yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

1995年「築地松民家の景観特性」=屋敷西側の屏風のような築地松が強い風を防ぐ

2016年05月30日 | studywork

1995 「築地松民家の景観特性」 農村計画学会 /1995.3記

 島根県出雲地方には、築地松と呼ばれる屋敷林を備えた散居景観が卓越する。
 出雲空港に着陸するとき、あるいは離陸するとき、気をつけて眺めていると築地松の民家を見つけることができる。あるいは、農村をゆっくり走るとあちらこちらに見つけることができる。
 しかし、松枯れや生活様式、建築工法の変化に伴って築地松のある田園景観の衰退が始まってしまった。
 1990年ころから、築地松散居の景観保全対策の検討が始まり、私も参画して、築地松民家と散居集落の空間と意識に関する調査を重ねた。
 この報告は築地松を備えた民家の景観特性を景観の文脈の観点から明らかにすることを目的にまとめ、1995年度の農村計画学会に報告したレポートである。

 住宅平面の特性 /母屋はいずれもおおむね南向きを基準とし、道路や敷地の区画にあわせて若干向きを振る。
 間取りは、ゲンカンに続いて表側にはナカノマ・オモテの続き間が並ぶ。
 ゲンカンの奥はいずれもダイドコロがとられ、ナカノマの奥にイマ、オモテの奥にナンドが配置される。
 おおむね、母屋平面の南側にゲンカン・ナカノマ・オモテ、北側にダイドコロ・イマ・ナンドとする間取りが標準である。
 ゲンカン・ダイドコロを東側に、オモテ・ナンドを西側としており、間取りに東西方向の空間概念がみられる。

 屋敷配置の特性 /母屋はいずれも屋敷地のほぼ中ほどに南面して建つ。母屋のほかに、屋敷内には数棟の付属屋が建つ。付属屋は、母屋の東側、西側、北側に配置されていて、母屋の中心性に対する付属的な位置関係を示す。
 門を屋敷入り口に構えるものは4事例ある。いずれも南側、ゲンカンにほぼ対面する位置に構えられる。
 墓を屋敷地の一隅にしつらえているのは7事例あり、うち5事例が屋敷地の南西隅に位置する。
 屋敷地一隅に屋敷神を確認できたものは5事例あり、多くは屋敷地の北、あるいは北西に祀られている。
 庭の西側には造園が施され母屋のオモテと連動した格式性を象徴する。一方、庭の東側は機能性が重視されていて、ゲンカンや東側に位置する納屋と動線が連動する。
 
 屋敷外観の特性 /南側は1.5~2.0mほどの生け垣が設けられる。南から遠望すると、生け垣、庭の樹木、母屋が重なり、田園の特徴的な風景をつくっている。
 東側は比較的開放されているが、付属屋が境界に沿って建つか、一部に生け垣や樹木が並び屋敷地を囲い込む。
 北側は、築地松、雑木などと生け垣が混用され、閉鎖性は高く、屋敷地内をうかがうことはできない。
  西側は主として直線的に剪定された築地松が覆い、緑の屏風然としている事例が多い。いまは築地松が減少しつつあるが、かつてはいずれも屏風状の築地松を備えていたことが推測される。
 築地松は、高さは10.0~12.0mほど、母屋の屋根高さ+3~4mとなり、母屋と屋敷構えを西の強風から防ごうとする役割がうかがえる。

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2004年、埼玉の木をつかった「家づくりの夢」を募集、「からだにやさしい家」ほかを選考した

2016年05月28日 | studywork

2004 埼玉の木を使った「家づくりの夢」 埼玉県木づかい夢住宅デザイン事業 /2005.2記

 2004年春、埼玉県農林部木材利用推進室が、埼玉の木を使った「家づくりの夢」企画を呼びかけ、木づかい夢住宅デザイン事業実行委員会が立ち上がり、私も参画した。
 狙いは、多様化の進む今日、県民の家づくりの夢をとらえること、あわせて、埼玉の木を使い、山の復興を目指すと同時に、木の家づくりを通して木造技術の継承と職人への支援につなげることである。
 5月、「家づくりの夢」募集の詳細を検討、6月、「家づくりの夢」を募集、8月、審査会で優秀案5点、特別賞3点、奨励賞1点を選考した。表彰式は翌2月に行われた。
 優秀案のういち3点を紹介したい。詳しくはホームページ参照。
 「からだにやさしい家」は結婚して住み始めた新築マンションでシックハウスにかかった女性からの応募で、人にやさしい家、健康に暮らせる家、安心して子育てのできる家についての夢が切々と訴えられていて、審査員の共感を呼んだ。
 彼女は、自ら建築現場などを調べ、木の香り、木のぬくもり、開放感のある空間、光があふれ風の通る住まいの良さを実感し、小さい子どもにもお年寄りにもやさしい家づくりの夢をまとめてあり、高く評価された。

