yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2022.10長野 車山高原+蓼科湖

2023年07月31日 | 旅行
日本を歩く>  2022.10 長野 車山高原・蓼科湖


 八島ヶ原湿原をあとにして県道194号線を下り、県道40号線を左折する。間もなく車山高原スカイパーク駐車場に着く。ここからリフトに乗れば、車山展望テラス=スカイテラスから360°のパノラマビューを眺めることができるそうだ。
 14:00、空を見上げると雲が明るく、山の上まで見通せる(写真)。善は急げ、念のためウィンドヤッケを羽織り、トレッキングハット被り、山頂往復2160円のリフト券を購入して、山麓駅からリフトに乗る。
 リフトは途中乗り換えで、最初はスカイライナーと呼ばれる6分のリフトである。なだらかな斜面はスキーゲレンデに使われるようで、草はていねいに刈り込まれていて清々しい(左写真)。赤茶けた斜面は冬の近さを感じさせる。
 次に9分のスカイパノラマに乗り換える。斜面は幅が狭くなり、傾斜もきつくなっている(右写真)。スカイライナーが初・中級クラスのゲレンデ、スカイパノラマが中・上級クラスのゲレンデだろうか。スキーは遠い昔になった。
 スカイライナーもスカイパノラマも数組にしか出会わなかった。車山高原は夏のトレッキング、冬のスキーでにぎわい、いまごろはシーズンの境目、野菜でいえば端境期のようだ


 山頂駅でリフトを降りる。少し先にスカイテラスが空中に張りだしている。スカイテラスも先客が一組だった。
 デッキの先端まで行き、見下ろす。スカイテラスは雲海テラスとも呼ばれ、一面が雲海に覆われることもあるそうだ。雲海が出なくても天気が良ければ八ヶ岳、アルプスの山々、富士山まで遠望できるらしい。残念ながら今日は雲が立ちこめ、視界を遮っていて、雲海も山並みも楽しめなかった。左写真)。
 雲行きが怪しいので山頂へ急ぐ。平坦だが岩がゴロゴロしていて足場は悪い。石造の小さな車山神社が祀られているので一礼する(右写真)。諏訪大社の御柱祭と同じく寅年、申年に車山神社でも四方に新たな御柱が立てられ、春の山開き祭、冬の山開き祭が行われ、るそうだ。
神社の先に球形の観測器をのせた車山気象レーダー観測所が建ち、すぐそばに車山山頂 標高1925mの表示板が立てられていた。
 このあたりから難易度に合わせたトレッキングコースがあるらしく、雲でかすんだ中からトレッキングを終えて戻ってくる人がいた。山歩きの装備をしているが寒そうだ。雲の立ちこめたスカイテラスに向かったいった。


 みぞれ交じりの雪がぱらついてきた。山頂散策は切り上げ、山頂駅に戻る。スタッフが雪を掃いてくれたスカイパノラマに乗る。冷たい空気のなかをリフトが下っていくので、冷たい風が吹き上げてくるように感じる。軽装でリフトを上ってくる人とすれ違う。予想外の雪に寒そうにしていた。
 スカイライナーに乗り換える。親子らしい人とすれ違う。この親子も軽装である。スカイテラスの展望を楽しもうというのであろうか。山頂にみぞれ交じりの雪が降っているのを知らないようだ。
 山麓駅でリフトを降りる。ときどきフワッと雪が舞っている。見上げると山頂は雲に包まれていた。山の天気は移ろいやすい。


 16:00ごろ、車山高原をあとにして宿に向かう。今日の宿は山あいの丘の上標高1537mに建ち、東に八ヶ岳、西に霧ヶ峰高原の眺めを楽しむことができる。ミネラル分の多い伏流水を利用した絶景露天風呂に浸り、雲を被った八ヶ岳を眺めて気分を癒やす。


 翌朝、雪に光る八ヶ岳を遠望する。雲はないが、空が白く見える。木々はうっすらと雪化粧し、車の屋根にも雪が乗っている。朝食後、丘の斜面に整備された庭園を散策する。植栽は雪をのせ、遊歩道にはところどころ雪が残るが積もってはいない。
 車の雪を払い、宿を出る。路面は北側の道端に少し雪が残るくらいで、走行には支障はない。国道152号線を東に走る。
 見晴台に立ち寄った。雪のまぶしい八ヶ岳を見収める(左写真)。国道152号線を下り、県道192号線を左折して蓼科湖に向かう。
 蓼科湖の手前に朱塗りも鮮やかな山門が見えたので寄った(前頁右写真)。1970年に建立された蓼科山聖光寺で、救苦観世音菩薩を祀っている。合掌。境内の桜は見事だそうだ。
 
 蓼科湖の駐車場に車を止める。100台ほどの駐車場は混み合っていた。道の駅、飲食店、観光施設が並んでいて、家族連れ、友達連れで賑わっていた。
 江戸時代、このあたりは農業用水の不足に悩まされていた。村名主・坂本養川は農業用水の開削を高島藩(HP「2022.10長野 高島城」参照)に願い出ていて、1785年に請願が認められた。
 坂本養川は、川から用水に水を取るための堰を木や石で作り、水を完全に堰き止めない芝湛(しばたたえ)としたり、複数の河川を用水路で結んで水利体系を安定させた繰越堰(くりこしせぎ)にするなど、画期的な仕組みで全長13kmの用水路を完成させた。蓼科湖は用水の途中に設けられたため池で、蓼科山から流れる冷たい水を温める役割がある。
 用水路の完成で水田の収量が飛躍的に伸びたに違いない。2016年世界潅漑施設遺産に登録されたそうだ。


