yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2022.7栃木・湯西川を歩く

2023年04月26日 | 旅行
日本の旅>  2022.7 湯西川を歩く


家の隠れ里として知られる栃木県湯西川はまだ訪ねたことはない。隠れ里なら人里離れ新型コロナウイルス感染リスクは低いと見込み、全国旅行割支援を活用して湯西川温泉に出かけた。
 東北道宇都宮ICから日光宇都宮道路に入り、今市ICで下りて国道121号線を北上する。鬼怒川を渡ると国道121号線、鬼怒川、東武鬼怒川線が並行する。鬼怒川温泉を過ぎる。川治温泉を過ぎると、鬼怒川は西に離れる・・川治ダム、上流に川俣ダムがある・・。
 国道121号線は、川治温泉あたりから鬼怒川に合流する男鹿川に添って北上する。五十里ダムを過ぎ、会津鬼怒川線湯西川温泉駅あたりで男鹿川に合流する湯西川に沿って県道249号線に左折すると、ほどなく湯西川ダムの巨大な構造物が見えてくる(写真)。
 1947年9月のカスリーン台風で関東地方、東北地方は甚大な浸水被害が発生した。鬼怒川でも3ヶ所の堤防が決壊・破壊し、4ヶ所の護岸が決壊・流失した。
 国土交通省は、1956年、男鹿川に五十里ダム(重力式コンクリート構造)、1966年、鬼怒川上流に川俣ダム(アーチ式コンクリート構造)、続いて1970年、川治ダム(アーチ式コンクリート構造)、2012年、湯西川に湯西川ダム(重力式コンクリート構造)を完成させた(図web転載)。
 湯西川ダム横の説明板によると、ダムの堤高は119m、堤長は320m、重力式コンクリート構造で、洪水調節と農業用水、上水道、工業用水の供給が目的だそうだ。
 温室効果ガス削減、持続可能な社会のためには自然エネルギーである水力発電を期待したいが、湯西川ダムでは水力発電は行われていないようだ。
 ダムは見学自由だったが、管理事務所?は閉まっていた。新型コロナ感染対策のためかも知れない。パラパラと見学者が来ていたので、展示室などを開放してくれるとダムへの理解が深まると思う。・・2020年に訪ねた多摩川上流小河内ダムの水と緑のふれあい館は開館していたし、2021年に訪ねた多摩川上流白丸ダムは魚道が公開されていて、ダムの理解が深まった。湯西川ダムも見学者向けのサービスを期待したい。


 ダムの途中から119m下をのぞく(写真)。山あいを切り裂くように湯西川が流れていく。やがて鬼怒川に合流し、鬼怒川は利根川に合流し、海に向かう。途中で洪水調節や農業用水、上水道、工業用水として私たちの暮らしを支えている。流れを見下ろしながら、水資源に感謝する。
 ガイドブックによると、湯西川ダム湖クルーズと湯西川ダム見学を組み込んだ水陸両用バスダッグツアーが人気だそうだが、新型コロナウイルス感染対策のためか、休止していた。70分ほどの行程で大人3500円だそうだ。水陸両用車は滅多に体験できないし地元経済支援になるが、3500円は少々高嶺の花である。休止ならあきらめがつく。


 湯西川に沿って県道249号線を走り、湯西川温泉に着く。温泉宿の先に平家の里があった(写真)。510円の観覧料を払い、冠木門をくぐる。
 源平合戦(=治承・寿永の乱1180~1185)に敗れた平家は源氏の厳しい追及を逃れて各地に逃げ隠れた。湯西川にも平家の一族が隠れ住み、鯉のぼりをあげない、鬨(とき)を告げる鶏は飼わないなど人目・人耳を避けて源氏の追究を躱(かわ)したそうだ。
 樹林の広がる園内には、茅葺き入母屋屋根の鄙びた民家が9棟再現されている。再現民家は、受付、調度営みどころ、床しどころ、種々伝えどころ、よろず贖(あがない)どころ、お休みどころ(写真)として公開され、かつての生活用品、衣装、工芸品などが展示されている。新型コロナウイルス感染対策のためらしく、応対のスタッフはいなかった。展示品の趣向は、各地に公開されている民家園などとさほど変わらない。
 園内にせせらぎが流れている。せせらぎの音を聞きながら緩やかな坂を上っていくと、朱塗りの鳥居の先に赤間神宮が祀られている(写真)。
 壇ノ浦の合戦(1185年)で海に身を投じた8歳の安徳天皇を祀る赤間神宮が下関にあるそうで、平家の里開園にあわせ下関赤間神宮から分祀したそうだ。
 パンフレットには、平家の里では安徳天皇を偲ぶ先帝祭や平家の復興を祈念する平家大祭の盛大な行列が紹介されているが、新型コロナウイルス感染対策でさまざまなイベントが休止されたようだ。新型コロナウイルス感染が治まり、イベントが復活して賑わいが復興するよう期待し、平家の里を後にする。  
 
