yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

浅田次郎「一路 上下」2

2021年04月30日 | 斜読

book529 一路 上下 2 浅田次郎 中公文庫 2015  <斜読・日本の作家一覧

 四日目/12月6日、妻籠宿を早立ちする。三留野を過ぎて険しい登りになったうえ、峠越えの与川道が崩れて立ち往生する。死人が出そうな断崖絶壁の難所だが、一路は与川越えを敢行する。
 殿の「田名部の宝は物にあらず、おのおの方の命」を聞き、涙を流して重荷の品を捨て、荒縄を張って体を支えながら、土砂がひっきりなしに崩れる難所を渡りきる。
 将監は殿を狙う好機と伊東喜惣次に指図するが、殿は斑馬で難所を乗り切る。
 上松宿泊だが、本では触れていない。

 五日目/12月7日、上松から2里半の木曽福島関所前で、軍勢ごとき一行は明六ッ=6:00ごろの開門を待っていた。与川越えを信じられない関守は与川崩れを検分し、かつて爺から聞いた蒔坂家こそ戦国武将の話を思い出し、与川崩れを乗り切った一行に報いようと、蒔坂家が捨てた持ち物を拾い奈良井宿本陣に届ける。
 奈良井宿の一行は疲労困憊していたので、一路は翌朝の出立を明け七ッ=4:00から六ッ=6:00の遅立ちに変える。

 六日目/12月8日、奈良井を立ち、木曽路を抜け、塩尻峠で諏訪平を一望し、湯宿が軒を連ねる下諏訪宿に着く。
 殿は諏訪大社秋宮に詣で、馬籠宿の火災で親を亡くした娘の加護を願う・・娘との約束を果たすなど、殿のひたむきな生き方は決してうつけではないが・・。
 うつけのふりをして湯に浸かる殿を、一路の下知で勘十郎が護っていたため、将監のもくろみはまたもはずされる。

 七日目/12月9日、下諏訪宿は横殴りの雪のうえ、和田峠は中山道随一の難所である。雪人形のごとき80人は、殿の決断で鬼の栖といわれる和田峠に向かう。
 雪に埋もれあわや凍死の寸前、殿は年老いた白雪に乗る。白雪が拓いた道を一人また一人と和田峠に這い上がり、一行は和田峠に立つが、白雪は斑馬にあとを託し、絶命する。
 和田宿の夜半、軍記奉読のさなか、辻井良軒が殿に眠り薬を処方する。供頭一路が毒味しようとして、良軒と諍う。殿は家来が諍うことほど悲しみはないと語り、供頭とともに眠り薬を服用する。
 良軒は喜惣次から砒素を混ぜるよう指示されていたが、殿の采配を見てけっしてうつけではない、自分がだまされていたと気づき、すでに小野寺、栗山に薬を処方した咎を負いながら医術の道を歩むと、喜惣次に反発する。将監の計略はまたも失敗する。

 八日目/12月10日、佐久平を通過して岩村田宿に着く。岩村田は内藤家の陣下である。譜代大名の鑑とされる内藤家と蒔坂家の江戸屋敷は隣り合わせで昵懇だった。
 17歳で内藤家を継いだ志摩守は奏者番の大任を務めていて気位が高い。挨拶に出向いた殿をないがしろにし、築城中につき祝儀を包めと言う。殿は、隅櫓ぐらい建つほどの名刀、東照神君拝領一文字吉房を差し出す。これに志摩守が窮し、一件落着する。
 天狗になった志摩守とうつけの殿の刃傷を期待していた将監はまたも狙いがはずれる。

 九日目/12月11日、朝七ッ、一行は岩村田を発ち、佐久平を眺め、軽井沢に向かう。
 一方、加賀百二万五千石前田慶寧の妹乙姫16歳の一行300人余が浅間山を愛でながら、ゆるゆる進んで来る。
 蒔坂家一行は早足で、参勤道中につき身分の上下かかわりなく失礼と、乙姫一行を追い抜く。斑馬の殿はみごとな手綱さばきで無礼をわびる。続いて供頭一路が無礼を言上したところ、乙姫は供頭を呼び止め珊瑚玉の簪を渡す。乙姫は初恋をしたようである。
 蒔坂家一行は碓氷峠の緩やかな長い登りに入るが、疲れ切っていた。駕籠に乗り換えた殿が熱を出す。殿は、行列が止まれば迷惑をかける、松井田へ向かえと一路に命じ、松井田宿まで押し通す。
 松井田宿本陣で、倒れ込むように床に入った殿に良軒が薬を処方する。良軒は、将監、喜惣次に脅されたが毒を処方しなかった。将監の企みはまたも頓挫する。

 十日目/12月12日、上野国安中城主板倉主計頭勝殷は殿と昵懇だった。板倉家はまた、安中流遠足術が家風だった。殿の発熱を聞いた板倉勝殷は自ら松井田宿までの2里16町≒9.8kmを走り、見舞いに訪れる。
 そのうえ、参勤交代遅延の届書を、安中流遠足術の極意である3人一組で走る風陣の秘走で、江戸表までの32里≒128kmを三刻半≒7時間(季節によって異なる)で届けてくれることになった。・・その後、江戸では風陣の秘走がつむじ風?、天狗?と噂になる・・。
 一方、前田家乙姫はお付き女中の鶴橋に初恋を話す。鶴橋は竹駕籠に姫を乗せ、合戦に望むお気持ちでと早駕籠で松井田宿本陣に向かう。その夜、小野寺一路は姫と星空の下で語りあう。