 湖岸には一周1.3kmの遊歩道が整備されている(左写真)。彫刻公園が整備され、けやきの広場、水の広場、光の広場などに彫刻が展示されていた(右写真)。穏やかな日射し、紅葉を見上げ、彫刻を鑑賞しながら、心身を癒やす。  
  山の天気に計画が左右されたが、臨機応変に旅を楽しみ、帰路についた。
  (2023.7)

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2022.10長野 美ヶ原高原+八島ヶ原湿原

2023年07月27日 | 旅行
日本を歩く>  2022.10 長野 美ヶ原高原・八島ヶ原湿原


 9:30過ぎ、諏訪湖東南に建つ宿を出て、美ヶ原高原を目指す。左に諏訪湖を眺めながら中央本線に沿った国道20号線=湖岸通りを西に走り、国道142号線を左折して山道に入る。


 諏訪大社下社秋宮の前を通ったので、参拝した。2021年11月に諏訪大社4社を参拝している(HP「2021.11諏訪大社を巡る1~4」)。諏訪大社は諏訪湖の南西に鎮座する上社本宮、前宮、諏訪湖の北西に鎮座する下社春宮、秋宮の二社四宮からなる。
 諏訪大社では、寅年、申年の4~6月に式年造営御柱大祭=御柱祭が行われてきた。御柱祭とは、 4社殿の前面左右と背面左右に立つ4本の神木を6年ごとに立て替える式年造営の祭礼である。2023年は寅年で、4~6月に4社殿の前面左右、背面左右の神木が立て替えられたばかりである。
 諏訪大社下社秋宮の鳥居で一礼し、石畳を上り、寝入りの杉を見上げ、拝殿を回り込み、幣拝殿で二礼二拍手一礼する。秋宮の神木はイチイである。右片拝殿右前の一之御柱、左片拝殿左手前の二之御柱にそれぞれの触れ、社殿左奥の三之御柱と社殿右奥の四之御柱(写真)を眺める。
 御柱は長さ約 17m、直径約 1m、重さ約 10 トンもあるそうだ。天に向かって屹立する姿に人知を越えた神々しさを感じる。


 諏訪大社下社秋宮を出て、国道142号線を北上する。2021年11月はこの道を南下してきた。記憶が残っている。御柱の大木を切り出して傾斜35度の急坂を滑り落とす木落とし坂を過ぎる。
 和田峠あたりで、県道460号線に左折する。山道になる。右は風景が開けているが、上るにつれ霧が出てきた。
 三峰大展望台の案内があったので寄った。標高は1750mぐらい、崖際に三峰茶屋が建っていて眺めが良さそうだが、みるみるうちに茶屋は霧に包まれた。展望台からも霧に覆われた風景しか見えない(写真)。


 展望を切り上げ、県道460号線を上る。霧は濃くなったり、風で流れて見通しがよくなったりしている。目をこらしながら、ヘアピンカーブを何度か過ぎると駐車場に着いた。
 正面に霧に包まれた山本小屋ふるさと館が建っている(写真)。駐車場の隅には雪が残っている。車から出ると冷たい風が吹き付ける。ウィンドブレーカーを羽織り、辺りを見回すが、霧で視界がない。
 このあたりが標高2000m前後の美ヶ原高原で、日本百名山にも選ばれている。高原は平安時代から放牧地として活用され、近年、展望を楽しめるホテルや美術館も建ったようだ。
 広く開けた台地に並ぶ標高2034mの最高峰王ケ頭、標高1990mの牛伏山、標高1977mの鹿伏山などを歩くトレッキングコースが整備されている。装備を調えたグループが霧のなかに消えていった。試しに歩いてみたが、霧が濃くなると視界は10m先も見えない。
 美ヶ原高原散策は次の機会にお預けし、県道460号線を戻る。


 ヘアピンカーブを下り、三峰大展望台を過ぎる。下るにつれ霧が薄くなる。和田峠あたりで、次の目的地である車山高原に向かう県道194号線に左折する。ほどなく八島ヶ原湿原の案内があった。
 八島ビジターセンター+案内板によると、標高は1630m、広さは43.2ha、国の天然記念物に指定され、国の文化財にも登録されていて、スゲ、ミズゴケの宝庫であり、キリガミネスミレ、サクラスミレ、エゾカワラナデシコ、シモツケソウ、ヤナギランなど360種の花が咲く湿原だそうだ。
 案内板によると、湿原を一周できる木道が整備されている。霧が濃くなったら引き返すことにして、歩き出した。
 入口から坂を下ると八島ヶ原湿原が広がっている(写真)。手前は八島ヶ池、その向こうに赤茶けたスゲ?が続き、その先は霧で視界が止まる。天気が良ければ車山1925mなど、霧ヶ峰の山々が見えるらしい。


