yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

沖縄の伝統民家は琉球石灰岩の石垣と福木で屋敷を囲い、入口には目隠し+風よけの設ける

2017年03月31日 | 旅行

1995 沖縄のひんぷん /1995.1
 沖縄・那覇空港には羽田から3時間弱かかる。比べて、韓国ソウルには2時間ほどのフライトで着く。実際の距離も東京-那覇が直接で1700km、東京-ソウルは1500kmで、時間距離では那覇よりソウルの方がずっと身近だ。加えて、東京は北緯36°あたり、ソウルの38°あたりで緯度は2°しか違わず季節感が似ているが、那覇は北緯26°あたりで東京とは10°近い緯度差が生じ、そのため那覇の冬の気温は東京より10度も暖かである。沖縄は春春夏夏の二季しかないといってもよく、植物相もずいぶんと違っていて表面的には風土の違いを強く感じさせる。
 しかし、地図を丁寧に見ていると、沖縄と九州のあいだにはたくさんの島が並んでいて、それは一方で台湾まで続き、琉球弧と呼ばれる海の道を作っているのである。島と島のあいだを行き来するには小舟でも十分だし、潮の加減で近くの島に流されることもしょっちゅうあったのではないだろうか。自然に互いが助け合い、交流が深まっていき、文化が交錯しあったはずだ。韓国が山陰地方と直接的な交流があったように、琉球弧に住む人々と九州地方とは密接な交流があり、それは順次、日本の各地へと伝播していった、と思う。この辺のことは柳田国男氏の海上の道に詳しい。あるいは司馬遼太郎氏の街道をゆく・沖縄先島への道もいい。

 沖縄の音楽の響きは独特であるし、沖縄人の方言にはかなり分かりにくいときがあって耳を通した理解では確かに異文化である。しかし沖縄にいると、心の奥底で遠い祖先から遺伝情報として組み込まれたDNAが、沖縄の響きや沖縄人の仕草に共鳴し、血がふつふつとたぎってきて一瞬祖先に邂逅したような、そんな気分を感じることがある。そう感じる人は多いのではないか、それとも思いすぎだろうか。

 住まいに話を移そう。伝統的な集落は山を背に海を前にして立地しいる。山の森は、腰当(くさて)の森と呼ばれていて、その意味は、祖先神が住みつき集落を包み込んで人々を優しく守ると信じられていることにある。母親が膝の上に子どもを抱きかかえる構図が集落立地に具現化されていると考えることもできる。海はニライカナイの遥か彼方にある先祖の出自と自分たちを結ぶ。海を無くしたとき彼らは自分たちの歴史をも失うと考えている。海は、自分たちが浮遊の存在ではなく歴史として連鎖する輪の一つであることを具象化してくれる存在なのである。このあたりのことは仲松弥秀氏の著書に詳しい。
 山を背にし海を前にする集落形は中国の風水にある背山臨水に一致する。かつて琉球弧を経て中国の風水が伝わっており土着の世界観と風水思想が混交したとの説も聞かれる。実際、修復された首里城も風水的立地にかなっている。

 沖縄には台風が再三襲来する。中城(なかぐすく)あたりの城跡に登ると東に太平洋、西に東シナ海を同時に眺めることができるほどで、それだけ暴風はすさまじく屋敷構えは風の防御が第一に考えられた。まず敷地の周囲に琉球石灰岩などで石垣が築かれ、その上に成長が早く葉が密生する福木が隙間なく植えられた。
 沖縄中部から北部の伝統的な集落では、福木が密林をなし、通りから建物が見えないほどに屋敷を囲っている例が少なくなかったが、近年、福木の屋敷林が次第に失われてきた。伝統的な景観を残している備瀬はいまや福木の町並みとして名所になっているほどである。
 屋敷への入口は同時に暴風の弱点になるので、ひんぷんと呼ばれる石塀が母屋とのあいだに建てられる。(上写真:沖縄中部の伝統な屋敷は福木の屋敷林とひんぷんに守られ、下写真:民家は開放的である)中国の福建省あたりでも屏風と呼ばれる石壁を母屋の前に建てる習慣があるそうで、これも琉球弧を伝わってきた名残かも知れない。
 字義通りに理解すれば風を防ぐ塀だが、沖縄では屋敷内のプライバシーを守る目隠しの説も強い。母屋は寄せ棟の屋根を低くして風に備えるとともに、急勾配の本瓦葺きで雨水を早く流すように工夫されている。そのうえ、獅子を思わせるシーサーを屋根に乗せ住まいを暴風から守護しようとする。
 形は異文化だが発想に私たち日本と共鳴する点が多い。それはまた中国とも共振していて、琉球弧の上に同時代が形成されてきたことを示唆しよう。

