yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

1982年連載 生活空間再考7「共属・共有・空間の身体性」 空間を体の延長として感じることの大切さ

2016年06月30日 | studywork

1982 生活空間再考7「共属・共有・空間の身体性」 建築とまちづくり誌

 昨日は娘家族の孫支援日、K小学校に孫を迎えに行った。K小は娘が入学する直前に開校したので、娘はできたての学校で過ごしたが、以来、30年余が過ぎた。そのK小に孫が通っている。
 補修はしているだろうが、床のプラスチックタイルはだいぶ痛んでいた。窓はスチールサッシで、ガタが来ている。財源は厳しいだろうが、未来を背負う孫たちがこのような環境で過ごしているのかと思うと、気の毒でならない。
 先日、高齢者への3万円支給の通知が来た。年金で何とか暮らしているから、こうした高齢者支給は止めて孫の学校環境改善に回して欲しいね。
 環境の貧しさが心の貧しさにならなければいいのだが。
 3万円分は別の形で孫たちに分けるつもり。先だっては将棋を購入、孫と毎週熱戦。次は、天体望遠鏡を手配した。

 生活空間再考7「共属・共有・空間の身体性」 
「内なる」空間の存在が、何故に大事なのであろうか。
 母親に抱かれた赤児が惜しみなく受けられる安らぎにも似た、根源的な安らぎを得ることができることにあろう。都会では多くの人が疎外に苦しむ状況にあるが、「内なる」空間では、外の世界では得ることのできない安らぎを享受することができる。
 ただし、その中に入れば誰でも安らぎを受けられるわけではない。
 一つには、共属の意識が必要である。ムラに生れ、育ち、生きているという事実、仲間と共にそこで生きていくという事実に裏付けられた共属の意識である。
 二つには、共有の意識が必要である。ムラで共に生きる中で培われた、そこに住む人々に対しての、習俗や慣習に対しての、山や川や田畑などの自然環境に対しての共通の認識を等しく共有することである。
 三つには、空間の身体性が必要である。遊びや学びや労働の中で、空間の有り様をからだ全体で理解する内に、空間が体の延長として感じるようになることである。

 目をつぶっていても、道の様子、家並みを間違えることもない。
 離れていても、子ども達の喚声や老人達の立ち話が手に取るようにわかり、毎日の暮しもハレの日の行事も、自ずと分担や手順がわかりあえる。
 土の匂い、せせらぎの音、風の流れも外とは違って感じられる。それが「内なる」空間なのである。
 封建的で因習的な側面の強いムラ社会であるが、町づくりを考え、生活空間を計画しようとする者にとって、「:内なる」空間から学ぶことはまだまだ多い、と思う。

 冒頭のK小学校も、客観的にとらえるのではなく、内なる空間の一部、自分の身体の延長として主観的に感じると、ことの重大性に気づくはずだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1982年連載 生活空間再考6「内なる空間」 土地は人間の生活を刻みこんだ歴史的実体である

2016年06月29日 | studywork

1982 生活空間再考6 「内なる空間」 建築とまちづくり誌

 物入れの奥に隠れていた昔の卒業記念アルバムを処分した。パラパラめくってみて、懐かしい場面もあったし、ほんのちょっとだけそのころのことを思い出したが、昔のアルバムはすでに黄ばみ始めていたし、卒業記念だから大げさなつくりになっているが自分が登場するのはほんの数枚しかない。しかも顔は豆粒ほどで、子どもたちが後で見ても見分けがつかないだろうから、身辺整理の一環、思い切って処分した。

 この連載も30年余の昔話、のはずだが、読み返してみると、まだまだ現代に一脈通じる。
 本を読んだり、講演を聞いたりして、ほとんどは忘れてしまうが、「一言」が気持ちに残り、人生のヒントになることが少なくない。
 30年余の昔話だが、現代に通じる「一言」がどなたかの人生のヒントになれば、望外の喜びである。

