b390 ラファエロ真贋事件 イアン・ペアズ 新潮文庫 1995 斜読・海外の作家index
ラファエロ(1483-1520)はイタリア・ウルビーノ生まれで、幼いころから絵の才能を発揮し、10代で礼拝堂の祭壇画などの依頼を受けていた。20代始め、教皇ユリウス2世に招かれ、ヴァチカン宮殿のラファエロの間など数多くの絵を描き、後にルネサンスを代表する画家として数えられるほど有名になった。しかし、37才の若さで急死してしまう。亡くなる前年に描いた「ラ・フォルリーナ」はラファエロの愛人と推測されている。
それほどの画家であるから、絵の好きな方はラファエロの名作を手元に置きたいと願うだろうし、美術商はラファエロの絵で一儲けしようと考えるらしい。本物は一枚しかない。となると、盗むか?。実際、絵の盗難事件は多発している。そっくりの偽物を描くか。これも事実で数多くの偽物が描かれてきた。
ラファエロ真贋事件・・原題はThe Raphael Affair・・は、まだ知られていないラファエロの絵・・表紙のラ・フォルリーナに似た女性・・をめぐる推理小説である。
イタリアは芸術文化の歴史が古く、長い。数多くの名作が生まれたが、盗難事件、偽物事件も多いため、盗難美術品特捜部がイタリア警察に設置された。
その部長がポッタンド、ポッタンドのアシスタントを務める女性がフラビアで、ラファエロ真贋事件の主演になる。もう一人の主演がイギリスの美術史専攻のアーガイルで、この3人を中心に物語が展開していく。
推理小説であるがダイナミックでスリルに満ちた展開はないし、切れ味のいい推理や物証を整理して犯人像や動機を論証する展開もないから、私にはややもの足りない。
それは場面ごとの登場人物を主役にして物語を描くスタイルと、主要な展開が会話形式になっていることのためのようだ。事件の糸口があっちに飛び、新たな物証がこっちに飛び、なかなか脈絡がつかめないし、どれとどれが事件解決につながる伏線かも読み取れない。
著者イアン・ペイズはイギリス生まれ、美術史専攻で通信記者などを経て、美術犯罪小説を書き始めたその第1作がこのラファエロ真贋事件だから、こんがらかった展開は推理好きの読者への挑戦かも知れない。
事件はローマのカンポ・デ・フィオーリ近くのサンタ・バルバラ教会で始まる。イギリスでの研究でアーガイルはサンタ・バルバラ教会の祭壇に飾られた絵はまだ知られていないラファエロの絵だと確信し、教会に侵入したところ、絵はすでに無く、そこでつかまってしまう。
報告を受けたポッタンドが美術品のリストを調べると、祭壇の上の絵は18世紀の凡庸な画家であったマンティーニの「逃避途上の休憩」であった。
念のためアーガイルから事情聴取をすると、アーガイルは仮説を展開する。よく知られた名作を国外に持ち出させないように国境の検閲が慎重を極めていたころ、美術商は検閲をすり抜けるために、名作の絵の具を保護した上に凡作を描いて検閲を通り、国外へ持ち出してから凡作を洗い落とす技法を編み出したそうだ。
アーガイルによれば、イタリアの名門パルマ家は金銭的に困り、所蔵のラファエロの絵をイギリスのクロモートン伯爵に売却することした。そこで美術商がラファエロの絵の上にマンティーニの絵を描いて持ち出した。ところがこの絵はクロモートン伯爵には届かず消えてしまい、間もなくクロモートン伯爵も急死してしまう・・あとで殺されたらしいことが分かる・・。
ではラファエロの絵はどこに消えたか?。この事件の4年後にパルマ家の所蔵品にマンティーニの絵が増え、その後、マンティーニの絵はサンタ・バーバラ教会に寄贈され、祭壇の上に飾られることになった。アーガイルはこの絵がラファエロの未発見の絵と確信し、それを確かめようとサンタ・バルバラ教会に侵入したところ、絵が無くなっていた、というのだ。
ポッタンドがサンタ・バルバラ教会の司祭に確かめると、その絵はロンドンの有数の画商バーンズに一千万リラ≒1.5億円で売ったという。
話が少し飛ぶ。最高の修復家が集められ、バーンズの買ったマンティーニの「逃避途上の休憩」の上絵がはがされ、ワニスが落とされた。そして、その下からラファエロの「エリザベッタ・ディ・ラグーナの肖像」が現れ、世紀の大発見として大騒ぎになった。
さらに話が飛ぶ。ロンドンのオークションで、「エリザベッタ・ディ・ラグーナの肖像」は6千300万ポンド≒110億円でイタリア国立博物館に競り落とされた。トマーゾ館長が、政府にイタリアの美術品の国外流出を防ごうと働きかけた結果である。この絵を守る特別な体勢が取られ、ポッタンドは警察責任者として声がかかる。
自分が世紀の大発見者だったはずのアーガイルは、上絵を描いて国外持ち出しを図ったのに、どうしてお金を支払ったクロモートン伯爵には渡らず、サンタ・バルバラ教会に寄贈されたのか、調べ直しているうち「エリザベッタ」は精巧な贋作だったのではないかと思い始める。その疑問がフラビアを通してポッタンドに伝わり、ポッタンドはトマーゾに贋作の可能性を臭わす。
話がまた飛ぶ。博物館で盛大なレセプションが開かれていたとき、なんと別室の「エリザベッタ」が燃やされてしまう。なぜ燃やされたのか。誰が燃やしたのか。ポッタンド、フラビア、アーガイルが謎解きに挑み始めたさなか、博物館修復士マンツォーニが殺される。誰が、何のために殺したのか。ますます謎が深まる。
大きく話が飛んで、アーガイルとフラビアが謎解きのためにシエナに向かう。暗闇でフラビアは頭を殴られ、アーガイルは腹を蹴飛ばされ、危機一髪のところで、犯人に目星の付いたポッタンドが助けに入る。
著者の謎かけは、土壇場でポッタンドの話とアーガイルの講演で解き明かされる筋書きである。推理小説としてもおもしろいが、ラファエロ、イタリア美術事情、贋作づくりなどの着眼もいい。 (2015.1読)
<千葉を歩く> 2015.2 南房総を走る/ポピーの里 城山公園 鳩山荘松庵 鋸山・日本寺
房総半島は埼玉に比べ暖かく、春が一足早いそうだ。しかし、埼玉から電車で行くとかなり遠回りになる。車も渋滞で時間がかかる。ということでついおっくうになってしまう。
2015年2月半ば、意を決し、館山に宿を取り、マイカーで出かけた。ナビで検索すると、東京湾アクアラインを通るコースがもっとも時間が早いが、その分、料金も一番高い。
次善の策として首都高速~館山自動車道のコースを選んだ。ところが運悪く、7号線の塗装中の火災発生後の通行止めが長引いていて、迂回してきた車の渋滞に巻き込まれてしまった。
たまにしか首都高速を使わないからとっさにどの道を選べばいいか判断ができず、渋滞の流れに乗ったまま、止まってはのろのろになってしまった。なんとか高速湾岸線に入りスムーズになったが、昼近くである。昼を房総半島で食べるつもりがサービスエリアになり、館山に着いたのは3時近い。
まずは房総フラワーラインを走り、ポピーの里を目指した。フラワーラインといっても、まだ2月のせいか花の咲いていないフラワーラインだった。
加えてポピーの里の案内表示が見当たらない。どうやら館山ファミリーパークのなかにあるらしいと分かり、館山ファミリーパークの案内表示を探す。フラワーラインを走り続けているうち看板を発見、ゴルフコースを抜けて、浜沿いを走り、到着、駐車場に車を入れる。
大きな駐車場だが、車はほとんど止まっていない。どうやら時季外れだったようだ。入園するが私たちのほかは数組しかいない。閑散としている。
目指すポピーは確かに見事だった。10万株?が植えられているそうだ(写真)。かなり広いポピー畑をのんびり歩く。惜しいかな、ごく普通の畝になっていて、変化がない。起伏も少しあるが、ポピーは背が低いから、少し高みから見渡せば見終わってしまう。
そのうち冷たい風が吹き始めた。ポピーはもともと香りがないのか?、冷風のせいか、歩いていても香りを感じない。ポピー畑を見ながらおいしいコーヒーを飲もうと思っても、カフェが見当たらない。長居は難しい。車に戻った。
