yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

堀田氏著「バルセーナにて」はシチリアの志願兵がスペイン内戦に参戦する話、歴史と向き合う

2017年06月30日 | 斜読

book443 バルセローナにて 堀田善衛 集英社文庫 1994
 タイトルに引かれて読んだ。堀田善衛氏(1918-1998)の本は初めてだが、インターネットで調べると、多彩な作品を書いていて、芥川賞や和辻哲郎文化賞などの受賞も数多く、海外でも高く評価されていることが分かった。海外体験も多く、代表作の一つとされる1977年の「ゴヤ」のあと、スペインに滞在し、日本とスペインを行き来していて、スペインを舞台にした本も多数ある。「バルセローナにて」は1989年出版だから、70才前後の体験が下敷きになっているようだ。
 この本には「アンドリン村にて」「グラナダにて」「バルセローナにて」が収められている。タイトルから、カタルーニャの気風、あるいはサグラダ・ファミリアや旧市街の街並みのデザイン、もしくはバルセロナの印象を軽妙なタッチで描いている本だろうと想像した。
 しかし、「アンドリン村にて」を読み始めて、日々の暮らしや現地の人との会話から、社会を木にたとえるなら地上の枝振りを見るよりも根っこと木の育ち方を左右する土壌を描写しようとしていることに気づいた。アンドリン村では土地柄の説明があり、グラナダもアンダルシアの風景の感動に触れているが、バルセロナに至っては土地柄や気質にはまったく触れず、どれも現地の人との会話を下敷きにしている。
 それでも読み通したのは、筆者の読み手を話さない筆裁きのうまさで感情移入したせいである。

 「アンドリン村にて」に登場する一人はハンガリー生まれのユダヤ人である。ヒトラーが政権を握ったためスイスに逃れ写真家になり、パリに移ってジャン・コクトォに目をかけてもらったが、ドイツ軍に占領されたので南フランスに逃げたそうだ。この間、パリ警察発行の無国籍証明書で過ごし、他人のパスポートでタンジールに渡り、いまはスペイン国籍を取得して、アンドリン村で余生を過ごしている。この老人は行き先々の必要から、スペイン語、ポルトガル語、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ハンガリー語、ギリシャ語、ロシア語、アラビア語を覚えたそうだ。確かに、人は国籍を示すパスポートがあるからといって生きられるわけではない。それぞれの土地で生きるには、敵ではないことを伝え、食べ物を手に入れるために言葉が分からなければならない。そもそも国によって仕分けされるから争いが起こり、殺しあいになる。国の仕分けがなければ、もっと仲良く暮らし合うことができそうだ。

 「グラナダにて」ではイスラム最後の砦グラナダを奪還したカトリック両王のイサベル女王とフェルナンド王、次女のフアナ、フアナの夫、ハプスブルク家のフィリップ、その子どものカルロス=カールが登場する。フアナやハプスブルク家の本は何冊か読んだし、スペイン訪問のとき関連して資料にも目を通しているから、フアナが狂女と呼ばれたことは理解していた、つもりだった。しかし、堀田氏はかなり詳しく資料を読み込んでいるようで、微に入り細に入りフアナについて説いている。フアナが生まれたのはレコンキスタの終盤であり、カトリック両王は各地を転戦していて流浪の生活だったらしい。一方、フィリップは権勢を誇ったハプスブルク家の血筋で、華やかな宮廷生活を送り、フアナと結婚したあとも放蕩無頼、遊びほうけ、女遊びのし放題だった。フアナの精神に異常が起きるのも当然であろう。フアナがカステーリャ女王になるやフィリップは王位を狙ってスペインに乗り込んでくる、といった裏事情が明かされていく。だからグラナダの描写はほとんどない。

 「バルセローナにて」では左足が義足の老人が登場する。老人はシチリア生まれで、祖父も父も近くの塩田労働者だったが厳しい反射のため網膜剥離になり失明してしまったため、失明を避けようとムッソリーニが志願兵を募集していた軍に入り、マラガに上陸したそうだ。フランコ指揮下のモロッコ兵が第1軍、この老人がいたイタリア軍やドイツ軍は第2軍、スペイン陸軍は第3軍と呼ばれ、共産党と無政府主義者と戦った。かなり悲惨な殺しあいを体験したらしい。ついには手投げ弾で左足を失い、内戦終了後シチリアに戻るも生きる希望も失って旅に出たところ、生きる希望が帰ってきたそうだ。このころのスペインの混乱は、「幻の祭典(book424)」や「ゲルニカに死す(book430)」と重なりあい、気分が重くなる。しかし、それが現実であり、大勢が主義のため命を落とした事実を避けてはいけない、と堀田氏は訴えかけてくる。
 観光では見えてこない歴史の真実も私たちは受け入れなければならない、と思う。観光を重視した本とあわせ読むことをお勧めしたい。

