yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

奈良を歩く22 春日大社1

2021年12月27日 | 旅行

日本の旅・奈良の旅>  奈良を歩く22 2019.3 春日大社1/藤原不比等・称徳天皇 一之鳥居 影向の松 馬出橋・馬止橋 鹿 二之鳥居
 
 かんぽの宿奈良の部屋は平城京に面した東向きである。目を覚ましたら彼方の空が赤みを増し始め、6:30ごろ、正面の山に朝日が顔を出した(写真)。朝日を浴びると気持ちが溌剌としてくる。
 平城京の東に若草山(=三笠山=御笠山 342m)、春日山(297m)が並び、その背後に500mに近い山並みが続いている。平城京に遷都した人々は、朝日が昇る若草山、春日山の山並みを神々しく眺めたのではないだろうか。

 9:00過ぎ、送迎バスで近鉄奈良線の大和西大寺駅に送ってもらい、近鉄奈良駅に出る。帰りはJR大和路線で京都駅に出るため、キャリーバッグをJR 奈良駅に預けようと、近鉄奈良駅からバスでJR奈良駅に向かい、JR奈良駅のコインロッカーにキャリーバッグを預ける。
 身軽になって、JR奈良駅前から春日大社前行きのバスに乗る。車窓から、東大寺大仏殿あたりに大勢の生徒が見えた。大仏殿は修学旅行の定番である。私も修学旅行で京都・奈良を訪ね、毎日が興奮の連続だった。感受性が強い時期でもあろうが、五重塔、大仏、清水の舞台といった名所は、東京で育った私にとって思考を通り過ぎて感性を直接刺激したようだ。国内旅行、海外旅行を重ねるごとに、刺激に慣れたのか感性が響きにくくなったような気がする・・気のせいか・・。大はしゃぎしている生徒たちをうらやましく眺めているうち、春日大社前バス停に着いた。

 春日大社由緒によると、平城京遷都の710年、藤原不比等(659-720)が平城京鎮護のため武甕槌命(たけみかづちのみこと、現在の茨城県鹿島神宮祭神、藤原氏守護神)の分霊を御蓋山(みかさやま=春日山)に祀っている。
 768年、48代称徳天皇(=46代孝謙天皇、718-770、母の光明皇后は藤原不比等の娘)が御蓋山に武甕槌命を祀る第1殿、経津主命(ふつぬしのみこと、現在の千葉県香取神宮祭神、藤原氏氏神)を祀る第2殿、天児屋根命(あめのこやねのみこと、現在の大阪枚岡神社祭神、藤原氏祖神)を祀る第3殿、比売神(ひめがみ、天児屋根命の后神)を祀った第4殿を造営した。
 藤原不比等が武甕槌命を御蓋山に祀り、不比等の孫の称徳天皇が藤原氏の氏神を祀る第1殿~第4殿を建てたのだから、春日大社が藤原氏の強い影響力を受けたことは想像しやすい。
 春日大社の西に位置する興福寺は、藤原氏の氏寺を藤原不比等が平城京遷都に伴い奈良に移し、不比等が中金堂を建て、藤原氏ゆかりの皇族、大臣が堂宇を建てている。藤原氏の隆盛=興福寺の隆盛によって、平安時代には興福寺が春日大社の実権を掌握してしまう。藤原氏の氏寺と藤原氏の氏神が合体したと考えれば、辻褄は合う。
 
 春日大社参拝は初めてである。春日大社前バス停から歩くと二之鳥居に出る。そのまま参道を上り、本殿に向かい、本殿、社殿参拝後、参道を下り一之鳥居からバスに乗った。が、参観順路を前後させ、一之鳥居から記す(境内図web転載加工)。
 一之鳥居(重要文化財)は寛永11年=1638年の再建で(写真web転載)、創建は平安時代中期である。
 鳥居の手前の通りは南北の国道169号線=奈良街道で、鳥居の向こうが表参道、写真を撮っている後ろに三条通が西に延びている。奈良街道の西、三条通の北は興福寺で、かつて一之鳥居は興福寺と春日大社の結界となっていたそうだ。
 春日大社webには、鳥居の高さは7.75m、木造鳥居では広島・厳島神社の16.8m、福井・氣比神宮の10.93mに次いで3番目の高さを誇ると紹介されている。3大○○といった紹介は建造物の規模を理解する手がかりになるが、春日大社鳥居は厳島神社鳥居の半分以下の高さだから、3大に間違いは無いにしても、厳島神社鳥居のような圧倒した印象は感じにくい。むしろ、2本の円柱、柱を貫通している貫、柱上部の島木、笠木、貫の中間に立つ額束がそれぞれ太めで、安定したプロポーションのため、どっしりとした印象である。

