yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2023.5 千葉 佐原を歩く

2024年09月23日 | 旅行

2023.5千葉 佐原を歩く

 潮来あやめ園は茨城県、佐原あやめ園は千葉県と県が異なるが、両あやめ園は利根川を挟んで直線で4km少々、車で8分ほどと近く、パンフレットなどでもあやめコラボなどと両園が連携してPRしている。潮来あやめ園を出て佐原あやめ園に向かう前に、佐原の町で食事を取ることにした。潮来あやめ園から国道51号に出て、常陸利根川を渡り、続いて利根川に架かる水郷大橋を渡り、JR成田線を過ぎて左に折れ、伊能忠敬記念館近くの駐車場に車を止める。
 駐車場で佐原観光マップをもらい、お勧めの食事処をいくつか教えてもらう。駐車場の向かいに歴史をうかがわせる町家が並んでいて、正面にお勧めの食事処の一つ、蕎麦屋小堀屋本店があった(写真、左から2軒目)。

 江戸時代、利根川の支流である小野川は舟運が盛んになり、利根川への合流点近くの佐原は小野川両岸や周辺に問屋、醸造などの商工業者の商家が集積して栄えた。創業は江戸時代が多く、明治時代に建て替えられ、当時の景観をよく残していることから、重要伝統的建造物群保存地区に選ばれている。前掲写真の左端が1804年創業、1895年建築、左から2軒目が1782年創業、1900年建築の蕎麦屋小堀屋本店、町家を挟んで右端が1880年建築である。
 蕎麦屋小堀屋本店に入る。骨太の梁を見せた店内に「黒切り蕎麦」のお品書きが貼られていたので頼んだ(写真)。日高昆布を更級粉に練り込んだ蕎麦だそうだ。昆布の香りは気づかなかったが、昆布のねっとりさを感じる蕎麦だった。昆布には日ごろ摂取しにくいミネラルが豊富だから、蝦夷から運ばれた貴重な=高価な日高昆布を余さず活用しようと蕎麦に練り込んだのではないだろうか。イタリアで食べたイカ墨パスタを思い浮かべながら黒切り蕎麦を食べた。
 蝦夷と佐原を結ぶ舟運図などがあれば、黒切り蕎麦の味わいが深くなると思う。

 小堀屋本店の右2軒先(前掲写真右端建物の先)に小野川が流れ、忠敬橋が架かっている。小野川沿いにはかつての物産の集積地として栄えた当時の景観が残されている(写真)。
 小野川沿いを南に歩くと、伊能忠敬記念館が建つ(写真)。川沿いの歴史的景観を損なわないための配慮か、コンクリート造に瓦葺切妻屋根をのせ、川沿いから隠れるように少し奥まって建っている。
 伊能忠敬(1745-1818)が日本全国を測量し、日本初の日本地図を作った偉業は教科書でも習う(井上ひさし著「四千万歩の男」参照)。
 伊能忠敬は17歳で醸造業を営む伊能家の婿養子になり家業に専念、36歳で名主、49歳で隠居、50歳のときに天門方高橋至時に入門、55歳のときの東北・北海道南部を対象とした第1次測量から毎年第2次~第4次測量を重ね、59歳のときに幕府に登用され、第5次~第10次測量を行い、73歳で没し、3年後の1821年に大日本沿海輿地全図(東京国立博物館蔵)が完成する。
 記念館には伊能図と呼ばれる実測図、忠敬の生い立ち、測量の様子などが展示、解説されている。伊能図を見ながら、だいぶ記憶が曖昧になった「四千万歩の男」を思い出し、測量具を持ちながら決まった歩幅で歩いては記録する様子を想像する。海に沿って陸地をひたすら決まった歩幅で歩き続け、位置を確定するため山を測量し、北極星を測量し、などをしながら一汁三菜で腹を満たし、日本の外周を全て歩いたのだからまさに偉業である。

 伊能忠敬記念館を出る。小野川の向かい側に伊能忠敬旧宅が建っている(写真)。かつて舟運で使われた荷揚げ場はいまは観光船に使われているそうだ。 小野川に架かる樋橋(小野川を超えて水を送るための樋管が架かっていたため樋橋と呼ばれるらしい)を渡り、旧宅を見学する。広い土間、帳場、座敷などが当時の醸造業の様子を残し保全されている。
 測量具が展示されていた(写真)。かなり重そうである。これを担いで日本の外周を踏破したのだから恐れ入る。良い意味で伊能忠敬は執念の人だったようだ。

