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2018+2020千葉 香取神宮を歩く

2024年09月05日 | 旅行

2018.12+2020.12 香取神宮を歩く

 関東平野の東端、利根川流域の北に鹿島神宮、南に香取神宮が鎮座する。歴史の古い由緒ある神社だが、さいたま市からは東に直線で100kmにもかかわらず交通の便が悪いため訪ねたことがなかった。2018年、2020年の師走に往路は首都高+東関東自動車道、復路は圏央道を走り、鹿島神宮、香取神宮を参拝し、犬吠埼、屏風ヶ浦などに足を伸ばした。

 香取神宮は千葉県香取市に位置し、下総国一宮として信仰を集めている。
 神話は不勉強なので香取神宮の由緒を拾い読みする。高天原(天上の神々の国)を天照大神(あまてらすおおみかみ、伊勢神宮内宮の祭神)が治めていて、葦原中国(あしはらのなかつくに=現在の日本)は神々が争っていたので、八百万神に相談し、天穂日命(あめのほひのみこと)を出雲国・大国主神(おおくにぬしのかみ)に遣わしたが、天穂日命は大国主神に従い家来になってしまった。次に天稚彦(あめのわかひこ)を遣したら、大国主神の娘である下照姫(したてるひめ)を妻として出雲国に居ついてしまった。
 3度目に経津主神(ふつぬしのおおかみ=香取神宮祭神)が選ばれ、武甕槌大神(たけみかづちのかみ=鹿島神宮祭神)も名乗り出て、二神は出雲国の稲佐の小汀(いなさのおはま)に着き、十握剣(とつかのつるぎ)を抜いて武威を示し、大国主神から平国の広矛(くにむけのひろほこ)を受け取って国譲りが成就され、日本は平定された。
 つまり、香取神宮祭神・経津主神、鹿島神宮祭神・武甕槌大神ともに神話にさかのぼる歴史があるようで、香取神宮の創建は神武天皇の代とされる。

 ナビに従い、東関東自動車道・佐原香取ICを下り県道55号を走ると香取神宮第1駐車場に着く(境内案内図web転載左下)。大きな駐車場だが師走の平日のせいか空いていた。
 表参道沿いに商店が並ぶが、参拝者は少なく、シャッターを下ろしている店が多い(写真)。土産物を並べた店で海鮮丼を食べた。

 参道を東に歩くと朱塗りの大鳥居が建つ(写真)。第2鳥居である。
 神話の時代、いまの利根川あたりは海が内陸に深く入り込んでいた(現在の利根川は江戸時代の治水工事で開削された)。祭神の経津主神(ふつぬしのおおかみ)は、出雲平定後、海路からいまの利根川の鳥居河岸に上陸した。鳥居河岸には素木の津宮浜鳥居が建てられ、海路の参拝者は津宮浜鳥居から旧参道を経て香取神宮に参拝した。津宮浜鳥居が第1鳥居になる(次頁写真web転載)。
 12年に一度、鳥居浜から神輿を御座船に乗せて利根川を遡る式年神幸祭がいまも開催されているそうだ。香取神宮境内案内図には第1鳥居=津宮浜鳥居は紹介されていなかったので、見落としてしまった。

 第2鳥居=大鳥居で一礼し、うっそうとした森のなかに伸びる砂利敷きの表参道を歩く(写真)。森は信仰の場として保護され、スギ、イヌマキ、モミなどの高木層、スダジイ、シラカシ、シロモタなどの亜高木層、足下には草木層が広がり、千葉県指定天然記念物に指定されている。
 両側に石灯籠が整然と並ぶ表参道は森のなかを大きくカーブしながら北に曲がり、左右の神池のあいだを抜けると、第3の石鳥居が建つ(写真)。
 石鳥居で一礼する。右には茅葺きの勅使門が構えている。勅使門は香取神宮の由緒をうかがわせる。
 石段の上の朱塗りの総門を抜けると、参道はクランク状の石畳で、右に折れ左に折れると楼門が構える。総門からはクランク状だが、たぶん勅使門を抜けると楼門が正面になるのであろう。
 
