つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る
2023.5 正戸里佳ヴァイオリンリサイタル さいたま市プラザノースホールで、定期的に「ウイークデーの午後のひととき、ちょっとしたお出かけ気分でクラシックを楽しみませんか?」をコンセプトに、ノース・リラクシング・コンサートが開かれる。
2023年5月の金曜13:30開演「正戸里佳 ヴァイオリンリサイタル」が開かれた(ポスターweb転載)。入場料500円、公演時間45分、午後のひととき、ちょっとしたお出かけ気分でリサイタルを楽しんだ。
正戸氏は10歳でモルドバ・フィルハーモニーと共演したそうだ。その後、パガニーニ国際ヴァイオリンコンクールで3位、ドミニク・ペカット国際ヴァイオリンコンクールで1位、桐朋女子高等学校音楽科を首席卒業、パリ国立高等音楽院修士課程を首席卒業、などなど輝かしい成績、成果をあげ、現在はパリと日本を拠点に国内外で演奏活動を続けている。経歴を聞いただけでも拍手を送りたい気分になる。
プログラムといっしょに「正戸里佳と歩く パリの散歩道 スペシャルマップ」が配られた。パリ1~20区のイラストマップに代表的な建物が描かれ、パリゆかりの作曲家の略歴が紹介され、裏面にはパリの名所が簡潔に記されている。
フランスはパリを起点に4回旅し、チュニジアを訪ねたときもパリ経由にしたので、パリの名所を懐かしく思い出し、正戸氏が近しく感じられた。コンサートで旅のマップが配られるのは初めてである。いい試みと思う。
プログラムは、パリの名曲選と題し、
タイスの瞑想曲 マスネ
春の朝に リリ・ブーランジェ
ノクターン第2番変ホ長調Op.9-2 ショパン/サラサーテ編曲
ノクターン第16番変ホ長調Op.55-2 ショパン/サン=サーンス編曲
ヴァイオリンとピアノの為のソナタ第1番Op.75 サン=サーンス
アレグロ・アジタート-アダージョ
アレグレット・モデラート-アレグロ・モルト
すでに演奏+話で50分を過ぎていたが、鳴り止まぬ拍手に
アンコール 亜麻色の髪の乙女 を弾いてくれて演奏会が終った。
ジュール・マスネ(1842-1912)はフランスの作曲家、若いときからオペラ作家として高く評価され、パリ国立高等音楽院の教授として大勢の音楽家を育てたそうだ。「タイスの瞑想曲」は、ビザンチン帝国統治下のエジプトを舞台にしたオペラ「タイス」の間奏曲である。
オペラ「タイス」は観たことがないが、「タイスの瞑想曲」はヴァイオリンコンサートやユーチューブでよく耳にする。おだやかなテンポで、ゆったりした気分になる。
リリ・ブーランジェ(1893-1918)はフランスの作曲家、生まれながら臓器に障害があって医師から短命を宣告されたが、2歳で神童ぶりを発揮し、音楽の英才教育を受け、4歳になると姉ナディア・ブーランジェ(1887-1979)にくっついてパリ音楽院の講座を学び、のち自身も音楽院の学生になった。1913年にカンタータ「ファウストとエレーヌ」でローマ大賞を受賞した。
ヴァイオリンとピアノのための「春の朝に」は最晩年の作曲である。現代的な感覚の軽快なテンポだった。
フレデリック・ショパン(1810-1849)はワルシャワ生まれで、20歳からパリで活躍した。2019年5月のポーランドツアーでショパンコンサートも聴いたし、ショパンの心臓が埋葬されている聖十字架教会も見学した(写真)。日ごろ、家でショパンのCDもよく聴く。
編曲のパブロ・デ・サラサーテ(1844-1908)はスペイン生まれ、10歳のときスペイン女王イサベル2世の前で演奏したほどの才能を発揮、のちパリ音楽院で学び、作曲家、ヴァイオリン奏者として活躍する。サン=サーンスとは仲が良かったそうだ。
ノクターン(夜想曲)第2番変ホ長調Op9-2はCDでも聴いている。穏やかなリズムで親しみやすい。
