yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2023.3静岡 舘山寺を歩く

2024年02月13日 | 旅行
 2023.3静岡 舘山寺を歩く

 方広寺をあとにして、今日の宿である舘山寺温泉に向かう。県道303号を南に走り、龍潭寺で県道320号に右折する。都田川を渡ると浜名湖が右に見えた。ほどなく舘山寺温泉に着いた。方広寺から40分弱だった。
 宿は浜名湖の入江の湖辺に建っていて、部屋から浜名湖を一望できる。風景が広々として気分がいい。
 まだ明るいので、宿の隣の舘山寺に出かけた(写真)。由緒を詠む。平安時代弘仁元年810年、弘法大師空海(774-835)が仏道行脚の際に浜名湖沿いの舘山(たてやま)を訪れ、そのとき舘山寺(かんざんじ)を開山したそうだ。
 鎌倉時代文治3年1187年に兵火により焼失したが、源頼朝が再建し、元中元年1384年に兵火により焼失、南北朝時代1362年、堀江城主として赴任した大沢氏が城主の祈願寺として再建する。江戸時代慶長3年1589年、徳川家康より御朱印判物を受け、繁栄した。
 明治3年1870年の神仏分離令・廃仏棄釈により廃寺となり、明治23年1890年に再興が認められ、秋葉山秋葉寺(しゅうようじ)住職牧泰禅和尚を招請して再興した。そのとき、真言宗中嶺山(ちゅうれいざん)から曹洞宗秋葉山に改めた。
 東海道は浜名湖と遠州灘のあいだを抜けていて、浜名湖沿いの舘山は交通の要衝であり、兵火のたびに舘山寺が焼失し、そのたびに再建、再興された歴史が濃縮されている。
 本尊虚空菩薩像に合掌する。


 由緒書きの隣の舘山寺案内図には、大梵鐘、西行岩、富士見岩、穴大師、高さ16mの聖観世音菩薩像などを巡る散策路が図解されていた(上写真)。
 宿のあたりが標高数m、舘山寺が標高10mほどで、散策路は標高50mほどの高台の頂点を中心に一回りしていて、ところどころはうっそうとし、ところどころに段々坂がある(中写真)が、小さな岬なので距離は短い。
 高台の西の散策路は浜名湖を一望できる(下写真)。広々とした水と緑と空の風景は気持ちを遠大にしてくれる。
 高台北東の西行岩は、漂白の歌人といわれる西行(1118-1190)が岩の上で修行したと伝えられている。西行は「舘山の 巌の松の 苔むしろ 都なりせば 君もきてみむ」の歌を残したそうだ。西行は、名門の武士だったが、1140年、家門を捨て妻子と別れて出家し、陸奥に向かう。そのときに詠んだ歌とすると「君」は誰だろうか。火阪雅志著「西行 聖と俗」には恋の人・西行が描かれていて、恋の人をにおわせている(book486参照)。西行はその恋の人と浜名湖を眺め、悩みを語りあいたかったのかも知れない。
 高台を30分ほど散策して宿に戻り、浜名湖を一望する部屋付きの露天温泉に入った。朝、伊良湖岬を出たあと、家康ゆかりの浜松城、井伊直虎ゆかりの龍潭寺、羅漢の並ぶ方広寺と与謝野晶子、空海開山の舘山寺と西行など、歴史との遭遇を思い浮かべながら温泉を楽しんだ。

 宿泊に浜名湖遊覧船乗船招待券がついていたので、翌朝、チェックアウト後に30分浜名湖周遊の遊覧船に乗った(写真)。9かんざんじ港を出て内浦湾を東に進み、フラワーパーク港に寄って、内浦湾の北の奥浜名湖をぐるりと回り、かんざんんじ港に戻るコースである。かんざんじ港から乗ったのは10数名だが、フラワーパーク港からバスツアーの団体がどっと乗ってきて席はほぼ埋まり、大賑わいになった。
 標高113mの大草山は、緑の木々のあいだに濃いめの桜と薄めの桜が混じり、斜面が華やいでいた。昨日の散策で下から見上げた高さ16mの聖観世音菩薩像が船からよく見える(写真)。穏やかな顔で平安を祈っているようだ。

