yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2019.10 生糸・絹で財をなした原善三郎・富太郎ゆかりの三渓園へ

2019年11月27日 | 旅行

2019.10 三渓園を歩く ①原三渓ゆかりの三渓園   <日本の旅・神奈川を歩く

 大学4年のころ、研究室の仲間と横浜市本牧にある三渓園に行ったはずだが、広々とした庭園に歴史的な建物が移築されていたことぐらいしか記憶に残っていない。
 少し前、特集番組で三渓園の歴史的価値が報道された。建造物のほとんどは国の重要文化財であり庭園も見応えがあるが、初めて見た気分になった。
 10月下旬、記憶を掘り起こしに三渓園に向かった。

 三渓園はJR 横浜駅から市バスで30~40分、JR横浜駅までは上野東京ラインで1時間少々、楽に日帰りできる。園内にはいくつか食事処もある。ランチを園内で取り、園内見学後、横浜あたりで遅めのコーヒータイムのイメージで家を出た。
 横浜駅で降りるのは久しぶりである。前よりも華やかさが増し、人出も多くなっているようで、賑やかに感じた。
 東口バス乗り場から市バスに乗り三渓園入口バス停で降りると徒歩5分ていどで三渓園だが、ちょうど本牧バス停を通る市バスが来た。
 本牧バス停からは三渓園まで徒歩10分ほどになる。バス停で三渓園入口行きを待つより本牧バス停行きに乗って市内を眺める方が楽しそうである。
 この選択は大正解だった。バスは高島町、桜木町を通り、左折して日本大通りを抜け、中華街をちらっと眺め、山下公園あたりで右折して人形の家、港の見える丘公園あたりを走り、本牧に向かう。本牧バス停までの40分は市内観光バスに乗った気分になれた。
 本牧バス停から三渓園の矢印に沿って静かな住宅街を歩く。住居表示は本牧三之谷である。三之谷というから、谷筋だったのだろうか。
 歩いている限りは平坦と思っていたら、左が小高い林になった。地名通り谷だったようだ。その先の右手に門柱2本の素朴な正門が見えた(写真)。
 入園料は700円と廉価である・・横浜市内在住者にはシルバー割引で500円とさらに安い。社会還元しようという開設者原三渓の志を継いでいるようだ・・。
 門を入ると名前の通りの大きな大池が広がり、その先は小高くなっていて、樹高を超えた三重塔が見える。右手も小高い林で、林のあいだに茅葺きの大屋根が望める。案内板を見ると、樹木に隠れた奥に建造物が配置されている(配置図、web転載)。谷あいを利用して園がつくられたようだ。

 パンフレット、ガイドの話、web情報によれば、江戸末、現埼玉県神川町の裕福な醸造業・質屋も営む農家に生まれた原善三郎(1827-1899)は横浜に出て生糸の取り扱いで財をなした。
 渋沢栄一(1840-1931)と並ぶ実業家といわれ、第二国立銀行=横浜銀行初代頭取、横浜商法会議所=横浜商工会議所初代会頭、横浜市会初代議長、衆議院議員などを歴任した。
 その善三郎が明治初年1868年、三之谷あたり一帯の土地を購入する。
 明治20年代1890年前後に現在は展望台になっている場所に別荘を建てる・・あとで展望台に上った。東京湾に面して工場群が広がり、三浦半島、房総半島も遠望でき、見晴らしがいいところである。
 海のない埼玉県神川町出身だから海へのあこがれがあったであろうし、生糸の交易で成功したから海外への関心が高かったこともあろう。別荘で横浜の海を見ながら思索にふけったのではないだろうか・・。

 話が変わる。1868年、現岐阜市=美濃国中部の加納藩の名主庄屋だった青木家に富太郎(1868-1939)が生まれる。父は村長を務めるほど人望も高かった。
 青木富太郎は東京専門学校=現早稲田大学を卒業後、跡見女学校=現跡見学園の教師になる。
 原善三郎の孫娘屋寿が跡見女学校に入学する。屋寿の下駄の鼻緒が切れて困っているときに富太郎が助け、二人は恋に落ちた、といわれている。
 原善三郎は富太郎を見込みありと判断し、富太郎は原家に婿入りする。原富太郎は善三郎の見込み通り頭角を現し、富岡製糸場ほかの製糸場を所有するなど絹貿易で財をなす。
 原富太郎は美術品の収集家や茶人としても知られ、号を三渓としたため原三渓と呼び習わした。
 原善三郎没後、富太郎は善三郎の購入した三之谷一帯の造園を始める・・以来、三渓園と呼ばれる。
 1902年、住まいとなる鶴翔閣を建てる・・三渓園が原三渓の本宅となる。
 三渓のコレクションは5000点を超えるほどで、岡倉天心(1863-1913)やインドの詩人タゴールとも交流があり、前田青邨(1885-1977)、横山大観(1868-1958)、下村観山(1873-1930)らを招き、パトロンとして支援もしたそうだ。
 蓄財を文化貢献に活用する功績は大きいと思う。教科書にも載る文化人芸術家が三渓園に集まり、意見を交わし、製作に励み、活躍の一因になっている。