 かつての日本の伝統的な土地利用は、①土地はできるだけ多くの目的のために、かつ重複して利用する、
②土地の所有者が誰であっても、土地は、そこに住むすべての人が共同的に利用する、
③土地の利用形態は、きわめて緻密である、
④たんなる場所としてではなく、土地そのものに内在する資源的価値を評価しつつ利用する、ことを基本に利用されてきた。
 これらは長い時間をかけて、自然と共生するなかで、失敗をくり返しながら少しずつ作られ、改良され、受け継がれてきたものであり、生活の規範として共有に認識されていたものである。すなわち、土地は人間の生活を刻みこんだ歴史的実体なのであり、伝統的な土地利用の形式こそが、そこの土地におけるもっとも高度な土地利用なのである。

 ところが、現在の土地利用の考え方はこれと大きく異なっており、前回述べたように土地は商品として、売買の対象に化しつつある。
・・・長い時間をかけて作りあげてきた農地、多くの人々の力によって継承されてきた集落空間が、都市化によって急速に失なわれようとしている。
 土地とは、生活の歴史的実体であり、「内なる」空間であることの再認識こそ急務である。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1982年連載 生活空間再考5「土地は商品ではない」 市街化調整区域であっても土地が商品化されると市街化が進む

2016年06月28日 | studywork

1982 生活空間再考5 「土地は商品ではない」 建築とまちづくり誌

 関東平野の田園を走っているとき、宅地が続いたり、農地が広がったり、平地林がこんもりしたりする風景を見ても、どこから市街化区域でどこが市街化調整区域かは見分けつかない。というか、ふだんは市街化区域か市街化調整区域かは気にもとめることもない。
 久しぶりに同じ道を走っていて、宅地化が進み、まるで違った道を走っているような感じになって驚かされたことは少なくない。
 計画的に市街化の整備を進める市街化区域、市街化を抑制し無秩序なスプロールを抑える市街化調整区域の線引きがあるはずだが、市街化の波が調整区域に侵出しているのはなぜか?。
 30数年前、そんな疑問を感じて川口市の市街化区域に位置する農村と、すぐ近くの旧浦和市=現さいたま市の市街化調整区域に位置する農村の土地利用変化を調べ、農家の聞き取りを行った。
 
 その結果、旧浦和市のDは市街化調整区域内であるにもかかわらず、市街化が抑えられていないということ、川口市のSでは営農を希望する人が50%も住んでいるにもかかわらず、市街化を促進する地域に指定され、現実に市街化が進行していることが分かった。
 もし線引きによる区分を是とした上で、計画的に市街化を進めようとする都市の論理の立場に立てば、Dでは市街化調整区域を至急はずすべしとなる。一方、Sは市街化を抑え営農環境を保全するため直ちに調整区域とするべしとなる。
 さらには、Sに市街化調整区域をかけたとしてもDの如く市街化の進むことがあり得るならば、線引きによって市街化を制御することはかなり難しいことになる。

 土地利用変化をみると、特徴的なパターンとして、①田畑→(場合によっては造成→)宅地、②田→休耕→造成→宅地、③沼・崖→造成→宅地 の三種をあげることができる。
 
 ところが、Dに隣り合うTでは都市的交通網や業務用施設が無いため、宅地化が広がらず、営農環境が保全されている。そのTでも道路や業務施設などの開発がなされると、それがきっかけになりDと同じような市街化が進行すると考えられる。

 S・D・Tの市街化の様態の差異は、目に見える形をとっているか、目に見えにくい形をとっているかの差異であって、都市の論理≒商品としての土地に変質し得る状況にあることでは同じといえる。
 農家層の営農意欲を尊重し、伝統的な農村景観を保全していくためには、ムラの論理による、農地を資源としての土地とみる視点が欠かせないのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1982年連載 生活空間再考4「都市化のもたらすもの」 埼玉への人口集中の裏返しに農地の宅地化あり、環境保全の担い手も失う