 木道を歩く。木道以外は立入禁止である(写真)。木道は平坦で歩きやすいが、花の少ない時期であり、一面のスゲ?やアシ?しか目に入らないので、風景の変化に乏しい。
 鬼ヶ泉水と名づけられた小さな池を過ぎ、歩き始めて10数分で鎌ヶ池という大きな池を過ぎた(写真)。案内板の時間目安より早いペースのようだ。風景が単調であり、霧の心配もあり、速足になったようだ。


 鎌ヶ池を過ぎて間もなく、踏み固められた遊歩道に変わった。葉を落とした木々やアシ?のあいだを歩く。霧が薄くなると、赤茶けたスゲ?の先の遠くに山並みがぼんやりと現れてくる。
 歩き始めて30分を過ぎる。遊歩道は砂利が転がる上り坂に変わる。湿原の北側は台地になっているようだ。ほどなく木道になる(写真)。木々は葉を落としている。高原は冬が早そうだ。
 木道が二股に別れ、ヒュッテの案内があった。ヒュッテは、県道194号線からも直接アクセスできるらしい。


 車は八島ビジターセンター前の駐車場に止めてあるので、ビジターセンターを目指して歩く。広々として赤茶けたスゲ原の先の低い山の形は、はっきり見える(写真)。霧がだいぶ薄くなったようだが、高い山並みはまだ霧に包まれている。霧が晴れていれば、栃木・小田代原、戦場ヶ原に並ぶ絶景になるのではないだろうか。
 歩き始めておよそ60分、八島ヶ池に戻った。13:00を過ぎていたので、八島ビジターセンター隣の土産店を兼ねた食堂で信州そばを食べた。60分の早足歩きで空腹だったので、おいしかった。
食後、車山高原を目指す。 
 (2023.10)

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2022.10長野 杖突峠・立石公園・高島城を歩く

2023年07月24日 | 旅行
日本を歩く>  2022.10 長野 杖突峠・立石公園・高島城

 2022年10月中旬に歩いた栃木県小田代原、竜頭の滝、戦場ヶ原は紅葉も相まってとても良かった。柳の下に泥鰌(どじょう)はいるか、下旬に長野県美ヶ原高原、車山高原ハイキングを計画した。ところが山の天気は変わりやすく、紅葉も盛りを過ぎていて、泥鰌はいなかった。が、臨機応変に行程を変えながら対処し、長野の旅を楽しんだ。
 
 圏央道を走り、八王子JCTから中央道に入る。諏訪ICで下りて、国道125号線を南に走り、諏訪湖の南、通称杖突街道の杖突峠を目指す。
 杖突街道は、中世には軍用路として、近世には交易路として重視されたそうだ。
 峠の標高は1247mで、茅野側は断崖のような急坂のため杖を突きながら上ったので杖突峠と名づけられた、峠で行われていた神降ろしの儀式で降りてきた神が杖を突いたなどの説がある。
 急なヘアピンカーブを何度か上ると空が開け、杖突峠に出る。崖際に2階建ての「信州杖突峠 峠の茶屋」が建っている(写真)。展望室、多目的ホール、蕎麦処・風聲庵、喫茶・風の詩などがあった。見晴らしのいい喫茶・風の詩に入った。
 北向き窓のカウンター席に座り、茅野市街、諏訪市街、諏訪湖、山並みを望む(前頁写真)。兵の動き、船の動きが手に取るように分かるから、杖突峠が重要な軍略拠点だったことは想像しやすい。
 コーヒーを飲みながら山並みを遠望する。カウンターに山の名前の入った山並み図が置いてある。図の左に美ヶ原2054m、中ほどに車山1925mと書かれている。明日は美ヶ原と車山をハイキングし、車山中腹のホテルに宿泊の予定である。似たような山の形を見ながら勝手にあの山だと合点し、コーヒーを飲み終える。


 杖突街道を下り、茅野市街を抜け、諏訪湖北東の立石公園に向かう。
 公園の標高は934mで、アルプスを背景にして諏訪湖を望むことができることから「信州ふるさとの見える丘」に選定されている(写真)。人気のスポットのようで、20数台の駐車場はほぼ満車だった。
 低い側に芝生の展望テラス、高い側に展望台と時計塔が設けられていて、地元の人々の憩いの場になっていた。
 とりわけ夕陽が素晴らしいそうで、夏は右手の北アルプスに、春秋は中ほどのアルプスに、冬は左手の南アルプスに日が沈み、日沈直後に諏訪湖が赤く染まるそうだ(写真web転載)。
 夕陽の神々しさに触れた先人が山体を神と崇め、諏訪大社を建立し、御柱の儀式を行うようになったのも想像に難くない。


