yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

斜読「黒のクイーン」はプラハで起きた女は黒、男は白のビロードの連続殺人事件の謎解き

2020年07月31日 | 斜読

book517 黒のクイーン アンドレアス・グルーバー 創元推理文庫 2014  <斜読 海外の作家一覧>
 2019年9月にツアーでウイーンに2連泊した。2014年のツアーでもウイーンに2連泊している。ヨーロッパを席巻した歴史都市は見どころが限りない。ツアー前後の予習復習で本をリストアップした。
 その一冊「黒のクイーン」は、ウイーンのフリーで保険調査を専門に探偵するペーター・ホガートが主役だが、活躍の舞台はプラハだった。プラハは2014年のツアーの最初に2連泊している。
 ウイーンの復習にはならなかったが、物語に登場するヴルタヴァ川、カレル橋、プラハ城、黄金小路なども歩いたので、記憶を呼び戻しながら読んだ。

 ホガートは、保険会社M&Rのウイーン支社長ラストから、姪で同社専属の美術品保険調査専門探偵シェリングが3週間前に、「・・プラハ国立美術館の火事でヴァーツラフの絵画13枚が焼失した事件は偽装、絵画は贋作、うまくいけば本物を確保できるかも知れない、今夜の飛行機で戻る・・」と留守電を残したあと行方不明になった、保険金を支払わなければならないタイムリミットが迫っている、4日のうちにシェリング行方不明と絵画の偽装を解明して欲しいと依頼され、空港に向かう直前のシェリングの写真を預かる。
 
 ホガートは、シェリングが泊まっていたプラハ・ヴルタヴァ川沿いのホテルにチェックインする。
 シェリングは運転免許証を持っていない。移動はタクシーである。シェリングのタクシー乗車記録を手に入れ、行き先を市街図で確かめ、2ヶ所に目星を付ける。
 その一つ、ユダヤ人街のベルナルデイ小路を歩き、娼館鸚鵡亭で聞き込むが手がかりはなかった。シェリングはなぜ娼館のある小路に出掛けたのか?・・謎解きの伏線・・。
 もう一つは、プラハ城に近い高級住宅街に住む暗黒街のボス、プラハの王と呼ばれるグレコの屋敷である。インターネットでグレコを調べ、グレコが芸術愛好家で高価な絵画を収集していることが分かった。ホガートは、美術館の火災、シェリングの失踪はグレコがからんでいるとにらみ、グレコ邸を訪ねる。
 グレコは無関係と言い切り、ホガートは用心棒のディミトリに痛めつけられる。・・ディミトリーは、物語の主軸である連続殺人事件の被害者の一人でグレコの娘の世話係ナディーヌと付き合っていて、事件の最終場面に再登場する・・。

 グレコに別の用で居合わせたプラハの私立探偵イヴォナが、ホガートにグレコにはちょっかいしないよう忠告してくれたうえ、ホガートを夕食に誘う。
 ホガートは、カレル橋そばのカンパ島に住んでいるイヴォナを訪ね、首と両手のない連続殺人事件が起きていることを知る。最初の犠牲者はドイツ大使館参事官ザイッチの夫人で、イヴォナはザイッチから事件解明の調査を依頼されていた。
 ホガートとイヴォナが話している途中、家に火炎瓶が投げ込まれ、火事になる。ホガートはイヴォナに自分のコートをかぶせ、飛び出した瞬間、銃撃される。ホガートは、絵画火災の保険金詐欺犯人がシェリングに続いてホガートを狙ったと確信する・・著者の誘導で、読者は暗黒街のボスやホガート銃撃がシェリング事件にからんでいると思わされてしまう・・。

 イヴォナの弟オンドレイ、オンドレイの相棒イジーが登場し、事件解決までホガート、イヴォナに助力する。
 家を焼かれたイヴォナはイジーのヨットに、イジーは近くのボートハウスに移り、ホガートはホテルをチェックアウトし、イヴォナのヨットに間借りする。・・ボートハウスでの暮らしぶりが描かれる、このあともプラハの底辺で暮らす人々が再三描き出される・・。

 ホガートはイヴォナと国立美術館の火災現場を調べる。火災報知器は外されていて、額縁の跡は本物の絵画よりはるかに小さい。焼失した絵画が贋作であることは確定的である。犯人は内部関係者のようだ。監視員プリーコパが怪しい。
 イヴォナの聞き取りで、プリーコパはベルナルデイ小路に住んでいることが分かる。・・シェリングが調査でベルナルディ小路を訪ねたことと結びつく・・。
 オンドレイの聞き取りで、プリーコパは借金を抱えていた。・・ホガートはグレコ犯行説を軌道修正、プリーコパに目星をつける・・。