 一之鳥居で一礼し、樹林のなかをまっすぐ東に延びる表参道を歩きだす。右=南の斜面に踏み段が設けられていて、上には柵に囲まれい切り株が見えたので(写真web転載)気になり説明板を読む。切り株は影向の松(ようごうのまつ)と呼ばれる黒松で、1995年に枯れたため後継の若い木を育てているそうだ。伝承では、春日大明神が降臨し、この黒松の前で雅楽の一つである萬歳楽を舞い、以来、黒松は芸能の神の依り代とされ、いまも若宮おん祭りにはこの黒松の前で芸能を披露する松の下式が行われている。
 この影向松が、能舞台の鏡板に描かれる黒松のルーツだそうだ。能舞台の鏡板に描かれている黒松は何度も目にしたが、その由来が春日大社の影向の松だったとは新知識である。

 樹林のなかを流れる水路が表参道を横切っていて、馬出橋(まだしのはし)名付けられた石橋が架かっている(写真web転載)。表参道は馬場としてつくられ、この橋が競馬、流鏑馬の始点だったので馬出橋と名付けられたそうだ。
 話を飛ばして、萬葉植物園手前でも水路が表参道を横切っていて、馬止橋(まどめばし)と名付けられた石橋が架かっている。この橋が馬場の終点だったそうだ。一之鳥居から萬葉植物園までおよそ1kmなので、馬出橋から馬止橋までの競馬は800mぐらいの競争のようだ。

 左=北の御旅所と記された緑地、右=南の飛火野と記された緑地を過ぎる。境内図には、表参道から少し奥まった右=南に鹿の保護育成のための鹿苑が記されている。
 春日大社では、藤原不比等(659-720)が鹿島神宮の祭神・武甕槌命の分霊を御蓋山(=春日山)に祀るとき、武甕槌命は鹿に乗って来た、と伝承されている。鹿島神宮の伝承でも、武甕槌命の分霊を乗せた白い鹿が奈良に行ったので春日大社の鹿は鹿島神宮が発祥、とされている。鹿島でも奈良でも、鹿は神の使いとして大切に育てられている。

 表参道は萬葉植物園を迂回するように右=南に回り込む。樹林の先には高さ5.3mの二之鳥居が構えている(写真)。柱間に比し貫が高いうえ石段の上に立てられているので、7.75mの一之鳥居より高さが強調されて見える。  続く(2021.12)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五木寛之「風の王国 1翔ぶ女 2幻の族 3浪の魂」

2021年12月21日 | 斜読

book537 風の王国 1翔ぶ女 2幻の族 3浪の魂 五木寛之 アメーバブックス 2006    斜読・日本の作家一覧>  

 五木寛之氏が語るテレビ放送「百寺巡礼」に触発されて奈良・當麻寺などを訪ね、當麻寺の仁王門から大津皇子が葬られた二上山を眺めた。古代史は疎いので二上山をキーワードに補習の本を探し、五木寛之著「風の王国」を見つけた。第1巻翔ぶ女、第2巻幻の族、第3巻浪の魂の3巻構成である。
 各巻の扉に「一畝不耕 一所不住 一生無籍 一心無私」と記されている。これは幻の族(世間師=ケンシ)の生き方なのだが、第2巻の終盤までは謎である。
 話は変わる。私は子どものころから本を読むのが好きで、手当たり次第読んだ一冊に夜間中学生をレポートした本があった。ある夜間中学生は船が住まいで、船乗りの両親の仕事によって港を転々とするそうだ。船が転々とするため住所が不定のため昼間の中学に通えず、しばらく係留する港町の夜間中学で学ばざるを得なかったそうだ。勉強は夜間でも船でもできるが、友達ができても次の港に移動するたびに別れなければならないのがつらいと、書かれていた。
 「風の王国」を読んでいて、非定住のためつらい日々を送っていた夜間中学生の手記を思い出した。
 国家に対し自由に生きようとした人々が日本にもいて、非定住、無戸籍のため不当に差別されてきたそうだ(ケンシ、山窩とも呼ばれる)。五木氏は、企業や組織を巨大化させ利権を得ようとすることより、「一畝不耕 一所不住 一生無籍 一心無私」のケンシのように、自然のなかで無に生きる自由の歓びを描こうとしたようだ。

 第1巻「翔ぶ女」の冒頭に、メルセデスの四駆で仁徳陵に向かう32歳の速見卓が登場する。・・五木氏は車にも詳しい。このあとも車の構造や特性、希少な外車が描写される。そういえば「ワルシャワの燕たち(book490参照)でもBMWを乗り回すシーンがあった・・。
 話は前後する。速見卓の実の家族は狩野川台風による土砂崩れで流され、卓だけ助かり、その後、速見家に引き取られた。養父速見悠蔵は、実の息子で卓の一つ上の真一以上に卓を可愛がってくれた。
 真一は、横浜で歌手麻木サエラと暮らし、二人は心底愛しあっている。・・真一の趣向はおりおりに語られる。五木氏は何にでもこだわるようだ・・。・・サエラの生い立ちは第3巻で語られる。悲惨な境遇から救ったのが暴力団渾流組の名誉会長蓆玄一郎で、後述の葛城勇覚の伯父だった。蓆玄一郎没後、サエラは渾流組から離れようとしてもめ事になっていたことなどは、第3巻まではもやもやと描かれる。五木氏の筆裁きである・・。