 湯西川沿いを歩く。岩盤の川床の上を澄んだ水が勢いよく流れている(写真)。この水が男鹿川、鬼怒川、利根川に合流し、太平洋に注ぐ。水の旅は遠大である。
 温泉街を歩く。人は少ない。人が少ないとのんびりしてくる。
 宿に戻り、温泉につかり、のんびりする。
 (2023.4)

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2022.7谷川岳天神尾根ちょこっと歩き

2023年04月22日 | 旅行
日本の旅>  2022.7 谷川岳天神平を歩く


 2022年7月、初日に水上温泉、2日目に谷川温泉に泊り、2日目に天神平を目指した。
 国道291号線を上り、谷川岳ベースプラザに駐車する。6階で谷川岳ロープウェイ往復券3000円を購入し、7階の連絡通路からロープウェイ土合口駅に行く。ロープウェイは定員22人で広々している。山に向かう人が少ないのか、一ノ倉沢トレッキングコースに比べ空いている。
 土合口駅あたりの標高は746m、天神平駅あたりの標高は1319m、ロープウェイの標高差は573mである。谷川連峰の急峻な山並みを見下ろしているうちに(写真)、7分ほどで天神平駅に着いた。
 天神平駅を出ると、すぐ先に天神峠観光リフトの乗り場がある。下りは歩くことにして、片道乗車券420円を購入する。
 天神平は緑がまぶしい(写真)。冬はパウダースノーに覆われ、大勢がスキーを楽しむのであろう。
 リフトの終着は標高1502mの天神峠駅である。展望デッキから天神平を見下ろし、谷川連峰を遠望する。晴れ渡り、見通しがいい。見上げると谷川岳が空に岩肌を向き出しにしている(写真)。尾根が続いているが、どこがトマノ耳(1963m)か、オキノ耳(1977m)か、一ノ倉岳(1974m)かは分からない。
 トマノ耳まで2時間、トマノ耳からオキノ耳まで10分、オキノ耳から一ノ倉岳まで50分だそうだ。一ノ倉岳登山は往復6時間、トマノ耳だけでも往復4時間になる。登山者の体力、脚力に脱帽である。


 足下にタカネイバラ?が咲いている(写真)。7月の谷川岳にはニッコウキスゲ、クルマユリ、ショウジョウバカマ、シラネアオイ、ヒメシャガ、ヒメイワカガミ、ハクサンコザクラ、イブキジャコウソウ、トリカブト、シモツケソウ、ホソバヒナウスユキソウなどが咲くそうだ。花も登山者を楽しませてくれるようだ。
 少し先に天満宮、弁財天の祠、鳥居が建つ。登山の無事を祈願するのであろうか。


 山道を少し歩いた(写真)。大きな岩を乗り越え、小さな岩を踏みしめ、歩く。視界が開けると天神平、その先の山並みが展望できる(次頁上写真)。気分が広々する。山の空気を大きく吸い込み、肺の隅に残っている都会の空気を追い出す。体中に山の空気が行き渡ったような気がする。
 気分がさわやかになったので、天神尾根に挑戦する。ゴロッとした大岩を乗り越え、砂利に足を取られないように気をつけ、谷川連峰の雄大な風景を眺め、20分ほど歩く。
 天神平0.6km・谷川岳山頂3.3kmの標識まで来た(中写真)。体は疲れていないし、息も切れていないが、膝が気になる。思案の為所(しどころ)である。
 谷川岳登頂は目的ではないし、トマノ耳まではまだ片道1時間40分、往復すると4時間近くなる。当初の目的の天神平展望は果たした、と自分を納得させ、天神平駅に戻ることにした。
 山道を少し戻り、途中から天神平駅に下る木道を歩く(下写真)。木道は大岩も砂利も無く下り道なので歩きやすい。15分ほどで、谷川岳ロープウェイ天神平駅に着いた。
 展望デッキから谷川連峰、天神平をしっかり見納め、ロープウェイに乗る。