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1997スリランカ⑤コロンボは植民時代の都市構造+モスク+ヒンドゥー寺院が文化の交錯を伝える

2017年06月29日 | 旅行

 始めてスリランカを訪ねてから20年も経った。20年前の紀行文を読んで当時の様子がまざまざと思い出された。7月2日からのスリランカツアーはおおむね同じコースだが、訪問先を絞って、それぞれゆったり+じっくり過ごす行程になっている。コーディネートのLさんが高齢者に配慮したのかも知れない。長文だが、1997スリランカ最終日分を再掲する。

1997「初めてのスリランカ見聞記」⑤ヌワラエリアからコロンボへ
                             
ヌワラエリア Nueara Eliya続き
 1997年8月9日早朝、ヌワラエリアはかなり冷える。息が白く、もやがかかっている。このもやが紅茶にはいいらしい。
 ヨーロッパ列強のアジア進出はポルトガルに始まる。ポルトガルはキリスト教布教を看板に、ヨーロッパから見れば初めての土地、種族を見つけては征服し、珍しい物資を本国とカソリックの総本山に送り届けた。
 スリランカではCinnamonシナモンが狙われた。日本では近種の肉桂ニッキが知られるが、いずれも香辛料であり、体を温め、発汗・発散を促し、胃を整える働きがある。
 8日のヌワラエリアに向かう途中のスパイスガーデンで一休みしたが、そこではシナモンも栽培されていた。ポルトガルに続くオランダは本格的な植民地経営を始めようとし、シナモンのほかにコーヒーや紅茶などのプランテーションを企画したようだ。
 オランダに代わってスリランカを支配したイギリスは、ヌワラエリア一帯の気候を利用した紅茶プランテーションに専念する。その当時はセイロンと呼ばれていたので、イギリスびいきの日本ではスリランカ原産・イギリス経由のセイロン紅茶が人気となった。
 学生のころ、丸の内のO建設会社設計部でアルバイトをしていた時期があった。朝から晩まで同じ姿勢でひたすら図面を書く仕事だから、運動量が少ない割に疲れる。3時の休憩などでは息抜きに近くの喫茶店に出かけることがあり、ときおり旧丸ビルの紅茶専門店に入った。店の名は忘れたが、本場イギリスの紅茶を注文し、気取ってジャムを入れて飲んだりした。いま思えば、それがここスリランカの紅茶だったのである。無知ほど恐ろしいことはない。
 グランドホテルの朝食ではコーヒーを注文した。コーヒープランテーションも健在で、味はいいが、スリランカの歴史を思うと、苦みを感じる。

 ヌワラエリアから南に10kmほど進むと、バンダーラウェラの町がある。ここも高原のさわやかな気候で、イギリスの避暑地として賑わったらしい。Bandarawela Hotelバンダーラウェラホテル(次頁写真)は、植民地時代のゲストハウスとして1893年に建てられた。道路側から見ると平屋に見えるが奥は低くなっていて、中庭を囲んだ2階建て、コロニアル様式のデザインである。屋根は赤瓦葺きで、入口には車寄せ部分のポーチporchに屋根がT字形につきだしている。スリランカではポーテポpotipoと呼んでいる。バンダーラウェラホテルでは紅茶を注文した。スリランカ人の飲む甘みのあるミルク紅茶とは違って、酸味がよくきいていた。

 山岳地帯には南西モンスーンも北西モンスーンも吹いてくるため、年間を通して雨があり、あちこちに渓谷が見られる。セナ君はその一つ、スリランカ人が涼を求めてピクニックに来るという渓谷に案内してくれた。大勢の人が水遊びをしながら楽しんでいた。我々もピクニック気分で弁当を広げる。
 コロンボはここから西におよそ120kmになる。ひたすら山道を下り、コロンボに着いたのは夜中であった。

コロンボ Colombo

 1997年8月10日スリランカ最終日。
 現在のスリランカの首都は、1948年に国会議事堂が移されたスリージャヤワルダナプラSri Jayawardenepura、略称コッテKotteである。コロンボからは西に10数kmの位置になる。コッテというのは、15世紀のコッテ王国にちなんでいるそうで、それまでは湖と草原だったところに新しく首都建設が進められた。しかし、首都の偉容はまだまだのようで、まだ閑散としている。実際にスリランカ経済の中心はコロンボで、都市の偉容も群を抜いている。
 コロンボはかつては小さな漁村だった。7世紀にアラブ商人たちが交易の場として使うようになってから栄え始めた。16世紀以降、ポルトガル、オランダがコロンボ港に砦を築き、その砦を中心に町並みが作られ、イギリス時代には砦+町並みを拡大整備して、スリランカ統治の拠点とした。そのため、独立後も現在に至るまで名実とともにスリランカの中心都市としてにぎわっている。
 ちなみに、シンハラ語でマンゴーのヤシの木が茂る海岸=コラ・アムバ・トタ?を聞いたポルトガル人がコロンブスの発音に近いので、コロンボとしたそうだが、真偽は分からない。