 速見は世界放浪旅行の経験をもとに、プロのトラベルライターとして雑誌社の仕事をしていた。
 海外でのトラブルで助けた流星書館出版部長花田吾郎から、古代史を専門とする大学教授西芳賀秀之著の「大和路・その光と闇」に続き、「日本・その光と影」を出版することになり、第1回発売は「大和編」なので、西芳賀に代わって竹内街道を歩き、二上山に登って見た通り、感じた通りをレポートするよう依頼される。
 ・・五木氏は実際に二上山にも登っていて、大和の歴史地理が詳しく紹介される・・。
 速見卓が立ち寄る近くの中華料理店芙蓉軒のマスター趙は二上山から出る石に詳しい・・趙の役割は第3巻で明かされる・・。
 二上山行きを引き受けた速見は、同じ流星書館で出版している季刊TEKUTEKU編集部に立ち寄り、島村杏子に会う。このさき島村杏子は速見にアドバイスをするなど登場するが、後述の葛城哀を知り、身を引く。

 速見は、二上山に向かう近鉄特急で隣に座った若い僧・・あとで葛城哀の兄勇覚と分かる・・と千日回峰を話題にする。速見は當麻寺で當麻曼荼羅を拝観する。
 ・・當麻曼荼羅は五木氏の「百寺巡礼」にも紹介されている。五木氏は比叡山千日回峰にも詳しい・・。
 當麻寺で風のような速さで歩く「へんろう会」を聞く・・五木氏はあちらこちらに伏線を張り巡らせるのが巧みである・・。
 二上山は雄岳と雌岳の二つの峰がある。速見は當麻寺を出てその中間の鞍部を目指して登る。途中で、葛城勇覚が教えてくれた「・・あやしや たれか ふたかみの山」の歌碑を見つける・・第3巻で再登場する・・。
 速見は二上山の鞍部から雄岳の山頂に登り、大和盆地を見下ろす。大津皇子二上山墓でうつらうつらし、気づくと霧に包まれていて、霧の中をそろいの法被を着て翔ぶような速さで歩く一団の人々が駆け抜けていく。速見は早足で雄岳を下り、雌岳を登って追跡しようとするが見失う。
 不意に法被を着た若い女(葛城哀)が現れ、連れに「仁徳陵の正面に午前零時」と話しながら速見とすれ違う。女は身長1m65cm、体重50キロ足らずで、ダマスカス・ナイフみたいな顔立ちだった。葛城哀は、速見の視線を意識しながら翔ぶように雌岳に消えた。速見は翔ぶ女にどうしても会いたくなり、午前零時に仁徳陵に行く。
 午前零時、仁徳陵の前にいつの間にか大勢の人が集まった。全員えりに「同行五十五人」「天武仁神講」と染めぬかれた法被を着ている。老人(天武仁神講2代目講主葛城天浪、葛城哀の父)がみんなに語りかけ、速見は最後の「・・コノオクニネムッテオラレルカタガタノコトヲ ケッシテワスレテハナラヌ」を聞き取る。
 のちに、へんろう会は葛城編浪にちなんだ修養団体の名前で、速見悠三は講友、麻木サエラは会友であることが分かる。

 第2巻「幻の族」 速見は翔ぶ女=葛城哀に会いたいため、流星書館専務に連れられ射狩野総業60周年記念パーティに参加する。78歳の射狩野冥道は飛ぶ鳥を落とす勢いで成長し、大企業を作り上げた怪物オーナーで、流星書館も射狩野総業の傘下だった。
 パーティにロングドレスを着た葛城哀が、宗教法人天武仁神講講主代行として講主の言葉を代読する「・・射狩野氏は葛城遍浪の信念を企業の信念として成長した・・自然を亡ぼすような開発事業に加担してはならない・・へんろう会の精神を受け継いで欲しい・・」。
 射狩野冥道の意図は第3巻で明かされるが、葛城哀の代読から速見はへんろう会が射狩野冥道と決別しようとする宣言と気づく。
 そこへ麻木サエラのマネージャー瀬田宗介が助けを求めに来る。麻木サエラは天武仁神講講員である渾流組への恩義があり、60周年記念パーティで歌うことになっていたが無理な要求を拒否したため、横浜の真一を人質にした渾流組竜崎錠治に脅されていた。兄真一とサエラを窮地から救うため速見は必殺技で竜崎を倒すが、竜崎は拳銃を出し、そこへ葛城哀が現れ、ことを落着させる。

 会場を出た葛城哀は、速見卓の旧姓は石内で、石内は講友であり、葛城天浪が講友の子の速見卓に再会したがっているから、午後9時高輪泉岳寺下で落ち合い、伊豆山権現奥の院までの120kmを20時間以内で歩くと伝える。
 葛城哀は、速見卓に歩くことは歩行(ほぎょう)と呼ぶ行で、速見は大切な同行(どうぎょう)、ふたりがひとりの心になって歩くと話し、歩幅80cm弱、毎分120歩で歩き始めた・・五木氏はここでヒトの運動能力、ヒトの足、無意識の歩行などにうんちくを傾けるが割愛・・。