 谷川温泉で谷川連峰を眺めながら湯を楽しみ、夕食に大吟醸谷川岳をいただき、谷川岳を見上げて天神尾根ちょこっと歩きを思い出す。
 (2023.4)

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2022.7谷川岳一ノ倉沢トレッキング

2023年04月20日 | 旅行
日本の旅>  2022.7 谷川岳一ノ倉沢トレッキング


 谷川岳は百名山の一つで、群馬県、新潟県の県境に位置し、谷川連峰の絶景を楽しみながら標高1963mのトマノ耳、標高 1977mのオキノ耳の二つの峰、標高1974mの一ノ倉岳の登山が人気らしい。谷川岳・天神平スキー場は標高1300~1500mで、谷川連峰の絶景を眺めながらパウダースノーのスキーを楽しめるそうだ。
 谷川岳登山も天神平スキーも経験しないまま月日が流れた。すでに高齢で登山もスキーも縁遠くなったと思っていたが、水上温泉、谷川温泉を調べていたら、谷川岳ロープウェイ土合口(標高746m)からロープウェイを利用して天神平駅(標高1319m)、そこからリフトで天神平峠(標高1502m)に行けば谷川連峰の展望を楽しめること、一ノ倉沢トレッキングコースは初心者でも楽しめることが紹介されていた。
 さわりだけでも体感しようと、2020年9月、谷川温泉に宿を取り、天神平を目指した。ところが、谷川岳ロープウェイが電気系統の故障で運転中止、谷川岳ベースプラザは立入禁止、ベースプラザの先は電気ガイドバスのみの通行だがすべて運休で、展望もトレッキングも棚上げになった(HP「2020.9谷川岳立入禁止」参照)。


 2022年7月、谷川岳天神平+一ノ倉沢を目指した。
 関越道・水上ICから国道291号線を北上する。カーブの多い山道になって間もなく、左に谷川岳インフォメーションがあったので寄った。
 センターで、天候はよし、電気ガイドバス、ロープウェイ、リフトはすべて運行、一ノ倉沢出合までのトレッキングはおよそ55分などを教えてもらい、谷川岳に関するパンフレットをもらった。展示室に置かれた大きな地形模型を見ると、急峻な谷川連峰の様子が分かる。パネルには谷川岳の四季や動植物などが紹介されていた。予習になる。
 谷川岳インフォメーションセンターの少し先が7階建ての谷川岳ベースプラザで、6階がインフォメーション、ロープウェイチケット売り場、売店、食堂で、その他の階がすべて駐車場になっている。
 ベースプラザ前の広場に一ノ倉沢出合行き、定員8名の電気ガイドバスが止まっていた。空席があったので、往路はバス、復路はトレッキングにし、片道500円のチケットを購入して乗り込んだ(写真は一ノ倉沢出合バス停での撮影)。
 運転手は谷川岳のガイドをしながら、国道291号線を走る。
 国道291号線は1885年に開削された当時の国道8号線(旧清水峠国道)で、清水峠を越えると新潟県だが、そのほとんどが山道らしい。自動車も走れる国道として整備する計画だったのであろうが頓挫したまま時が経ち、関越道も開通して国道整備が不要不急になったようだ。谷川連峰の環境保護には国道整備を棚上げにし、電気ガイドバスだけの運行が望ましいと思う。
 
 谷川岳ベースプラザの少し先の山岳学資料館あたりの標高が750m、一ノ倉沢出合の標高が870mで、標高差は120mになる。山岳資料館から一ノ倉沢出合まではおよそ3kmだから、山道は緩やかである。
 国道291号線は東斜面の山腹を通っていて、左手=西側は急傾斜の山、右手=東側は急傾斜の谷になる。西も東も樹木が生い茂り、木々のあいだに山岳風景が広がる。日射しは強いが、緑陰と山の冷風で気持ちがいい。
 国道291号線は道幅は狭く、カーブも多い。上りの人、下りの人を避けながら、電気ガイドバスはおよそ3kmを20分ほどかけてゆっくりと進む。遠くの谷筋に雪が見え、ひんやりした風を感じて間もなく一ノ倉沢出合バス停に着いた。
 真っ正面に山が大きく割れて谷をつくっている(写真)。一ノ倉沢である。谷筋には雪が残り、手前の岩だらけの沢にも残雪が押し寄せている。大勢の先客が雪を踏みしめたり、雪解けの冷たい水と戯れたり、適当なところに陣を取って一ノ倉沢の景色を眺めながら持参の飲み物、食べ物を口にしたりしている。携帯コンロで肉を焼きながらシャンパンを開ける人もいる。思い思いに絶景に浸っている。
 先客に混じり雪を踏みしめてみた。黒ずんだ雪の表面は堅く、スニーカーでは滑りやすい。表面を削ると、白い雪が現れる。岩のあいだを雪解け水がさわさわと流れている。日射しは強いが、空気はひんやりして、清涼である。
 バス停横の説明板によると、「クラ」は岩や岸壁を意味する方言で、谷川岳は剱岳、穂高岳とともに三大岩場として知られ、谷川連峰随一の岩場なので「一ノ倉」と呼ばれているそうだ。登山愛好家はこの一ノ倉沢の急斜面を登り、トマノ耳(標高1963m)、オキノ耳(標高1977m)、一ノ倉岳(標高1974m)を目指したのであろう。一ノ倉沢出合は標高870mなので、およそ1100mの岩場を登ることになる。登山愛好家に脱帽したい。


 一ノ倉沢出合から国道291号線は右に大きく曲がる。説明板によるとクライマーの散歩道と名づけられていて、幽ノ沢まで1.1km、25分だそうだ。は岩穴のことで、ブナのしずくと呼ばれる冷たい幽泉があるらしい。幽ノ沢出合まで足を延ばした。
 一ノ倉沢出合を過ぎると舗装は終わり、山道になる(写真)。よく踏みしめられていて歩きやすい。一ノ倉沢出合は標高870m、幽ノ沢出合は標高885mでほぼ平坦であり、往路も復路も楽に歩けた。
 左右はうっそうとした樹林で覆われていて、日射しが遮られると説明板に書かれていた深山幽谷の気分になる。左はときおり岩盤が現れ、岩の割れ目から水が浸み出ていることがある。右は湯桧曽川が流れ、対岸の山が近づいた離れたりする。
 25分ほど歩くとブナのしずくと書かれた標識が立っていて、奥の岩の上から水が流れ落ちていた(写真web転載)。
 山には樹齢200年前後のブナ林が広がっているそうだ。ブナの漢字はで、無駄の無い木という意味合いで、山の保水力を高め、実は食用、木は用材として利用された。
 保水された清らかな水がしずくのように流れ落ちていることからブナのしずくと名づけられたようだ。クライマーはブナのしずくで喉を潤したに違いない。私は持参のペットボトルで喉を潤し、一息する。
 ブナのしずくからクライマーの道を戻る。一ノ倉沢出合まで一本道なので迷うことはないが、同じ風景のなかを戻っていても光線の向きやカーブの見え方が違い、別の風景なかを歩いているように錯覚する。
 樹林の切れ目から湯桧曽川をのぞく(写真)。水量は少ないが大きな岩がごろごろしている。大雨では相当の激流になるに違いない。25分ほどで一ノ倉沢出合に戻る。先ほどシャンパンを開けていた先客は気持ち良さそうにうたた寝していた。至福の時を邪魔せず通り過ぎる。


 一ノ倉沢の岩場から吹き下ろす清涼な風をたっぷり吸い込み、ベースプラザに向かって歩き出す。強い日射しを避け、樹林の陰を選んで歩く。気づくと湯桧曽川は流れが見えないほど深くなっていた。
 右手の崖下に古い石垣が残っていて、旧清水峠国道の石垣と書かれた標識が立てられている(写真web転載)。この石垣が、1885年、清水峠を越え群馬県-新潟県を結ぶ国道として整備された当時の石垣である。すっかり古びて崖に同化していて、標識が無ければ気づかず通り過ぎてしまう。
 ほどなく休憩ポイント3が設けてある。ベンチに腰掛け、谷川連峰の風景を眺めながら一息する。谷川岳の特性や見どころの解説板もあり、学習になる。


 右に大きくカーブし、次の休憩ポイント2に着く。説明板によれば、かつてこのあたりに宿が3軒ほど並んでいて、新潟県から清水峠を越えてきた旅人が宿の灯りを目にして町が見えると喜んだことから、このあたりはマチガ沢と呼ばれることになったそうだ。
 休憩ポイント2を過ぎ、右にカーブすると深い谷が現れる(写真)。マチガ沢出合である。谷筋の奥に雪が見え、ひんやりした風が吹いてくる。
 マチガ沢出合がほぼ中間点で、一ノ倉沢出合まで25分、山岳資料館まで30分と書かれている。一ノ倉沢出合で電気ガイドバスを降りてから幽の沢まで往復50分、一ノ倉沢出合からマチガ沢出合まで25分、計75分歩いたことになる。
 休憩を取っていても足に疲れを感じる、と思ったあたりに休憩ポイント1があった。対岸の緑のまぶしい山並みを眺め、長めの休みを取る。
 気合いを入れて歩き出す。坂が急になりヘアピンカーブのように大きく曲がると谷川岳山岳資料館、その先に谷川岳ロープウェイ土合口駅、谷川岳ベースプラザが見えた。
 のべ105分のトレッキング、お疲れさんでした。一ノ倉沢トレッキングの達成感もあるが、温泉、地元の酒、会席料理が楽しみである。
  (2023.4)