 イジーがイヴォナの家の焼け跡から焼け焦げた盗聴器を見つける。狙われたのはホガートではなくイヴォナだったようだ。・・なぜイヴォナが狙われるのか、見当が付かない・・。
 ホガートは、イジーがイヴォナの家で拾い集めた連続殺人事件の資料の中から、首と両手のないシェリングの現場写真を見つける。・・探偵のイヴォナが警察資料を持っているのは、警察内部につてがあるからで、やがて明らかになるが、随所に複雑な人間関係が織り込まれている・・。
 ホガートとイヴォナは連続殺人事件の資料を整理する。最初の犠牲者はザイッチ夫人、2月1日、ヴルタヴァ川沿いのドヴォジャーコヴァ通りで、黒いビロードに包まれていた。2人目は3月1日、ヴルタヴァ川に近いドゥシュニー通りで白いビロードに包まれた元工場労働者、3人目は4月1日?、カフェ・エスプラナーデの前、ルーマニア出身の娼婦、4人目は5月1日、ヴルタヴァ川ノシュトヴァニツェ島、浮浪者、5人目は6月1日、コウロヴァ通りとゼレナー通りの交差点のバス停、デンマークの女性ハイカー、6人目は7月1日、ヴィーチェーズネー広場、フランス人の子守り・・グレコの娘の世話係・・、7人目は8月はじめ、ジシェコフ広場、浮浪者と続き、8人目がシェリングだった。
 女の犠牲者は左利きの犯人に首、両手を斧で切り落とされ、白いビロードに包まれ、男の犠牲者は右利きの犯人に首を丸鋸で、両手は包丁で切り落とされ、黒いビロードに包まれていた。
 
 女の犠牲者は胸にBA、BA、TU、BA、DA、男はBA、SP、BAの文字が刻まれていた。これは何を意味するのか、何かのメッセージか?。
 警察は入念に状況を整理したが手がかりはない。イヴォナも推論を重ねたが、暗中模索のままである。
 ホガートは死体発見場所を記した市街図をぼんやり眺めるうち、市街図がチェス盤の白黒市松模様に見えた。ならば、BAはドイツ語のポーン=チェスゲームの兵隊、DAはクイーン=女王、SPはナイト=騎士、TUはルーク=僧侶を意味するのではないだろうか。
 ホガートは、左利きと右利きの2人の犯人がプラハ市街をチェス盤に見立てたゲームをしていて、取られた駒の代わりに死体を置いている、と仮説を立てる。

 チェスゲームが事件解明の鍵とにらんだホガートとイヴォナはプラハに住むユダヤ人の伝説的チェスプレイヤー・ヴェセリーに会いに行く。ヴェセリーから、これまで対局されたゲームの棋譜を真似ているとのヒントを得る。
 話が飛んで、棋譜探しは難航するが、プラハのユダヤ人ゲットーを舞台にして、皇帝と命を吹き込まれた泥人形ゴーレムがチェスを対局する無声映画・巨人ゴーレムにたどり着く。ゴーレムの最後の一手は白のビショップで、対局は決着する。
 そこへ、ヴェセリー誘拐の知らせが入る。最後の一手、白のビショップはヴェセリーだった。最後の殺人の寸前、ホガートとイヴォナがヴェセリーを救出し、事件は解明されて幕となる。
 時間を争う救出劇は息詰まる展開である。読んでのお楽しみに。

 題名のSchwarze Dame黒の女性は、殺され黒のビロードに包まれたシェリングを指しているようだ。原題のままだとチェスゲームが連想できないので、訳者は黒のクイーンにしたのであろう。
 連続殺人事件の背景には、異常な親による子どもへの性的虐待があった。この本では、性的虐待が子どもの精神に衝撃を与え、自分のなかに別人格をつくりだし、事件に発展している。著者は底辺のすさんだ暮らしを描き出すとともに、親による子どもへの性的虐待を訴えている。  (2020.7)

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2020.5 高麗・秩父を歩く2 高麗王若光の菩提寺・聖天院は行基、弘法大師空海とも縁がある

2020年07月26日 | 旅行

日本の旅・埼玉を歩く>  2020.5 高麗・秩父を歩く2  高麗王若光の菩提寺・聖天院

 高麗神社駐車場脇に聖天院近道の道しるべが立っている。この時点では聖天院について知らなかったが、来る途中の道沿いに標示があり、ナビにも聖天院の名が出ているのでよく知られた寺のようだ。急ぐ旅ではないので足を延ばした。
 高麗神社・水天宮の建つ丘陵が西に伸びていて、その南裾に民家が建ち並び、民家のあいだを縫う細道を4~5分歩くと、丘陵の中腹に建つ本堂らしき建物が見えてくる。

 こんもりとした斜面が境内のようだ。聖天院と書かれた広い駐車場もある。高麗神社に向かう通称カワセミ街道から境内に向かって北西-南東軸の参道が伸びていて、境内入り口あたりに天下大将軍・地下女将軍の将軍標チャンスンが立てられていた。朝鮮由来、高麗神社との縁を予感させる。
 チャンスンあたりから見ると、池に架かった橋の先に歴史を感じさせる楼門が石段の上に建ち、その奥の中腹に森を背にした本堂が建つ。