 このころ、田名部の城下では、由比帯刀の御家乗っ取りに反対した国分七左衛門が牢屋に押し込められてしまう。一路の許嫁である七左衛門の娘薫は、中仙道に向かって手を合わせ、存分にお働き下されと願う。
 
 十一日目/12月13日、殿は板倉勝殷が持参した下仁田葱が効いて回復する。一行は1日遅れで松井田宿を立ち、深谷宿を目指す。
 ところが、信州小諸城主一万五千石の牧野康哉が、井伊大老に抜擢されて若年寄を努めたが井伊大老が桜田門外で暗殺され体制が変わったため罷免され、加えて病いが重く、御暇の途中で深谷宿を本陣としていた。本陣差し合いである。
 供頭一路は1日遅れとはいえ蒔坂家が本陣手配済み、と牧野家供頭に主張する。牧野家供頭も格上の大名が本陣、格下の旗本が脇本陣と譲らない。
 殿は、供頭、家来にかまわず、葱を手にして本陣の牧野康哉を見舞う。牧野は殿の明晰さをほめ、殿は若年寄りの仕事ぶり範とすると応え、病の牧野に本陣を譲り、自らは脇本陣に入る。
 深谷宿は殿の心意気に感じ入り、蒔坂家一行に大盤振る舞いする。

 十二日目/12月14日、蒔坂家一行の最後の夜は桶川宿である。
  将監は前日、深谷宿を早立ちして桶川には泊まらず、大宮・氷川神社に向かった。
 ・・江戸での風陣の秘走の噂や、蒔坂家江戸屋敷でのすずと一路の母の話が挿入される・・。
 桶川宿では、佐久間勘十郎が賭場で大当たりしていた。このとき渡世人浅次郎に出会う。・・あとで浅次郎は、将監によって家族とともに放逐された幼なじみと分かる・・。

 十三日目/12月15日、明け七ッに桶川宿を立つ。殿は、一行を参道に待たせ、武蔵国一宮氷川神社の参拝に向かう。一の鳥居で馬を下りた殿を、将監の企みが気になる勘十郎、足軽、一路が護衛する。殿は、偶然出会った寺社奉行井上河内守一行とともに参拝する。その間に、殿の護衛の家来が、御家転覆を企む2名の敵を倒す・・将監の計略を切り抜ける・・。
 荒川・戸田の渡しで横殴りの雪になる。将監の指示で、御座船に殿、斑馬、将監、喜惣次、手下が乗る。覚悟を決めた殿は自ら溺れ死にし、将監に蒔坂家当主の座を譲ると話すが、悪党たちは刀を抜き殿に迫る。その瞬間、船頭のふりをしていた浅次郎が手下を鋭い剣裁きで倒し、将監の首をはねる。

 15日夕刻、古式に則った一行は艱難辛苦を感じさせないあでやかな行進で板橋宿を過ぎ、ついに本所吉田町江戸屋敷に到着する。・・側用人伊東喜惣次を自らを恥じ、土蔵で切腹する・・。
 このあと、徳川家茂とお庭番の話があり、最後に、家茂に呼び出された殿に家茂が一万石に加増し大名に列すると下知するものの、殿は、自分は家康公より安堵された田名部七千五百石の将であり、七千五百石の民に一所懸命でありたいと、一万石・大名を断る。家茂は一所懸命の志に同感し、僭越であったと応える。
 最後に参勤道中の解消、一路とは人生一路、斑馬の将軍家献上、もと馬喰の角界入りなどが語られ、大団円のなか幕が下りる。

 気づいた名言、「神仏を恃む暇があるなら面倒をかけた人々に頭を下げよ」「横着は不忠、怠惰は真実を損なう」「武士の面目は他聞他目にあらず、自聞自目に恥ずるな」「無理か否かはお努めを果たせるか否かである、前を見て歩め、振り返るな、おのれを信じよ」

 中山道を通しで旅したことはないが物語に登場するほとんどの名所は訪ねているし、脚色されているが史実も織り込まれていて、物語が身近に感じられた。展開もハラハラさせてはホッとするように収めていて、気分爽快委に読み通した。殿の思いやる気持ち、一路のひたむきさも気持ちを前向きにさせてくれる。
 新型コロナウイルス感染自粛などで気分がうっとうしくなった人におすすめである。物語に引き込まれ、興に乗って参勤道中記を図化しながら読んだ。   (2021.4)

 

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浅田次郎「一路 上下」1

2021年04月29日 | 斜読

book529 一路 上下 1 浅田次郎 中公文庫 2015  <斜読・日本の作家一覧

 浅田次郎氏(1951-)の現代版浪花節「プリズンホテル」(book528)は痛快だった。新型コロナウイルスで気分が閉塞しそうなときは、主題のもくろみはさておき、痛快さが気分をほぐしてくれる。柳の下の2匹目の泥鰌を探そうと図書館に出かけ、浅田次郎コーナーで「一路」を見つけた。
 私は見なかったがテレビドラマ化されたし、さいたま市には25ほどの図書館、分館があるがすべての図書館に一路が蔵書されていて、人気の高さがうかがえる。
 浅田氏の痛快な筆裁きを期待して読み始めた。「プリズンホテル」を読み出して「破茶滅茶」の言葉が浮かんだが、「一路」では「てんこ盛りの幕の内弁当」が浮かんできた。弥次喜多東海道中膝栗毛や水戸黄門漫遊記のような盛りだくさんの話題に、登場人物それぞれの心の葛藤、悲喜劇が描かれている。まさにてんこ盛りの幕の内弁当である
 タイトルの小野寺一路が主人公と思いきや、場面が変わると殿様=蒔坂左京大夫が一人称になり、別の場面ではお家乗っ取りを謀る蒔坂将監が三人称に、変わって側用人の伊東喜惣次が一人称になり、蘭方医辻井良軒が一人称に、前田家乙姫が三人称に・・、さらに殿の白馬や斑馬、徳川家茂の池の鯉までも語り出すほど、浅田氏の筆は変幻自在に飛ぶ。 