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「利休にたずねよ」斜め読み2

2023年04月16日 | 斜読
西ヲ東ト/利休切腹の前年、1590年4月11日、秀吉が小田原征伐のため箱根・湯本・早雲寺に宿営していた。かつて秀吉の茶頭だった山上宗二は秀吉の怒りに触れ大坂城を放遂されていて、利休に取りなしてもらおうと早雲寺を訪ね利休の口利きで秀吉に会うも、またも悪癖で口が滑り首をはねられる場面が描かれる・・秀吉は意に染まない者には即決で死を与えるのが性癖のようだ・・。
 
三毒の焔/織田信長の菩提を弔うため秀吉が大徳寺に総見院を建て、古渓宗陳が開山となった。秀吉が母の病気平癒の祈願を宗陳に頼むが宗陳が応えなかったため、石田三成から筑紫・太宰府に旅立つよう命じられる。
 利休切腹3年前、1588年8月19日、大徳寺を出た宗陳は京・聚楽第・利休屋敷を訪ね、二畳半で利休の茶を受ける。利休は、赤い山梔子の実(くちなし=他言無用)とともに緑釉の香合を置き、人は誰も毒をもっている、毒あればこそ生きる力が湧いてくると語る。宗陳は、利休のこころの底に毒の焔が燃えていると感じる。


北野大茶会/利休切腹の4年前、1578年10月1日、秀吉は京都・北野天満宮で1600席の盛大な茶会を開く。秀吉自慢の黄金の茶室も組み立てられた。
 大茶会仕舞い後、二人だけになった秀吉は利休に、おまえの茶は侘び、寂びと正反対、艶めいて華やか、狂おしい恋を秘めていると看破する。利休は、遠いむかしに出逢ったあの女がおのれのうちで息をしているのを感じる。


ふすべ茶の湯/利休切腹4年前の1587年6月18日、秀吉は九州征伐の本陣である筑前・八幡宮境内に利休が建てた三畳の茶室に座り、利休のこしらえる席のあくまでも自然ながら吸い寄せられる色香を感じていた。
 さかのぼって島津征伐の計画を練っていたとき、利休が島津を懐柔する手紙をしたためことで九州制圧が順調に進み、秀吉は内心、利休の敵をたらし込む緩急自在の巧みさに感心した。
 秀吉が変わった趣向で茶を飲みたいと利休に言い、利休は箱崎の浜辺の松の木陰に緋色の毛氈を広げ、虎の皮を敷いて薄茶を点てたとき、秀吉に緑釉の香合を見られてしまう。秀吉が黄金千枚を出すと言うが、利休は茶のこころを教えてくれた恩義のある方の形見と首を振らない。
 ・・時間軸をさかのぼりながら利休切腹の核心が明らかにされていく。山本氏の筆裁きは巧みである・・。


黄金の茶室/利休切腹5年前の1586年1月16日、京・内裏・小御所に利休が秀吉のために黄金の茶室を組み立てる。
 黄金と鮮烈な緋色の取り合わせはあまりにも官能的である。利休の侘び、寂びの草庵とは対極にあるようだが、利休の草庵は、侘びた枯(からび)のなかにある燃えたつ命の美しさを愛した結果である。利休は、こころの底に暗く深い穴があいていて、そこから吹いてくる風で狂おしく身悶えてきた。利休は、秀吉の命を受けたとき、あの女の白い肌こそ黄金と緋色に映えてさぞや美しかろうと、黄金の茶室を考案したのである。


白い手/利休切腹6年前の1585年11月、京・堀川一条で聚楽第に飾る魔除けの瓦を焼く職人・あめや長次郎を宗易=利休が訪ね、毅然として気品があり、掌になじみ、こころに溶け込んでくる茶碗を頼む。長次郎がなんども粘土をひねり、なんど捏ねても命のこもった茶碗ができない。
 宗易は、緑釉の香合からみずみずしい潤いのある桜色の爪を出して長次郎に見せ、長次郎はその爪から白い指、白い手のすがたを思い浮かべ、茶碗を完成させる。宗易は長次郎に、桜色の爪の女に茶を飲ませたい、それだけを考えて茶の湯に精進してきたと話す。
 ・・ついに利休の草庵の茶の原点が明かされる・・。