 楼門は間口3間、唐破風を付けた入母屋瓦葺きで、軒下の扁額には「高麗山」と記されている(写真)。1830年ごろに建てられたそうだ。
 1層目には雷門と墨書きされた赤提灯が下げられていて、案内図などにも雷門と記されている。左右の木像が筋肉隆々たる姿で拝観者をにらみつけている。よく見ると、右の木像は袋を持った風神、左は太鼓を持った雷神だった。風神、雷神を祀ることから雷門と呼ばれているようだ。

 天井画は、天空を駆け巡る龍、天空を飛び回る鳳凰(写真)で、色はややあせているが細やかな表現で、生き生きとしている。風神、雷神、龍、鳳凰ともに江戸時代の作だそうだ。

 一礼し雷門を抜ける。砂利敷きの広場の正面の石段の上に門が構えている。石段には「ここより有料」の札が下げられている。受付は、石段横の境内案内図に「階段上中門」と書かれている。説明がなくても想像はつくが、石段の札に「受付 階段上中門」と書けばことは済むと思うが。そういう雑念が未熟の表れかも知れない。

 石段を上がり、呼吸を整える。中門受付には、新型コロナウイルス感染予防のため無人、拝観料は皿にお願いします、といった意味合いが書かれていて、皿には先客の拝観料がむき出しで置かれていた。賽銭ドロが横行しているから不用心な気もするが、参拝者を信じる、といったおおらかな気分が寺の方針なのであろう。拝観料を皿に入れ、隣に置かれたパンフレットをもらう。
 
 聖天院はショウデンインと読み、正式名称は高麗山聖天院楽勝寺で、高麗王若光の菩提寺として、751年、楽勝上人によって創建された。若光の守護仏聖天尊を本尊とし、当初は法相宗だったが、1345年、秀海上人によって真言宗智山派に改宗された。
 1584年には、圓満上人によって弘法大師作の仏像を胎内仏とする不動明王が、聖天尊とともに本尊とされた。
 高麗王若光の霊を祀るのが高麗神社、菩提を弔うのが聖天院である。神様仏様を気兼ねなく祀るのが日本流である。

 中門を抜けると、砂利敷きの大きな広場に出る(写真)。茫洋としていて、心を空にせよと呼びかけているようだ。広場の右奥に池を配した庭園が造られていて、その右手が庫裡、書院のようだ(前掲写真右、写真やや左は本堂の屋根)。
 広場左に阿弥陀堂が建っている(写真)。1700年代に建立されたそうで、聖天院最古の木造建築である。本尊阿弥陀如来三尊は行基作だそうだ。奈良時代、信望を集めた行基(668-749)も教科書に登場する。合掌。

 阿弥陀堂右手の石段を上ると、筋肉が盛り上がった阿吽の石像が待ち構えている。
 直進すると、新しい鐘堂が建っていて、なかに国指定重要文化財の梵鐘が下げられている。鎌倉時代の著名な鋳物師の作で、経文が刻まれているが判読はできない。
 戻って本堂に参拝する。本堂は2000年の建立で、モデルは高野山真言宗・京都神護寺である・・2018年4月、京都神護寺を訪ねた(2018.8ブログ/⑤空海、高雄山寺で真言密教を広め、神願寺と合併し神護寺と改める 参照)・・。
 本尊の不動明王の胎内仏は弘法大師空海(774-835)作である。本堂のモデルが京都神護寺だった縁だろうか。胎内仏は見ることはできないが、燃えさかる炎を背にし目を光らせた不動明王に合掌する(写真)。
 それにしても行基、弘法大師空海作の仏を所蔵するとは、聖天院が名刹として広く知られていたことをうかがわせる。
 
 本堂前の境内を東に進むと、本堂横手に、本堂造成時に出現した石灰岩の大きな塊が展示されている。ごつごつした岩肌は石灰岩というより花崗岩のような硬さを感じさせる。雪山と名付けられている。日射しで岩が白く反射すれば雪山のイメージになりそうだ。

 砂利広場南側に見はらし台が設けられている。見下ろすと、丘陵の麓に町並みが広がる。丘陵の東に高麗神社、南に聖天院が位置し、丘陵を遠巻きにして流れる高麗川のあいだが稲作地として開墾され、丘陵の麓に家並みが並び、いまの町並みに発展したようだ。さいたま新都心の超高層ビルも見えるらしいが、霞んでいる。

 麓を見下ろしながら、聖天院の構造は山城の構えに似ていると感じた。境内の入口前の池は高麗川を引き込めば堀になり、雷門を抜けた先の広場は三の丸、石垣+斜面+石段の防御、中門を抜けた先が二の丸で庭園+御殿、石段を上がって本丸、本堂あたりに天守閣を構えれば城になる。
 ・・「QED鬼の城伝説」(book508参照)、「十津川警部 吉備 古代の呪い」(book510参照)は、岡山鬼ノ城が朝鮮ゆかりの城との伝説を下敷きにしている。高麗郷も朝鮮ゆかりだから聖天院あたりに城構えがあった?。高麗王はじめとする高麗人は地元と融和していたようだから、考えすぎだろね。