 葛城哀の背中から、いっしょに行きましょう、どこまでもふたりで手をとりあってと、無言の声が送られ、速見は限界を超えて歩き、午後3時に伊豆山権現奥の院に着いて、意識を失う。
 目覚めた速見卓は葛城勇覚の案内で、土蔵で待つ葛城天浪講主を始めとする八家の面々と会い、自分の生まれ育ちの真実を知る・・卓の父は六家のモンドの子で名前はゲン、無戸籍で、14歳のとき講に預けられ修行を終えたのち講を離れ、その後は講友として義理をつくした。ゲンは新戸籍を得て石川元と名乗り、サヨと結婚し卓が生まれた・・。
 葛城哀が、卓が6歳のときに狩野川台風で家族が流され、助かった卓は速見家の養子になり兄真一以上に可愛がられたこと、工高を傷害事件で中退したが工場で臨時工として働けたこと、みんなの援助やカンパで世界放浪旅行に出かけて多くの体験をしたこと、イランで秘密警察に捕まるが釈放されたことなどは、講が卓を見守り、必要なときに手をさしのべたからだと話す。

 ・・八家の面々は、速見卓が初代葛城遍浪の血を引くたった一人の男、遍浪の面影が懐かしいという。この時点で血筋のいきさつは分からないが、気にせず先を読む・・。
 講がなぜ生まれたか、学行を教える晒野老人が卓に話し始めるが、全体像は第3巻の速見の理解度を試す見台開きで語られるので割愛する・・五木氏は第3巻を盛り上げるための物語構成が巧みである・・。  

 第3巻「浪の魂」 速見は勇覚と伊豆山権現奥の院をあとにして、渾流組の仕業による自動車事故で瀕死の重傷を負ったマネージャー瀬田を見舞いに川崎に向かう。途中、新幹線で勇覚は、自然を傷つけることは初代講主葛城遍浪の教えに背く、自然との共生は一族のおきてである、フタカミ講の存立を賭けて射狩野冥道をおきてに従わせる、と速見に力説する。
 瀬田を見舞ったあと、速見と勇覚は横浜の兄真一、サエラに会いに行く。途中、勇覚は、遍浪はケンシの「浪民の魂」を確認し合い、相互扶助を目指して成功し、後を継いだ天浪は精神的自覚をこころざしたが、射狩野冥道がそのこころざしから外れようとしていると、話す。
 ケンシとは、第2巻で勇覚が速見に、世間師を指し、山を降りて里に住まず、里にありて山を離れず、世間を流れ歩いて生きると決めた一族、と力説している。
 ・・サエラの家で速見はサエラの生い立ちを聞くが割愛・・。

 射狩野冥道が速見卓に会いたいというので駿河湾を望む敬浪寮に行く。速見と流星書館専務、出版部長花田、西芳賀教授が待つなか、渾流組3代目組長蓆幻洋、渾流組竜崎を従えた射狩野冥道が現れ、速見に、恩師葛城遍浪の血を引く講子に会いたかったと語りかける。
 射狩野冥道は速見が講についてどこまで理解しているか試そうとし(=見台開き)、速見は晒野老人から学んだことを語る。
 ・・廃藩置県後に河内・境・大和一帯を治めた県令斎所厚は出世のため竹内街道開削事業に着手、腹心の縄岐要介が現場指揮を担当するが労賃ピンハネなどで労働者が集まらない。二上山で三万遍回峰を志していた山岳行者がケンシたちの面倒を見ていたとき、縄岐が開削事業のために非定住・無戸籍の人々を強制的に連行していて(ケンシ狩り)、山岳行者も240数名とともに二上山南麓の凹地に収容された。
 山岳行者が一心無私でケンシの世話をすることから、次第にリーダー格として慕われ、葛城と呼ばれた。
 斎所厚は、貴重な古美術をだますように収集して出世に利用していたが飽き足らず、古墳の埋蔵品に目つけた。縄岐は葛城ら8名を選び、闇夜に古墳を掘らせ、目当ての物が見つかると別の穴を掘らせて8名に土砂を崩し、生き埋めにした。
 土中で奇跡的に助かった葛城は縄岐を殺し、二上山の収容所に戻ってことの顛末を伝え、二上山を離れようと説得する。
 葛城は、賛同した8家族55人に、自分は伊豆のケンシを離れたバサラ(婆娑羅)のヘンロウだが、これからは葛城遍浪と名を改め、私心を捨てみんなに一身を捧げると誓う。収容所を出て間もなく、残った仲間が皆殺しされるのを目撃する。
 葛城は、二上山が出発の地であり、帰るべき山墓とみんなに話し、伊豆に向かって200里=780kmの山伝いの隠れ道を歩きだす。・・このあとケンシについて語られるが割愛・・。

