yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2016京都を歩く ⑫相国寺は金閣寺、銀閣寺を塔頭とする大本山、塔頭の予習は水上勉著「雁の寺」がお勧め

2016年09月30日 | 旅行

2016年5月 京都を歩く⑫相国寺 総門 足利義満 塔頭 水上勉 雁の寺 鐘楼

 同志社大学正門の横に同志社大学の敷地に挟まれて北に向かう道が通っている。
 この道が相国寺参道につながっている。今出川通からこの道に入った。
 突き当たりに小作りだがプロポーションのいい堂々たる門が待ち構えている。山門=三門かと思ったが、三門跡が別にあるから、これは総門になる。
 相国寺は、1392年、足利三代将軍義満が後小松天皇の勅命を受けて建立した寺である。
 受付でもらったパンフレットには法堂を正面とする通りには勅使門が設けられていて、総門は勅使門の東側に建っている。
 勅使門は通常は閉まっていて、勅使を迎え入れるときだけ開けられる。対して総門は日常の通用に使われる。私たちは勅使ではないし・・勅命も持っていないし・・総門をくぐった。
 当初の総門は消失し、1466年、八代将軍義政が再建したが、その後も焼失・再建を繰り返し、1797年に再建された。それでも、この門は220年の歴史を誇る。
 傘をさしながら早足で参道を進む。左手は低い生け垣で仕切られた松林で、ところどころに空地があり三門跡などのかつての痕跡を伝えている。
 右手には塀が巡っていて、門には玉龍院、光源院の表札が掛けられている。塔頭である。
 塔頭は、弟子が始祖や高僧の徳を慕って寺院内に墓塔を建てたことに始まり、のちに僧侶が庵、小院を設けて坊=住まいとした。
 相国寺のパンフレットには、林光院、普廣院、養源院などの塔頭が書かれていて、相国寺が大勢の僧侶を擁する中心的な存在だったことをうかがわせる。
 パンフレットによれば、金閣寺、銀閣寺をはじめ90余の末寺の大本山と記されている。いつも観光客で賑わっている金閣寺=鹿苑寺銀閣寺=東山慈照寺も相国寺の山外塔頭であり、相国寺の僧侶が任期制で派遣され、管理・運営しているそうだ。
 確か、金閣寺にしろ銀閣寺にしろ、パンフレットには臨済宗相国寺派と明記されていた。人は関心のあることには注意を傾けるが、反面、関心をもたないと目には入っても思索の対象にはならないようだ。人は見たいものしか見ない、は真理をついた名言である。

 作家の水上勉氏(1919-2004)は福井の生まれだが家が貧しかったため、9才のころ、相国寺塔頭・瑞春院に小僧として出される。
 修行に耐えられなかった氏は10代に寺を出て職を転々としながら作家の道を目指す。この紀行文の冒頭にも氏について触れ、座右に「雁の寺・筑前竹人形」を持参したと記した。
 行きの新幹線では読み終えず、京の旅を終えてから読み通した。
 「雁の寺」と、だいぶ前に読んだ「金閣炎上」には氏の体験を元にした相国寺と金閣寺=鹿苑寺などの塔頭の仕組みが細かく説明されている。
 塔頭を擁する寺を訪ねるなら、予習代わりに「雁の寺」「金閣炎上」がお勧めである。
光源院の先の右手の鐘楼は1843年の再建で、1層目を背丈より高い袴腰にして、楼上を鐘楼とした堂々たる風格を見せる(写真)。屋根は入母屋で、プロポーションがいい。
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1985年に訪ねた世界最大の仏教遺跡ボロブドゥール=小山のような遺跡全体が悟りを開く教えの体現だった

