2019.10 三渓園を歩く ①原三渓ゆかりの三渓園 <日本の旅・神奈川を歩く>
大学4年のころ、研究室の仲間と横浜市本牧にある三渓園に行ったはずだが、広々とした庭園に歴史的な建物が移築されていたことぐらいしか記憶に残っていない。
少し前、特集番組で三渓園の歴史的価値が報道された。建造物のほとんどは国の重要文化財であり庭園も見応えがあるが、初めて見た気分になった。
10月下旬、記憶を掘り起こしに三渓園に向かった。
三渓園はJR 横浜駅から市バスで30~40分、JR横浜駅までは上野東京ラインで1時間少々、楽に日帰りできる。園内にはいくつか食事処もある。ランチを園内で取り、園内見学後、横浜あたりで遅めのコーヒータイムのイメージで家を出た。
横浜駅で降りるのは久しぶりである。前よりも華やかさが増し、人出も多くなっているようで、賑やかに感じた。
東口バス乗り場から市バスに乗り三渓園入口バス停で降りると徒歩5分ていどで三渓園だが、ちょうど本牧バス停を通る市バスが来た。
本牧バス停からは三渓園まで徒歩10分ほどになる。バス停で三渓園入口行きを待つより本牧バス停行きに乗って市内を眺める方が楽しそうである。
この選択は大正解だった。バスは高島町、桜木町を通り、左折して日本大通りを抜け、中華街をちらっと眺め、山下公園あたりで右折して人形の家、港の見える丘公園あたりを走り、本牧に向かう。本牧バス停までの40分は市内観光バスに乗った気分になれた。
本牧バス停から三渓園の矢印に沿って静かな住宅街を歩く。住居表示は本牧三之谷である。三之谷というから、谷筋だったのだろうか。
歩いている限りは平坦と思っていたら、左が小高い林になった。地名通り谷だったようだ。その先の右手に門柱2本の素朴な正門が見えた(写真)。
入園料は700円と廉価である・・横浜市内在住者にはシルバー割引で500円とさらに安い。社会還元しようという開設者原三渓の志を継いでいるようだ・・。
門を入ると名前の通りの大きな大池が広がり、その先は小高くなっていて、樹高を超えた三重塔が見える。右手も小高い林で、林のあいだに茅葺きの大屋根が望める。案内板を見ると、樹木に隠れた奥に建造物が配置されている(配置図、web転載)。谷あいを利用して園がつくられたようだ。
パンフレット、ガイドの話、web情報によれば、江戸末、現埼玉県神川町の裕福な醸造業・質屋も営む農家に生まれた原善三郎(1827-1899)は横浜に出て生糸の取り扱いで財をなした。
渋沢栄一(1840-1931)と並ぶ実業家といわれ、第二国立銀行=横浜銀行初代頭取、横浜商法会議所=横浜商工会議所初代会頭、横浜市会初代議長、衆議院議員などを歴任した。
その善三郎が明治初年1868年、三之谷あたり一帯の土地を購入する。
明治20年代1890年前後に現在は展望台になっている場所に別荘を建てる・・あとで展望台に上った。東京湾に面して工場群が広がり、三浦半島、房総半島も遠望でき、見晴らしがいいところである。
海のない埼玉県神川町出身だから海へのあこがれがあったであろうし、生糸の交易で成功したから海外への関心が高かったこともあろう。別荘で横浜の海を見ながら思索にふけったのではないだろうか・・。
話が変わる。1868年、現岐阜市=美濃国中部の加納藩の名主庄屋だった青木家に富太郎(1868-1939)が生まれる。父は村長を務めるほど人望も高かった。
青木富太郎は東京専門学校=現早稲田大学を卒業後、跡見女学校=現跡見学園の教師になる。
原善三郎の孫娘屋寿が跡見女学校に入学する。屋寿の下駄の鼻緒が切れて困っているときに富太郎が助け、二人は恋に落ちた、といわれている。
原善三郎は富太郎を見込みありと判断し、富太郎は原家に婿入りする。原富太郎は善三郎の見込み通り頭角を現し、富岡製糸場ほかの製糸場を所有するなど絹貿易で財をなす。
原富太郎は美術品の収集家や茶人としても知られ、号を三渓としたため原三渓と呼び習わした。
原善三郎没後、富太郎は善三郎の購入した三之谷一帯の造園を始める・・以来、三渓園と呼ばれる。
1902年、住まいとなる鶴翔閣を建てる・・三渓園が原三渓の本宅となる。
三渓のコレクションは5000点を超えるほどで、岡倉天心(1863-1913)やインドの詩人タゴールとも交流があり、前田青邨(1885-1977)、横山大観(1868-1958)、下村観山(1873-1930)らを招き、パトロンとして支援もしたそうだ。
蓄財を文化貢献に活用する功績は大きいと思う。教科書にも載る文化人芸術家が三渓園に集まり、意見を交わし、製作に励み、活躍の一因になっている。
1906年、原三渓は三渓園東側=外苑を一般に開放する・・西側=内苑は居住区である。一般公開も蓄財を社会に還元しようとする表れであろう。
1914年、外苑に旧燈明寺三重塔を移築、1917年、内苑に臨春閣を移築、1922年、内苑に聴秋閣を移築する。
1923年の関東大震災で損壊・消失、1939年三渓没、1945年世界大戦の空襲で大きな被害を受ける。
1953年、財団法人三渓園保勝会が発足し、建物、庭園の復旧が進められ、1958
年、外苑、内苑が一般公開となる。
1960年、外苑に合掌造りの旧矢箆原家住宅が移築され、1987年には外苑に旧燈明寺本堂が移築された。
主な建物を列記したが、17棟の歴史的建造物が内苑、外苑に配置されている。うち国の重要文化財は10棟、横浜市指定有形文化財の指定が3棟あり、文化財の宝庫になっている。
入園し、右に蓮池、睡蓮池を眺め、左に大池と三重塔の遠景を眺める(写真)。風景が雄大である。
この地を選んだ原善三郎の目も卓越しているが、雄大な風景に造園した富太郎=三渓の目も優れている。
昭和にエコノミックアニマルの言葉がはやったが、明治、大正の富豪は経済に偏らず、文化にも優れ、それを社会に貢献、還元する心情も豊かだったようだ。
三渓の住まいだった閣翔閣が一般公開されていたが、先に昼食を取ろうと大池の西に建つ雁ケ音茶屋、月影の茶屋、三渓園茶寮をのぞく。混み合っていたので、大池の南に建つ待春軒に入った。どの食事処も木造平屋の古風なつくりで、庭園の風情を損なわない工夫がされている。
待春軒に入ると、三渓そばと大書きされ、写真付きでいわれが紹介されている(写真)・・1906年、三渓園開園の際、招待客に用意した原三渓考案のそばで、細いうどんを油で炒め、筍・椎茸・豚挽肉・ネギを醤油ベースで煮込み、酢・生姜を加えて中華風のあんにしてうどんにかけ、ハム・絹さや・錦糸玉子を散らしたそばだそうだ。
三渓が、茶席のあいま、装いを汚さず食べられるようにと汁無しのそばを考えた、との説もある。
私はキノコが苦手だが話の種に三渓そばを頼んだ・・キノコを端に寄せ、中華風あんをからめて食べた。パスタ風うどんと思えば近いかも知れない。確かに汁が飛ばないが、茶席のあいまの軽い食事が原点だから量は少々物足りなく感じた。
三渓そばを食べながら、パンフレットを読んだ。内苑を60分で巡るボランティアの定時ガイドが14:00管理事務所前集合で、ボランティアによるフリーガイドは正門前13:00~随時受付である。
食事を終えたのが13:30だった。正門前受付のフリーガイドか、管理事務所前集合の定時ガイドに参加しようと管理事務所前のボランティアガイドに確認したら、ボランティアの一人がフリーガイドになってくれ、さっそく見学ツアーが始まった。
三渓園はボランティアの体制がしっかりりしている。これも三渓の遺志のようだ。続く(2019.11)