yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

調査報告「台湾・大渓老街の街並み空間と生活」

2015年06月29日 | studywork

1997 「台湾・大渓老街の街並み空間と生活」 民俗建築118号  <台湾を行く> 

 1992年ごろ、台湾留学生の案内で台湾を訪ねた。そのとき、三峡老街と呼ばれる歴史的な街並みを見学し、独特な街並みに驚かされた。
 街並みは、間口5m前後で、奥行きの平均30mの敷地が短冊状に並び、通り側にはヨーロッパを思わせる外観の亭仔脚というアーケードが設けられていて、通り側から店-中庭-神明庁・部屋-中庭-部屋-裏庭と並ぶ間取りが通りに沿って連続していた。
 この特異な歴史的な街並みがつくられた背景、住み方の特徴や工夫、保全の考えなどを知りたくなり、1994年に現地調査を行った。短冊状の住まいに対する不満は少なくなく、台北市に比較的近いことからマンションなどへの建て替えたいとの希望を感じた。街並み保存を訴える人もいて、私たちの他に類を見ない歴史遺産であり、現代的な住み方を導入した改修で街並みの保全ができるとした私たちの調査結果の効果が期待されたが、その後再開発されてしまった。

 三峡形成の背景には樟脳集積地+舟運の便があったが、同じように樟脳集積地+舟運の便に恵まれた大渓老街という街が台北市から南西に30kmほどに位置していることを知り、1997年に現地調査を行った。
 大渓は、19世紀初頭大財閥林源一一族が居を構えてから街の基本形ができ、19世紀末の日本統治下で街が整備され、樟脳生産が拡大した。
 街並みは三峡と同じく短冊状の敷地割りを基本とし、間口は4.5m、5.4mが多く(林家の間口は20.7m)、奥行きは最小8mほど、最大58mほど、おおむね27mであった。
 街屋は三峡と同じで、平屋、隔壁は隣戸と共有し、道路側から、ヨーロッパを思わせる外観の亭仔脚(アーケード)-店-中庭-神明庁+房間(=部屋)-中庭-房間(-奥行きが長い場合は裏庭)と並ぶ。亭仔客は私有地を共用(通行、商い、団らん)している。中庭は通風・採光空間として機能した。

 調査時点では、ほぼすべての街屋が人工照明、空調機を導入して面積の増大を図っていて、道路側から亭仔客-店-中庭に代わって店面積を増やす-神明庁+部屋-中庭に代わってトイレ・洗面・シャワー室+台所・食堂-部屋-裏庭に代わって部屋+倉庫と改造されていた。
 こうした改造が功を奏して、街並み保存意識は強く、伝統的な外観は観光資源として保存され、大勢の観光客で賑わっていた。
 暮らしやすさをいかに演出するかによって、街並み保存が可能になることを実感した。

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斜め読み「どろぼうの神様」

2015年06月25日 | 斜読

b398 どろぼうの神さま コルネーリア・フンケ WAVE出版 2002  <斜読・海外の作家index
 ヴェネツィアを舞台にした本を探していて見つけた。図書館の児童コーナーに配架されていて、文字も大きく、漢字にはルビが付くなど、小学校高学年向けの本のようだ。パラパラめくって拾い読みしたらけっこう興味を引いたので、借りて読み通した。
 読み始めて展開がとんとん拍子で調子よすぎるし、後半に出でてくるメリーゴーラウンドは現実離れし過ぎていたが、逆に自分の子どものころはこんな本に夢中になったのを思いだし、童心に返ったつもりで楽しく読んだ。
 最近、本離れがしばしば話題になるが、子どもが夢中になる目線で本を選んであげることが大事なのに、教育的?な見地から本を絞りすぎ、夢中になる本、興奮するおもしろい本を排除しすぎているのではないだろうか。もっと子どもを信頼すべきだと思う。

 子ども向けとはいえ、舞台となるヴェネツィア本島の地理、ヴェネツィアの冬の気候、たぶん戦後の復興期?の街並み、ヴェネツィア人の考え方や衣類、食べ物や飲み物などがていねいに描写されているから、ヴェネツィア理解の助けになる。滞在型ヴェネツィアの旅を考えている方にはおすすめである。滞在中に読めば、ヴェネツィア本島の様子が手に取るように分かるし、ほほえましい展開に気分が明るくなると思う。
 原題のタイトルはドイツ語Herr der Diebe=どろぼう様で、これからも推察できるが、著者はドレスデン生まれ、ハンブルク在住のドイツ人である。上に書いたヴェネツィア流はドイツ人から見たヴェネツィアかも知れないが、ドイツ人だからヴェネツィア流の観察に優れていたとも思える。

