・・一種の寺子屋・・の設計支援も行った。
 また、ほぼ1年おきにスリランカツアーを企画し、被災校を訪問し交流を重ねた。
 2013年には2名の生徒を、およそ2週間、日本に招へいし、短期間だがホームスティを体験しながら日本の見聞を広めてもらった。宮あじ会では、引き続き、来春?来夏?に2名を招へいする予定を立てている。普段着のまま無理をしないのが、息の長い支援活動の秘訣である。

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517 ヴェネツィアには、ヴィヴァルディが音楽指導をした、孤児を養育するピエタ慈善院がある

2015年07月26日 | 斜読

 十数年使ってきた掃除機を買い換えた。けっこう使い勝手も良かったが、ヘッドの消耗が激しく、ヘッドの在庫がないため、買い換えとなった。条件の第1は、日本製。日本企業の発展を応援したいと思って。第2はこれまでと同じサイクロン式。紙パックに比べ埃が飛ぶという意見もあるが、埃はいつも空気中に漂っているし、掃除のときは窓を全開にし、マスクをつけるので問題ないと思って。
 近くのN電気店に出かけ比較していたら、日立の自動運転式のパワーヘッドが目に止まった。ヘッドの吸い込み部が広く、回転ブラシもよく工夫されていた。店内で試運転させてもらったら、使いやすそう。予算より少し高くなったが、期末割引、モバイル会員割引、プレミアム保証特典付きなどで手ごろな価格になった。
 一週に一度掃除するとして、10年間使うと一回あたり50円程度。エコナビが付いていて電気料は以前より安くなるから、買い得と思う。
 さっそく掃除してみた。パワーヘッドはさまざまな動きに対応できるような仕掛けがあるらしい。おいおい習得しよう。吸い込みはいい。ダストの処理も簡便。Inspire the Nextは期待できそう。

b400 ピエタ 大島真寿美 ポプラ社 2011 /2015.7読
 ピエタというと、サン・ピエトロ大聖堂に飾られたミケランジェロのピエタ像を思い出す。それほどミケランジェロのピエタ像は印象的だが、イタリア語でピエタは慈悲とか慈愛とかの意味で使われ、ヴェネツィアには孤児の養育をする施設としてピエタ慈善院が設立されていた・・いまでも活動は続いている・・。
 そのピエタ慈善院では、子どもの自立のためさまざまな教育がなされていて、その一つに音楽教育があり、ヴェネツィア生まれで司祭でもあったヴィヴァルディがその指導をしたことがあった・・これは事実である・・。
 本書はピエタ慈善院で育てられ、ヴィヴァルディから音楽指導を受けたエミーリアという女性が主人公となって、物語が展開していく。
 本の始まりは、ヴィヴァルディがウィーンでなくなったという・・これも事実・・訃報から始まる。
 ピエタ慈善院の経営は厳しかった。ヴィヴェルディが指揮したコンサートは長く成功していたが、ヴェネツィア人は飽きてしまったようで、経営の変換が迫られ、ヴィヴァルディが免職になったことは物語中で説明される。
 ピエタ慈善院の経営には寄付が欠かせない。エミーリアといっしょにヴィヴァルディに音楽指導を受けた貴族のヴェロニカは、稽古に使った譜面の裏に自分の思いを詩に綴ったことがあるので、その譜面を探してくれれば大口の寄付をすると、エミーリアに譜面探しを依頼する。
 エミーリアは自分を捨てた母親探しをしたことがあった。母親を見つけることができたが冷たくあしらわれてしまった。その母親探しのときのつてで、高級娼婦クラウディアを訪ねたことがあり、クラウディアに譜面探しのヒントをもらおうと会いに行ったところ、ヴィヴァルディとクラウディアが深い仲だったことを知る。
 話が飛んで、ヴェロニカが落ち込んでいたのでクラウディアに会わせると、二人は意気投合する。
 さらに話が飛んで、クラウディアが重い病に倒れる。エミーリアは、やはりヴィヴァルディに音楽指導を受けたが音楽の才能がなく薬学に転じ、薬屋に嫁いだジーナに相談する。
 さらに話が飛び、ヴェロニカがクラウディアを屋敷に引き取り、看護する。やがてクラウディアは穏やかに息を引き取る。
 葬儀の日、棺を載せたゴンドラの船頭ロドヴィーゴがヴィヴァルディに教わったという歌を歌う。その歌こそ、ヴェロニカの探していた詩であった。
 淡々とした筆さばきながら温かみにあふれている。物語展開もたくみで、引き込まれてしまう。いい本だ。

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516 ヴェローナに残る古代ローマ時代のアリーナはいまや国際音楽会の会場である

2015年07月23日 | 旅行

 室内は33°となる猛暑が続いているが、風が良く通るので、まだクーラーを使わずしのいでいる。風が強いと、かすんでいるが、富士山が姿を現す。黒々とした富士は勇壮というより豪壮といった感じがする。どちらかといえば、白い雪で縁取られた富士の優美な姿の方が好きだが、姿かたちが四季を写して変化するから人の心を離さないのであろう。
 ずいぶん昔、工高~大学といっしょだったK君がクアラルンプールに派遣されていたとき、3月ごろ、遊びに行った。初めてのマレーシアで、熱帯の花がこぼれるばかりに咲き乱れているのに見とれていたら、K君いわく、1年中同じように咲き乱れている、ときには日本のような季節の変化が羨ましいと言っていた。
 日本人には四季折々の移ろいを愛でる心が根付いているのであろう。