 原作は2010年の連載で、2012年に単行本化され、2015年に文庫本化された。
 文庫本・上の裏表紙には、「失火により父が不慮の死を遂げたため、江戸から西美濃・田名部郡に帰参した小野寺一路。齢十九にして初めて訪れた故郷では、小野寺家代々の御役目・参勤道中御供頭を仰せつかる。失火は大罪にして、家督相続は仮の沙汰。差配に不手際あれば、ただちに家名断絶と追い詰められる一路だったが、家伝の「行軍禄」を唯一の頼りに、いざ江戸見参の道中へ!」
 下巻裏表紙には、「中山道を江戸へ向かう蒔坂左京大夫一行は、次々と難題に見舞われる。中山道の難所、自然との闘い、行列の道中行き合い、御本陣差し合い、お殿様の発熱・・・・。さらに行列の中ではお家乗っ取りの企てもめぐらされ--。到着が一日でも遅れることは御法度の参勤交代。果たして、一路は無事に江戸までの道中を導くことができるのか!」と紹介され

上巻目次は、其の壱 御発駕まで
其の弐 左京大夫様御発駕
其の参 木曽路跋渉
其の四 神の里鬼の栖

下巻目次は
其の四 神の里鬼の栖 承前
其の五 風雲佐久平
其の六 前途遼遠
其の七 御本陣差合
其の八 左京大夫様江戸入 と展開するので、あらすじはつかめる。
 となれば、道中で繰り広げられる難問、難題をいかに切り抜けるかが醍醐味になる。そもそも連載だったのだから、参勤道中に立ちふさがる難問はより難しく、難題はよりやっかいな方が読み手の気持ちをハラハラさせ、その難関を一話ごとに切り抜けて読み手をホッとさせる、そこに浅田氏の本領が発揮されるのである。

 物語の主役である殿は、蒔坂家39代当主の左京大夫である。蒔坂家はもともと現岐阜県・西美濃の石田治部小輔に縁の深い土地だったが、関ヶ原の戦いで徳川に馳せ参じた。その功で、田名部(架空)七千五百石の領土を安堵され、五千の旗本寄合衆とは別格の参勤交代をする交代寄合三十三家のうち、さらに二十家の交代寄合表御礼衆に選別された。
 一般の旗本が若年寄支配だが、交代寄合は老中支配で、江戸城では格下の大名が柳間に詰めるのに、蒔坂家は格上の大名とともに帝鑑間に詰める。旗本でありながら別格の待遇である。
 殿の父38代左京大夫は男子に恵まれず、跡継ぎとして従兄弟の子である蒔坂将監を養子に迎えた。ところが側室が懐妊、現在の殿である男子が生まれたので、将監は廃嫡された。殿は、父亡きあと9歳で39代蒔坂左京大夫を継ぎ、江戸城に詰めることになる。将監は殿の後見人となる。
 殿は叔父の将監を兄のように慕い、できれば自分は隠居し、将監に家督を継いでもらいたいと考え、うつけの振りを通す。対して将監は自分が当主になり損ねたこともあり、殿のうつけを田名部城下に流言し、国家老由比帯刀と結託、門長屋住まいの伊東喜惣次を三百石の側用人とし、御家乗っ取りを画策する。
 この御家乗っ取りの画策が本題の参勤交代にからみ、読み手をハラハラさせたうえで、難題を切り抜けて読み手をホッとさせる。浅田氏の筆は軽快である。

 物語の主人公といえるのが、本のタイトルの小野寺一路である。父弥九郎は、蒔坂家参勤交代御供頭だった。・・たぶん、忠義心が厚く、将監の御家乗っ取りに気づき、供頭添役の栗山とともに未然に防ごうとしたようだ。そのため、弥九郎は眠り薬を飲まされ屋敷の火災で焼死、栗山は毒を盛られ卒中で息を引き取った、ということを一路はあとで知るが、城下では将監の企みであることがうすうす知られていた・・。
 物語は、父の不慮の死を知った一路が江戸から田名部に帰参し、殿から御供頭を任じられるところから始まる。
 江戸で生まれ育った一路は、千葉道場免許皆伝、東条一堂塾頭の英才だが、まだ19歳で、父から参勤道中について何も聞いていない。一路は、屋敷の焼け跡で見つかった「元和辛酉歳蒔坂左京大夫様行軍録」を手にし、途方に暮れる。

 元和辛酉=1621年の参勤交代とは(関ヶ原の戦いが1600年、徳川家康開府は1603年)、ことあるときは軍兵を率いて江戸へ馳せ参ずる行軍を意味していたようだが、いまは文久元年=1861年で、240年のあいだに行軍の本来の意味も失われ、簡素化されてしまった。
 一路にとって参勤道中の手引きはほかにないし、道中筮・朧庵(終盤で徳川家茂のお庭番だったことが判明)の勧めもあって、古式に則り、いにしえの武門の誉れを復活する行軍を目指す。
 この古式に則った参勤道中が物語の主軸になる。