2016年09月29日 | 旅行

1985 世界最大の仏教遺跡ボロブドゥール  建築とまちづくり誌連載 1996.7記

 インドネシアは1985年3月、海外踏査を始めて4年目に、駆け足で要所を訪ねた。 成田からデンパサールに入り、始めてのヒンドゥー寺院や分棟形の民家を見て驚かされ、次にジョクジャカルタに飛び、残骸となって放置されていたプランバナンやまだ整備されていなかったボロブドゥールを見てため息をつき、ジャカルタで暑い中、タマンミニを見て多民族国家であることなどを学んだ。
 その後、25年経った2009年12月、バリ島とボロブドゥールに絞り、のんびりとした気分にひたろうと、インドネシアを再訪した。このときの2009年インドネシア紀行は2010年にまとめホームページにアップしてある。
 1985年インドネシアは1996年の建築とまちづくり誌連載にボロブドゥールだけ取り上げた。その紀行文の再掲である。詳しくは2009年インドネシア紀行を参照されたい。

 仏教が始めて起こったのは紀元前5世紀のインド北東部である。現在はネパール領になるタライ高原にルンビニという町があり、ここでシャーキャ族の王妃マーヤーが沐浴しているとき?、休息しているとき?、右脇腹に蓮の花を捧げた白象が入る夢を見て、間もなく仏教の開祖、釈迦が生まれたといわれる。
 釈迦は生まれてすぐに7歩歩き、「天上天下唯我独尊」と唱えたとの伝説もあるが、成人してから悟りを開いたことになっているし、そもそも生まれてすぐに歩くいたり、言葉を話すというのも無理がありそうだから、後世の作り話かも知れない。あるいは、仏教を開くほどの器量、資質が生まれたばかりの釈迦の雰囲気を作りだしていて、周りの人々を感嘆させたのかも知れない。
 釈迦は王子として恵まれて育ったが生まれつき感受性が強く、思慮深さも群を抜いていたようで、29才のとき求道のために出家し、瞑想を重ねてついに真理を悟ることになる。この真理と、真理に至る行いを説いた教えが仏教として当時のインドに広まり、さらに水面に落ちた水滴の波紋が広がっていくように、東南アジア、北アジア、東アジア、そして日本へと広がっていった。
 真理を悟ったときに瞑想していた木がアシュヴァッダで、ここで悟り(ボーディ)を開いたことから中国では悟りの木として菩提樹の漢字をあてた。
 悟りを開くことをサンスクリット語ではブッダというそうで、これに漢字をあて中国では仏陀と呼び、日本では仏陀の字が転用されて彼岸に向かう人をお仏様と呼ぶようになった。シャーキャ族も同じように釈迦の漢字が当てられ、日本ではお釈迦様として花祭りなどで親しまれている。
 裏を返せば、日本など漢字圏の仏教の原点がインドにあることの証明になろう。しかし、インドではその後ヒンドゥー教が隆盛し、仏教は少しずつ衰退していき、さらにイスラム教がインドに侵攻するにあたりすっかり影をひそめてしまった。
 インドの周辺諸国でも同じように、仏教が伝わったあとヒンドゥー教やイスラム教が第二、第三の波紋として広がっていった。漢字圏ではヒンドゥー教もイスラム教も定着しなかったが、インドに近い国々の多くは波紋の力が大きかったせいか、仏教は遺跡を残してすっかり影を潜めてしまった。タイのように国として仏教を信奉するのは希な例である。

 インドネシアも仏教を信奉する人は少なくなり、ヒンドゥー教を信奉する人たちもイスラム教の浸透とともにバリ島に逃れていて、以来、イスラム教が優勢となった。そのため、仏教遺跡やヒンドゥー遺跡は長く土に埋もれてきた。あるいは破壊から守るために土に隠したのかも知れない。そのため、世界最大の仏教遺跡としていまや世界遺産に登録されるほどに知られるボロブドゥールは、建立が9世紀初頭にもかかわらず発見されたのは19世紀初頭である。
 タイのピマイの遺跡はほぼ同時代の建立だが、平坦地にすくっと立ち上がっている。しかし、ボロブドゥールは小山のような巨大な建造物として造られた。
 底辺はおよそ120×120mの正方形で、基壇を含む方形の段が6層、その上に円形の段が3層重なった9層の構成であり、最頂部に釣り鐘型のストゥーパが立ち、高さは42mにもなる。
 素材はいずれも黒色の安山岩で、遠望すると城塞のようにもみえ圧倒するような存在感を示すが、近づくとさまざまな姿態で瞑想にふける仏像が見る人を迎えてくれる。

 上ると一層ごとに回廊が巡っていて、人々が煩悩に苦しむ姿、釈迦の誕生、釈迦の出家、修行や悟りを開く物語が見事な石彫りで展開していく。
 上層には様々な印を結んでいる仏像が安置されていて、悟りの境地が暗示されている。この遺跡全体が悟りを開く教典を体現しているようである。大衆に開かれた仏教を目指したとき、真理と、真理に至る行いがこのような形で具象化されたのではないだろうか。

 当時の信仰の篤さがうかがえるが、同時になぜ衰退したか、疑問も膨らむ。一度真理を悟った人にとっては色即是空、空即是色ということかもしれない。(1985.3現地、1996.7記)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2005年中国・青島の歴史街区に関する調査の結果=中庭形街区はドイツ時代の都市計画だった

2016年09月27日 | studywork

2005 中国・青島歴史街区第2次調査速報   

 2004年から中国・山東省・青島における歴史的街区構成と現代的住志向に関する調査研究を始めた。   
 2005年3月、第1次調査の結果を報告するとともに、歴史街区構成に関する第2次調査を行った。
 以下は5月に記した速報である。

 3月26日は成田発・青島着、青島理工大学のJ教授、S助教授、K助手の出迎えを受け、宿泊先となる青島理工大学の学苑賓館に向かう。
 当日は、調査地の下見のあと、2004年9月の調査結果を報告し、第2次調査の打ち合わせをすすめ、青島都市計画図の入手を依頼した。
 27日は調査対象街区の向陽院の補足調査と他の2街区について配置構成の観察記録、を行った。
 28日は2街区の立面構成、1階の使われ方、周辺街区構成の実測をすすめた。28日は息が白くなるほどの冷え込みとなった。
 29日は別の2街区の配置構成、立面構成、周辺街区の1階の使われ方調査をすすめた。
 30日の午前は野帳の整理を行い、昼に青島理工大学副学長と共同研究の打ち合わせ、午後は青島の歴史的建築の見学、ならびに文献収集を行った。
 31日は野帳整理のうえ荷物をまとめ、空港へ向かったが、なんと、滑走路整備のため、国際便はすべて欠航となり、青島に足止めとなってしまった。翌日便に振り替わったため、その間、野帳整理をすすめ、1日遅れの4月1日に帰国となった。

 調査成果の概要を記す。
 共同研究者・青島理工大学J教授を通じて入手した地図は3点、①1901年10月のドイツによる青島都市図、②1/3000の現況街区図、③1/1000の現況街区詳細図である・この地図入手はその後の解析に大いに役立った・・。
 ドイツ時代の都市図には、南の海沿いにいくつかの建造物が描かれている。そのいくつかは現存し、ホテルや事務所、商社などに使われている。
 いまや観光名所となった船着き場から北にのびる幹線道路の周辺はおよそ100mの街区が描かれているが、当時の都市図には建造物が描かれていない。
 海からおよそ400mのぼった幹線道路の東側に50~80mの街区が構成されていて、ここにはかなりの建造物が描かれている。
 この地区は大鮑島dabaodaoと呼ばれ、2004年9月調査の向陽院街区はこの一角にある。都市図には向陽院の西棟だけが描かれていて、2004年9月調査時の聞き取り=ドイツ時代の1896年ごろに西棟が建てられ、日本時代に東、北、南棟が建てられた、と符合する。

 1901年都市図には、この地区の幹線道路である中山路zhongshanluとこれに平行する東から順に濰県路weixianlu、博山路boshanlu、易州路yizhoulu、芝罘路zhifulu、済寧路jininglu、および中山路zhongshanluに直行する南から四方路sifanglu、海博路haipolu、高密路gaomilu、胶州路jiaozhoulu・・が描かれている。いずれも現況街区図と一致していて、歴史街区構成がいまに残されていることがうかがえる。
 ただし、胶州路jiaozhouluは拡幅されていて、胶州路jiaozhoulu北側の街区はおおむね半分が道路になっている。

