yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2018.7富士を歩く1 鳴沢氷穴&富岳風穴

2019年01月26日 | 旅行

静岡を歩く>   2018.7 富士を歩く  ゲリラ豪雨+鳴沢氷穴+富岳風穴

 冬になると、バルコニーから、雪で稜線がくっきりと浮かび上がった秀美な富士を眺めることができる(写真)。ただし、100km以上離れていて雄大さには欠ける。さらに送電線が視界に入り、秀美さを邪魔している。
 富士の雄大さを間近で眺めようと、何度か、富士の東西南北の宿に泊まった。比べると、送電線に邪魔されてはいるが、マンションから見える形がもっとも秀麗に感じる・・自画自賛?・・。
 富士山にはまだ登ったことはない。登山は大学時代の燧岳ぐらいしか経験に乏しいし、すでに脚力の衰えを自覚しているので、山頂登山は考えたことはないが5合目まで車で行き、5合目付近の初心者向けトレッキングコースを歩くことはできそうだ。そんなことを思っていたら、数年前に富士を間近で見ようと泊まった河口湖畔のホテルマウント富士から優待割引クーポンが届いた。渡りに船である。富士山の天候は急変するから予測できないが、河口湖あたりの長期天気予報で晴ないし曇りが並んだ7月にホテルを予約した。

 初日、朝9時半ごろ、トレッキングもできるスニーカーやウインドヤッケ、トレーナーを車に積んで、走り出す。川越ICで関越道に入り、鶴ヶ島JCTから圏央道、八王子JCTから中央道を走る。雲がときどき流れるていどの晴だったが、河口湖ICに近づくころに見えてくるはずの雄大な富士が見当たらない。富士に雲がかかっている。今日が駄目なら明日、と思いつつ河口湖ICを出る。
 家からおよそ2時間、12時半ごろ、河口湖畔の食事処でほうとうを食べる。ほうとうは山梨あたりの名物で、うどん状の太い麺をカボチャなどの野菜とともに味噌仕立てで煮込んだ料理であり、「農山漁村郷土料理百選」にも選ばれている。ふ~ふ~言いながらほうとうを食べ終え、河口湖から富士を眺めると、山頂は顔を出したが、中腹は雲に隠れている。富士スバルライン+5合目トレッキングはあきらめ、河口湖バイパスを西に走り、鳴沢氷穴に向かう。

 突然暗くなり、一気に土砂降りになった。ワイパーを全速にしても前が見えにくい。なんとか鳴沢氷穴の表示を見つけ駐車場に車を停める。大勢の観光客がずぶ濡れのまま、あきらめ顔で歩いている。気の毒だが助けようがない。
 氷穴の見学なら濡れないと思ったが、とんでもない、傘を広げ車から出た瞬間、バケツをひっくり返したような雨でたちまちスニーカー、ズボンの裾がびしょ濡れになった。
 局地的な集中豪雨をゲリラ豪雨と呼ぶが、最近、ゲリラ豪雨が各地で多発し、大きな被害になっている。情報の進化でゲリラ豪雨の被害をいち早く知るからゲリラ豪雨の多発を感じるのか、それとも地球全体の気候変動が急速化していてその一つがゲリラ豪雨なのか。気候変動とゲリラ豪雨との直接的な因果関係はまだ明らかになっていないが、少なくともcop21気候変動枠組条約の有効な実践を期待したい。