 立石公園から諏訪湖岸に下る。今日の宿は諏訪湖に面し、眺望のいい部屋を予約しておいた。チェックインし、夕陽にはまだ早いので高島城跡を開放した高島公園まで歩く。
 宿から高島城まで東に600mほどだが、かつては城まで諏訪湖が迫っていて、「諏訪の浮城」と呼ばれたそうだ。防衛や舟運の利のため、諏訪湖岸に築城したのであろう。
 諏訪領主諏訪頼忠は、1590年の徳川家康江戸転封に従い関東に移る。豊臣秀吉は家臣日根野を諏訪領主とする。日根野は築城の名手で、諏訪湖岸に縄張りし、1592年に着工し、1598年に高島城が完成する。
 関ヶ原の戦いで東軍に属した諏訪秀忠の子・頼水は、1601年、家康から諏訪領主とされ、諏訪家は明治維新まで高島城主になった。
 1871年、廃藩置県により高島城は廃城になる。天守などが撤去され、1876年、本丸跡がいまに残る高島公園として開放された。
 1970年、諏訪市民の熱意で天守(写真、北側の眺め)、冠木門角櫓などが復元された。
 本丸の石垣、内堀の一部が残されているので、復元された天守、角櫓から往時の高島城を偲ぶことができる。


 本丸西側は道路が整備され石垣、内堀は残っていないが、三之丸から移築された川渡門が建っている。簡潔な作りの薬医門形式で、この門から本丸に入った。
 入場料310円で天守を上る。鉄筋コンクリート造3階で、内部は資料館になっている。3階展望室から、現代的な建物の先に諏訪湖が遠望できる。かつては城まで湖水が迫っていて、外堀、内堀に湖水が引き込まれたようだ。
 展示資料の一つに、葛飾北斎画「信州諏訪湖水氷渡」の複製があった。凍った諏訪湖を歩く人馬が描かれている。歌川広重なども諏訪湖を題材に浮世絵を残しているそうだ。諏訪は江戸庶民にとって観光名所だったようだ。
 公園に整備された本丸を一周する。子どもたちが鬼ごっこをしていた。天守や石垣を見ながら遊び回る子どもから、将来、城博士が誕生するかも知れない。
 北側の復元された冠木門を出て、堀に架かった冠木橋を渡る(前頁写真、本丸からの眺め、冠木門の先に冠木橋が見える)。名前は冠木門だが2階に櫓を乗せた櫓門形式である。門柱に屋根を乗せた冠木門だとすると本丸にふさわしくない。もともとは櫓門形式で、幕府に遠慮し冠木門と名づけたのだろうか。
 内堀を出て本丸の東外れまで歩き、復元された角櫓、野面積みの石垣、堀を眺める(写真)。
 石垣右奥が天守になるが、天守と角櫓を写真に入れようとすると信号、電柱、電線が目障りになる。インスタの時代、撮影スポットの配慮を期待する。
 つわものどもの夢の跡を偲び、宿に戻る。
 
 宿の展望露天温泉に浸り諏訪湖を眺める。山が雲に隠れ、薄赤紫色の雲を写して湖面が淡い赤紫色に揺れる。これもなかなかの風景である。
 宿には展望露天温泉のほかに、地酒の湯、黒曜の湯、温石の湯、ゼロ磁場の湯、薬草風呂などが設けられていた。それぞれ試したが、眺めのいい露天温泉が私好みである。地酒の湯は、できれば地酒を味わえるとグーである。
 料理長自慢の夕食をいただきながら、地酒飲み比べセットを味わった。今日も新しい体験、知見を得た。
  (2023.7)


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2022.10 栃木 光徳沼・戦場ヶ原を歩く

2023年07月19日 | 旅行
日本を歩く>  2022.10 栃木 光徳沼・戦場ヶ原を歩く


 中禅寺湖畔でランチを取ったあと、国道120号線=日本ロマンティック街道をもう一度西に走り、菖蒲ヶ浜あたりで道なりに北に向かう。
 赤沼駐車場も三本松駐車場も満車だったので戦場ヶ原散策は明日にして、光徳入口バス停あたりで右折し光徳園地を目指す。
 三岳(標高1945m)、山王烏帽子岳(標高2077m)の南麓、標高1420前後に、明治30年1897年ごろ光徳牧場が開設された。牛、馬が放牧され、冬はクロスカントリースキー場として、夏はキャンプ場として賑わったらしい。
 いまは放牧はしていないが、およそ3万㎡の光徳園地が整備されている。駐車場にキャンピングカーが数台止まっていて、野鳥観察の大型カメラを樹木の茂みに向けたグループがいた。案内板にはヒガラ、アカゲラ、エナガ、カケス、キセキレイ、ホトドキスなどが紹介されている。キャンプしながらの野鳥観察のようだ。


 園内には遊歩道が整備されていたので一周したが、物足りない。案内図に光徳沼・徒歩15分が図示されていたので歩いた。
 途中に木柵で囲まれた牧草地?が広がっていた(写真)。かつて放牧に利用されていたのだろうか。いまは牛も馬も人も建物もない。
 15分ほど歩くと、小川に出た(写真)。「栃木の景勝百選・光徳沼とその周辺」の看板が立っている。
 三岳(標高1945m)を源流として湯川に合流する逆川(=光徳川)の一部が水深1m、周囲300mほどの沼になっていて、光徳沼と呼ばれているらしい。眺めている景観のどこかに沼があるのだろうと思って川縁を少し歩いたが、沼は分からなかった。風景に同化しているのかも知れない。
 誰もいない。さえずりも聞こえない。静かな風景を眺めながら来た道を戻る。


