yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2018.10 九品仏浄真寺を訪ね.珂碩上人の彫った阿弥陀如来坐像参拝、上品往生を願う

2018年11月30日 | 旅行

2018.10  九品仏浄真寺・等々力渓谷を歩く
       <日本の旅・東京を歩く>
①九品仏浄真寺を歩き、九本往生を知る
 大学は東急電鉄・大井町線大岡山駅前だった。1年次~3年次は大岡山駅を利用して通学した。3年次のとき、新学科棟が隣の緑が丘駅近くにできた。キャンパス内を歩いても行けるが時間がかかるので、卒業まで緑が丘駅を利用した。
 ごくたまに自由が丘か渋谷に出るぐらいで、ふだんは学内の生協、学生食堂、大岡山駅周辺の店で用が済んだし、とくに専門に属してからはほぼ毎日終電近くまで学科棟、研究室にいた。
 そのため、自由が丘駅の先が九品仏・尾山台・等々力・・だということは知っていたが、行ったことはなかった。

 先日、テレビで九品仏浄真寺を紹介していた。境内は広々としている。もみじの季節には賑わうそうだ。九品仏駅の先の等々力渓谷は東京都の名勝に指定され、都会のオアシスとしてよく報道される。どちらも行ったことがない。

 2018年10月10日、天気良し、10時ごろ家を出て、九品仏、等々力を目指す。大学に通っていたころは大森に住んでいたから大岡山までは30分もかからないが、さいたま市のマンションからは大岡山あたりまでおよそ1時間半もかかる。
 コースは、湘南ライン・渋谷駅~東横線・自由が丘駅~大井町線・九品仏駅、または湘南ライン・恵比寿駅~山手線・目黒駅~目黒線・大岡山駅~大井町線・九品仏駅、あるいは上野東京ライン・品川駅~京浜東北線・大井町駅~大井町線・九品仏駅のどれかがよさそうだ。

 昔の記憶を頼りに、~渋谷駅~自由が丘駅のコースを選んだ。ところが、渋谷駅は大改造中で迷路のような通路を歩かされた。湘南ライン・渋谷駅はときどき利用したが、いつの間にか私の知らない渋谷駅になってしまったようだ。

 なんとか東横線渋谷駅を見つけ、自由が丘駅で大井町線に乗り換え、11時半ごろ九品仏駅に着く。このあたりはまだ高架化、地下化されていないので、中央プラットフォーの改札を出ると上り線側、下り線側のどちらも踏切を渡らなければならない。かつて私鉄はこうした駅が多かった。町が発展し、踏切を利用する交通量、駅の乗降客が増えれるに従い駅形式、踏切が改善される。初めて降りたが、のんびりした雰囲気を残す駅に懐かしさを感じた。

 地図には北側に浄真寺が記されている。踏切を渡った先は商店街で、すぐ先の左に樹林が見え、浄真寺参道と彫られた石柱が待ち構えていた(写真)。
 松並木の参道は石敷きに整備され、一直線に伸びている。両側は住宅、店舗、オフィス、公共施設が並んでいる。参道は静かで、木陰でくつろぐ人、犬を連れた散歩、ジョギング、ベビーカーを押したママとすれ違う。

 200mほど先に総門が建つ。説明坂によると、江戸時代初期の珂碩カセキ上人が4代将軍徳川家綱から奥沢城跡を賜り1678年、九品山唯在念仏院浄真寺を開山したそうだ。
 珂碩(1618-1694)をwebで調べると、江戸の念仏堂で弟子とともに9体の阿弥陀如来坐像を彫ったが洪水の被害を受けたので、徳川家綱に願い出て奥沢城跡を賜り、浄真寺を開山し9体の阿弥陀如来坐像を移したそうだ。
 説明坂には、江戸名所図会にも描かれていて伽藍配置は当時のままだとも記されている。とすると、この総門も1678年だろうか?。