 浜名湖周遊を終え、車をかんざんじロープウェイ乗り場まで移す。かんざんじロープウェイは、内浦湾の南に位置するかんざんじ駅から内浦湾北の大草山駅までの高低差およそ110mを4分で上り下りする。ロープウェイから浜名湖の全貌を見渡すことができるが、あっという間に大草山駅に着いた。浜名湖オルゴールミュージアムが併設されていて、屋上が展望台になっている。屋上には大小さまざまなカリヨンが並んでいて、毎時0分にメロディが流れるそうだ。屋上展望台から浜名湖を遠望する。
 大草山山頂まで100mほどの遊歩道が設けられている。低木、中木が視界を邪魔し、浜名湖を見えない(写真)。Uターンしてオルゴールミュージアムに戻る。カリヨンの演奏までは30分ほどあるので演奏をあきらめ、屋上からもう一度浜名湖を展望し、かんざんじ駅に戻る。


 はままつフラワーパークに移動する。1970年、浜松市制60周年記念事業で開園された植物園で、北隣は動物園になっている。フラワーパークは東西800mほど、南北400mほどと広大である。正面ゲートそばの第1駐車場に車を止める。14:30に豊橋駅でレンタカーを返すことになっているので、ランチを含め逆算すると12:30ごろには車に戻りたい、などと思いながら入園すると、目の前に園内を一周するフラワートレインが出発を待っていた。フラワートレインに乗り、花畑など見ながらフラワーパークを半周する(写真)。
 途中のバス停で降り、池に沿って桜並木を歩く。家族連れが花見を楽しんでいた(写真)。見晴らしの丘に上って色とりどりの園内を眺め、クリスタルパレスで温室の花の香りを楽しんだりして、12:30過ぎに車に戻った。一路、豊橋駅へ、レンタカーを返し、遅めのランチを取り、新幹線で帰路についた。
  (2024.2)

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2023.3静岡 方広寺を歩く

2024年02月10日 | 旅行
 2023.3静岡 方広寺を歩く

 龍潭寺の参拝を終えたのが14:00ごろ、宿は浜名湖に面した舘山寺温泉なので時間に余裕がある。龍潭寺の北西7kmほどの山あいに位置する臨済宗方広寺派大本山方広寺に向かった。
 県道303号を北西に走り、県道68号に右折して大本山方広寺・奥山半僧坊大権現と書かれた朱塗り鉄柱の大鳥居を抜けた。狭い通りに民家、商店が並ぶ。門前町のようだが、ほとんど閉まっていて、人通りはない。
 瓦葺き切妻屋根、四脚門の総門=黒門が構えていた(写真web転載)。扁額には「池自有霊」と書かれているらしいが崩してあり読めない。黒門を抜けた先の駐車場に車を止める。

 旧字の方廣寺受付があり、無人で、拝観4時まで、拝観料500円と書かれている。参道の左の池の中島に朱塗りの弁天堂が祀られていたので、一礼する(写真)。弁天堂=弁財天は仏教の守護神とされるから、少し先に本堂があると思ってしまった。
 池の先に瓦葺き入母屋屋根、楼門形式の朱塗りの堂々たる山門=赤門が構えている(写真)。山門=三門=三解脱門、気を引き締めて一礼する。
 参道の右=北・東も左=南・西も急斜面で、木々がスクッ、スクッと空に伸びている。右の斜面に急な階段が上っているが、正面の踏みしめられた参道を歩く。
 山あいの谷筋が参道になったようで、脇に細い川が流れている。水の流れる音、葉のこすれる音を聞きながら、緩やかな参道を上る。人気はない。本堂も見えない。一心に歩けということだろうか。
 分かれ道で「←拝観順路 方広寺」と書かれた左を選ぶ。哲学の道と書かれた石柱が立っていて、赤い帽子を被った小さな石地蔵が斜面にいくつも置かれている(写真)。
 朱塗りの大鳥居が建っていた。神仏混淆時代の名残だろうか。
 谷が深くなった。雄河龍王の幟の立った祠を過ぎる。龍王は仏法を守護する神だそうだ。参道は緩やかな勾配だが、なかなか本堂にたどり着かない。すれ違う人もいない。代わりに斜面に置かれた五百羅漢石地蔵が厳しい顔、苦しい顔、和やかな顔、笑い顔で励ます。参道を上ることが修行なのであろう。
 