 1906年、原三渓は三渓園東側=外苑を一般に開放する・・西側=内苑は居住区である。一般公開も蓄財を社会に還元しようとする表れであろう。
 1914年、外苑に旧燈明寺三重塔を移築、1917年、内苑に臨春閣を移築、1922年、内苑に聴秋閣を移築する。
 1923年の関東大震災で損壊・消失、1939年三渓没、1945年世界大戦の空襲で大きな被害を受ける。
 1953年、財団法人三渓園保勝会が発足し、建物、庭園の復旧が進められ、1958
年、外苑、内苑が一般公開となる。
 1960年、外苑に合掌造りの旧矢箆原家住宅が移築され、1987年には外苑に旧燈明寺本堂が移築された。
 主な建物を列記したが、17棟の歴史的建造物が内苑、外苑に配置されている。うち国の重要文化財は10棟、横浜市指定有形文化財の指定が3棟あり、文化財の宝庫になっている。

 入園し、右に蓮池、睡蓮池を眺め、左に大池と三重塔の遠景を眺める(写真)。風景が雄大である。
 この地を選んだ原善三郎の目も卓越しているが、雄大な風景に造園した富太郎=三渓の目も優れている。
 昭和にエコノミックアニマルの言葉がはやったが、明治、大正の富豪は経済に偏らず、文化にも優れ、それを社会に貢献、還元する心情も豊かだったようだ。
 三渓の住まいだった閣翔閣が一般公開されていたが、先に昼食を取ろうと大池の西に建つ雁ケ音茶屋、月影の茶屋、三渓園茶寮をのぞく。混み合っていたので、大池の南に建つ待春軒に入った。どの食事処も木造平屋の古風なつくりで、庭園の風情を損なわない工夫がされている。
 待春軒に入ると、三渓そばと大書きされ、写真付きでいわれが紹介されている(写真)・・1906年、三渓園開園の際、招待客に用意した原三渓考案のそばで、細いうどんを油で炒め、筍・椎茸・豚挽肉・ネギを醤油ベースで煮込み、酢・生姜を加えて中華風のあんにしてうどんにかけ、ハム・絹さや・錦糸玉子を散らしたそばだそうだ。
 三渓が、茶席のあいま、装いを汚さず食べられるようにと汁無しのそばを考えた、との説もある。
 私はキノコが苦手だが話の種に三渓そばを頼んだ・・キノコを端に寄せ、中華風あんをからめて食べた。パスタ風うどんと思えば近いかも知れない。確かに汁が飛ばないが、茶席のあいまの軽い食事が原点だから量は少々物足りなく感じた。
 三渓そばを食べながら、パンフレットを読んだ。内苑を60分で巡るボランティアの定時ガイドが14:00管理事務所前集合で、ボランティアによるフリーガイドは正門前13:00~随時受付である。
 食事を終えたのが13:30だった。正門前受付のフリーガイドか、管理事務所前集合の定時ガイドに参加しようと管理事務所前のボランティアガイドに確認したら、ボランティアの一人がフリーガイドになってくれ、さっそく見学ツアーが始まった。
 三渓園はボランティアの体制がしっかりりしている。これも三渓の遺志のようだ。続く
(2019.11)

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春江著「ウィーンの冬」はウィーンを舞台にした日本への核爆弾テロを防ぐ攻防

2019年11月18日 | 斜読

book501 ウイーンの冬 春江一也 集英社インターナショナル 2005   (斜読・日本の作家一覧)  
 オーストリアツアーの予習復習でウィーンをキーワードに検索し、この本を見つけた。著者春江一也氏(1936-2014)の本は初めてである。
 略歴によれば、1962年外務省入省、1968年、チェコスロバキア大使館勤務中にプラハの春を体験、その後、東ドイツ大使館、ベルリン総領事館、ジンバブエ大使館、フィリピン・ダバオ総領事館などに勤務し、2000年に退官した。
 外交官当時の1997年に著した小説「プラハの春」がベストセラーになり、1999年に「ベルリンの秋」を出版、2005年に本書を出版した。
 プラハの春、ベルリンの秋、ウィーンの冬の3冊が中欧三部作だそうだが、前2作は読んでいない。本の端々にプラハ、ベルリンが登場するから三部作はとして関連性がありそうだが、「ウィーンの冬」自体が独立しているので、前2冊は読んでいなくても違和感はない。