 
 見はらし台で2人の中学生が談笑していた。学校は休校、図書館、映画館などは閉館、商店街も営業自粛、行き場がないので誘い合い、宿題・課題持参で東松山から自転車で走ってきたらしい。
 休校や外出自粛をすすめるなら、あわせて自習内容や日常生活の仕方を明示し、相談や支援する体制を整えるべきではないだろうか。せめてオンラインで授業や相談・支援ができるよう、タブレットを支給あるいは貸与してあげれば良かったのにと思う。
 中学生2人の明るい笑顔に安堵しながら、石段を下りる。
 中門で若い女性とすれ違った。聖天院で出会ったのは計3人、外出自粛を実感する。

 中門を下った左に高麗王若光の王廟がある。手前に遍路姿のブロンズ像が立っている。像は、真言宗の宝号(念仏、題目に同じ)である南無大師遍照金剛を唱えているようである。王廟に一礼して、駐車場に戻った。
 12:40、食事処を探しながら鎌北湖に向かった。 (2020.7)

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磯田著「無私の日本人」は江戸時代に無私を貫いた穀田屋十三郎、中根東里、大田垣連月の生き様を描いている

2020年07月23日 | 斜読

book516 無私の日本人 磯田道史 文春文庫 2015   <斜読・日本の作家一覧
 テレビで2016年に映画化された「殿、利息でござる」を見た。仙台藩62万石7代伊達重村(1742-1796)の時代・・徳川9代家重(1712-1761)・10代家治(1737-1786)・11代家斉(1773-1841)のころ・・、極貧の吉岡宿を救おうと知恵を絞り、千両を仙台藩に預け、利息を頂こうと奔走する物語である。
 紆余曲折の苦労話が物語の主軸で、ことは成就し最後に仙台藩主を演じる羽生結弦が登場し幕となった。農民のしたたかさ、めでたしめでたし、とスイッチを切ろうとしたら原作「無私の日本人 穀田屋十三郎」、著者・磯田道史の字幕が映った。

 磯田道史氏の「武士の家計簿」はやはりテレビで映画を見、その後著書を読んだ(book480参照)。磯田氏はテレビ番組「英雄たちの選択」でも歯切れ良く、英雄たちの生き方に迫っている好人物である。
 本には江戸時代に生きた3人、「穀田屋十三郎」「中根東里」「大田垣連月」が取り上げられているが、不勉強で3人とも初めて知った。

穀田屋十三郎
 仙台城下から6里の吉岡宿は、重臣但木家1500石に下賜された所拝領の地だった。・・仙台藩の政策、所拝領地、武家社会、農民のしたたかな力などは、磯田氏が随所で紹介、解説している。磯田氏の本領発揮であるが、行間に為政者への義憤、江戸時代の農民、町民への暖かな眼差しを感じる・・。
 吉岡は宿場だが半農で生計を立てる200軒ほどの貧しい村のうえ、所拝領地のため伝馬合力という助成制度も受けられない。苦しい暮らしのため、住人が少しずつ退転して家数が減り、年貢、伝馬役がさらに重荷になり、さらに家数が減るといった悪循環に陥っていた。

 十三郎47才は、このままでは村が滅ぶ、父の言葉「永代のうるおい」のために何をなすべきか、悩んでいた。・・十三郎は吉田宿きっての商家浅田屋の長子だったが、造り酒屋穀田屋の跡継ぎがいなかったので養子になり、浅野屋は弟が父の跡を継いだ・・。
 十三郎は、吉岡宿きっての知恵者で茶師の菅原屋篤平治35才に悩みを打ち明ける。1766年明和3年3月のことである。1766年から、ことが成就し藩主が浅野屋を訪れるまで足かけ7年かかった。いまでいうたらい回し、役所仕事のせいで、そこに風穴を開けたのが十三郎たちの私をなげうち、宿の未来へかける熱い思いである。

 菅原屋は十三郎に1450両あれば吉岡宿が救える、と言う。十三郎は??、訳が分からない。菅原屋の秘策とは、1450両を仙台藩に預け、年々、利息をもらう、金貸しであった。この前代未聞の戦略には作戦第1として、1450両をつくらねばならない。
 作戦第2は、仙台藩が吉岡宿から金を借りる事態が起きなければならない。1766年8月、仙台藩は幕府から普請を命じられた。金が入り用になる。金貸しの時機到来である。十三郎と菅原屋は銭湯代を切りつめ、断食して小銭を貯め始める。・・やがて同じ志の仲間が集まる。
 作戦の第3は手順になる。江戸時代は身分制が厳密である。まず村を取り仕切る大肝煎を説得しなければならない。次は代官、その次は郡奉行、そして収入司に願いが届かなければことがすすまない。手順を間違えれば、すべてが破綻する。ときには重罪として捕らわれる。この下りが、映画でも、この本でも見せ場である。

 ことは成就したが、大金を出資した浅野屋は商いが傾くほど苦しい。にもかかわらず父の教えである冥加訓を守り、極窮人の救済をすすめた。この話が藩主伊達重村の耳に入る。重村は領内巡視の途中、浅野屋の座敷に上がり込み、自ら筆をとり「霜夜」「寒月」「春風」と書いて酒銘とさせた。これが大評判になり、浅野屋はつぶれずにすんだ。
 この顛末が「国恩記覚」として代々語り継がれ、磯田氏の本、映画になったようだ。