 射狩野冥道があとを続ける。二上山を出た八家55人は途中で8人が亡くなり、47人が南伊豆婆娑羅のヘンロウの一族の地にたどり着いた。葛城遍浪は八家を講員とするフタカミ講=天武仁神講という結社を創る。講員はケンシの心を胸に秘め、社会に溶け込み、たがいに助けあいながら私を捨てて一心に働いた。
 葛城遍浪も赤貧のなかで身を粉にして働き、細君は病死し、娘を五家に預け、一心無私の日々を送った。
 ・・五家に預けた遍浪の娘が六家のモンドと結婚しゲンが生まれ、ゲンとサヨが結婚して卓が生まれたとすれば、遍浪は卓の曾祖父ということで辻褄が合う・・。
 講員のなかに成功者が少しずつ現れ、講に寄せられた寄付の運用も始まる。講は講主(おや)、講朋(おじ)、講中(きょうだい)、講子(こども)、講友(ともだち)と形を整えた。相互扶助をさらに進めるため、講員の成功者が集まる「へんろう会」がつくられた。
 講の子どもは一族の歴史と思想を親から学び、一族の使命をになう意気込みをもって勉学に励み、社会で活躍した。
 講員のなかで、教育界で働く天浪と実業界で活躍する射狩野が際立ち、遍浪から重んじられた。天浪は講に戻り一族の歴史の伝承を教える師となり、遍浪亡きあと2代目講主に押された。
 射狩野はイカリノ商店を興し、太平洋戦争敗戦後、奇跡的な躍進を遂げ、いまや射狩野総業として50数社を傘下に治めている。射狩野は、一族の講子、社会に溶けこんだ講友、八家以外の浪民のため一心無私に生きて、60年経ったらこうなったと話す。そして、速見卓に「へんろう会」世話人代表を譲りたいと強く説く。

 速見はへんろう会世話人代表の申し出を断り、話を終えて車で帰ろうとするが、さっそく嫌がらせを受ける。
 横浜の真一、サエラに電話をすると葛城哀が代わりに出て、渾流組が乗り込んできて、勇覚を撃ち、サエラをさらっていったと伝える。渾流組は、速見がへんろう会世話人代表を受ければ(=射狩野の言いなりになれば)、サエラを返すと言い残していた。
 葛城哀は速見に、フタカミ講の一族は自然との共生、世間との共生が信念だが、射狩野は自然との競争、世間との競争を目指している、志を失って繁栄するより無になって自由に生きる道を選ぶ、と語る。

 第3巻の中盤で物語の構図が明らかになった。第1巻、第2巻で物語のさわりを披露しながら話を次々と展開させたのは、第3巻を盛り上げるための五木氏の技法であろう。
 このあとサエラを救うために真一と哀が渾流組本部に乗り込む。ところが、五木氏は真一、サエラをあっけなく舞台から降ろしてしまう。
 速見卓は南伊豆婆娑羅山近くのフタカミ講本部を訪れ、助講師となる。
 竜崎は渾流組に見切りをつけ、講に戻る。
 フタカミ講2代講主葛城天浪が初代講主遍浪の言葉をとなえる「・・・・山民は骨なり、常民は肉なり、浪民は血液なり・・・・山は彼岸、里は此岸、二つの世の皮膜を流れ生きるもの、セケンシの道なり、統治せず、統治されず・・・・」。・・これまでもおりおりに語られてきたケンシの生き方がここに凝縮されている。五木氏は国家と離れ、自然を慈しみ、無に生きる自由を問いかけているようだ・・。

 縄岐たちが盗み出した埋蔵文化財の話しが、ボストン美術館爆破事件とからめて説明されるが、割愛。芙蓉軒マスター趙の目的も明かされるが割愛。
 葛城天浪は、射狩野冥道に降りてもらうため、自分はカクレると決意する。
 天浪を首とし、公平に選ばれた55人の一行が「天武仁神講」「同行五十五人」と染め抜いた法被を着て、伊豆山から二上山を目指して歩き出す。
 二上山に着いた速見に哀は、大津皇子の謀反を証拠づけるためケンシが叛徒として捕らえられて罪人とされ、首が伊豆へ流刑となった、その首の末裔がバサラのヘンロウ、と語る。
 そのヘンロウが二上山で三万遍回峰のとき、縄岐のケンシ狩りに会い、ヘンロウとともに八家55人が南伊豆にたどり着いたのだから、二上まいりとは故地巡礼でもあったのである。それを思い、速見は気持ちを熱くする。
 このあと、葛城天浪は遍浪の眠る二上山の風穴に入り、穴をふさいで隠れる。・・射狩野冥道もあっけなく舞台を去っている・・。
 速見卓と哀は心を一つにして翔ぶような速さで二上山を歩き、物語は幕となった。

 五木氏は二上山での大津皇子謀反の際のケンシ狩りと廃藩置県後の斎所+縄岐による竹内街道開削事業でのケンシ狩りに、自然との共生、世間との共生を信念とするフタカミ講と自然との競争、世間との競争で繁栄しようとする射狩野の対立をからめた物語を構想したうえで、卓と哀の心を一つにして、自然を慈しみ、無に生きる自由こそが明日を切り開く、と呼びかけているようだ。
 日本の古代史の補習にはならなかったが、ケンシ狩り、仁徳陵、竹内街道に加え、五木氏の豊富な知見を得ることができた。志を見失った繁栄より無になって自然と共生する考えには共鳴を覚えた。  (2021.12)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奈良を歩く21 元興寺