 楼門は、本殿と同じ元禄13年1700年、5代将軍綱吉によって造営された(次頁写真、重要文化財)。間口3間、奥行き1間、当初はトチ葺入母屋屋根、その後銅板に葺き替えられた。丹塗り=朱塗りが鮮やかで、入母屋屋根が大きく伸び出し、軽やかさ、華々しさを感じさせる。
 楼門左右の随身は、向かって右の老人像が竹内宿祢(たけのうちのすくね、古代朝廷の伝説的な重臣、健康長寿の神)、左の壮年像が藤原鎌足(=中臣鎌足、藤原氏の始祖、鎌足の父は鹿島神宮の神官で鎌足は鹿島で生まれたとの説がある、鹿島神宮は藤原家の氏神)と伝えられている。楼上の額は東郷平八郎の筆によるそうだ。
 楼門で一礼する。正面に拝殿・本殿が構える(写真、重要文化財)。朱塗りの楼門の華やかさに比べ、拝殿・本殿は黒を基調にし装飾に金飾りを用いていて、重厚な品格を感じさせる。
 参道に年越しの茅の輪が設けられていた。作法にしたがい、一礼し左足でくぐり左回り、一礼し右足でくぐり右回り、一礼し左足でくぐり左回り、一礼して拝殿に向かい、二礼二拍手一礼する。
 本殿は玉垣=瑞垣で囲まれていて、側面の上部を観ることができる(写真)。楼門と同じ元禄13年1700年、5代将軍綱吉の造営で、流造に後庇を加えた両流造、もとは柿葺きで、現在は桧皮葺である。

 玉垣に沿って本殿を回る。北の斜面下は、境内案内図に桜馬場と記されている。その先は鹿園で、15頭ほどの鹿が飼育されているそうだ。鹿は神の使いと考えられていて、鹿島神宮の祭神・武甕槌大神が白鹿に乗って奈良・春日大社に降り立ったと伝承され(2021.12ブログ「奈良を歩く22 春日大社」参照)、香取神宮祭神・経津主神と鹿島神宮祭神・武甕槌大神は鹿を使って文を取り交わしたと伝えられている。表参道のうっそうとした森に並ぶ石灯籠にも鹿の彫り物があった。鹿を目にすることはなかったが、神の使いとして大事にされているようだ。
 
 本殿を一回りし、楼門で一礼して、旧参道を西に歩くと要石の案内があった(写真)。この辺りはいまでも地震が多い。かつては地中の大ナマズが暴れて地震が起きると考えられ、香取神宮、鹿島神宮では地中深く石棒を差し込んで大ナマズを鎮めたと伝えられる。石棒の頂部は、香取神宮では凸型に加工された(鹿島神宮は凹形である)。

 要石から旧参道に戻り、西に歩くと奥宮の案内がある。石段を上り、素木の鳥居で一礼する(写真)。
 正面に板を並べた玉垣=瑞垣に囲まれ、質素な奥宮が鎮座する(写真)。経津主大神(ふつぬしのおおかみ)の荒御魂を祀っていて、現在の社殿は1973年伊勢神宮遷宮の古材を用いて建てられた。
  妄想するに、経津主大神、武甕槌大神の両神は出雲国を平定した武神であり、当時の朝廷は東北への備えとして房総に経津主大神、武甕槌大神を派遣し、両神が香取神宮、鹿島神宮の祭神として祀られた。戦国時代を経て徳川家康が征夷大将軍となり、東北への要となる房総の香取神宮、鹿島神宮が重視され、5代将軍綱吉の造営で現在の楼門、拝殿・本殿が建てられたのではないだろうか。
 妄想は歴史研究の専門家に任せ、参拝を終える。 (2024.9)

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