 (中略)・・その結果、いずれも街区の四方に4棟が中庭を囲んで建つ里院様式の構成で、1階は洋服、用品などの衣服を筆頭に、食堂、ヘアーサロンなどの店舗として利用され、街区の数カ所に設けられた入口から上階の住居にアクセスする向陽院と同じ形式であることが分かった。
 この様子は現況街区詳細図と見比べてもほぼ一致する。
 ただし、中庭に建つ建築は、向陽院に比しかなり建て詰まっていて、今回の調査では把握できないほどに高密住居をなしていた。
 現況街区詳細図も1/1000のため、高密居住の様子を把握することは難しい。
 向陽院では、当初、労働者のための一種の社宅のように使われ、一部はその後、払い下げられ、現在は、自己住居と貸家が輻輳している。
 ほかの街区でも同じように居住者の実体解明は難しそうである

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2016京都を歩く ⑪新島襄創立の同志社大学でネオ・クラシックのクラーク神学校、アメリカ・ゴシックの礼拝堂を見る

2016年09月26日 | 旅行

2016年5月 京都を歩く ⑪新島襄 同志社大学 クラーク神学校 ネオ・クラシック ハリス理化学研究所 イギリス・ゴシック 礼拝堂 アメリカ・ゴシック

  今出川通の歩道はけっこう狭い。その狭い歩道を学生が自転車で遠慮がちに通り抜ける。同志社大学の学生らしい。
 1876年、新島襄が同志社英学校を開設する。これが現在の同志社大学の始まりになる。
 1876年、薩摩藩邸があった相国寺門前に移った。これがいまの今出川校地である。その通りを歩いているから、学生が多いのは当然であろう。
 敷地内には数多くの建物が並んでいるが、国の重要文化財の指定を受けている主な建物でも、1884年の彰栄館、1886年の礼拝堂、1887年の書籍館、1890年のハリス理化学館、1894年のクラーク神学館があげられる。
 明治17年から27年ごろの建物であり、新島襄始め、八重夫人、教授陣がいかに先進的な教育に熱心だったか、そのころの若者が新しい学問に並々ならぬ情熱を燃やしていたかがうかがえる。


 先に相国寺を見学したのだが、話の流れで同志社大学を続ける。クラーク神学館から今出川通に向かう途中に東門がある。
 守衛に見学を伝えてところ・・怪しい者ではないと判断したようで・・教室、研究室など以外の公開されているところは見学どうぞ、とのことだった。学問の場は開かれているとはいえ、ニュースになるほどの事件も少なくない。守衛の毅然たる態度が、事件予防に効果がある、と思う。
東門を入った右手に1894年竣工のクラーク神学館=クラーク記念館がある(写真)。設計はドイツ人R・ゼール・・明治政府が招へいしたエンデ・ベックマン設計事務所員・・、工事は地元の大工・小島左兵衛で、煉瓦造2階建て、ネオ・クラシック様式の落ちついた佇まいである。
 正面から見ると、左は三角の切り妻屋根の形を見せているが、右は塔が建物から飛び出て伸び上がっている。
 R・ゼールのデザインか小島左兵衛の仕業かは分からないが、左右を非対称にするとはいかにも日本的なバランス感覚である。
 のぞいたら、事務室の声をかけてと張り紙があったので、声をかけたら鍵を持ってきて1階の談話室?に案内してくれた。奥が正面左の塔の1階に相当する。居心地のいい部屋で、親密感が増しそうに感じた。

 談話室を見学したあと、木製の二重階段を上って2階に上がると、正面がチャペル、左右が部屋になっている。チャペルは昼休みのみの公開で鍵がかかっている。左右の部屋はゼミ中だった。重要文化財でゼミを受けられるなんて羨ましいね。事務室にお礼を言い、外に出た。

 ちょうど、授業が終わったようで、あちこちの建物から学生が出てきた。若い学生は華やかだし、声が弾んでいるので一気に雰囲気が明るくなった。
 西門に向かって歩くと、右手に1890年竣工のハリス理化学研究所が建っている。設計はフランス人A・N・ハンセル、施工は小島左兵衛、イギリス・ゴシック様式でデザインされている。
 その西隣が近代建築史で学んだ1886年竣工の礼拝堂になる。設計はアメリカ人D・C・グリーン、施工は地元大工の三上吉兵衛で、アメリカン・ゴシック様式である。
 概してヨーロッパのゴシック様式の教会堂は高さがあり荘厳さや華麗さを競っているが、グリーンの礼拝堂は大きな三角屋根をのせ、どっしととしている。アメリカの広々とした風景から生まれたデザインのようだ。