2021年12月10日 | 旅行

日本の旅・奈良の旅>  奈良を歩く21 2019.3  元興寺/東門 本堂=極楽堂 禅室

 興福寺三重塔の石畳を下り、興福寺から南に直線で600mぐらいの元興寺に向かう。
 このあたりは平城京時代の条坊制に基づいた町割と、太平洋戦争の戦火を免れた間口が狭く奥行きの長い家並みが残され、ならまちと愛称されている。古い家並みの風情を眺めながらぶらぶら歩く。15:00を過ぎている。一休みできそうなカフェを探す。
 かつての大路らしい広い通りに面した格子窓の古民家があり、cafemaruと記されていた。100年を超える古民家をカフェに改造したそうで、通り土間の高い天井を活かしていて、明るく広々としている。坪庭に面した席に座り、コーヒーをいただいた。パンケーキも人気らしく若い人たちはおいしそうに食べていたが、宿の夕食が6時なのでコーヒーだけにする。

 cafemaruから東に小路?を二つ過ぎた細道に入ると、元興寺北門があった。北門から元興寺本堂=極楽堂を東に回ると、東門がある。東門が正門で、拝観受付をする。
 「奈良を歩く10 飛鳥寺」を再録する・・仏教を個人的に信仰していた蘇我馬子(551-626)は、敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇に仕えた大臣で、仏教推進派の先鋒だった。対して、仏教排斥派の物部守屋は天皇を巡る覇権争いで蘇我馬子と対立した。587年、蘇我馬子勢と物部守屋勢が激突する。蘇我馬子勢に用明天皇の第2皇子厩戸皇子=のちの聖徳太子(574-622)も参戦し、蘇我勢は物部守屋を滅ぼす(丁未の乱)。
 604年、聖徳太子は日本最初の憲法である17条の憲法を制定、第2 条に仏教を篤く敬えとし、仏教が国づくりの根幹になる。各地に寺院が建立されていく。
 丁未の乱で物部守屋を滅ぼした蘇我馬子は、翌588年、崇仏派の勝利の証として飛鳥に寺院の建立を始め、593年に金堂、回廊が完成、594年に塔が建ち、596年に堂宇が完了する。日本で最初に仏法が興隆する寺院の意味で、法興寺と呼ばれた。606年には丈六仏像(=飛鳥大仏)が開眼する。
 710年の平城京遷都に伴い、法興寺の部材を奈良に運び(丈六仏像は飛鳥に残された)、718年に堂宇が建ち並んで、同じく仏法が興隆する意味の元興寺と名付けられた・・。
 つまり、元興寺とは蘇我馬子が飛鳥に建てた法興寺を奈良の現在地に移した寺なのである。
 奈良時代の元興寺は東西220m、南北440mの寺域を有し・・いまのならまちのほとんどが元興寺境内だった・・、東大寺、興福寺に並ぶ大伽藍が並び、四大寺(薬師寺、元興寺、興福寺、大安寺)にあげられ、平安時代も七大寺(東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、西大寺、薬師寺、法隆寺、諸説あり)に数えられた。
 しかし10世紀ごろから衰退し、寺宝が失われ、堂宇が焼失、倒壊し、15世紀以降に3つの寺院に別れてしまう。
 その一つが真言律宗・西大寺末寺の現元興寺=旧称元興寺極楽坊で、他の一つは元興寺五重塔跡に建つ華厳宗・東大寺末寺の元興寺、もう一つが真言律宗の小塔院として続いている。

 現元興寺の東門(重要文化財)は、室町時代に建立された東大寺西南院四脚門の移築である(写真web転載)。本瓦葺き切妻屋根で古びているが、堂々たる構えである。

 東門を入ると正面に本堂=極楽堂(国宝)が建つ(写真)。もともとは法興寺=飛鳥寺の僧坊で、奈良に移され、鎌倉時代に東と西に分けられ、東側が本堂として改築された。
 間口=梁間6間、奥行き=桁行6間(6間という偶数は珍しい)、本瓦葺き寄棟屋根で、正面は東向きの妻入りである。大きく横に伸び出した屋根は安定感を感じさせる。
 堂内中央は板敷きの内陣で、周りの外陣は念仏を唱えながら周回する(=行道)ため畳が敷かれている。
 内陣の須弥壇には本尊智光曼荼羅図が安置されている(写真、重要文化財)。
 奈良時代、学僧である智光が描かせた阿弥陀浄土図=智光曼荼羅が元興寺僧坊に飾られていた。平安時代末期に極楽往生を願う浄土教信仰が広まり、智光曼荼羅が信仰を集め、僧坊は極楽院と呼ばれた。
 当初の正本は焼失したが、副本が描かれていて、15世紀に描かれた絹本著色の智光曼荼羅図が内陣の厨子に納められている(前掲写真)。元興寺には板絵智光曼荼羅図(重要文化財)も収蔵されているそうだ。

 本堂=極楽堂の西に禅室(国宝)が建っている(写真)。飛鳥から移築された僧坊の西側で、鎌倉時代に二分され、西側は禅室に改築された。間口=梁間4間、奥行き=桁行4間(柱間は12に見えるが1間に2本の間柱を立てていて柱間3つで1間)、本瓦葺き切妻屋根である。 

 禅室の南に小さな石塔が整然と並べられていて(禅室写真左)、浮図田(ふとでん)と呼ばれている。浮図は仏陀を意味するそうで、仏塔が稲田のごとく並んでいることから浮図田と呼ばれたらしい。
 浮図田の南にコンクリート造の法輪館=元興寺総合収蔵庫が建っていて、文化財が公開展示されている。その一つが、かつて西小塔院に収められていた高さ5.5mほどの五重小塔(国宝、奈良時代作)である。細部まで精巧に作られていて、彩色も鮮やかで、ミニチュアとは思えない実在感がある。
 ほかにいずれも重要文化財の平安時代に造立された阿弥陀如来像、鎌倉時代造立の聖徳太子立像、同じく鎌倉時代造立の弘法大師坐像や県指定文化財などが展示されていた。
 板絵智光曼荼羅図(重要文化財)も収蔵されているらしいが、通常非公開だった。
 ぐるりと拝観して外に出る。

 飛鳥から移築された718年、元興寺の伽藍が整った時点では、東西220m、南北440mの寺域を有し、南大門、中門、金堂、講堂が南北に並び、金堂を中心にして中門から講堂に向かって回廊が巡らされ、回廊東に五重塔である東塔院、回廊西に五重小塔(前述、国宝)を納めた西小塔院が建っていたそうだ(境内図web転載加工)。
 講堂の北には鐘堂、さらに北に食堂が建ち、その北にも境内が広がっていたが、いまはならまちの市街になっていて、発掘調査ができないため境内の詳細は不明らしい。
 回廊の北東に建っていた建物の一棟が、現在の元興寺本堂=極楽堂と禅室の前身になる僧坊である。東塔院跡の華厳宗の元興寺、西小塔院跡の真言律宗の小塔院がいまも続くが、他はすべて焼失し、いまは市街化されていて復元どころか、発掘調査すらできそうにない。奈良時代の元興寺を想像するのは至難である。
 本堂=極楽堂で本尊智光曼荼羅に一礼し、元興寺を後にする。

 ならまちを北に歩き、近鉄奈良駅から近鉄奈良線に乗る。宿のある大和西大寺駅に着いてから西大寺を再訪し(奈良を歩く7 西大寺)、宿に戻った。 (2021.12)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奈良を歩く20 興福寺2

2021年12月03日 | 旅行

日本の旅・奈良の旅>  奈良を歩く20 2019.3+2008.2 興福寺2 五重塔 北円堂 南円堂 三重塔 国宝館

 興福寺五重塔は東金堂の南、境内の南端に建っている。猿沢池は境内より低いので、池から見上げると空を突くように見える。猿沢池から五十二段を上って五重塔に近づいて見上げると、やはり空を突くような高さである(写真)。塔高は50.1mで、木造の五重塔としては、東寺、法観寺の塔に次いで3番目の高さを誇り、背景に高い建物が無いため高さが強調されている。
 ・・ついでながら、東寺五重塔(国宝)は880年、空海創建で、1644年に再建され、高さは54.8mである。法観寺五重塔(重要文化財)は堂宇が失われたため八坂の塔と呼ばれている。創建は聖徳太子、1191年に源頼朝の援助で再建、1440年に足利義教によって再建され高さは46mである・・。
 興福寺五重塔は730年に光明皇后(藤原不比等の娘、45代聖武天皇皇后)によって建立された。
 ・・父藤原不比等が平城京遷都間もなく中金堂を建て、聖武天皇が726年に東金堂を建て、光明皇后は730年の五重塔に続き、734年に西金堂を建てたのだから、藤原家と皇室によって興福寺が隆盛したといえよう・・。
 五重塔は5度の焼失、戦火のあと、1426年に再建された。斗供などに奈良時代の特徴を残しながら、創建時の高さ45mをしのぐ50.1mと高さを強調し、軒の出を大きくするなどの室町時代の大らかさ、力強さが加えられたらしい。
 塔内は非公開だが、須弥壇の四方には創建時に倣い、薬師三尊像、釈迦三尊像、阿弥陀三尊像、弥勒三尊像(いずれも室町時代)が安置されているそうだ。

 西金堂跡の北西に北円堂(国宝)が建つ(写真)。興福寺伽藍のうちでも西外れになる。いまは奈良の市街が広がり、高い建物が視界を遮っているが、かつては北円堂あたりから平城京を一望できたそうで、藤原不比等の一周忌の721年、710年に平城京に遷都したときの43代元明天皇(38代天智天皇皇女、草壁皇子の正妃、42代天武天皇・44代元正天皇の母)、715年から44代天皇に就いていた元正天皇(元明天皇の娘)の命で創建され、鎌倉時代1210年に再建された。
 堂の平面は法隆寺夢殿(738年)と同じ八角形である。「奈良を歩く4」にも八角形は八葉蓮華に由来するのではないかと記した。胎蔵界曼荼羅では大日如来を八葉蓮華の中心とし、東・南・西・北に如来の四仏、東南・西南・西北・東北に四菩薩を描いている。
 平城京遷都に力を発揮し、興福寺を藤原京から移した藤原不比等を弔うため、元明天皇、元正天皇は八葉蓮華に由来する八角堂を建てたのではないだろうか。
 通常は非公開だが、堂内にはいずれも国宝の本尊阿弥陀如来坐像(鎌倉時代、寄木造)、無着菩薩立像・世親菩薩立像(鎌倉時代、寄木造)、増長天・持国天・広目天・多聞天の四天王立像(平安時代、木心乾漆像)が安置されているそうだ。
 藤原不比等を祀る堂であり、本尊を始めとする仏像に参拝できないが、外から合掌する。

 北円堂から境内の南端、五重塔に向き合う形の南円堂(重要文化財)に向かう(写真)。
 話が飛ぶ。藤原不比等には4人の男子がいて、長男は南家、次男は北家、三男が式家、四男が京家として朝廷の有力者になった。794年の平安京遷都後、52代嵯峨天皇(786-842)の信任を得た北家の藤原冬嗣が台頭する。
 その冬嗣が父内麻呂追善のため、813年に藤原家氏寺の興福寺に南円堂を創建する。現在の堂は4度目の再建で、江戸時代の1789年に建てられた。
 北円堂と同じ八角堂を踏襲しながらも、唐破風の向拝を付けるなど江戸時代の造作が加えられ、北円堂に比べ華やいでいる。
 通常は非公開だが、堂内にいずれも国宝の不空羂索観音菩薩坐像(鎌倉時代、寄木造)、増長天・持国天・広目天・多聞天の四天王立像(鎌倉時代、寄木造)、法相六祖坐像(鎌倉時代、寄木造)は安置されているそうだ。
 南円堂は西国三十三所第九番札所であり、唐破風の向拝と華やかな外観が目立つため、参拝者が多い。
 藤原内麻呂を祀る堂であり、堂内の仏像に参拝できないが、向拝の前で合掌する。

 南円堂南の石段を下ると、東に三重塔(国宝)が見える(写真)。平安時代後期の1143年、75代崇徳天皇(1156年、保元の乱で後白河天皇に敗れる)の中宮が建立したが、1180年に焼失、鎌倉時代初期に再建された。
 高さ20mほどの小さな塔だが、各層の高さに対して屋根が大きく延びだしていて、しかも上層にいくほど屋根の大きさが減衰し、空を舞うような軽やかさを感じる。
 境内からは木立に隠れて気づかれにくいため、国宝にもかかわらず参拝者はいなかった。静かな雰囲気のなかで塔を鑑賞できる。
 堂内は通常非公開だが、本尊弁財天坐像が安置され、千体仏が描かれているそうだ。合掌し、興福寺参拝を終える。

 東金堂の北側、かつての食堂跡に興福寺の国宝、重要文化財級の仏像、美術品、工芸品を収蔵、展示する宝物収蔵庫=国宝館が建っていて、2008年2月に入館した。展示されているのは収蔵品の一部だが、それでも所狭しと並ぶ仏像などを見たので記憶が錯綜する。強く印象に残った2点を記す。
 高さ5.2mの千手観音菩薩立像(国宝、写真web転載)は遠くからでも目を引く。食堂の本尊として鎌倉時代に寄木造、漆箔で造立された。合掌した2手を除き、宝鉢を持つ2手と38の脇手で計40手になり、仏教では有世界25の生き物を救うとされていて、40の手×25の有世界=1000となり、千=無数、無限の人々を救う手をさしのべている観音菩薩の慈悲を表すそうだ。合掌。

 教科書でも習った阿修羅像(あしゅら国宝、写真web転載)は八部衆の一つで、3つの顔と6本の腕を持つ三面六臂の姿で立っている。顔立ちは少年のようなりりしさが表現され、眼差しははるか彼方=仏の世界?を見つめているように感じる。
 八部衆とは、インドにおける8つの異教の神を仏教の守護神として表したものである。興福寺には、奈良時代に造立され西金堂の本尊釈迦如来の周囲に乾漆八部衆立像=一般の八部衆とは少し異なり、阿修羅像をはじめ武装した五部浄(ごぶじょう)、沙羯羅(しゃがら)、鳩槃荼(くばんだ)、乾闥婆(けんだつば)、迦楼羅(かるら)、緊那羅(きんなら)、畢婆迦羅(ひばから)の8体の像が並べられていた。
 八部衆立像を一体ずつ拝観するが、教科書で習った顔立ちのりりしさ、眼差しの鋭さを感じる阿修羅像に気を引かれる。合掌。

 ほかにも、薬師如来仏頭(白鳳時代、銅造)、板彫十二神将(平安時代、木造)、法宗六祖坐像(鎌倉時代、木造)、金剛力士像(鎌倉時代、木造)、天灯鬼・竜灯鬼像(鎌倉時代、木造)などの国宝や多くの重要文化財が展示されている。穏やかな顔、やさしい顔、厳しい顔、修行にはげむ顔・・を拝観し、国宝館を出る。 (2021.12)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする