yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

水運で栄えた中国・蘇州で清朝末期の住まいを訪問、木造2階建て、1階は客堂+小房間、2階は大房間+中房間

2016年11月30日 | 旅行

中国・蘇州同里鎮の住まい  中国民居を訪ねる /建築とまちづくり誌 1992.10

 1992年8月、再び上海同済大学専家楼に荷物をおろす。盛夏らしく、最高気温38゚Cが我々を出迎える。ここ数カ月、雨らしい雨が降らず、連日、猛暑とのことだ。
 日頃、冷房なしの自然の摂理に身をゆだねて仕事をしてきた私ですら、内心、猛暑に辟易したぐらいだから、初めて上海を訪ねた同行の面々はさぞやびっくりされたと思う。ともあれ厳しい自然に会えたことは、地域を知る近道には相違ない。
 暑ければ水が恋しくなるが、上海の水はお世辞にもほめられない。独特の消毒臭があるうえ、透明度がなく、いくら沸騰させてもそのまま飲むには抵抗がある。いつもながら海外にきて、日本の水のありがたみを痛感する。ペットボトルの水を得意になって飲んでいる諸君、もう一度水について考えて欲しい。
 人間は水無しでは生きられない。直接、飲用にすることもあれば、水のおかげで野菜や動物、魚を食することもできる。このような水の働きを人との関係でみれば、水の生命作用といえよう。
 人はその恩恵を得るために、一方で水の浄化運動に努力することが必然となってくる。専家楼の風呂につかりながらそんなことを考え、あわてて石鹸の使用をやめたりした。なにごとも思い付いたときが出発点、小さくてもスタートすることが大事だろう。

 水は生命作用のほかに運搬作用の働きをももつ。動力がなくとも高いほうから低いほうには水の流れにのって移動できるし、浮力によって大量の荷を担える利点がある。
 大河あるところに都が栄えると言っても過言ではない。蘇州を始め江南地方には、自然の流れを人工の水路網で縦横につなぎ、商都として活気づいている町が数多い。
 訪ねた同里鎮(鎮はおおむね町に相当)も、典型的な水網都市の一つである。

 水路と道路、家並みは大ざっぱにみて、水路に沿って道路、道路に面して住居が並ぶ場合と、水路と道路に挟まれるかたちで住居が並ぶ場合に分けられる。
 前者は2階建てで住居が多く、開放的で落ち着いている。対して後者は3階建てで1階に商店を構え、閉鎖的だが活気づいている。
 2階か3階か、住居か店舗かは自然発生だそうだが、後者は水路側を荷おろし、サービス空間、道路側を商用空間に使い分けられる利点があり、地の利にかなっている。 

  紹介する民居は前者に相当する(写真はホームページに)。建てて100年以上というから、清の末期だろうか。
 木造軸組・煉瓦積み・漆喰仕上げの作りで、当時は木構造が優位であったことをうかがわせる。歩測で間口を計るとだいたい4m弱、奥行きは約8m。尺が基準として用いられたというから、およそ3.6m×8.1mになろうか。

  1階、2階とも大きく二部屋に分かれ、それぞれ客堂間(写真はホームページに)・小房間、大房間・小房間と呼びならわすそうだ。
 客堂間は、炊事・食事・団らん・接客・行事にあてられる。3つの房間は、以前は夫婦に子供3人だったのでそれぞれ私室として使われていたようだ。現在は母と息子の2人で、それぞれ1階、2階の小房間を用いる。
 毎日のように近くに住む孫が遊びにくるようで、孫の話になると満面笑顔。子がかすがいなら、孫は長寿の秘薬と思う。

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北京から2100kmの雲南省昆明のサニ族は版築構造の小さな土の家に住む

2016年11月28日 | 旅行

1991 「雲南省昆明郊外樂爾村の住まい」 中国民居を訪ねる /建築とまちづくり誌 1992.9

 1991年11月、ベトナム・ラオス・ビルマ、その三国に国境を接する雲南省の省都昆明にいる。
 ビルマまでは道路が通じおよそ300km、ハノイまでは鉄道が通りベトナムまで300kmぐらい、町にはベトナムやラオスの人が行き交い、インドシナが生活にかなりとけ込んでいる。