 駐車場に戻り目的の佐原あやめ園に向かう。常陸利根川と利根川のあいだに与田浦川が流れていて、与田浦川の途中が与田浦と呼ばれる小さな湖になっている。その与田浦の東隣におよそ8haの佐原あやめパークが整備された。第1~第5の駐車場が整備されているから人気のほどがうかがえる。ところが、入口の看板にはあやめは3分咲きと書かれていた。今年の盛りは暑さにもかかわらず遅いようだ。入口でスタッフが気の毒そうに3分でも入園料は同じですよという。
 園内にはショウブ田、藤のトンネル、バラ園、アジサイ、スイレン池、梅林、野点広場、芝生広場、森の遊び場、ドッグランなどが整備され、園内の水路をサッパ舟で巡ることもできる(写真、サッパ舟が巡る園内水路)。とはいってもあやめ鑑賞が目的の身には物足りない。
 園内をぐるりと歩き、咲き残った睡蓮を眺め(写真)、カフェで一息する。 あやめは物足りなかったが、黒切り蕎麦に出会ったり、伊能忠敬を復習したり、心身の刺激には事欠かなかった。 (2024.9)

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2023.5茨城 潮来あやめ園

2024年09月22日 | 旅行

2023.5茨城 潮来あやめ園を歩く

 2018.12+2020.12の千葉・香取神宮、茨城鹿島神宮参拝のとき、千葉佐原、茨城潮来を通り過ぎた。佐原も潮来も利根川流域の水郷地帯であやめの栽培に力を入れ、あやめ祭開催中はテレビで報道されるほど人気を集めている。あやめを見ようと佐原、潮来を訪ねることにした。2023年のあやめ祭は、潮来が5月19日~6月18日、佐原が5月27日~6月25日と案内されている。今年も暑さが早いので見ごろも早いだろうと5月下旬に出かけた。
 東関東自動車道潮来ICで下り、ナビに従って10分ほど走る。潮来あやめ園駐車場の案内があちこちに見える。私有地を臨時の仮設駐車場にしたようで、手招きに応じて車を止めた。

 潮来あやめ園は利根川に合流する常陸利根川の支流・前川に沿った1.3haの園地で、500種1000万株のあやめが植栽されているそうだ。あやめ園手前に「潮来花嫁さん記念碑」が置かれている(写真)。ボタンを押すと、花村菊江が歌う「潮来花嫁さん」が流れる。流行ったのはずいぶん昔だ。
 記念碑の右に園を大きくまたぐアーチ橋が架かっている。全体を見ようとアーチ橋を上る。アーチ橋の左=園の西は花が少ない(写真)。人も閑散としている。
 あやめを長く楽しんでもらおうと植える時期をずらしているようで、このあと園の東を散策し、8分咲き満開?のあやめを楽しんだ(次頁写真web転載)。
 アーチ橋を下りると「潮来笠記念碑」があった。誰かがボタンをしたようで橋幸夫の「潮来笠」が流れていた。この歌も流行ったのはかなり昔である。

 園内の解説板に、アヤメは、茎先に1~3輪の花が咲き、花びらの付け根に網目模様があり、花びらは3枚で、花の大きさは5~8cm、花の色は白、紫、赤紫、高さは30~60cm、乾燥した土地を好み、開花は4月下旬~5月上旬
 カキツバタ(杜若)は、茎先に2、3輪の花がつき、花びらの付け根に白い線が入り、花びらは3~6枚、花の大きさは12cm、花の色は白、紫、赤紫で、青紫、高さは40~70cm、水辺や湿地を好み、5月初旬、~5月中旬に開花
 ハナショウブ(花菖蒲)は、色彩が豊富で花びらが大きく、花びらの付け根に黄色い線が入り、花びらは3枚または6枚、八重咲き、花の大きさは15cmぐらい、花の色は紫、青紫、赤紫、薄紫、桃、白、高さは40~100cm、水田や湿地など水はけの良い場所を好み、5月下旬~6月中旬に開花、と絵入りで説明されていた。
 アヤメ、カキツバタ、ハナショウブは似ているようで異なる品種だが、素人の目には大同小異に感じる。

 あやめ園のあいだに設けられた園路を東外れまで歩き、8分咲き?のあやめを眺める(写真)。あやめ園は平坦で、あやめの香りは感じられないので、歩いていても単調になる。
 戻ってきて前川を渡る。嫁入り船の演出や手こぎのろ船遊覧は前川で行われるらしいが、この日は行われていなかった。
 アーチ橋からもう一度あやめ園を眺め、車に戻った。 (2024.9)

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「商う狼 江戸商人杉本茂十郎」斜読3/3

2024年09月19日 | 斜読

book565 商う狼 江戸商人杉本茂十郎 永井沙那子 新潮社 2020

4 嗤う 樽屋の死後、茂十郎の強権を揶揄して「毛充狼」という呼び名が広まるが、茂十郎は意に介せず、堅実な商いをする者を重用し、新たな商売をする者を支援するなど三橋会所の運営を見直した。文化14年、凶作で米価が値上がりし、三橋会所は備蓄の米を売って潤い、差加金を返還したので旦那衆も納得した。

