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2024年9月自作カレンダー挿絵はハイドン

2024年09月01日 | よしなしごと

 毎月、カレンダーを自分で作っている。もう20~30年になろうか。一度雛形を作れば、和暦、洋歴、土日、祝日、家族の誕生日、記念日、故人の命日、雑節などを書き換えればいいので難しくはない。むしろ誕生日、記念日、命日などを毎年更新するので大事な日を忘れることがない。
 カレンダーには彩りを添えようと、旅の思い出の写真を挿絵にしている。
 2024年9月には、2019年10月のオーストリアツアーで訪ねたハイドンゆかりのアイゼンシュタット・エステルハージ城、ハイドンが埋葬されたベルク教会、ハイドンの家を挿絵にした。

2019.9オーストリアの旅 エステルハージ城・ベルク教会・ハイドンの家」は2019年10月にブログに公開したが、抜粋を再掲する。

エステルハージ城
 ハプスブルク家に忠誠を誓ったエステルハージ家は、ハンガリー副王に任じられるほどの名門貴族だった。
 現在に残るエステルハージ城Schloss Esterhazyは、1672年、エステルハージ・ポール(1635-1713)によって、イタリアの建築家カルロ・マルティーノ・カルローネの設計で建てられた(写真)。当初は堀が巡らされていたそうだ。オスマン帝国への備えであろうが、建物はバロック様式の華やかさを兼ね備えていて、城というより宮殿の風格である。
 エステルハージ・ポールはオスマン帝国戦で南ハンガリーの指揮官を務め、1683年のウィーン包囲でも活躍したことから、1687年、神聖ローマ帝国皇帝レオポルト1世から神聖ローマ帝国侯爵位を授けられた。その恩義を表そうと、エステルハージ家の紋章にレオポルト1世のLを刻み込んだ。
 エステルハージ・ポールはチェンバロンを演奏し、作曲も手がけたそうだ。エステルハージ家は音楽の才があったのかも知れない。
 数代下ったエステルハージ・パール・アンタル(1711-1762)はヴァイオリンやフルートを演奏するほど音楽好きで、ヴェルナーを楽長とする宮廷楽団を組織した。ハイドン(1732-1809)は1761年に副楽長に就く。
 続くエステルハージ・ミクローシュ・ヨージェフ(1714-1790)も音楽に理解があり、ハイドンは宮廷楽団の拡充に努める一方、交響曲などを数多く作曲した。楽長ヴェルナーが1766年に没したあとは、ハイドンが楽長に昇進した。
 続くエステルハージ・アンタル(1738-1794)は音楽に関心が無く、宮廷楽団を解散する。ハイドンは年金暮らしの引退となったが、自由に作曲ができたようだ。イギリスでの演奏会は大成功で富と名声を得たとされる。
 次のエステルハージ・ミクローシュ(1765-1833)はクラリネットを演奏するなど音楽に関心があり、楽団を再建、ハイドンを楽長にし、ミサ曲などの作曲を注文した。ミクローシュはベートーヴェンにもミサ曲を依頼したが、ベートーヴェンとは折りがあわなかったそうだ。
 ミクローシュの代に、フランスの建築家シャルル・モローによる改修が始まる。東に劇場、西に絵画館、北にのちにハイドンホールと呼ばれたガーデンホールとコリント式列柱の入口が古典様式で計画された。しかし、資金不足でハイドンホールなどの一部が改修されただけで、工事は中断した。第1次世界大戦、第2次世界大戦を経てエステルハージ城はブルゲンラント州政府の管理になり、現在はエステルハージ財団が城を管理している。
 ハイドンは1809年にウィーンで没した。その後の宮廷楽団については資料に記されていないし、ガイドにも聞き損なった。
 
  エステルハージ城は中庭を囲んで南棟~東棟~北棟~西棟が続く。前掲正面写真は南棟で、改修された階段ホール、ハイドンホールは北棟になる。
 2階の前室ホールは壁、天井、暖炉などは白を基調にした静かな雰囲気だが、次のハイドンホールは一転して、壁、天井を絵画で埋め尽くし華やかな雰囲気に激変する。かつてはダンスホールとして使われ床は石敷きだったが、ハイドンが板張りの床に直したそうだ。その結果、世界で最も優れた音響といわれるほどのコンサートホールが出来上がった。
 およそ40年エステルハージ家に仕え、楽長に就き、数多くの作曲を依頼され、演奏会で絶賛を浴びたハイドンだからできたのであろう。
 ハイドン時代そのままのホールでは毎年9月に音楽祭が開かれるほか、交響曲、室内楽、オラトリオ、オペラ公演などがしばしば催され、ハイドンファンを始めとした大勢が集まってくるそうだ。この日も、公演のリサイタル中だった。
 天井中央は聖書をテーマにしたフレスコ画、四方のメダリオンはハンガリーの女神たち、壁上部には歴代のハンガリー王が描かれている。絵も素晴らしい。開演前は絵を見て眼を癒やし、公演で耳を癒やすことができそうだ。