 対して北京から眺めると、昆明は直線でおよそ2100km、距離もさることながら、雲に隠れた南の方と言われるほど遠い存在だった。
 にもかかわらず、かつて漢の武帝が雲南に居住していた少数民族を支配しようと、昆明の湖ティエンチーを模して水戦訓練用の人造湖を長安の郊外に造ったほど、武帝の戦略対象地でもあった。

 これほどまで昆明が重視されるのは何故か。一つには、のちに南のシルクロードの交易地として栄える地の利がある。
 がそれだけではない。地図を丁寧にみると改めて驚くが、インドシナ半島を流れるメコン川の上流は昆明の東側100数十km、中国大陸を東西に流れる長江は昆明の北数10km、そして広州・香港に注ぐ珠川はティエンチーを源流とする。

 つまり、高度2000mの高原・山岳地帯に位置しながら、この水利と年平均気温15~16℃の穏やかな気候のおかげで稲作適地として豊かであったこと、そして川を介した交流が早くからあったことが大きい理由ではないのか。
 ・・近年新しい学説では稲の起源は黄河・長江流域と仮説されているが・・、最も古い稲作農耕の地として知られるアッサムは、これらの川の上流域に接する。漢民族には雲の向こうの実り豊かな国に見えたに違いない。


  昆明周辺にはおよそ24の部族が居住する。これらが闘争、統合を繰り返して昆族明族に集約され、そして昆明としてまとまったそうだ。漢字ならではの名付け方に日本の町村合併を連想する。

 訪ねた民居は昆明市街から約90kmあたりに住むサニ族である。
 道路沿いに立つ表示版にはリーエル村とある。簡略字なので意味は不明だったが後で調べると樂爾村、ここは楽しい村とはなんともおおらかな名前だ。

 村の入口近くの水辺では大勢の女性が民族衣装をまとい洗濯とおしゃべりに花を咲かせる。固有な民族衣装ほど人を美しく仕立てるように思えてならない。
 住まいはいずれも切り妻で、古い建物は草葺、新しいものは瓦、構造は40~60cmの版築または日干し煉瓦造となっている。結婚するときに建てていくそうで一つ一つの建物の規模は小さい。
 C さんは晩婚で、4年前に3000元でこの家は建てた。給与換算で15年分になったそうだ。ここでも住宅難のようである。
 室内は妻壁の上部に換気をかねた小さな明りとりがあるだけでかなり暗いが、十分に乾燥している。

 北側中ほどの入口から見て左側が寝床、ついたてで仕切られた奥に夫婦と子供の3人が寝る。
 あとは仕切りがなく、炊事、食事、団らん、接客に用いる。漢民族の多くは炊事を分離するが、ここでは習慣が違うようで、寝室はグー、炊事場はガブー、入口をヅンナーと漢語とは異なって発音する。

 住まいも民族に固有な文化をよく残すとき人をいっそう美しく仕立てるのかも知れない。C さんの笑顔はどこまでも明るく健やかである。

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漢民族の住まいの基本は四合院、ところが武漢郊外の老夫婦は一部屋を寝る+食べるに使い分けていた

2016年11月27日 | 旅行

1990 「武漢郊外白砂県の住まい」 中国民居を訪ねる /建築とまちづくり誌 1992.8

 1990年11月、武漢市の華中理工大学(当時)招待所にいる。
 ここ華中理工大学はN工業大学と学術交流がすでに長い。しかし、これまでどちらかというと中国側が日本の先端技術を修得するかたちが主となってきた。
 留学してくる先生も機械工学やロボット工学が専攻で、通常は1~3年と長期研修である。
 対してN 工大からは、電算機の短期講習や各学科の連続講義にとどまってきた。ハイテクノロジーに限定すれば中国がtake、日本はgiveの関係にならざるを得ないであろうが、ともかく一方的すぎるのはよろしくない。

 学術や文化に視点を変えれば対等で、協同の研究交流ができるのではないか。少なくとも建築学では同じ立場、同じレベルで論議ができるはず、などの言葉が伝わったらしく、ならば武漢で実践せよのお声がかかった。
 性急な結論は避けなければならないが、その手ごたえの一つが以下に述べる農村住居のフィールドサーヴェイである。