 話が前後する。1779年に10代将軍家治の世嗣が急逝したため、一橋家の豊千代が家治の養子になって家斉と改め、1787年、家治の跡を継いで15歳で11代将軍に就く。豊千代にはすでに薩摩島津茂姫が許嫁になっていたので、将軍の御台所は公家の習わしに従い茂姫を近衛家の養女に出し名を近衛ただ子と改め、1789年に家斉のもとに輿入れする・・この結果、島津が力を持つ・・。
 家斉は当初、老中首座・松平定信の寛政の改革を進めたが、やがて(父・一橋治済の意に従い?)松平定信と対立して松平信明を老中首座とした。松平信明は松平定信の路線を引き継ぐも、家斉は父・一橋治済、弟・一橋民部(永代橋落下の話で前出)の金遣いの荒さを容認し、40人ともいわれる側室に金がかかり、愛妾の言いなりで人事を動かすなど、政道が乱れた。

 文化14年1817年に松平信明が逝去して家斉の歯止めがなくなる。次の老中首座には、家斉の側用人で駿河国沼津藩主・水野忠成55歳が就く。水野忠成は家斉の言いなりといわれる。
 江戸で砂糖の抜け荷が急増し、砂糖の値が崩れる。茂十郎の調べで薩摩御用商人の仕業と分かる。薩摩島津藩主・島津重豪の放蕩で島津家は金が必要になり、砂糖の抜け荷で儲けようとした・・茂十郎は金の力で刀に対抗してきたが、島津重豪の娘が家斉の正室であり砂糖の抜け荷を追究すれば葵の御紋と対立することになる、茂十郎の戦略は?・・。
 
 新たな寺社奉行・水野忠邦は老中首座・水野忠成の縁戚である。水野忠邦は唐津藩主だが唐津藩は長崎警固に多忙で出世に限りあり、縁戚の水野忠成が老中首座に就いたいまが出世のチャンスと、重臣の言葉を聞かず10万石の減収にもかかわらず浜松へ転封し、寺社奉行に就いた。
 (和菓子店大坂屋の養女・恂は唐津藩の殿に見初められ奥入りし、水野忠邦を生んだ。忠邦が唐津藩の世継ぎになったため恂は城から出され、恂は大坂屋に戻り、2代目と結婚する。恂の仲立ちで大坂屋は水野忠邦、松平定信にひいきにされ、江戸で屈指の御用達の名店になった。店名に松平定信の雅号である風月を賜り、恂は虫が付かないようにと風を凮にしたなどの話が挿入される・・いまの凮月堂の所以・・。恂は茂十郎に好意的だが本筋には関わらない)。

 寺社奉行に就いた水野忠邦が茂十郎に、(家斉の愛妾・美代の実父・日啓が下総中山・智泉院の僧で、智泉院の祈祷所を城の中奥に建てるため)金を出すようにと伝える。茂十郎は水野忠邦に、昨年、今年と江戸で大火が続いたので手元不如意と断り、代わりに勧進能を提案する。
 勧進能は能を見せて観客から金を集め寺社の再建などに使う集金方法で、勧進能に町人が出店すれば町人も潤い、一挙両得になる。筋違橋門外に能舞台が作られた。舞台に近い畳敷き枡席の上等席、ござを敷いた大衆席、高くしつらえられた屋根付きの特等席に分けられていた。
 茂十郎の娘・文13歳も来るが、文も本筋には関わらない。
 砂糖の抜け荷が茂十郎によって露見させられた 薩摩御用商人・浜崎太平次も来る。薩摩の威光で武家、仲間外商人と付き合い、羽振りが良い。茂十郎に毛充狼と嫌みを言い、弥三郎にはいつか風向きが変わると呟く(薩摩が茂十郎追い落としを画策か?)。

 茂十郎は紀州藩江戸家老三浦為積の家来と話す(薩摩、葵の御紋と対抗する茂十郎の作戦か?)。

 能舞台は鵺(ぬえ=妖怪)を演じて幕になった。茂十郎は、鵺は時の帝に都合の悪い者だが鵺は1匹の妖怪、毛充狼は茂十郎が作り上げた三橋会所、菱垣廻船積株仲間たちがいて、人の顔、蛇の尾、狐狸の手足、狼の体が混じり合っている。茂十郎1人を退治しても蛇の尾、狐狸の手足、狼の体が生き残り、亡霊になって現れる、と笑う。与三郎は、茂十郎の笑いは力強く自信に満ちていると感じた。