 樹林のあいだを進むと右手に閻魔堂がある。閻魔大王が真っ赤な顔でにらんでいるが、どことなくコミカルな顔つきに見える。建物は新しそうだ。

 参道は左=西に折れる。右に珂碩上人を祀った開山堂が建っていたので参拝する。尊像の珂碩上人は珂碩本人が42才のときに彫ったそうだ。9体の阿弥陀如来像といい、彫刻の腕前も素晴らしいようだ。建物は近年である。
 参道正面に紫雲楼と名付けられた山門=仁王門が構えている(写真)。左右に、真っ赤な身体の憤怒した阿吽の仁王が見下ろしている。ここで邪気を払うということであろう。1793年の再建らしい。屋根は茅葺きから銅板に葺き替えられている。一礼し、山門を抜ける。
 山門の左に1708年建立の鐘楼が建つ。梁、軒下の組物に彫られた獅子が勇ましい。こちらも銅板に葺き替えられている。

 右手に西を正面とした、御龍殿と呼ばれる本堂が建つ(写真)。1698年建立で、方形屋根は茅葺きから銅板に葺き替えられている。本堂は珂碩上人が彫ったと伝えられる釈迦如来座像を本尊とし、法然上人像、善導大師像、珂碩上人像が祀られている(写真)。
 本堂の向かいには広々とした中庭を挟んで、東を正面とする阿弥陀堂が3堂建っている(次頁写真、写真は中央の上品堂)。いずれも本堂と同じ1698年建立で、寄棟屋根を載せている。本堂と同じく茅葺きが銅板に葺き替えられている。
 この阿弥陀堂3堂に前述の珂碩上人が弟子と彫った阿弥陀如来坐像が安置されたが、1体は修復のため欠けていて、3体、3体、2体だった。
 阿弥陀如来はそれぞれ印相が異なり、堂に説明があったが浅学では字面は読めても本意は難しかった。

 浄土教の聖典の一つの観無量寿教九品往生クホンオウジョウが説かれていて、功徳の高い場合は上品上生ジョウボンジョウショウという往生をし、以下順に上品中生チュウショウ、上品下生ゲショウ、中品チュウボン上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生と段階があり、極悪人は下品下生ゲボンゲショウという往生をするそうだ。
 9段階の往生=九品を表した9体の阿弥陀如来像が祀られていることから、九品仏浄真寺は信仰を集めた。かつては自由が丘駅が九品仏前駅と呼ばれたほど、九品仏が広く知られていたようだ。

 本堂と阿弥陀堂のあいだは木立の多い中庭になっている(写真、林に隠れているが中庭の向こう右が中品堂、中央が上品堂、写っていないが左が下品堂)。8月16日の「お面かぶり」の行事は、本堂と真ん中の阿弥陀堂のあいだの中庭に特設の橋が架けられる。この橋を信者25人が菩薩のお面をかぶって渡ることから「お面かぶり」の名が付いた。
 これは本堂が此岸、阿弥陀堂が彼岸で、彼岸の阿弥陀如来が此岸の信者を救世しに渡御することを象徴しているようだ。

 境内を近在の人が散策し、本堂の前で一礼、合掌、阿弥陀堂それぞれで一礼、合掌している。子どもを連れたパパは子どもに合掌を教えていた。ベビーカーを推した若いパパママとすれ違う。杖をついた古老が本堂前でお賽銭をあげ、経を唱えていた。九品仏浄真寺は近在の人の支えになっているようだ。
 正しく生き、上品の往生を願う。いま一度合掌して、山門を出た。50年ほど前の学生のころに九品仏浄真寺に来ても、まだ仏教・寺院に関心が低かったから通り一遍の見学で過ぎてしまったと思う。九品仏を知ることができたのは50年という時のお陰であろう。(2018.11)

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グリーニー著「暗殺者の飛躍」はジェントリーが中国から逃げ出した天才ハッカーの身柄確保で大活劇

2018年11月28日 | 斜読

book474 暗殺者の飛躍 上下 マーク・グリーニー 早川書房 2017   (斜読・海外の作家一覧)
 グリーニー著の暗殺者シリーズ第1作「暗殺者グレイマン」は、元CIA特殊活動部に所属していた凄腕のコートランド・ジェントリーがCIAから目撃次第射殺命令を下され、ジェントリーの元ハンドラーだったフィッツロイからの暗殺依頼で報酬を得ながら、目撃次第射殺命令の理由を探ろうとするスリリングな展開だった。
 続けて暗殺者シリーズ第2作「鎮魂」、第3作「正義」、第4作「復讐」を読んだ。第5作「暗殺者の反撃」でついに黒幕のCIA上司を突き止め復讐を果たし、ジェントリーの濡れ衣は消える。
 