 コロンボの地図を広げ、海岸線をたどって、コロンボ・フォート駅または旧国会議事堂を探すと、その左手にFortフォートと書かれた地名が見つかる。ここが最初に砦がつくられたところである。確か、日本建築学会計画系論文集に植民都市コロンボの形成、変遷を調べた論文が掲載された記憶がある。フォートの右手、東側に運河をはさんでpettahペターが整備された。ここが民間人の町だったと思う。その後、フォート、ペターともに植民都市の中核として整備が進められた。そのためこの地区は格子状街区を基本とし、街区ごとに官庁や商店が整備されたそうだ。今回の訪問ではコロンボの見学は帰国日だったので、こうした町並みは、車の中から見るにとどまった。

ジャミ・ウル・アルファ・モスク Jami-Ul-Alfar Mosque
 ペター地区の北東はずれにジャミ・ウル・アルファ・モスクがある。アラブ商人が交易のためおおぜい居留し、なおかつインドが長くイスラムの勢力下にあったこともあり、コロンボにもイスラム寺院が少なくない。その一つ、この寺院は1908年に建てられている。赤・白の縞模様はマレーシアのイスラム建築に共通する。さらに、スペインのメスキータにも通じる表現であるが、このモスクは縞模様が細かく、らせんを描いたり、波をうったりと、躍動感が強調されている。構造はレンガ+石の組積と思われるが、内部の礼拝室は木柱が立ち、上を細めた構成や梁を支える肘木の透かし彫りなど、外観とは異なったデザインが採用されている。メッカを示すミヒラブは白大理石、床はイスラムでは聖なる色となる緑のタイルであった。スリランカ風イスラムデザインといえよう。
 敬意をこめて、ミヒラブに合掌。

ヒンドゥー寺院  Hindu Temple
 ペター地区の南東にヒンドゥー寺院がある。インドに隣り合わせであるから当然ながらヒンドゥー教の影響は大きい。しかも、植民時代に大勢のヒンドゥー教徒がスリランカに強制移住させられたので、ヒンドゥー教徒も多い。となれば、いたるところでヒンドゥー寺院を見つけることができる。なかでもひときわ威風をみせているのが、この寺院である。壁面の大勢の神々はなんと人間くさいことだろうか。
 ヒンドゥー教ではブラフマー(宇宙の創造を司る神)、ヴィシュヌ(宇宙の維持を司る神)、シヴァ(宇宙の寿命が尽きた時に世界の破壊を司る神)が三大神であるが、ときには化身し、また子神も多く、それらがたくましい生命観を表した躍動的な形で表現されるため、始めて見る者を圧倒する。壁面中央の神はほかに比べ大きく、よく見ると首にコブラ?を巻きつけていることから、このヒンドゥー教寺院の主神はシヴァ神のようである。シヴァ神の乗り物は牡牛(ブラフマーは水鳥、ヴィシュヌはガルーダに乗る)であり、実際、寺院の中では牛の象に水をかけて清めていた。ここでも敬意をこめて牛に合掌。

スリランカの民家
 今回のツアーでは、事前に民家を訪ねたい旨お願いをしておいたところ、クルネガラ、アヌラーダプラ、ラトーナプラ、そしてニゴンボで民家訪問が実現した。そのどれも大変な歓待だった。S君の人柄を感じることができた。
 スリランカの民家であるが、(その後の調査で原初的なスタイルに近い民家も見つけたが、それは極めて少ないようだ、写真は2002年撮影、比較的豊かな住まい)、木柱にレンガ積み、屋根は木造架構で瓦葺きの平屋が一般である。入口にはポーテポと呼ばれる屋根の突き出たポーチがつくられ、入るとサーラヤSalayaと呼ばれる広間になる。土足でもいいが、家人はポーチポで靴を脱ぎ、中は裸足になる。このサーラヤの奥にダイニングテーブルが置かれていることが多いが、食事を別室に分けている例もあった。部屋数を抑え、家人の団らんを重視する場合はサーラヤがリビングダイニングになるが、部屋数にゆとりがあり、客人との応対を大事にする場合は、サーラヤは応接的に使われ、家人は別室のダイニングルームを団らん室にするようだ。その場合、食事をする部屋はカーマカーマラヤKamaKamarayaと呼ばれる。おおむね一番奥がキッチンになる。キッチンはクッシーアと呼ばれる。jsクッシーアには通常のガスコンロとは別に薪のかまどが据えられる。ミルクティーはこのかまどでつくられる。クッシーアにかまどがない場合は、クッシーアを出た庭先にかまど小屋が設けられる。つまり、かまどは必需品のようである。サーラヤとクッシーアのあいだを適当に分けて寝室が配置される。多くは夫婦室、親夫婦室、子ども2-3室の例が多い。寝室はニダナカーマラヤNidanaKamarayaと呼ばれ、ベッドが使われる。印象としては、イギリスの影響を取り入れているもののコロニアルスタイルではなく、スリランカ独自のスタイルといえそうである。
 成田行きの飛行機は夜半に出発である。S君のお宅で夕食とライオン印のシンハラビールをご馳走になり、スリランカの旅を終えた。お世話になったシンハラの皆さんに感謝。アユボア~ン!いい旅になった。