5 牙剝く 弥三郎は、会所で働く茂十郎の姉の子・宗八郎から、会所の金100両以上が帳簿から消えていることを聞く。茂十郎に確かめると、蔵前の潰れた札差近江屋の蔵に堆く積み上げられた米俵を見せられる。1000両にも及ぶ米俵だが、張りぼてで、実際にはない米に値をつけ切手を発行する空米だった。
 空米切手は御法度だが、茂十郎は紀州藩江戸家老三浦長門の頼みで空米切手を発行したと話す。紀州徳川家は徳川御三家だが、藩主徳川治春に嫡男が生まれなかっため、5女の豊姫に家斉の7男・斉順を婿に迎え養子にした。となると、家斉の父・一橋治済や正室の父・島津重豪の影響が強くなる。紀州藩は、薩摩島津に対抗するための力=金が必要になったのである。

 薩摩の砂糖抜け荷で江戸市場が混乱するのを防ぎたい茂十郎と紀州の思惑が一致し、同席した三井八郎右衛門も意見を同じにする・・三井家は政情をよく観察して振る舞っているようだが。本筋には関わらない・・。

 茂十郎は弥三郎に、農民たちが困窮し農地の荒廃がじわじわ進んでいるが、お上は困窮する者を救わず身内に湯水のように金を使わせ、寺社奉行、町奉行、勘定奉行は老中の顔色をうかがって、会所に金を出せと要求するのは正道ではない、忠義なんざくそ食らえ、と話す・・いよいよ茂十郎が毛充狼となって牙をむき出すか?・・。

 文政2年1819年4月、北町奉行・永田正道急逝、後任は勘定奉行だった榊原忠之54歳である。榊原は茂十郎に、会所から借りていた万両を越える手形を帳消しにしろと言い、茂十郎は断る。毛充狼の護符だった老(老中)、寺(寺社奉行)、町(町奉行)、勘(勘定奉行)は、死去、引退、対立し、茂十郎の立場は厳しくなった。
 茂十郎の下男・利助が弥三郎に、茂十郎が捕らわれたと知らせる。間もなく、弥三郎も唐丸駕籠に押し込まれて北町奉行所の囚人牢に入れられる。翌日、弥三郎は白州で町奉行・榊原から茂十郎が集めた金が消えている、その行方を白状せよと責められる。弥三郎は利助から届けられた茂十郎からの暗号が、張りぼての俵から空米切手が露見し、その出所を探ると紀州に行き着き、お上と御三家の対立になりかねないのでどこかで奉行は手を引かざるを得なくなる意味だと理解し、近江屋の蔵の中に茂十郎の全てが隠されていると白状する。榊原は(借金が帳消しにできると思い)、弥三郎を解き放す。

 5月のある日、紀州江戸屋敷から奉行所に使いが走る。翌日、茂十郎は牢から唐丸駕籠で運ばれ、恵比寿庵=三橋会所に押し込められた。周りは役人が取り囲んでいる。弥三郎は物売りに化け、日が暮れてから、猪牙船で日本橋川に面した恵比寿庵に行き、裏木戸から利助に声をかけてなかに入り、満身創痍の茂十郎に会う。
 奉行は茂十郎を闇から闇に葬ることができたのだが、茂十郎は奉行所の動きに気づいて奉行の借金の手形全てと、薩摩・島津重豪の名が記された大量の手形が紀州に渡るように仕組んでいて、奉行は茂十郎に手が出せなかったようだ。
 茂十郎と弥三郎が話していると頭巾で顔を隠した2人の男が刀を抜いて侵入してきた。茂十郎は煤けた鼈甲の櫛と小さな独楽(八重と栄太郎の形見)を懐に入れ、薩摩の手形を弥三郎に預け、痛めつけられた足を引きずりながら外に逃げる。弥三郎は、猪牙船に茂十郎を乗せ、薩摩の手形を船に投げ込み、生き延びろと声をかけ、茂十郎を逃がす。

 天保12年初夏、老中首座・水野忠邦の三田中屋敷で、堤弥三郎の長い話が終わる。
 茂十郎は逃げたあと行方が知れず、茂十郎不在のまま奉行所から、1万200両を会所入用にあてた咎で(実際には会所から20万両が消えていた)、三橋会所解散、十組問屋頭取解任、恵比寿庵などの茂十郎の財産没収が杉本茂十郎の名代堤弥三郎に言い渡された。
 5年後の文政6年に茂十郎の甥・宗八郎が弥三郎を訪ねて来て、どなたかが茂十郎の遺髪を甲斐の菩提寺・報恩院に納めに来た、と話す。
 弥三郎は菱垣廻船の再建を終えて隠居する。
 茂十郎の娘・文は婿を迎えて大坂屋11代目を継ぐ。
 水野忠邦は弥三郎の話を聞き終え、お上が腐れば民は混乱を極める、己の命を賭して誅することこそ忠義と悩んだが、家斉逝去まで動けず、いま20年分の膿を出す、それが私の努めと決意を語る。弥三郎は、茂十郎が説いたお上が私欲を捨てて君子たり、商人が忠義を持って尽くしていればと口惜しさを呟き、幕が下りていく。