待つ/利休切腹9年前、1582年11月7日、秀吉は明智光秀を討ち、織田信長の葬儀を終え、山崎・宝積寺城に陣を構え、柴田勝家との決戦を前に天下統一の瀬戸際と苛立っていた。
 宗易=利休は2畳、竹格子の窓、潜り戸(躙り口)の茶室・待庵を作り、秀吉を招く。宗易は、すぐそこに天下が転がっている、秀吉に天下を取ってもらおうと、あらかじめ筵で覆い育てておいた季節外れの筍を出す。珍味に気分をほぐした秀吉は宗易に、筍を騙すほどの極めつきの悪人、と声をかける。
 ・・勘のいい秀吉は宗易=利休の気遣いの裏にある知略に気づいたようだ・・。


名物狩りでは将軍足利義昭をかついで上洛し、機内を席巻した37歳の織田信長が、堺衆に矢銭二万貫を要求し、名物の茶道具を並べさせて目利きをする。49歳の宗易=利休は信長の器量の大きさに驚き、近づいて損はないと思う。
 妾宅である宗恩の家でくつろいでいる宗易に、顔なじみの今井宗久、津田宗及が訪ねてきて、信長が南蛮の女を所望、そんな妙案は宗易しか考えつかないと頼み込む。
 宗易は甘美で妖艶な香りの満ちた閨房をしつらえ、高麗の女に韓紅花の着物を着せ、高麗のことばで美しいを意味するアルムダプッタと声をかけて安心させる。
 信長は大いに満足し、翌朝、宗易の点てた茶を飲みながら、おまえはよほどの悪人、若いころに海賊をしただろうと話す。それを聞いた宗易は、堺の浜の小部屋の攫われてきた女の命の美しさの記憶が、年とともにこころのなかで艶やかさを増しているのに気づく。


もうひとりの女/千与四郎=宗易=利休の家は堺・今井町で干し魚、納屋貸しを営む大きな問丸で、大勢の奉公人が住み込みで働く。宗易34歳の1555年6月、妻たえは夫与四郎が茶の湯の帰りに若後家の宗恩の家に寄ったまま帰らないことに腹を立て、宗恩の家に出かけると宗恩は夜明け前に帰ったと言う。
 もう一人の妾のおちょうに確かめると、おちょうは6月のよく晴れた朝は浜の納屋に一人でいることが多いと言い、宗恩も同意し、木槿が咲いたからと付け加える。
 たえが浜の古びた納屋に行くと、小さな納屋のなかで与四郎が白い木槿の花を前に、薄茶を点てた高麗茶碗を置き、木槿の花に高麗のことばで美しいを意味するアルムダプッタと声をかけていた。
 ・・高麗の言葉、高麗茶碗、木槿の花が出そろい、終盤に向かう・・。
 
紹鷗の招き/武野紹鷗は堺会合衆筆頭格の大分限である。紹鷗は、阿波を地盤とし飛ぶ鳥を落とす勢いの三好長慶からの注文で高麗の王家の姫を買い、武野屋敷の土蔵は茶室を造るため壊してしまったので、千与四郎の父・魚屋千与兵衛の土蔵に匿わせた。
 武野紹鴎は茶の湯の名人として名高く、名物道具を多数所持し、新しく茶室を建てたばかりである。19歳の与四郎も茶の湯の数寄者で、紹鷗から佗茶を学びたいとなんども訪ねていて、紹鷗も与四郎の才を認めていた。
 1540年6月、与四郎は土蔵に匿われた高麗の女と逐電する。紹鷗は、三好長慶からの注文で買った高麗女を連れて出奔するとは与四郎はまことの茶人と思う。


は、息をつかさない勢いで語られる与四郎と高麗の高貴な女の逃亡劇であり、緑釉の香合、寂び枯れた草庵の謎の原点である。読んでのお楽しみに。


夢のあとさき/1951年2月28日、京・聚楽第・利休屋敷・一畳半、切腹した利休に宗恩がかけた白の小袖に鮮血の赤がひろがる。宗恩は床に置いてあった緑釉の香合に気づき、香合を石灯籠に投げつけ粉々に砕けた、で幕となる。
 秀吉の所望を断り切腹の一因となった緑釉の香合を秀吉に渡すぐらいなら利休に代わり宗恩が粉々に砕いた、と考えてもいいが、利休のこころの奥に生き続けていた高麗の女の形見を利休の死に添わせようと宗恩が粉々に砕いた、と思いたい。


