yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2024.6東京 清澄庭園・小石川後楽園で花菖蒲

2024年07月19日 | 旅行

日本を歩く>  2024.6東京 清澄庭園・小石川後楽園で花菖蒲を見る

 6月初旬、花菖蒲が見ごろになった。websiteで調べると、都立庭園の清澄庭園で「花菖蒲と遊ぶ」、小石川後楽園で「花菖蒲を楽しむ」が催されていた。土日には伝統音楽などの催し物もあるらしいが、混雑を避けて平日に訪ねた。
 東京メトロ半蔵門線・清澄白河駅で下りる。地上に出ると、向こうに庭園らしい緑地が見え、2~3分で庭園入口に着いた。65歳以上70円で入園する。
 紀伊国屋文左衛門の屋敷跡?が、享保年間(1716~1736)、下総国・関宿藩主久世家の下屋敷になり、庭園が作られた(関宿は利根川舟運の要衝で、徳川家の信任の厚い者が関宿藩主に任じられた)。
 明治維新、廃藩置県後の1878年、岩崎弥太郎がこの屋敷地を含む土地を取得して社員の慰安、貴賓の招待のための造園を行う。隅田川の水を引いた大泉水、富士山などの築山に全国から取り寄せた名石を配した回遊式林泉庭園が完成するが、1923年に関東大震災の被害を受けた。翌1924年、被害の小さかった東半分が東京市に寄付され、復旧整備されて、1932年、清澄庭園として開園された。
  庭園は東西200m、南北250m、広さ37,000㎡ほどで、大泉水と呼ばれる大きな池の周りに緑地が配され、散策路が設けられている。
 入口を入ってすぐの緑地に伊豆川石が置かれている(写真)。石には疎いから見ただけではどこの産だとか、どんな種類だとか、どのように鑑賞するのか分からない。運ぶのが大変だっただろうとか、どことなく蛙に見えるなどと思いながら通り過ぎる。ほかにも石が配置されていて産地などが記されていたが、どれも眺めて通り過ぎた。

 大泉水に出る。風景が広がる(次頁写真)。写真右手の池に突き出た青い屋根の建物は涼亭と呼ばれる。1909年、国賓として来日した英国のサッチャー元帥を迎えるために建てられた。1985年に全面改装工事を施し、いまは集会場として利用されている。
 写真中央の築山は富士山と呼ばれる。視点が変わるので風景の変化が楽しめそうである。
 池まで下りると磯渡りと呼ばれる石が並べられていて、水の景色を身近に感じながら歩くことができるようになっている(写真)。踏み面が小さく足下に神経が集中するので水の景色まで気が回らなかった。

 大泉水の西の遊歩道を南に歩き、大泉水を東に回り込んで自由広場を抜けると、花菖蒲園に出る。350株ほどの花菖蒲が水辺に沿って植えられていて、白色、薄い紫色、薄い青色の花を咲かせ(写真)、涼しげな景色を見せている。行きつ戻りつ、しばし花菖蒲を眺める。
 同好会の人たちだろうか、自由広場に一画に集まり、持参の茶などを飲みながら、撮影した花菖蒲の写真を談義していた。

 花菖蒲が途切れた少し先に「古池や かはづ飛び込む 水の音」の句碑が置かれている(次頁写真)。この句は、松尾芭蕉が1685年、隅田川沿いの芭蕉庵で弟子たちと詠んだうちの一句とされる。芭蕉庵は清澄庭園から400mほどと近い。句碑は1934年に建てられたが、芭蕉庵改修の際、敷地が狭かったので東京市に願い出て清澄庭園に移したそうだ。花菖蒲園の風情からは蛙がいてもおかしくないから、あわせて古池も掘っておけば「古池や 蛙飛び込む 水の音」の風景を想像できそうである。
 自由広場を東に歩き、富士山に登り、大泉水東の遊歩道を北に歩いて出入口に戻った。
 東西200m、南北250mのほとんどを大泉水が占めているので、花菖蒲鑑賞を含めても散策は物足りなく感じた。
 清澄庭園を出て食事処を探しながら駅に向かった。駅の少し先に小ぎれいな寿司屋があり、のぞくと満席だったが、ちょうど席が空いた。カウンターでは外国人家族が寿司を握ってもらっていた。にぎり寿司ランチセットは1430円と廉価、ネタは新鮮で美味しかった。人気の店なのかも知れない。