 土砂降りが止まない。濡れたまま、氷穴入場券を買う。近くには富岳風穴もあり、割引になる洞窟セット券を買う。入場口でヘルメットをかぶる。入場口から氷穴入口まで山道を少し歩く(写真)。
 見学を終えた外国人グループが傘無しで濡れながら戻ってきた。洞窟見学中に土砂降りになったようだ。足元は豪雨が流れていて、スニーカーは中まで水がしみこんでしまった。
 氷穴は「いまから1100年以上前に富士山が噴火し、流れ出た溶岩が冷めて収縮したときに内部のガスが噴出して空洞ができ、地下21mと深く年間平均3℃と気温が低いため、したたり落ちる湧水が冬に大きな氷柱となり、その天然氷をブロック状に積み重ね冷蔵庫として活用した」そうだ。
 洞窟入口から階段を下る。足元の岩は凸凹で、濡れているため滑りやすい。下がるにつれどんどん冷えてくる。ウインドヤッケを着込んできたが、寒気が勝っていた。天井の高さが90cmほどしかないところもあり、ヘルメットを何度もぶつけながら、腰をかがめ奥に進む。
 最奥に氷柱が再現されていた(写真)。ライトアップされた氷柱は、まるで春に土から芽を出し天に向かって育つ植物のごとく、伸び上がろうとしているように見える。近くには仮設棚が作られていて、貯蔵庫も再現されていた(写真)。
 鳴沢氷穴は環状形になっている。寒さに震えながら周回して洞窟入口に戻った。雨は小降りになっていて、空も明るくなってきた。氷穴売店に併設された休憩・展示ホールで、濡れたズボンを拭きながら展示を眺める。

 鳴沢氷穴から西に走る。数分で富岳風穴の駐車場に着いた。雨はすっかり上がっていた。突如として現れ、さっと消える、まさにゲリラのような雨だ。ついでながら、スペイン語のguerrillaが語源である。
 林の中を歩くと入場口があり、ヘルメットを受け取る。樹林のなかに遊歩道が整備されている。海抜1000mの標識の先に風穴入口の下り階段がある。天井がかなり低い。ヘルメットをぶつけ、身体をよじりながら進む。
 風穴は「流れ出た溶岩の上部が先に固まり、下部はそのまま流れ、あいだに隙間ができて固まった空洞」だそうだ。富岳風穴は総延長およそ200mの細長い一本の空洞で、左が往路、右が復路に区分されている。平均気温3℃、やはり寒い。横穴風の支洞は氷が重なりあっていた。
 溶岩棚、縄状溶岩の説明があったが、地質には疎い。行き止まりにはヒカリゴケが光を放っていた(写真、青い明かりは照明、最奥がヒカリゴケ)。太陽がまったく当たらないのに光を発するとは、不思議な苔である。
 復路を戻り、ヘルメットをぶつけ、かがむようにして難関を抜け、洞窟を出る。樹林の中に遊歩道が伸びているが、スニーカーもズボンも濡れているので、宿に向かうことにした。

 富士パノラマライン=国道139号線を東に戻り、富士急ハイランド近くから国道138号線を走って、山中湖の北の高台のホテルマウント富士に15:30ごろ着いた。チェックインし、スニーカー、ズボンの汚れを落とし、温泉につかって身体をほぐす。
 富士は相変わらず中腹に雲がたなびいていた(写真)。山頂からは彼方が遠望できそうだが、もし5合目に行ったとしても雲に包まれ何も見えなさそうである。ふと「富士は遠きにありて思うもの・・」が浮かんだが、室生犀星から人生の苦悩が分かっていないと叱られそうだ。富士を遠望しながら湯上がりのビールを楽しむ。 (2019.2)

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2019.1 三が日、ウイーンフィルニューイヤーコンサートを聴き、ミュシャ展を鑑賞し、箱根駅伝を応援

2019年01月23日 | よしなしごと

2019年3が日

穏やかに元旦を迎えた。

地平線に雲がたなびき、赤みがきらめく太陽は見えなかったが、ほどなく雲を越えて白く輝く太陽が輝き、その輝きを胸一杯に吸い込んだ。今年も息災であれ。

近年、いわゆるおせち料理を止めているが、今年はさらに、刺身、数の子を主役に、昆布巻き、黒豆、手づくり玉子焼き、漬け物、生ハム・・・などに絞り、お屠蘇代わりに、冷酒「帰山」で新年を祝った。

 夜は、テレビで生中継の「ウィーン・フィル ニューイヤーコンサート」を聴きながらワインDomaines Arnaudを開けた。
 コンサートの指揮はクリスティアン・ティーレマンで、ワルツ、ポルカの名曲が披露され、アンコールの最後はお馴染みのラデッキー行進曲で〆となった。


 2日目は、箱根駅伝往路を見ながら、息子方孫3人の来宅の準備。孫が到着し、息子とシャンパンを開けるころ、箱根駅伝往路決着。東洋大が優勝、東海大が2位、3連覇が期待された青山学院大は5分以上の差を開けられ、6位だった。
 ここでテレビはスイッチオフ、孫たちが満腹したところで、孫たちのできるゲームで大はしゃぎする。

3日目、朝、箱根駅伝復路7区ごろ家を出る。まず新宿・小田急百貨店の「アルフォンス・ミュシャ展」へ向かう。
 アルフォンス・ミュシャ(1860-1939)は現チェコ=当時のオーストリア帝国で生まれた。小さいときから絵が得意だったが経済的に恵まれず、ウィーンで働きながらデッサンを学び、パトロンの支援でミュンヘン美術学校に入り、1888年ごろ、パリで働きながら美術学校に通った。
 1895年、印刷所で働いていたとき、大女優サラ・ベルナールの主演する舞台ジスモンダのポスター依頼が舞い込む。
 このポスターが大評判になり、当時の先端芸術であるアール・ヌーヴォーの旗手として高く評価された(写真は1896年の作品、黄道12宮ラ・ブリュム誌のカレンダー)。

 フランス・シャンパーニュ生まれで装飾美術の大家ルネ・ラリック(1860-1945)とは同い年で、ルネ・ラリックがサラ・ベルナールの装飾品を手がけていたことから親交を深め、ミュシャのデザインをもとにルネ・ラリックがサラ・ベルナールの百合の冠を製作し、この冠も評判になった。

 1910年、故郷チェコに戻り、「スラブ叙事詩」の大作に取りかかる。
 1918年、オーストリア帝国が崩壊しチェコスロバキア共和国が成立する。ミュシャは貨幣や切手などのデザインを無償で引き受ける。
 1939年、ナチスドイツが侵攻し、ミュシャはドイツに捕らわれ、釈放されるが体調を崩し、世界は偉大な芸術化を失うことになった。

 「アルフォンス・ミュシャ展」には、ジスモンダのポスターを始め雑誌の表紙やカレンダーのデザイン、大作のスラブ叙事詩、チェコスロバキア共和国の金貨や切手など、400点余が体系的に展示されていた。
 正月3日にもかかわらず、大勢の人が熱心にミュシャの作品を鑑賞していたし、外国人も少なくなかった。ミュシャの人気がうかがえる。
 写真撮影可も素晴らしい試みである。あちらこちらでお気に入りのデザインを撮していた。

 バランスの取れた構図、細やかな表現、豊かな彩り、細密画のような表現、なによりもなまめかしさを感じ、見とれてしまった。

 ミュシャ展を楽しんだあと、箱根駅伝復路のトップを応援しようと、日本橋三越に向かった。例年トップランナーは1時半近くに日本橋あたりを通過する。
 三越の向かいに富山県のアンテナショップ・日本橋とやま館がある。年末年始は食材の入荷がないためメニューは限られているので、氷見うどん鱒寿司セットを食べながら時間調整する。
 1時少し過ぎ、沿道に並び、ランナーを待つ。歓声が聞こえてきた。白バイ、先導車に続いて、ランナーが現れた。東海大である。大歓声のなかアッといまに通り過ぎる。
 3分少々経って、大歓声のなか、青山学院大が走りすぎた。トップから6分ほど経って、東洋大が駆け抜けた。

 往路優勝は東洋大、復路優勝は青山学院大、総合優勝が東海大という結果になった。皆さんお疲れさん。ランナーの素晴らしい走りから元気をいただき、帰路についた。

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司馬著「酔って候」は幕末の賢候、土佐藩山内、薩摩藩島津、宇和島藩伊達、佐賀藩鍋島の生き様を描く

2019年01月21日 | 斜読

book476 酔って候 司馬遼太郎 文春文庫 2003  (斜読・日本の作家一覧)
 2018年11月に愛媛・宇和島城など香川・愛媛の城巡りをした。宇和島城は藤堂高虎により1601年に築城され、1614年から伊達政宗の長男・秀宗が城主になった。
 復習の本を探し、藤堂高虎については「虎の城」、宇和島藩伊達家についてはこの本「酔って候」を見つけた。

 「酔って候」には4編が収録されていて、宇和島藩主伊達宗城(1818-1892)は3編目の「伊達の黒船」に登場する。第1編「酔って候」は土佐藩主山内豊信(1827-1872)、第2編「きつね馬」は島津斉彬(1809-1858)病没後に薩摩藩主を継いだ島津久光(1817-1887)、第4編「肥前の妖怪」に佐賀藩主鍋島直正(1815-1871)が主役として登場する。

 幕末のころ、およそ300の藩が各地を領し、徳川家が300藩を束ねていたはずだが、戊辰戦争、明治維新が証すように幕藩体制の終わりが始まっていた。
 そのなかで、藩主自ら新しい視点で藩政の改革を進め、幕府の政治改革にも積極的に関与した福井藩=越前藩主松平慶永(1828-1890)、土佐藩主山内豊信、薩摩藩主島津斉彬、宇和島藩主伊達宗城幕末の四賢候と呼んでいる。
 P303・・島津斉彬は早くに病死したため、江戸幕府第15代将軍で1876年に大政奉還した一橋慶喜(1837-1913)か、尾張藩徳川慶恕(1824-1883)を賢候に含めることも多い、そうだ。
 一方で、佐賀藩=肥前藩主鍋島直正は藩内に徹底したかん口令を敷き、密かに軍備を整えていたため賢候の存在が知られず、明治維新を推進した薩長土肥として肥前藩の働きが評価されるに止まってしまったようだ。

 司馬氏はあとがきで、P329・・革命期の殿様はなにを思い、どう行動し、時流にどのように反応しのだろうか・・私の関心を私なりの興味の持ち方で・・史伝風の小説に著した・・かれらは藩主なるがゆえに歴史の風当たりを激しく受け・・痛烈な喜劇を演じさせられた、と書いている。
 確かに、伊達宗城、山内豊信、島津久光、鍋島直正は喜劇的に描かれている。それは司馬氏も行間で明らかにしているように、日本を取り巻く世界情勢に疎かったうえ、幕藩体制の行く末も読み切ることができなかったためであろう。
 徳川初期にはまだ藩主には野心があり、未来を展望しながら新しい国づくりを試行錯誤する気運があったと思うが、幕末になるまでに藩主はひな壇の飾りのように体制維持だけのために生きる腑抜けな存在にさせられてしまったにようだ。
 司馬氏は、幕末の四賢候を始め、数少ないが世界情勢に敏感に反応し、改革に向かおうとした藩主の生き様をまとめようとしたが、改革の激動のなかでは喜劇にならざるを得なかったと感じたに違いない。

酔って候  土佐藩は山内一豊に始まる(司馬著「功名が辻」に詳しい、book450)・・そのことも文中で少し触れている・・。土佐藩13代が若くして病死し、実弟が相続するが江戸到着後急死してしまう。
 土佐藩存続のため、分家の豊信に藩主の座が転がり込んできた。分家だったので藩政に疎く、まして幕藩体制にも関心が無かったが、それがかえって自由な発想を促し、四賢候として評価される行動になったのであろう。
 配下に上士=上級武士の板垣退助(1837-1919)や郷士=下級武士の坂本龍馬(1836-1867)がいるし、旗本の勝海舟(1823-1899)とも昵懇になっている。こうした名前からも時代が急変しようとしていたことが推測できる。

 山内豊信、松永慶永、島津斉彬、伊達宗城は尊王攘夷の本山ともいえる水戸徳川家の一橋慶喜を後継に推したが、紀州徳川家慶福=のち14代将軍家茂(1846-1866)を推す彦根藩主井伊直弼(1815-1860)による安政の大獄(1858-1859)によって失脚、蟄居させられる。
 翌、1860年に桜田門外の変で井伊直弼が暗殺され、薩長土の動きが活発になり、話を飛ばして、1867年、慶喜が16代将軍に就き、1867年の大政奉還、1868年の明治新政府へと進む。

 「酔って候」は山内豊信の生き様を描いているが、同時に四賢候の登場する幕末の史伝も紹介していて、後編の「きつね馬」「伊達の黒船」「肥前の妖怪」のイントロになっている。