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1997スリランカ④シンハラ王朝最後の都キャンディの仏歯寺で仏陀の歯に礼拝する

2017年06月28日 | 旅行

1997「初めてのスリランカ見聞記」 ④ダンブッラからキャンディ、そしてヌワラエリアへ

ダンブッラ Dambulla
 シギリヤから南に20kmほど、ポロンナルワからだと西に直線で40kmほどのところがダンブッラである。紀元前1世紀のころ、シンハラ王朝はアヌラーダプラを都としていたが、一時、タミル人の攻撃のためダンブッラに避難し、反撃の機会をうかがったことがある。タミル人を撃退し、アヌラーダプラに戻った王は、感謝のしるしにダンブッラに寺を寄進した。以来、仏教が盛んになり、自然の岩窟を利用して数多くの仏像が彫られた。
 もっとも大きい仏像は、長さ14mの涅槃像で、鮮やかに彩色されている。目はしっかりと見開いていて、涅槃の感じはないが、実際には石窟の中が暗く外の暑さに対し中は冷気が漂っているので、それなりに神秘的である。ちなみにダンブッラとは、湧き水の岩の意味だそうで、あちらこちらで水滴が落ちていて、それが冷気をつくっているようだ。石窟の壁や天井も極彩色で仕上げられていて、仏陀の生涯やスリランカの歴史が隙間なく描かれている。こうした石窟が岩壁に並んでいるが、写真禁止だったが、インターネット上には公開されている。
 ダンブッラを見学したあと、スパイスガーデンに立ち寄る。途中から激しい雨にあうが、スコールのようにじきにあがる。その後、バテッィク工場に寄り、キュンディに向かう。

キャンディ Kandy
 キャンディはコロンボから直線で東におよそ85km、アヌラーダプラからは南におよそ120kmの、標高300mほどの盆地に立地する。スリランカの山岳地帯であるヌワラエリアの北側に位置し、気候的にはドライゾーン側であるが、山岳地域なので、アヌラーダプラやポロンナルワよりも緑が豊かで、比べて涼しい感じである。
 かつてアヌラーダプラに都を構えたシンハラ王朝は、インド・タミル人の侵攻でポロンナルワに首都を移し、1474年にはキャンデイに遷都した。山岳地域が自然の要塞になったことが大きな理由であろう。しかし、16世紀に入ってヨーロッパ諸国の進出が相次いだ。そしてついに1815年、イギリスによってシンハラ王朝は2000年の歴史に幕をおろすことになる。この間、まずポルトガルが進出した。ポルトガルはシンハラ王朝から分離したコッテ王国を滅ぼし、シンハラ王朝と交易を行うが利権による対立が起こり、続いて進出したオランダとシンハラ王朝が連合してポルトガルを撃退する。オランダはキリスト教の布教と同時に仏教も保護したが、やがてシンハラ王朝と利権で対立し、イギリスと手を組んだシンハラ王朝に撃退される。そのイギリスは、王朝内の内紛に乗じてシンハラ王朝を滅ぼしたのである。以降、1948年の独立までイギリスによる統治が続くことになった。

仏歯寺 Dalada Maligawa
 19世紀に造られたキャンディ湖の畔にたたずむシンハラ王朝を象徴する寺院。仏陀の歯を祀っていることから仏歯寺の名がある。仏歯には雨をもたらす力があり、またシンハラ王朝の正当な継承者を表すとの言い伝えがあり、王朝が首都を移すたびに仏歯も移動し、その都度、仏歯を納める仏歯寺が建てられてきた。仏歯が最後に落ち着いたところがここキャンディになる。
 当初は2階建ての寺院が建てられ、その後増築され、さらに八角堂が建て増された。そのためか、大きい寺院の中に入れ子のような形で仏歯を収めた寺院が建てられているような構成である。主な柱は石柱だが、2階には木柱も併用されている。2階床を支える水平架構は石梁が圧倒するが、部分的に木梁で構成されているところもある。1階の裳階モコシ風の庇は石梁の架構の上に木造で架構されている。2階の屋根は木造架構のようである。つまり、石の構造と木の構造が併用されたつくり方である。アヌラーダプラやポロンナルワの遺跡ではレンガ造が主体であり、キャンディでもレンガ造は多いが、仏歯寺では石造+木造が圧倒する。しかも、石組みには精密な細工がなされ、鮮やかな彩色が施されている。石のもつ安定感と木造の繊細さを基調に巧みな造形がなされていて、シンハラ王朝の栄華が技術力や造形性を際だたせたであろうことが想像できる。 参拝は自由で、靴を入口で預け中に入ると、仏歯を治めた部屋が開扉されるから前の方に並べと案内された。大勢の人が並んでいるのに申し訳ないと思いながら、前に進むと、金色の布地に載せられた金色の容器が僧侶によって捧げられているのを見ることが出来た。釈迦の歯(の収められた箱)に頭を下げ、みんなと一緒に合掌する。