 清澄白河駅から都営大江戸線に乗り、飯田橋駅で下りる。2~3分歩くと小石川後楽園西門(写真)に着く。65歳以上150円で入園する。
 1629年、水戸徳川家初代頼房がここに中屋敷をつくって造園を始め(1657年の明暦の大火後に上屋敷)、2代光圀(1628-1701)が庭園を完成させた。後楽園は光圀の命名で、中国の岳陽楼記に書かれた「天下の憂いに先じて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」に由来する。光圀の思想がうかがえる。
 東西、南北とも300m強、広さは70,847㎡で、神田上水から水を引いた大泉水を中心に、築山を築き、川、滝を設け、稲田、花菖蒲田、蓮田、梅林も作っていて、変化に富んだ回遊式築山泉水庭園になっている。のちの大名屋敷庭園の手本になったようで、清澄庭園も規模は小さいが後楽園を手本に造園されたと思える。

 西門から西湖の堤を眺めながら渡月橋を渡り、屏風岩の横の坂を上る。通天橋を渡ると林が深くなり、光圀が史記を読んで感銘を受け、伯夷、叔斉の木像を安置した得仁堂を過ぎる(写真web転載)。
 小石川後楽園は何度か来ているので、今回は円月橋、神田上水跡、愛宕坂などは行かず、坂を下って大泉水に出る(写真)。写真中央の蓬莱島を見ながら、池に沿って歩くと松原が広がり、松原の北に花菖蒲田(写真)、稲田が作られている。
 花菖蒲田には700株ほどの花菖蒲が面に広がっているので、白色、薄い紫色、薄い青色が遠くまで入り乱れ、見応えがある。花菖蒲の時期には観賞用の木道も設置され、ベビーカーや車いすからも花菖蒲に近づいて眺めることができる。花菖蒲は色合いが淡いせいか風景が静かで、眺めていると気持ちが静まってくる。

 花菖蒲田の北奥は梅林があるが時期ではないのでパスし、松原から大泉水に沿って南に歩き、唐門を目指す。水戸徳川家の上屋敷(当初は中屋敷)は小石川後楽園の東、現在の東京ドームあたりにあったらしい。上屋敷の西の内庭を通り、唐門を抜け、後楽園に入る配置だったようだ。唐門は、光圀が後楽園の造園を完成させた1669年ごろの建造と推定されるが、戦災で焼失し、写真、資料などをもとに2020年に復元された(写真)。これまでの入園では復元工事中だったので、見るのは初めてである。
 徳川御三家の風格を表す華麗な作りである。扁額の後楽園も同時に復元されたそうだ。
 唐門は閉じているので脇を抜けると、大きな池が広がる。池は睡蓮で埋め尽くされ、昼下がりなのに時を忘れた花がポツン、ポツンと咲き誇っていた(写真)。
 水辺の風景に真っ白い蓮、清々しい気分になる。

 小石川後楽園東口から出て、JR総武線水道橋駅に向かう。5分ほどで着いた。総武線を利用するのは久しぶりである。秋葉原駅の乗換では人の流れに合わせながら上野方面に下る。秋葉原駅周辺の再開発はめざましいが、総武線、山の手線、京浜東北線の様子は記憶のままだった。  (2024.7)

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2024.6 熱海五郎一座を観る

2024年07月12日 | 旅行

日本を歩く>  2024.6東京新橋演舞場 熱海五郎一座を観る

 新橋演舞場で熱海五郎一座の「スマイル フォーエバー ちょいワル淑女と愛の魔法」、6月2日~6月27日に公演されるのを見つけ、初日に近い昼の部の席を予約して出かけた(ポスターweb転載)。
 伊東四朗(86)が「伊東四朗一座」を2004年に興し?、2006年に三宅裕司(73)に座長を譲り、伊東温泉の次は熱海温泉、四郎の次は五郎だから「熱海五郎一座」と名づけた、ということをどこかで聞いた。劇団名まで喜劇的である。

 出演は伊東四朗、三宅裕司、松下由樹、渡辺正行、ラサール・石井、小倉久寛、春風亭昇太、東貴博、劇団スーパー・エキセントリック・シアターで、熱海五郎一座にテレビでおなじみの顔ぶれが加わり喜劇を盛り上げていた。

 幕が上がると、銀行のATMで振り込みをしようとする老人・小倉久寛に気づいた伊藤四郎が振り込み詐欺ではないかと話しかける・・年寄りの振り込み詐欺をネタにしたドタバタ・・。
 そこに都知事に扮する松下由樹と娘が出てくる。続いて2人連れの銀行強盗が拳銃をちらつかせながら現れ、SPともめて拳銃を撃つ。伊東四朗は魔法使いで、時間を止め拳銃の弾の向きを変えるが時間を戻した瞬間、弾が跳ね返って伊東四朗の足にあたり、苦悶する伊東四朗の形相を見た知事の娘は言葉と笑いを失ってしまう。
 伊東四朗は自分のせいで娘が声と笑いを失ったことを自責し、(後半で伊東四朗の初恋の相手が松下由樹の母だったこと、その娘である松下由樹を陰に隠れて見守ってきたことが明かされる)、卒業した魔法学校に入り直して高度な魔法を学ぼうとする・・ハリー・ポッターを下敷きにした魔法学校でのドタバタに舞台は移る・・。

 伊東四朗が入学し直した魔法学校定時制の教師が三宅裕司、クラスメートに渡辺正行、春風亭昇太、小倉久寛らがいて、ドタバタが演じられる。
 魔法学校には全日制もあり、全日制が定時制を小馬鹿にするが、やがて言葉と笑いを失った娘のために勉強し直そうという老人の願いを知り、一致団結していく。
 声と笑いを取り戻す魔法にはたいへんなエネルギーを使うため、年寄りの命取りになる危険性もありみんなが心配するが、伊東四朗は命と引き替えでも笑いを取り戻したいと魔法に励む。
 
 敏腕刑事役の深沢邦之と定年後に再雇用された刑事役のラサール石井が、強盗犯を追いながらも、魔法使いの正体を暴こうとするドタバタも挿入される。
 松下由樹都知事室に、老練なSP役の渡辺正行、秘書役の三宅裕司、弁護士役の春風亭昇太、占い師小倉久寛が出たり入ったりする。魔法学校では先生、生徒なので都知事室の表の顔と魔法学校の裏の顔が錯綜したドタバタが演じられる。
 松下由樹都知事はもともと都政に真面目に取り組んでいたが、占い師の怪しげな霊感に惑わされて占い師の言いなりに税金を浪費し、占い師に貢いでいた。
 松下由樹が占い師に惑わされていることに気づいた伊東四朗が動く。魔法学校の先生、生徒、全日制の生徒が動く。刑事も動く。伊東四朗が松下由樹の母への思いを語り、松下由樹が改心し、占い師が観念し、伊東四朗が愛の魔法をかけて娘が声と笑いを取り戻す。
 ドタバタ、ドタバタ、めでたし、めでたし。
 全員が勢揃いし、舞台裏でのエピソードを披露、万雷の拍手のなか、幕が下りる。 
 たまには喜劇で気分転換もいいね。  (2024.7)