 「チロル風、木と家族のぬくもりを感じる家」には、チロル地方の木組の家をベースにした住まいの夢が詳細に描かれていた。
 たとえば、台所には木のカウンターキッチンを設け家族とコミュニケーションをはかりながらの料理や、ウッドデッキでのランチを楽しむ、木の子ども部屋には木のおもちゃがおかれ、子どもたちが楽しく遊ぶ、寝室には木のベッド、木の鏡台やクローゼットを置き、木の香りに包まれた雰囲気を味わう、など、夢の具体性が審査員から高く評価された。 
 
 「木の香に包まれた私の家」はお年寄り夫婦二人の住まいのイメージが語られている。
 それは、こぢんまりとした平屋の和風住宅、木材をふんだんに使い、木の香りに包まれている、和室2部屋と洋室のダイニングキッチンで、段差をなくし出入りがしやすい、地震に強く、火事への配慮もし、手の届く価格でつくれる住まいである。
 審査員は、高齢社会を迎えたいま、お年寄り夫婦の住まいの夢に応えねばならないとの意見で一致し、この案が選定された。

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スペインを行く24 フラメンコショーはテンポの速い踊りとカスタネット、哀切に満ちた歌とギターが魅了する

2016年05月27日 | 旅行

スペインを行く24 セビリア マエストランサ闘牛場 フラメンコショー & セマナ・サンタ /2016.5記

 2015年ツアーでは6日目、1994年ツアーでは4日目にセビリアに入った。いずれも夕方フラメンコショーを観劇した。
 フラメンコはスペイン、とりわけアンダルシア地方で盛んな芸能である。
 もとは、14世紀ごろの非定住民ロマ=ジプシーたちの舞踊が始まりとされる。ロマ=ジプシーをスペインではヒターノと呼んでいた。
 1492年のグラナダ陥落でレコンキスタが完了し、スペインはカトリックの国になる。同時にユダヤ人が追放されたが、カトリックに改宗したイスラム教徒であるモーロ人=ムーア人はしばらくのあいだ居住が認められていた。しかし、モーロ人=ムーア人がたびたび反乱を起こしたことから、モーロ人=ムーア人に対しても追放令が出されてしまう。
 追放されたモーロ人=ムーア人多くは北アフリカに渡ったが、ヒターノたちのなかに紛れたものも少なくなかった。
 その結果、ヒターノたちの舞踊であるフラメンコがモーロ人=ムーア人の影響を受け、現在のフラメンコに発展したそうだ。
 1824年?、セビリアにフラメンコを上演するカフェ=カフェ・カンタンテが出現した。一杯飲みながらタパスをつまみ、フラメンコを楽しむカフェ・カンタンテはスペイン中に広まっていった。
 20世紀後半、舞台付きレストラン=タブラオが現れ、フラメンコが再び盛んになった。
 2015年ツアーでは、スパークリングワイン・カヴァを飲みながら、舞台のフラメンコを観劇した。

 フラメンコは踊り=バイレが中心で、つま先やかかとで床を鳴らすリズムは振動がそのまま伝わってきて身体がぞくぞくする。
 休みなく鳴らされるカスタネット=パリージョは腕が上向き、下向き、後ろ向きと変わるたびに抑揚が変化し、見る者=聞く者をとりこにしてしまう。
 踊り手はみるみる汗だくになるが、汗のことなどまったく意に介せず、手を打ち鳴らしながら、ぐるりぐるりと回転し、大きくのけぞった瞬間向きを変えて足踏みにうつるなど、動きが速い。
 フラメンコにはギター演奏と歌が欠かせない。踊りの伴奏でギターが演奏されたり歌が歌われたりもするが、独立したギター演奏=トケと歌=カンテは哀切に満ちている。
 歌は魂の叫びともいわれているから、流浪の民であるロマ=ジプシーの運命の叫びなのであろう。
 ギター演奏はフラメンコ用に改良されたフラメンコギターが用いられる。切々と奏でるかと思えば、激しく弦をかき鳴らす演奏に移ったり、表板を叩いたりとフラメンコの激しい踊りにふさわしい演奏だった。