房総フラワーラインを戻り、なぎさラインを走る。館山港の桟橋からの夕日が絶景だそうだ。海浜の駐車場に車を止める。あいにく曇りである・・夕日にはまだ早すぎる・・。せめて海を見ながらおいしいコーヒーと思ったが、おしゃれなカフェが見つからない。
コーヒーをあきらめ、城山公園に向かう。ここには館山城があったそうで、いまは公園に整備されている。駐車場に車を止め、坂道を上る。
城があっただけにけっこうな上り勾配で、息が切れる。公園には梅林があり、桜やツツジ、あじさいなども植えられていて、四季折々の散策によさそうだ。梅林は満開にはまだ早かったが、白梅、紅梅が咲き誇っていて、目を休ませてくれる。茶室もあって、ときおり茶会が開かれるそうだ。
頂上の城跡に、天守閣様式の博物館が建っていた(写真)。
説明を読むと、なんと故藤岡通夫博士の設計であった。城郭建築の第一人者である。博物館だから小ぶりだが、威風堂々の風格がある。
このあたりから相模湾を一望でき、すぐそこに三浦半島が望めた(写真)。やがて雲行きが怪しくなってきた。梅林をもう一度眺めてから、車に戻った。
ちょうど小学校の下校時間だったようで、小学生が三々五々、おしゃべりしながら公園を通り過ぎていく。車を気にせず、四季折々の緑、花を楽しめる通学路はきっと子どもの感性を豊かにするに違いないと思った。
フラワーラインをもう一度走り、宿に向かう。宿は元首相鳩山一郎氏の別邸跡地に建つ和リゾート鳩山荘松庵である。入口の門構えが別邸の名残だろうか?。こぢんまりとした宿で、落ち着いた雰囲気だった。海沿いの立地で、相模湾が目の前に広がっていて、波の音が響く。さっそく、相模湾を眺めながら温泉でゆったりする。夕食は漁師料理、新鮮な海の幸と地酒寿萬亀を楽しんだ。
夜半から雨が降り出し、風が出たらしいがぐっすりと休んだ。朝には雨も上がっていたので、朝食後、別邸跡地の浜辺に出た。庭はよく手入れされていて、別邸として使われていたころの様子をうかがわせる。砂浜はなく岩場になっていたから、鳩山一郎の子ども威一郎や孫の由起夫がここで泳いだとは思えないが、鳩山一郎が房総の海を眺め、遠く異国を思い、日本の未来を構想した可能性は考えられる。もう一度海を眺めて、宿を出る。
内房沿いのフラワーライン~なぎさラインを走り、鋸山を目指す。鋸山は標高およそ330mで、正式には乾坤山であるが、山をなす凝灰岩が横須賀港や横浜港、靖国神社などの石材として切り出され、その結果、鋸の歯のように見えたことから鋸山と呼ばれたそうだ。
かつてこの山に関東最古の勅願所となる日本寺があり、中腹に大仏が安置され、百尺観音が彫られ、千五百羅漢が祀られていて、それらを巡るハイキングコースが整備されている。
天気は良し、絶好のハイキング日和である。麓の駐車場に車を止め、山頂までロープウェーで登った。およそ4分のパノラマもなかなかの見どころ、少し雲が流れていて富士は見逃したが、目の前の相模湾から東京湾まで遠望できる。
山頂の日本寺境内西口から入場した。境内はいくつかのエリアに分かれていてエリアを巡る散策路が整備されている。ロープウェーの反対側の麓まで下りる散策路もあるが大回りになるので、中腹まで下りてから山頂に戻る1時間半コースにし、まず百尺観音像を見に行った(写真)。1966年、戦死病没者・交通犠牲者の供養のために彫られたそうだ。
昨晩の雨で滑りやすいところもあるが、散策路はきちんと整備されていて、歩きやすい。次に山頂展望台を目指す。展望台には凝灰岩を切り出したあとの垂直の崖を利用した「地獄のぞき」が設けられている。のぞき込むと、切り立った崖の下から強い風が吹き上げてきて、吸い込まれそうな気分になる。目を転じると、緑に覆われた房総半島を望むことができる。夏でも風が通り、さわやかそうである。
ここから崖に沿ったかなりきつい階段を下る。崖には江戸時代に彫られた1553体もの羅漢が祀られている。風化して彫りが消えかかった羅漢や頭や手足を失った羅漢もあるが、総じて穏やかな顔だちが多い。長い年月で彫りに丸みが出てきたようだ。人間も年とともに穏やかに生きよと諭しているようでもある。