 第6作「暗殺者の飛躍」はその続編である。CIAのフリーランスとして復帰した任務だから、「暗殺者」は適当ではない気がするが、訳者は原題Gunmetal Grayのタイトルでは暗殺者シリーズとは気づかないだろうと「暗殺者の飛躍」としたようだ。

 舞台は東南アジアで、ジェントリーの任務は中国から逃げ出した中国サイバー戦部隊の天才的ハッカー范講の身柄確保である。
 范講が中国から脱出しようとした理由は、下巻P22・・范の身柄を確保したジェントリーへの告白で明らかになる。范は中国サイバー戦部隊に所属していて、上巻P123・・赤い細胞と呼ばれるハッキング支隊員として中国の極秘ネットワークの侵入箇所を見つけることだった・・これは世界各国でハッキングが進化しているから想定できる・・。つまり范は中国のネットワークのすべてを知っていて、さらに弱点も知っていることになる。
 そのため下巻P23・・保全部が部隊員を常時監視するが、さらに夫人、子どもも抵当として上海の施設内に住まわせ、保全部がつねに護衛監視することになる・・これもありそうな話しだ・・。
 ところが范夫人は出産で母子ともに死んでしまう。代わって両親が家族抵当として上海の施設に移され、護衛監視されることになった。護衛官は宋巨隆少校だった。

 ところが下巻P27・・宋からの電話があり、両親を乗せて宋が運転する車が事故に遭い両親が死んだ、家族抵当がいなくなった場合は秘密保持のため范も処刑される、直ちに中国から逃げろと言ってきた・・もし本当ならひどい話しだが、ジェントリーが目撃次第射殺命令を下されたようにありそうな話しだ・・。
 宋とCIAの関わりは下巻p351明らかにされるのでこれは読んでのお楽しみ。ジェントリーは裏の裏の策略を読み切るが、現在の上司であるCIA本部長ハンリーからCIAの任務に専念しろと一蹴されてしまう。

 上巻の冒頭は、范が深圳で開かれている中国情報技術博覧会会場に出席し、最終日に護衛二人を眠らせて逃げ出し、香港に向かうところから始まる。
 范は、P112・・香港で活動している犯罪組織の三合会・和勝和にネット上の情報の交換を条件に助けを求めた。
 中国参謀部保全防諜部部長は范逃亡の裏にCIAがいるとにらみ、総力を挙げて范を追いかけるが、安全部部員がCIAに倒されてしまう・・実はジェントリーなのだが戴には知られていない・・。
 戴は中国人だと和勝和に見破られてしまうので、民間警備会社のフィッツロイに范暗殺を依頼する。しかし、派遣したエージェントがあと一息のところで倒されてしまい、契約を果たせなかったフィッツロイは戴に監禁されてしまう。
 単独行動のジェントリーはわざと戴に捕らわれ、戴を欺いて范暗殺を引き受け(=実は范の身柄確保が狙い)、命の恩人フィッツロイの助命をも計ろうとする。


 范は、和勝和に対する戴の捜査が厳しくなってきたのでP134・・ホーチミンを根城にするベトナムギャング・野生の虎に助けを求め、香港の小島から野生の虎の貨物船に乗りこむ。
 直後、前述のフィッツロイの部下と銃撃戦になり、エージェントは皆殺しされてしまう。范は数日後にホーチミンに上陸し、野生の虎の頭目であるトゥー・ヴァン・ドゥクにかくまわれる。

 中国の極秘ネットワークを知り抜いている范が逃げ出した情報はロシア対外情報庁SVRにも流れ、秘密精鋭部隊ザスロンの統制官ゾーヤ・ザハロフ(女性)とザスロンチーム・リーダーのヴァシーリーほか7名が香港に向かう。
 ヴァシーリーたちは女性を蔑視し、凄腕で独行が得意なゾーヤとしばしば対立する・・この対立と独行が伏線となり、あとでゾーヤはジェントリーと手を組むことになる・・。
 ヴァシリーたちはベトナムから戻ってきた貨物船を襲撃し、船長から范の居所を聞き出す。