ペーラデニヤ大学 University of Peradeniya
 キャンディの南西7-8kmにペーラデニヤ大学がある。スリランカ最古で、レベルもスリランカ1だそうだ。案内人のS君が教授に会わせるというので、研究棟に向かったがあいにく不在であった。
ペーラデニヤ植物園 Peradeniya Botanical Garden
 植物園は総面積5.6平方キロというすべてを見切れない広さである。しかし、日本では目にすることのできない熱帯の植物が色とりどりに咲き誇っていて、広さを忘れ、次から次へと足が進む。突然、視界が広がりこんもりとした丘のような樹木が表れる。テレビのコマーシャルで紹介されているあのー木なんの木・・である。コマーシャルの木はハワイで撮影したと聞いたが、同種で、名前はジャワ・ビンロー、木の広さは1600㎡もあるそうだ。突然、雨が降り出した。遠くから見ているとジャワ・ビンローはこんもりとしているので雨宿りにいいかと思い走り込んだが、枝振りはさほどうっそうとしておらず、雨宿りはとても無理であったが、木の聖霊に包まれているような気分にはなる。

象の孤児院 Elephant's Orphanage
 キャンディから西に30kmほど進むと、ジャングルではぐれた子象やけがをした象を引き取り、保護している施設?がある。施設というより像園といった方がふさわしい。川も流れていて、像の水浴びも見られるし、時間を決めて、像に曲芸を仕込んでいる様子を公開してくれる。象に乗って園内を一回りできるというので乗せてもらった。象の毛は針金のような固さなのでそのままでは乗れないし、像が歩くと左右、前後に大きく揺れるので、箱状の座席がつけられていて、ここにしがみつくようにして座る。視点が高いし、象の足がゆっくりなので、王様になったような気分を味わえる。

ヌワラエリア Nueara Eliya
 ヌワラエリアはキャンディから南に40kmほど、コロンボからは直線で東におよそ100kmの山岳地帯のただ中にある。植民地時代に避暑地として整備されたため、イギリス風のホテルが建ち並び、スリランカとは趣の違った景観が展開する。この山岳地帯を境にモンスーンの向きが変わり、南側がウェットゾーン、北側がドライゾーンに分かれる。標高が高いためほどよい湿度があり、それが紅茶に適していたようで、イギリスは紅茶プランテーションを成功させた。そのため、周辺の山はほとんど紅茶畑として開墾されていて、見渡す限り段々畑が続く。かつてはインドの奴隷階級を大勢茶摘みに労働者として連れてきたらしい。植民地政策の負の遺産が紅茶のほろ苦さかも知れない。
 紅茶は品質で10段階に分類される。もっとも高級な茶は、BOPつまりBroken Orange Pecoeだそうだ。OP、FBOPはそれぞれ葉の長いピコー、若葉を含むピコーのことで、やはり高級茶である。スリランカ人が日常飲むのはダストと呼ばれるもっとも品質が劣った紅茶といわれたが、訪ねたお宅でいただく紅茶は味が濃く、実においしかった。スリランカ、あるいはイギリスの水はかなりの硬水で紅茶に適しているが、日本の水は軟水なのでどんなに高級な紅茶を使ってもあの味はでないとか。気になる方はスリランカでお試しを。
 我々はGrand Hotelグランドホテルを宿とした。イギリス植民地時代の建物であり、家具調度品を含め、当時の面影をうかがうことができる。サービスも食事もイギリス風だが、天井の高い部屋はかなり冷える。ヌワラエリアでは防寒対策が必要である。

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1997スリランカ③父王を殺し王位を奪った兄は難攻不落のシギリヤロックを宮殿とするが・・

2017年06月27日 | 旅行

 シギリヤロックは高さ195mの屹立した岩、ほぼ垂直の斜路を上ると宮殿跡が残る。岩に描かれた一種のフレスコ画の宮廷夫人は見事な彩色である、今回のスリランカツアーで4度目の対面になる。