 少なくとも、近代化をめざす中国では農村住居の地方性や住文化の継承を観点とした居住環境整備は影が薄かったようで、農村住居を訪ね、話を聞き、その住み方や住要求から発想しようとする研究方法は、数少ない研究者を大いに力づけたと思う。
 武漢は三国史以来、争奪の的となってきたところである。
 現在まで商業、重工業都市として栄えてきたが、その秘密はむしろ湖広平野を利用した豊かな後背地にあるようで、大学から車で2時間を過ぎようと言うのに、赤茶けた土色の農村風景が途切れることなく続く。

 ときおり農地を開墾する数十人の都会人が見える。文化大革命の時は強制だったが、いまは本人の意思だそうで、勤め先の単位ごとに特定の農地を応援するそうだ。見習いたい風習である。

 武漢からおよそ100kmほどになろうか、ようやく調査地に到着した。瓦葺の屋根がかかった石橋、その向こうの褐色の磚を積み上げた建物、実に見事な景観である。
 橋は自然を活かした防衛線であろう。建物も外周に開口部はなく、入り口は石造でがっしり固められていて、防御優先の造りがはりつめた緊張感を見せる。

 入口を入ると四合院独特の中庭となるが、正面の建物はピロティとなっていて奥にもう一つの中庭が続き、日の字型の配置構成をとる。
 通常、四合院の構成を一進と呼称する。進とは、日本語と同じ前進することを指すが、転じて家屋の奥行き方向の一区切りとして用いられ、一つの中庭を囲む場合が一進となる。
 四合院が二つ連続し、前面・中ほど・奥側と建物が三列になる日の字型の場合は一進三重と呼び、もし一進四重であれば四合院が目の字型に連続する構成を意味する。言葉から、いかに四合院が建築構成の基本として根付いているか推察できよう。

 その一角に居を構える老夫婦の住まいを図に示した・・ホームページ参照・・。
 一般に四合院には親族が同居し、客堂と中庭を共有する一方、房間で夫婦単位の生活を営む。ところがこの夫婦は、房間の中を寝室と食事・接客に住み分ける
 単なる天蓋付きベットからの移行過程なのか、それとも核家族社会の先駆けか、あるいは快適な生活を目指した結果なのか?。

 老人は黙して語らない。あるいは通訳の先生が通訳をあえてしなかったのかもしれない。
 とすれば、現実を直視する姿勢を早く身につけてほしいと思う。いずれにしろ、フィールドはつねに新たな課題を提示してくれる。

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2016.11ダイヤミルの分解掃除に悪戦苦闘

2016年11月26日 | よしなしごと

2016.11ダイヤミルの分解掃除に悪戦苦闘、40年分のコーヒーカスを掃除したらえぐみがなくなり、美味になった

 学生時代からコーヒーを愛飲していた。もっぱらN社の「違いの分かるインスタントコーヒーだった。
結婚して間もなく、一念発起、挽いたコーヒーを買ってきて、サイフォンでコーヒーを淹れて味わった。しかし、サイフォンのコーヒーカスの掃除がたいへん+ガラス容器をよく割ったので、ネルフィルターに替えた。ところがネルもよく洗わないと目がつまり、臭いが残ってしまう。
 あわただしい平日は落ちついてコーヒーを淹れるゆとりがない。「違いの分かる」コーヒーと併用になった。
たまたまK君(故人)とコーヒーの話しになり、小さな手回しのコーヒーミルを推薦された。さっそくこのコーヒーミルを購入し、時間があるときは、コーヒーミルで豆をひき、K社のドリッパー+紙フィルターでコーヒーを楽しんだ。
 1975年に現さいたま市西区に家を建てた。間もなく私の誕生日記念にK社のダイヤミルという重厚なコーヒーミルを買ってもらった・・数日前に調べたらまだ販売中で、なんと25000~円!、よく40年前の安サラリーのときに大枚をはたいた、といまさらながら驚かされた・・。
 このダイヤミルは鋳鉄製で、大きさは14cm×18cm×25cmほど、重さは3.3kgもある。左手のつまみで細~粗の挽き具合を調整し、右手のハンドルを回してコーヒーを挽く。1人~5人分ぐらいのコーヒーを挽くことができる・・5人分も挽くのはかなり疲れるが・・。
 
そのうち仕事が忙しくなり、出張+調査も増え・・会合や調査は休日が多い・・、ミルでコーヒーを挽くゆとりもなくなり、挽いたコーヒーを重用するようになった。手軽なコーヒーに慣れると、重厚なコーヒーミルの出番がますますなくなり、いつの間にか埃をかぶってしまった。