 前後するが、ジェントリーはフィッツロイの情報で香港の小島の桟橋近くのバーで手がかりを探すが、ここは和勝和のたまり場だった。
 たちまち50人ほどとの対決を余儀なくされ、ジェントリーは孤軍奮闘、次々と相手を倒し、なんとか海に飛び込む。
 ザスロンチームの襲撃とジェントリーの必死の戦いが同じ入り江でほぼ同時進行に進んでいく。見張り役のゾーヤは正体の分からない一匹狼(=ジェントリー)を確認する。一方、ジェントリーは生き残った船員から范を野生の虎に運んだことを聞き出す。

 こうして戴の手先として振る舞っているジェントリー、ロシアのザスロンチームとゾーヤがホーチミンに集まり、トゥー・ヴァン・ドゥクの隠れ家を舞台に范の争奪戦が始まる。ジェントリーは運良く范の身柄を確保する。
 ここまでが上巻で、グリーニーの息をつかせない展開が続く。

 下巻冒頭で、タイのチャムルーン兄弟を頭目とするシンジケートに范を奪われてしまう。ジェントリーはシンジケートから逃げ、戴の助けで范が上階にかくまわれているチャムルーンのナイトクラブを見つけ、潜り込む。
 ザスロンチームも范獲得のため、チャムルーンのナイトクラブの襲撃を準備する。ゾーヤも単独で范を確保しようと、ナイトクラブの様子をうかがう。
 関係者が集まったところで銃撃戦が始まる。ジェントリーはなんとゾーヤと手を組み、范を助けようとする。グリーニーの伏線のうまさに舌を巻かされてしまう。
 裏の裏の陰謀が明らかになるなかで、舞台をプーケットに移し、ジェントリーとゾーヤが范の身柄確保を画策する。戴は范殺害のため軍隊を集結させる。
 次々とスリリングな展開が続き、それぞれが期待通りの結末に落ち着いていく。こういう展開は好きだ。「暗殺者シリーズ」の次作が楽しみである。(
2018.10)

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2018.5 高山・桜山日光館の東照宮模型、重文吉島家に飛騨の匠の技が光る

2018年11月26日 | 旅行

2018.5.9~5.11 白川郷+高山+金沢   初日・2日目/高山を歩く

⑤1/10東照宮模型、吉島家住宅ともに飛騨の匠の技が光る

 高山屋台会館の向かい、参道の南が桜山日光館である。ここには日光東照宮の1/10模型が展示されている。
 日光東照宮の眠り猫を始め、伝説的な名工左甚五郎は1594年、播磨国に生まれ、父亡き後、叔父の飛騨高山藩士宅に身を寄せ、1606年に京・伏見の大工に弟子入り、1619年に江戸の将軍家大工に婿入りして腕を上げた・・と伝えられる。
 大正時代、左甚五郎ゆかりの高山で左甚五郎の再来といわれた飛騨の匠たちが力を合わせ、日光東照宮を模型によって再現したそうだ。
 パンフレットには、金森氏と徳川家の縁が深いことから日光東照宮を模型で再現し、桜山日光館を開館して展示したと紹介されている。模型製作の真意はよく分からないが、寸分違わぬ精巧さには驚かされた。

 日光東照宮は何度か訪ねている。現地は山間で樹林が生い茂っているし、参道は上りで何度か折れ曲がり、階段もある。そこここに重要な建物が配置されていて、全体像は把握しにくい。
 それぞれに貴重な彫刻が施されているが、どの建物も壮大で仰ぎ見るため見えにくい彫刻もある(写真)。大勢の観光客で写真も撮りづらい。1/10模型は日光東照宮の全体を俯瞰的に見ることができるし、彫刻も精巧で実物の東照宮を彷彿させる。飛騨の匠の力量をまざまざと見せつけられた気がする。

 しかし、シーズンオフの平日のせいか、屋台会館では私たちのほかに観光客は一組、二組ていどだった。日光館も一組と入れ替わりで私たちが入館し、途中でもう一組が入館しただけだった。貴重な観光資源だけに活用を期待したい。
 桜山日光館を出たのが10:30前だった。金沢駅レンタカー返却時間は13:30である。およそ2時間のドライブに休憩を入れても30分ほど時間があるので、表参道を下り、重要文化財に指定されている吉島家住宅を見学した(写真)。
 1788年、高山に居を構えた初代が造り酒屋を営んだそうだ。間口の広さからも財をなしたことがうかがえる。
 1905年の火災後、1907年に再建されたのがいまに残る吉島家である。名工といわれた棟梁によって、匠の技を結集した商家が完成した。
 いまは酒造業を営んでいないが、入口の軒下に往時を偲ばせる造り酒屋の象徴の杉玉が下げられている。
 軒、庇、横材による水平線のあいだに組まれた格子の垂直線、落ち着いた配色が端正な外観を構成している。