ベルク教会Bergkirch
 エステルハージ城から西に500mほど、緩い登り勾配の大通りを歩くと、斬新な形の建物が現れた(写真)。教会とは思えないデザインだが、エステルハージ城を建てたエステルハージ・ポール(1635-1713)が1705年に建設を始め、一時中断し、1803年、エステルハージ・ミクローシュ(1765-1833)=ニコラウス2世の代に完成し、Bergkircheと名付けられた。直訳すれば山の教会になる。
 あとで資料を読んで分かったが、上階にイエス・キリストの受難を表したヴィア・ドロローサと磔刑されたゴルゴダの丘が模型としてつくられていることから、丘=山の教会と名付けられたようだ。塔に上れば、エステルハージ城や広大な沃野も見えるらしい。いずれも見逃した。目当てはハイドンの墓だったのでやむを得ない。
 ハイドンはアイゼンシュタットのほとんどの教会で演奏したそうだ。資料には、1803年71才が最後の演奏になったと記されている。想像をたくましくして、ベルク教会が完成した1803年、エステルハージ家への最後のご奉公とハイドンはここで演奏したのではないだろうか。
 教会の外観は、私にはユーゲント・シュティール≒アール・ヌーヴォ≒分離派を連想させるが、バロック様式である。
 聖堂は円形平面でドームがのり、天井には聖書をテーマにしたフレスコ画が明るい色調で描かれている。祭壇画は東方の三賢人のようだ。一礼する。

ハイドンの墓
 ここを訪れる観光客の目当てはハイドンの墓である。ハイドンは1809年5月にウィーンで息を引き取り、現在はハイドン公園と呼ばれるウィーンのフントシュトルマー墓地Hundsturmer Friedhofに埋葬された。1820年、ハイドンゆかりのアイゼンシュタットに改葬されることになった。ところが棺を開けたら、ハイドンの頭がなかったそうだ。のちに、ハイドンを信奉していたエステルハージ家の書記官が密かに頭だけを持ち去ったことが分かったが、当初は、頭無しの身体だけがベルク教会に埋葬された。その後、ハイドンの頭がウィーン楽友協会に保管されていることが分かった。
 1932年、ベルク教会にハイドン廟が建てられ、ハイドンの身体が大理石の棺に安置された。ハイドン教会と呼ばれるのはそのころからと思うが、まだ頭無しである。1954年、ウィーン楽友協会から頭が移された。ようやく五体がそろい、ハイドンも安らかになれたと思う。
 増築されたハイドン廟はシンプルな四角い外観で、ハイドン教会の入口を兼ねている。聖堂は自由に参拝できるが、ハイドン廟は厳重に管理されている。係りに入場料を渡すと鍵を開けてくれ、鉄柵の奥の棺を見ることができる。ハイドンの棺に合掌して外に出た。

ハイドンの家
 フランツ・ヨーゼフ・ハイドンFranz Joseh Haydn(1732-1809)は、現在のオーストリア・ニーダーエスターライヒ州ローラウで生まれた。ローラウはウィーンの東南、アイゼンシュタットの東北、いずれからも直線で40~50kmの農村である。父は車大工だったそうだが、フランツは小さいうちから音楽に秀でていたらしい・・ローラウにはハイドンの生家が公開されているが、今回のツアーには含まれていない・・。
 フランツは6才のころ音楽学校校長の親戚に預けられ、音楽の才能を伸ばす。たぶん歌がうまく声が良かったので、声楽の練習をしたのではないだろうか。
 8才のころ、ウィーンのシュテファン大聖堂聖歌隊に採用される。
 フランツは9年間聖歌隊に属したが、1749年、17才のとき、声変わりのため聖歌隊を解雇されてしまう。フランツは音楽の才に長けていたばかりでなく、勉強熱心でオルガンやヴァイオリンなどの演奏も身につけ、作曲も試みたようだ。解雇後、ウィーンにとどまり、ヴァイオリンやオルガンなどの演奏でなんとか暮らし、独学で作曲を身につける。
 そうした地道な努力が報われ、1757年、25才のころ、ボヘミアのカール・モルツィン伯爵に宮廷楽長として雇われる。このころ初めての交響曲第1番を作曲し、次々と作曲を手がけた。
 1760年、ハイドン28才のとき、マリア・アンナ・ケラーと結婚する。ハイドンの好きだった妹が修道院に入ってしまったため姉のマリアと結婚したそうだ。妹が駄目なら姉と結婚するというのは安易すぎる。そのせいか、マリアとの結婚はうまくいかなかったらしい。
 ほどなくモルツィン伯爵の経済が厳しくなり、ハイドンは解雇される。
 1761年、エステルハージ・パール・アンタル(1711-1762)がハイドンを副楽長に雇う。ハイドンとマリア夫妻は、エステルハージ城から東に250mほどの住まいを借りて住んだらしいが、1766年、エステルハージから借金をし、この住まいを購入する。現在はハイドンハウスとして公開されている(写真)。
 室内の床は板張り、壁、天井は明るい色のプラスター塗で、当時の家具が置かれ、資料が展示されている。ハイドンが実際に弾いたピアノ・・ドイツのピアノ職人Anton Walter(1752-1826)製・・も展示されている。
 ハイドンはここに11年住んだが、エステルハージ・ミクローシュ・ヨージェフ(1714-1790)が現在のハンガリー・エステルハーザにオペラ劇場やマリオネット劇場などを併設した豪華な館を建てて移ったので、ハイドンも楽団員とともに移り住んだ。この住まいを出るときに「別れのシンフォニー」が作曲されたそうだ。

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