イタリア紀行2004-40 イタリア6日目 ヴェローナの円形劇場 ブラ広場 城壁門 ミラノへ テトラルキア キリスト教公認 /2015.7記
 ヴェローナ旧市街には、古代ローマ時代の円形劇場が残っている。日本語では円形劇場となっているが現地ではArenaアリーナである。ローマのコロッセオを想像すれば、アリーナが闘技場として使われたことが想像できよう。
 ただし、ヴェローナのアリーナは外周のアーチが二重の構造で、これは珍しい。ところが1117年の地震で外側のアーチ構造のほとんどが倒壊してしまったが、幸いにも内側のアーチ構造はほとんど無傷だったそうだ。ヴェローナの政情不安から長く放置されていたが、アリーナと内側の観客席がほとんど無傷だったことから、1913年、ヴェルディ生誕100年を記念して「アイーダ」が上演され、大成功となった。以来、国際ヴェローナ音楽祭が定期的に公演されている。だから、円形劇場と呼ばれているらしい。
 円形劇場はブラ広場に面して建っている。
 ブラ広場の先には城壁門があった。ヴェローナの三方はアディジェ川が回り込んで流れ、自然の要害になっている。残る一方がブラ広場の先になるため城壁が築かれ、城壁門が設けられたようだ。
 城壁門を出たところにバスが待っていて、ヴェローナのわずか1時間の見学はここで終わりとなった。
 次の目的地は、ヴェローナから西におよそ160kmのミラノである。ミラノに一泊して帰国だから、今回のコースはよくよくコンパクトと感心する。
 現在のミラノはイタリア第2の都市であるが、歴史も古い。とりわけ重要なポイントは教科書でも習うコンスタンティヌス帝のキリスト教公認であろう。
 コンスタンティヌスの少し前のディオクレティアヌスは皇帝に就くや、広大なローマ帝国を一人で統治するのには無理があるとして、東西に分けて皇帝を置き、続いて副帝も置いて4分割して統治する方式を実践した。これがテトラルキアである。ミラノは西の正帝の都とされた。
 世代が交代し、コンスタンティヌスは副帝に就くが、政敵を倒し、西ローマ帝国皇帝となる。そして、ミラノで、東ローマ帝国皇帝と共同でキリスト教公認を宣言する。
 コンスタンティヌスは東ローマ帝国皇帝をも倒し、全ローマ帝国皇帝になるとともに、都を現イスタンブール、かつてのコンスタンティノープルに移してしまい、コンスタンティノープルには次々と聖堂が建てられていった。ミラノにはそうした歴史的な聖堂はないが、キリスト教公認を歴史に残している。

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515 フレスコ画で館を仕上げるとは、ヴェローナは昔から商売の才に長けていたらしい

2015年07月21日 | 旅行

 我が家のマンションの前にはしましま公園と名づけられた、道路に沿った長い公園がある。全長500mほどあり、芝生で覆われ、樹木がけっこう大きくなって気分がいい。その公園の西側街区にはショッピングモールがあり、そのあたりは石敷き広場で、水の劇場と名づけられ、1時間ごとに噴水が飛び出る。
 日射しの強いときには、子どもたちはときどき出る噴水でびっしょりになりながら、大喜びだ。遊びに来た孫たちもずぶ濡れになりながら、水と遊んでいた。
 しかし、たった10分で終わってしまい、1時間後までは石敷きの舗装が日射しを照り返す。だから噴水が終わると蜘蛛の子を散らすように人影がなくなる。
 公園のデザイナーにはそれぞれ狙いがあるだろうが、石敷き広場にはやはり木陰がほしいし、噴水のほかに常時流れる水場があると、子どもたちも大人ももっと楽しめる、と思う。
 デザインは頭の中、紙の上ではなく、現場の照りつける日射しの下、寒風が吹き抜ける中で構想してほしいね。

イタリア紀行2004-39 イタリア6日目 エルベ広場 マッフェーイの館 聖書を持つ獅子像 マドンナの噴水 マザンティの館 ジュリエッタの家 /2015.7記
 ヴェローナのシニョーリア広場に建つ市庁舎を抜けるとエルベ広場に出る。エルベとはハーブのことで、このあたりで、ハーブや野菜、花、果物の市が開かれていたことからこの名が付いた。
 エルベ広場はおよそ150mもある細長い広場で、北西端のアイストップには大理石を積み上げ、1階は石積みアーチ、2階にはコリント式オーダーを載せた半円の付け柱、3階には手の込んだレリーフと、全体にバロック様式で重厚な表情の建物が建っている。17世紀ごろ、マッフェーイの館として建てられた。
 その手前には、円柱が立ち、柱上には聖マルコのシンボルである聖書を持つ獅子の像が飾られている。これはヴェネツィア支配を意味する。
 その手前、エルベ広場中ほどに噴水がある。この水は、アディジェ川にかかるピエトラ橋を改修した14世紀、ピエトラ橋に水道が埋設され、ここまで引かれた。噴水にはスカラ家=スカリジェリ家がつくらせたマドンナの像が飾られている。石敷き、石造りの街なかにあって、噴水は清涼感を与えてくれる。
 獅子像からマドンナの噴水あたりの右手には16世紀のマッザンティの館が建っている。この建物の壁一面はフレスコ画で仕上げられている。もともとはスカラ家=スカリジェリ家の館で、16世紀ごろ、フレスコ画で館を仕上げることが流行したらしい。少し色あせているが、できたときの鮮やかな彩りにヴェローナの人々はさぞや驚いたのではないだろうか。裏を返せば、そのころの商人、貴族はよほど豊かだったということになる。周辺国がヴェローナを支配下に置こうとしたのはその豊かさが狙いであろう。
 エルベ広場から少し歩くとジュリエッタの家がある。もちろん、「ロメオとジュリエット」は創作だから、この家も観光用の演出である。大勢の観光客が次から次と記念写真を撮っていた。ヴェローナ人は商売がうまい。
 

 

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