 2003年に現さいたま市北区のマンションに転居した。翌年、隣にIYを核とするショッピングモールが開店した。その一角にコーヒーチェーン店のKがあり、20種類ぐらいのコーヒーが並んでいたので、始めは豆を選び、この店でコーヒーを挽いてもらっていた。
 退職後は時間にゆとりがある。コーヒーを自分で挽いて味わおうと思い、埃をかぶったダイヤミルを引っ張り出した。外側の埃をとり、中も掃除しようとしたがどこも硬くて分解ができない。30年も経っているから取扱説明書は見当たらない。試しにコーヒーを挽いたところ、まあまあの味だった。・・後述するが、この時にしっかり分解掃除をしておけば良かったと反省・・。
 まあまあはまあまあで、イマイチだ。味の深みが少ない。それでもホテルの朝食会場などに置かれているコーヒーマシーンよりは味はいいので、毎朝+毎3時にダイヤミルでコーヒーを挽き続けた。
 ところがだんだんと渋み?えぐみ?が気になりだした。挽き具合のせいかと思い、硬くなった細~粗のつまみを渾身の力で回したら、ゴシッと音を出し、動かなくなった。豆を挽いてみたら、ますます味が悪くなった。
もう40年も経つから、年貢の納め時かと思い、新しいコーヒーミルをインターネットで調べた。電動ミルの選び方などを読み、いくつか候補を絞ったりした。手動ミルの選び方も読んだ。

 念のためダイヤミルを検索したらまだまだ健在で、前述したが25000~円で市販されていた。さらにインターネットを検索したらwww.crazy-cafe.net/diamill-cleaningには写真入りで分解掃除の手順が紹介されていた。この方は1ヶ月に一度の分解掃除をすすめている。
 私は、使わない時期もあったが、40年も放置したままなので、コーヒーカスが油分で固まってしまったようだ。さっそく、新聞紙を広げ、①右、左の側面プレートのネジを外した。これはさほど無理なく外れた。
 ②右のハンドルを固定しているネジを緩めたが、ハンドルが外れない。ペンチで軽く叩いたり、ハンドルを押したり引いたりしていたら、少し動いた。なお力を入れて、何とかハンドルを外す。
 ③左の細~粗調整つまみは固まって動かない。ペンチを使い、力を入れて回したら、なんとか外れた。
 ④これからがたいへん、どこも動かない。側面プレートのネジは外れているがびくともしない。側面プレートからシャフトが出ているがこれも動かない。ペンチを使ったり、隙間をマイナスドライバーでなぞったり、ミルを横倒しにしてプレートやシャフトを叩いたりしていたら、プレートが少しずつ動き出した。なおもがたがたしていたら、側面プレートが外れた。黒く変色したコーヒーのカスがこびりついていて動かなかったらしい。まず固まったカスをマイナスドライバーで削り、次に歯ブラシで掃除する。
 ⑤側面プレートが外れるとミル本体が現れる。ミル本体を外し、歯ブラシでカスを掃除する。出るわ出るわ、コーヒー一杯分・・ちょっとオーバー・・ほどのカスが出た。
 ⑥湿らせたペーパータオルでまんべんなく汚れを落とす。乾いたペーパータオルで仕上げをし、組み立てる。
 ⑦試し挽きをしたらハンドルが快調に回った。細~粗つまみも滑らかに回る。
 ⑧さっそくコーヒーを挽き、味を試した。さっぱりとした深みになった。これまでのコーヒーが嘘のようだ。www.crazy-cafe.net/diamill-cleaningに感謝。

 美味しいコーヒー、安心して飲めるコーヒーを楽しむには、こまめな分解掃除を心がけること、と反省した次第。

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2016年11月 映画「インフェルノ」を見た、謎解きの鍵はダンテ著「神曲」とボッティチェッリ画「地獄の見取り図」