カミーユ・サン=サンサーンス(1835-1921)はフランス生まれ、2歳でピアノを弾き、3歳で作曲し、10歳で演奏会を開いた神童である。フランスで作曲家、ピアニスト、オルガニストとして活躍し、国民音楽協会設立のメンバーで、フランス音楽振興に努めた。
ノクターン(夜想曲)第16番変ホ長調Op55-2もよく聴く。第2番変ホ長調Op9-2 にくらべ静かに感じる。
カミーユ・サン=サンサーンス(1835-1921)作曲のヴァイオリンとピアノの為のソナタ第1番Op.75は1885年の作曲、正戸氏は激しい動きに汗をかきながら弾いてくれ、軽快な+ときに激しいテンポで気分が弾んでくる。
ピアノ伴奏は伊藤順一である。伊藤氏も4歳よりピアノを始め、東京芸術大学付属音楽学校、東京芸術大学で学び、彩の国さいたまピアノコンクール金賞、横浜国際音楽コンクール1位後、パリ・エコールノルマル音楽院の奨学金でフランスへ、アンリ・バルダ氏のクラスを首席で修了、飛び級し・・・、審査員特別賞で修了し、パリ音楽院を経て・・ヨーロッパ各地の国際コンクールで入賞・・、.帰国後日本ショパンピアノコンクール第1位・・の輝かしい経歴である。 正戸氏とはパリ国立高等音楽院の先輩後輩になるようで、曲の合間あいまに親しげに言葉を交わしていた。
アンコールで弾いてくれた「亜麻色の髪の乙女」はフランスの作曲家クロード・ドビュッシー(1862-1918)の作曲で、ヴァイオリンやピアノコンサートのアンコールによく演奏される。
アンコールを終えたときはすでに60分ほどになっていた。2人の熱演に感謝し、拍手を送る。心地よく家に戻り、ショパンのCDを聴きながらコーヒータイムにした。それにしても皆さん、小さいころから音楽の才能を発揮したり、神童だったり、音楽に疎い私には羨ましい限りである。 (2023.6)
2022.9 山梨・舞鶴城公園=甲府城跡を歩く 湯村温泉を出て県道6号線を東に走り、右折して中央本線を渡った先が舞鶴城公園=甲府城跡である。湯村温泉から10分ほどだった。
甲斐国は、1582年の武田氏滅亡後織田信長が支配し、本能寺の変後徳川家康の支配になる。
家康は甲府城の築城を始めるが1590年に家康は関東移封になり、代わって豊臣秀吉が築城を進めさせ、1593年、浅野長政・幸長親子の代に甲府城が完成する。
1600年の関ヶ原の戦い後、浅野氏は和歌山に転封され、徳川義直(家康9男)、徳川忠長(家光の弟)、徳川綱重(3代家光の 3 男=4 代家綱の弟=5 代綱吉の兄)、綱重の嫡男・綱豊(のちの6代将軍家宣)、柳沢吉保などが城主になり、勤番制も取られたりして明治維新を迎え、1873年、廃城になる。
1903年に中央線が開通し城跡に甲府駅が建つ。1904年、城跡が舞鶴城公園として開放される。内堀を埋め立てて県庁舎などが建設されたが、1997年に鍛冶曲輪門、1999年に内松陰門、稲荷曲輪門、2004年に稲荷櫓、2013年に鉄門が復元された。
かつての甲府城は20haだったそうで、単純計算でおよそ450m×450mの広さだが、中央本線、甲府駅、県庁などの開発が進み、現在開放されている舞鶴城公園は6.5ha(単純計算で255m×255m)である。
舞鶴城公園の南東に車を止める。旧甲府城の南側には堀が残されている(写真)。舞鶴城公園案内板を見ると堀が残っているのはここだけで、ほかは埋め立てられたようだ。
堀に遊亀橋が架かっている。かつての追手門は城の南側・西寄りに位置するが、開発により堀は埋められ、城の西側は県庁などの施設、甲府駅、鶴舞通りになっている。新設であっても遊亀橋と堀と石垣の風景は、かつての甲府城を偲ばせる。
湯亀橋を渡るとかつての鍛冶曲輪=現在の自由広場で、正面に石垣が立ちふさがる。石垣に沿って左の坂道を上る。
石垣は大きく野面積、打込接、切込接に分けられるそうだ。野面積は、自然石を加工せず積み上げていく工法である。石は不整形、大小バラバラで、隙間には間詰石(まづめいし)と呼ばれる小石を詰める。初歩的な工法である。
打込接(うちこみはぎ)は、自然石を打ち欠き、石の隙間を少なくして積み上げていく工法である(写真、甲府城坂下門石垣)。石の接合が野面積より安定するので、野面積より高く積み上げることができる。石の隙間には間詰石を詰める。野面積より進化した工法である
切込接(きりこみはぎ)は、石同士を隙間なく接合するように加工した石を積み上げていく工法である。石の隙間がなく安定しているので打込接よりも高く積めるし、隙間がないので見た目もきれいである。打込接よりさらに進化した工法で、江戸城、名古屋城など江戸時代の築城、改修に多用された。
打込接の石積みを見ながら坂下門跡を抜ける。
かつての甲府城は追手門から入城し、楽屋曲輪に入り、鍛冶曲輪門を抜け、鍛冶曲輪に入り、坂下門を抜け、左=西の二の丸、右=東の天守曲輪に入る道筋だったようだ。
坂下門を抜けると右=東に中の門=柵の門跡がある。細かな情報はパンフレットにも説明板にも紹介されていないが、坂下門と中の門で枡形を作っていたのではないだろうか。
中の門跡を抜けると天守曲輪で、左の石垣のあいだの急な石段の上に鉄門(くろがねもん)が構えている(写真)。2013年の復元で、2階建ての櫓門である。石段は、紋付き羽織袴の武将、あるいは鎧兜の武将がこの石段を日々上ったとは想像できなほど急である。
鉄門の2階は公開されているので、見学した(写真)。柱、貫、梁、垂木を素木で現し、壁を漆喰で塗った簡潔な作りである。復元工事の様子などが展示されていた。
石段側の窓から天守曲輪がよく見える。万が一、敵が天守曲輪まで攻め込んでも、急な石段でもたもたしているうちに狙い撃ちされそうである。
鉄門を抜けると本丸広場に出る。天守台は右=東に見える。
先に、左の塔を見る。字がかすれた説明板には、1911年、明治天皇が山梨県にある皇室の山林を県に寄贈してくれ、感謝の意を表すため1920年、この謝恩碑を建てた、と記されている。設計は当時の東京帝国大学教授・伊東忠太(1867-1954)、大江新太郎で、塔はエジプトのオベリスク、台座はバイロンのイメージだそうだ。山梨県の花崗岩を積み上げた、高さ18.2mの塔である。
築地本願寺など名建築を手がけた伊東忠太は、日本建築の源流を求めて中国、インド、トルコを旅し、エジプトを経てヨーロッパに足を延ばしているから、エジプトの強烈な記憶を再現しようとしたのかも知れない。
謝恩碑の北西に銅門(あかがねもん)跡があり、石段の下に高麗門形式の内松陰門(うちまつかげもん)が1999年に再現された(写真)。内松陰門の手前が二の丸、門の先が屋形曲輪になる。
内松陰門まで下りた。絵図には屋形曲輪の先に内堀があり、続いて清水曲輪、さらに先に外堀が記されているが、いまは鶴舞通りに建物が並び、昔の面影はなかった。
石段を戻り、途中から銅門跡を見上げると奥=東に天守台の石垣が見える(写真)。かつてはここに天守閣が構えていて、壮観だったに違いない。
城造りの技術者は防御も優先しただろうが、城の見せ方にも万全を期したはずである。天守の復元は難しいだろうが、要所要所から城がどんな風に見えるか、復元想像図を紹介してくれるといいね。
天守台に上がり、甲府盆地を一望する(写真)。旧甲府城周辺の標高は270m、天守台の標高は295mだから典型的な平城である。
武田家が館を構えた躑躅ヶ崎は標高350m、湯村山は446mだったから、徳川家康は軍事に加え、政治、経済的な利便から甲府城の位置を考え、豊臣秀吉も同じ考えを踏襲したようだ。
現在の甲府市が人口19万人の県庁所在地として栄えているのが、徳川家康、豊臣秀吉の目利きの高さを裏付ける。
天守台、本丸から城の北側になる稲荷曲輪に下る。2004年に復元された稲荷櫓が建つが(写真)、非公開である。稲荷曲輪からの眺めはズングリしていて、開口部は少なく、変化に乏しい櫓に見える。
散策をしている地元の方に食事処を聞くと、稲荷櫓の先の坂道を下り、城外に出て中央本線の踏切を渡り、線路沿いを西に歩くと甲府駅北口で、手前に甲州夢小路が最近できて人気、などを教えてくれた。
踏切を渡ると、稲荷曲輪の整った外観が現れる(写真)。プロポーションも開口の配置も屋根の形もいい。城の技術者がいかに見せ方を工夫したかが分かる。
甲府駅北口前は、よっちゃばれ広場と名づけられた駅前広場として整備されていた。イベントで活用されるらしい。
甲州夢小路は、線路沿いに蔵をイメージしたデザインで整備されていて、甲州ワインショップやカフェなどが並んでいた(写真)。線路側の席で甲府城の石垣を眺めながらランチを取り、甲州ワインを購入して帰路についた。 (2023.6)
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日本の旅>
2022.9 山梨・湯村温泉を歩く 湯村温泉の北は湯村山の丘陵地で、南麓に塩沢寺(えんたくじ)が建立されている。宿から数分なので参拝した。
湯村温泉を流れる湯川に架かった延命橋を渡ると、塩沢寺三門が構えている(写真)。温泉で養生し、仏に帰依すれば延命するということだろうか。
塩沢寺は、808年に空海(774-835)が開山、955年に空也(903-972)が開祖、と伝えられている。
空海は唐に渡ったあと806年に帰国するが、20年の留学期間を2年に切り上げたことから数年、太宰府に留め置かれ、京都・高雄山寺に入ったのは809年である。開山とされる808年は太宰府にいたはずだから、つじつまが合わない。となると弘法大師湯村温泉開湯も疑わしくなる。
空也開祖も気になる。955年は空也52歳ぐらい、梓澤要著「捨ててこそ空也」(book547参照)によれば、そのころは京都・鴨川近くの道場で十一面観音像、守護諸尊像の造立、大般若経 600 巻の書写、新たな道場の建設(のち西光寺と呼ばれる、現在の六波羅蜜寺)で多忙を極めていた。塩沢寺まで行脚に出る余裕はなかった、と思う。
推測だが、空海、空也の門弟、弟子、ゆかりのある人が806年ごろ湯村温泉を見つけて念仏を唱え、955年ごろ堂を建て、後世の人が開山空海、開湯弘法大師、開祖空也と話が大きくなったのではないだろうか。弘法大師空海、空也と聞けば御利益が高まりそうである。大事なことは、無心に信じることであろう。
三門右手前に剪定された松が水平に伸び出している(前掲写真)。鶴が羽を広げ飛び出そうとしている形に剪定されていて、舞鶴の松と名づけられている。甲府三名松に上げられているそうだ。
三門は間口3間の楼閣で、阿吽の仁王がにらんでいた。年代などは記されていない。
山門で一礼し、見上げると石段の先に地蔵堂が建つ(写真)。間口4間、奥行き3間、銅板葺き寄棟屋根で、組物などの建築様式から室町時代末期とされ、国の重要文化財に指定されているが、近年の研究で江戸時代初期と推定されている。
堂内には、弘法大師を模したとされる高さ1.5mの地蔵菩薩坐像が安置されている(写真)。岩盤を削って台座にした石像で、室町時代の造立である。
またまた推測だが、弘法大師空海開山、開湯の伝承をもとに、信心深い方が地蔵菩薩坐像を彫り、雨ざらしでは申し訳ないと信心深い方が地蔵堂を建てたのではないだろうか。
合掌する。
地蔵堂の境内右手に湯村山遊歩道入口の案内板が立っている。(ここからも湯村山に登れたのだが)、湯村山散策マップには旅館明治あたりに湯村山入口、山頂まで30分と記されていたので、旅館明治まで下ってから、遊歩道を歩き始めた。
塩沢寺あたりの標高が300m、旅館明治あたりの標高は290m、湯村山山頂は446mだから標高差は150mほどである。
歩き始めの遊歩道は舗装されたなだらかな勾配で、竹林、雑木林も手入れされていた(写真)。鳥のさえずりを聞ききながら、フィトンチッドphytoncide=森の精気を吸い込む。
山頂まで15分の案内板を過ぎる。途中で、近道になりそうな、石がゴロゴロした急な道を選ぶ。大雨のときは水の流れ道になりそうだ。
近道を何度か歩き、20数分ほど経ったころ、石垣らしい積み方の遊歩道に出た(写真)。大小入り乱れた石が無造作に積まれている。
ほどなく標高446m湯村山山頂に着いた。遊歩道入口から25分ほどだった。
武田信玄(1521-1573)の父・信虎(1492-1574)が、1519年に躑躅ヶ崎の館を築き(現在の武田神社、「2022.9山梨・武田神社を歩く」参照)、甲斐の統治を強固にするため、1523年、湯村山山頂に山城を築いたそうだ。
山頂からは甲府盆地一帯を見渡すことができ、今日は雲に隠れているが富士山も遠望できる立地である(写真)。戦国時代の武将は地形を読み、戦略、流通にかなった場所に城、館を配置しようとしたことが理解できる。
甲府盆地を眺め、夢の跡になったつわものの歴史を思い、遊歩道を下る。
石がゴロゴロ、急な近道を何度か歩き、山神の社あたりで分かれ道を選んで下ると塩沢寺の境内に出た。往復とも誰ともすれ違わなかった。往復50分ほどで、弘法大師空海の伝承に触れ、武田家の戦略、興亡に思いを馳せられる散策になった。
宿に戻り、次は甲府駅近の舞鶴城公園=甲府城跡を目指す。(2023.6)
<斜読・日本の作家一覧> book552 等伯 上下 安部龍太郎 文春文庫 2015 下 第10章 松林図 祥雲寺方丈に続き仏殿、法堂、大庫裏などの内装は長谷川派に任され、等伯は200人を超える職人を率いて絵を描いていく。
久蔵は、名護屋城の御座の間、大広間の絵を描くため名護屋城に向かう。名護屋城のほかの障壁画は、狩野永徳の長男光信が請け負い、狩野派が描いている。
朝鮮出兵のその後が挿入されるが割愛。
病に伏した松栄から会いたいとの連絡があり、等伯は狩野図子の屋敷に出かける。松栄は、せがれ永徳の天才ぶりに野生の血を持つ信春をぶつけようとした、永徳の唐獅子図屏風は信春に出会った永徳が自分の殻を破ろうともがいた結果、と話す。ほどなく松栄没す。
等伯55歳は祥雲寺大庫裏の絵を仕上げていく。正面の松に雪はまだ納得できないが、西側の猿猴図は評判になり、下絵を見た秀吉から褒美が届く。
清子に男の子が生まれ(のちの左近)、久蔵がお祝いに戻ってくる。等伯は久蔵とふるさとの七尾へ向かう。妙蓮寺で静子の遺骨を受け取り、気比神社に参詣、翌日は気多大社に参詣する。正覚院所蔵の信春が26歳のときに描いた十二天像の話が挿入されるが割愛。
七尾は前田利家の所領となり町は大きく変わった。かつての長谷川家は跡形もなかった。長寿寺は本延寺の日便上人が兼務していて、静子の遺骨を納め追善供養を行う。
翌朝、まだ夜は明けていないが等伯は七尾湾の松林に出かけ、海面から水蒸気が立ち上り、手前の松は色濃く、遠ざかるにつれ次第に薄く見える風景を目に収める(この風景が松林図に反映される)。
清子の仲立ちで久蔵が見合いするが、割愛。
等伯が出家した畠山義綱から、夕姫は石田三成に謀られ、琵琶湖で口封じのため水死させられたと聞く話は割愛。
夕姫の悪夢にうなされた等伯は、善女竜王を祀る神泉苑で占ってもらうと、遠くにいる息子に災いが起きると告げられる。急ぎ久蔵に護符を届けさせるが間に合わず、久蔵が名護屋城の外壁に絵を描いているとき足場が崩れ転落死したと知らせが入る。追って、名護屋城造営奉行をつとめる浅野弾正の配下が、久蔵の遺骨を届ける。
不審に思った等伯と清子が、清子の伯父の豪商油屋を通して調べてもらうと、狩野派の企みと分かる。
等伯が京都所司代前田玄以に相談すると、玄以は、秀吉は朝鮮出兵の頓挫に苦慮していて名護屋城での不祥事が明らかになるのを避け、ことを穏便に納めようとしている、淀が懐妊したので世継ぎが生まれると石田三成らが権力を握ることになり、三成には逆らえない、と話す。
納得できない等伯は、狩野宗光の側女が住む別宅に乗り込み、宗光を押さえ込んで小刀で脅し、裏狩野=忍び狩野が久蔵を転落死させたこと聞き出し、念書を書かせる。
等伯は、大徳寺天瑞寺での秀吉の母=大政所一周忌の法要への参列を許されたので、訴状を胸にしのばせ下座で控えていた。酒宴を終え秀吉が茶会に向かうとき、等伯は三成が止めるのを振り切り訴状を秀吉に渡そうとして警固番に取り押さえられる。
秀吉の怒りを買い、三成も投げ飛ばしたので万事休す。そこへ出家して龍山と名乗る近衛前久が現れ、秀吉に、一時の怒りで絵描きを処刑するのは金の卵を産むにわとりを殺すようなもの、と言う。秀吉は、等伯の絵が余の目にかなったなら処刑はやめる、さにあらば龍山公にも責任を取ってもらう、と応じる。
前久は等伯に、これまで誰も見たことのない絵を描けと注文する。秀吉は伏見城への移徙(わたまし=転居)の酒宴に、絵か、絵描きの首を引出にすると公言する。
等伯は山水図を画題とし、祥雲寺書院に描ききれなかった七尾の海の霧にかすんでいく松林を描こうとする、が筆が進まない。
本法寺に籠もり、本尊曼荼羅の前で勤行する。虚空会(時間、空間を超えた永遠の世界=仏の悟りの世界)に加わる如来の一人になりきり、悟りに向かって一心不乱に唱題していると、目の前に霧の情景が広がった。
等伯は、11歳のとき長谷川家に養子に出され、辛さと悲しみに打ちのめされて家を飛び出したときの、気嵐が立ちこめる七尾の海の情景に迷い込んでいた。寒風に吹きさらされた浜辺の松は、遠ざかるにつれて気嵐の中に消えていく。それは死んだ者、失意の者が黄泉の国に向かう姿のようだ。
在りのままの実相を描き、悟りの世界にいざない、見る者すべてに己に通じるものがあると感じさせる絵、等伯の筆が勝手に走り出す。三日間、寝食を忘れ、33枚の大判の紙に描き続け、完成とともに気を失う。
気づいた等伯に、大徳寺の春屋宗園が眼福にあずかった、寿命を延ばしてくれた、と語る。
等伯は、秀吉の伏見城移徙の日に松林図を携え伏見城に赴く。大広間で開かれていた100名近い酒宴が終わる。秀吉の声で大広間の襖が開かれる。百畳近い大広間は松や虎の絢爛豪華な障壁画がつらなり、上段の間の後ろには大きな唐獅子がにらんでいる。
等伯は、縦五尺二寸、横十一尺八寸、六曲一双の松林図屏風を立てる。霧におおわれた松林が姿を現し、風に吹かれた霧が幽玄の彼方に人の心をいざなう(写真web転載、東京国立博物館所蔵、国宝)。
近衛前久が等覚一転名字妙覚(法華経の教えで、等伯が初心にかえり普遍的なところに突き抜けたことを意味する)と言う。
秀吉、家康ら、戦国の世を血まみれになって生き抜いてきた者たちが、松林図に心を洗われ、在りのままの自分にもどり、涙を流した。
秀吉は龍山公の慧眼に感服し、等伯を誉め称える。
それから16年、松林図を描いて以降も多くの絵を描き、1605年に朝廷から法眼に叙される。
清子は先立ち、宗也、左近も絵師として成長する。
1610年、家康に招かれて江戸に向かう旅で等伯は病を患い、江戸に着いてほどなく息を引き取る。
享年72歳、波瀾万丈の生涯だったが利休の言葉通り絵師の道に命をかけて大成し、近衛前久、春屋宗園、豊臣秀吉、徳川家康・・・・、現代においても見る人の心に迫り続けている。
安部龍太郎氏の力量のお陰で、長谷川等伯をよく理解できたし、等伯の絵の見方も学ぶことができた。 (2023.6)
<斜読・日本の作家一覧> book552 等伯 上下 安部龍太郎 文春文庫 2015
下 第7章 大徳寺三門
聚楽第普請は1586年2月に始まり、翌1587年秋にほぼ完成する。信春は永徳らとともに障壁画に腕を振るう。久蔵が腕を上げ、狩野派の若い弟子からも兄貴分として慕われる。永徳は信春に、久蔵を預かり、一流の弟子に育てたいと申し出る。信春は久蔵が狩野派の弟子になることに悩むが、永徳のもとで久蔵を学ばせる道を選ぶ。
久蔵は欠けたが能登屋は順調で、扇は洛中一、二を争うほど繁昌し、新たに職人を雇い、総勢12人になる。
信春は大徳寺・春屋宗園60歳に師事して禅を学び始めていた。大徳寺に行くと、宗園と利休67歳が、利休の寄進で三門を2階建てに作り替える話をしていた。信春は、三門の壁画を任せて欲しいと密かに願う。
信春は些細なことで清子と言い争い、清子が本法寺に帰ってしまう。本法寺住職になった日通上人が訪ねてきて、清子を大事な人と思うなら娶ってはどうですかと話す。清子の献身に気づいた信春は結婚を申し出る。信春は久蔵に、清子との結婚を伝える。久蔵は二十四孝図屏風で忙しく、かなり遅れて了解の返事が届く。
永徳は信春に聚楽第本丸御殿内覧会を知らさなかったので、利休が信春を内覧会に同行させる。信春の襖絵は、永徳の差し金で?別の部屋に移されていたが、永徳のきらびやかな襖絵に信春は度肝を抜かれる。
利休屋敷に誘われた信春に利休は、永徳の絵は本物の美しさではないと話す。そこに、秀吉、石田三成29歳が来る。秀吉は信春に、二の丸対面所の梅の枝にとまった二羽の雀は若いころのわしと嬶のようで気に入った、と話す。三成は、永徳が三門の壁画を寄進したいと申し出たことを明かす。
話は秀吉が聚楽第に迎える後陽成天皇18歳の御幸に移るが割愛。
信春が大徳寺を訪ねると、春屋宗園が三門の絵のことかと信春の魂胆を見透かし、信春に在りのままの自分とは何か分からぬようでは修行が足りないと、追い返す。
信春は1年間苦しみ、心を形としてはとらえることはできないが、在りのままの自分は絵に現れることを得心し、急いで大徳寺三弦院を訪ねる。長老は留守だったので、僧の制止を振り切り秀吉からの襖に心の内からわき上がってくる想いに従って一心不乱に筆を振るってしまう。
1589年5月、秀吉53歳と淀殿とのあいだに鶴松が誕生する。宗園と利休は信春の襖絵を鶴松様の誕生祝いにすると話し、二人は三門の壁画も信春に頼むと言う。
三門壁画には手手が必要なので、信春は狩野永徳に久蔵を返すよう頼む。ところが、久蔵は永徳の企みで?、加賀・前田家の仕事に行かされていた。
信春は三門の下絵にとりかかる。信春は、自分の内の何者かが絵という形をとって飛び出しているように感じながら筆を振るう。天空でとぐろを巻く龍、体をくねらせ鋭い爪を立てる昇り龍と降り龍、怒気を発し人間の弱さや愚かさを見据える阿吽の仁王に、宗園は感心し、信春の精進をほめる。
狩野の嫌がらせで職人が集まらなかったが、久蔵が狩野派を飛び出し金沢から戻り、久蔵を慕って狩野派の若手七人も来てくれ、三門の壁画が完成する。
利休は信春に等白の号をすすめ、秀吉以下諸大名列席の落慶法要が行われて、等白の名が知れ渡る。
下 第8章 永徳死す
1590年、秀吉は小田原・北条氏に宣戦を布告し、諸大名に出陣命令が下る話は割愛・・阿部氏は歴史に詳しく、信春=等白=等伯の活躍にからめて時代の動きが描写される・・。
長谷川等白の大徳寺三門の壁画の評判が全国に知れ渡り、能登屋はてんてこ舞いの忙しさになる。清子が妊娠する。
狩野松栄の頼みで等白は久蔵を連れ、永徳に会う。永徳は傲慢な態度で接する。久蔵は、秀吉に信長像の描き直しを命じられてから永徳が心の病をわずらった、と等白に話す。
京都所司代・前田玄以から、秀吉が仙洞御所の対の屋を造営するので襖絵の絵師に等白を推薦するが、石田三成から永徳にも話が伝わっていると告げられる。等白は襖絵を描きたい気持ちに執着し、近衛前久に会うが力になれないと断られる。
兄武之丞が現れ、片目を失ったが隠棲した畠山義綱に仕えていると話す。等白は、武之丞の案内で夕姫に会い、仙洞御所対の屋襖絵の後押しを頼む。夕姫から、対の屋を巡る秀吉の駆け引きや近衛前久の立場が語られるが割愛。
等白は、夕姫の工作量?300両(≒3000万円)を清子の反対を押し切り武之丞に渡す。前田玄以から、鶴松誕生後、豊臣家が加藤清正らの武断派と石田三成らの吏僚派に勢力が割れていることが語られるが割愛。
信春は、武之丞から狩野派に対抗するために必要とさらに300両を渡す。600両は能登屋1年分の利益、不安になった等白に、玄以から 対の屋の絵が等白に決まったと連絡が入る。ところが狩野永徳が有力公家に働きかけ、朝議で等白の決定が覆り、狩野派に発注される。
等白は酒の勢いで狩野屋敷に乗り込み、永徳に裏工作は止めよ、初心に返り魂のこもった絵を描けと迫る。信春は押し止めようとする弟子ともみ合って頭から血を出し、永徳が久蔵を返せ、久蔵に絵を教えていると初心に返ることができたと話すのを聞きながら、気を失う。
それからひと月ほどして永徳が急死する。等白、久蔵は弔問に駆けつけたが、追い返される。
下 第9章 利休と鶴松
1591年、等白は清子、久蔵、清子とのあいだの子(のちの宗也)と正月を迎え、600両の損失、狩野派との行きちがいを反省し、初心に返り、自分の絵の完成をめざそうと思う。
久蔵は、父等白の絵は天才的な個性の表れのために近づけないが、永徳は狩野家の技法と修練を身につけ、さらに新しい水準に高めようとするので、自分でも鍛練を積めば絵を上達させられる、と語る。
その年、秀吉は弟秀長たちの反対を押し切り朝鮮出兵に動き出す。秀長の病没で三成ら官僚派の力が強くなり、出兵が推進される。
三成は、利休を排除しようと大徳寺三門に置かれた利休像を問題視する。等白が大徳寺を訪ねると、利休は等白に、筋の通らぬことに屈して生きるより己の生き様を貫いて命を終える方がいい、わしは茶の湯の門、お前は絵師の門を命をかけて守らねばならぬ、と話す。利休は、形見分けと言って、等白の白に人偏を書き足す。以後、等伯と名乗ることになる。
等伯は利休の助命のために力になって欲しいと夕姫に会う。夕姫は、石田三成が身辺を洗いざらい調べ、弱みを見つけ脅しをかけていると話す。
等伯は清子の止めるのも聞かず、利休助命のため等伯に宛てた利休の添え状と30両を持ち出し夕姫に会いに行く。清子は宗也を連れて家を出る・・等伯は思い込むと猪突猛進に突き進む性格で、読み手はそのたびにハラハラさせられる。阿部氏の筆裁きか?・・。
等伯の行動は報われず、利休は切腹させられる。利休のさらし首を見た等伯は怒りで自分を見失い、いつの間にか大徳寺三弦院に着く。宗園に喝を入れられ気を失う。気がついた等伯に宗園は、亡き者を背負って画境に向かえ、利休に向き合って肖像を描け、と諭す。
等伯は利休を背負って生きようと、画帳に向き合う・・このあと、清子が静子13回忌のために戻ったこと、久蔵の永徳に学んだ技法による蘇鉄の襖絵などの話が続くが割愛・・。
朝鮮出兵の話も割愛・・、1591年8月、鶴松が3歳で逝去する。ちまたでは利休の祟りと噂される。等伯が前田玄以に呼ばれて所司代を訪ねると、玄以は、鶴松供養のために祥雲寺を建立する、その障壁画を利休の祟りという噂を打ち消すため、秀吉は(利休に目をかけられていた)等伯に任せよとおおせられた、と告げる。
祥雲寺の造営奉行は、ふつうなら鶴松の母淀に与する官僚派の石田三成だが、分権派の筆頭である徳川家康につとめることになる。
等伯が秀吉に目通りすると、秀吉は、(信春と永徳の勝負で描いた)老梅に小禽図は心が和むと言い、鶴松のいる浄土の景色を描くように命じる。
またも玄以に呼ばれ等伯が所司代に行くと、夕姫に渡したはずの添え状を兄武之丞が持っていて利休讒訴の咎で斬首される、と教える。石田三成が利休死罪の批判をかわすため、夕姫、武之丞を謀ったようだ。等伯が牢獄で両目を失った武之丞と話した3日後、武之丞は斬首される・・夕姫も10章で三成によって水死させられる・・。
朝鮮出兵の準備が進む。名護屋城築城が始まる。等伯のもとに、祥雲寺方丈の図面が届く。
等伯は大徳寺真珠庵・蘇我蛇足の絵に倣おうと久蔵に話すと、久蔵は大徳寺転瑞寺・狩野永徳の絵に倣いたいと応える。等伯も久蔵に賛同し、中之間は松と黄蜀葵、礼之間は松と立葵、仏壇の間は松に春草図の金屏風、旦那之間は久蔵が桜、衣鉢之間は等伯が楓を描くなどの方針が定まる。
久蔵は自分の絵が納得できず姿を消す。等伯いわく、表現者は孤独、誰にも真似のできない境地を目指し一人で求道の道を歩かねばならない、久蔵も自ら極めなければならない。久蔵は気比の松原で松を眺め続け、見えているように描けばいいことに気づく。
二人の下絵を見た秀吉は、感服し松を天井まで突き抜けるように、久蔵に名護屋城の障壁画も任せる、と話す(写真web転載、現在の智積院所蔵国宝、左等伯・楓図、右久蔵・桜図)。 続く