 ハリス理化学研究所も礼拝堂もクラーク神学館のどれも煉瓦造で、イギリス・ゴシック、アメリカ・ゴシック、ネオ・クラシックの違いに違和感はない。いわゆるお雇い外国人として明治期に活躍した人々であり・・グリーンにいたってはプロテスタントの宣教師だった・・、様式建築にさほどこだわらなかっただろうし、木造建築には詳しくてもヨーロッパの様式に馴染んでいない京都の大工が請け負ったから、似たようなデザインになったのではないだろうか。

 礼拝堂は閉まっていたので外観を一回りしてから、西門に出て、今出川町駅から地下鉄烏丸線に乗った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2016京都を歩く ⑩神武天皇の母が見つけた水源の貴船は水を司る神、和泉式部も詣で愛を取り戻す

2016年09月25日 | 旅行

2016年5月 京都を歩く ⑩貴船神社本宮 和泉式部 貴船神社奥宮 叡山電車 出町柳

 緩い坂道を少し上ると、左に朱塗りの鳥居が現れる。鳥居で一礼し、石段の参道を上る。鞍馬の山歩きで足がよれよれしているが、石段の両端に並ぶ朱塗りの木製灯籠が小気味よく誘ってくれる。
 神門で一礼し、境内に入る。貴船神社本宮はさらに左の石段の上の右に鎮座し、水を司るたかおかみ神を祀っている。
 たっぷり水を吸った砂利は歩くとザクッザクッと小気味いい音を立てる。基壇を上がり、二礼二拍手一礼する。石段を戻り、境内の右手を歩く。
 奥に、粗い石を回りに並べて舟の形にした石庭がつくられている。舟の形の庭は砂が敷きつめられていて、古代人の祭場をイメージしたデザインだそうだ。
 手前に、樹令400年、高さは30mのが植えられている。大木の周りに根から幹が何本も伸びあがっていて、これは大地の気を集め発散させるイメージを連想させることから、神木として崇められているそうだ。
 境内の左には、黒い馬と白い馬のブロンズ像が置かれていた。貴船神社は水を司ることから、かつて、日照りが続き雨が欲しいときには黒い馬、長雨が続き晴になって欲しいときは白い馬を奉納した。
 時代が下り、本物の馬の代わりに板に描かれた馬の絵を奉納するようになり、それが絵馬の原形になったそうだ。絵馬の発生は諸説があるが、信ずるかどうかであろう。

 境内の左の参道を下った。鈴鹿橋と名づけられた橋を渡ると、表通りに出る。通りには料理屋が並んでいて声をかけてくる。確かに昼時だし、足の疲れも取れないので気が引かれるが、参拝を済ませたいので先に進む。
 料理屋が途切れ、左手は山裾になり、うっそうとして杉林になる。右手は貴船川で、雨のせいか水の流れは速い。
 少し歩くと左が広場になり、奥に門がある。先に中宮=結社ゆいのやしろがあるらしいが、かなりの雨なので奥宮に向かうことにした。
 通りと並行して、林のなかに砂利道がある。左に和泉式部の「ものおもへば 沢の蛍も わが身より あくがれいづる 魂かとぞみる」の歌を彫った岩が置かれている。
 和泉式部が、夫の愛を取り戻そうと貴船神社に詣でたときに詠んだ歌で、あとで夫婦仲が元に戻ったそうだ。めでたしめでたし。
 砂利道をすすむとまた通りに出る。ほどなく、しめ縄を張った杉が現れた。根本から2本に分かれた杉で、相生杉と名づけられている。樹令は1000年だそうで、根本がいっしょだから寄り添うように伸び上がっているため、相生と名づけられたようだ。1000年も寄り添って育ったことから、夫婦円満の象徴として崇められたのであろう。