 案内板に、光徳園地から三岳と山王烏帽子岳のあいだの山王峠を越え、涸沼、刈込湖を経て湯元に抜ける山道が図示されている。山王峠あたりまでは車で行けそうなので、山王峠を目指す。
 湯元光徳線歩道の案内板が立っていて、横に山王峠0.3kmの道しるべがあった。ここに車を止め、山王峠を目指す。空は開けていて明るい。クマザサが生い茂る山道を上ると、山王峠・湯元5.6km・光徳2.1kmの道しるべに出た。
 山王峠から遠望する(写真)。山並みは三岳などの日光連山であろう。ここでも誰にも会わない。人のいない峠に茶店はもちろんカフェはない。時間は少し早いが国道120号線=日本ロマンティック街道を下り、中禅寺湖畔の宿に向かった。


 今日の宿は乳白色の硫黄泉だった。日光の温泉は勝道上人の発見とされる。勝道上人に感謝しながら湯につかる。中禅寺湖対岸に半月山が見える。今日の歩きは半月レベルだったと思いながら足をよくもみほぐす。
 食事は日光特産八潮鱒のタタキに始まり、豆乳のロワイヤルスープやブイヤベース風信濃蒸しなどが続き、目の前でサーロインステーキを焼いてくれたり、湯葉をつかったデザートが出たり、創意が見られた。赤ワインをあわせ、美味しくいただいた。


 翌朝9:00ごろ宿を出て戦場ヶ原を目指し、国道120号線=日本ロマンティック街道をもう一度上る。すでに赤沼駐車場は満車だったので、9:15ごろ三本松駐車場に車を止める。戦場ヶ原散策路入口は赤沼駐車場近くと光徳バス停近くにあり、三本松駐車場は中ほどに位置する。赤沼駐車場より三本松駐車場が大きく、それぞれトイレ、土産店、軽食店があるが、光徳バス停はバス停だけである。国道120号線に沿った歩道を赤沼出発点まで10分ほど歩く。
 9:30過ぎ、色づいた木々を眺めながら赤沼出発点を歩き始める(写真)。昨日はまだぬかるみがところどころ残っていたが、今日は乾いていて歩きやすい。5分ほどで赤沼分岐点に着く。小田代原は湯川に架かった赤沼橋を渡り西に進んだが、戦場ヶ原は赤沼分岐点から湯川に沿った北西の散策路=木道を進む。木道以外は立入禁止である。
 じきに、東に戦場ヶ原が開け、標高2486mの男体山が勇姿を見せる(写真)。
 伝承では、大蛇に変身した男体山の二荒神と大百足に変身した赤城山の赤城神がこの湿原で戦ったことから戦場ヶ原と呼ばれたそうだ。大蛇=二荒神の放った矢が命中して大百足=赤城神が倒れ、流れ出た血が赤沼になったとも伝えられている。
 男体山は活火山で、噴火により円錐形の形になった。整った山体は見飽きない。戦場ヶ原の燃えるような草むらと男体山の緑褐色の対比もいい。
 男体山から噴出された巨岩、岩石、土砂で湯川が堰き止められ、湯の湖、戦場ヶ原(その後の堆積で湿原化)、中禅寺湖の堰止め湖になり、湯滝、竜頭の滝、華厳滝が造られたのだから、自然の力に改めて驚かされる。


 男体山+戦場ヶ原を背景に写真を撮る展望デッキが設けてある。遠足の子どもたちがグループに分かれ、引率のガイドに男体山の成り立ちなどの説明を受けていて、交互に男体山+戦場ヶ原を背景に記念写真を撮っていた。
 子どもたちのグループと抜きつ抜かれつしながら、2022年5月は木道改修で立入禁止だった場所に来た。改修の終わった木道を歩く。「小さな老木」の解説があった。戦場ヶ原にカラマツが植林されたが、水分が多く酸性で、土壌は養分が少ないため成長できず、伸びないまま老木になったそうだ。
 「谷地坊主」の解説もあった。オオアゼスゲなどのスゲ類が株をつくり、ぼこぼこと丸くまとまって盛り上がり、坊主頭を連想させて名づけられたらしい。2022年5月にも「ワタスゲ」「赤い川」の解説を読んだ。木道を歩きながら豆知識を読むと、散策に弾みがつく。


 赤沼出発点から50分ほど、10:20ごろ湯川に架かる木造の青木橋を渡る(写真)。湯川の流れは穏やかで、澄んだ水に水草が揺らめいている。魚も居そうだが見つからなかった。
 木道は坂を上る(次頁写真)。このあたりは小高くなっているようだ。常緑の木、黄色みの葉をつけた木、橙色の葉をまとった木、鮮やかな緋色の葉の木が混ざり合って、色を競っている。
 軽い上り下り、右に左にと林を歩く。「ミズナラ林はクマのレストラン」の解説があった。秋にツキノワグマの食べ物であるドングリがなるので、ミズナラ林はクマのレストランということなのであろう。まさに時候は秋である。熊には出会いたくはないので、熊除けに下げたカウベルをせっせと鳴らし急ぎ足歩く。


