1982 生活空間再考7「共属・共有・空間の身体性」 建築とまちづくり誌
昨日は娘家族の孫支援日、K小学校に孫を迎えに行った。K小は娘が入学する直前に開校したので、娘はできたての学校で過ごしたが、以来、30年余が過ぎた。そのK小に孫が通っている。
補修はしているだろうが、床のプラスチックタイルはだいぶ痛んでいた。窓はスチールサッシで、ガタが来ている。財源は厳しいだろうが、未来を背負う孫たちがこのような環境で過ごしているのかと思うと、気の毒でならない。
先日、高齢者への3万円支給の通知が来た。年金で何とか暮らしているから、こうした高齢者支給は止めて孫の学校環境改善に回して欲しいね。
環境の貧しさが心の貧しさにならなければいいのだが。
3万円分は別の形で孫たちに分けるつもり。先だっては将棋を購入、孫と毎週熱戦。次は、天体望遠鏡を手配した。
生活空間再考7「共属・共有・空間の身体性」
「内なる」空間の存在が、何故に大事なのであろうか。
母親に抱かれた赤児が惜しみなく受けられる安らぎにも似た、根源的な安らぎを得ることができることにあろう。都会では多くの人が疎外に苦しむ状況にあるが、「内なる」空間では、外の世界では得ることのできない安らぎを享受することができる。
ただし、その中に入れば誰でも安らぎを受けられるわけではない。
一つには、共属の意識が必要である。ムラに生れ、育ち、生きているという事実、仲間と共にそこで生きていくという事実に裏付けられた共属の意識である。
二つには、共有の意識が必要である。ムラで共に生きる中で培われた、そこに住む人々に対しての、習俗や慣習に対しての、山や川や田畑などの自然環境に対しての共通の認識を等しく共有することである。
三つには、空間の身体性が必要である。遊びや学びや労働の中で、空間の有り様をからだ全体で理解する内に、空間が体の延長として感じるようになることである。
目をつぶっていても、道の様子、家並みを間違えることもない。
離れていても、子ども達の喚声や老人達の立ち話が手に取るようにわかり、毎日の暮しもハレの日の行事も、自ずと分担や手順がわかりあえる。
土の匂い、せせらぎの音、風の流れも外とは違って感じられる。それが「内なる」空間なのである。
封建的で因習的な側面の強いムラ社会であるが、町づくりを考え、生活空間を計画しようとする者にとって、「:内なる」空間から学ぶことはまだまだ多い、と思う。
冒頭のK小学校も、客観的にとらえるのではなく、内なる空間の一部、自分の身体の延長として主観的に感じると、ことの重大性に気づくはずだ。