 谷筋が開けた。参道正面の石垣の上に堂宇が見える(次頁左写真、左が本堂、中ほどが鐘楼、左端が宿坊)。左に折れた参道の先に朱塗りの橋が見える。人の声も聞こえる。左斜面の参道を上り、谷に架かった朱塗りの亀背橋(きはいきょう、次頁右写真)を渡ると、右斜面に開かれた方広寺本堂に着く。黒門、赤門から10数分の道のりだった。
 1323年、96代後醍醐天皇に皇子=のちの無文元選(むもんげんせん1323-1390)が生まれた、とされる。後醍醐天皇崩御の翌年、1340年、18歳のときに建仁寺で出家、1343年?1345年?、中国=に渡る。1350年に帰国し、各地を巡り、その間に井伊氏の外護(げご)を受け、1371年、当地を治めていた豪族奥山朝藤に招かれ、方広寺を開く。無文元選はここが中国の天台山方広寺の風景に似ていることから、方広寺と名付けたそうだ。
 伽藍は焼失再建を繰り返し、1881年の大火後、本堂(写真web転載)、半僧坊真殿、開山堂、三重の塔などが再建された。
 境内各所の石仏、五百羅漢は、無文元選が中国天台山方広寺で修行中に羅漢が現れたとの故事にちなみ、江戸時代の拙厳和尚が発願して作り始め、いまも信者から石仏、羅漢が奉納されているそうだ。
 無文元選が中国からの帰国するとき、海が荒れて遭難の危機にあったが、異人の半僧坊が現れ海難を免れることができたと伝えられ、方広寺を護る鎮守として半僧坊大権現が祀られたなどが、受付でもらった方広寺案内に記されている。
 拝観は4時までなので大庫裡の受付に急ぐ。大庫裏は本堂の東に、西を向いて建っていて、桟瓦葺き切妻屋根、中央に唐破風、その左右に千鳥破風をつけたユニークなデザインである(写真)。大正7年1918年の再建で、有形登録文化財に登録されている。
 拝観料500円を払い、左=西に折れて本堂に向かう(前掲写真)。前庭からは2階建てに見えるが、斜面に建ち前面を支柱で支えた間口32m、奥行き27mの平屋で、瓦葺き入母屋屋根である。大庫裡と同じ1918年に再建された。中央の扁額に書かれた「深奥山」は山岡鉄舟の書だそうだ。
 本尊は釈迦牟尼坐像(高さ104.2cm)、左脇侍は文殊菩薩坐像(高さ56.8cm)、右脇侍は普賢菩薩坐像(55.6cm)の釈迦三尊像、いずれも木造寄木造、金泥盛上彩色、南北朝時代1352年作で、国の重要文化財に指定されている(写真web転載)。もともとは茨城県城里町清音寺の仏殿に祀られていて、明治時代後期に当山に移された。光背裏に徳川光圀が修復したと記されているそうだ。1881年の大火で本尊を焼失し、清音寺から移してもらったようだ。合掌。
 
 本堂の裏=北に寄進された石仏が並ぶ「らかんの庭」が整備されている。中ほどの楕円の石碑には、与謝野晶子が1936年に参拝したときに詠んだ歌の一つ「奥山の しろがねの気が 堂塔を あまねくとざす 朝ぼらけかな」が刻まれている(写真)。
 与謝野晶子は各地を訪ねるごとに歌を詠んでいて、それぞれの地に歌が残されている。凡人は、同じ風景に接しているのに歌が浮かばない。才がないのか、修行が足りないのか。
 本堂裏=北の廊下に続いて渡り廊下が延び、階段を上がると上天台舎利殿が建つ。スリランカの仏歯寺から釈迦の歯の一部が奉納された納骨堂、などの説明が書いてあった。スリランカには何度か訪ねていて、キャンディに建つ仏歯寺で釈迦の歯を拝観したことがあり、懐かしく思い出した(写真、2017.7撮影)。
 上天台舎利殿は高台に建っていて、方広寺の堂宇の屋根がいくつも重なり、その先に山並みが遠望でき、清々しい気分になる。納骨堂にふさわしい風景である。
 本堂に下り、枯山水の涅槃の庭を眺め、庫裡に戻って外に出る。