 すぐ先に同じく重要文化財に指定された日下部民芸館が建っている(写真)。こちらは幕府御用商人として栄えた商家で、1875年の火災後、1879年にやはり飛騨の匠として名高い棟梁によって再建された。
 吉島家と日下部家を対比して、前者が女性的なたたずまい、後者が男性的と評した識者がいたが、確かに日下部家の方のつくりは比べて豪快である。吉島家の棟梁が、古くからの御用商人日下部家を意識し、温和なつくりで技を競ったのかも知れない。

 500円を払って吉島家住宅に入る。思わず土間の上に広がる立体格子に目が止まった。広々とした土間の屋根を支えるには長尺の梁が必要だし、屋根を支える束も不可欠だが、それを立体にくみ上げた構造は力学を越えて美学である(写真)。
 45年ほど前に高山を訪ねたあと、高山の古建築を紹介した本を読んだ。吉島家の土間の立体格子を写した写真も何度か見た。写真からも匠の技のすごみを感じたが、実際に土間から見上げると、足がすくむほどの迫力を感じた。
 いまの建築基準法の耐震判定はこうした立体格子を想定していない。匠の技を継承する職人も少なくなったと聞く。力学を越えた美学はもう生まれないかも知れない。


 住宅内には、1913年生まれの篠田桃江氏のアート作品が組み込まれていた。イサム・ノグチ(1904-1988)の提灯、剣持勇(1912-1971)のラタンチェアも活用されていた。どれも吉島家と見事な調和を見せていた。名工、名匠の作品は互いを高めあうようだ。

 45年ほど前の思い出に新たな知見、感動を加え、車に戻った。11:00ごろ桜山日光館駐車場を出て、高山清美道路、東海北陸自動車道、北陸自動車道を経由し、金沢東ICで降りる。どこも順調な流れで、13:00ごろ、金沢駅レンタカーを返した。

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2018.5 高山・桜山八幡宮に参拝後、秋の八幡祭の主役である絢爛豪華な屋台を見学

2018年11月24日 | 旅行

2018.5.9~5.11 白川郷+高山+金沢   初日・2日目/高山を歩く
桜山八幡宮に参拝し、高山祭屋台会館で屋台を鑑賞する

 参道の先は石段である。その先にも石段があり、叢林を背にした桜山八幡宮楼門が見える。八幡宮は東の森を背にして西向きに鎮座しているようだ。
 手前の石段を上がると石造の二の鳥居が立ち、砂利敷きの境内が左右=南北に延びている。秋の例大祭では各町の屋台11台が曳航されるそうだが、この境内だけでは並びきれないから、参道とあわせ11台が整列するのかも知れない。

 楼門に上がる石段は大石段と呼ばれる。大石段は19段あり、幅は3.3mで、それぞれ一枚岩だそうだ。
 大石段の手前左に大手水石と名付けられた手水舎がある。水盤が一つの岩から彫り出されたことからこの名がついたようだ。
 石造の二の鳥居、一つ岩の水盤、一枚岩の大石段と、石も多用できるほど高山は豊かだったようだ。

 
 神門と呼ばれる楼門で一礼する。正面の拝殿は唐破風の向拝が大きく伸び出している(写真)。豪快な木組みから森林資源の豊かさを感じる。

 神社の始まりは、377年ごろ戦勝祈念でこの地に応神天皇を奉祀したことに由来し、8世紀ごろに八幡信仰が広まり、このあたりが数百本ので埋め尽くされていたことから桜山八幡宮と呼ばれるようになったらしい。その後荒廃したが1623年、金森氏が再興し、高山の氏神になった。

 一方、春の山王祭を例大祭とする日枝神社の創建は1141年で、桜山八幡宮に比べ新しい。1856年、金森長近が高山領主となり、髙山城を築いたのち、日枝神社を城の鎮護神として現在地に移した。
 1692年、幕府直轄になったのちは、高山陣屋の鎮護神とされた。山王権現宮と呼ばれた時期もあり、例大祭が山王祭と呼ばれるようになったようだ。