中根東里
 P192・・江戸時代を通じて空前絶後の詩才の持ち主といわれた中根東里(1694-1765)は、自分のつくった文章をことごとく燃やしてしまったため、その形跡を知る手がかりがきわめて少ない、らしい。磯田氏は根気よく古文書を探し、中根東里の片鱗を描き出したのが、この文である。
 子どものころ禅寺に入り証円と名乗った→宇治・黄檗山萬福寺で唐音を会得→江戸駒込・浄土宗蓮光寺の僧慧岩を訪ね大蔵経を読破→荻生徂徠に認められ、古文辞を学び、孟子を知る→還俗し、徂徠から破門され、すべての文書を燃やす→西洋天文学の浪人細井広沢宅に逗留→学識者・室鳩巣に誘われ加賀へ、正統の学問をおさめ→仕官を嫌い江戸八丁堀の裏長屋で読書→米が底を突き弟のいる鎌倉で下駄づくり→再び江戸へ、弁慶橋近くで竹皮草履をつくり、王陽明を読む→慕う者が増え深川八幡宮へ→下野国佐野へ、72才で没、遺品も遺稿も残っていなかった。

 ・・磯田氏はこれだけの遍歴を追いかけるのも難業だったっと思うが、遍歴を追いながら当時の学問体系に迫っていて、教科書で暗記したようなことがていねいに解説されている。
 東里のことば、p236・・月を見るものは指を忘れて可なり・・四書五経は指に過ぎない、大切なのはその彼方にある月、P246・・人は天地の心、天地万物と自分はもともと渾然一体・・もともとこの世に他人事というものは存在しない、P254・・聖人の学は仁、仁とは天地万物一体の心、P258・・出る月を待つべし、散る花を追うことなかれ・・。

大田垣蓮月
 津藩藤堂一門の新七郎は、京・三本木の花街の芸妓とのあいだに生まれたおのぶ=のちの蓮月(1791-1875)を知恩院の寺侍常右衛門に預ける。常右衛門の子ども4人は生まれて間もなく死に、仙之助7才の一人だけだった。常右衛門はおのぶを養女にする。おのぶは容姿が良く、読み書きをこなし、剣術も仙之助をしのぐほどに育った。
 おのぶの父は藤堂家一門、母は亀山の家中に嫁いでいたので、常右衛門はおのぶを相応の家に嫁がせようと考えていたが、才色兼備、男勝りしすぎ、縁が無い。

 仙之助が20才で夭折する。常右衛門は故郷の但馬から跡取りとして直市を連れてきた。おのぶと直市は祝言をあげることになるが、生まれてくる子どもは次々死んでしまう。直市は才色兼備のおのぶに引け目があり、精神を患い、息を引き取る。
 おのぶの近くに年老いた上田秋成が住んでいて、おのぶは歌の手ほどきを受け、秋成のすすめで当代きっての歌人といわれた小沢魯庵の歌集に親しんだ・・魯庵の「歌とは素直なる心にかえる道」という言葉にひかれる。

 年老いた常右衛門の願いで、おのぶは彦根藩井伊家家中石川重二郎と再婚し、娘、息子が生まれるが、重二郎が病死する。おのぶは髪を下ろす。
 常右衛門は養子に跡を任せて出家し西心の名を授けられ、おのぶは蓮月を授けられる。西心、蓮月、子ども二人が知恩院真葛庵に移る。やがて西心が死ぬ。なんと子ども二人も急死し、蓮月は一人になる。おのぶは仙之助に始まり、自分の産んだ子どもたち、伴侶が若くして死んでいくのだから、心の奥に深い悲しみ、虚無感が沈殿していたのでないだろうか。

 西心が死ねば真葛庵を出なければならない。蓮月は聖護院村はずれの陋屋を借りる。食べ物が底を突いたとき、粟田焼を家業とする老婆から、手びねりで陶器をつくり、得意の歌を彫るよう勧められる。蓮月はつたない形の急須のふたに、万人に救いがゆきわたるようにと蓮の葉脈を造形し、取っ手の茎には心が通じるようにと穴をあけ、自詠の和歌を彫った。これが大評判になる。
 耳が聞こえないため読書の好きな隣家の少年が、喜んで蓮月を手伝う。蓮月は勉強好きな少年に学資を与える。少年の問いに「自他平等、自分と他人に違いは無い」答えた・・この少年がのちの富岡鉄斎である。
 まだ磯田氏の筆は絶好調で進むが、あとは読んでのお楽しみに。
 辞世の句「願はくは のちの蓮の花の上に 曇らぬ月をみるよしもがな」を残し、明治8年蓮月は息を引き取る。 

 磯田氏はあとがきで、吉岡在住の三橋正頴氏から「・・かつて9人の篤志家が身売り覚悟で千両をこしらえ藩と交渉し・・涙なくしては語れない・・」手紙をもらい、心を打たれ・・史料をあつめ・・古文書を読みながら涙を流し・・どのようなことを子や孫に語り・・無名のふつうの江戸人に深い哲学が宿っていた・・自分の心に正直に書きたい・・ほんとうに大きな人間は濁ったものを清らかなほうにかえる浄化の力を宿している・・その確信をもってこの本を書いた、と述べている。