さらに山あいの階段を中腹まで下ると、大仏前参道のスロープになり、その先に高さおよそ31mの日本一の大仏が鎮座している。
1783年に原形がつくられたが江戸時代末期に倒壊し放置されていたのを、1969年に復元したそうだ。ここまでで1時間を超えたので戻ることにした。
別ルートの急階段をロープウェー乗り場まで登る。予定通りほぼ1時間半、いい汗をかいた。
麓の駐車場の先が東京湾フェリー乗り場なので休み所があるかと寄ったところ、ガラス張りで開放的な雰囲気のザ・フィッシュというレストラン+ショップがあった。ここで休憩をかねて昼食を取り、帰りは首都高速を避け、京葉道路から外環道を経て家に向かった。
ときどきの遠出も気分転換にいいね。 (2015.3)
b389 素顔のフィレンツェ案内 中嶋浩郎・中嶋しのぶ 白水社 1996 斜読index
著者浩郎氏は1983年からフィレンツェ大学に留学して美術史を専攻、そのまま住み続け、フィレンツェ大学日本語学科講師を務めている。夫人しのぶ氏は仏文科卒後、1991年からフィレンツェに住んでいる。1996年の出版だから、浩郎氏は12年ほど、しのぶ氏は5-6年フィレンツェで暮らしていて、フィレンツェには詳しい。あとがきにフィレンツェの友人から「ひろはほとんどフィレンツェ人だ」と言われたとあり、「ほとんどフィレンツェ人」の視点から素顔のフィレンツェを書いたそうだ。
確かに、タイトルから美術とかルネサンスとか歴史とかを外してあるように、この本はフィレンツェ人の発想の仕方や行動の仕方、価値観、優先することと後回しにすることなど、まさに素顔のフィレンツェ案内としてまとめてある。私自身は2004年に1泊1日、2014年に2泊2日フィレンツェを楽しみ、前後して建築案内や美術案内、ルネサンス、マキャベリなどを読んだ。旅行者の滞在時間は短いから、見学できるものは限られてくる。それを本が補ってくれるがどうしても建築や美術に偏ってしまう。それをさらに補ってくれるのが、フィレンツェ・ミステリーガイドやこの本「素顔のフィレンツェ案内」であろう。ついこの間歩いたところの外観、表面からはうかがえない素顔や謂われがかいま見え、短いフィレンツェ滞在に重みが増したし、次の機会の楽しみになった。
目次で素顔の内容を紹介する。
レプッブリカ広場 フィレンツェ発祥の地
ドゥオーモ 大聖堂とお祭り
シニョーリア広場 広場は野外博物館
サンタ・マリア・ノッヴェッラ フィレンツェの表玄関
サン・マルコ 胃袋と買い物袋
サンタ・クローチェ 古式サッカーと偉人たち
ポンテ・ヴェッキオ フィレンツェ最古の橋
サント・スピリト 職人気質が残る下町
ミケランジェロ広場 街を見下ろす散歩道
カンポ・ディ・マルテ 紫に染まるスタジアム
フィエーゾレ 丘の上の小さな町
2004年、2014年ともフィレンツェのホテルは街なかで地の利が良かった。2004年では朝早く起き、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の見学に行った。朝早すぎて中には入れなかったので教会広場から外観を楽しんだ。
2014年では夕食のときにこの広場を通ったら、屋台がぎっしりと並んでいて、外国人がたくさんいた・・私たちも外国人だが・・。
翌日の午後、その先のフィレンツェ中央駅をのぞいた。大勢でごった返していたが、ここも外国人がたくんさん見られた。
p73には、もともとフィレンツェの屋敷で働くフィリピン人が休日のたびにこの広場に集まっていたが、やがてアフリカや中近東から来た人のたまり場になってしまい、イタリア人より外国人が目立つ場所になってしまったと書かれている。こうしたことは長年暮らしていて、さらにイタリア人の仲のいい友人がいないと分かりにくい。このことはサンタ・マリア・ノヴェッラの項の最後に出てくる。
サンタ・マリア・ノヴェッラの書き出しにはフィレンツェ中央駅の由来が述べられている。中央駅の応募プロジェクトがヴェッキオ宮殿に展示され、フィレンツェ人が押しかけて侃々諤々の議論が交わされたそうだ・・このあたりにもフィレンツェ人の気質がうかえる・・。