 1983年9月、西ドイツハンブルク総領事館首席領事の主人公・堀江亮介に、弟であるイラク大使館一等書記官・堀江洋三の運転する車がバグダッド郊外で事故を起こして死亡の連絡が入るところから話が展開する。
 弟洋三の日記に、事故死の直前、洋三の恋人シェヘラザードがイスラエル・ソドムで北朝鮮特殊工作員に拉致されたとオーストリア内務省が推測していることが記されていた。北朝鮮特殊工作員が物語の鍵で、シェヘラザードが重要な役割を果たすらしいが、ここでは名前を出しただけで終わる。
 亮介は弟洋三に対し心の葛藤があったようで、事故死の原因解明などすべてを封印し、7年後の1990年に話が飛ぶ。
 著者はなぜ7年後に話を飛ばしたのか、ボーと読んでいると気づきにくいが、終盤の種明かしでこの7年間が北朝鮮、シェヘラザードと結びつく。

 亮介は西ベルリン、ジンバブエに転勤し、1990年、外務省に戻ったところ、人事課から、退職し海外情報分析センターに出向するよう説得される。
 海外情報分析センターの理事長綿部元康は急速にのし上がってきた運送会社の経営者で、裏に政界との癒着が見え隠れする。金丸信自民党副総裁などの実名が登場する。
 ただし、この本の主題である「ウィーンの冬」と綿部らの財界と政界の癒着は無関係である。著者はたぶん役人だったころに財界政界の癒着に直面していて、なんとか正したいと強く感じ、筆が走ったのではないだろうか。
 外務省欧亜局長滝沢久雄が登場する。日本の官僚機構はテロに対する防衛システムが未熟なうえ、北朝鮮の特殊工作員が密かに政界、官界、財界に潜り込んでいるらしく、滝沢が、外務省プロパーにはやらせられないが外務省プロパーでなければできない仕事を亮介に任すため出向させたことが分かる。
 おそらく筆者は現役のときにずさんな防衛システムと政界、官界、財界を動かす黒い影を実感し、それを「ウィーンの冬」に織り込んだのではないだろうか。
 日本では1990年代にカルト集団オーム真理教による坂本弁護士一家殺害事件が明るみになり、松本サリン事件に続き、同時多発テロ地下鉄サリン事件が起きた。
 一方、アメリカと対峙する北朝鮮は1980年代から核開発に着手し、1990年代のソ連の崩壊を契機に核開発が加速したとされる。
 筆者は自身の体験と、日本のカルト集団の暴挙と北朝鮮の核開発をからめ、中欧を舞台にした「ウィーンの冬」を構想したようである。

 物語の展開は目次から推測できる。
プロローグは弟洋三の事故の描写である。
第1章 退職出向/1聖セバスティアン 2退職出向 3暗流 4滝沢局長 5東欧専門家 6パスポート 7航空券 8富士霊園 9テロリスト 10遠い秘密 11旅立ち
 第1章は物語の導入で、事件全容のヒントが語られていくが、事件と直接関係のない筆者の思いも織り込まれている。
 まず亮介の退職出向までとウィーン行きの航空券が届くいきさつが展開する。
 次に、事件の発端となる1989年7月、ドイツ連邦内務省国際テロ犯罪対策特別タスクフォースが、フランクフルト国際空港の特別警戒で元KGB大佐、いまは武器マフィアエージェントのロザノフを発見し、ロザノフが日本人男性の僧侶ハセガワとともにモスクワに発つ場面が語られる。
 続いて、1990年9月、ボンで開かれた特別タスクフォース緊急幹部会に話が移り、ハセガワが北朝鮮人イラク人と頻繁に接触していたことや、1989年12月に「・・地球破壊、ハルマゲドン、助けて・・」の匿名電話があったことが紹介される。
 匿名電話は日本人ミムラからで、1987年、ドイツ留学中失恋して人間不信になり日本に帰国、1989年、ボンに戻ったときはカルト集団カルマ神理教に染まっていたこと、ソ連の国家秩序混迷で、核兵器、生物・化学兵器が闇取引されていたこと、カルマ神理教の最高幹部ハセガワは核兵器を手に入れ、ハルマゲドンを起こそうとしていること、CIAのローレンス・アレンから北朝鮮特殊工作員に拉致されたシェヘラザードはベルリン工科大で核物理学を専攻し、MITで博士取得後、ウィーンのIAEA高級技術職員だったことなどが語られていく。

第2章 ウィーン内部への旅/12ホテル・カイザリン・エリザベート 13聖シュテファン大聖堂 14ウィーン内部への旅 15オペラ座 16秘密連絡 17尾行
第3章 ウィーンの森/18相棒 19夕食会 20闇の構図 21特殊任務 22アマデウス
 第2章、第3章はウィーンでの亮介の行動を描写したあと、ウィーンの森にあるオーストリア内務省国際特殊犯罪局に舞台を移す。
 ロザノフ、ハセガワ、北朝鮮特殊工作員の闇の構図による核兵器の流出をせん滅させるため、亮介はコードネーム<アマデウス>と呼ばれるオーストリア内務省の特務要因として活動を始めるまでが語られる。

第4章 ウィーンの冬/23ウィーン西駅 24作戦補助協力員 25ハセガワ 26ウィーンの冬 27聖夜の旅行客
第5章 作戦開始/28金星銀行 29バー・ザ・サードマン 30ジルベスタ 31家宅捜索 32悪魔の巣
 第4章でウィーン西駅に近くの金星銀行が北朝鮮特殊工作員のアジトであること、第5章で顔に傷のある元北朝鮮特殊工作員キムが日本に帰化しヤマダとしてウィーンに開設されたヨガクラブ「アストラル」を仕切っていることが語られる。
 アマデウス=亮介はアストラルから逃げ出した岸田美穂を助ける。

第6章 雪景色/33資料解析 34綾錦美穂 35不吉な情報 36事情聴取 37雪景色  
 第6章で、ハルマゲドンとは核爆弾テロのことで、北朝鮮特殊工作員の真の狙いはカルト集団カルマ神理教のクーデタを隠れ蓑にして日本を抹消することなどが語られる。

第7章 証言/38解かれる秘密 39遺体発見 40姿のない影 41ホワイトナイツ 42影の反撃 43証言
 第7章では、フセイン、オサマ・ビン・ラディン、タリバン、アメリカを主力とする多国籍軍によるイラク攻撃など、不安定な中東情勢、さらに日本赤軍を織り込みながら、カルマ神理教に不審を抱いたミムラが岸田美穂を助ける経緯が語られる。

第8章 ドナウの流れ/44正体 45北朝鮮工作員 46プロメテウスの火 47プルトニウムコア 48局長訊問 49ドナウ川 50潜入
第9章 死闘/51トーマス 52サキヤマ 53銀色の球体 54反撃 55死闘 56ドナウインゼル
エピローグ
 第8章、第9章が物語の息詰まる終盤である。核爆弾テロを未然に防ぐためナターリアが命を懸けて活躍し、シェヘラザードの弟トーマスがナターリアを支援する。
 ナターリアは誰か、核爆弾テロは防げるか・・・は読んでのお楽しみに。
 日本にいると気づきにくい国際情勢、各国の諜報活動、武器の国際的な闇取引は外交官ならではの視点で分かりやすく織り込まれている。国際関係に興味のある方にはお勧めである。
 カルト集団、北朝鮮特殊工作員への警鐘も改めて理解できた。
 ただし、主人公のはずの亮介はしばしば蚊帳の外で、めざましい活躍をしない。どちらかというと目撃者といった立ち位置である。亮介の活躍を期待したため、はしごを外された感じが残った。
 私好みとしては、亮介が表舞台で華々しく活躍して欲しかった。(
2019.10)

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2019.9 オーストリアの旅 モーツアルトゆかりのウィーン、ザルツブルクを歩く

2019年11月13日 | 旅行

2019.9 オーストリアの旅 モーツァルト② ウィーンを歩く+ザルツブルク   異文化の旅・オーストリアの旅

 21才・1777年に、モーツァルトはザルツブルク大司教宮廷楽師の職を辞しミュンヘン、次いでマンハイムへ移る。同年、パリに行く途中にアウクスブルクに立ち寄り、従姉妹=父の弟の娘マリアと再会し、2人は互いに愛し合う。
 ところが、モーツァルトはマンハイムの音楽家フリドリン・ウェーバーの娘アロイジアが好きになる。次々と相手を変えるのはその当時の社会風潮もあるだろうが、モーツァルトがひときわ多感だったのではないだろうか。
 しかし、父はこの結婚に反対で、1778年、22才のモーツァルトにパリ行きを命じる。失意のパリで交響曲第31番ニ長調(K297)「パリ」を作曲するが、同行した母がパリで死去し、失意が深まる。

 25才・1781年、ヒエロニュムス大司教の命でモーツァルトはウィーンへ移るが、ほどなく大司教と意見が衝突し解雇される。
 モーツァルトはウィーン定住を決意し、当初はシュテファン大聖堂に近いドイツ騎士団の館に住んだそうだ・・今回は訪ねていない。
 26才・1782年、父に結婚を反対されたアロイジア・ウェーバーはほかの男性と結婚してしまったので、モーツァルトは妹コンスタンツェ(1762-1842)と婚約し、ウェーバー夫人の館に住む。コンスタンツェとの結婚式はシュテファン大聖堂で行われた(写真、見学録は未稿)。
 ・・ハイドンは好きだった妹が修道院に入ったので姉と結婚した。オーストリア=ハンガリー帝国君主フランツ・ヨーゼフ1世(1830-1916)も見合いの相手の姉ではなく付き添ってきた妹エリーザベトと結婚している。姉が駄目なら妹、妹が駄目なら姉と結婚する、というのもよくあったようだ。・・姉妹とはいえ考え方も生き方も違うと思うが、当時は結婚観が違うのであろう。

 コンスタンツェは6人の子どもが生んだが、2人目と末っ子以外の4人は出産時、乳児、幼児のうちに他界している。モーツァルト自身も姉以外の兄弟姉妹を亡くしている。当時の医学はまだまだ未発達だったようだ。
 最初の子どもが生まれて間もなく、たぶん広い住まいが必要になり、1784年から1987年までシュテファン大聖堂に近いドームガッセの住まいに移り住んだ(写真)。
 ・・もともとは3階建て(オーストリアでは地上階は0階またはG階と呼び日本の3階はオーストリアの2階になる)で、1700年代早々に上階が増築されたそうだ。モーツァルトは2階~3階を住まいとし、大きい部屋4室、小さい部屋2室、台所、寝室があったらしい・・今回のツアーは外観だけの見学。
 モーツァルト没後、この住まいでオペラ「フィガロの結婚」が作曲されたことからフィガロハウスと呼ばれ、2階が博物館として公開されてきた。
 2004年に大改修が行われ、2006年、モーツァルト生誕250年を記念して、2~3階のモーツァルトの住まいに加え、地下にイベント・演奏会場、4~5階にモーツァルト時代のウィーン、モーツァルトの日常生活の様子、モーツァルトの友人たちなどを紹介した展示室を併設したモーツァルトハウス.ウィーンとして公開されている。

 ウィーンに移ってから、ピアノソナタ第11番トルコ行進曲付き、ハイドンに献呈した弦楽四重奏曲集、オペラ「フィガロの結婚」、オペラ「ドン・ジョバンニ」、「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」、「3大交響曲」(交響曲第39番、第40番、第41番)など、よく知られた名曲が次々作曲された。演奏会も好評だった。
 モーツァルトのもっとも充実した時期といわれるが、収入に対し支出が多く、借金を求める手紙が残されているほど生活は楽ではなかったらしい。・・モーツァルトはギャンブル好きだったという説もある

 1790年、モーツァルトが演奏旅行に出ているあいだに妻コンスタンツェはウイーン・ケルントナー通りに住まいを移す。
 クライネス・カイザーハウスと呼ばれたこの住まいは1849年に建て替えられ、その後モーツァルトホーフと呼ばれる建物が建てられた。いまはシュテッフェルという地元では有名なデパートなっていて、モーツァルト1791没の銘板があるそうだ・・今回の見学に含まれていない。

 1791年、モーツァルトはプラハで行われたレオポルト2世のボヘミア王戴冠式でオペラ「皇帝ティートの慈悲」を初演する。このときすでに体調を崩していたらしい。
 ウィーンに戻り「魔笛」、「ピアノ協奏曲」などを作曲するが、レクイエムの作曲中に倒れ、35才で息を引き取る。
 葬儀はシュテファン大聖堂で行われ、北塔の小礼拝堂で妻コンスタンツェや家族、友人は最後の別れを惜しんだ。
 そのころの神聖ローマ皇帝だったフランツ2世(1741-1790)は疫病の蔓延を防ぐため墓地をウィーン郊外に移していて、さらに質素な葬儀を制度化していた。
 そのためモーツァルトの遺体に誰も付き添うことができず、サンクト・マルクス共同墓地に埋葬された。のちにコンスタンツェや友人たちがモーツァルトの墓を探したが、見つけることができなかったそうだ。・・墓地まで付き添えないばかりか、墓が分からないとはひどい話である。

 モーツァルトの偉業が世界に知られるようになり、ウィーン市はサンクト・マルクス墓地にモーツァルト記念碑を建立する。
 ウィーン市では歴史に名を残した名誉市民の墓を集めた中央墓地があり、モーツァルト没後100年にサンクト・マルクス墓地のモーツァルト記念碑を中央墓地に移設したそうだ。・・サンクト・マルクス墓地も中央墓地も今回は訪ねていない。

  ザルツブルクに話を戻す。1841年、モーツァルト没後50年を記念して、ミラベル庭園の東、ドライファルテックカイツガッセに面してモーツァルテウム大学が設立された(写真、今回のツアーには含まれていない)。
 大学の設立には80才を過ぎたコンスタンツェ・モーツァルト未亡人もかかわっていて、コンスタンツェはモーツァルト2世を学長に推薦したがかなわなかったようだ。  
 モーツァルテリウム大学は世界有数の音楽教育機関として知られ、ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908-1989)始め著名な音楽家がここで学び、世界で活躍している。・・ついでながらカラヤンの生家はザルツァッハ川に面していて、館の前には指揮棒を振るカラヤン像が置かれている(写真)。

 1824年にモーツァルト音楽祭がザルツブルク大聖堂前?で開かれた。以後、毎年開催され、1856年にはモーツァルト没後100年記念音楽祭が開かれた。この音楽祭がザルツブルク音楽祭の始まりのようだ。
 1924年、大聖堂の西、モーツァルトの生家からは南に150mほどのマックスラインハイム広場に建っていたザルツブルク宮廷の旧厩舎を改築し、祝祭劇場がつくられた。
 この祝祭劇場がザルツブルク音楽祭の主会場となった(写真、今回のツアーでは外観の見学)。
 1960年、祝祭劇場に隣接して大規模な祝祭劇場が建てられ大祝祭劇場と呼ばれた。カラヤンもこの祝祭大劇場で何度も演奏を行った・・祝祭大劇場の西側広場はヘルベルト・フォン・カラヤン広場と命名された。
 2006年、モーツァルト没後250年を記念して、旧祝祭劇場がモーツァルトのための劇場と呼ばれることになった。

 モーツァルトは900曲に及ぶ作品を残している。うち25才~35才をウィーンに住み、名曲が次々つくられたが、死が早すぎた。墓地が分からないとは実に気の毒だが、名曲に刻まれたモーツァルトの思いは感動となって心に響いてくる。名曲を聴きながら、モーツァルトに感謝し、冥福を祈りたい。(2019.11)

 

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2019.9 オーストリアの旅 モーツァルトゆかりのザルツブルクを歩く

2019年11月11日 | 旅行

2019.9 オーストリアの旅 モーツァルト① ザルツブルクを歩く                                異文化の旅・オーストリアの旅
 ハイドン(1732-1809)、ベートーヴェン(1770-1827)と並んで古典派音楽を代表するヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトWolfgang Amadeus Mozart(1756-1791)は1756年1月、ザルツブルクで生まれた。
 ザルツブルク大聖堂(写真、見学録は未稿)にはモーツァルトが洗礼を受けた洗礼盤がいまも健在である(堂内は撮影禁止)。オーストリアの旅5日目は日曜で、ミサの準備が始まり、次々と民族衣装で着飾った行進が大聖堂に集まってきた。
 大急ぎで聖堂内を一回りする。モーツァルトはのちにザルツブルク大司教宮廷楽師として仕えていたとき、大聖堂のパイプオルガン奏者も務めたそうで、そのパイプオルガンも眺め、外に出る。

 ザルツブルクはその当時、神聖ローマ帝国領内のザルツブルク大司教領だった。世界遺産に登録されているザルツブルク大司教宮殿=レジデンツを見ると、いかに権勢を誇っていたか想像できる(写真、見学録は未稿)。
 モーツアルトが生まれたころの大司教はシュラッテンバッハ(在位1698-1771)で、モーツァルトの父は大司教に仕えるヴァイオリン奏者であり、宮廷楽団副楽長を務めていた。
 モーツアルトの天分に気づいた父は積極的に音楽教育を施した。その結果、3才のときにはチェンバロを弾き、5才で作曲したそうだ。ミラベル宮殿(写真、1606年、大司教ディートリヒ(在位1587-1612)が愛人のために建てた?、今回のツアーでは外観見学)での演奏会も5才のころといわれる。

 シュラッテンバッハ大司教もモーツァルトの才能を評価し、父との演奏旅行を支援した。・・演奏旅行はモーツァルトをどこかの宮廷楽団に雇ってもらおうとした父の思惑もあったとされるが、結果的に就活はことごとく失敗したらしい。
 1762年、6才のモーツアルトと父は演奏旅行でミュンヘン、次いでウィーンへ向かう。10月、シェーンブルン宮殿(写真、庭園側、見学録は未稿)でマリア・テレジアの御前演奏したとき転んでしまい、そのとき手を取った7才の皇女マリア・アントーニア(のちのマリー・アントワネット)に「大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる」と言ったという話が残されている。
 ・・神聖ローマ帝国で権勢を誇るマリア・テレジアの前で皇女マリア・アントーニアに求愛するなど、世間を知らない幼さがうかがえる。
 7才ときフランクフルトで演奏し、ゲーテがそれを聴いて、そのレベルは絵画でのラファエロ、文学のシェイクスピアに並ぶとのちに回想したそうだ。人間としては幼くても音楽的才能はゲーテをうならせるほど秀でていたようだ。

 モーツアルトの生家は、ザルツブルク大聖堂、大司教の館=レジデンツに近い旧市街の繁華街Getreidegasseゲトライデガッセに面した6階建ての建物の一角にある(写真、黄色い建物がモーツァルトの生家)。
 ザルツブルク旧市街図中央を流れるのがザルツァッハ川、南端にレジデンツ、ザルツブルク大聖堂があり、川とレジデンツのあいだにモーツァルトの生まれた住まいが建つ。
 モーツァルト家は3~4階に住んでいて、1階左のアーチが入口になり、奥の階段で上階に上る。1階の右は店舗で、いまはモーツァルトのグッズを扱っている。
 モーツァルトには6人の兄弟姉妹がいて7人目の末っ子だったが、5才上の姉以外は早死にしてしまい、両親、姉、モーツァルトの4人暮らしだった。
 生家は、現在は記念館として公開されていて、当時の様子を再現した家具が配置されている(写真、室内は撮影禁止、web転載)。
 今回のツアーではザルツブルクに2泊し、大聖堂、レジデンツ、ホーエンザルツブルク城の見学や、夕食、昼食、カフェなどでゲトライデガッセを何度も行き来したが、生家前はいつも見学者が列を作っていた。モーツァルト人気の根強いことがうかがえる  
 生家見学は4階からで、台所を眺め、父が使ったヴァイオリンの教則本などが展示された小部屋、家族の肖像画や資料が展示された大部屋、モーツアルト愛用のヴァイオリンが展示された部屋、モーツァルトや子どもの肖像画が展示された小部屋を見て回った。

 モーツァルトは17才になるまでここに住み、ザルツァッハ川の反対側に転居するのだが、6才から父に連れられ演奏旅行に出ていたから、モーツァルトにとって生家の印象は薄いかも知れない。
 13才・1769年から15才・1771年にかけて父とイタリアに演奏旅行に出かけたとき、システィーナ礼拝堂でグレゴリオ・アレグリの9声部の『ミゼレーレ』を聴き暗譜で書き記した逸話とか、対位法やポリフォニーの技法を学んだことなどが知られている。  
 14才・1770年にはローマ教皇より黄金拍車勲章を授与され、ボローニャのアカデミア・フィラルモニカの会員に選出される。
 しかし、たとえば同年作曲した初のオペラ『ポントの王ミトリダーテ』は大絶賛されたが報酬はわずかだったり、経済的には恵まれなかったようだ。
 1771年にシュラッテンバッハ大司教が没し、コロレド伯ヒエロニュムス(在位1772-1812)が大司教に就く。ヒエロニュムス大司教もモーツァルトを高く評価し、父とともにモーツァルトも大司教宮廷楽師として仕えた。

 17才、1773年ころ、ザルツァッハ川の反対側、生家から北に400mほど、新市街のマカルト広場に面した館に転居する(写真、右半分がモーツァルト家の住まい)。ゲトライデガッセに面した住まいは手狭で、モーツァルトの音楽練習には不向きというのが理由のようだ。
 現在はモーツァルトの家として公開されているが、今回のツアーには含まれていない。内部は当時の様子が再現され、モーツァルトが弾いたピアノが展示されているそうだ(写真、web転載
)。続く

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2019.10 コートールド美術館展でセザンヌ、ルノワール、マネ、ゴーギャンたちの名画を見る

2019年11月01日 | 旅行

2019.10 東京都美術館「コートールド美術館展」でセザンヌ、ルノワール、マネ、ゴーギャンたちの名画を見る  <日本の旅・東京を歩く>

 東京都美術館で9月10日から12月15日まで「コートールド美術館展」が開かれている。  コートールドはレーヨンの製造、取引で蓄財したイギリス人であり、1920年代、印象派、ポスト印象派の作品を次々と購入した。
 ロンドン大学に美術研究所ができることになったとき、多くのコレクションを寄贈、1932年、研究所の付属機関としてコートールド美術館が誕生した。その美術館の改修を機に、およそ60点が都美術館で展示されることになった。
 都美術館は毎月第3水曜に限り65才以上のシルバーは無料になる。10月の第3水曜日に「コートールド美術館展」に出かけた。
 都美術館2階レストランでランチを済ませたあと、展覧会の列に並ぶ。およそ20分待ちだった。

 展示は、ロンドン大学美術研究所付属機関の研究成果を踏まえ、第1室「画家の言葉から読み解く」、第2室「時代背景から読み解く」、第3室「素材・技法から読み解く」に分けられていた。あるいは都美術館の学芸員の構想かも知れない。
 それぞれの絵には、題名、画家名などに加え、画家の意図を読み解くための解説もつけられ、展示室のコーナーには代表的な絵画を例に拡大図を掲示し、読み解き方が詳述されている。絵の見方が参考になった。こうした解説はこれまでの展覧会ではなかなか目にすることがなかった。画期的な試みとして評価したい。

 第1室には13点展示され、ゴッホ「花咲く桃の木々」」やモネ「アンティーブ」ほか1点なども並ぶが、セザンヌの作品は9点が展示されている。
 ポール・セザンヌ(1839-1906、フランス)は「近代絵画の父」といわれるそうで、多角的な視点からの見え方を組み合わせた表現や、造形的な画面構成を作品化している。
 1892~1896年ごろに描かれた「カード遊びをする人々」(油彩、カンバス、60×73cm、写真web転載)では二人の農民が傾いたテーブルをはさんで座り、お互い自分の手札をジーとのぞいている光景が描かれている。
 田舎の居酒屋だろうか、飾りっ気は見られない。一人はパイプをくわえ、一人は口をしっかり閉じている。テーブルには飲みものも食べものもない。二人に会話をしている雰囲気はない。
 貧しい農民にとっての楽しみはカード遊びしかなく、ぼくとつとした農民はカード遊びを通して会話を交わすのが日常の暮らしだ、とセザンヌはパリで絵を見ている者に伝えようとしているのだろうか。

 第2室には22点が展示されている。ブーダン、ルソー、シスレー、ピサロ、ドガ、ロートレック、モネ、ルノワール、マネなどの絵が並ぶ。
 ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841-1919、フランス)の「桟敷席」(1874年、油彩、カンバス、80×63.5cm、写真web転載)は、画面一杯にオペラハウスの桟敷席に座る上流階級らしい男女が描かれている。
 手前の女性は白黒の縦縞の衣装を身につけ、真珠の首飾りを何重にも下げ、金の腕輪をはめている。後の男性も蝶ネクタイの正装のようだ。
 女性は上品な顔立ちながらどことなく寂しさを感じさせる。右下を見つめる視線に力強さは感じられない。男性はオペラグラスで右上を見ている。
 夫婦であれ愛人であれ、二人はいっしょにオペラを楽しむというより、会話もなく、ばらばらにオペラを見に来た人たちを眺めているようである。というより、画家の視線のようにこの二人もほかの誰かに見られていることを意識しているようだ。
 ルノワールは、パリのオペラ座?に集まる上流階級の退廃的な日常風景を描き出そうとしたのではないだろうか。

 エドゥアール・マネ(1832-1883、フランス)の「草上の昼食」(1863年ごろ・油彩・カンバス・89.5×116.5cm、写真web転載)は、林の中に4人の男女が描かれている。
 手前には草上に座るジャケット姿、草上で足を投げ出し半身を起こしたジャケットの男性、こちらを見つめる裸の女性、少し向こうに下着を身につける女性がいる。
 最初のタイトルは「水浴」だったそうだから、女性は川?で水浴びを終えた?、これから水浴びをする?女性のようだ。
 タイトルが改題され、昼食をしながら歓談している光景が強調された。飲み干した瓶が描かれているから、想像をたくましくし、アルコールが効いて身体がほてったから水浴びになったと思えなくない。
 しかし、だからといって男性はジャケットのままなのに女性は丸裸だから余計なことやいかがわしいことを想像させる。絵の中の女性は、余計な想像、いかがわしい連想をしている鑑賞者を射すくめるように見つめてくる。
 マネは、それまでの絵がまさに絵空事で理想化された虚構が描かれていたのに対し、パリでの上流階級の人々の現実の光景を描こうとしたようだ。
 さらには、こちらを射すくめる女性の目を通して、余計な想像、いかがわしい連想をするあなたも同じ穴のむじなよと問いかけているようだ。

 展覧会のポスターに使われている「フォリー=ベルジュェールのバー」(1882年、油彩、カンバス、96×130cm)はマネの最晩年の作品である。
 パリのよく知られたミュージックホールで働く女給が、画面中央にアップで描かれている。後の大鏡には客席で飲み騒ぐ客たちが映し出されている。
 ミュージックホールの喧騒のなかにいる大勢を鏡に映すことでマネは静寂を象徴し、女給は身だしなみは整っているものの相手をする上流階級にはほど遠い貧しい暮らしで、ときどき絶望感におちいる様子を描いたのではないだろうか。
 鏡の女給の背中は少し右にあり、その横に男が描かれている。女給を口説いているのだろうか、断りたくても貧しさ故の仕事がら断れない切なさかも知れない。
 手前の瓶と鏡の瓶など手前の光景と鏡に映った光景は対応していない。女給の困惑を表そうとしたのだろうか。

 第3室には、ドガ、スーラ、モディリアーニ、ボナール、ゴーガンらの絵画20点、ロダンの彫刻5点が展示されている。
 「ネヴァーモア」(1897年、油彩、カンバス、60.5×116cm、写真web転載)はポール・ゴーギャン(1848-1903)の作品である。
 パリの画壇で意見が合わず、逃げるようにタヒチに滞在し、14才の少女を妻とした。2人目の子どもは生まれてすぐに死んでしまう。この絵はそのころに描かれたらしい。
 横たわる裸の女性はマネの「オランピア」(1863)を思い出させるが、「オランピア」に比べ原色が用いられ、モデルの妻も原住民のたくましさがにじみ出ている。
 「オランピア」には絵を読み解くヒントが散りばめられていた。「ネヴァーモア」ではどんな意味が込められているのだろうか。
 妻は肉感的だが、「オランピア」のような官能感はなく、素朴なたくましさがあふれている。目は左上、窓枠に止まる大鴉を見ている。大鴉は悪魔の鳥と呼ばれている。妻を見守っている?のだろうか、それとも見張っている?のだろうか。外の2人の女にはどんな意味があるのだろうか。
 ゴッホはゴーギャンと意見が合わず、ゴーギャンが去って間もなく自殺する。ゴーギャンの最初の妻はデンマーク人で5人の子どもがいた。ゴーギャンはタヒチのあとフランス領マルキーズ諸島に移るが、タヒチの妻は同行を嫌う。マルキーズ諸島で新たな妻と暮らし、子どもも生まれるが、その妻もゴーギャンから去って行く。
 「ネヴァーモア」の妻の寂しげな顔、悪魔の鳥、無関係な二人の女などは、ゴーギャンが感じた不安の表現だろうか。不安は現実になる。病状が悪化し、パリに戻ることもなく、マルキーズ諸島で孤独のまま病死する。

 名画の自由な解釈を楽しんで帰宅した。(2019.10)

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