 この本で磯田氏が言いたいことはここにすべて凝縮されている。その一方で、テレビドラマの時代劇や歴史小説には、清らかなものを濁らせ、正義を押しつぶす人物が描かれ、悲劇的に幕を閉じる場合が少なくない。それは現代にも通じている。
 だからこそ磯田氏は、江戸庶民の哲学である「無私」をこの本を通して諭そうとしている。 (2020.7)

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2020.5 高麗・秩父を歩く1 高句麗からの渡来人高麗王を祀る高麗神社

2020年07月19日 | 旅行

2020.5 高麗・秩父を歩く1  高麗神社   <日本の旅・埼玉を歩く

4月7日、新型コロナウイルス感染予防のため埼玉県を含む7都府県に緊急事態宣言が行われた。4月16日、緊急事態宣言が全国に拡大された。休校、テレワーク、営業自粛、不要不急の外出自粛などなど、厳しい要請が出された。
 5月14日、埼玉県を含む8都道府県を除いた39県の緊急事態宣言が解除され、5月21日、埼玉県を含む5都道府県を除いて緊急事態宣言の解除が拡大された。5月25日にはすべての都道府県の緊急事態宣言が解除された。
 息抜きをしたいが、新型コロナウイルス感染が収束したわけではない。治療薬、ワクチンの開発はまだ時間がかかりそうである。PCR検査数も伸びず、病床逼迫も改善されていない。自衛するしかない。
 感染リスクを避けるため、人出の少ない秩父方面を巡り、こぢんまりした露天風呂付き・個室食事処の宿で息抜きをしようと、マイカーで出かけた。

高麗王を祀る高麗神社
 さいたま市から一般道で秩父に向かうには、国道254号線、国道140号線で荒川沿いを走るルート、国道299号線などで高麗川沿いを走るルートなどがある。前者は関越道を使うと時間が節約できるが料金はかさむ。
 急ぐ旅ではないので、途中で高麗神社や鎌北湖に寄ることにして後者のルートにした。国道16号線を西に走り、入間川を渡ってほどなく県道15号線に入る。八高線を過ぎて間もなく右折し、高麗川に沿って北に向かうと、高麗神社に着く。1時間少しだった。
 高麗神社は、同じ敷地に国指定重要文化財・高麗家があり、40年ほど前に見学したはずだが、境内や駐車場がキチッと整備されていて、記憶と印象が違う。
 駐車場も広い。神事祭事にはかなりの人出になるのであろうが、外出自粛のせいか今日は空いている。

 一の鳥居で一礼する。木立のなかを一直線に石畳の参道が伸びている(写真)。扁額には大宮大明神と記されている。
 この地域はかつて高麗郡と命名されていて、高麗郡の重要な神社であることから大宮大明神、あるいは単に大宮社として信仰を集めていたそうだ。
 参道の木立、境内は桜が多い。春の神事祭事の華やかさが想像できる。左手は山になっていて、参道は山裾に沿って伸びている。右手は広々とした境内で、韓国でよく目にした将軍標チャンスン・・天下大将軍、地下女将軍の石標・・が立っている。チャンスンからも高麗神社が朝鮮由来らしいと想像できる。

 二の鳥居で一礼する。扁額には高麗神社と記されている。
 説明坂+神社パンフレットによると、・・騎馬民族の高句麗は中国大陸北東部~朝鮮半島北部を領有し約700年君臨・・唐と新羅の連合軍によって668年に滅亡・・大勢が日本に渡り・・716年、大和朝廷は武蔵国に高麗人1799人を入植させて高麗郡と称し、高麗王若光を首長とした・・若光没後、若光王の霊を祀る高麗神社が建立された・・。
 騎馬民族だった高句麗の人々が新たな土地で農耕を営んだということになる。高麗神社がいまに至るまで信仰を集めていることから、高句麗人は地元に溶け込もうとし、地元も彼らを受け入れようとしたのであろう。

 ・・日本が支援した百済が、660年、唐・新羅連合軍に敗れ、663年に再興を願って白江村で戦うも壊滅し、多くの百済人が日本に逃れたことは教科書でも習った。「QED鬼の城伝説」(book508参照)、「十津川警部 吉備 古代の呪い」(book510参照)など、本の背景にもなっている。かつては高句麗、百済を始め朝鮮半島、中国大陸との行き来は友好的で、日本に住み着いた渡来人も多く、その痕跡が高麗神社のように各地に残されている・・。

 参道の突き当たりの石段の上に、唐破風の堂々とした御神門が構えている(写真)。扁額には高句麗神社と書かれているが、句は小さく高・麗神社に見える。明治33年1900年、当時の朝鮮王朝の貴族が参拝したときの書で、高句麗と936~1392年のあいだ朝鮮を統一していた高麗とを区別するため小さな句をつけたそうだ。高麗王若光を偲んだのであろう。
 御神門で一礼する。