選ばれたのは当時としては革新的な=箱のような作品だった・・私が見たのはこの駅・・。建築家ミケルリッチはブルネッレスキ(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂など)、ミケランジェロ(サン・ピエトロ大聖堂など)の後継者といわれるほど評判になったそうだ。このへんは美術専攻の著者の博識が表れている。ついでながら、駅地下駐車場がなかなかできなかったこと・・イタリア人らしい仕事ぶり・・、さらにフィレンツェの交通事情に話が進んでいく。
という書き方だから、フィレンツェの素顔を知る格好の案内書ではあるが、全部を読み通さないとどんな素顔がどこに描かれているかは分からない。言い方を変えれば、目次順の脈絡はなく、あちらこちらに素顔の断片が描かれているから、どこから読み始めても同じである。
となると、まだフィレンツェを訪ねたことのない方は順当に目次に沿って読み、フィレンツェを訪ねたことのある方は自分の記憶に残っている場所から順に読み、これからフィレンツェに行く方は行く先々の場所にあわせて読むといい。
各項目の冒頭にフィレンツェの美術アカデミー在学中の画家によるイラストマップが載せてある。著者はあとがきで道案内が楽しくなるとベタホメだが、文中の地名が載っていないことが多く迷子になりそう。イラストから素顔の雰囲気は伝わってくるが、道案内のマップは正確さがほしい。あるいは、フィレンツェ流にぶらっと歩き、出会いを楽しむ、といった狙いかな。
正確なマップと正当派の建築案内や歴史案内、美術案内とこの本をあわせもってフィレンツェを訪ねれば、滞在が短くてもフィレンツェを堪能できる、と思う。(2015.1記)
2004年3月、イタリア紀行20
フィレンツェは、古代ローマ時代、カエサルがここに植民都市を築き、花の女神フローラにちなんでフロンティアと名づけたことに由来する。
ローマから北に延びるカッシア街道沿いであり、アルノ川が流れた盆地で地の利はいいし、気候もいいため、にぎわいはじめた。
12世紀初頭、このあたりの大領主だったトスカーナ伯が跡取りなく亡くなったため、トスカーナは細分化され、各地で都市国家が生まれた。フィレンツェも毛織物業、金融業で中小貴族や商人が力をつけ、共和国となった。
同じ都市国家で毛織物業、金融業で栄えたシエナとは再三衝突したが、シエナは疫病、黒死病で国力を失っていった。
フィレンツェは順調に富を蓄積していく。そして、14世紀にメディチ銀行総裁ジョバンイ・ディ・ビッチが登場する。
彼の息子がコジモ・デ・メディチで祖国の父と呼ばれたほど信頼され、フィレンツェにおける支配権を確立した。跡を継いだピエロは早世するが、その跡を継いだロレンツォは後に偉大なロレンツォと呼ばれるほど政治、外交に力量を発揮する。
コジモも芸術への関心が高く、大勢の芸術家を支援し、ピエロもボッティチェッリなどを支援し、ロレンツォも芸術家のパトロンとなったため、ルネサンスが花開くことになる。
ミケランジェロもメディチ家で学んでいて、ロレンツォや弟のジュリアーノといっしょに過ごしたそうだ。
栄華を極めれば敵も増える。一説にはメディチ家の財産を手に入れ?、フィレンツェを支配下に置こうと?、教皇シクストゥス4世が画策し?、パッツィ家の陰謀が起きる。
ロレンツォは危うく一命を取り留めたが、ジュリアーノは暗殺される。
しかし、パッツィ家の陰謀が頓挫し、全員が処刑された。
首謀者の一人であるバンディーニはヴェッキオ宮殿から絞首刑にされるが、まだ若いレオナルド・ダ・ヴィンチが吊されたバンディーニのスケッチを描いている。
ルネサンスはもうそこまで来ている。メディチ家の功績である。