 田名部から江戸までは中山道11宿12日と定められていて、遅参は許されない。譜代大名は6月か8月、外様大名は4月の参勤交代だが、蒔坂家は12月出立が習わしで、文久元年辛酉1861年は12月3日に出立し、12月14日の江戸入りとなった。
 道中は原則、暮六ッ泊まり、七ッ立ちである・・江戸時代は日の出前およそ30分が明け六ッ、日没後およそ30分が暮六ッで、その間を昼夜それぞれ6等分して一刻とした。冬至の明け六ッは6:00ごろ、七ッは4:00ごろ、冬至のころの暮六ッは17:00ごろで、緯度によって異なる。4:00から17:00まで12時間以上の歩き通しだから、それだけでも参勤交代が行軍だったことが想像できる・・。

 道中のすべてが供頭である一路の差配になり、一路の補助が供頭添役の栗山真吾である。
 簡素化された以前の参勤道中は50名だったが、一路は古式に則って総勢80名の陣容とし、劈頭は陣笠+猩々緋陣羽織+片鎌十文字槍旗指物で飾った佐久間勘十郎、先達は双子のもと馬喰の丁太、半次が支える長さ一丈=3m、重さ五貫=19kgの東照権現様御賜之朱槍二筋、続いて武具、槍組、鉄砲組、弓組、徒士・・などが続く。殿の馬も白馬一頭に簡略化されていたが、一路は馬喰の斑馬をもらい受け、二頭とした。
 
 一日目/12月3日、殿は、前日の古式に則った奴の検分で興奮し、丑の刻=2:00前後に目覚める。陣太鼓を合図に、絵巻物のごとき絢爛たる行軍が動き出す。家臣は平伏し、商家、百姓が土下座して見送るのを見て、殿はやり過ぎと感じ、心苦しくなる。・・殿の人を思いやる気質は物語中になんども描かれる。浅田氏の気持ちの優しさであろう・・。
 殿と家来は田名部八幡宮で道中平安を祈願する。古式に倣い殿が気合いをあげると、家来は一糸乱れぬ勝ち鬨で呼応した。
 殿は、狭い籠のなかで強行軍に耐えながら長良川を渡り、初日の鵜沼宿に着く。

 二日目/12月4日、鵜沼宿を立つ。東照権現様拝領の槍を捧げた軍容ごとき行軍に太田宿本陣の代官も土下座し、無事に通過する。
 狭い駕籠で、いつもより疾い行軍のため、殿は足がしびれ、引きつってしまい、一路に馬を用意させる。殿は初めて乗った斑馬をみごとにさばき、難所の急坂を乗り切る。
 二日目の大湫宿から古式に則り、参勤道中は行軍であり、本陣では眠っていないように見せるため、殿の寝所では一晩中、小姓が太平記、平家物語などの軍記の奉読が始まった。殿は、体は綿のように疲れていたが、軍記に引き込まれ、ときに涙し、ときに自らを鼓舞し、いつの間にか朝を迎えてしまう。

 三日目/12月5日、明け六ッ=6:00ごろ、大湫宿を立つ。大井宿へ向かう十三峠で、御役御免となり国元へ戻る三葉葵・松平河内守一行の200人行列と行き合いになる。相手は大名なので道を譲らなければならないが、一路たちは東照権現様拝領の槍を立てて進む。河内守は平伏し、一行は無事に通過する。
 馬籠宿で、殿は火事で親を亡くした娘に声をかけ、殿の名札と銀少々を与え、諏訪神社に祈願すると約束する。
 妻籠宿に亥の刻=22:00ごろに着く。夜半に一路は将監と由比の御家乗っ取りの企て、父の謀殺を知り、栗山真吾に教える。誰が敵か味方か不安になるが、佐久間勘十郎から80人の徒士の多くは一路と真吾の古式に則った行軍で忠義心が目覚めたと聞き、決意を新たにする。
 その2に続く (2021.4)

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2020.1シチリアの旅14 アグリツーリズモ アグリジェントへ

2021年04月21日 | 旅行

世界の旅・イタリアを行く>  2020.1 シチリアの旅 14 アグリツーリズモ 風力発電 マルタの旅 石灰岩 アグリジェント ホテルへ
 
 シチリアの旅4日目13:00、セジェスタ神殿駐車場をあとにする。
 イタリアでは農村を体験する新しい観光スタイル、アグリツーリズモ agriturismo=農業agricoltura+観光turismoに力を入れている。イタリアのツアーでは行程の途中にアグリツーリズモを組み込むことが多く、2014年にもトスカーナの農家レストランでランチを取った。
 今日の昼食は、セジェスタ神殿駐車場から20分ほど山道を走ったアグリツーリズモレストランTenute Marganaである(写真)。周りはなだらかな起伏にブドウやオリーブが栽培された、のどかな田園が広がっている。

 おすすめの白ワイン2ユーロを頼む。シチリア産で、すっきりした味わいだった。
 前菜はアーモンドペースト+バジルをからめたペンネッテが出た(写真)。おいしかったが、少し塩味が効いていた。
 主菜は2種類のソーセージが器にドカッと出た(写真)。味はよかったが、素朴すぎる。見た目の工夫をするとおいしさが倍増すると思う。
 デザートはフルーツである。
 同行者と歓談しながら、ゆっくりと食事を楽しみ、14:45ごろレストランを出る。