 御神門の正面が真新しい外拝殿である(写真、web転載)。向拝も千鳥破風の入母屋屋根も銅板葺きのようだ。40年ほど前の拝殿は桧皮葺で向拝も唐破風もない簡素なたたずまいだった気がする・・参拝後、参集殿社務所で巫女に確認したら、2007年に外拝殿を建て替えたそうだ・・。
 先客の参拝を少し離れて待つ。先客の参拝後、外拝殿に進み、二礼二拍手一礼する。次の参拝客も私たちの参拝を離れて待っていた。新型コロナウイルス感染予防は参拝にまで浸透している。

 本殿は、内拝殿、幣殿の奥になり、外拝殿からは見えない。webによると、内拝殿、幣殿と本殿覆屋は、昭和9年1934年、伊藤忠太(1867-1954)の設計でが建てられた。
 同年、伊藤忠太設計により築地本願寺も竣工している。築地本願寺は、伊藤忠太が仏教の源流であるインドの仏教遺跡から教示を受けたユニークなデザインである・・HP 日本の旅・東京を歩く 2008.1 柴又帝釈天・築地本願寺参照・・。
 高麗神社本殿は安土桃山時代の流造なので、伊藤忠太も木造の伝統的なデザインで覆屋、幣殿、内拝殿を設計したのであろうが、高麗神社は高句麗由来だから朝鮮のデザインを採り入れても良かったのではないだろうか・・建築界の大御所に笑い飛ばされるかな・・。

 参拝を終えてから敷地奥に保存されている国指定重要文化財・高麗家を見に行く(写真)・・40年前の記憶通りである。
 東向きに建つ茅葺き入母屋屋根で、北側に土間(写真右手前)、東面・土間側に21帖板敷き・オモテザシキ(写真左手)、東面・南に板敷き・四帖、南面中央に10帖畳敷き・オク、西面・土間側に板敷き・カツテ、西面・南奥に板敷き・ヘヤが並ぶ。
 整形四間取り=田の字型間取りの変形で農家住宅の典型であるが、この建物は高麗神社の神職の住居で、慶長年間(1596~1614)と推定されている。
 朝鮮半島の住まいは、とくに高句麗は寒さが厳しいから、床暖房であるオンドルが欠かせない。しかし、日本の伝統的な木造住宅ではオンドルを設けることはできない。大和朝廷、地元の日本人が快く受け入れてくれたので、地元に溶け込もうと日本の農家住宅の様式を採り入れたのだろうか。慶長年間のころは日本人になりきっていたから、田の字型間取りに違和感がなかったとも考えられる。

 参道の途中、狛犬の石像が置かれたあたりに山に祀られた水天宮への登り口がある。崖伝いのような細い急な道を10分ほど上ると、水天宮に着く(写真)。
 水天宮の始まりは、久留米藩有馬家の屋敷に祀られていた安産祈願の神社である。江戸時代、三田の有馬家上屋敷に分霊され、その後、日本橋の有馬家中屋敷に遷され、安産祈願の神社として広く信仰を集めた・・HP 日本の旅・東京を歩く 2017新春 日本橋七福神を歩く参照・・。
 高麗神社の水天宮は江戸時代に祀られたというから、三田の有馬家上屋敷から分霊されたのかも知れない。
 推測を含め、皆さんの安産を願い参拝して、急坂を下る。  続く(2020.7)

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小森谷慶子賢二著「シチリアへ行きたい」は豊富な写真を挿入、街ごとの見どころを簡潔に紹介

2020年07月13日 | 斜読

book505 シチリアへ行きたい 小森谷慶子・賢二   斜読・日本の作家一覧

 まだ海外旅行経験の少ない1997年、添乗員無し、ガイド無しでイタリアを急ぎ旅したとき、パレルモ近郊のモンレアーレ大聖堂でモザイク画に感嘆させらた。手持ちのわずかな資料では理解に限界があり、心残りになった。
 その後、異文化の旅で研さんを積んだ。キリスト教、モザイク画にも詳しくなった。
 2020年1月、パレルモ再訪の機会が訪れた。シチリア10日間ツアーである。モザイク画をじっくり見られる。予習復習の本を探した。参考資料も1997年に比べずいぶん増えた。

 この本の著者小森谷慶子氏は大学で史学を専攻したイタリア史研究家で、本書はイタリア・国際ジャーナリズム賞審査員特別賞を受賞している。共著の小森谷賢二氏は大学で建築学を専攻した建築家で、建築や都市への造詣が深く、表紙も賢二氏の写真である。・・実際、慶子氏の解説、賢二氏の写真は期待通りだった。

 冒頭のはじめに・ギリシャの神々が住まう島・島の始まりと先史時代・ギリシャ人の入植はシチリアの基礎知識を、エトナ山や神話を引き合いにしながら簡潔に紹介している。はるか大昔、ギリシャ人が入植してシチリア人と結合し、その後、ローマが進攻してシチリア人と結合した。それらを神話化したようで、ギリシャの神々=ギリシャ人もローマの神々=ローマ人も好色のようだ。