「イタリア紀行2004-20 イタリア3-4日 フィレンツェ メディチ家 パッツィ家の陰謀」のホームページOneDrive https://onedrive.live.com/embed?cid=75434A3C7766D39B&resid=75434A3C7766D39B%21953&authkey=AGywOmJKdULlHbw&em=2
ホームページplala 異文化の旅・イタリア編
「イタリア紀行2004-19 イタリア3日 ピサ大聖堂 ガリレオ・ガリレイ 斜塔」
バスはアルノ川を渡った。地図を見ると海は下流の10kmほど先まで後退している。かつては橋の近くに港があり、このあたりは交易船でにぎわったはずだ。アルノ川をさかのぼればおよそ100kmでフィレンツェである。フィレンツェも交易と金融で栄えたから、アルノ川の航行権を巡ってピサとフィレンツェが争ったのもうなずける。
ほどなくピサ大聖堂Duomoに着いた。洗礼堂+大聖堂+斜塔が手招きしているように感じる(写真)。ピサの斜塔はあまりにも有名だが、ここからは意外と小さく見える。大聖堂の前でガイドの説明を聞いたあと、自由時間となった。
学校教育では、ピサの斜塔でガリレオ・ガリレイ(ピサ生まれ、1564-1642)が落体の法則を発見した、と習った記憶がある。確か、斜塔の上から重さの違う球を同時に落としたところ・・それまで、重い方が早く落下し、軽い方が遅れて落下すると考えられていたが・・なんと同時に着地した、つまりは物体が落下する速さは重さと無関係である、これを落体の法則という、のを習ったと思う。
実際にその現場を見たいと思うと、ついつい小走りになる。ところがなんと無情にも、斜塔のチケット売り場がちょうど閉まってしまった。係員たちは大きな声で談笑していたから、「5時にまだ数分ある!、日本から来た!」などと言ったが、聞く耳を持たず、あっけらかんとしておしゃべりに花を咲かせていた。
これがイタリア式なのであろう。自分が終わろうと思った時間が終了時間になるらしい。目の前には少し前に入場でき、楽しそうに斜塔の階段を上っていく観光客が見えているから、なおさら未練が残る。仕方ない。次回のお楽しみにしよう・・2015年の情報ではライトアップされ、遅い時間まで見学できるそうで、しかもインターネット予約ができるらしい・・。
ちなみにガリレオ・ガリレイの実験は後世の作り話らしい。ガリレオの実験は斜めに置いたレールの上で重さの異なる球を転がして調べたそうだ。ただし、そのヒントとなったのは斜塔の中に下がっていたシャンデリアか香炉が揺れるとき、小さな揺れでも大きな揺れでも往復の時間は変わらないのを見つけたことだそうだから、作り話でも大同小異といえなくない。
ついでながらガリレオは優れた天文学者でもあり、天体観測を元に1500年末には地動説を唱えていた。のちに解説書も書いている。ところが、天動説を教義とするカトリック教会から1633年に有罪判決を受けてしまう。
自宅に帰されず軟禁され、死後もカトリック教徒としての埋葬が許されなかった、というから聖職者たちの思考が完全に閉塞していたようだ。埋葬許可が下りたのは1737年、なんと90年後で、フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂に埋葬された。真実を見つけた科学者の悲劇である。
ピサの斜塔Torre di Pisaを見上げる(写真)。最上階には見学者の姿が見える。羨ましいが、入口扉付近には入り損なった人が私と同じように上を見上げているから気を取り直して資料を読む。
海洋貿易の絶頂期のさなか、ドゥオーモに続いて1173年に鐘楼となるこの塔が着工された。もともとこのあたりはアルノ川、セルキオ川の流域だから地盤が悪かったはずだ。
資料には土台の深さは3mほどあると書かれている。この土台の上に大理石で、直径17mほどの塔の建設が始まった。3層目=およそ10mまで出来上がった1185年、軟弱地盤が不等沈下を起こし、塔が傾きだした。いったん工事が中断されたが修復法が分からないため?、4層目の中心軸を修正して工事が再開された。しかし、土台の根本的な修正が行われていないため、傾きを止めることができず、層を重ねるごとに中心軸を修正しながら工事が進められたらしい。