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2017鎌倉七福神+江ノ島④ 成就院→極楽寺→江ノ島の辺津宮、中津宮、奥津宮、岩屋を歩く

2017年03月30日 | 旅行

2017 鎌倉七福神+江ノ島を歩く④ /2017.3記 ①~④フルページはホームページ参照

 11時過ぎに北鎌倉から歩き始め15時ごろ、鎌倉七福神をすべて歩き終わった。
 今年は日本橋、与野に続き3度目の七福神巡りだが、ほとんど神社仏閣と七福神の関わりがはっきりしない。こじつけたような七福神もあったし、七福神が見つからないこともあった。信ずる者だけが救われるという考えもあるが、私には健康ハイキングの御利益がありそうだ。
 健康ハイキングが狙いならば、七福神巡りでなくてもいい。今日の宿は稲村ヶ崎海岸の鎌倉パークホテルで、明日は江ノ島を歩き、弁財天を拝観する予定である。七福神巡りは明日の弁財天をもって卒業にするか、などと考えながら長谷駅まで下り、踏切を渡り、海岸沿いを西に向かって歩いた。歩きづめで足が棒になり出した。海を眺めながら、てくてく歩く。

15:50 鎌倉パークホテルチェックイン、部屋は相模湾に面した突端で、眺めがすばらしい。宿の善し悪しの一つは部屋からのすばらしい眺めである。早々と入浴して足を休め、海を見ながら鎌倉ビールを楽しんだ。
 夕食は海の幸と海の眺めを楽しもうと、和会席にした。すっかり暗くなった相模湾の彼方に明かりがちらちら揺らめいている。三浦半島だろうか。座ると堤防で海は見えなくなるが、波の音が聞こえる。
 ドリンクメニューの最初に利き酒セットがあった。清酒・相模灘、吟醸・千峰天晴、大吟醸・雨過天青のセットで、いずれも地元の酒処である。まずは清酒を一口、すっきりした味、次に吟醸を一口、旨みがある、そして大吟醸を一口、すっきり軽やかな感じ、肴にもよろうが吟醸が私の口に合う。ということで、清酒を空け、大吟醸を空け、最後に吟醸を空けた。
 料理はまだ続くので、被災地支援になればと岩手県二戸の南部美人を頂いた。まだ料理が終わらないので被災地支援に福島県のてふという酒をお願いした。南部美人もてふも旨みがある。すっかりいい気分で、食事を終えた。

 翌朝は曇りで、日の出は見えなかった。風は冷たい。ホテルのパンフレットには、長谷駅まで900m12分、長谷駅の次の極楽寺駅まで1000m13分とある。極楽寺、途中の成就院が長谷寺と並んで紹介されていたので、成就院に立ち寄り極楽寺駅に向かうことにして、9:30にホテルを出発した。
 上り坂の両側が崖になっていたから、ここも鎌倉への切通しだったかも知れない。
 左の崖の上に成就院があった。坂道の参道を整備していた。説明によると、108段の階段の両側の崖には260株ほどのアジサイが咲き誇るが、今年は参道整備のため見られないといったことが記されていた。アジサイのシーズンはここもかなりの人出になるようだ。
 登り切った境内からも相模湾の眺望が楽しめるらしいが、やはり工事のため本堂の先は進入禁止になっていた。狭い境内だが弘法大師の像、不動明王像などが置かれ、あますところなく庭園に整備されていた。弘法大師(774-835)の年譜には記されていないが、820年代に鎌倉を訪れ、護摩修業をしたそうで、鎌倉を始め関東には弘法大師像を祀る寺が多いそうだ。