2016年11月25日 | よしなしごと

2016年11月 映画・インフェルノを見る
 
 マンションから歩いて15分ほどのところにイオンシネマがあり、55才以上は1100円の割引になる。
 2016年11月某日、予定がキャンセルになり時間が空いたので、映画「インフェルノ」を見に行った。ダン・ブラウン原作で、ラングドン教授シリーズの映画としてはダ・ヴィンチ・コード天使と悪魔に次いで3作目になる。
 どちらも本も読んだし、映画も見た。インフェルノ封切りに会わせてテレビで再放送されたので復習もしておいた。
 ダン・ブラウンの本は、ほかにロスト・シンボルデセプション・ポイントパズル・パレスも読んだが、どれも謎解きにかかわる知識の奥深さに感心させられる。謎解きのテンポもいいし、どんでん返しが巧みに織り込まれているので、本を読む人、映画を見る人ははらはらどきどきしながら物語に引きずり込まれる。
 謎解きにかかわる知見は、読む人、見る人の知識欲を刺激する。本ではかなり詳しい説明があり、映画では画像で見ることができるので、いままでの曖昧な知識に光が当たったように、はっきりとした理解になる。
 テンポのいい展開やどんでん返しは、心地よい緊張感を感じさせる。
 
 インフェルノinfernoは地獄を意味するが、この映画ではフィレンツェ生まれのダンテ・アリギエーレ(1265-1321)による「神曲」の地獄編が謎解きのキーになっている。
 神曲は、西暦1300年、森に迷い込んだダンテが古代ローマの詩人ウェルギリウス(BC70-BC19)の案内で地獄、煉獄、天国を体験する展開になっている。
 ダンテによれば、地獄はすり鉢形の9層の構成であり、フィレンツェの画家サンドロ・ボッティチェッリ(1445-1510)は1490年にダンテのすり鉢状の地獄を「地獄の見取り図」として描いている。
 
 映画「インフェルノ」では、「地獄の見取り図」に描き込まれた暗号とダンテのデスマスクが最初の手がかりになっている。
 ダンテ、神曲、地獄の見取り図を知らなくても物語の理解には困らないが、ダンテの神曲・地獄編について多少でも知っているとラングドンの謎解きについて行けるのでおもしろさが倍加する、と思う。これから見に行こうと考えている方は、インターネットで「神曲・地獄編」と「地獄の見取り図」を予習をおすすめしたい。

 舞台はフィレンツェから始まり、ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂に舞台を移し、イスタンブールの地下宮殿で結末を迎える。
 ラングドンシリーズは、こうした歴史都市、芸術作品巡りも刺激になる。
 フィレンツェ、ヴェネツィア、イスタンブールは行ったことがあるので臨場感があったが、気づかなかったり見落としていた事柄がヒントになっていて、またまたダン・ブラウンに脱帽させられた。

 物語の始まりは、ラングドンがフィレンツェの病院で意識を取り戻すところから始まる。女医シエナがラングドンを診てくれていたが、刺客が現れる。
 シエナの助けで逃げ出し、シエナの部屋にかくれる。シエナのパソコンを使ってラングドン宛のメイルをチェックすると、ブゾーニから「天国の25を探せ」のメッセージを見つける。
 ブゾーニとは、大富豪の生化学者で、人口増加で人類が滅亡するから人口抑制のためのウィルスを製造し、大量殺人を計画していたが、映画の冒頭で塔から身を投げ自殺していた。
 どうやらウィルスの隠し場所を暗号化してラングドン、シエナに伝えようとしたらしい。
 ラングドンが、ポケットに入っていた見覚えのない超小型プロジェクターをつけると、すり鉢状の地獄の見取り図が映し出される。
 地獄の見取り図に新たに書き込まれた暗号と「天国25」をヒントに、ダンテの神曲・天国編であることに気づいたラングドン+シエナは、フィレンツェのサン・ジョバンニ洗礼堂洗礼盤に隠されていたダンテのデスマスクを見つける。

 デスマスクに書かれたブゾーニのメッセージ・・馬の首を断ち・・ヴェネツィアの総督・・沈んだ宮殿・・をヒントにヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂に向かう。
 大聖堂に飾られているブロンズの馬がイスタンブールから運ばれてきたことから、ラングドンはウィルスがイスタンブールの地下宮殿に隠されていることに気づく。
 ところが、ここでシエナがラングドンを閉じ込めてしまう。
 なんと、シエナはブゾーニの崇拝者で愛人だった。身の危険を感じたブゾーニはラングドンしか解けない隠し場所の暗号を残して自殺し、シエナはラングドンの助けで隠し場所を見つけたのである。
 あとは見てのお楽しみ。映画も知識欲の刺激になった。

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