 徳川政権下、政道の乱れで民が苦しむ話は多くの作家が主題にしている。永井氏は実在の杉本茂十郎に焦点を当て、金の力で刀に対抗しようとした江戸商人毛充狼の生き様を浮き彫りにしている。歴史に「もし」は無いが、もし徳川政権が各藩の産業振興と全国の物流を促進させていたら国のかたちは変わっただろうし、将軍を有能さで選ぶ推挙方式、政策の公開と民による評価方式を採り入れたら国のかたちは大きく変わったと思う。
 これからの時代でも、有能さで選ぶ方式と政策の公開と国民による評価は必須であろう。  (2024.5)

 

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「商う狼 江戸商人杉本茂十郎」斜め読み2/3

2024年09月18日 | 斜読

book565 商う狼 江戸商人杉本茂十郎 永井沙那子 新潮社 2020

2 哭く 回向院、海福寺、深川不動尊を始め多くの寺院で連日、永代橋落下犠牲者を弔う法要が行われていた。茂兵衛は不動明王の如く憤怒の顔で虚空をにらむ。永代橋は町の管理なので、町の政を司る樽屋への非難が高まる。橋を架けるには金がかかるが、奉行所は北も南もと取り合わない。暮れには遺体の大半の弔いが終わったが、永代橋の残骸が幽霊のように残った。

 茂兵衛が動き出す・・弥三郎が樽屋に呼ばれ、新橋・涼亭梅松へ行くと菱垣廻船問屋井上屋重佐衛門と大坂屋茂兵衛が待っていた。茂兵衛は丈夫な永代橋(幅120間≒220m)を架けたいので十組問屋に金を出して欲しいと話す。永代橋がなければ町の動きが鈍り、十組問屋も大損になると言うと、井上屋は砂糖問屋を黙らせたら金を出すと答える。
 3日後、茂兵衛と弥三郎は砂糖問屋河内屋孫佐衛門に会う。河内屋は、砂糖も食べ物、早く運びたい、樽廻船が早い、奉公人は菱垣廻船問屋の目を盗むように運んでいた、樽廻船で堂々と運びたい、と話す。

 茂兵衛は弥三郎と菱垣廻船、樽廻船を見に品川へ行く。品川は遠浅なので、千石船の菱垣廻船も樽廻船も沖に停泊し艀船に荷を積み替えて運ぶ。菱垣廻船は古びてフジツボがこびりつくが、樽廻船は真新しい。若い水主は樽廻船で働きたがり、菱垣廻船は古参が多く、過重労働になる。2人が観察していると、菱垣廻船の未熟な水主が船から落ちた。茂兵衛は海に飛び込み、水主を助ける。
 茂兵衛は、砂糖問屋が樽廻船で荷を運ぶのは売り手、買い手、世間の三方良しであり、十組問屋から独立させるのが理に適う。一方の十組問屋も江戸の商いの要である。ならば、菱垣廻船問屋の商いを立て直せばいい。江戸・大坂で取引される交易は1年に500万両、その大半は十組問屋の商人が商っているから、十組問屋の大店から金を集めれば船を新造し、橋も付け替えることができる、と話す。

 茂兵衛は、樽屋、弥三郎に同道を頼み、北町奉行・小田切直年65歳に会う。小田切は橋の陳情かと身構えたが、茂兵衛は十組問屋と砂糖問屋のもめ事を解決するため菱垣廻船を100艘新造したいと切り出す。前例がないと顔を険しくする小田切に、茂兵衛は大黒屋光太夫に異国船の話を聞いた、異国船から菱垣廻船が砲撃を受けたら江戸は飢え、打ち壊しが起こりかねない、奉行が後見になってくれれば十組問屋から金を集めて船を新造し、橋を架け替える、と話す。

 しばらく小田切から返事がなかったが、文化5年6月、大川に架かる新大橋が落ちる。その日のうちに茂兵衛は奉行所から呼び出され、老中・松平伊豆守へ奏上することを聞く。さっそく菱垣廻船問屋井上屋に事の次第を話し、一つの店で10両を集めれば十組問屋2000の商人で2万両なる、この金で菱垣廻船を新造する、という仕組みに井上屋は前向きになり、十組問屋は茂兵衛を砂糖問屋との仲裁人に任じる。奉行・小田切も永代橋の架け替えを決める。
 10月、町年寄樽屋与左衛門の屋敷に、主だった旦那衆が集まり、肝煎名主、町役人同席で、樽屋が奉行からの「十組問屋で金を募り、菱垣廻船の修繕と新造、橋の架け替えを行う」お達しを読み上げる。苦労して稼いだ金を巻き上げるのは横暴との意見に、茂兵衛は船の新造、橋の架け替えを行えば江戸が栄え、商いは繁昌すると答える。