 海外を紹介する本は歴史に力点を置いたり、観光名所や食べ物が中心だったり、体験をベースに述べていたり、それぞれ編集の仕方の特色がある。この本は、20ほどの代表的な街を取り上げ、街ごとに解説を区切り、豊富な写真を挿入してキャプションで補足する街歩きガイドである。予習ではツアー訪問地の順に読み、帰国後に訪問先を復習しながら、残りの街を読んだ。
 フリーの旅に持参すれば、大まかな行程を組むときや毎日の行動の手引きになる。街ごとの地図も手助けになる。・・もっとも私は予習で読んだだけでこの本は持参しなかった。・・海外旅行では、事前にwebからツアー順に街の歴史、気候、見どころ、宿泊ホテル、名物料理などのをダウンロードし、予習の本の情報も加え、私家版旅ガイドをつくっていて、今回もその旅ガイドを持参した・・。

 2020年ツアーではロンドン・ローマ経由パレルモから始まり、島の西~南~東を走り、カターニアからローマ・フランクフルト経由で帰国した。本の構成=目次と異なるが旅の順に本の内容を拾い書きする。
p52パレルモ/歴史が落とした光と影
 島の北西、ティレニア海に面し、イスラム支配~ノルマン政権~シチリア王国~現代に至るまでのあいだの王都、州都である。それはまさに「光と影」の歴史といえる。1997年も今回も2泊した。王宮、カテドラル、モンレアーレ大聖堂+修道院、旧市街のクワトロ・カンティなど、1997年を思い出しながら、改めてじっくり見学した。予習しておくと見どころを見逃さず見学でき、新たな発見も少なくない。
P40セジェスタ/孤高にして未完の神殿、そして青きティレニア海を望む劇場
 島の西に位置するギリシャ神殿と劇場の遺構で、保存状態がいい。アグリジェントへの途中で立ち寄った。山あいにあり、しかも未完で謎が多い。見学者は少なく、風景を独り占めできる。
P28アグリジェント/のどかにアーモンドの花咲く神殿の谷
 島の南西中ほどの古都、1997年は満開のアーモンドに迎えられ、コンコルディア神殿遺構などを日帰りで見学した。今回は2泊したのでライトアップの神殿も見学した。地産の凝灰岩は黄色みを帯びていて、現地在住の日本人ガイドの話し上手もあり、巨石の遺構なのに親しみを感じた。2度目のせいかもしれない。
P50カザーレのローマ離宮/ローマ時代の豪勢なモザイク床
 島の中央やや南東の内陸で発見されたローマ時代の屋敷遺構である。シラクーサに行く途中で立ち寄った。女主人と子どもたち、大掛かりな狩猟などのモザイク床は表現が生き生きしていて、当時の貴族?豪族?の暮らしがイメージできる。
P12シラクーサ/青い海にふちどられたシチリアで最も美しい街
 島の東南、イオニア海に面した古都、今回のツアーではオルテージャ島に2泊した。ギリシャ劇場、ローマの円形闘技場、アポロン神殿跡、アレトゥーサの泉など、神話や古代の遺構にかかわる見どころが多い。アルキメデス生誕地だが、ブロンズ像は近年の作のようだ。
 シラクーサの南西、島の東南端に1693年の大震災後にバロック様式で再建されたP89ラグーサ、新たに都市計画されたバロックの町並みP96ノートが位置していて、シラクーサから日帰りで見学した。
 石灰岩の建物、町並みは、青い空を背景に日差しを浴びて黄金色に輝いている。バルコニーを支える人頭、馬、スフィンクスなどの彫刻は生き生きしている。人気の観光地のようで賑わっていた。

p45タオルミーナ/青きイオニア海と霊峰エトナをともに愛でる、太陽がいっぱいの街
 島の北東に位置し、イオニア海に面した山の中腹の街である。イオニア海とエトナ山を眺められる部屋に2泊した。
 ギリシャ劇場の保存状態も良く、表紙写真のようにエトナ山を背景にして円形劇場を写真に収めることができる・・賢二氏の写真ではエトナ山は雲に隠れているが、私は雪を抱いた真っ白なエトナ山+円形劇場の写真をとることができた。

 
 P82標高3340mの活火山であるエトナ山はタオルミーナから雄姿を眺めただけ、P84エトナ山噴火の溶岩でできたシチリア東部の大都市カターニアは空港に行く途中、車窓から眺めただけである。
 ほかにもセリヌンテ、チェファルー、カルタジローネ、メッシーナ、ティンダリ、モルガンティーナ、トラーパニ、エリチェ、モツィア、ソルント、エオリエ諸島の見どころが写真とともに紹介されている。
 16のコラム、シチリア史略年表、シチリア現代図・古代図もシチリア理解の助けになる。A5版サイズ、厚さ1cm、220gとかさばらないので、シチリア旅行に持参すれば手ごろなガイドブックとして重宝する。帰国後なら、豊富な写真を見ながら旅の思い出を整理することもできる。予習、旅のガイド、復習と使い勝手がいい。写真を眺めるだけでも楽しめるお勧めのシチリアガイドである。 (2020.1)

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