2016年06月27日 | studywork

1982 生活空間再考4 「都市化のもたらすもの」 建築とまちづくり誌

 生活空間再考4では、人口・宅地面積の推移と、そのことによる生活環境の悪化について、埼玉県を例に検討した。
 埼玉県における人口急増は、昭和30年代に入ると共に始まり50年代半ばにようやく沈静化するまでの約25年間に渡っており、30年代後半から40年代後半にかけてのピーク時には年間20万人近く、地方の中都市の人口をしのぐ人々の増加現象を示した。
 こうした増加現象は県南部から中央部にかけての地域に集中する傾向が強い。
 しかも、昭和50年代半ば以降も、依然として年間10万人前後、地方の小都市の人口を超える増加が続く。
 埼玉県内の社会増の殆んどと、そのために起った自然増の一部は高度経済成長の波に乗り、故郷を離れ活動の都、東京へ向った全国各地の人々が、いろいろな意味で住む所とはなり得なかった東京に見切りをつけ、埼玉に転入したためであると言えよう。
 それ故、このような現象は埼玉ばかりでなく、東京を取り巻く神奈川や千葉、さらには大阪を取り巻く兵庫、京都、奈良、あるいは、大都市を取り巻く周辺都市など全国いたる所で起っている同時代的現象と同質の問題に根ざしているともいえる。

 これだけの人口急増、大量の転入者を受け入れたのは、農地転用である。
 昭和30年以前では農地の潰廃が数量的に殆んど見られなかったものが、35年頃から45年頃にかけての高度経済成長期に、一気に進んだ。
 住宅用地以外にも工場や事務所等の用地、人口急増によって必要となる教育用・公共用施設用地、道路等のため農地が潰廃されており、全体としては住宅用地の2倍ぐらいの農地が潰れた。
 潰廃状況を地理的に見ると、川口・大宮・春日部・草加・越谷・三郷・八潮など、県南部から中央部に、すなわち東京に隣接して交通利便の高い地域に集中している。

 こうして農地が次々に消えていく。農業を支えてきた農家も減少する。環境保全の担い手である農家が少なくなれば、自然環境も危ぶまれる。
 都市の論理に対峙するムラの論理の確立、そして、豊かな自然環境の回復が急がれる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1982年連載 生活空間再考3「幻想としての住まい」 家の幻想として追い求めているものは商品化された住居?

2016年06月26日 | studywork

1982 生活空間再考3 「幻想としての住まい」/建築とまちづくり誌
 1982年に建築とまちづくりに連載した生活空間再考の第3稿である。第2稿は行方不明。

 かつて布野修司氏は、建売住宅文化考(見える家と見えない家 岩波書店)の中で次のように指摘している。
 切り刻まれた土地の上に軒を寄せ密集する戸建住宅地と、中高層の鉄筋コンクリートの集合住宅の建ち並ぶ団地、前者は都市生活者の家への幻想の疎外態であり、後者は都市生活者の共同体への幻想の疎外態である。
 そこに住むことは彼等の選択の結果ではあるが、それは選択肢の少ない中からの苦渋に満ちた、ネガティブなものでしかなく、究極的な住居のイメージとしては都市郊外の戸建住宅地が意識されていると述べ、暗に建築家の責任を問いつつ、住まい、住むことへのイメージの希薄さに言及している。

 また、家の構造、その社会学的考察(川本彰 社会思想社)によれば「・・家族のもつ生活保障機能の重要さは疑うことができない。家族は生きるための集団であった・・個人よりも全体の永続、安定に価値を求める家族の意味がある。家族は全体性を抽象し、結晶化して『家』を形成し・・『家』とは建物だけでもなく、その中に住んでいる現実的な成員だけでもない。永遠の過去から永遠の未来にいたるすべての成員を統一し、その基盤として家産をもつ歴史的実体である・・土地の上に先祖代々子々孫々が一期一期うつり変り、生れ、そして死んでいくのである・・」と、人間生存の象徴として家、土地があったことを論じている。

 ・・その結果、ムラを捨てざるを得なかった人々が、今度は住むところを手に入れ得ないという二重の被害者であることに、そして、家の幻想として追い求めているものが、実は商品化された住居にすぎないのであるということに気がつかないでいることである。
 このままでは主体性までもがパッゲージされかねない。

 30年余が過ぎたが、まだまだ現実は変わっていないようだ。



 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする