yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2020.6 黒羽城址公園で紫陽花+芭蕉の館→大谷平和観音・大谷寺千手観音へ

2020年08月30日 | 旅行

木の旅>   2020.6 栃木 八方ヶ原・黒羽・大谷寺を歩く 2

 宿は、正式にはかんぽの宿栃木喜連川温泉と呼ばれる。
 現さくら市は旧喜連川町と旧氏家町の合併で新設された。旧喜連川町は、奥州街道の宿場町として栄え、江戸時代には喜連川藩が置かれたことに由来し、藩名は藩の北西から南東に流れる喜連川に由来するようだ。地図には、喜連川は荒川とも記載されているから荒川の源流とも考えられるが、藩名は喜連川藩だから古くから地元では喜連川として親しまれていたのではないだろうか。
 宿は、西側を流れる喜連川=荒川と、東側を流れ喜連川に合流する内川(八方ヶ原を源とし前述川崎城跡公園東を流れる)のあいだの南斜面の台地に建っている。部屋の南は目の届く限り緑地で、広々とした眺望である(写真)。

 今回は、新型コロナウイルス感染リスクを気にして、露天風呂付きの部屋を予約した。露天風呂+和室+洋室で、年金暮らしにはぜいたく過ぎ、二人では和室+洋室は広すぎる。加えて部屋付きの露天風呂は真湯で、気兼ねなく入れるものの物足りない。南に面した露天風呂を独り占めし、緑地をのんびり眺めながら、節約するべきだった+温泉を楽しむべきだった、と反省する。結局、夕食後の空いてそうな時間に温泉大浴場の露天に入り直した。
 喜連川温泉は1900年代末、町おこしで新たに掘削された温泉で、日本三大美肌の湯だそうだ。たっぷり露天温泉につかったから、肌が若返ったかも知れない。

 夕食は食事処の過密を避けるため2部制である。広々とした雰囲気の食事処で量少なめの和食膳を頂いた。先付、お造り、煮物、焼物、蒸し物、台物、食事、水菓子の順で、先物のオクラ胡麻和え、煮物の夏野菜、蒸し物の那須豚、台物の那須どりなどが地の物のようだ。
 お酒は地産地消・栃木の地酒をコンセプトに醸造されている小山・西堀酒造の純米吟醸・門外不出を頂いた。旨みのあるすっきりした飲み口だった。おもに栃木県内で流通していて、他県ではなかなか手に入らないらしい。名前の通りの門外不出を味わえた。
 今日の歩数は五里霧中であまり歩いていないため、家に居るときとさほど変わらない9800歩だった。明日の天気を期待したいが、露天温泉に入っているころパラパラ、チラチラし出した。
 明日は明日の風が吹く、気にせずベッドに入る。

 翌朝、部屋から見える緑地が湿っている。露天温泉に入ったころにはチラチラしていたのが、朝食ごろから小雨になった。
 天気が良ければ標高およそ1300mの鹿沼市・横根高原ハイキングを予定していたが、雨模様なので大田原市に戻り、黒羽城址公園の紫陽花を鑑賞することにした。
 9:15過ぎ、宿を出る。国道293・294号線などを北に走り、国道461号線を右折し、那珂川を越えて間もなく黒羽城址公園駐車場に着いた。広めの駐車場だが、混み合っていた。
 例年、このころに「芭蕉の里くろばね 紫陽花まつり」が開催されていて、2020年は28回目の予定だったが、新型コロナウイルス感染予防のため紫陽花まつりは中止になった。
 紫陽花まつりは中止でも、紫陽花は例年通り花を咲かせている。例年紫陽花を楽しんでいる人や私たちのように小耳にはさんだ人が集まってくるようだ。本格的なカメラを持参している人や、グループで訪れた人、家族連れなどが石垣のあいだの階段を上っていく。

 階段を上がったところに、「黒羽城の由来」「俳聖松尾芭蕉と黒羽」の説明板がある・・芭蕉は後述する・・。
 黒羽城は1576年=天正4年、黒羽藩主大関高増が、西を流れる那珂川と東を流れる那珂川の支流の松葉川のあいだの高台に築いた山城である。川にはさまれて高台が細長いため、城の東西は250mほどだが、南北は1500mに及ぶそうだ。東西が狭いためか、本丸をはさんで北に二の丸、南に三の丸の構えで、本丸を囲んで土塁、空堀、水堀を巡らせている。廃藩置県に伴い廃城となり、建物は解体され、いまは土塁、空堀などがかつての面影を残している。
 説明板の先の土塁に設けられた遊歩道を上る。樹木がうっそうとし、足元は紫陽花が青紫色の花を咲かせている(写真)。
 上りきると、平坦な本丸跡に出る。広場になっていて、雨をたっぷり吸い込んでいる。右手に文化伝承館・ステージがある。広場は盆踊り会場などに、ステージはカラオケコンテストなどに使われるようだ。
 本丸を囲む土塁に沿って紫陽花が花を咲かせている。青紫の紫陽花がほとんどだが、所々に黄色い紫陽花も咲いている。紫陽花は土壌が酸性なら青、アルカリ性なら赤になるといわれるが、学説?通説?通りにはならないようだ。
 向こう正面に物見櫓が建っている。上ると、那珂川沿いの田園風景が一望できる。田んぼの稲は雨で勢いづいているように見える。
 城址公園は十分に広く傘を差すとほどほどに離れるので、混み合った雰囲気はないし、新型コロナウイルスの感染リスクも低い。多くの見物人はマスク無しで紫陽花を眺めたり、物見櫓から一望したりしていた。
 紫陽花を眺めながら、土塁を一回りする。紫陽花は雨が似合う。

 空堀に架けられたあじさい橋を渡る。空堀は10mほどの深さがありそうで、斜面は紫陽花で埋め尽くされている(写真)。27回=27年間の地元の人々の紫陽花まつりにかける熱意の結晶を感じる。

 あじさい橋を渡った先が馬出し郭で、その先がかつての三の丸になり、黒羽芭蕉の館が建ち、芭蕉の広場が整備されている。黒羽芭蕉の館はL字型平面で、馬出し郭からは石段をくぐり、館の下を抜け、石段を上ってアクセスする。芭蕉の広場=三の丸側から見ると、館の下をくぐり、馬出し郭を抜け、空堀の跳ね橋=現あじさい橋を渡って本丸へ登城といったイメージになる。設計者は城郭の構えに詳しく、櫓門をイメージして館の下をくぐる登城路をデザインにしたのかも知れないが、雨で濡れている石段の上り下りは滑りやすい。足の悪い方やベビーカーにも不向きだと思う。
 芭蕉の広場の正面に建つ黒羽芭蕉の館は屋敷林を背にした入母屋屋根の農家を思わせる素朴なたたずまいである(写真、右手に本丸に向かうL字型の館が延びている)。左手の馬に乗った芭蕉と供の曽良のブロンズ像が出迎えてくれる。
 
 江戸の俳諧師松尾宗房=のち桃青(1644-1694)は、1680年、江戸・深川の草庵に移り、号を芭蕉と改める。1689年=元禄2年3月27日、弟子の河井曽良と旅に出る。この旅の紀行文が教科書でも習う「おくのほそ道」である・・隅田川沿いに芭蕉庵史跡展望庭園があり、芭蕉のブロンズ像が置かれている。草庵跡とされる場所には芭蕉稲荷神社が建立され、芭蕉碑や句碑がある。隅田川沿いの遊歩道には代表句が紹介されている。隅田川散策も見どころが多い・・。
 深川を後にした芭蕉と曽良は、同年4月4日から、芭蕉の門人で黒羽藩城代家老を務める浄法寺高勝=俳号桃雪邸や弟の俳号翠桃邸に14日間逗留している。それが縁で、三の丸跡に芭蕉の広場、芭蕉の道、三の丸を南に下った旧浄法寺邸跡には芭蕉公園が整備されたらしい。
 黒羽芭蕉の館のエントランスと芭蕉展示室には、芭蕉と黒羽やおくのほそ道に関する資料が展示紹介されている。奥の大関記念室には黒羽藩主大関氏の蔵書や黒羽藩校の蔵書などが展示され、その奥に名誉町民から贈られた蔵書を展示した青山文庫が続き、さらに奥の特別展示室には藩主大関家伝来の甲冑などが展示されていた。
 入館時は私たちだけで、途中でもう一組が入館してきた。皆さんは花より団子、芭蕉より紫陽花ということだろうか。

 いったん駐車場に戻り、車を芭蕉公園側の駐車場に移す。こちらには観光客の駐車はなかった。芭蕉公園は旧浄法寺邸の庭園だったようで、枯山水はないものの、回遊式に造園されていた。いつの間にか雨は止んだ。雨に湿った緑は生き生きしている。築山や林のあいだの小径を歩く。
 黒羽芭蕉の館、芭蕉公園のところどころに芭蕉の句碑が置かれている。その一つが、深川を旅立つ気持ちを詠んだ「行く春や鳥啼き魚の目は泪」である。芭蕉公園にも黒羽城址公園と同じ「俳聖松尾芭蕉と黒羽」の説明板が立っているが、細かなことは触れていない。
 句碑ごとに、句が詠まれた情景や芭蕉の心情などの解説があると、凡人にも俳諧、俳句が理解しやすい。そうした気づかいがあれば、観光客も足を延ばすのではないだろうか。

 11:30ごろ芭蕉公園を出て、大谷寺・大谷観音に向かう。
 フランク・ロイド・ライト(1867ー1959)設計の旧帝国ホテル(1923竣工)に大谷石が使われていたことは学生のころ知った。40年ほど前、子どもを連れて大谷石地下採掘場跡を見学した。その後、大谷石造りの蔵や建物見学にあわせ、地下採掘場跡も見学した。いずれも大谷寺・大谷観音には寄らなかった。今回は、国指定の特別史跡・重要文化財・名勝である大谷寺・大谷観音を目指す。
 芭蕉公園から、国道294号線を南に走り、国道293号線を右折して、13:00ごろ大谷観音近くに着いた。昼どきなので、国道に面した大きな切妻屋根の蕎麦屋を見つけ、そば御膳を食べた(写真)。4種の具をのせたそばの小鉢と天ぷらのセットで、そば好きにはかっこうだが、少々食べ過ぎた。

 腹ごしらえをすませ、県道188号線=大谷街道沿いの市営大谷駐車場に車を止める。
 大谷石を切り出したあとに参道が整備されている。見上げると、大谷石の崖の上にいまにも転げ落ちそうな岩が見える(写真)。天狗が投げ上げたとの伝承があり、天狗の投げ石と名付けられている。
 大谷石のモニュメントなどの先に高さ27mの平和観音が穏やかな顔立ちで参詣者を迎えている(写真)。27mでは分かりにくいが、太平洋戦争の戦没者供養と世界平和を祈願した彫刻で、高さは88尺8寸8分と8にこだわっている。横に階段が設けてあり、上ると観音様を間近に感じられる。

 平和観音の右手の切り通しを抜けた先が大谷寺である(写真)。後の巨岩の中腹には大きな洞が見える。
 消毒、検温のうえ、山門で一礼し境内に入る。写真の洞の下も自然の洞窟になっていて、洞窟下に観世音の扁額を掲げた入母屋、唐破風の堂宇が洞窟から突き出たように建っている。
 この堂宇が大谷寺で、本尊は大谷石に浮き彫りされた高さ4mの千手観音である(写真、web転載)。810年、弘法大師空海(774-835)の作との説もあるが、彩色の研究からバーミヤン石仏との共通性がうかがえ、アフガニスタンの僧侶の彫刻と推測されている。
 風化している部分もあるが、千手の浮き彫りは円を描いているような動きを感じる。千眼は風化のため定かには見えない。躍動的な千手の観音に合掌。
 堂宇に続く、洞窟の壁面に釈迦三尊、薬師三尊、阿弥陀三尊が浮き彫りされている(写真)。大谷観音パンフレットには誰がいつ頃彫刻したのかについては触れておらず、大分県臼杵の磨崖仏に対し、東の磨崖仏として紹介している。
 臼杵には60体以上の石仏があり、国宝にも指定されていて、格段にレベルが高い。東の磨崖仏は少し筆が先走ったようだ。

 大谷寺境内の奥に池があり、弁財天が祀られている。かつてこのあたりに毒蛇が住み着き、地獄谷と呼ばれていたそうだ。悪病が流行ったのを聞いた弘法大師空海が810年~の東国巡錫ジュンシュクの際、地獄谷を訪れ毒蛇を治めたそうだ。・・前述の千手観音をつくった伝承はこのときの恩恵に尾ひれがついたのではないだろうか・・。毒蛇は改心し、白蛇となって弁財天に仕えているそうで、弁財天の脇には白蛇の像が置かれている。

 14:30過ぎ、大谷寺を後にし、国道293号線を経て宇都宮ICから東北自動車道に入り、途中SAのスターバックスでコーヒータイムを取る。岩槻ICで降り、帰路についた。
 この日は黒羽城趾公園の紫陽花+芭蕉の館散策と大谷観音・大谷寺参拝だけだったから歩数は伸びず、9000歩だった。長い梅雨のあとは連日の猛暑、健康ハイキングは秋になりそうだ。 (2020.8)

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2020.6 栃木・八方ヶ原ハイキングを目指すも五里霧中、おしらじの滝を眺め宿へ

2020年08月23日 | 旅行

栃木の旅>  2020.6 栃木 八方ヶ原・黒羽・大谷寺を歩く 1 八方ヶ原

 依然、新型コロナウイルス感染が広がっている。感染リスクを避けながら散財=ささやかな経済投資と健康+気晴らししようと、東北道自動車エリアマップをにらむ。栃木・かんぽの宿喜連川温泉に泊まり、足を延ばして八方ヶ原でのハイキング、帰りに大谷寺に寄るコースをイメージした。
 当日、さいたまは雲は少なく日が射していた。ほどほどの雲は日射しを和らげてくれ、ハイキングには好都合である。
 岩槻ICから東北自動車道に入り、1時間少々走って矢板ICで一般道に出る。八方ヶ原は、県道30号線を北に走り、途中から県道56号線に左折し、あとは道なりに走ればいい。栃木県矢板あたりも薄日の中を雲が流れていて、ハイキングが期待できる。

 八方ヶ原は標高1000m~1200mの高原で、日光国立公園に含まれる。レンゲツツジの名所としても知られ、展望台から日光の山並みや那須連山を遠望できるそうだ。事前にダウンロードした矢板市八方ヶ原周遊マップには「四方八方絶景三昧」の副題がつけられ、代表的な遊歩道に標高や散策所要時間が書き込まれている。

 八方ヶ原の北は階段状の台地になっていて、低い方から=北から学校平小間々大間々と名付けられ、それぞれに駐車場が整備されている。学校平には牛の放牧場があり、「山の駅たかはら」では地元食材をつかったレストランが人気だそうだ。
 地元食材人気メニューのランチを期待して山の駅を目指して高原を走る。山道らしくなり、標高が上がるにつれが出てきた。上るにつれ視界が悪くなってきたので、ライトを点ける。数台、ライトを点けた車とすれ違った。

 12:15ごろ、霧の中の道路際に標識を見つけ、右折して「山の駅たかはら」に着いた(写真)。木造の骨組みを見せた大屋根の建物で山の駅のイメージに合うが、霧に包まれ、先が見えない。駐車場に止まっていたのは1台だけで、3人組女性と男性が話し合っている。一瞬、新型コロナウイルスで自粛、閉館か?と思ったが、女性+男性が中に入っていった。男性が山の駅のスタッフで、客の女性3人に状況説明をしていたようだ。
 入口で手をアルコール消毒し、マスクを付ける。メニューは、新型コロナウイルス感染の影響で地元食材は入手できないため、そば、うどんなどに限られていた。食べられるだけでも良しとしなければならない。きつね蕎麦を食べる。客は離れて座っている女性3人と私たちだけである。
 新型コロナウイルスの感染余波が八方ヶ原まで迫っている。

 「八方ヶ原周遊マップ」には山の駅を起点にした滝めぐりコースが紹介されている。霧が深いのでスタッフに確認したところ、昨年の大雨で土砂崩れがあり数カ所が通行止めになっていて滝めぐりはできない、霧で見通しが悪いから山あいの道は避けた方がいい、とアドバイスを受けた。状況に詳しいスタッフの意見は最優先である。

 周遊マップには、山の駅の北側をぐるりと一周する平坦コースも紹介されている。階段がないのでベビーカー、車イスでも散策できるらしい。
 12:45ごろ、歩き始める。雨は降っていないが霧で足元はかなり水分を含んでいる。草は水滴が落ちるほどに濡れ、散策路のところ所には水たまりができている。5月中旬ならハルリンドウ、5月下旬ならヤマツツジが咲き誇っているらしい。霧の中に、学校平森林活用体験コースのベンチや木道がぼんやり見える。
 平坦コースとはいえ、アップダウンがあり、足元がぬかるんでいるので歩きにくい。ストーンサークルと名づけられた広場を抜け、展望台に上るが見渡す限り霧に包まれている(写真)。
 車道に出て、山の駅に戻った。25分ほどの散策だった。物足りないがウインドブレーカーも湿ってきたし、五里霧中では道を見失いかねない。

 山の駅スタッフによれば、滝めぐりの一つであるおしらじの滝は駐車場もあり、足元に気をつければ近くまで下りられるそうだ。
 県道56号線を北に、おしらじの滝の標示に注意しながらゆっくり走る。7~8分で標示が見つかった。右手が駐車場で、数台止まっていた。戻ってきた先客はトレッキングシューズの泥を落としていたから、かなりぬかっていそうだ。
 標示の先の山道を下る。狭く、かなり急で、ところどころ岩が顔を出していたり、泥がぬかるんでいたり、木の根がくねっていたり、歩きにくい。
 5~6分でおしらじの滝が見えた(写真)が、水が流れ落ちていない。めったに滝が見られないことから、幻の滝とも呼ばれているらしい。
 滝壺は透き通ったエメラルドグリーンで、滝床の石が青みを帯びてさざ波に揺らめいている。谷あいのせいか霧がかかっていない。青いさざ波をジーとのぞき込んでいると、気分が穏やかになってくる。

 戻り道は上りである。ぬかるんだ足元を踏みしめながら細く急な坂を上る。4~5人のグループが下りてきたが、突っかけサンダルやビーチサンダルのような履物で往生していた。観光地とはいえ山の道は何があるか分からない。万全の準備がいいね。
 駐車場に戻り、先客のようにトレッキングシューズの泥を落とし、車に乗る。
 この先は通行止めらしいので、県道56号線を戻る。

 山の駅たかはら=学校平を通り過ぎてから右に折れ、霧の深い山道を10数分走る。途中の小間々は霧で見落としたらしく、大間々の駐車場で行き止まりになった。
 天気が良ければ、ここに車を止め、大間々自然歩道や県民の森線歩道見晴コース、青空コース、やしおコース、林間コースなどのハイキング、剣ケ峰1540m、釈迦ケ岳1795mなどのトレッキングを楽しむことができるらしい。

 展望台は霧で包まれている。左の林の中に向かって遊歩道の標示があり、右の斜面には木道が霧の中に向かって延びているが、どちらも先は五里霧中である(写真)。おまけに案内看板には熊出没警戒の貼り紙があった。最近、熊が出たらしい。
 五里霧中に熊が出てきたらお手上げである。予定より早いが、宿に向かうことにした。

 
 大間々から霧の山道を下り、県道56号線を右折する。下るにつれ霧が晴れてきた。人家が見えるころには薄日も射し始めた。手づくりチーズの看板を出したユニークな建物があった。コーヒータイムしようと車を止め八方ヶ原を見上げると、山は霧?雲?で包まれている。
 平地は晴れていても高地、山の天気は晴れとは限らない。山に来るたび同じような体験をくり返すので、あきらめは早い。

 店内にはマスクのスタッフと客がいたので、テラス席で紙コップのコーヒーを飲んだ。新型コロナウイルスでコーヒーを飲むのも気を使う。

 県道56号線から県道30号線に折れる。途中、川崎城跡地公園の標示を見つけ、寄り道した。800年ほど前、このあたりの領主である塩谷氏が、南北に延びる丘陵地に本丸、二の丸を築き、東は内川と空堀、西は土塁で備えとしたらしい。
 いまは西側を東北自動車道が走っている。二の丸跡の梅林が見事らしいが、いまは梅の時期ではない。園内整備の工事車両が止まっていて、工事関係者が打ち合わせ?、休憩?しているだけで、ほかの車も人影もない。駐車場に設置された案内看板を読み、県道30号線に戻った。

 ナビに従って県道74号線に折れ、16:30ごろ、さくら市にあるかんぽの宿喜連川温泉に着いた。入口で手の消毒、体温測定後、チェックインの手続をする。  (2020.8)

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2000.8 中国西北シルクロード4 標高3000mチベット仏教ラプロン寺を歩く&高山病発症

2020年08月18日 | 旅行

世界の旅・中国を行>  2000.8 中国西北少数民族を訪ねる=シルクロードを行く 4

チベット仏教僧の案内でラプロン寺を参拝する
 ラプロン寺の入口で待っていると、えび茶色のマントで身を包んだ仏教僧Cさんがにこやかな顔で私たちに近づき、合掌する。こちらも合掌し、お辞儀をする。ラプロン寺では仏教僧のガイドに案内されて参拝する決まりのようだ。
 Cさんはチベット族で、身長は165mぐらい、肩幅の広いがっしりした体つきで、20代のようだ。四角い顔に、目も鼻も口も顔の中でそれぞれ存在感を示している。チベット人の特徴だろうか。

 最初に時輪学院、次に寿喜寺、続いて哲学学院、最後に下読部学院を案内してくれた。それぞれが独立していて、土塀を回している。境内は、広い道、途中から狭くなる道、まっすぐな道、T字路の道、L字に折れる道、上る道、下る道、工事中の道が適当に組み合わさっていて、すぐに方向感覚が狂った。案内図もパンフレットもなくCさんに先導されるまま歩いたので、以下は正確さに欠けるところが少なくない。

 どの建物も木造で、外壁は土壁である。版築工法のようだ。外壁は、台形のように上部が内側に傾いていて、どっしりしている(上写真)。窓は少なく、どの窓も小さい。窓のない壁面もある。
 土壁はえび茶色が多いが、下部=えび茶色、中部=白漆喰、上部=焦げ茶色の建物(下写真)や、白漆喰壁の建物(次頁写真、聞思学院)も見られる。
 壁面の途中に帯状の小庇が回されている。土壁の保護のためであろうが、壁面にアクセントが付き、躍動感を感じる。
 屋根は寄棟(前頁上写真)か入母屋(前頁下写真・右写真)で、瓦葺きである。瓦は黄色、緑色が多い。
 格式の高い建物は入母屋屋根で軒先がそり上がり、壁は白漆喰を用いるようだ。
 聞思学院は屋根中央に金細工の宝瓶を飾っている(上写真)。聞思学院の奥に見えるのは大仏殿らしく、入母屋屋根は金色?の瓦葺きで、同じように金色の宝瓶を飾っている。宝瓶は聞思学院、大仏殿の重要性を象徴しているようだ。
 角地に幟を立てている建物もある(前頁上写真)。幟は、チベット語でタルチョーdar lcog、中国語で経幡jing fanと呼ぶ祈祷旗である。信者が青、白、赤、緑、黄の5色で染め上げられた布地を奉納し、仏教僧が経文を書いて幟として立てると、タルチョーが風ではためき読経していることになるそうだ。

 始めの見学は創建1763年の時輪学院、石段を上り、前室に入る。その先が中室、その奥が後室の構成で、1000人以上の仏教僧が、前室で自ら学び、中室で経を学び、後室で礼拝するそうだ。木造で、柱は朱塗り、床は板張り、壁は漆喰仕上げである。窓がなく中は薄暗いので天井の仕上げは分からなかった。
 釈迦牟尼像、第2世カムヤン像、インドの古い仏像でチベット族が信仰していたダラ像などが祀られていた。カムヤンもダラも初めて聞く。日本なら空海弘法大師像とか地蔵菩薩像といったような位置づけだろうか。

 次に、高さ31mの巨大な弥勒菩薩像を安置した寿喜寺に参拝する。手前に十大弟子を従えた釈迦牟尼像が安置されている。Cさんの解説をKさんが訳してくれるがカタカナ表記のメモが追いつかない・・もとはパーリ語?、サンスクリット語?で、中国語を経て日本語に変換されるから、カタカナ表記ではシャリボツ、モクレン、カセンネン、フルナ、マカカショウ、ウバリ、アナリツ、ラゴラ、シュボダイ、アナンが十大弟子になるが、本来の呼び方とはズレがありそうだ・・。

 続いて、境内で最大規模を誇る哲学学院を見学する。1710年のラプロン寺開創と同時に建てられ、いまでも朝、昼の2回、全仏教僧3600人が・・4000人を越えるときもあったらしい・・一堂に会し、修行?、読経?、唱名?するそうだ。
 規模が大きいだけに140本の柱で支えている。柱の太さは60cmぐらいで、薄暗い天井に向かってそびえている。
 柱は布で包まれている。かつては鮮やかな黄?赤?などに染められていたようだが、灯明の油煙、煤でどの柱の布も黒ずんでいる。
 天井から下げられた信者から奉納された布も始めは青、白、赤、緑、黄だったようだが、どれも黒ずんでいる。天にそびえる黒ずんだ柱、天井から垂れ下がる黒ずんだ布地が作る空間は、気持ちを神妙にさせる。
 第1世~第5世カムヤンを表す仏塔が祀られていた。
 Cさんは私たちの目をみながら、本尊は千手千眼の十一面観音で、すべての人を極楽に導いてくれる観音様である、2500年をさかのぼる過去、人々は迷いのなかで生きていて、釈迦が悟りを開き、法を説いた、56億7千万年後に弥勒菩薩が現れ、人々を悟りに導く、その間、人々を悟りに導く仏教を広めるためチベット仏教僧は釈迦の教えを学んでいる、といったことを熱く語ってくれた。

 最後に、1716年、第1世カムヤンが創建した下読部学院を見学した。柱は黄の布で包まれている。最近取り替えられたようだ。
 仏教僧は、信仰心の厚い信者も、五体投地で礼拝するそうだ。床板がくぼんでいるのは五体投地をくり返したためらしい。
 下読部学院も時輪学院、哲学学院と同じく、神妙な空間である。
 修行を目指した空間は、修行にかかわらない事物を捨て去っていく。その一方でより高度な修行を目指し、空間は特化されていく。結果として密度の高い空間が出現する。空間を神妙に感じるのは、修行に特化された空間密度の高さによるようだ。
 見学を終え、Cさんに感謝と修行成就を伝えた。Cさんは高僧の道はまだまだ遠いです、と話す。その姿は凡人には近寄りがたいほど清冽な感じだった。

 戻る途中マニコロに寄った。マニコロはチベットなどでの呼び方で、漢字では摩尼車と表記する。
 一般には、円筒形の表面にマントラが刻まれ、内部に経文や真言を収めてあり、上下を支点に回転でき、時計回りに一回転させると経文を一度唱えた功徳があるとされる。
 ラプロン寺のマニコロは高さが2m以上もあり、外周は彩色された上にマントラや図が描かれている(写真)。150基ぐらいが並んでいて、参拝者が順に回しながら経を唱えていた。
 経文が読めない人のため考案されたのが始まりらしい。手に持って回す小型のマニコロもあるそうだ。
 私も功徳にあやかろうとマニコロを回し始めた。先を行く高齢の婦人はこともなげに回しているが、私のマニコロはなかなか回らない。信心が足りないのか?。力を込め回しているうち、息が切れてきた。足元もふわふわしてきた。軽い頭痛も感じ始めた。

標高3000mで高山病を実感する
 17:30過ぎ、ふわふわしながらラプロン賓館に戻る。部屋は3階だが階段を上るのがつらい。スーツケースは持ち上がらないので、K君が運んでくれた。
 18:00、1階レストランで夕食を取るが、食欲が出ない。ほとんど残す。ビールも頼んだが苦みしか感じない。一口で飲むのを止めた。話すのもおっくうになってきた。明日のチベット族民家訪問を確認し、部屋に戻る。手すりにつかまりながら階段を上るが、息苦しく何度も立ち止まり深呼吸した。
 部屋は18℃でだが、寒気を感じる。倒れるようにベッドに横になる。こめかみあたりでズキンズキンと音を立てながら血管がうめきだした。やたらと口が渇くが、水を飲んでも舌に粘りつくような気がする。なにも食べてないのに吐き気を感じる。夜中に寝苦しさで何度か目を覚ました。
 どうやら高山病を発症したようだ。

 2000mを越えると高山病のリスクがあることは予備知識として知っていた・・高地は気圧が下がり、空気が薄くなって、酸素量が減るが、体が順応できないと高山病を発症する・・。
 高山病を避けようと、1600mの蘭州から3時間かけて1900mの臨夏へ、臨夏で昼食とイスラム寺院見学で1時間ほど滞在し、2時間ほど走って3000mの夏河、と体を慣らしたつもりだった。
 寒くなると毛細血管が収縮して血流が悪くなり、全身に酸素が届き難くなる。寒さも高山病を誘発する要因である。ラプロン寺見学中は寒さを感じなく、油断したようだ。
 脱水も高山病誘発の要因である。ペットボトルを持参し注意していたが、長時間ドライブが念頭にあり、水が控えめになったのかも知れない。
 成田から16時間かかって蘭州に着き、ホテルチェックインが真夜中の0:30で今朝の出発が8:45といった行程だったから、寝不足と疲労が遠因にあったかも知れない。いくつかの要因が重なったようだ。今後の旅の戒めとしよう。高度の低いところに戻れば高山病は回復する。そんなことが頭をかすめるうち朝になった。
 
 6:00ごろ、フラフラと起きる。昨晩より回復したが体はまだ重く感じ、動作が緩慢である。頭は、きつい輪で締め付けられているような気分である。水分を補給する。美味しく感じないが、たっぷりと体に流し込む。
 習慣で、ふらつきながら部屋をスケッチした(図)。広さやつくりは蘭州の飛天大酒店の部屋に類似するが部屋の印象は記憶に残っていない。
 南の窓をのぞくと、下に大夏河が流れていた。頭痛と息苦しさでのたうち回っている頭の上で、ゴ~~ゴ~~とうなっていたのは大夏河だったようだ。
 食欲がないので、朝食は飲み物だけにする。体調がきつければチベット族民家訪問を早めに切り上げることにした。賓館をチェックアウトして、チベット族の村に向かう。 (2020.8)

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2000.8 中国西北シルクロード3 標高1900mの臨夏から標高3000mの夏河へ+ラプロン寺

2020年08月13日 | 旅行

世界の旅・中国を行く>  2000.8 中国西北少数民族を訪ねる=シルクロードを行く 3

臨夏→夏河/赤茶けた山あいを走る
 臨夏Linxiaで昼食を取り、イスラム寺院を見学したあと、夏河Xiaheに向かった。いつの間にか山が赤みを帯びだしている。標高は、臨夏が1900mだったから2000mを超えたはずだ。山は緑が増えてきて、赤茶の斜面は段々に耕されている(写真)。通り沿いの民家も赤い土を突き固めた版築工法やレンガ積みの壁に、黒い瓦屋根をのせている。農業が定住と安定収入をもたらしたようだ。

 農業には水が欠かせない。注意していると、谷筋を勢いよくしぶきを上げながら流れ落ちていくのが見つかる。M君が日本語で白水と書き、澄んだ清らかな水のことで、中国ではbaishuiと発音する、と教えてくれた。キラキラ光りながら流れ落ちていくから白水の言い方は的を射ている。
 このあたりではキラキラ光る白水だが、やがて黄土高原を削って茶色くなり、ついには泥流の黄河になる。自然の営みは桁違いにスケールが大きい。

 麦の刈り入れ時のようで、竹竿を横に組み、大勢の男が藁を干している。井戸端?水場端?に女が集まり手作業しながら談笑している。定住すると暮らしの営みが通りにあふれ出してくる。定住+農耕+レンガ壁・瓦屋根だから漢族と思うが、確証はない。

→標高3000mチベット自治区へ/山は荒涼とする
 さらに山を走っているうち、荒涼としてひだの深い山が迫ってきた。山肌は人を寄せつけないように荒々しく、樹木も緑地もまったくない。運転手のSさん、ガイドのKさんによれば、チベット自治区に入ったらしい・・中国ではチベット族を蔵族と表記する・・。
 山裾に、土塀を巡らせた土壁の四角い箱状の住居が山を背にして並んでいる(写真)。一段下がって、まばらな緑色の樹木、灌木が見え、さらに一段下がって畑地がつくられている。
 さらに手前は、浅い川が川床の砂利で小さな波を立てながら流れている。
 風景は、荒涼とした山並みを背景に、山裾に土色で箱状の住居、続いて畑地、手前に浅い川の構成である。夏河の標高は3000mに近いから山の頂きは冬になると凍りつき、氷が溶けたあとは吹き下ろす強風で山肌が削られてしまうのであろう。一方、溶けた水は地表では川、地下で伏流水となり、畑地、緑地を潤し、暮らしを支えているのではないだろうか。

 チベット族=蔵族は半農半牧を営み、農業では主食となるツアンパ・・麦焦がしに似ているらしい・・の材料となるチンクームギ・・ハダカ麦の一種だそうだ・・を栽培し、牧畜では綿羊、ヤギ、ヤクなどを飼育するそうだ。車から見える人々もそんな暮らしだろうか?、考える間もなく夏河の街に入った。

 
 当時の野帳のメモを抜粋+加筆する・・標高1600m~では白茶けた山並みの風景だったが、標高2000m~になると赤茶の山並みの風景に変わり、標高3000m~では荒涼とした山並みの風景になった・・1984年にネパールを訪ね、標高の違いで気候が変わり、その結果、生業や住まい方が変わり、土地ごとの民族文化の違いになることを学んだ。蘭州~臨夏~夏河でそのことを思い出した・・。
 人はその土地の風土のもとで生まれ、その土地の風土と暮らしてきた。暮らしを取り囲む生き物も草木もその土地の風土のなかで育っている。そこには優劣も順序もない。ともに共存し合っている。ともに共存しなければ命を長らえることができない。
 人は住まいをつくるとき、その土地の風土のなかから材料を選ぶ。食べるものもその土地で育ったもののなかから探す。おのずと暮らし方、住み方は風土化する。
 風土化された暮らし方、住み方は代々伝承されながら洗練され、工夫が加えられ、土着文化が形作られてきた。土着文化とはその土地にもっともかなった暮らし方、住み方なのである。自然体系の観点からいえば、その土地にきわめて循環的である。
 それはまた、風土の変わり目が土着文化の変わり目であることを教えてくれる・・風土論にはまっていた自分を懐かしく思い出した。 (2020.7)

標高3000mの夏河到着、チベット仏教のラプロン寺へ
 夏河は中国語でXiahe、日本語では"かが"と読む。東経120度、北緯は宮崎ぐらいの32度だが、標高は2900mを越え、空気はひんやりしている。まわりは褐色の地肌をむきだしにした山が囲んでいて、山並みは標高4000m級に連なる(写真)。
 町並みは東から西に流れる大夏河に沿って伸び、盆地の大半は麦畑と牧草地に利用されていて、羊、ヤギ、牛、馬などが草を食んでいる。半農半牧の暮らしである。
 人口は13万人ほどで、7割がチベット族=蔵族、残りが漢族と回族だそうだ。夏河では、チベット族の民家訪問が主目的である。
 チベット族の信仰はチベット仏教であり、夏河にはラサのポタラ宮に次ぐ規模を誇るとされるラプロン寺がある。ラプロン寺拝観も予定に組んでもらった。

 16:00ごろ、ラプロン賓館についた。ラプロンは中国語では拉卜楞と表記しlabulengと発音する。英語ではlabrangと表記される。ラプロン賓館は大夏河に面した立地で、ラプロン寺から西におよそ2kmと離れている。拝観時間が迫っている?ので、スーツケースをフロントに預け、ただちにラプロン寺に向かった。
 目抜き道路は川に沿った一本道で分かりやすい。賓館の北は畑地?牧草地?で、その先に岩肌のような山が迫っている。東の彼方の山裾に町並みより群を抜き、屋根を輝かせた建物見える。目指すラプロン寺らしい。
 目抜き通りは舗装され、広々としている。歩車道が分離されているところもあれば、店先のテントが歩道までせり出しているところもある。交通量も人通りもそれほど多くない。えび茶色のマントのような服を身につけた人がチベット仏教僧のようで、連れだってゆったり歩いているのが目に付く(写真)。
 16:20ごろ、ラプロン寺に着いた。

 資料によれば、ラプロン寺の創建は清の時代1710年・・1709年説もあり・・、チベット仏教ゲルー派を代表する寺院だそうだ・・チベット仏教にはニンマ派、カギュ派、サキャ派、ゲルク派の4大宗派があるそうだが、深追いせず・・。
 龍山と呼ばれる山の斜面を境内とし、敷地は82万㎡と紹介されている。82000㎡は単純計算で900m×900m、東京ドーム18個分に相当し、見通せないほどの広さである。
 境内は城壁のような土壁で囲まれていて、聞思、続部上、続部下、喜金剛、時輪、医薬の6大学院、仏殿84棟、仏宮30棟、経堂6棟、4000人を収容できる大経堂、18の大師官舎、堂500間、僧舎1000間のほか、塔、楼閣、付属施設などが建ち並んでいるそうだ(写真)。入口あたりから一望しただけではどれが何かは分からない。写真左が寺の中心となる聞思学院らしい。 続く(2020.8)

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2020.5 高麗・秩父を歩く4 秩父ミューズパーク→廣見寺で八十八ヶ所巡礼→二本木峠→帝松

2020年08月07日 | 旅行

日本の旅・埼玉を歩く>   2020.5 高麗・秩父を歩く4 秩父ミューズパーク→廣見寺→二本木峠→帝松

 宿は、新型コロナウイルス感染のリスクを判断基準にwebで調べ、口コミの評価も高いちちぶ温泉・はなのやを選んだ。本館は木造2階建て、全室露天風呂付きで、近年、同じく全室露天風呂付きの木造2階建て別邸花水木が建てられていたので別邸を予約した。
 食事も個室型なのでスタッフ以外の接触は限られている。・・実際、満室だったにもかかわらず、ほかの客を見たのは翌朝のチェックアウトのときだけだった。

 さっそく部屋付きの露天風呂でのんびりする。周りは樹林が広がっていて眺望は望めないが、新緑のすがすがしさを楽める。

  食事は、個室型の食事処で創作和食膳を味わった。桜海老の先付、竹の子の小鉢、前菜は海老白糸巻・こごみ・ヤリイカ・蓮根など、御凌ぎに山菜ちらし寿司が出て、鮪・カンパチ・真イカのお造り、煮物は秩父ハーブ三元豚のしゃぶしゃぶ、焼物は鰆のバジルオイル焼、揚物は鶏真丈・タラの芽などに続き、手打ちそばが出た。日ごろ過食に気をつけているので、少なめの和食膳を頼んだはずだが、どれも美味しく、彩り、香りに目や鼻が食べたがり、食べ過ぎた。
 お酒は秩父利き酒セットを頼んだら、秩父路、秩父小次郎、武甲正宗が出た。前2者は中口、後者は辛口で、どちらかというと淡麗である。個人的には濃醇が好みだが、濃醇ばかりだと淡麗も味わいたくなるし、淡麗は料理の味を邪魔しない。お酒も料理も美味しく頂いた。
 今日の歩数は10200歩だった。毎日の9000~10000歩と変わらないので、足の疲れは感じない。寝しなに露天風呂を楽しみ、休む。

 翌朝、チェックアウトのときはじめて別の客を見かけた。かなり若いカップルだった・・年寄りからそう見えただけかも・・。
 ・・私の若いころは貧乏旅行に徹していた。社会もまだ低成長の時代で、いまから思えば貧しいことが標準だったから、露天風呂付き、もちろんトイレ付き、和室にベッドの和モダンの部屋、個室型食事処で会食膳、などは想像もできなかった。
 時代は豊かさを求めて確実に変化している。若者は時代の申し子だから、若者を見ればいまの時代のありようが想像できる、ということであろう・・。

 2019年11月に三峰神社、秩父神社、秩父まつり会館、団子坂などを巡っているので、今回はまだ立ち寄ったことのない秩父ミューズパークに向かった。
 秩父ミューズパークは、長尾根丘陵に南西~北東およそ3kmに渡ってつくられた公園で、音楽堂、野外ステージ、ミューズの泉、ちびっ子広場、テニスコート、プール、日帰り温泉、レストランなどが設けられているそうだ。新型コロナウイルス感染予防で施設は閉館している可能性が高いが、公園内の散策はできるだろうと思った。

 しかし、ミューズパーク全体が閉園していて、駐車場も閉じられていた。車から人っ子一人いない広々とした緑地が見える。人数をコントロールするなど、感染予防のための対策を講じながら自然と触れあえば、体ばかりでなく心も精神ものびのびし、気持ちを切り替えられると思うのだが・・。

 何台かすれ違っただけで道路はがらがらである。歩く人もいない。走っていて展望台を見つけた。車を駐車場の路肩に止め、ポールのすき間を抜けて展望台に上り、秩父市街を遠望した(写真)。左下に荒川に架かる秩父公園橋が見える。PC柱に斜張鋼を張った形がハープを連想させることからハープ橋と愛称されている。
 ハープ橋の先に秩父鉄道秩父駅を中心にした市街が広がる。その先が都幾川、そのまま東に向かえばさいたま市になる。

 目を右=南に移すと武甲山が見える(写真)。武甲山は秩父神社の神奈備山=神の依り代であり、日本武尊が甲を奉納したことから武甲山と呼ばれた伝説がある。
 にもかかわらず、山の北側は石灰岩の採掘で大きく削られ、かつて1336mだったが山頂も採掘のためいまの標高は1304mまで低くなった。旧大宮市=現さいたま市に移り住んだころから、北側が削られ白い石灰岩をむき出しにした三角定規のような武甲山に驚かされてきた。
 人間の欲望は、自然の怒り=神の祟りが起きるまでとどまることを知らない。

 ハープ橋を渡り、国道140号線を左折して秩父市街を抜ける。昨晩、観光ガイドブックを見ていて、廣見寺の四国八十八ヶ所巡りを見つけた。ガイドブックの写真は撮影技術が巧みでときどき期待を裏切られることもあるが、ものは試し、百聞は一見に如かず、急ぐ旅ではないので寄ることにした。
 廣見寺は、秩父鉄道大野原駅近く、国道140号線の右手にある。総門は楼門形式で、左右に木像の阿吽の仁王像がにらみを効かしている。一礼し、本堂に向かう。ほかに人影は見えないし、本堂は閉じている。1391年開創の曹洞宗で、本尊は妙見菩薩だそうだ。本堂前で合掌。
 本堂左奥に真新しい坂東西国堂が建っている。引き戸を開けると、中央の観音菩薩をはさみ右手のひな壇に坂東33観音、左手に西国33観音の木像が並んでいる。ここにお参りすれば坂東33観音巡りと西国33観音巡りをしたことになるらしい。
 新型コロナウイルス感染予防で、不要不急の外出を控えているいまのご時世にぴったりの観音巡りである。合掌。

 本堂の裏手=北は丘陵になっている。本堂右を回り込むと発心門に弘法大師座像が祀られ、脇に修行中の小僧の座像があって、左・修行門と矢印がある。矢印に従い斜路を上る。蜘蛛の巣があちらこちらに張っていたから参拝者は少ないようだ。あるいは働き者の蜘蛛がせっせと糸を張っているのかも知れない。
 じきに平場に出る。草むらのなかに砂利を敷き詰めた半円形の八十八ヶ所遍照庵が設けられている。半径の周りに、阿弥陀如来、薬師如来、釈迦如来、不動明王、地蔵菩薩などの石像がぐるりと配置されている(写真)。入口側から順にお参りすると四国八十八ヶ所の霊場を遍路したことになるらしい。
 坂東西国堂の観音巡りと同じく、いまのご時世にぴったりの遍路である。ぐるりと参拝し、車に戻った。坂東33観音、西国33観音、四国霊場八十八ヶ所を巡ったことになる。御利益が期待できそうだと思ったが、そうした下心そのものが不信心の現れであろう。反省。

 国道140号線を下る。皆野寄居有料道路の標示が見えてきた。有料道路を使うと花園ICから関越道路に入り、そのまま家路になる。まだ時間は早い。一般道を使い、小川町あたりから川越を経由して帰る道を選び、山あいを抜ける県道82号線に右折した。
 水田の広がる農村を走る。すれ違う車は少ない。庭先、道路沿いにポピーが植えられている。ポピー街道の表示板もあった。
 県道361号線=三沢坂本線に左折する。次第に山あいの道になり、カーブが続く。すれ違う車はなくなった。
 林に囲まれた尾根筋のような道を走っていると、道路崩落のため通行止めになった。左に二本木峠標高594mの道標がある(写真)。反対側に立っている観光案内図によると、山ツツジの名所で、浅間山2568m、赤城山1828mなどの眺望を楽しみながらハイキングができる、そうだ。
 山ツツジの時期ではないが車を空き地に止め、ハイキングコースを歩いた。10分ほど歩いて、見通しのいい場所から遠望する(写真)。手前麓に町、彼方に雲がかかってぼんやりした山が見える。このままハイキングコースを歩けば愛宕山594mに登れるらしいが、雲で眺望は望めないだろうし、ほぼ12:00なので、車に引き返した。

 二本木道標からバス停坂本方面の道を下る。細く、カーブの多い道を下っていくと、県道11号線=熊谷小川秩父線に出た。ほどなく道の駅和紙の里ひがしちちぶがあった。
 30~40年前、埼玉県の村づくり先進事例調査で、伝統技術の細川和紙の里を取材したことがあった。庭をはさんだ奥に伝統的なたたずまいの紙すき家屋を復元公開し、手前に和紙製造所を新設して、こちらでは細川紙を生産するばかりではなく、新たな用途、デザインを開発する工房とともに紙すきも体験できるようになっていた・・記憶に不確かなところがある・・。

 いまは道路側にJA農産物直売所(写真)や特産品直売所が建てられている。食事処があったはずだと奥をのぞいたが、自粛要請に応じてすべて閉館だった。農産物直売所は近所の人たちが食材の買い物をしていたので、イチゴや乾麺や大根・・・を買い求めた。さいたまより安い。ささやかな経済投資になったかな。

 県道11号線=熊谷小川秩父線を下り、小川町に入る。酒蔵レストラン帝松の看板が見えた。帝松はよく知られた埼玉県の醸造所である。醸造所直営なら味も期待できるし、銘酒も購入できる。右折して酒蔵に向かう。
 レストラン松風庵は酒蔵を改修したうえで、木造ガラス張りの席を増築し、昨年オープンしたそうだ(写真、門の奥に増築したガラス張り席)。入口で手を消毒する。奥に先客がいたので手前の席に座る。
 1日10食の親子丼がお勧めというので、親子丼を食べた。たっぷりと鶏肉が入っていたが、味を淡泊に抑えてあり、おいしく完食した。

 帝松=松岡醸造所は1851年創業だそうで、「社長の酒」はネーミングが話題になった。その後「部長の宝」もつくられた。酒ぐらいは社長の気分になろうと吟醸・社長の酒を購入した。

 帰り道、道の駅ひがしちちぶ農産物直売所で購入したイチゴを孫に渡そうと、娘家族の家に寄る。新型コロナウイルス感染予防のため、玄関先で孫にイチゴを渡し、早々に帰る。休校中だが元気に過ごしているとのことだった。
 一斉休校、家から出るな、買い物に行くな、友だちと会うな、爺婆にも会うな、図書館も公民館も美術館も・・すべて閉館、コンサート、イベント・・もすべて中止・延期は感染を予防するという戦略だろうが、体の健康、心の健康をむしばみ、経済が疲弊する。
 学校も公的施設も医療機関も店舗・飲食店も観光受け入れ施設も定期的にPCR検査を行い、出掛ける人、気になる人はその都度PCR検査して陰性を確認しておけば、互いが安心でき、もっと行動が自由になるはずである。心身の健康、経済の活性を視野に入れた感染予防の戦略に方向転換すべきであろう、と強く思った。 (2020.8)

 

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