 利休の侘び寂び、一畳半の茶室の創意に高麗の女を登場させたユニークな視点の物語に引き込まれた。女の形見である緑釉の香合を切腹の理由にからめたのもユニークである。利休、秀吉が中心だが、秀吉が天下を取るころの歴史のせいりにもなった。 
(2023.4)

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「利休にたずねよ」斜め読み1

2023年04月15日 | 斜読
斜読・日本の作家一覧>  book550 利休にたずねよ 山本兼一 文春文庫 2018


 千利休(1522-1591)は佗茶=草庵の茶の完成者であり、茶聖として知られ、豊臣秀吉(1537-1598)の茶頭(さどう)だったにもかかわらず秀吉の命で切腹させられてしまう。定説では、大徳寺山門に安置された利休像が不敬であること、茶道具を法外な高値で売る売僧になりはてたことが理由である。
 すべてを思い通りに動かし天下人になった秀吉にとって、佗茶における利休の研ぎすまされた美意識が我慢ならなかった、との指摘もある。山本兼一(1956-2014)氏は、利休秘蔵の緑釉の香合に利休の侘び寂びの極地といえる一畳半の茶室の謎を重ね合わせて「利休にたずねよ」を創作し、2008年第140回直木賞を受賞した。
 物語の構成が独特で、切腹直前の利休、切腹前日の秀吉、切腹15日前の細川忠興・・、切腹9年前の千宗易・・と時間をさかのぼりながら利休に関わる主役を登場させ、利休の美への執念と緑釉の香合、寂び枯れた草庵の謎を解き明かしていく。
 圧巻は、緑釉の香合の謎解きになる最終盤の千与四郎=利休19歳の恋であろう。時間をさかのぼる構成は、千与四郎の恋、緑釉の香合、一畳半の草庵の謎解きをクライマックスにするためのようだ。
 
死を賜る/1591年2月28日、切腹を言い渡された利休は、小癪で高慢な猿め、世界はおまえの思い通りにはうごかせないことを思い知らせてやる、美しいものには力がある、一服の茶に静謐にして力強い美が宿る、額づくのは美しいものだけと、秀吉に対する反発と美への執着を吐露する・・著者の立ち位置が表されている・・。
 京・聚楽第の利休屋敷には、18畳の大書院をはじめいくつも茶室があるらしい。しかし、利休は切腹の場として一畳半の狭い茶室を選ぶ。柱も天井も壁土で塗り込めた室床がつけてあり、そこに緑釉の香合と木槿の枝一本を置く。
 一畳半のこの狭い空間こそ、19歳の利休=千与四郎が高麗から攫われてきた高貴な生まれの女を逃がそうとして隠れた暗い空間の再現である。利休は、女の凜々しく美しい顔だち、超然とした威厳を回想しながら、緑釉の香合から女の小指の骨と爪を出し、今日はあなたの葬式にしましょうと語りかける。
 ・・スッと読み過ぎたが、利休の妻・宗恩が利休に抱かれていても利休の心の奥に別の女がいると感じていることや、最終盤の「恋」、最終章の「夢のあとさき」を読むと、利休の心の奥には高麗の凜々しい女が生き続けていて、自分の切腹に高麗の女の死を重ねようとしていることが分かってくる・・。
 「死を賜る」の最後は、あの日、女に茶を飲ませ、それから利休の茶の道は寂とした異界に通じてしまったで、締めくくられる・・草庵は、高麗の女に茶を飲ませ死なせた空間の再現のようだ・・。
 ・・「死を賜る」にこの本のさわりを語り、ネタを明かしているが、これが著者の仕掛けのようで、どうして茶の美のために利休は命を投げ出すのか、なぜ利休の茶は異界に通じたのか、緑釉の香合に秘められた謎は何かが、読み手を誘惑する。
 そして、時間をさかのぼりながら次々に登場する主役によって、利休の研ぎすまされた美意識が描かれ、いつの間にか著者のもくろみ、術にはまってしまう。巧みな筆裁きである・・。
 