 桜山八幡宮の拝殿左=北に照前神社、天満神社、稲荷神社、琴平神社、右手=南に秋葉神社の社が建っている。一回りし、秋葉神社から境内に下る急な石段を降りると、入母屋屋根をのせた吹き放しの絵馬殿に出る。軒下に絵馬が飾られていることから名付けられたようだ。これで桜山八幡宮の参拝を終える。

 次に、参道左手=北の高山祭屋台会館に入る。八幡祭では11台の屋台と神輿が曳航されるが、屋台会館では年3回の入れ替えで、常時、みこしと4台の屋台が展示されている。
入口前に展示されている屋台のパネルが並んでいて、パネルからも絢爛さが伝わってくる。屋台会館・日光館共通で900円の入場券を購入し、入館する。この日は、みこし、鳳凰台、豊明台、布袋台、神楽台が展示されていた(写真)。

 パンフレットによると、大化の改新で税制が確立したが、飛騨は税の代わりに毎年100~150人の匠が奈良の都で宮殿や寺院などを造る大工仕事が課せられたそうだ。
 山間で税が負担できなかったのも理由だろうが、優れた大工技能が都に知れ渡っていたからではないだろうか。
 万葉集にも、「かにかくに物は思はじ飛騨人の打つ墨縄のただ一道(ひとみち)・・飛騨の匠が墨縄で付けた一本の線に一途な恋心を重ねた・・」という歌が収録されていて、飛騨の匠が高く評価されていたことを裏付けている。

 金森氏が再興したころの例大祭では、屋台曳航はなかったらしい。「布袋台」は17世紀、「神楽台」は17世紀に太鼓の寄進、「みこし」は19世紀初頭創建で、火災にあい、19世紀後半に再建、「鳳凰台」は19世紀半ばごろに大修理などが記録されているから、金森氏再興の少し後、17世紀中ごろ?から屋台が曳航されるようになり、高山の繁栄を受け次第に豪華絢爛さが競われたようだ。

 屋台会館では、屋台の細やかなつくりや絢爛さを間近に見ることができる。それぞれの屋台の特徴を行ったり来たりしながら何度も見ると、屋台の違い、名前の由来も分かってくる。
 大きい屋台は7~8mもあるので、屋台会館の一方をスロープにして上からも見下ろせるよう工夫されている。スロープの途中の部屋では、例大祭の流れが放映されていて祭の全体像を理解することができる。スロープの壁面の屋台解説パネルも参考になった。


 45年ほど前、祭に興奮して屋台の詳細や例大祭の俯瞰的な動きが分からなかったが、屋台会館での学習でようやく理解できた。
 高山祭は国の重要有形民俗文化財に指定され、全国33件の山・鉾・屋台行事の一つとして、ユネスコ無形文化遺産にも登録されている。屋台を詳しく見たいのであれば高山祭屋台会館の見学がいいが、春の山王祭か秋の八幡祭で興奮を実感するのがお勧めである。

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2018.5 夕食で高山名物の朴葉味噌と地酒を楽しみ、翌朝は飛騨国分寺を過ぎ桜山八幡宮へ

2018年11月22日 | 旅行

2018.5.9~5.11 白川郷+高山+金沢 初日・2日目/高山を歩く
③夕食に高山名物朴葉味噌と地酒を楽しみ、翌朝は桜山八幡宮へ


 高山グリーンホテルに戻り、ホテルの決め手になった自家源泉の庭園露天風呂に入る。金沢~白川郷~高山はのべ2時間ほどの運転だから、さほど疲れていない。高山散策も1時間ほどで疲れは感じない。
 しかし、マンションのバスタブはそれなりに広くても四方が壁で天井も低いから、広々とした庭園を眺めながら温泉につかると気分一新、心身がほぐされる。45年ほど前の高山の祭と町家の幻影を思い浮かべながら、のんびり湯を楽しむ。