 10:40過ぎに泉門池(いずみやどいけ)に着く。読みにくい名前だが由来などの解説は見落としたようだ。斜面にはベンチが置かれ、休憩スペースになっていて、遠足の子どもたちが大はしゃぎしている(写真)。
 斜面を少し下ると池まで近づくことができる(写真)。マガモは冬の渡り鳥だが、奥日光に住み着いて繁殖したマガモがいるそうだ。色とりどりの紅葉を背景に、泳いでいるマガモをスマホに収めているハイカーもいる。場所を変えれば男体山も写真に収められる。


 一休みしてから小田代橋を目指す。木道は緩やかな起伏があり、ついつい足下に目が向くが、見上げるとときおり日射しを受けて黄や赤の葉がきらきら輝き、足が止まる。
 湯川のせせらぎが聞こえる。透明度が高く、川床が見える。
 10:50ごろ、小田代橋を渡る(写真)。木造で、手すりはない。
 「カワマス」の解説があった。湯川上流はカワマス産卵場所に適していて、10月下旬から11月中旬にカワマスの産卵を観察できるらしい。小田代橋からのぞき込んだがカワマスは見えなかった。秘すれば花、凡人は先入観念で見つけようとするので見つからないのかも知れない。


 小田代橋から国道120号線出でるまではおよろ20分の行程だが、すでに80分も歩いていて、けっこう足が重い。
 ススキで埋め尽くされた木道をひたすら歩く。背の高いススキが多い。夕陽が当たれば黄金色の絨毯の彼方の褐色の男体山、といった構図になりそうだ(写真)。
 「湿原のバードウォッチング」の解説に、ノビタキ、オオジシギ、ホオアカ、アオジが紹介されていたが、鳴き声は聞こえなかった。足の疲れで耳が遠かったかも知れない。
 
 湿原の木道を終え、湿地を歩き、11:10ごろ、国道120号線に出た。三本松駐車場までもう一踏ん張りである。重く感じる足に気合いを入れて、11:25ごろ、車に戻った。車を止めたのが9:15だから、のべ130分の行程になった。
 季候が良く、眺めが素晴らしく、適度に風景の変化があったので、のべ130分を歩き通すことができた。心身の刺激を受け、帰路につく。
  (2023.7)

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「津軽双花」斜め読み

2023年07月14日 | 斜読
斜読・日本の作家一覧>  book554 津軽双花 葉室麟 講談社文庫 2019


 
津軽半島の旅を計画し、津軽をキーワードに検索して「津軽双花」を見つけた。
 葉室麟氏(1951-2017)の本は初めてである。50歳から本格的に作家活動を始めた歴史小説の名手、などの評価がある。
 表題の津軽双花の津軽は陸奥国弘前藩=通称津軽藩を指す。双花とは2代藩主津軽信枚(のぶひら、1586-1631)の2人の正室辰姫満天姫を意味する。
 辰姫(1592-1623)は石田三成の3女で、7歳のとき、高台院(豊臣秀吉の正室北政所)が養女にし、関ヶ原の戦い後の1610年に津軽家との縁組みが整い津軽信枚の正室になる。
 満天姫(まてひめ、1589-1623)は徳川家(1543-1616)が養女とし、1613年、家康の命で信枚に嫁ぎ、満天姫が正室に、辰姫が側室になる。家康の養女と三成の娘の対立と見れば「女人の関ヶ原」を感じさせるが、葉室氏の本意は別にある。


 津軽地方の領主だった初代津軽為信(1550-1607)は1590年の小田原征伐に参戦して活躍し、豊臣秀吉から弘前藩=津軽藩の領有を認められる。1600年の関ヶ原の戦いで津軽為信は東軍で活躍し、徳川家康から上野国大館領(現群馬県太田市の一部)を加増される。
 為信の長男信建が病没し、為信が没したあと信建の遺児熊千代は8歳だったので次男信枚が津軽家2代を継ごうとすると、熊千代を擁立する家臣団が江戸幕府老中・本多正信に熊千代相続を訴えた。津軽騒動と呼ばれる。津軽藩取り潰しも取りざたされたが、信枚が幕府に臣従を示し、信枚が2代藩主として決着する。・・熊千代の遺恨が伏線となる。後段の満天姫の決意が葉室氏の狙いか・・。
 
 家康は豊臣との決戦を決めていて、仙台藩伊達政宗の動きを牽制するために津軽信枚に養女満天姫を嫁がせる。政略結婚で津軽家との結束を固める狙いが読める。
 信枚は家康の意向を理解して満天姫を迎えつつも、辰姫への思いは深く、辰姫を大館に住まわせ参勤交代の折々に大館に滞在したので辰姫は大館御前と呼ばれた。
 さかのぼって、辰姫は、津軽藩江戸屋敷での信枚との祝言の席で、幼いときに別れた兄石田重成に会う。石田重成は杉山源吾と名を変え、津軽信枚に仕えていた・・信枚は源吾が三成の子であることを知っていて召し抱えたようだ。中段で、石田重成は豊臣秀頼の小姓だったことも記される。妹辰姫が高台院の養女、兄重成が秀頼の小姓となれば、津軽家と三成、豊臣の結びつきも揺るぎなさそうだ・・。
 