おごりをきわめの主役は秀吉で、時は切腹前日の1591年2月27日、場所は京・聚楽第・摘星楼である。
 秀吉は、利休を天下一の茶人と認めているが、利休の美しさに誤りのないことが腹立たしく、天下人の自分を見下しているような目が許せず、緑釉の香合を譲ろうとしない頑なさに、石田三成の讒言もあり、切腹を命じる。


知るも知らぬもの主役は細川忠興、時は切腹15日前の1591年2月13日、流罪となり駕籠で運ばれる利休を、古田織部とともに見送った細川忠興は、別邸の細川屋敷で利休からもらった黒楽の茶碗を見て、緑釉の香合ではなかったことに父幽斎とともにがっかりする場面が描かれる。
 一条の屋敷にいる妻ガラシャ(明智光秀の娘)は、忠興に、利休は好きなおなごに嫌われたくないため美しいものにいつもおびえていると告げる場面も描かれる・・ここでも高麗の女と緑釉の香合が登場し、読み手の意識に擦り込まれていく・・。


大徳寺破却の主役は禅僧・古渓宗陳で、時は切腹16日前、利休の堺追放前日の1591年2月12日、場所は京・柴野・大徳寺方丈である。
 徳川家康、前田利家、前田玄以、細川忠興が大徳寺破却を伝える場面、古渓宗陳が利休の遺言を受け取り、利休は美にかかわることは秀吉であっても豪も自分を曲げないと思う場面、韓紅花の衣をまとい膝をくずして斜めに座る凜として端正な面立ちの女が緑釉の香合を見つめている金屏風の話が描かれる。
 
ひょぅげもの也は、古田織部が秀吉から緑釉の香合の秘密を探れとの命を受け、切腹の24日前、1591年2月4日に京・古田織部屋敷・燕庵に師匠である利休を招き、命を粗末になされぬようと伝える様子が描かれる。利休は織部に、緑釉の香合はわたしの想い女の形見、手放すくらいなら粉々に砕くと話す。


木守は、切腹一月前の1591年1月24日、京・聚楽第・利休屋敷・四畳半に利休が徳川家康を招く場面で、石田三成と利休の確執に触れたあと、家康は、利休とは茶の世界を無心に追い求めていて人に使われる男ではない、出来の悪い茶碗を木守と言いくるめて名物にしたてるとはなかなかの知恵者と考え、江戸に来るがよいと話す。


狂言の袴/切腹のひと月と少し前の1591年1月20日、京・聚楽第・池畔の四畳半で、石田三成が利休は天下一の茶頭と認めながらも、じぶんが天地の中心にいるかのごとく傲岸不遜な顔をし、人を見下していると感じていて、同じく利休に反感を持ち秀吉のそばに仕える前田玄以、久阿弥と謀り、大徳寺山門の利休像と茶道具の儲け方を理由に譴責しようとする場面が描かれる。  


鳥籠の水入れでは、利休切腹のひと月と20日前の1591年1月8日、京・聚楽第・三畳で、イエズス会東インド巡察師アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノが秀吉の接待を受けたあとに利休の茶を飲んだとき、利休はヴァリニャーノに、茶道具の価値はわたしが決める、わたしの選んだ品に伝説が生まれると語る。
 
うたかたでは、利休切腹のふた月と少し前、京・聚楽第・利休屋敷で、70歳になった利休が天下一の茶頭になったが空しさがつきまとうと感じ、19歳のときに出会った高麗の女の毅然とした美しさに懼れを感じことを回想する場面が描かれる。


ことしかぎりのは、切腹の三ヶ月ほど前の1591年1月1日、京・聚楽第・利休屋敷の妻宗恩に、利休は命ははかないが故に美しいとつぶやく。宗恩は、女の勘で夫はほんとうに惚れた女を隠していると直感する。


こうらい関白/利休切腹の前年1590年11月7日、秀吉が高麗の通信使50人を宿舎の大徳寺に四ヶ月も足止めさせたうえで出迎えるとき、宴席の料理を任せられた利休が策士ぶりをみせる。その結果、朝鮮王国は沿岸警備がおろそかになり、利休切腹後だが、秀吉は朝鮮に出兵することができた。


野菊は利休切腹の前年1590年9月23日、秀吉は思いのままにならないのは利休だけだ、なんとか一泡吹かせたいと考え、利休に京・聚楽第・四畳半で茶嫌いの黒田官兵衛に茶の接待をさせる。官兵衛は、利休の茶の臨機応変さは軍略の錬磨にも通じる、利休に手ほどきを受けたいと話し、秀吉は利休への敗北感をつよめる展開が語られる。  続く
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