古代ローマ人の技術力はどこに行ってしまったのか?。強大な海軍+海洋貿易のため造船技術は卓越したのであろうが、土木技術が忘れられたのかも知れない。傾きが進んでいるなかでの工事だったため、当初の予定の高さ100m?を断念し、1372年、およそ55m=8層で工事は完了した。内部は、重量を軽減するため?、直径7.7mの空洞になっているそうだ。
外観は、すべて白大理石で、ロマネスク様式を基調とした細身の円柱が小さな半円アーチをのせて回廊に並んでいて、優美さをつくり出している。地盤沈下がなければ倍の100mほどの高さになったはずだからさぞやピサ人の自慢の種になったと思うが、55mでも斜塔のゆえに世界に知られたのだから、ピサの現代人は危険を顧みず斜塔を作り上げた先人に感謝すべきだろう。
斜塔は鐘楼としての役割があったが、鐘を鳴らすと振動?、共鳴?で傾きが増すかも知れないため鳴らされていないそうだ。さらに言えば、鐘楼なら大聖堂に付属して建てられていいはずだが、大聖堂とは少し離れている。その理由は資料には書かれていない。もし大聖堂に付属して塔が建てられていたら、塔の傾きで大聖堂に被害が出ただろうから、離して建てたのが幸いしたともいえる。
斜塔をあとにして、ピサ大聖堂Catterale de Pisaに向かった。大聖堂の着工は斜塔に110年先立つ1063年で、海洋貿易の利権を巡ってサラセン軍と戦い、大勝利した記念として計画された。資金は戦利品のおかげで潤沢であり、勝利記念でもあるから、壮大な大聖堂が目指された。平面をラテン十字プランとし、東西は100m,南北は72mにも及ぶ。
堂内は身廊の南北に2列ずつの側廊のある5廊で、翼廊も3廊あるからやはり大げさなプランである。交叉部のドームの高さもおよそ51mで、ピサの勢いを誇示している。1118年に完成するが、1261~72年に改修などの第2期工事が行われ、いまの形となった。
外観はロマネスク様式で一見すると簡素だが、よく見ると繊細に仕上げてあり、華やかさを感じさせる(写真)。たとえば、西側正面ファサードの下層は7つの半円アーチが繰り返され、両側から一つおきのアーチ壁を閉じ、中央から一つおきが扉口となっていて、リズミカルである。ファサードの上層は、2層目を幅広の長方形、3層目を台形、4層目は短い長方形、5層目を三角形として圧迫感を軽減しながら、ファサード側の開廊に細身の円柱と小さな半円アーチを並べて小気味のいいリズム感を出している。外装の大理石は微妙に色合いが異なっていて、水平性が強調されていることも軽快感をつくり出している。
堂内は、4層目から射し込む日射しで、ロマネスク様式にしては明るい(写真)。屋根を支えるヴォールト構造の進化で、窓を大きくすることができたようだ。5廊にしたことで荷重を分担する円柱が増えたことや、外周に半円アーチの円柱を並べたことで壁を薄くできたことも窓を大きくできた要因であろう・・ゴシック様式は間近であることを感じさせる。
後陣の丸天井にはイエス・キリストとその左右に立つ聖母マリア、洗礼者ヨハネのモザイク画が描かれている。これは13世紀、第2期工事のころに描かれたらしい。交叉部のドーム下、左手にジョバンニ・ピサーノ(1250?-1315)作の説教壇がある(上写真左手)。
1311年ごろの完成だから、シエナ大聖堂のファサードの工匠頭(1287-1296)を終えたあとになる。その少し前にはピサーノ親子がピサで彫像の製作をしていたから・・このときはピサーノに疎くて彫像を見逃している・・、シエナ大聖堂の出来映えを伝え聞き、第2期工事をで改修を加えたのかも知れない。
大聖堂の西には白亜のサン・ジョヴァンニ洗礼堂Battistero di San Giovanniが建つ(写真左)。1153年にロマネスク様式で着工、14世紀にゴシック様式で完成したそうだ。が、集合時間になった。これも次のお楽しみである。 (2015.2)