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2024.5 皇居三の丸尚蔵館を歩く

2024年07月03日 | 旅行

日本を歩く>  2024.5 皇居三の丸尚蔵館を歩く

 2024年1月に京都・相国寺承天閣美術館伊藤若冲筆の「動植綵絵」30幅などをじっくり見た(紀行文未稿)。実物は宮内省に寄贈されていて、30幅は精密なコロタイプ複製だが写真撮影は禁止である。宮内省に寄贈された実物は国宝として皇居三の丸尚蔵館に収蔵されている。(伊藤若冲についてはHP斜読・河治和香著「book561 遊戯神通 伊藤若冲」参照)
 帰宅後、皇居三の丸尚蔵館で2023年11~12月に皇室のみやび第1期・動植綵絵・老松白鳳図など4幅の公開が終わり、2024年5~6月に第4期・動植綵絵・老松孔雀図などの4幅が公開されるのを知った(ポスター転載)。皇居三の丸尚蔵館は、75歳以上は無料だがオンラインによる日時指定制なので、オンラインで第4期の希望日時を予約し、出かけた。
 三の丸尚蔵館は、皇室に代々受け継がれてきた美術品が1989年に国に寄贈されたので、収蔵美術品の保存、研究、公開を目的として1993年に皇居東御苑内に開館した。尚蔵は、古代律令制において蔵司の長官を指し大切に保管するという意味であり、旧江戸城三の丸に建設されたことから三の丸尚蔵館と名づけられ、一般に公開されてきた。2019年から収蔵庫、展示室を拡充するなどのために新たな施設の建設が進められていて、全館開館は2026年だが、2023年に一部が開館した。入館は初めてである。

 JR東京駅丸の内中央口で下りる。三の丸尚蔵館は大手門から入るので丸の内北口の方が近いが、辰野金吾設計の東京駅を背にして、丸ビル、新丸ビルのあいだを抜ける皇居前東京停車場線=都道404号を見はるかすと、かなたに無血開城で明治維新を迎えた江戸城=皇居を望むことができる。260年続いた徳川幕府を思うもよし、明治維新を思うもよし、辰野金吾の東京駅を思うもよし(辰野金吾についてはHP斜読・門井慶喜著「book553東京 始まる」参照)、丸の内オフィス街の変遷を思うもよし。私には、大学時代、O設計部のアルバイトで丸の内に日参した遠い記憶が重なる。
 皇居前東京停車場線を皇居に向かって西に進み、日比谷通りを渡ると堅固な江戸城の石垣が現れる(写真)。左の壕は馬場先壕、右は和田倉壕と呼ばれる。
 さらに西に進み、皇居前広場で左=北に折れると、桔梗壕の先に大手門が見える。大手門で手荷物検査の列に並ぶ(写真)。外国人観光客も多い。

 江戸城は徳川家康の命で藤堂高虎が縄張りし、天下普請で修築、増築が進められた。大手門は1607年に藤堂高虎によって作られた高麗門形式だが、1657年の明暦の大火で焼失し、1659年に再建された(写真正面、藤堂高虎についてはHP斜読・火阪雅志著「book478 虎の城」参照)。
 大手門の右奥に渡櫓が見える。1620年、伊達政宗、酒井忠世によって枡形形式に渡櫓が作られたが、明暦の大火で焼失し、大手門と同じく1659年に再建されたようだが、1945年の空襲で焼失し、1965年から始まった復元工事で渡櫓が再建され(前頁左写真)、大手門も修復された。大手門を入ると枡形の右手にが展示されている(前頁右写真)。刻印から1659年の再建時の鯱と推定されている。