 満天姫は、家康の異父弟である下総国関宿藩松平康元の娘である。康元は、家康の母於大の方が松平広忠から政略的に離縁されたあと、久松俊勝に嫁して生まれた。家康は於大の方への孝心が厚く、康元に松平姓を与えた・・康元は家康の異母弟になり、家康と満天姫は伯父・姪になる・・。
 満天姫は11歳のとき、広島藩福島正則の養嗣子正之(政則の姉の子)に嫁し、満天姫18歳のとき直秀が生まれる。ところが正則に忠勝が生まれたため正之は廃嫡となり、その後亡くなる(殺された?)。満天姫は、正之が廃嫡されると直秀とともに実家に戻っていた。
 満天姫は政略で津軽信枚に嫁せられるのを拒もうと、家康お気に入りの「関ヶ原合戦図屏風」を嫁入り道具に所望する・・政略で嫁せられ、廃嫡され、またも嫁せられる。満天姫は強い心をもつようになったようだ・・。


 余談。「津軽双花」では関ヶ原合戦図屏風を八曲二双=四隻32扇と紹介している。webで調べると、津軽版八曲一双が大阪歴史博物館に所蔵され、国の重要文化財に指定されていることが分かった(イメージ図は不明、もう一つの八曲一双の所在も不明)。
 補足。屏風は偶数枚に折れ曲がっている。二つ折りは二曲、四つ折りは四曲、六つ折りは六曲と呼ぶ。関ヶ原合戦図屏風は八曲なので八つ折りの屏風である。
 屏風のパネルは扇と数える。二つ折り=二曲はパネルが2枚なので2扇、四つ折り=四曲はパネルが4枚なので4扇と数える。関ヶ原合戦図屏風は八曲=八つ折りなので8枚=8扇の屏風になる。
 一続きになった屏風を隻と呼ぶ。一続きの屏風が2つ対に並んだ二隻の屏風を一双と呼ぶ。関ヶ原合戦図屏風は八曲二双なので、八曲の屏風が2つの対=二双=四隻で構成されていることになる。
 パネル総数は八曲=8扇×四隻=32扇になる。東軍、西軍の主だった武将、陣営、激戦が網羅されているようだ。
 家康がお気に入りの「関ヶ原合戦図」を養女満天姫の嫁入りに持たせるのは、いかに津軽藩の役割が大きいか、つまり仙台藩伊達政宗の動きがいかに気になるか、さらに豊臣家との最後の決着が間近に迫っているかを物語る。


 物語は、1613年、江戸城大広間で、家康が養女満天姫25歳に「関ヶ原合戦図屏風」を与え、津軽へ輿入れをうながすところから始まる。満天姫は、家康と三成の対決のように先の正室辰姫と対決するのではなく、満天姫が津軽家に嫁ぐことで家康と津軽のつながりが盤石になり、豊臣との戦を早く終結させることができ、その結果、泰平の世が開く、と得心する。
 満天姫は嫁ぐ前に辰姫を知りたいと、大館を訪ねる。辰姫は満天姫を「正しきことを正しいと見ることのできるひと」と感じる。満天姫は辰姫を「与えられた宿命の中で自らをまっとうしようとする」と感じ、自分は「自分を動かす運命に逆らい、挑んで生きたい」と思う。互いを認めつつも、火花が散る場面である。2人の会話のかけひきは葉室氏の筆裁きの妙である。


 1613年、満天姫は8歳の直秀をともない津軽藩江戸屋敷津軽信枚に輿入れする。その夜、満天姫が信枚に大館御前を召し離すよう頼むと、信枚はあの者とともに生きると約束した、一度口にしたことは変えぬと応える。満天姫は、妻としては悲しいが、一度約したことを違えぬと言われるのはまことに頼もしいと思う。


 1614年10月、家康は大坂城攻めのため二条城に入る。信枚は大坂に参陣しようとすると、老中本多正信は、信枚は津軽に戻り北方の鎮守をせよと命じる。信枚は本多正信に杉山源吾を大御所家康の使い番にと願い出て、正信は使い番を承知する。
 杉山源吾が二条城で家康に拝謁すると、家康も源吾が三成の遺児であることを知っていて、三成は主君である太閤を裏切らなかった、高台院は三成を大事に思えばこそ辰姫を養女として津軽家に嫁した、と話す。


 高台院を訪ねた源吾に、高台院は、石田三成は家康を倒し豊臣を守ろうと自らを犠牲にした、淀殿は高齢の家康を冬の戦場に留めていのちを削ろうと考えたに違いなく、それを察した家康は講和をまとめ暖かな駿府に戻った、淀殿が講和を受けたのは帝の勅命が出され、帝への忠誠が豊臣家の義なので、死を覚悟して講和を受けた、と話す。
 1615年、大坂城が炎上、秀頼、淀殿は自害する。源吾の報告を聞いた高台院は、辰姫に、三成の娘としての誇りを持て、家康の養女に力で負けても心では後れをとるな、と伝えさせる。 
 家康、1616年に没す。


 秀頼の正室千姫(1597-1666、徳川秀忠の娘)は大坂城から救出され、1616年、姫路城主本多忠政の長子忠刻と再婚する。秀頼には側室伊茶とのあいだに国松と娘がいて、伊茶は秀頼とともに自害、国松は斬首となったが、娘は千姫の養女となり、剃髪して鎌倉東慶寺に入り、天秀尼と称していた。
 辰姫は高台院の養女であり、高台院=北政所は秀吉の正室であり、秀頼は秀吉の嫡男、天秀尼は秀頼の娘なので、辰姫は天秀尼の伯母になる。辰姫は天秀尼を慰めに尼寺の東慶寺を訪ねる。
 天涯孤独の天秀尼に、辰姫は、高台院の言葉である「力では負けても心では後れを取るまい」を伝える。
 20年後、天秀尼は養母の千姫を通して徳川3代家光に訴え、東慶寺を縁切り寺とした話が挿入される。


 辰姫=大館御所が懐妊する。正室である満天姫は平静を装いつつも心が乱れる。満天姫の侍女蔦も満天姫の不安を察していた。
 信枚の兄信建の子である大熊19歳=幼名熊千代は藩主の座を追われた恨みを晴らしたいと思っていて、満天姫の不安を察知して蔦を罠にはめ、辰姫・子どもを殺めようと大館陣屋に刺客を放す。刺客は源吾が斬り倒し、大熊の仕業が露見する。
 1619年、警戒を厳重にした大館陣屋で、辰姫は男児平蔵を出産する。江戸から駆けつけた信枚は、世継ぎが生まれた、三成の血を引く子だと喜ぶ。
 信枚が江戸に戻ったあと、大館陣屋に火矢が打ち込まれ、5人の刺客が襲ってくる。源吾と警備の藩士が火を消し、刺客を倒す。


 大館陣屋を襲った刺客の1人が満天姫を口にしたので、源吾は江戸屋敷に満天姫を訪ねる。満天姫は蔦が罠にはめられたがすべては私のこころの不安、油断のせい、私が決着をつけねばなるまいと語り、源吾を供に大熊の屋敷に乗り込む。
 満天姫は大熊に、主人たる者おのれの心を常に正しておかねば家臣に道を誤らせる、大熊殿は当主になっておられた血筋、おのれの心を正し、争いが起きぬようにせねばならない、と迫り、大熊に髪を下ろして仏門に入るよう説く。大熊は満天姫に悟らされ、髪を下ろす。満天姫と大熊のかけひきもテンポがいい。葉室氏の筆裁きの妙である・・。


 老中本多正純も父本多正信に似て怜悧、幕府の期待も大きかったが出過ぎたようだ。正純は、広島藩福島正則を罠にはめ公儀の咎めで津軽へ移封させ、津軽家は信濃・川中島十万石に移そうとする。
 信枚から川中島移封を聞いた満天姫が動く。気短な福島正則は幕府の移封策に憤り、謀反を起こすに違いなく、謀反を起こせば天下の平安が乱れる。謀反を諦めさせられることができるのは高台院しかいない。高台院に気持ちが通じるのは養女の辰姫である。満天姫は辰姫に、徳川も石田も天下を静謐にし民を安寧ならしめるために戦った、平安な天下を守るために高台院から福島正則あてに徳川、石田の真意を説いて欲しいと話す。
 辰姫の書状を源吾が携え、隠密の襲撃を躱し、京都の高台院に届ける。福島正則は、満天姫、辰姫の思いを伝えた書状を読み、広島城を明け渡して川中島に移り、隠居する。
 権勢を振るった本多正純は、宇都宮釣り天井事件で所領没収、横手配流となる。


 1623年、辰姫32歳が労咳で没す。満天姫はすでに側室の生んだ万吉(=信英)を江戸屋敷に引き取り育てていたが、辰姫の生んだ平蔵(=信義)も江戸屋敷に引き取り、津軽家嫡男として育てる。
 1631年、信枚46歳が病死し、信義が津軽家を継ぐ。満天姫は髪を下ろし葉縦院と号す。
 満天姫と福島正之との子である直秀は大道寺直英の婿養子になっていた。直秀が浮かぬ気分なので葉縦院が問うと、津軽家家中に三成の血を引く信義に不満を持つ者が御家騒動を企てて津軽家を取り潰しに仕向け、福島家の血を引く直秀を押し立てて福島家の再興を願い出て、津軽家の所領をそのまま受けようと謀る者がいる、と告白する。
 黒幕は大道寺直英らしい。直秀は、母、大館御前の生き方に見ならい、自分の一身をもって義父直英の謀を防ぐのが武士の本分、母が誇れる子でありたいと言い切る。のち、直英が急死、直秀は毒を飲み没す。
 葉縦院は直秀を誇りにしながら、1638年、弘前で生涯を終える。


 津軽の双花、満天院と辰姫が政略のもとでも振り回されずに、自ら信じるもののために生き抜く物語だった。虚々実々、権謀術数、魑魅魍魎の政略も現代に通じ、だからこそ2人の生き方を現代人も大いに見ならうべき、と思った。 
 「津軽双花」には、ほかに鳳凰記、孤狼なり、鷹 翔るの短編が収録されている。 葉室氏の歴史観は私が学んだ歴史観とずれるので短編は読まなかった。 
 (2023.7)
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