 このあたりから通りの左に砂利敷きの参道がつくられている。朱塗りの鳥居をくぐった先に思い川という小さな流れがあり、朱塗りのおもいかわ橋がかかっている。
 本来、この川は禊ぎのための川だったのだが、和泉式部が奥の院参詣後に切ない気持ちを歌にし思いが叶った故事にちなみ、思い川と呼ばれるようになったそうだ。
 和泉式部は、相生の杉のように寄り添って生きる姿を願い、その気持ちを歌に詠んで思いを叶えたのかも知れない。
朱塗りの神門を入る。境内は広い。正面に阿吽の狛犬を左右に従えた拝殿があり、その奥が奥宮本殿である(写真)。入れ違いに二人が出て行き、私たちだけになった。
 深閑とした境内には砂利を踏みしめる音が響く。和泉式部もここで気持ちを静めて、歌をイメージしたのだろうか。本殿で二礼二拍手一礼する。
 本殿の左に御船形石と書かれた築山のような粗い石組がある。貴船神社は、神武天皇の母である玉依姫が水源を求め、黄色い船に乗って鴨川を上り貴船で水を見つけたという伝承に由来する。この石組のなかに黄色い船が納められているそうだ。そういわれれば、石組は舟の形になっている。
 本殿に向かって左は山になっていて、神門に近い側に連理の杉が伸び上がっている。2本の木が抱き合っていて、ぼんやり眺めていると相生の杉に似ているように見えるが、よく見ると樹種が違う。1本は杉で、もう1本は楓だそうだ。
 異なった樹種が合体して育つのは珍しく、神木として崇められている。貴船も不思議なことが多い。宇宙の力が湧き出ているようだ。

 雨は相変わらず本降りで、ズボンの裾は重く感じるほど雨を吸い込んでいる。貴船川に沿って下りながら川床をのぞくが、すだれを通して落ちる雨でどこもびしょびしょになっている。
 右手のFという料理屋はガラス張りで眺めが良さそうだし、品書きの値段も手ごろだったので、雨で緑が鮮やかになった貴船の風景を眺めながらランチを取った。
 貴船神社詣では30~40分かかったようで、ランチを終えたら12時40分だった。叡山電車貴船口駅まで歩くつもりで通りを下っていったら町はずれにバス停があり、何人かがバスを待っていた。
 ほどなく貴船口行のバスが来た。運がいい。宇宙の力が働いたようだ。逆らわずバスに乗り、貴船口で降りたら、またまた宇宙の力か、出町柳行の電車が来た。
 なんと、席が窓側に向いていて、眺めがいい。降りるときにほかの車両をのぞいたら普通の並びだったから、窓を向いた席は特別仕様らしい。この幸運も宇宙の力に違いない。貴船に着いてからは雨にたたられたから、宇宙の真理では、いくつかの幸運でバランスを取ろうとしたのかも知れない。

 貴船口駅からおよそ30分で出町柳駅に着いた。出町柳で、貴船を流れてきた賀茂川と大原の奥から流れてきた高野川が合流し、鴨川になる。合流点の北に下鴨神社が位置するが、下鴨神社は何度か訪れているので今回はパスし、賀茂大橋を渡って今出川通を西に向かった。
 すでに雨が上がっている・・運がまだ続いている?・・。通りの反対側の京都御苑の緑は先ほどまでの雨でしっとりし、鮮やかである。
 右に大きなガラス張りのカフェがあったので、コーヒータイムにした。テーブルは鉋をかけたままの仕上がりで、手触りがいい。公共施設、デパート、スーパーマーケット、マンションなどは耐火性・耐震性・耐久性が重視され、木の質感を感じることが少なくなった。木の国日本なのだから、構造体はコンクリートでも、内装や家具はもっと木を活用するべきだと思う。
 京都のコーヒーの歴史は古い。江戸時代以前から茶屋、茶店に馴染んでいたせいかもしれない。明治時代後半、京都にミルクホールが開店し、カフェに発展した。昭和初期に進々堂が創業し、イノダコーヒーは戦後早々の開店である。歴史が古ければ、互いに工夫を凝らすからコーヒーのレベルは高い。このカフェも酸味がきいていておいしかった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする