<栃木の旅> 2020.6 栃木 八方ヶ原・黒羽・大谷寺を歩く 2
宿は、正式にはかんぽの宿栃木喜連川温泉と呼ばれる。
現さくら市は旧喜連川町と旧氏家町の合併で新設された。旧喜連川町は、奥州街道の宿場町として栄え、江戸時代には喜連川藩が置かれたことに由来し、藩名は藩の北西から南東に流れる喜連川に由来するようだ。地図には、喜連川は荒川とも記載されているから荒川の源流とも考えられるが、藩名は喜連川藩だから古くから地元では喜連川として親しまれていたのではないだろうか。
宿は、西側を流れる喜連川=荒川と、東側を流れ喜連川に合流する内川(八方ヶ原を源とし前述川崎城跡公園東を流れる)のあいだの南斜面の台地に建っている。部屋の南は目の届く限り緑地で、広々とした眺望である(写真)。
今回は、新型コロナウイルス感染リスクを気にして、露天風呂付きの部屋を予約した。露天風呂+和室+洋室で、年金暮らしにはぜいたく過ぎ、二人では和室+洋室は広すぎる。加えて部屋付きの露天風呂は真湯で、気兼ねなく入れるものの物足りない。南に面した露天風呂を独り占めし、緑地をのんびり眺めながら、節約するべきだった+温泉を楽しむべきだった、と反省する。結局、夕食後の空いてそうな時間に温泉大浴場の露天に入り直した。
喜連川温泉は1900年代末、町おこしで新たに掘削された温泉で、日本三大美肌の湯だそうだ。たっぷり露天温泉につかったから、肌が若返ったかも知れない。
夕食は食事処の過密を避けるため2部制である。広々とした雰囲気の食事処で量少なめの和食膳を頂いた。先付、お造り、煮物、焼物、蒸し物、台物、食事、水菓子の順で、先物のオクラ胡麻和え、煮物の夏野菜、蒸し物の那須豚、台物の那須どりなどが地の物のようだ。
お酒は地産地消・栃木の地酒をコンセプトに醸造されている小山・西堀酒造の純米吟醸・門外不出を頂いた。旨みのあるすっきりした飲み口だった。おもに栃木県内で流通していて、他県ではなかなか手に入らないらしい。名前の通りの門外不出を味わえた。
今日の歩数は五里霧中であまり歩いていないため、家に居るときとさほど変わらない9800歩だった。明日の天気を期待したいが、露天温泉に入っているころパラパラ、チラチラし出した。
明日は明日の風が吹く、気にせずベッドに入る。
翌朝、部屋から見える緑地が湿っている。露天温泉に入ったころにはチラチラしていたのが、朝食ごろから小雨になった。
天気が良ければ標高およそ1300mの鹿沼市・横根高原ハイキングを予定していたが、雨模様なので大田原市に戻り、黒羽城址公園の紫陽花を鑑賞することにした。
9:15過ぎ、宿を出る。国道293・294号線などを北に走り、国道461号線を右折し、那珂川を越えて間もなく黒羽城址公園駐車場に着いた。広めの駐車場だが、混み合っていた。
例年、このころに「芭蕉の里くろばね 紫陽花まつり」が開催されていて、2020年は28回目の予定だったが、新型コロナウイルス感染予防のため紫陽花まつりは中止になった。
紫陽花まつりは中止でも、紫陽花は例年通り花を咲かせている。例年紫陽花を楽しんでいる人や私たちのように小耳にはさんだ人が集まってくるようだ。本格的なカメラを持参している人や、グループで訪れた人、家族連れなどが石垣のあいだの階段を上っていく。
階段を上がったところに、「黒羽城の由来」「俳聖松尾芭蕉と黒羽」の説明板がある・・芭蕉は後述する・・。
黒羽城は1576年=天正4年、黒羽藩主大関高増が、西を流れる那珂川と東を流れる那珂川の支流の松葉川のあいだの高台に築いた山城である。川にはさまれて高台が細長いため、城の東西は250mほどだが、南北は1500mに及ぶそうだ。東西が狭いためか、本丸をはさんで北に二の丸、南に三の丸の構えで、本丸を囲んで土塁、空堀、水堀を巡らせている。廃藩置県に伴い廃城となり、建物は解体され、いまは土塁、空堀などがかつての面影を残している。
説明板の先の土塁に設けられた遊歩道を上る。樹木がうっそうとし、足元は紫陽花が青紫色の花を咲かせている(写真)。
上りきると、平坦な本丸跡に出る。広場になっていて、雨をたっぷり吸い込んでいる。右手に文化伝承館・ステージがある。広場は盆踊り会場などに、ステージはカラオケコンテストなどに使われるようだ。
本丸を囲む土塁に沿って紫陽花が花を咲かせている。青紫の紫陽花がほとんどだが、所々に黄色い紫陽花も咲いている。紫陽花は土壌が酸性なら青、アルカリ性なら赤になるといわれるが、学説?通説?通りにはならないようだ。
向こう正面に物見櫓が建っている。上ると、那珂川沿いの田園風景が一望できる。田んぼの稲は雨で勢いづいているように見える。
城址公園は十分に広く傘を差すとほどほどに離れるので、混み合った雰囲気はないし、新型コロナウイルスの感染リスクも低い。多くの見物人はマスク無しで紫陽花を眺めたり、物見櫓から一望したりしていた。
紫陽花を眺めながら、土塁を一回りする。紫陽花は雨が似合う。
空堀に架けられたあじさい橋を渡る。空堀は10mほどの深さがありそうで、斜面は紫陽花で埋め尽くされている(写真)。27回=27年間の地元の人々の紫陽花まつりにかける熱意の結晶を感じる。
あじさい橋を渡った先が馬出し郭で、その先がかつての三の丸になり、黒羽芭蕉の館が建ち、芭蕉の広場が整備されている。黒羽芭蕉の館はL字型平面で、馬出し郭からは石段をくぐり、館の下を抜け、石段を上ってアクセスする。芭蕉の広場=三の丸側から見ると、館の下をくぐり、馬出し郭を抜け、空堀の跳ね橋=現あじさい橋を渡って本丸へ登城といったイメージになる。設計者は城郭の構えに詳しく、櫓門をイメージして館の下をくぐる登城路をデザインにしたのかも知れないが、雨で濡れている石段の上り下りは滑りやすい。足の悪い方やベビーカーにも不向きだと思う。
芭蕉の広場の正面に建つ黒羽芭蕉の館は屋敷林を背にした入母屋屋根の農家を思わせる素朴なたたずまいである(写真、右手に本丸に向かうL字型の館が延びている)。左手の馬に乗った芭蕉と供の曽良のブロンズ像が出迎えてくれる。
江戸の俳諧師松尾宗房=のち桃青(1644-1694)は、1680年、江戸・深川の草庵に移り、号を芭蕉と改める。1689年=元禄2年3月27日、弟子の河井曽良と旅に出る。この旅の紀行文が教科書でも習う「おくのほそ道」である・・隅田川沿いに芭蕉庵史跡展望庭園があり、芭蕉のブロンズ像が置かれている。草庵跡とされる場所には芭蕉稲荷神社が建立され、芭蕉碑や句碑がある。隅田川沿いの遊歩道には代表句が紹介されている。隅田川散策も見どころが多い・・。
深川を後にした芭蕉と曽良は、同年4月4日から、芭蕉の門人で黒羽藩城代家老を務める浄法寺高勝=俳号桃雪邸や弟の俳号翠桃邸に14日間逗留している。それが縁で、三の丸跡に芭蕉の広場、芭蕉の道、三の丸を南に下った旧浄法寺邸跡には芭蕉公園が整備されたらしい。
黒羽芭蕉の館のエントランスと芭蕉展示室には、芭蕉と黒羽やおくのほそ道に関する資料が展示紹介されている。奥の大関記念室には黒羽藩主大関氏の蔵書や黒羽藩校の蔵書などが展示され、その奥に名誉町民から贈られた蔵書を展示した青山文庫が続き、さらに奥の特別展示室には藩主大関家伝来の甲冑などが展示されていた。
入館時は私たちだけで、途中でもう一組が入館してきた。皆さんは花より団子、芭蕉より紫陽花ということだろうか。
いったん駐車場に戻り、車を芭蕉公園側の駐車場に移す。こちらには観光客の駐車はなかった。芭蕉公園は旧浄法寺邸の庭園だったようで、枯山水はないものの、回遊式に造園されていた。いつの間にか雨は止んだ。雨に湿った緑は生き生きしている。築山や林のあいだの小径を歩く。
黒羽芭蕉の館、芭蕉公園のところどころに芭蕉の句碑が置かれている。その一つが、深川を旅立つ気持ちを詠んだ「行く春や鳥啼き魚の目は泪」である。芭蕉公園にも黒羽城址公園と同じ「俳聖松尾芭蕉と黒羽」の説明板が立っているが、細かなことは触れていない。
句碑ごとに、句が詠まれた情景や芭蕉の心情などの解説があると、凡人にも俳諧、俳句が理解しやすい。そうした気づかいがあれば、観光客も足を延ばすのではないだろうか。
11:30ごろ芭蕉公園を出て、大谷寺・大谷観音に向かう。
フランク・ロイド・ライト(1867ー1959)設計の旧帝国ホテル(1923竣工)に大谷石が使われていたことは学生のころ知った。40年ほど前、子どもを連れて大谷石地下採掘場跡を見学した。その後、大谷石造りの蔵や建物見学にあわせ、地下採掘場跡も見学した。いずれも大谷寺・大谷観音には寄らなかった。今回は、国指定の特別史跡・重要文化財・名勝である大谷寺・大谷観音を目指す。
芭蕉公園から、国道294号線を南に走り、国道293号線を右折して、13:00ごろ大谷観音近くに着いた。昼どきなので、国道に面した大きな切妻屋根の蕎麦屋を見つけ、そば御膳を食べた(写真)。4種の具をのせたそばの小鉢と天ぷらのセットで、そば好きにはかっこうだが、少々食べ過ぎた。
腹ごしらえをすませ、県道188号線=大谷街道沿いの市営大谷駐車場に車を止める。
大谷石を切り出したあとに参道が整備されている。見上げると、大谷石の崖の上にいまにも転げ落ちそうな岩が見える(写真)。天狗が投げ上げたとの伝承があり、天狗の投げ石と名付けられている。
大谷石のモニュメントなどの先に高さ27mの平和観音が穏やかな顔立ちで参詣者を迎えている(写真)。27mでは分かりにくいが、太平洋戦争の戦没者供養と世界平和を祈願した彫刻で、高さは88尺8寸8分と8にこだわっている。横に階段が設けてあり、上ると観音様を間近に感じられる。
平和観音の右手の切り通しを抜けた先が大谷寺である(写真)。後の巨岩の中腹には大きな洞が見える。
消毒、検温のうえ、山門で一礼し境内に入る。写真の洞の下も自然の洞窟になっていて、洞窟下に観世音の扁額を掲げた入母屋、唐破風の堂宇が洞窟から突き出たように建っている。
この堂宇が大谷寺で、本尊は大谷石に浮き彫りされた高さ4mの千手観音である(写真、web転載)。810年、弘法大師空海(774-835)の作との説もあるが、彩色の研究からバーミヤン石仏との共通性がうかがえ、アフガニスタンの僧侶の彫刻と推測されている。
風化している部分もあるが、千手の浮き彫りは円を描いているような動きを感じる。千眼は風化のため定かには見えない。躍動的な千手の観音に合掌。
堂宇に続く、洞窟の壁面に釈迦三尊、薬師三尊、阿弥陀三尊が浮き彫りされている(写真)。大谷観音パンフレットには誰がいつ頃彫刻したのかについては触れておらず、大分県臼杵の磨崖仏に対し、東の磨崖仏として紹介している。
臼杵には60体以上の石仏があり、国宝にも指定されていて、格段にレベルが高い。東の磨崖仏は少し筆が先走ったようだ。
大谷寺境内の奥に池があり、弁財天が祀られている。かつてこのあたりに毒蛇が住み着き、地獄谷と呼ばれていたそうだ。悪病が流行ったのを聞いた弘法大師空海が810年~の東国巡錫ジュンシュクの際、地獄谷を訪れ毒蛇を治めたそうだ。・・前述の千手観音をつくった伝承はこのときの恩恵に尾ひれがついたのではないだろうか・・。毒蛇は改心し、白蛇となって弁財天に仕えているそうで、弁財天の脇には白蛇の像が置かれている。
14:30過ぎ、大谷寺を後にし、国道293号線を経て宇都宮ICから東北自動車道に入り、途中SAのスターバックスでコーヒータイムを取る。岩槻ICで降り、帰路についた。
この日は黒羽城趾公園の紫陽花+芭蕉の館散策と大谷観音・大谷寺参拝だけだったから歩数は伸びず、9000歩だった。長い梅雨のあとは連日の猛暑、健康ハイキングは秋になりそうだ。 (2020.8)