 渡櫓の先に三の丸尚蔵館が建つ。手前側は工事用仮囲いで、2026年完成を目指し工事が進められている。奥が開館中の尚蔵館で、同時間の予約組がすでに列を作っている。外国人も少なくない。入館時間は予約制だが退館は自由なので、感激で満ち足りた人がパラパラと出てくる。期待が高まる。予約時間になり、スタッフの案内で入館し受付で予約QRコードをかざす。不要な持ち物はロッカーに預け、奥の展示室2に入る。
 前掲ポスターに取り上げられた伊藤若冲(1716-1800)筆の国宝「動植綵絵・老松孔雀図」を始め、「芙蓉双鶏図(左写真)・蓮池遊魚図・諸魚図」が目を奪う。
 離れてみると鳥や魚が動いているように感じるし、近寄ると細かな筆裁き、立体感を感じさせる描き方に驚かされる。実物の国宝だが、写真撮影可なので記憶と記録のために写真を撮ったが、およそ143cm×80cm×4幅の迫力を写しとることことはできない。4幅を行ったり来たり離れたり近づいたり何度も鑑賞する。
 諸魚図には足を伸ばして気持ちよく泳ぐ蛸が描かれているが、蛸の足に子蛸がしがみついている。伊藤若冲はユーモアたっぷりにほほえましい蛸の親子を描いている。観ている私も楽しくなる。

 酒井抱一(1761-1829)筆・花鳥十二ヶ月図のうちの二月・菜の花雀、三月桜雉子、十月柿小禽、十一月芦に白鷺(前頁右写真)が展示されている。抱一の風景描写は巧みである。
 展示室2は小さな矩形の部屋なので、作品を身近に鑑賞できる。

 展示室1に移る。展示室2の倍ほどの大きさで、入った早々、金地に並ぶ獅子が睨みつける。国宝・唐獅子図屏風で右隻が狩野永徳(1543-1590、上写真)、左隻が狩野常信(1636-1713、永徳の次男・隆信の子が探幽、探幽の弟が尚信、尚信の子が常信)である。左隻の獅子と右隻の獅子はともに威厳を見せつけるが、左隻・永徳の方が迫力を感じる。とはいえ、6曲1双に描かれた金地の獅子はいまにも動き出しそうに勢いがいい。
 横山大観筆6曲1双の「朝陽霊峰」、17世紀の8曲1双の「萬国絵図屏風」も目を引くが、並河靖之作「七宝四季花鳥図花瓶」(中写真)、戸島光孚ほか作「双鶏置物」、高島屋呉服店作「閑庭鳴鶴・九重ノ庭之図刺繍屏風」(下写真一部)に驚かされる。人間の技は限りなく研ぎすまされていくようだ。

 展示室1・2あわせ14点の展示だったが、類い希な名品に接し感嘆の連続だった。展示が多すぎると記憶が混濁し、感動が薄れてしまう。14点でも感嘆で息切れしそうだった。スタッフにお礼を言い、次の展示予定を聞くなどして尚蔵館を出る。

 三の丸尚蔵館は東御苑の東寄りに位置する。東御苑を散策することにして、尚蔵館を出て西に歩き、同心番所あたりで北に折れ、二の丸庭園を歩く(写真)。東御苑は無料開放されているので、散策する人が多い。軽装で家族連れの外国人もいる。東京に住んでいるのであろうか。二の丸庭園は菖蒲には早いが、水辺は清々しい。
 二の丸庭園から都道府県の木を植えた散策路を抜け、汐見坂を上って本丸に上る。今日は日射しが強い。芝生の本丸は日陰がないので人は少ないが、天守台に上る人は多い(写真)。高いところに上ろうとするのは人間の習性のようだ。

 徳川家康が築かせた天守は東御苑の西、富士見多聞辺りのようだ。黒田官兵衛の子・黒田長政が築城を担当し、1606年に完成した。1622年、徳川2代秀忠は本丸拡張に着手、当初の天守を撤去し、現在の天守台辺りに新たな天守台+天守を築く。1637年、徳川3代家光は秀忠の天守を修築する。屋根に金の鯱を載せた5層6階で、天守台の高さが14m、天守の高さが45m、本丸から見上げると58mの高さを誇ったそうだ。ところが1657年の明暦の大火で本丸御殿も天守も焼失する。
 1658年、加賀藩主・前田綱紀の普請で、堅固な花崗岩を積み上げた天守台が築かれる。これが現在に残る天守台で、東西41m、南北45m、高さ11mになる。徳川4代家綱に、家光の異母弟で家綱の後見役だった陸奥会津藩主・保科正之は、明暦の大火による被災者の救済、江戸の復興を優先するよう進言、天守再建は見送られる。その後の泰平の世に天守の必要性もなくなり、天守の代用として明暦の大火後に再建された富士見櫓(写真web転載、非公開)が利用された。
 全国の藩も江戸城に倣い、新たな天守の築造を控え、天守を3階櫓などと呼ぶようになった。
 
 天守台に上り、皇居周辺を一望する。天守台の東に、1966年、香淳皇后の還暦記念として建設された桃華楽堂が優美な姿を見せる(写真)。
 外壁はモザイクタイルで大きく羽ばたく鳥、日月星、衣食住、風水火、春夏秋冬、鶴亀、雪月花、楽の音、松竹梅などが表されている。設計は今井兼次(1895-1987)である。ガウディをいち早く日本に紹介し、長崎の日本26聖人記念館など個性的な作品を残している。
 天守台から徳川幕府260年を思うもよし、桃華楽堂から話を一気にサグラダ・ファミリアに飛ばすもよし。天守再建の活動が進められているらしい。天守が再建されれば東京の観光名物が増えそうだが、多額の建設費用を考えれば会津藩主・保科正之の言を再考すべきではないだろうか。天守台を下り、本丸をあとにして東御苑を出る。  (2024.7)

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2024.5埼玉 細川千尋ピアノリサイタルを聴く

2024年06月24日 | 旅行

日本を歩く>  2024.5埼玉 プラザノースで細川千尋ピアノリサイタルを聴く

 さいたま市プラザノースで、恒例の企画である「ウィークデーの午後のひととき、ちょっとしたお出かけ気分でクラシックやジャズを楽しむ、ノース・リラクシング・コンサート」が開かれた。今回は「細川千尋 ピアノリサイタル」である。
 細川千尋は富山県出身で、2013年にスイス・モントルー・ジャズ・フェスティバル・ソロ・ピアノ・コンペティションで日本女性発のファイナリストになったそうだ。音楽に疎いので分からないが、そのフェスティバルはよほどの難関なのであろう、その後、日本を始めスイス、イタリア、ベルギーなどでリサイタルを開催し大好評を得ているようだ。
 話を交えながら
ジョナサン・ラーソン作曲「レント」より「シーズンズ・オブ・ラブ」
細川千尋作曲「パガニーニの主題によるジャズ変奏曲」
アンドリュー・ロイド・ウェーバー作曲「オペラ座の怪人」より「ミュージック・オブ・ザ・ナイト」
細川千尋作曲「Sprit of Blaze」
細川千尋作曲「Espoir」
細川千尋作曲「再生 REBORN」
細川千尋作曲「Thanks!」
 を熱演してくれ、45分間、細川ジャズに包まれた。
 
 ともすると毎日が同じようなリズムの繰り返しになりがちである。45分と短いが、ジャズ演奏の刺激を受けた。
 私が20代に馴染んだジャズとは異なるが、細川氏は音楽が突然閃くそうで、リサイタル直前に閃いた音楽を作曲して演奏することもあるそうだ。熱演の姿からもジャズへの熱い思いが伝わってきた。  (2024.6)