 10時ごろ、極楽寺駅と線路の向こうの極楽寺が見えた。小雨がぱらつき始めたので傘を広げながら、まず極楽寺に向かった(写真)。山門前には高校生のグループが集まって写真を撮っていた。
 茅葺きの風格ある山門が珍しかったようだ。創建は1259年、北条重時(1198-1261、北条義時3男)が現在地に移し、元寇襲来の際に祈祷を行うなど、格式の高い寺だったようだ。本堂は方形屋根をのせ、こぢんまりしていたが、境内はよく手入れされていた。

 10時15分ごろの江ノ電に乗り、江ノ島駅に向かう。稲村ヶ崎、七里ヶ浜を過ぎる。話が小学校時代に飛ぶ。いまの平和島駅はかつて学校裏と呼ばれていた。その後、学校裏に該当する小学校は移転したが、その小学校が私の出身校で、遠足?で七里ヶ浜や江ノ島に行ったことがある。いま江ノ電に乗りながら七里ヶ浜を眺めて、記憶にほとんどないにも拘わらず、懐かしく感じた。
 10時半過ぎ、江ノ島駅についた。雨は上がっている。海に向かって歩くが、昔の記憶がまったくない。全長389mの江ノ島大橋=江ノ島弁天橋を渡ると、青銅製の鳥居が待ち構えている。左右の土産物店、食べ物店から声がかかる。中国語、韓国語、・・語が聞こえてくる。横浜、鎌倉などと組み合わせて観光に来るのだろうか。
 テレビで紹介された岩本楼を過ぎた先に赤い鳥居が立っていて、階段の先に瑞神門が見える(次頁写真)。瑞神門は、1層目を白漆喰で塗り固めた袴腰とし、2層に楼閣をのせた竜宮門造りになっている。

10:50 また雨が降り出した。瑞神門を抜け、息を切らせながら階段を上りきると、正面に江島神社辺津宮、左手に奉安殿が並んでいる。江ノ島の西には奥津宮、島の中央に中津宮があり、これらを総称して江島神社と呼んでいるらしい。
 まずは正面の辺津宮に参拝する(中写真)。入母屋屋根に千鳥破風と唐破風を構え、格式を見せている。

 辺津宮の左に建つ奉安殿は八角形平面で、木部を鮮やかな朱色で彩色し。辺津宮の格式に比べ、華やかなつくりである(下写真)。奉安殿には七福神の一人で女性の弁財天が祀られているためであろう。
 拝観券を購入し、弁財天を拝観する(撮影禁止)。正面左に色白の肌を見せ、琵琶を抱えた妙音弁財天が鎮座する。右には衣服をまとい剣を持った八臂弁財天が安置されている。妙音弁財天は鎌倉中期、八臂弁財天は鎌倉初期の作だそうだ。となると、それ以前から弁財天信仰が広まっていて、鎌倉幕府の始まりで江ノ島に弁財天が祀られたということになろう。江戸時代には七福神巡りが盛んになり、江ノ島は弁財天詣で大変な賑わいになったそうだ。

 雨は降ったりやんだりを繰り返している。奉安殿を後にして八坂神社を通り、上り道+階段の先の江島神社中津宮に向かった。 木部を朱塗りで彩色した鮮やかな唐破風の前で参拝する(写真)。奥に水琴窟が埋め込まれていた。耳を澄ますと水琴が響くが、あいにく傘に当たる雨の音が雑音になってしまった。
 中津宮の先に展望台とレストランがある。雨が強くなってきた。体も冷えてきた。江ノ島は意外と起伏が激しい。雨宿りをかねてコーヒータイムにした。小雨に煙った海が見える。ヨットが何艘も係留されていた。天気が良ければヨットが白い帆に風を受けて疾走する光景に代わるのであろう。
 休憩のあとは下りになり、ほどなく江島神社奥津宮に出る。白木のままの唐破風前で参拝する(写真)。天井に江戸時代の画家酒井抱一の八方睨みの亀が描かれている。どこに立っても亀の目が自分を睨んでいるように見える。天井に描かれた龍がどこに立っても自分を見つめているように見える図法と同じ描き方である。亀、ないしは龍がいつも自分を見守ってくれるということであろう。
 江島神社の参拝を終えた。奥津宮は江ノ島の西外れで、北に下ると岩屋があり、さらに奥に第2の岩屋があるので見学した。弘法大師が岩屋を訪れたとき、弁財天が現れたという伝説があるそうだ。曇り空の相模湾を一望し、上り階段を戻る。またも息を切らせ、次に瑞神門まで下る。山登りを思わせる上り・下りだった。
 湘南江の島駅まで歩き、湘南モノレールを初体験して、大船駅上の寿司屋で遅いランチをとった。お疲れさん。2日間でのべ34000歩、よく歩いた。

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2017鎌倉七福神③ マグロづくしのランチ→長谷の御霊神社+福禄寿→長谷寺+大黒天

2017年03月29日 | 旅行

2017 鎌倉七福神+江ノ島を歩く③

 本覚寺をあとにする。空腹を感じながら鶴岡八幡宮の表参道に出たが、気になるレストランが見当たらない。鎌倉駅前まで歩き、まぐろづくし御前を見つけた。2階席で明るく、居心地も良さそうだ。生ビールでまぐろを堪能した。

御霊神社/福禄寿
13:50 鎌倉駅から江ノ電長谷駅に向かう。長谷駅から緩い上り坂を数分歩くと、左に折れる細道がある。小さな字で御霊神社と書かれていた。
 裏通りのような細道を進む。右手が長谷寺の崖になり、さらに細くなった道を行くと御霊神社の横に出る。

14:00 御霊神社境内の左手=南に江ノ電の踏切があり、踏切手前に鳥居が立っていて、踏切の向こうに参道が伸びていた。おそらく、長谷駅を出たらすぐに踏切を渡り、線路に沿って西に進むと御霊神社の参道に出るようだ。
 仕切り直しで、踏切を渡り、鳥居をくぐって境内に入る(写真)。まずは正面基壇の上の本殿に参拝する。古めかしいが、要所要所にはしっかりと彫刻が施されていて、由緒を感じる。
 説明板+インターネットによると平安時代の創建で、このあたりの有力な5家の祖を祀り、五霊神社と呼ばれていたらしい。五霊が御霊に言い換えられたようだ。
 5家のうち、とりわけ鎌倉権五郎景政が後三年の役(1083-1087)の際、鎌倉武士を統率し、源義家のもとで大活躍したそうで、以来、鎌倉権五郎景正のみを祭神とし、権五郎神社とも呼ばれるようになった。本殿には鎌倉権五郎神社の扁額がかかっていた。しかし、本殿には福禄寿は見られない。

 境内にはいくつもの小さな社がある。一つ一つ見て回ったがやはり福禄寿はない。
 鳥居に覆い被さるようにタブノキが伸び上がっている。高さ20m、樹齢350年?の見事な樹形である。その奥に宝物館?があり、お面が展示されている。
 説明によると、権五郎景政公の命日に天狗、烏天狗、鬼などの面をかぶった10人が練り歩く面掛行列という行事が行われるそうだ。10人のうち8番目の面が福禄寿で、御霊神社が七福神巡りの一つになったようだ。

長谷寺/大黒天
 細道を戻り、長谷寺へ向かう。
14:15 長谷寺は2008年にも訪ねているが、そのときよりも山門あたりが広々、すっきりしている。駐車場が大きくなり、ショップ、カフェも新設されたようだ。
 長谷観音はよく知られている、アジサイも人気、鎌倉大仏と組み合わせて参観する人は多い、外国人も増えたなどなど、応じて整備されたのであろう。

 受付で300円の拝観券を購入する。七福神巡りで拝観券を買うのは初めてだが、境内は広く見どころが多い。境内整備の足しになると思えば廉価である。
 傾斜地に立地していて、本堂は階段をのぼった上だが、山門の先や、階段の途中にも堂や社、見どころが並んでいる。ついついあっちこっちに寄りたくなるが、やはり本堂拝観が先であろう。
 縁起によれば、奈良時代721年、大和長谷寺を開山した徳道上人の本願により楠の巨木から2体の観音像が造顕された。1体は大和長谷寺の本尊となり、もう1体は衆生済度シュジョウサイドの誓願を込め海に奉じられた。
 736年、相模国に尊像が流れ着いた。大和長谷寺の開基藤原房前により鎌倉に遷座された。この尊像、十一面観音菩薩を本尊として、鎌倉長谷寺が創建された。古刹であるが、本堂は再建であろう(写真)。
 本尊は山際の一段と高い堂に安置されている。手前の堂は入母屋屋根に裳階を回していて、重厚な構えである。