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1995-1996年、韓国南部・九満面で住み方調査=母屋は山を背にした配置が基本だった

2016年05月25日 | studywork

1997 「韓国南部農村住居の屋敷構成」 日本建築学会関東大会 

 
1995年から韓国南部の九満面という農村で住み方の調査を重ねた。
 九満面は盆地状の水田を囲んだ山裾に集落が立地していて、初年度は盆地の南東に位置するナットン集落で調査を実施した。九満面の北緯はおよそ35度でさいたま市の36度ほとんど変わらない。日本であれば南向きの住まいが好まれるが、ナットンでは北西向きの立地が多かった。
 そのことが気になり、1996年は住み方調査に加え、屋敷立地も考察の対象とし、ナットンで補足調査を行うとともに、盆地の北に位置し、南斜面のファッチョンで調査を行った。
 この報告は、韓国の農村住居の伝統的な屋敷構成について考察した結果である。

 母屋をモムチェという。モムチェは南面性が重視される思ったが、ナットンでは西を中心に北西から南の分布を、ファチョンでは南を中心に南西から東南の分布をみせた。
 ナットンの西向きは東南側が高い地勢条件、ファチョンの南向きは北側が高くなる地勢条件との関係をうかがわせる。そこで、個々の屋敷レベルと立地地勢を検討した。
 その結果、いずれもモムチェを屋敷地のなかでもっとも高い位置に配置し、かつモムチェの後ろを2~5mの崖または登り傾斜とする構成であった。
 つまり、モムチェは南面性など方位軸よりも山側を背にする地勢条件によって向きが決まっているといえる。

 個々の屋敷は、方位軸よりも立地地勢が尊重され、山側を背にした屋敷地のもっとも高いところにモムチェを、モムチェの右手あるいは左手、または向かい側に付属屋であるサランチェとソマグを配置する。
 付属屋サランチェとソマグは、モムチェに対し対等であるが、屋敷入口側にサランチェがおかれる。
 屋敷入口はモムチェの右手または左手、斜め前方にとられる。
 モムチェの背面は山または石塀、他の三方は附属屋がおかれるところはこれを、その他は石塀を築き、屋敷空間を閉じようとする。
  この屋敷構成の基本は、車がまだ普及していない現段階では、モムチェの建て替えによっても大きな変化を生じていない、などのことが分かった。

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マロリー著「アーサー王の死」は中世の騎士の考え方や行動規範が描き出されている

2016年05月24日 | 斜読

book420 アーサー王の死 サー・トマス・マロリー&ウィリアム・キャクストン ちくま文庫 1986 /2016.5読   (斜読・海外の作家一覧)
 2016年6月にイギリスを訪ねる予定で、予習のはじめにアーサー王の物語を読もうと思った。アーサー王と円卓の騎士の物語は子どものころに読んでいるし、映画やテレビドラマでも放映されているから、おおよその内容は分かっているつもりだった。
 ところが「アーサー王の死」を読んで、「遠からずとはいえ、かなり見当違い」だったことに気づかされた。子ども向けの本やドラマはテーマを限定し、テーマに沿って誇張したストーリーを完結させているから、全体像を知らないともともとの物語からそれてしまうようだ。

 伝説上のアーサー王は、6世紀にブリトン人を率いてサクソン人の侵攻を撃退した君主である。ブリトン人とは、グレートブリテン島・・いまのイギリス、アイルランド、周辺の島々の総称・・に定住していたケルト系の民族である。
 一方のサクソン人は、いまのドイツを起源とするアングロ・サクソン人を指し、5世紀ごろからグレートブリテンに進出を始めていた。
 また、アーサー王の物語で主役の一人となる円卓の騎士ラーンスロットはフランス出身であり、アーサー王はローマに攻め込み皇帝を倒しているように、ヨーロッパを視野に入れた展開になっている。