1997「初めてのスリランカ見聞記」③クォードラングルからシギリヤへ

クォードラングル Quadrangle
 宮殿跡の北に、クォードラングルと呼ばれるかつての旧市街の中心部がある。ここにはかつて釈迦の歯を収めた仏歯寺があった。仏教を信仰するシンハラ王朝にあって釈迦の歯は王朝の象徴であり、都が移るたびに仏歯寺も移動するため、ポロンナルワからキャンディに遷都したとき仏歯寺もキャンディに移ったが、それまでのポロンナルワは仏教の中心として栄え、数多くの仏教施設が建てられた。
トゥーパラーマ Thuparama
 矩形平面で、基壇の上に建てられた石積みの仏堂。ほぼ中央に矩形の堂宇が緩やかな曲面の寄せ棟屋根を乗せて立ち上がっている。外周には仏像のレリーフが見られるが、かなり痛んでいる。中に入ると奥正面に仏像があり、入り口の上部の小さな開口から光が当たる仕掛けになっている。このようなつくり方をゲディゲGedige様式と言うらしい。
ワタダーゲ Vatadage
 円形で、基壇上に建つ煉瓦積みの仏堂。基壇外周には人間と獅子をモチーフにしたレリーフが並ぶ。四方に入り口があり、それぞれにムーンストーンと入り口から悪魔の進入を防ぐためのガードストーンがおかれている。この仏堂は、ポロンナルワに首都が移る以前の7世紀頃とされ、その当時、このあたりに町ができ、仏教が広く信仰されいたことをうかがわせる。レンガの壁が円形のため、仏僧たちは回りながら念仏を唱えたであろうし、その念仏は円形の壁に反射し、荘厳な雰囲気を作りだしたのではなかろうか。
サトゥマハル・プラサーダ Satmahal Prasada
 基壇の上に建つ7層の仏塔。7層目は崩れかかっている。こうした層をなす仏塔はスリランカでは珍しい。資料によれば、ポロンナルワが全盛期を迎えた12世紀ごろ、ポロンナルワが上座部仏教の聖地として広く知られ、タイやビルマからも仏僧が訪れていて、この塔はタイの建築家によるタイのスタイルを取り入れて建てられたそうだ。レンガ積みで、正面の各層には人物らしいレリーフが彫られているが破損していて判然としない。

ランコトゥ・ヴィハーラ Rankot Vihara
 クォードラングルから北に進むと、いくつかのダーガバが並ぶ。その一つがランコトゥ・ヴィハーラである。12世紀の建立で、高さ55m、直径55mの比較的大きなダーガバである。やや横長のお椀を伏せたような形で、安定感を感じさせる。ランコトゥは金の尖塔の意味だそうで、かつては頂部の塔は金で覆われていたらしい。
キリ・ヴィハーラKiri Vihara
 ランコトゥ・ヴィハーラのさらに北にキリ・ヴィハーラが建つ。ランコトゥ・ヴィハーラに比べ丸みがあり、躍動感を感じさせる。表面にはまだら状に漆喰が残っているが、かつては真っ白に仕上げられていて、キリ=ミルク色の名がついたそうだ。
ガル・ヴィハーラ Gal Vihara
 キリ・ヴィハーラをさらに北に進むとガル・ヴィハーラに至る。ここにはダーガバはみられないが、岩盤から彫りだした涅槃像、立像、座像の三体が並び、そのことでよく知られている。そもそもヴィハーラとは僧院、僧坊のことで、仏僧の修行の場を指す。ランコトゥ・ヴィハーラやキリ・ヴィハーラのようにダーガバ(仏塔)を修行の対象とする場合もあれば、仏像を修行の対象とする場合もある、ということなのであろう。あるいはその両者が設えられていたかもしれないが、ポロンナルワがヒンズー教を信仰する勢力によって廃都になり、その後700-800年も経過したのだから、壊れにくいものしか残らなかったとするのが順当であろう。
 ガル・ヴィハーラの像は岩盤を彫りだしただけあって、当初の形がよく保全されている。いずれも穏やかな顔つきで、とても石を彫ったとは思えない暖かさが感じられる。涅槃像は全長14mあり、枕には太陽をモチーフにした模様がデザインされている。立像は涅槃像のすぐ隣に立ち、腕を組んでいる。一説には釈迦の涅槃に悲しむ一番弟子のアーナンダであるとされるが、悟りを開いた釈迦であるとの説もある。座像は高さ4.6mで、瞑想にふける釈迦のようである。近くで、橙色の袈裟をまとった修行僧に会うことが出来る。なかには小学生くらいのあどけない顔で修行に励む子どももいる。どの宗教であるかは別にして、小さい頃から心を一点に向けて修行することは人をたくましくするのではないだろうか。経済とは違った豊かさが期待される。