 今日の宿のアグリジェントはセジェスタから直線で東南に90kmほどだが、セジェスタから山あいのを南に走り、地中海に出て海沿いを東に走るので150kmほどになる。
 山あいを走っている途中で何度も大型風力発電機を見た(写真)。
 イタリアの電力の3/4は火力発電である。原子力発電はチェルノブイリ事故後に新規開発は中止になり、福島原発事故後は反対意見が圧倒的多数派になった。代わって、省エネルギーの推進とともに、17%を目標にした再生可能エネルギーの積極的な導入が図られている。
 日本では火力発電が約80%、原子力発電が約3%、水力、再生可能エネルギーともに約8%である。火力発電への依存が大きすぎるうえ、再生可能エネルギーはイタリアに比べても低い。日本政府は2030年目標として、再生可能エネルギー22~24%、化石燃料56%、原子力発電20~22%としている。
 原発事故の恐ろしさを忘れてはいけない。脱炭素化は温暖化防止に不可欠である。化石燃料、原子力発電から脱却し、積極的に再生可能エネルギー+省エネルギーを推進するしか道はない。日本のエネルギー政策の深化を期待したい。

 セジェスタから1時間ほど走り、サービスエリア・オアシスoasiで10分ほどの休憩を取る(写真)。カウンターでエスプレッソ1ユーロを注文した。小さなカップの濃厚なコーヒーに砂糖を一匙入れ、かき回さずに一口飲んで苦み走った味を楽しみ、次いで苦みに砂糖がからまった残りを一気に飲む。1ユーロで気分がすっきりする。

 ほどなく地中海が現れた(写真)。海は凪いでいるようで、波は静かである。彼方には雲が伸びていて島影は見えないが、南90km先にマルタ島、ゴゾ島が並んでいるはずだ。
 ・・1999年12月、ロンドン経由でマルタ共和国を訪ねた。5日目にマルタ島からゴゾ島に向かおうと、首都バレッタからゴゾ島に面したチェルケウア港までTさんの車で出かけたが、フェリーは小型ですべて欠航だった。あわててバレッタまで戻り、メゾン港からゴゾ島行きの大型フェリーに乗った。90分の地中海の船旅は、椅子にしがみついていないと体をもっていかれるほどの大揺れだった。冬の嵐だったらしい。帰りは風が収まり小型フェリーも再開されていたので、ゴゾ島からチェルケウア港まで45分の小型フェリーに乗った。凪いだ地中海の彼方を見ていてマルタの旅を懐かしく思い出した。「マルタ右往左往・マルタ紀行5日&マルタ紀行5-6日」・・。

 地中海に削り取られた断崖は白い地肌を見せている(写真)。石灰岩であろう。貝殻などを主成分とした炭酸カルシウムの堆積岩が隆起した地層である。長く太陽にさらされると黒ずんでくるが、パレルモ大聖堂やマッシモ劇場のように、明るい太陽で黄色みを帯び、夕日が当たると黄金色に輝く。味わいのある素材で、加工もし易く、建築に多用されている。
 ・・南イタリア・アルベロベッロはトウルッリと呼ばれる円すい形の屋根を乗せた住居が建ち並んでいて、世界遺産に登録されている。トウルッリの壁は石灰岩を積み上げ、屋根は板状の石灰岩を重ね、すき間をペースト状の石灰岩で埋めている。かつては、雨水を石灰岩盤に掘った地下に溜めて生活水に利用していた。風土に暮らす知恵である。(2000年6月にトゥルリの住み方調査を実施した。「南イタリア・アルベロベロの石積み住居トゥルリの住み方」民俗建築誌124」)

 18:00近く、アグリジェントAgrigentoの街に入った。ホテルはサン・レオーネの海辺に建っているが、コンダクターのHさんはバスをアグリジェント市街を抜ける道に迂回させ、途中で一時停止した。
 なんと闇夜に神殿の遺構が浮かび上がっていた(写真)。ジュノーネ神殿Tempio di Giunoneらしい。太い丸柱がスクッと立ち、梁を支えている。ライトアップで柱、梁だけが浮かび上がっていて、揺るぎなさを感じる。

 幻想的な神殿で気分が高揚したまま、18:20ごろ、ディオスクーリ・ベイ・パレスDioscuri Bay Palaceにチェックインする。海辺に建ち、部屋は海側の2階で、港の灯り?が見える(写真、翌朝撮影)。静寂を縫って波の音が聞こえてくる。眺めがいいと気分もいい。
 19:00、1階レストランに集合する。レストランは私たちだけだった。海の季節は大賑わいらしい。
 ビールはBirra Moretti4ユーロが出た。ピルスナー系の味で飲みやすいが、髭を生やした紳士がジョッキを片手にいままさに飲もうとしているラベルを見ると、あわせて乾杯したくなる。主菜が肉なので、赤ワインも頼んだ。Cummo Nerosse3ユーロはシチリア産のワインで、軽やかな味である。
 前菜はバジルとパルメザンチーズを絡めたペンネッテで、ビールと相性がいい(左写真)。主菜はベーコンで包んだチキンとポテト(右写真)で、赤ワインとの相性がよかった。デザートはコーヒー味のアーモンドケーキで、私には甘過ぎた。
 同行者とも話が弾み、20:30過ぎ、食事を終えた。

 外は月明かりもない闇であり、明朝は8:00集合・出発で少し早いので、散策は止める。
 今日の歩数は10000、午後はバスでの移動だったから足に疲れはないが、入浴しながら足をもみほぐす。入浴後、今朝COOPで購入したColomba Platino=プラチナ色の鳩を味わいながら、スーツケースを整理する。Colomba Platinoはシラクーサのワインで、軽やかな喉ごしである(写真)。常温なので甘みすら感じる。冷やせばきりりとした味になりそうだ。
 
 シチリアの旅5日目、5:15に起きる。日の出前でまだ暗いが、満月が見える。晴れになりそうだ。室内は25℃、52%で快適だった。室外は12℃、55%、日射しがあれば旅日和の天気である。
 明るくなってきて、海が見えた(写真)。眺めがいい。遠くには船も動いている。バルコニーに椅子を持ち出し、ボーと地中海を眺めていたいが、今朝は少し早い。
 スーツケースをドアの内側に残し、7:00、1階レストランでビュッフェ朝食をとる。シチリアは食材が豊かである。
 朝食後、早足で海まで歩いた。左に港が見え、数え切れないほどのヨットが舫ってあった(写真)。漁船は見当たらない。ここは海のリゾート地のようだ。
 集合時間8:00にあわせ、ホテルに戻る。  (2021.4)

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2020.1シチリアの旅13 セジェスタ 古代劇場+古代神殿

2021年04月19日 | 旅行

世界の旅・イタリアを行く>  2020.1 シチリアの旅 13 セジェスタ 古代劇場・古代神殿 

 シチリアの旅4日目、朝6:00に起きる。シチリア時間になじんできたようでぐっすり寝たが、乾燥で鼻がピリピリする。室内は24℃、43%、室外は17℃、44%で、日本よりはかなり乾燥している。窓からの眺望は楽しめないが空は晴れている。吉であろう。
 5階の雰囲気のいいレストランでビュッフェ朝食を済ませ、スーツケースを準備して、散策に出る・・スーツケースを廊下に出しておくと盗難の恐れがあるので、最近はドアの内側に置いておく・・。
 シチリア人は宵っ張り朝寝坊らしいので人通りはないが、オープンテントの花屋はせっせと働いていた(写真)。勤めに出るとき花を買って職場に飾るのだろうか?。朝食前に花を買って食卓に飾るのかも知れない。どちらにしても花好きは気持ちの温かさを感じさせる。

 昨晩夕食を楽しんだピッツェリア・ボルボンの少し先にスーパーマーケットCOOPがあるので、足を伸ばした(写真)。
 シチリアの食材などを眺めていて、ワインコーナーを見つけた。シチリア産白ワインを探しながら何本か手に取っていたら、日本人の青年2人と出会った。旅の途中で、この近くに泊まっているらしい。D.O.C.G.(統制保証原産地呼称)が最上級、D.O.C.(統制原産地呼称)が上級と教えてくれた。お礼の代わりに「いい旅を」と言って別れ、D.O.C.のシチリア産Colomba Platino(プラチナ色の鳩といった意味らしい)を購入した。8ユーロだった。格安である。たいした早起きではないが、Colomba Platinoは三文の得になるか?。

 10:00、予定通りホテル前からバスが走り出す。今日は午前にセジェスタで古代神殿とギリシャ劇場を見学し、午後はアグリジェントに向かう行程である。
 セジェスタはパレルモの南西の山あいに位置し、直線なら50kmぐらいだが、高速道路はティレニア海に沿って半円を描いていて、80kmほどになる。
 1時間近く走ると、海沿いの風景から山あいの風景に変わった(写真)。 斜面にはシチリア名産のブドウ、オリーブが広がっている。地味、気候が適しているようだ。

 11:15ごろ、標高430mぐらいのバルバロ山Monte Barbaroを始めとする山あいの駐車場に着いた。・・北アフリカから侵攻してきたイスラム教徒がモスクを建たことから、ギリシャ語の異民族を意味するバルバロイが山の名前になったとの説がある・・。
 シチリアには先住民のエリミ人Elymainが西部に、シカニ人が中部に、シケル人が東部に住んでいた。
 紀元前8世紀ごろから、ギリシャ人がシチリア島の各地に植民都市を築いた。始めのうちは共存共栄していて、エリミ人もギリシャの文字、文化、技術の影響を受けた。・・ギリシャ人はエリミ人の都市国家をエジェスタと呼んでいて、セジェスタsegestaの語源になったようだ・・。
 セジェスタの南に位置するギリシャ人の植民都市セリヌスが拡大し、セジェスタと衝突し始めた。セジェスタはアテナイと同盟を結んでセリヌスに対抗しようとし、紀元前5世紀にはカルタゴに援軍を頼んだ。・・シチリア島にカルタゴの植民都市もあり、北アフリカのカルタゴ本国からの援軍も上陸し、紀元前4世紀にはシチリアの中部~西部を支配下に置く・・。

 バルバロ山の山あいの標高400mほどの丘に、エリミ人が都市国家セジェスタSegestaを築いたのは紀元前5世紀ごろとされる。・・それまでエジェスタは平地にあって、ギリシャの植民都市セリヌスとの衝突の結果、眺望がよく、敵を発見しやすいバルバロ山に新たにセジェスタを築いたと考えるのが順当のようだが、根拠はない。セジェスタには、最盛期に10000人が暮らしたとされる。

 紀元前3世紀、古代ローマ人がシチリアを征服したあと、セジェスタは衰退する。5世紀のヴァンダル人の侵攻でセジェスタの都市は破壊されてしまう。
 セジェスタだけでもエリミ人、ギリシャ人、カルタゴ人、古代ローマ人、ヴァンダル人、イスラム教徒が登場し、シチリアの複雑な歴史をうかがわせる。