 夕食は和会席である。食前に柚子ジュース、前菜は鴨スモーク、蛸やわらか煮など、次に吸い物、お造り、しのぎに筍寿司、田舎煮、鮎炭火焼き、飛騨牛陶板焼きが続いた。
 飛騨牛は朴葉味噌仕立てだった。45年ほど前に朴葉味噌を初めて食べ、おいしさに感動して朴葉と味噌を買って帰ったほどである。
 小さな素焼きのコンロも外側に経文?が書かれた和紙が貼ってあって興味を引き、朝市で見つけたがさすがに荷がかさばるのであきらめた。
 家ではカセット式の卓上コンロに網を載せ、その上に朴葉を置いて味噌を焼いた。飛騨の素焼きのコンロは火と朴葉の距離がほどよかったようだが、卓上コンロは火が近いせいか味噌が焦げつき高山の朴葉味噌にはほど遠かった。
 飛騨牛を食べながら、そんな昔を思い出した。会席の最後は、これまた懐かしい赤カブなどの盛り合わせにご飯、味噌汁、そしてデザートで〆になった。


 お酒は、湯上がりにまず生ビールをいただき、続いて地酒三種飲み比べを頼んだ。上三之町の造り酒屋の上澄、上一之町の造り酒屋の春風、そして古い町並みが残る古川町の春吟醸の三種である。
 それぞれ味わいが異なるがどれもおいしい。同じ造り酒屋でも味の異なる酒がつくられているし、酒米や製法でも味は異なっている。
 どちらかというと私は辛口+濃醇が好きだが、いつも飲んでいると飽き+慣れるので、ときどきは端麗、甘口も飲む。それほどのこだわりはないし、味を極められるほどの通でもない。その場の雰囲気、気分で楽しく飲めればおいしく感じる。
 45年ほど前は宿の階段が上れないほど酔った、などと昔を懐かしく思い出しながら地酒を楽しんだ。

 5月10日・木曜、目覚め良し。天気も良し。8時ごろ朝食を済ませ、チェックアウトする。目指すは、旧市街北東の山裾に建立された桜山八幡宮と隣接する高山祭屋台会館である。
 高山祭は、春の山王祭と呼ばれる日枝神社例大祭と、秋の八幡祭と呼ばれる桜山八幡宮例大祭の二つを指す。
 45年ほど前、友人に誘われ秋の八幡祭を体感した。これほど見事な彫刻の屋台を見るのは初めてだった。からくり人形にも目が釘付けになった。どこからか回ってくるお酒もおいしかった。
 20代の私たちにはなにもかもが素晴らしい体験になった。翌年、もう一度実感しようと今度は二人で春に訪ねたが、例大祭中は宿が取れなかったのか、仕事が休めなかったのか、春の山王祭直後の旅になった。山王祭直後でも大勢の観光客で賑わい、祭の余韻を感じることができた。

 高山の思い出は、秋の八幡祭と春の山王祭の記憶が入り乱れている。高山祭が春、秋の二つを総称するように、私の記憶も春、秋の旅が合わさっているようだ。

 二度とも例大祭の神社を訪ねていない。徒歩だったせいもあるが、そのころは華やかな祭礼と古いたたずまいの町並みに関心が集中し、神社まで気が回らなかった。
 今回は遅ればせながら桜山八幡宮に参拝し、隣り合う高山祭屋台会館で屋台を鑑賞し、45年ほど前を思い出す予定にした。

 ホテルから国道158号線を東に走り、旧国道41号線を北に折れる。左に三重塔が見えた。飛騨国分寺である。そのまま通り過ぎ、あとで調べた。
 飛騨国分寺は、757年、行基が建立したと伝えられる。国分寺とは、聖武天皇が仏教によって国家鎮護を計ろうと741年、各地に建立させた寺院であるから、そのころすでに飛騨が重要視されていた=栄えていたことを証そう。
 伽藍の多くは再建で、三重塔は岐阜県の重要文化財、車からは見えないが本堂が国の重要文化財に指定されているそうだ。

 飛騨国分寺の少し先を東に折れた先に宮川が流れている。参道に続く宮前橋は車が通れないので、少し先の橋を渡り、坂道をぐるぐる走っていたら桜山日光館駐車場の案内が見えた。
 手前から入り車を停め、向こう側に出ると参道の途中だった。一の鳥居まで戻り、一礼する(写真、鳥居右が日光館)。一の鳥居は木造で、高さは八幡宮の格を誇るように10mほどもある。
 左手には屋台を格納すると思える背の高い蔵が建っていた。町中にも背の高い屋台蔵を見たが、いずれも扉は閉められていて、ふだんは屋台を見ることはできない。
 屋台会館は高山祭の主役である屋台を常時披露するために開館したようだが、屋台見学はあとにして桜山八幡宮に向かう。

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