シギリヤ Sigiriya
 高原に忽然と姿を現すシギリヤロックは高さおよそ195mの岩である。側面はほぼ垂直で、山登りの出来るような斜路はない。熱帯であるスリランカでは砂地さえも太陽を浴びて熱くなる。岩石となれば、焼けるような熱さになってくる。俗世界を忘れ、ひたすら仏に帰依しようとする者にはこうした厳しい環境がふさわしいようで、かつて仏僧の修行の場となっていたらしい。古今東西、修行者は信仰の如何を問わず厳しい環境を望む。
 5世紀後半、アヌラーダプラを統治していたダートゥセーナ王には平民出身の王女とのあいだに出来た長男と、王族出身の王女のあいだに出来た次男がいた。長男は、王族の血を引く次男が王位を継ぐのではないかと思いつめ、王を暗殺して王位を継いでしまう。そして、弟の復讐を恐れ、難攻不落と思えるこのシギリヤロックの上に宮殿を建設して、遷都する。そのため、シギリヤロックの最上部には、宮殿そのものは残っていないが、建物の基壇や貯水槽などの痕跡がいまに残されている。11年後、長男は、軍を整えた弟と戦いに敗れ命を絶ってしまう。弟は直ちに首都をアヌラーダプラに戻したため、シギリヤは忘れられてしまった。
 1875年、スリランカを植民地化していたイギリス人によって、シギリヤの岩肌に描かれていた見事な表現のフレスコ画が発見された。これがシギリヤレディとして世界に紹介されたのである。画法は、岩肌をカーボナイトを混ぜたターマイトンと呼ばれる粘土で塗り固め、次に石灰と砂を混ぜた粘土で中塗りをし、その上に野菜や花などを材料とした顔料を用い、蜜蜂の混じった石灰で仕上げるそうだ。かつては500人ぐらいが描かれていたらしいが、現在残っているのは18人である。
 いずれも、豊満な体で、穏やかな顔をし、体全体に動きがある。色彩もあでやかで、手にした花や果物も生き生きしている。頭には宝石をちりばめた飾りを乗せている。上半身が裸の女性が王族で、上半身に衣服をまとっている女性が付き人だそうだ。部分的に剥離がみられるが、当時の生活の様子や優れた絵画表現から文化の高さがうかがえる。

 シギリヤロックの頂上から見下ろすと、整然と区画された都市の遺構が足下に見える。貯水地も整備されていて、当時の土木技術がかなり高度であったことをもうかがわせる。いずれにしても、11年の狂気がつくりだした、都の残骸であることに間違いはない。

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1997スリランカ②古都ポロンナルワの宮殿跡はレンガ積み7階建ての技術力をしのばせる

2017年06月26日 | 旅行

1997「初めてのスリランカ見聞記」②  スリランカ3日目、アヌラーダプラからミヒンタレーを経てポロンナルワへ向かう。

ミヒンタレー Mihintale
 ミヒンタレーはアヌラーダプラから車で20-30分に位置し、スリランカで最初に仏教が伝えられたとされる聖地である。伝説では、紀元前247年、この地の山の神が鹿に変身し、アヌラーダプラの王デーワーナンピヤ・ティッサを導いて、仏教流布のためここに滞在していたインドの王アショーカの息子マヒンダと会わせ、王は問答の末、仏教に帰依したといわれる。この伝説から、人々は土着の神を信仰していたが、仏教の教えに帰依した、つまり、仏教がよりすぐれた教えであることが暗示される。またスリランカでは鹿を大事な生き物としてることもうかがえる。今回の訪問中にも鹿を何度か見かけた。均整のとれた体、親しみやすい大きさ、あどけなさを残す顔、落ち着いた動きで、いざというときの敏捷性、など、神が変身する器量を感じる。なお地名のミヒンタレーはマヒンダにちなんでつけられたそうだ。普段は静かな稲作農村だが、6~7月にかけての仏教伝来を祝う祭りポヤ・デーには、全国から何千人もの信者が集まる。

アムバスタレーダーガバ Ambastale Dagoba
 車を駐車場に止め、不揃いの階段を登る。両側にはプルメリアと呼ばれる白い花が咲いていて、階段のところどころに座っている物売りがプルメリアを束ねて売っている。Plumeriaは別名Temple treeとも呼ばれるそうで、確かに名前の通り、スリランカの各地でみられ、大塔や寺院、菩提樹などに人々はこの花を供えている。
 615の石段を登りきると、真っ白の大塔が現れる。ここで靴を脱ぎ、暑く焼けた砂を一歩一歩進む。足の裏のつぼが熱で刺激され神経が昂揚する。ここが、アヌラーダプラ王がマヒンダの教えに従い仏教に帰依した場所である。砂地の奥に一段と高くなった基壇があり、そこにやや小ぶりなダーガバ(大塔)が建つ。ダーガバにはマヒンダの遺骨が祀られているそうだ。ダーガバを取り囲むように石柱が並んでいるが、これはかつてダーガバを覆う屋根の支えだったらしい。木の葉しらの上に小屋組を乗せるとしたら、どんな形になるのか、想像しにくい。木材資源はさほど豊かではない。小さい部材をトラス風に組んで、全体をドームとして組み上げたのだろうか。いまは、ダーガバの回りに生い茂ったマンゴーやヤシの木が木陰をつくっている。ちなみに、アムバスタレーとはマンゴーの木のことだそうだ。

マハー・サーヤダーガバ Maha Seya Dagoba
 アムバスタレーダーガバの奥の丘を上ると、さらに向こうの丘の上に建つマハー・サーヤダーガバ(大塔)が見える。釈迦の髪が祀られているそうだ。大勢の参拝客が階段を登って行く様子もはっきり見える。すでに日が高く、岩山はかなり暑い。目を転じると、彼方まで森が広がり、ところどころに鮮やかな白い大塔が立ち上がる素晴らしい光景が見渡せる。その光景をていねいに見ていると、ときおり光を反射するヵ所が見つかる。あとで分かったことだが、これが潅漑貯水池で、決して少ない数ではない。この光景からも、森、ドライゾーン、潅漑用水、仏教がスリランカの重要なキーワードであることがうかがえる。

ポロンナルワ Polonnaruwa
 ポロンナルワはアヌラーダプラから直線で100kmほどの東南に位置し、10~12世紀にシンハラ王朝の首都がおかれた。というのも、10世紀末からインド人の大攻勢が続き、当時の首都アヌラーダプラがついに陥落してしまい、シンハラ王朝は首都をポロンナルワに移すことになった。ヴィジャヤバーフ王は潅漑用貯水池と水路を整備し、都市の形態を整えた。この貯水池と水路網のためドライゾーンの高原に立地しながらも栄えることができた。仏教も盛んで、全盛期にはタイやビルマからも僧が訪れたといわれる。しかし、13世紀後半に再び、インド人の侵略にあい、シンハラ王朝はポロンナルワを捨て、さらに南下することになる。そのためポロンナルワは廃都になってしまったが、20世紀に入ってから遺跡の整備が進み、アヌラーダプラ、シギリアとともに歴史観光地域として大勢の観光客が訪れるようになった。

ポトゥグル・ヴィハーラ Potgul Vihara
 レンガ積みの基壇の上に崩れかかったレンガの建物らしい遺跡が残る。四方に、お椀を伏せたようなレンガ積みのストゥーパ(ダーガバ)がある。かつては図書館として使われ、仏教教典が収蔵されていたそうだが、その片鱗はうかがえない。
 レンガは土を型に入れて焼き上げたものだから、崩落すればもとの大地に返っていく。もともとの大地にも起伏があるから、レンガの構築物が崩落すると大地だか構築物の遺構だか判然としなくなる。人が生きるとか、都をつくるとかは、大地と決別するために膨大なエネルギーを必要とすることが、こうした判然としない崩落した構築物らしき遺構から想像できるが、あまりにも崩落が激しいとどのような建物を作ろうとしたかまでは想像し難い。夢のあとか。
 100mほど歩くと、石立像と訳されるStatue of Unknown Man or the Sage、岩に刻まれた立像がある。釈迦の立像とは雰囲気が違い、いまにも歩き出しそうな感じで、手には仏典らしきものを両手で持っている。一説にはポロンナルワを治めた王ではないかとされるが、ほかの説もあるようだ。

宮殿跡 Royal Palace
 ポトゥグル・ヴィハーラから北に2.5kmほどいくと、宮殿跡がある。と言っても、巨大なレンガ積みの列柱壁が立ち上がっているだけなので、宮殿は想像しにくい。かつては7階建ての建物であったとされ、現在は3階までの壁が残されている。しかし、10世紀に、しかも敷地は十分にあるにもかかわらず、なぜ7階建てを造ろうとしたのかは説明もなく、理解しがたい。しかも、レンガ積みの列柱壁は厚さ3mにもなる。見上げるような巨大な空間を構築し、神の偉大さ、あるいは王の偉大さを表そうとしたのだろうか。そもそも、床あるいは屋根をどのように組んだのか。ダーガバには塔を覆うための屋根をかけたらしいし、そのための石柱がいまも残されている例があることから、この宮殿にも木造で大きなドーム風の小屋を組み、草葺きで屋根としたであろうことは考えられる。おそらく床も木材を組んで造ったのであろうが、ほかに類例が無くどのように造ったのかは想像を超えてしまう。

閣議場 King's Council Chamber
 宮殿跡の近くに閣議場が残っている。閣議場は4層の基壇があり、基壇壁にはレリーフが施され、階段には象の鼻のイメージが彫られ、階段上部にライオンらしい座像が置かれている。閣議場の回りには石柱が並んでいて、それぞれに大臣の名前が彫られ、席順を示している。この石柱はおそらく屋根を支える柱としても使われたのではないだろうか。その屋根はおそらく木造草葺き、都が遷都したあと消滅し、石柱だけが残されたのだと思う。続く

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