 駐車場から山道を上り、標高400mぐらいに築かれた古代劇場Teatro di Segestaに向かう(写真)。紀元前5世紀ごろの建造とされるから、セジェスタの都市建設と同時につくられたようだ。北向きの斜面を利用し、石灰岩を積んだ直径63mの半円形劇場である。つくり方も、暮らしに劇場が根付いていることも古代ギリシャに共通する。
 20段の観客席には3000人ほどを収容できたらしい。・・5000人という説もある。劇場には入れるのは男だけだったそうなので、最盛期の人口が10000人とすると、赤児から老人まで、すべての男を収容できたことになる・・。
 まだ修復半ばで、岩が転がり、足場も悪い。舞台も復元されていないが、眺望はいい。観客席の石段からは、山あいの先の農地、緑地、彼方のティレニア海まで望める。
 半円の石段をぐるりと歩き、最上段まで上る。途中で声を出すとよく響く。ギリシャ劇場の音響技術の高さがうかがえる。

 劇場から直線で西に1000mぐらい先の神殿に向かう。実際には斜面を蛇行しながら下るので距離は長くなるが風景はよく、風も心地よい。
 山道を歩いていて不思議な生え方の植物を見つけた(写真)。日本ではリュウゼツラン竜舌蘭と呼ばれていて、メキシコを中心にアメリカ南西部、中南米に自生するアガヴェagaveである。熱帯では10~20年、日本では30~50年に一度花を咲かすそうだ。
 2018年にメキシコツアーに参加して、栽培されているアガヴェを見た。6~8年で収穫し、葉と根を切り落として残った茎を蒸し焼きにしてすり潰し、樹液を発酵させてつくった蒸留酒をメキシコではメスカルmezcalと呼んでいる。メキシコ中部の町テキーラでつくられたメスカルは、テキーラとして世界に知られている。食事時に透明なテキーラを試しに飲んだ。アルコール度は35~55度と定められているそうで、香りがあり、すっきりしているが、飲み慣れているビール5~6度、ワインや日本酒14~15度に比べれば喉にヒリッを感じる強い酒だった。
 シチリアでは葉から繊維を抽出してロープをつくるそうで、酒はつくらないらしい。気候が変わると植物の育ち方も変わり、利用法も変わるということである。シチリアの気候にはワイン、オリーブが適しているのであろう。

 山道の途中から、標高300mほどに建つ堂々たる構えの神殿Tempio di Segestaが見える(写真)。東西軸で、側面に14本の円柱、妻面に6本の円柱、計36本の円柱が神殿を支えている。
 記録では紀元前430年ころにつくられたというから、劇場などと同時進行で建設されたようだ。しかし、古代ローマの侵攻で衰退し、ヴァンダル人によて破壊され、さらに大地震もあって、崩れたまま放置されたらしい。
 復元された神殿の正面に立つ(写真)。修復半ばだが、堂々たる構えに圧倒される。屋根は消失しているから、木造架構だったようだ。柱、梁は石灰岩で、円柱は3段の礎石の上に立ち、輪切りになった石を積み重ね、ドーリア式オーダーを乗せている。ドーリア式はギリシャの初期の神殿で採用された、最もシンプルなオーダーである。
 よく見ると、円柱はのっぺりしていて、切妻破風ペディメントや柱上部の水平材トラビアチオーネtrabeazione=英語entablatureには彫刻が施されていない。これから修復するのか、もともと未完成だったのだろうか、不明である。

  2014年にギリシャのパルテノン神殿を見学した。紀元前5世紀の建造だから、パルテノン神殿の情報がセジェスタに届き、セジェスタでもギリシャ神殿を手本にしたのではないだろうか。
 しかし、パルテノン神殿は白亜のごとく輝く大理石を材料とし、円柱は輪切りの石を積み重ねたうえに縦溝を施し、ドーリア式オーダー、トラビアチオーネ、ペディメントには立体的な彫刻を施して、神殿の威厳を演出している(写真)。
 セジェスタ神殿はパルテノン神殿に匹敵する技術が追いつかなかったのか、都市国家間の拮抗で石工不足+資金不足だったのか、資料は触れていない。
 昼の日射しを受け黄金色に変身したセジェスタ神殿をあとにして、山道を下る。
 バスに戻ったのは13:00過ぎだった。 (2021.4)

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2020.1シチリアの旅 12 ガリバルディ庭園 キアラモンテ宮

2021年04月15日 | 旅行

世界の旅・イタリアを行く>   2020.1 シチリアの旅 12 ガリバルディ庭園 キアラモンテ宮

  シチリアの旅3日目16:20ごろ、ベッリーニ広場に下りる。夕食の集合時間19:00・ホテルロビーまで間がある。パレルモ市街地図を広げ、ベッリーニ広場とホテル・フェデリコⅡの位置を確かめる。
 ベッリーニ広場から海に向かって東に歩き、キアラモンテ宮見学、港を見ながら北に歩き、サン・ドメニコ教会あたりを西に歩いて、ローマ通りを北に進めば、ホテルまでおよそ1.7-1.8kmぐらい、歩けそうである。
 ローマ通りVia Romaに出る。地図を確認していたら、通りがかりの女子大生?が「どこに行きたいですか?」と話しかけてきた。地図のキアラモンテ宮を指さしたら、ヴィットリオ・エマヌエーレ通りVia vittorio Emanueleを右に曲がり歩きで5分ぐらいと教えてくれた。シチリア人の親切を感じる。