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2024.5東京上野 旧奏楽堂で芸大生による弦楽を聴く

2024年06月23日 | 旅行

日本を歩く>   2024.5東京上野 旧東京音楽学校奏楽堂で弦楽を聴く

 上野恩賜公園の北西、都道452号の南、上野動物園の北隣に東京芸術大学芸術学部、都道の北、東京国立博物館の西隣に東京芸術大学音楽学部がある。学生だった60年ほど前、楽器ケースを抱えた学生に交じり、緊張しながら音楽学部の門を入り、奏楽堂の外観を見た。設計は山口半六(1858-1899、パリ留学)、久留正道(1855-1914、工部大学校3期)で、1890年に竣工した木造2階建ての本格的な音楽ホールだったが、老朽化が話題になっていて、建て替えられるかも知れないからと先輩に見学を勧められて見に行った。奏楽堂では学生が練習中?で、楽器を抱えた学生が出入りしていて、中の見学はためらわれ、外観を見て早々に引き上げた。
 ほどなくホールを含む芸術センターが新築された。旧奏楽堂は保存されることになり、1987年、現在地に復元され、台東区芸術文化財団が管理し、建物公開日が設けられ、定期、不定期にコンサートやイベントが開催されている。
 2020年2月、上野に出かけたとき公開日だったので見学した(写真、2020.2撮影)。遮音効果を高めるため壁や床下に藁や大鋸屑を詰める、などの工夫が紹介されていた。
 ホールは2階に設けられ、客席数は310と小規模だが、ここで瀧廉太郎がピアノを弾き(写真は前庭横のブロンズ像、2020.2撮影)、山田耕筰が歌曲を歌い、三浦環が日本人による初のオペラ公演でデビューを飾ったそうだ。教科書で習う日本の音楽の先駆者がこの奏楽堂から巣立っていったのである。60年ぶりに見学して、奏楽堂の歴史的意義を改めて感じた。

 つい最近、旧東京音楽学校奏楽堂で「芸大生による木曜コンサート」が開かれるのを知った。毎月、邦楽、オペラ、指揮、ピアノ、木管・金管、古楽、作曲、打楽器、声楽、室内楽などが演奏されるようで、「第409回 弦楽」を事前にwebで予約し、聴きに行った。
 舞台にはコントラバスが20ほど並んでいて(写真)、大合奏でもするのかと思ってしまったが、最後の演奏では舞台には並べきれないコントラバスを客席に運び、全員が熱演してくれ、大いに盛り上がった。
 演奏は東京芸術大学音楽学部器楽科コントラバス専攻の1年~4年(もしかしたら5年とか院生もいたかも知れない)で、曲ごとに少人数の編成で演奏が進んだ。
 14:00に開演し、前半に、D.ランズウィック「犬小屋のシュトラウス」、G.ビゼー「カルメンファンタジー」、T.オズボーン「ピンクエレファント」、A.ピアソラ「タンゴJ'attendsさよならも言わないで、タンゴSaint Louis en L'Ile島の聖ルイ」、M.ラヴェル「亡き女王のためのパヴァーヌ」、F.シューベルト「弦楽四重奏曲第14番死と乙女より第1楽章」、
 休憩を挟んで、F.ビーブル「アヴェ・マリア」、映画メドレー「G.ミラーMoon Light Serenade、F.レイA Man and a Woman、D.エリントンMood Indigo、M.ウエインRamona 、F.シナトラThe Isle of Capri、E.モリコーネNuovo Cinema Paradiso」、E.グリーグ「ホルベルク組曲より第1楽章」、E.エルガー「エニグマ変奏曲よりニムロッド」、The Final Countdown by Europe、リムスキー=コルサコフ「交響組曲シエェラザードより第3楽章」、G.ヴェルディ「歌劇アイーダより4つのコントラバス四重奏のための凱旋行進曲」が演奏された。
 終わったのは16:00を過ぎた。現役の1年生なら18歳、入学して1ヶ月である。先輩後輩がいっしょに切磋琢磨しての演奏会だから、少々のミスは大目に見て全員にエールを贈りたい。
 次世代の滝廉太郎、山田耕筰、三浦環を待ち遠しく思いながら帰宅し、若々しい演奏を思い出しながらワインを傾けた。  (2024.6)

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