 本堂の西に勅使門が建つ(写真)。凹形に後退し石垣上に建ち、銅板葺き切妻屋根に唐破風がついた四脚門で、重厚な構えである。奥に開山堂が建っていて、歴代天皇の尊牌を安置しているそうで、開山堂の表構えとして1904年に建てられた。登録有形文化財である。
 開山堂の西に半僧坊真殿が建つ(写真)。無文元選を海難から救った異人の半僧坊を大権現として祀る鎮守である。1881年に焼失し、同年に再建された。石垣を積んだ高台に建ち、瓦葺き入母屋屋根に唐破風と千鳥破風を重ねていて、拝殿の奥に中の間、本殿が続く権現造で、登録有形文化財である。
 半僧坊真殿の南の崖沿いに参道が上っている。急な坂道を上っていくと平地になり、三重塔が建っている(写真)。第1次世界大戦中に京都の繊維問屋が財をなしたが方広寺第2代管長の忠告で、好景気にもかかわらず商売を手控え停戦後の倒産続きのなかでも難を逃れて社が発展したことから、1923年に寄進したそうだ。倒産除けの塔として参拝する人が多いらしい。
 三重塔の平地には駐車場がある。別の道からアクセスすることができようだ。黒門から山道の参道を上り、方広寺を参拝し、三重塔に着くまで参拝を含めおよそ60分かかった。足に自信のない人やベビーカーを押した人の参拝はこちらの駐車場がお勧めである。
 三重塔をあとにして、亀背橋を渡り、山道の参道を下る。下りだし、勝手が分かっているので歩きやすい。崖に並ぶ地蔵、羅漢も笑っている。車に戻り、今日の宿である舘山寺温泉に向かう。
 (2024.2)

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2023.2静岡 龍潭寺を歩く

2024年02月03日 | 旅行
 2023.3静岡 龍潭寺を歩く

 浜松城を出て国道257号を北北西に走る。10数分で三方原を通る。「三方原古戦場」の案内もあった(写真web転載)。このあたりが、1573年に徳川家康が武田信玄に大敗した戦場になる。三方原は、天竜川の扇状地が隆起して標高25~110mの台地が形成されたところで、傾斜の緩やかな広々とした原である。いまは格子状の道路が整備され、宅地開発が進んでいて、古戦場は想像しにくい。三方原古戦場の案内を眺めながら走りすぎ、井伊直虎にゆかりの龍潭寺を目指す。

 ほどなく山あいに入り、ナビの案内で左折して神宮寺川を渡ると正面に石の鳥居が建ち、駐車場が見えた。かつての神仏混淆で寺に鳥居が建つこともあるので駐車場に車を止める。
 鳥居で一礼し、参道を進むと石段の上に木の鳥居が建ち、その先に切妻屋根の四脚門が構えている。四脚門を抜けると、妻面を正面とした入母屋屋根の井伊谷宮が構えている(写真)。
 96代後醍醐天皇が奈良県吉野に南朝を興した南北朝時代(1336~1392)、後醍醐天皇第4王子宗良親王(1311-1385)は征夷大将軍として各地に赴き、1338年、井伊谷の豪族井伊家に身を寄せ、1340年まで滞在した。のち信濃国大河原を30年ほど拠点とするが、勝機を見いだせないまま1385年に井伊谷で薨去する(大河原で薨去などの説もある)。
 明治5年1872年、井伊家の末裔にあたる井伊彦根藩知事が、宗良親王を祭る井伊谷宮を創建する。参拝した井伊谷宮は宗良親王を祭る神社だった。
 教科書で習った南北朝時代を思いだしたが、宗良親王は習わなかったと思う。宗良新王は南朝歌壇の中心になった歌人で、新葉和歌集の選者だそうだが、新葉和歌集も始めて聞いた。遠い過去の活躍に敬意を表し、二礼二拍手一礼する。