 年の瀬、弥三郎が樽屋に呼ばれ、新しく三橋会所を立ち上げ、頭取は茂兵衛とし、樽屋が重役に就くことを聞く。茂兵衛は弥三郎に、大坂屋を義弟(八尾の弟)の18歳になる銀十郎に任せ、3歳の文を銀十郎に預け、茂兵衛は杉本茂十郎を名乗り、西河岸町の恵比寿庵を買って三橋会所にし、永代橋、新大橋、吾妻橋の架け替え、修繕を行うので、会所立ち上げ資金として500両を貸して欲しい、と言う。その後は、商店から冥加金を預けさせ、その金を動かして、橋を架け、町を整え、人の暮らしを支える、と話す。

 文化6年1809年2月、奉行所より三橋会所設立が許され、お披露目会が開かれる。会所は1階、2階が茂十郎の住まいで、お披露目会に集まった大勢を前に、気分の昂揚した樽屋は高砂の一節「四海波」を謡う。いままで冷ややかだった商店主も茂十郎に頭を下げる。三井家も茂十郎の投資する。茂十郎に力が集まりすぎを懸念する声もあるが、宴の陰で酔った茂十郎は涙をこぼす・・八尾、栄太郎たちの無念を晴らせる第一歩に涙がこぼれたようだ・・。

3 唸る 三橋会所は永代橋、新大橋の架け替え費用を全て負担し、町人からは一銭も取らなかった。菱垣廻船も38艘から80艘まで増え、十組問屋の力は安定した。茂十郎は神か仏かと噂され、お上から町年寄樽屋に次ぐ町年寄次席に任じられた。
 北町奉行・小田切直年が急逝し、勘定奉行だった永田正道が北町奉行になった。茂十郎はいち早く付け届けを怠らなかった。

 一方で冥加金を取られる商店の不満が高まってきた。これまでの江戸の商人はお上の言うことを聞き過ぎず、逆らわず、という応対をしてきたが、茂十郎はお上にもの申す力が欲しいため金を集め、町奉行所御用達として買い米にまで手を出した。
 文化8~10年の豊作続きで米の値が下がる。買い米に失敗した茂十郎は不足分を差加金として徴収した。さらに江戸最大菱垣廻船積株仲間を立ち上げた。茂十郎は商人の力を一つにして金を集め世間に貢献するというが、力が集まりすぎる。

 茂十郎の強権を懸念した大和屋三作が差加金の払い戻しを奉行所に訴えたところ入牢となった。呉服、木綿、繰綿などの旦那衆72人の代表5人が奉行所に差加金払い戻しに加え三橋会所解体を訴えたところ、入牢となった。
 樽屋与左衛門、堤弥三郎が奉行所に行くと、奉行・永田正道の前で茂十郎が、差加金払い戻しも三橋会所解体も市場が大混乱になり、訴え出た商人の商いも危うくなる、と言う。奉行は町年寄樽屋ではなく町年寄次席茂十郎が町の実権を握っている、と考えているようだ。この事件以降、三橋会所頭取茂十郎の力はさらに増大、大店たちは茂十郎に逆らえないと茂十郎に距離を置くようになった。
 
 事件から2ヶ月経ち、茂十郎は弥三郎と日本橋川の屋根船に乗り込む。茂十郎は弥三郎に、時化で1艘が沈没、7艘が破損で金がいる、上様や一橋郷の浪費で金が足りない、金を増やすために米会所を江戸に持ってきて米相場で儲け、天下の金の流れを握る、金が無いため永代橋が落ち、八尾、栄太郎、多くが死んだ、金があれば人が集まり、世の中を動かせる、と力説する。
 話が飛ぶ。弥三郎は紀州江戸家老三浦為積の屋敷に呼ばれ、案内された茶室で三井北家当主であり紀伊徳川家と昵懇の三井高祐から、京は天子、江戸は大樹公、大坂は米市場、茂十郎はその領分を侵そうとしている、江戸と大坂の間の350里のうち200里は紀州の持ち場、菱垣廻船積株仲間は紀州とどう向き合おうとするのか、と語られ、「竹有上下節」の軸を見せられた・・竹に節があるようにそれぞれの領分を超えると天下が乱れる・・。

 話を戻す。勝手係奉行・牧野忠清の下屋敷で観菊会が催され、茂十郎も樽屋与左衛門、肝煎名主、菱垣廻船積株仲間の大株主の旦那衆、弥三郎ら三橋会所の重役らとともに出向く。茂十郎が着いた途端、三井江戸本店の番頭が帰る・・かつて三井は茂十郎に投資したが、茂十郎に距離を置き始めた・・。弥三郎は茂十郎に(竹有上下節を念頭に)奢りすぎないようにと諭す。