 アーサー王と円卓の騎士の伝説は各地に広まっていき、それぞれ独自の物語になっていったようだ。
 イングランドのキリスト教聖職者ジェフリー・オブ・マンモス(1100?-1155)はアーサー王に関する伝説を集約し、1138年の「ブリタニア列王史」としてまとめた。マンモスの創作も少なくないらしいが、これが現在のアーサー王と円卓の騎士の物語の定本になったらしい。


 15世紀の中ごろ、イングランド中部に生まれた騎士サー・トマス・マロリー(1399?-1471?)が伝説を元にアーサー王の物語を書き上げた。それをイギリス初の印刷業者ウィリアム・キャクストン(1421-1491)が編集して「アーサー王の死」というタイトルを付けて1485年に出版した。
 マロリー版とマンモス版との相違は分からないが、もともと伝説だから本家も元祖も亜流もないだろうが・・。

 私が読んだのはこのマロリー版「アーサー王の死」の抄訳である。
目次は、
アーサー王の誕生と即位
ローマ皇帝ルーシャスを征服
ラーンスロット卿とガラハッド卿
ラーンスロットの狂気
ラーンスロット卿と王妃
グィネヴィア王妃とラーンスロット卿
最後の戦い
アーサー王の死、である。

 底流するのは、15世紀中ごろの騎士道である。随所に騎士道が散りばめられているが、p293・・立派な騎士というものはほかの立派な騎士が一大危機に直面しているのを見ると助けるものだ。不当な扱いを受けているのを見ると、義憤を覚えるものだ。・・立派な騎士というものは常に自分がそうされたいと思うことを、他人にしてあげるものだ・・に騎士道が要約される。
 これはアーサー王が、ラーンスロット卿について語った言葉である。

 
 その一方で、男女関係についての道徳観はいまとかなり違う、と感じた。そもそも、アーサー王の父ウーゼル王はティンタジェル王の妃イグレーヌに横恋慕し、魔法使いマーリンの力でティンタジェル王になりすましてイグレーヌと同衾する。その結果、生まれたのがアーサー王である。
 また、ペレス王の姫エレインはラーンスロット卿を恋し、やはり魔法によってラーンスロット卿が好きだったアーサー王の妃グィネヴィアになりすまして同衾し、ガラハッド・・のちに騎士になる・・をもうけている。
 さらには後半の山場となるアーサー王とラーンスロット卿の戦いも、グィネヴィア王妃とラーンスロット卿の不倫が原因である。
 男女の関係は、ギリシャ神話以来、日本でも源氏物語に語られるように、常々、争いごとの種になってきた。男と女がいて、子孫をつくるという生物の原則がある限りこのテーマは続きそうだ。

 もう一つ、気になったのは王妃の不倫がただちに火あぶりの刑にされることだ。グィネヴィア王妃は、不倫が暴かれ火あぶりになる寸前、ラーンスロット卿に助けられるが、ジャンヌ・ダルクを始め、魔女狩り、カトリックによる異端審問など、ヨーロッパでは火あぶりが認められていた。
 世界各地でさまざまな拷問やおぞましい処刑がなされてきた。正常な人間でも、何かのはずみで狂気に走ってしまうようだ。


 ラーンスロット卿に騎士を与え、円卓の騎士を任じたのはアーサー王である。ラーンスロット卿は騎士道の誉れ高く、常にアーサー王に従い、アーサー王を支えてきた。
 グィネヴィア王妃との不倫騒動が表に出て、アーサー王と戦わねばならなくなったとき、ラーンスロット卿はアーサー王とだけは戦えないと、故卿フランスに渡る。
 ラーンスロット卿を追いかけてアーサー王がフランスに攻め込んでくるが、留守を頼んだアーサー王の子であるモルドレッドがイングランド王位を簒奪し、グィネヴィアを妃にしようとする。
 とって返したアーサ王とモルドレッドとの戦いで二人は瀕死となり、息を引き取る。グィネヴィアは尼僧となり、やがて息を引き取り、ラーンスロットも僧衣をまとい、飲まず食べず、息を引き取る。

 細かくは本を読んでのお楽しみだが、イギリス人の考え方や行動規範の原点に触れることができる。(2016.5読)

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