 タイトルのどろぼうの神さま=スピキオは主役ではあるが主人公ではない。著者は、ドイツ生まれのプロスパーと弟ボーを中心に物語を展開させている。この2人の兄弟の母が亡くなり・・父はいなかったようだ・・エスター叔母さん夫婦がボーだけを引き取り、プロスパーを施設に預けようとしたところ、兄弟が離ればなれになるのをいやがって、2人は母がいつも口癖にしていたヴェネツィアに逃げ込んでしまった。
 食べるのにも困っていた兄弟は、どろぼうの神さまスピキオと巡り会い、施設を嫌って逃げ出したらしい男の子リッチオとモスカ2人と女の子ヴェスペとともに、閉鎖された映画館に隠れ住むようになる。
 スピキオがリーダー格で、どろぼうしてきた品をリッチオとモスカが、バルバロッサという表向きは観光客相手の骨董品売り=裏では盗品買いに売り、暮らしの足しにしていた。

 ドイツのエスター叔母さん夫婦は、死んだ母の口癖のヴェネツィアにやって来て、イギリス出身の私立探偵ヴィクトールにボー探しを依頼する。ヴィクトールは、ヴェネツィア人なら一日に一度は必ず通るサン・マルコ広場で見張りをし、ボーたちを見つけるが、いち早く気づいたみんな水上バスヴァポレットに乗り込み、逃げてしまう。
 ヴィクトールは変装がうまく、またもサン・マルコ広場で張り込み、ついにボーはだまされ、つかまってしまう。

 話が前後するが、スキピオにどろぼうの依頼が来る。サン・マルコ寺院のざんげ室で伯爵から依頼されたどろぼうは、スパヴェント婦人が持っている木のつばさだった。引き受けたみんなはスパヴェント邸に忍び込み木のつばさを発見するが、スパヴェント婦人に見つかってしまう。
 どろぼうのいきさつを白状したところ、スパヴェント婦人がメリーゴーラウンドの伝説を話し、仲間になると言い出す。スパヴェント婦人によれば、メリーゴーラウンドには、一角獣、人魚、水の精、タツノオトシゴ、そしてつばさのあるライオンが並んでいて、どれかにまたがり、回転させると、乗り物によって年を取ったり若返ったりするそうだ。

 また話が前後するが、スキピオはヴェネツィアではよく知られた豪邸に住むマッシモ氏の一人息子だった。スキピオは、いつまでも子ども扱いしスキピオの希望をまったく受け入れてくれない父に反抗し、いつか家を出ようと決心していた。そのためにも早く大人になりたいと願っていた。
 一方、木のつばさのどろぼうを依頼した伯爵は、メリーゴーラウンドのライオンに行方不明になっていた木のつばさを取り付けてメリーゴーランドを修復させ、若返ろうと願っていた。
 どろぼうの仲立ちをした悪徳仲買人のバルバロッサはメリーゴーラウンドの秘密を知り、若返ろうと考えたらしい。あるいはこれで金儲けをしようと企んだのかも知れない。伯爵の住む島に乗り込んでくる。メリーゴーラウンドを巡る三者三様の思惑が絡んでいく。

 またまた話が前後するが、リッチオとモスカはヴィクトールからスキピオは本当はどろぼうではなく大金持ちの息子であることを知らされ、裏切り者スキピオと仲違いする。
 さらに映画館が隠れ家だったことが露見し、行き先を失ったみんなは仲間になったスパヴェント婦人に助けられる。エスター叔母さんに引き渡されたボーは大騒ぎをして、ついにエスター叔母さんは引き取ることをあきらめる。
 こうした子どもたちの成り行きが一方の軸になり、メリーゴーラウンドの思惑と絡み合いながら、大団円に向かっていく。どんな結末になるか?。
 子ども向け人形劇を見ているような展開がいい。きっと子どもたちは大いに冒険心を募らせながら、ボーに同情したり、探偵との鬼ごっこや木のつばさのどろぼう、伯爵の住む島への侵入などではらはらするのではないだろうか。 (2015.6)

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ヴェネツィア=ゴンドラに乗り、カンツォーネを聴き、イカ墨スパゲッティを食べ、99mの鐘楼に上る・・

2015年06月23日 | 旅行

イタリア紀行2004-33 イタリア5日目 ゴンドラ カンツォーネ イカ墨スパゲッティ 鐘楼 サン・マルコ大聖堂 聖テオドーロ 聖マルコ/2015.6記
 かつてのゴンドラは喫水線が深かったり、色とりどりだったり、船室があったりと自由につくられたらしいが、ヴェネツィア経済の減衰に伴って倹約が奨励され、いまのように黒色で、船室を備えない、喫水線の浅いゴンドラに統一されたらしい。黒色の船体に舳先が鋭く伸び上がっているから、精かんな感じがする。
 ゴンドリエーレの巧みなさばきで小運河から大運河に出る。両岸にはゴシック様式、ルネサンス様式をまとった貴族の館が並ぶ。
 小運河に戻ると、ゴンドリエーレが歌を披露してくれた。かつてアメリカの観光客がゴンドリエーレにナポリ民謡を希望し、それが定着したそうで、通常はゴンドラセレナーデというらしいが、日本人はカンツォーネ(イタリアでは単に歌を指すらしい)=ナポリ民謡と信じて疑わないらしい。日本民謡をサービスしてくれ、ゴンドラ体験終了。
 昼食はヴェネツィア名物のイカ墨。栄養価も高く、味もいい。ただし、量が多い。前菜に山盛りのイカ墨スパゲティ、メインに白身魚のムニエル、デザートで食べ過ぎた。
 午後は自由行動なので、まずは鐘楼に上った。99mの高さ、ビルなら33階に相当する。ありがたいことにエレベータで上れた。鐘楼はもともとは見張り台だったそうで、音色の違う5つの鐘が備えられ、上院開会、議員召集、正午、処刑、始業と終業を知らせたそうだ。非常事態には全部が打ち鳴らされたかも知れない。
 鐘楼からは街なかも埠頭も丸見えである。いまは赤茶色の屋根瓦に染まった街並みとその向こうの運河、海の風景を楽しむことができるが、見張り台だったころは敵に防衛体制が露見してしまうから、許可された者しか上れなかったそうだ。
 サン・マルコ大聖堂を見下ろすと、ギリシャ十字平面のクロス・ドーム形式で、交叉部に大ドームを載せ、十字の四方にもドームを載せた構造が手に取るように分かる。こうしたつくり方はローマ・カトリックの聖堂とは異なっている。ヴェネツィアは建国のころ、ビザンティン帝国領だったから、ビザンティン帝国の聖堂をモデルにしたらしい。
 当初の守護聖人もギリシャ系の聖テオドーロだった。テオドーロは古代ローマの兵士で、キリスト教に帰依しローマ軍に逆らったため殉教したそうだ。ところが、ヴェネツィアが国力を蓄え、他国と競い合うようになって、聖テオドーロでは心許ないと思ったのか、聖マルコの遺骸を盗み出すことに成功し、以来、守護聖人は聖マルコとなった。
 これがヴェネツィア流の生き方らしい。

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ドゥカーレ宮殿大評議会の間=サッカーコート半分の大空間+ティントレットの油絵「天国」に圧倒される

2015年06月21日 | 旅行

イタリア紀行2004-32 イタリア5日目 ドゥカーレ宮殿・羅針盤の間 大評議会の間 リアルト橋 ゴンドラ/2015.6記
 2004年3月13日、ドゥカーレ宮殿の見学で最後に入った大評議会の間は圧巻だった。まず驚かされるのが大空間。間口26m、奥行き52m、高さ13mである。子どものころ100mを走らされたから100mは想像できよう。その半分が部屋の奥行きで、その半分が間口である。まだ想像しにくい方は、サッカーコートの最小が90m×45mだから、コートの半分の大きさと思えばいい。
 しかも天井は、ビルなら4階建ての高さより高い13mである。その大空間が柱なしであるから、驚かされる。船底を逆さにしたようなつくり方だそうで、ここにも造船技術が応用されている。
 その部屋の壁、天井は、金箔の縁飾りと余すところなく描かれた油絵で埋め尽くされているから、部屋に入ったとたん飲み込まれるような気分になる。とりわけ、総督ドージェの席のうしろの壁画は、高さ7m、幅22mのティントレットによる「天国」で、イエス、マリア、聖人、天使、人、人がひしめいていて、見ていると吸い込まれそうになる。
 私の見学のときは写真撮影禁止だったが、たとえ写真撮影が許されたとしても、写真を撮るのを忘れてしまうほど、圧倒される空間だった。
 この部屋には全評議員2000人以上を収容することができたそうだ。ドージェは2000人の熱のこもった発言をまとめ上げなければならない。ときには政策の失敗を糾弾されるかも知れない。その2000人を圧倒し、リードするにはこのぐらいの仕掛けが必要だったのかも知れない。
 中庭に出たときは、深呼吸したくなった。
 ドゥカーレ宮殿見学のあとは、リアルト橋に向かった。このあたりが地理的にも、経済的にも、賑わいていどもヴェネツィア本島の中心になる。
 最初の橋は、大型の帆船でも通れるように中央が跳ね上げられる木造の跳ね橋だったらしい。倒壊したり火災に遭ったりしたため16世紀に石造の橋の設計が公募された。ミケランジェロも応募したそうだが落選・・システィーナ礼拝堂の「最後の晩餐」やサン・ピエトロ大聖堂のドームなどで、とても手が回らなかったと思うが・・。
 採用されたのはポンテの案、ポンテはイタリア語で橋のことだから、橋という人の橋のデザインが採用されたことになる。そのデザインはなかなかユニークで、歩道が両端と真ん中にあり、歩道に挟まれて2本のアーケード商店街が設けられている。この独特なデザインがさらに賑わいをつくり出したようだ。

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イタリア紀行2004-31 ドゥカーレ宮殿はヴェネツィア派の名作の展示場

2015年06月18日 | 旅行

イタリア紀行2004-31 イタリア5日目 四つ扉の間 ティツィアーノ 謁見の間 ベロネーゼ 元老院の間 ティントレット 10人委員会の間/2015.6記
 2004年3月13日、ガイドの案内でドゥカーレ宮殿を見学する。そのころは内部の写真撮影は禁止だった。メモだけでは部屋の様子や天井画、壁画を思い出せないが、最近はストロボ無しであれば写真撮影ができるらしく、インターネットを検索すると内部の写真が公開されている。百聞は一見にしかず、写真が引き金になり、けっこう鮮明な記憶が蘇ってくる。
 四つ扉の間は折り上げ天井で、しっくいに大理石のくずを混ぜた白のレリーフと縁取りで飾られていて、縁取りのなかにはティントレットのフレスコ画、壁はティツィアーノによる巨大な油絵が描かれている。
 ヴェネツィアは海に浮かぶ人工島で、湿気が多く、フレスコ画には向かないため、フレスコ画は少なく、油絵が多いそうだ。
 ティツィアーノの絵は「祈りを捧げるグリマーニ総督」で、中央に十字架を持つマリア、左に獅子を従えた聖マルコ、右に祈りを捧げる総督が描かれていて、この部屋に招かれた客人は、豪華な室内装飾と巨大な力作に圧倒されてしまうに違いない。
 四つ扉の間で待たされた客は次の謁見の間に通される。この部屋は四つ扉の間と違い金箔で仕上げられていて、その豪華絢爛にさらに圧倒される。天井、壁面ともにベロネーゼによる聖書をテーマにした油絵で埋められている。正面壁の画題は「レパントの勝利をキリストに感謝するヴェニエール総督」である。イスラム艦隊に勝利した歓声が聞こえるようだ。
 この部屋の天井は吊り構造だそうだ。船を造る技術の応用らしいが、吊り天井といえば江戸時代の宇都宮城吊り天井を連想する。結果的には失敗となったが、将軍暗殺の仕掛けである。ヴェネツィアでも国の存亡にかかわる交渉が決裂したとき吊り天井で敵を謀殺しようとしたのかも知れない。
 続いて元老院の間に入った。席は122名分ほどだったから選ばれた元老院議員が政策などを議論、決定する部屋だったようだ。この部屋も金箔で飾られていて、天井画、壁画ともにティントレットである。
 次は10人委員会の間である。治安維持、国家安全、外交にあたる組織である。この部屋も金箔で飾られ、天井にはベロネーゼの「総督に帽子を贈るユノー」の絵が描かれていたが、ナポレオンがヴェネツィアに進駐したとき、この天井画を気に入り、持ち去ったそうだ。以来、本物はルーブル美術館にあり、この部屋にはコピーが飾られている。本物は本来の場所にあるべきだと思うが。

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