 龍潭寺はどこか?。井伊谷宮の参道を戻るとき、右奥に切妻大屋根の庫裡が見えた。庫裡の正面に回る(写真)。1815年建立だそうだ。大きな切妻破風は禅寺特有の作りである。庫裡が龍潭寺の受付だった。遠回りしたが井伊谷宮から南北朝時代を思い出したから良しである。
 昼どきなので受付で食事処を聞き、境内を出て県道を渡った先の蕎麦屋で天麩羅そばを食べた。蕎麦屋の名前は曳馬路である(写真)。
 浜松城から車で20分ほどだから、家康が曳馬城を攻略したころ井伊谷の武将も駆けつけ、その歴史を留めようと蕎麦屋を始めた店主が曳馬の名前にしたのではないだろうか。蕎麦屋のスタッフに聞いたが、名前の由来は分からなかった。代わりに、井伊直虎を主人公にした大河ドラマが放映されたころ、龍潭寺に大勢が押しかけ、蕎麦屋曳馬路も大賑わいだったと話してくれた。
 浜松城も大河ドラマで大賑わいだったから、大河ドラマは地域振興、観光開発に寄与しているといえよう。

 食事を終え県道に出る。バスが何台も止まれる大駐車場が県道沿いに整備されていたから、当時の賑わいぶりが想像できる。
 蕎麦屋の向かいに、生け垣に挟まれた細い龍潭寺の参道が北に延びている。石敷きの参道を進むと明暦2年1656年に再建された本瓦葺き切妻屋根、四脚門の大門=山門が建つ(写真web転載)。小さな門であっても仏教の奥義は広く深いということだろう。大門で一礼する。
 大門の向かいは石垣で、左の階段を上り右に折れると1987年に建立された本瓦葺き切妻屋根の仁王門が構えていて、仁王がにらみを効かせていた(写真)。仁王門で一礼する。
 仁王門の正面に本堂が構えている(写真web転載)。本堂は、井伊家27代彦根藩主4代の井伊直興の寄進で、1676年に再建されたそうだ。
 本堂前庭は後述の庭園として整備されていて、参道は右の庫裏、左の井伊家墓所に別れているので、庫裡の受付に向かう。
 途中に1971年再建の鐘楼堂に続いておよそ400年前の旧鐘楼堂を転用した東門が建つ(次頁写真)。庫裡の受付で500円の拝観料を払い、縁起などを記した案内をもらう。
 
 奈良時代、733年、井伊谷に行基が地蔵寺を開いたとされる(のち自浄寺、龍泰寺と寺号を改めた)。平安時代に井伊家の祖先井伊共保が生まれる。井伊家は有力武士として保元物語にも記されたらしい。鎌倉時代には源頼朝に仕え、南北朝時代には前述の後醍醐天皇第4王子宗良親王を迎えて北朝と戦った。共保ゆかりの井戸が県道の向かいにあり、橘の木が生えていて、井伊家の旗印は井戸の井桁、家紋は橘だそうだ。
 室町時代、20代直平が禅宗に帰依し、臨済宗妙心寺派になる。1560年の桶狭間の戦いで22代直盛が戦死し、直盛の戒名をとって龍潭寺(りょうたんじ)と寺号を変える。
 直盛には女子(出家して次郎法師=のちの直虎)がいたが、男子がいなかったため養嗣子となった直親が井伊家23代として跡を継ぐ。1562年、直親は今川氏に殺される。1565年、龍潭寺住職の計らいで次郎法師が直虎として井伊家当主になる。直虎は次郎法師とは別人との説があるらしいが、龍潭寺の井伊家の墓所には始祖共保、直盛、直虎、直親、直政たちの墓が祀られているのは事実である。


 話を戻して、徳川家康は井伊家を支援していた。1573年三方原の戦いで家康は浜松城に敗走したが、同年、武田信玄が病没し家康は勢力を回復したので、直虎は直親の遺児虎松(=のちの直政)を養子とし、1575年、15歳になった虎松を徳川氏家臣松下氏の養子にする。虎松は家康の目に適い、小姓として取り立てられ、家康は万千代と名乗らせる。
 1582年、直虎が没し、22歳の万千代は元服して直政と名を改め、井伊家24代となる。井伊直政は家康のもとで頭角を現し、関ヶ原の戦いで東軍指揮の中心となって活躍し、徳川四天王の筆頭となり、石田三成の旧領である近江国18万石の領主になる。
 彦根城築城中の1602年、直政が没し、直政の次男直孝が彦根藩30万石の藩主になり、幕末まで続く。幕末、36代井伊大老直弼が日米修好通商条約に調印し開国を断行するが、1860年、桜田門外の変で暗殺されたことは教科書でも習う。
 歴史を振り返ると、女性の次郎法師が直虎として井伊家の当主にならなければ、井伊直政の活躍もなく東軍の勝利は長引いたかも知れず、さらには井伊直弼による開国もなかったかも知れず、井伊直虎の存在の大きさを改めて感じた。

 庫裡で受付を済ませ、渡り廊下で本堂に向かう。最初の部屋に丈六の釈迦如来坐像が安置されている(写真)。丈六≒4.8mだが、坐像の高さは2.8m、台座を入れても3.55mである。
 かつては仁王門近くに釈迦堂=大仏殿があり、釈迦如来坐像が安置されていたそうだ。その当時は台座が大きく?、光背が大きく?、丈六だったのかも知れない。合掌。
 本堂の廊下は鶯張りである。キュッキュッと鳴らしながら、補陀楽(ふだらく)の庭と名づけられた本堂前庭を眺める(写真、中ほど奥が仁王門)。補陀楽はインド南端の観音霊場だそうだ。
 霊場は神仏の霊験あらたかな場所だから険しい山岳修行などを思い浮かべてしまうが、この前庭は緑の植栽と白砂が見事に造形されていて、気持ちが休まる。気持ちをやわらげ仏の慈悲を感じよ、ということであろう。気持ちを静め、本尊虚空蔵菩薩に合掌する。
 長押の上に龍が彫刻された蛙股が飾られていた(写真web転載)。かつての釈迦堂=大仏殿の蛙股で、左甚五郎作と伝わっているそうだ。

 順路に従って渡り廊下を進み、稲荷堂、開山堂、井伊家の位牌を祀る御霊屋に合掌し、本堂に戻って背面=北側の廊下を歩く。北庭が国指定名勝の龍潭寺庭園である(写真)。
 小堀遠州作といわれる池泉鑑賞式庭園で、中央の小高い築山に置かれている石が守護石で、池の左右の端に仁王石が配され、池は心字形である。禅寺庭園の特長だそうだ。
 小堀政一(=遠州1579-1647)は、父が関ヶ原の戦いの功で備中松山城主となり、父没後の1604年、城主を継ぐ(HP「2023.2備中松山城を歩く』参照)。駿府城普請奉行などを経て、1619年、近江国小室藩主となる。小堀遠州は、各地で城などの作事を行い、多くの庭園を手がけ、茶人としても知られる。
 いまは冬で庭園に彩りはないが、パンフレットでは花が彩りを添えていた。四季折々の変化を感じさせる作りになっているようだ。
 池の手前に坐禅用の礼拝石が置かれている(前掲写真の手前日陰にある)。守護石に対座して瞑想し、気持ちを無にして精神を統一する修行のためらしい。廊下に座り、庭に向かって目を閉じ、しばし気持ちを無にする。
 北廊下から庫裡に戻り、庫裡奥の書院の廊下から庭園を眺めたあと、前庭を通り過ぎ、井伊家墓所を参拝し、庭に展示してある本堂の大瓦を眺め、仁王門で一礼して参拝を終える。
  (2024.2)

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