 町年寄・樽屋与左衛門は、町年寄次席の茂十郎が自分に何も相談せず事を進めていることに不満が募っていて、宴席で茂十郎を責めることが増えていた。
 文化11年のある日、弥三郎は樽屋の養子・忠義から与左衛門が死んだとの知らせを受ける。駆けつけた弥三郎に忠義が経緯を話す・・与左衛門に呼ばれて茂十郎が屋敷に来ると、次席にもかかわらず自分をさておいて奉行とつながり橋も株仲間もすべて事を進めた、といつものくりごとを繰り返し、茂十郎が感謝の印と金子を出すと与左衛門は金を投げ返し、金があれば何とでもなると思うのかと責め立てたので、茂十郎は「金が無ければ天下は回りません、樽谷様はその金で芸者を囲い、料亭で遊んでいた、その金で橋を架け替えれば私は妻子を失わず、三橋会所も建てずにすみ、大坂屋の主として暮らしていた」、さらに「樽谷様は代々続いた町年寄、代々続いたから守らねばならぬこと、お上にもの申せないことがあるが、新参者の私は次席としてお上に金も出し、ものも申す」と言って屋敷を辞した、そのあと物思いに耽った樽屋与左衛門は自害した・・そうだ。・・樽屋への言葉に茂十郎の気持ちが凝縮されている・・。   続く

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「商う狼 江戸商人杉本茂十郎」斜め読み1/3

2024年09月17日 | 斜読

book565 商う狼 江戸商人杉本茂十郎 永井沙那子 新潮社 2020

 永井紗耶子氏(1977-)は2020年出版の「商う狼 江戸商人 杉本茂十郎」で本屋が選ぶ時代小説大賞などを受賞、その後の著書でも受賞を重ね、2023年出版の「木挽町のあだ討ち」で山本周五郎賞、直木三十五賞を受賞した。直木賞を受賞すると一躍脚光を浴びるようで、「木挽町の仇討ち」は図書館の予約が殺到していた。
 「商う狼」の杉本茂十郎は実在した江戸商人で、数々の功績をあげたが強権的な政策のため茂十郎を揶揄して毛充狼と呼ばれ、幕閣から煙たがられ、13年で失脚させられた。茂十郎も毛充狼も始めて聞く。どんな人物でどんな働きをしたのか気になったので読み始めたら、永井流筆さばきに乗せられ、読み通した。
  物語は、序、1駆ける、2哭く、3唸る、4嗤う、5牙剝く、終、と展開する。

 冒頭に、文化文政時代(1804~1830、11代将軍家斉のころ)、額に老(老中)、寺(寺社奉行)、町(町奉行)、勘(勘定奉行)の4字の護符をつけた毛充狼が江戸の町を駆け抜けた記録が紹介される。
 物語は、天保12年1845年(12代将軍家慶治世)初夏、72歳の町人堤弥三郎老中首座・水野忠邦48歳の三田屋敷に呼ばれ、江戸市中に多くの爪痕を残した毛充狼=杉本茂十郎についてたずねるところから始まる。
 堤弥三郎は20年前、松平定信による寛政改革の要の一つである棄捐令(きえんれい)で大鉈を揮い、その後、勘定所御用達となり、大藩の御用を受ける札差として大きな力を持った商人で、茂十郎と親しく、茂十郎に力を貸した間柄である。
 茂十郎は、甲斐から江戸に出てきて飛脚問屋大坂屋に奉公し、婿入りして大坂屋茂兵衛と名乗り、飛脚運賃の値上げをお上に直談判、江戸2000人の商人を束ねる十組問屋との争いごとを仲裁、その後、十組問屋の頭取になり、流通の要となる菱垣廻船の再建を行い、町の橋の架け替え、修復を行う三橋会所頭取、町年寄次席に就いた。
 茂十郎のもとに集められた冥加金は一国の蔵を超え、幕閣にも知られ、老中、寺社奉行、町奉行、勘定奉行も後ろ盾になり(献金がものを言ったようだ)、茂十郎は「いざとなれば金は刀より強い」と言い、江戸商人の頂点に駆けのぼったが13年余りで失脚させられ、行方知れずとなる。
 水野忠邦は毛充狼=茂十郎について詳しく知りたいと尋ね、堤弥三郎が語り始める。

1 駆ける 堤弥三郎の回想が始まる・・文化3年1806年、日本橋川沿い小網町の魚躍楼の30畳敷きに、江戸2000人の商人を束ねる江戸最大の問屋仲間・十組問屋の大店が集められ、37歳の堤弥三郎は末席に座る(十組問屋とは、河岸組問屋、綿店組、釘鉄問屋店組、紙店組、堀留組、薬種問屋、新堀組、住吉組、油仕入れ方、糠仲間組、三番組、焼物店組、乾物店組など江戸の商いの要)。
 弥三郎の隣に木綿問屋・大和屋の世話役を務める三作が座る(文人でもある三作は大坂屋に好意的でときどき顔を出すが大筋に関わらない)。
 十組問屋を取り仕切るのは糸問屋・嶋屋長右衛門で、呼ばれた大坂屋茂兵衛を威嚇し、奉行に出した飛脚運賃の取り決めである飛脚定法を取り下げろと脅す。
 飛脚は足で走り馬を使い、御用達の品、文や為替、荷を運ぶ。大坂屋は江戸から上方への荷を運ぶのが主な役目の定飛脚問屋で、大名御用を請け負う会符を発行され優先的に継ぎ送りのできる特権が与えられていた。大坂屋は凜々しく背筋を伸ばし、よく通る声で、物を運ぶには相応の手間がかかり、手間がかかれば金がかかる、問屋の要望に応じて値下げをしていては飛脚という商いが崩壊する、飛脚問屋6軒で協議し、定法を立て、奉行がその訴えを認めた、と反論する。

 文化4年正月、三田の坂の上に住む弥三郎の父は武家、賄い組頭で、次男の弥三郎は妹の嫁ぎ先である札差・伊勢屋に跡取りがいなかったので養子になり伊勢屋を継いで、棄損令実行で大鉈を振るった。棄損令とは老中松平定信の命で札差の債権を放棄させる通達で、猿屋町会所では大店から上納金を回収してそれを元手に札差から武家の債権を買い取り、武家を債権から解放した。弥三郎は功績が認められ、三田の武家地で実父、実兄と住むことが許された。
 弥三郎の家に大坂屋茂兵衛が訪ねてくる。茂兵衛は農家13人兄弟の末っ子で、18歳のとき江戸へ出てくる。大坂屋の7代目が早世し、弟が8代目を継いだときに茂兵衛が奉公し、7代目の娘・八重の婿になる。8代目が亡くなり茂兵衛が9代目になるが、負債だらけだった。
 紀州への付け届けが大きかったが付け届けをやめても帳尻が合わない。飛脚代の値崩れと分かったので、飛脚定法を定めたと弥三郎に話す。弥三郎は、道理を通したいならば、法を味方につけるだけではなく、根回しをし味方を増やせ、町年寄・樽屋与左衛門に話を通せと話す。

 町年寄の根源は武士で、江戸には樽屋、奈良屋、喜多村が町年寄を努めていた。弥三郎が茂兵衛を樽屋に引き合わせるため、芝居好きの樽屋が通う市村座へ向かう。
 樽屋は弥三郎、茂兵衛に、いままで砂糖は薬種問屋で扱われていたが砂糖の供給需要が増えたので、砂糖問屋は飛脚定法を手本に、砂糖問屋として独立しようと砂糖問屋株の設立を奉行所に願い出た、江戸・大を行き来する大型の輸送船=菱垣廻船は水主も多く修復に金と手間がかかり、最盛期の160艘がいまや38艘になったが、十組問屋は御用達の菱垣廻船に荷物を積むことが許された商人の組合のため、菱垣廻船問屋が十組問屋では力を持っている、対して、酒樽を運ぶ樽廻船は積載量は変わらないが一つの品に限って運び運賃を安くし利用が増え、往来が盛んになっていて、砂糖問屋は十組問屋から離れ樽廻船で砂糖を運びたいと考えている、十組問屋は砂糖問屋の道理は分かっても面目を潰されたと思っている、いかに兼ね合いをつけるか、と話す。

 弥三郎と茂兵衛の付き合いが深まり、行き来が増える。2人が1782年の天明の飢饉を回想、杉田玄白著「後見草」が紹介され、茂兵衛は「稼ぐことにも矜恃がある、商人としての誇り、金を回しているのは商人、世の中で金がいかに大切か」と語る・・金が滞りなく流れることが世情の安定になるというのが茂兵衛の一貫した考え・・。
 茂兵衛には妻八尾、6歳の栄太郎、2歳の文がいた。8月、雨で4日遅れの富岡八幡宮の祭に、文は小さいので乳母が家で見ていて、八尾、栄太郎、小僧2人、女中が先に出かけた。用を済ませて茂兵衛が出かけたころ、隅田川にかかる永代橋一橋民部(将軍家斉の弟・斉敦)の御座船通過のため橋止めされ、通過後にいっせいに永代橋を渡ろうとしたため橋が落ちる。八尾、栄太郎、小僧、女中を始め1500人を超える犠牲になった。茂平衛の悲嘆はいかばかりか。  続く

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