 堂内は写真撮影禁止なので十一面観音菩薩像をインターネットから転載した(写真)。高さ9.18mの観音像が、金箔の後背を背に輝いている。基壇の上に立ち上がっているので、頭の上に乗っている10面の顔立ちははっきりしないが、正面の彼方を見ている柔和な顔は衆生済度の祈りを感じさせる。南無阿弥陀仏、しばらく見とれる。
 本堂を出たあと、見晴台から相模湾を眺めた。長谷寺の標高は20mほどで、相模湾に面した側は崖になっているので見通しはいい。大勢が海を眺めながら、記念写真を撮り、歓談していた。見晴台の隣に海光庵という食事処がある。空いていたので、海を眺めながらコーヒータイムにした。
 海光庵を出ると向かいに経蔵が建っている。中央に輪転蔵と呼ばれる回転式の経蔵が立っていて、一回転させると中に納められている一切経をすべて読誦した功徳が得られるそうだが、観音御縁日など回せる日が決まっていた。今日は縁日ではないので、固定されていた。部屋の壁をぐるりとマニ車が18基並んでいて、こちらはいつでも回せる。蔵に入った人が次々と回していた。
 経蔵の先に眺望散策路が整備されている。梅雨時にはアジサイが咲き乱れ、大変な人出になるところだが、この時期は花がなく空いている。見晴台より標高は高く、由比ヶ浜、三浦半島がよく見える(写真)。
 散策路を下り、経蔵前を通り、もう一度十一面観音菩薩像を拝観し、稲荷者、地蔵堂を過ぎ、池まで下る。左に折れ、弁天堂を通り、弁天窟をのぞくが七福神が見つからない。
 山門に向って左に大黒堂が建っていて、拝観すると鮮やかな色合いの大黒天像が置かれていた(写真)。笑う者に福来たるといった笑顔である。笑顔の石地蔵を見たあと、山門を出る。

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2017鎌倉七福神② 宝戒寺+毘沙門天→妙隆寺+寿老人→日蓮上人辻説法跡→本覚寺+恵比寿

2017年03月27日 | 旅行

鎌倉七福神+江ノ島を歩く②

宝戒寺/毘沙門天
 12:35 鶴岡八幡宮・三の鳥居を東に折れて3~4分歩くと宝戒寺の門前に出る。
 大きな八角形の敷石が奥まで伸びていて、その先に本堂が見える。参道の両側の植栽はよく手入れされている。
 宝戒寺は、天台宗で、開基は後醍醐天皇(1288-1339)だそうだ。もともとここは北条家の屋敷地だった。1333年、新田義貞による鎌倉攻めで870名余が自害し北条一族は滅びる。
 後醍醐天皇は足利尊氏に命じ、1335年、北条家の霊を弔うために北条家ゆかりの地に寺を建立させた。これが宝戒寺の始まりである。
 境内の広さから、当時の北条家の権勢がうかがえるが栄枯盛衰、代わっていまは四季折々の花が主役になった。とくに白萩が有名らしい。

 本堂に参拝する。本尊の子育経読地蔵大菩薩の手前に毘沙門天像が置かれている(撮影禁止)が、遠目で憤怒の顔つきは分からなかった。

妙隆寺/寿老人
 宝戒寺から南に歩く。鶴岡八幡宮の表参道から奥に入っているためか、静かな住宅地になっている。数分で、右手に妙隆寺の山門が現れた。
 12:50 山門は瓦葺き屋根をのせているが、門の幅に対し高すぎ不安定に見える。門をくぐると、正面奥に本堂が見える(写真)。
 このあたりは鎌倉幕府の有力御家人だった千葉常胤の子孫・胤貞の別邸跡と伝えられ、千葉屋敷とも呼ばれていたらしい。胤貞が祖先追福のため、1385年、七堂伽藍を建立したのが妙隆寺の始まりになる。
 本尊は日蓮上人(1222-1282)、開祖は日英上人で、第2祖の日親上人は室町幕府第6代将軍足利義教の悪政を戒めたため焼けた鍋をかぶせられたとか、境内にある池で 100日間水行を行ったとか、が説明板に書かれていた。

 参拝後、堂内をのぞくと、ケヤキの寿老人が置かれていた(写真)。右手に背丈の倍ほどの杖を持ち、穏やかな顔をしていた。

 妙隆寺の少し先の左手に日蓮上人辻説法跡の説明板が立っていた。日蓮聖人(1222-1282)は1254年、現千葉県の阿波・清澄寺から鎌倉に来て草庵を結び、毎日、このあたりで法華経の功徳を説いたそうだ。
 当時は鎌倉が都として栄えていたことの証になる。1260年、立正安国論を5代執権北条時頼に提出したことで、1261年、伊豆に流罪となった。辻説法も草庵も痕跡は残っていない。

 この通りには食事のできそうな店はない。休まず、南に歩くと道は左に曲がるが、その右手に堂々たる本覚寺の楼門が建ち上がっていた。

13:00 本覚寺/恵比寿様
 このあたりは鎌倉幕府の裏鬼門になり、源頼朝(1147-1199)はここに夷堂を建てさせた。夷は異民族の蔑称にも使われるが、平らげる、討ち滅ぼすといった意味もある。頼朝は、裏鬼門を守るために鬼に等しい敵を平らげる、打ち負かすといった願いで夷堂を建てたのであろう。
 日蓮聖人の系譜を見ると、伊豆に流された日蓮聖人は阿波に戻るが、1271年、佐渡に流罪となり、1274年には身延山に配流となるも久遠寺を開く。1282年、身延山を下り常陸に向かう途中、現東京都大田区の池上で没している。
 一方、本覚寺の説明板+インターネット資料によれば、佐渡流罪を許され、1274年、鎌倉に戻り、夷堂を住まいとして布教を進め、その後、身延山に入り久遠寺を建立し、日蓮宗を広めたそうだ。
 身延山久遠寺縁起によれば日蓮宗の信徒だった甲斐国の地頭・南部実長が1274年、日蓮上人を招いた。日蓮聖人は草庵を結び法華経を門弟に教え、1281年に久遠寺を建立、翌1282年、常陸に向かう途中の武蔵国池上で息を引き取ったと記されている。
 それぞれがそれぞれの立場で記録するから、微妙な差が出ても仕方ないかも知れない。鎌倉に着目すると、辻説法は1254年~であるから30代、夷堂を住まいにしたのは1274年~だから50代になる。働き盛り、意気盛んな年代である。

 足利持氏が夷堂があった場所に寺を建て、1436年、日出上人に寄進し、本覚寺が創建された。
 夷堂に住んで布教したゆかりの寺なので?、日蓮上人の分骨が分骨堂尼に納められているそうだ。当然ながら日蓮宗で、本尊は釈迦三尊である。境内は広々としている。本堂も瓦葺き入母屋+唐破風の格調高い作りである。本堂に参拝し、堂内をのぞくも恵比寿像は見当たらない。

 楼門の隣にモダンな建物が建っている(写真)。緩やかな膨らみのある方形の屋根が空に伸び上がっている。七福神恵比寿の幟がはためいていた。
 基壇を上がる。夷尊堂と書かれていて、堂内に小さな黒光りする像が祀られていた。夷尊神らしい。夷=えびすは恵比寿に通じるから、裏鬼門守護の夷と七福神の恵比寿が習合したのであろう。

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1990島根県斐川平野の農家を対象に住み方調査=通世代同居は私室を確保+家族室を共用

2017年03月26日 | studywork

1990「通世代同居家族の住み方にみる私室確保と家族の共同性」 日本建築学会関東支部研究報告

1.はじめに
 伝統的農家住宅では通世代家族の同居が一般的に行われてきたことを、「伝統的住居における三世代の住み方について」(90年日本建築学会関東支部研究報告会)、続いて「通世代同居の住み方にみる家共同体」(90年日本建築学会大会学術講演会)において報告した。これらの報告でも触れているが、生活の近代化に呼応するプライバシーの確保は住宅計画の要点となっている。一方、高齢化の社会問題に対し、通世代家族の共同生活が見直されつつある。
 そこで、本報告では島根県斐川平野の伝統的農家住宅を事例として、別棟等に私室を設けプライバシーを確保する住み方と家族の共同性について考察、報告する。なお、調査住宅は15、調査年は1990年である。

2.暮し方と部屋の利用

1)家族構成:・・略・・ 調査対象地である島根県斐川平野は、よく知られる散居村であり、伝統的な住居形式をもつ屋敷構えが数多く、こうした住居において通世代家族の同居が一般的な住み方であることをうかがわせる。
2)世帯交替:・・略・・ 世帯交替の時期は特に定められていないが、病気のため体が不自由になったり、亡くなった場合に次の世代に交替する傾向が多い。
3)主な働き手:―世代・二世代家族の場合は世帯主である老夫または中夫が主な働き手となっている。また三世代・四世代家族になると世帯主夫婦と一世代前の老夫または老婦、そして20才を過ぎた若世代が主な働き手となる。
4)暮し: ①寝室 ・・略・・ 就寝室の取り方をまとめると、主屋のみに寝室を集約する事例が少なく、主屋+北西部に増築したウシロを利用する主屋・ウシロ型(事例6:S2)、主屋+主屋の2階を利用する主屋・2階型、主屋+納屋を改造した寝室を利用する主屋・別棟型(事例1:S1、事例5:Y1)、主屋+ウシロ+別棟型(事例2:M3、事例3:I4)、主屋+2階+別棟型(事例4:N3)のように、世代別に就寝室を分離しようとする傾向がうかがえる。
②炊事 いずれの事例においても、主屋にあるダイドコロと呼ばれている部屋が用いられている。ダイドコロはほとんどの事例で床上化されており、食事室を兼ねたダイニングキッチンの形式となっている。・・略・・
③食事 ・・略・・ 家族全員が主屋にあるダイドコロを共に用いている。つまり、寝室のとられ方にかかわらず、食事の時は家族かダイドコロに集まって共にとっており、家族の共同性を象徴する。
④団らん 特に専用室が用いられることはなく、食事室・炊事室である床上化されたダイニングキッチン形式のダイドコロを用いており、食事を介した家族の団らんをうかがわせる。つまりダイドコロは、炊事室・食事室を兼ねる家族の団らんの場であり、家族の共同生活の中心として位置づいていることを示す。
⑤大切な客の接客 いずれの事例においても、主屋の南側、出入口より最奥に位置するオモテまたはカミノマと呼ばれている部屋(以後、オモテと記す)を用いており、転出家族や親戚の接客は、オモテに隣接し、主屋の南側に位置するナカノマまたはナカザシキ、ザシキと呼ばれている部屋(以後、ナカノマと記す)を用いている。またナカノマは大勢の客がきた場合にはオモテの続き間としても用いられている。さらに、近所の人が訪ねてきたときは、ナカノマに隣接し、主屋の南側に位置するゲンカンまたはアガリハナと呼ばれている部屋(以後ゲンカンと記す)や家族が食事や団らんをするダイドコロ、そしてゲンカンに付随しているハマイタと呼ばれている板間を用いている。
・・略・・
⑥洗濯や掃除などの家事 ・・略・・
⑦育児 ・・略・・

3.おわりに
 通世代同居が一般的な斐川平野の伝統的な農家では、私室として位置づく寝室は、主屋のみに集約される事例はむしろ少なく、世代別に寝室を主屋、ウシロ、2階、別棟に分離しようとする傾向がうかがえる。
 近年は主星・別棟型が増加傾向にあり、私室が主屋内に完結されず、別棟依存によって私室を確保しようとする傾向が指摘できる。
 一方、同居する家族が私室を主屋とは別に別棟等に分離しようとする傾向に対し、食事・団らんのいずれもが主屋にあるダイドコロを共用しており、ダイドコロが通世代同居家族の共同空間の場として位置づいていることがいえる。

 接客空間においては、オモテ・ナカノマ・ゲンカンが接客内容によって使い分けされており、伝統的な空間利用の序列性が継承されていることがうかがえる。
 生活各面に見られる家族の相互扶助とあわせ、主屋のみならず別棟に私室が確保される住形式においても、ダイドコロに象徴されるごとく、食事・団らんの場の共有によって通世代同居家族が家族共同態として生活を営み得ることが事例的に説明できる。

間取りと暮し事例 ・・略・・

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