 ヴィットリオ・エマヌエーレ通りは、石積みの歴史を感じさせる建物が4階建てに高さをそろえて並んでいる。ところどころにオープンカフェが設けられているが、車も走る。歩車、飲食、歓談混在の通りである。
 5分ほど歩くと右手の建物が途切れ、広場になった。広場の手前に樹木で半ば隠れた噴水が見える(写真)。地図を確認する。ガラフォの噴水Fontana del Garraffoらしい。
 このあたりが150m四方ぐらいのマリーナ広場Piazza Marinaで、真ん中に100×100mほどの樹木がこんもりしたガリバルディ庭園があり、その向こうがキアラモンテ宮のようだ。
 
 ガリバルディ庭園Giardino Garibaldyの入口扉が半分開いていて、犬を連れた婦人が入っていった。キアラモンテ宮の近道になると思い、庭園に入った。この庭園は 1861~1864年につくられ、1861年に成立したイタリア王国の国民的英雄ジュゼッペ・ガリバルディ(1807-1882)の名が付けられたそうだ。
 中ほどに高さ30mぐらい、幅は50mもありそうな巨木が大きく枝を広げている。気根がたれていてガジュマルを連想する。イタリアではbanyanと呼ぶらしく、このbanyanはヨーロッパ最大、イタリア最古の樹木だそうだ・・想像をたくましくすると、ここにもともとbanyanの大木が勇姿を見せていて、イタリア王国成立を記念しbanyanを中心にした庭園が造られ、ガリバルディ庭園と名付けられた、と思える・・。
 日が傾いてきた。庭園は柵で囲まれていて出口が見つからず、入口に戻った。遠回りになったが、神木のようなガジュマルに出会えたから吉であろう。

 マリーナ広場を大回りして、由緒ありそうな建物を発見する(写真)。地図にはガレッティ宮Palazzo Gallettiと記されている。16世紀ごろの建造で19世紀にネオゴシック様式で改造されたらしい。窓周りにアラブノルマン様式もうかがえる。
 港に近いから、有力貴族や大商人がこのあたりに館を次々に建て、改修、改造を加えながらいまも活用しているようだ。
 ガレッティ宮の左隣にはバロック様式の改修が見られる建物が建っていた。

 広場を左に折れた隣がキアラモンテ宮Palazzo Chiaramonteである(写真)。1307年にゴシック様式で建造された。上階窓周りなどはイスラム的=アラブ様式である(写真)。アラブノルマン様式はデザインとして定着しているようだ。
 石積みの1階には、小さな高窓と銃眼と思える縦長のスリットしか開けられていない。14世紀初頭は、シチリア住民の反乱=シチリアの晩祷をきっかけにスペインアラゴン王が介入し、ナポリ王国とシチリア王国に分裂した時期である。要塞の機能も加えられたように見える。
 いまは博物館として公開されているはずだが、扉は閉まっていた。横の通用口から出てきた人に聞くと、今日は全館貸し切り?らしい。
 キアラモンテ宮は外観だけしか見られなかったが、ガレッティ宮も見たから、中吉ぐらいかな。

 17:00ごろ、マリーナ広場から北西に歩く。ヴィットリオ・エマヌエーレ通りを渡ると右手は海=La Calaで、船が見える。
 海沿いの通りは車の往来が多い。魚市場らしいにおいが漂ってくる。街並みは雑然としている。街灯も少なく、地図もぼんやりしてきた。早足でローマ通りを目指す。教会が現れた(写真)。薄暗い中で目をこらし、教会の銘板を確かめる。サン・ドメニコ教会Chiesa di San Domenicoだった。
 教会の前の通りはローマ通りである。人通りも多く、街灯も増えた。ホテルの方向が分かると一安心になる。北に700mほど歩き、プリンチペ・ディ・グラナッテリ通りVia Principe di Granatelliを左折するとホテル・フェデリコⅡが見えた。

 ホテル手前のミニショップで、ハイネケンとメッシーナビール、あわせて4€を購入する。
 17:30ごろ部屋に戻る。バスタブのガラス扉の漏水対策が完了していたので、安心してシャワーを浴びた。
 ハイネケンを飲みながら地図を広げ、今日の足跡を振り返る。メモを読み直し、注釈を加える。明日の予定を確認する。7:00~朝食、10:00出発なので慌ただしくないが、スーツケースの整理する。

 夕食も自由行動だが、19:00にロビーに集合し、コンダクターHさんに同行した。プリンチペ・ディ・グラナッテリ通りを西に歩き、リベルタ大通りVia della Libertaに続くルッジェーロ・セッティモ通りVia Ruggero Settimoを渡り、少し北のステーファノ通りVia di stefanoを左に折れた。明るく、清潔な通りで安心できる(写真)。
 ステーファノ通りのピッツェリア・ボルボンPizzeria Re Borboneに入った(写真)。ボルボンはスペイン王朝名だが、店内の雰囲気は気さくだった。野菜サラダ、スープ、エビスパゲッティを注文した。どれも味はよく、食べやすかった。
 ビールを頼んだらperoniだった(写真)。イタリアで最も売れているビールだそうだ。日本のラガービールに似ている。赤ワインはまろやかな味だったが、ビールの方がスパゲッティとの相性はいい。40ユーロ/2人だったから、料金は手ごろである。

 20:30ごろホテルに戻る。歩数計は15100、よく歩き、見どころを満喫し、おいしく食べ、楽しく飲んだ。  (2021.4)

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