きつね馬  P153・・松平慶永は「斉彬の英明は近世第一であろう。水戸烈公や土佐の容堂=山内豊信とは同日の比ではない。しかも温良で・・一度も怒れる色をみたことがない。実に英雄と称すべきである」、さらに伊達宗城も「70の齢まで貴賤内外を問わず、ずいぶん人に接してきた。しかしまだ島津斉彬のように、風采つねに春のごとく、愛慕の念禁じがたき人を見たことがない」といわれるほど優れた人だった。
 斉彬は、P154・・薩摩藩を産業国家に改造しようとし、造船所をつくり蒸気船を進水させ、西洋式紡績工場、反射炉、溶鉱炉・・・等々をつくっていった。しかし、志半ば病に倒れてしまう。

 ここで久光が登場する。久光の母は正夫人でなかったため、久光を藩主にしようと画策し、後継になるべき公子、公女を次々に殺したらしい。
 斉彬は父・老公存命中はことを荒立てないようにと、不問にしたばかりか、西郷隆盛らの説得にもかかわらず、久光の子を養嗣子にして事態を収めようとしたそうだ。松平慶永、伊達宗城の言葉が実感できる。

 斉彬は安政の大獄に驚き、井伊を倒そうと自ら軍を率いて出発するが、病に倒れる。久光に産業立藩を遺言するが、久光は斉彬が興した事業をことごとく廃してしまう。
 久光は改革への才覚に欠けていたようだ。しかし権威への渇望は強かったようで、P210・・久光の大挙上洛で諸国の志士がふるいたち・・幕威を衰えさせ・・幕末の情勢を一挙に革命前夜に陥れさせた、と評価された。結果的に、斉彬の倒幕を実行したことになる。

伊達の黒船  では宇和島城下の様子が紹介され、伊達宗城もP227~に詳しく描かれている。しかし、主人公は嘉蔵という手先の器用な町人より身分の低い借家人である。宗城はペリー来航に触発され、嘉蔵に軍艦づくりを命じ、以降は軍艦づくり奔走する嘉蔵の話が展開する。村田蔵六も無愛想な様子で登場する。革命期、藩主が賢候だと配下からも優れた人物が生まれるようだ。

肥前の妖怪 
鍋島直正は江戸で生まれ育った。肥前佐賀に帰るとき、藩の財政が破綻していることに驚かされ、原野の開墾を進め、物産を奨励し、さらに長崎出島を利用した密貿易を始める。幕府は幕府、佐賀は佐賀と割り切り、極秘に経済を建て直す。おそらく当時の藩のなかでは最強の軍備を備えたようで、革命時に薩長土肥として一躍脚光を浴びることになる。


 明治維新については教科書でも習うし、本、映画、テレビでも取り上げられるが、主人公はどちらかというと志士が多く、藩主はなかなか登場しない。司馬氏のお陰で革新に思いを馳せ、革命を画策した藩主も少なからずいたことが理解できた。それが喜劇的にならざるを得なかったのは、時代が藩主一人の力ではなく志士あるいは大衆の総意を求めていたためだろうと思う。(
2018.12)

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2018.5金沢を歩く6 にし茶屋街~長町武家屋敷街

2019年01月11日 | 旅行

石川を歩く>  2018.5 金沢を歩く6 寺町寺院群~にし茶屋街~長町武家屋敷街

 時計は11時過ぎ、帰りの新幹線は15:55の予約なので、にし茶屋街~ランチ~武家屋敷街を歩くことにした。
 鈴木大拙館から南西に700mほど歩くと犀川に架かる桜橋に出る(写真)。犀川は穏やかな流れだった。春になれば南の飛騨の山並みからの雪解け水が平野を潤し、北の日本海には北前船が行き交い、その立地が加賀百万石の豊かさを支え、その豊かさが徳田秋聲(1871-1943)、泉鏡花(1873-1939)、室生犀星(1889-1962)や鈴木大拙(1870-1966)、西田幾多郎(1870-1966)らの文人、哲学者を生んだのであろう。
 地図には川の東沿いに室生犀星詩碑、西側には井上靖文学碑や中原中也文学碑が記されている。文人が文人を呼ぶようだ。
 桜橋を渡る。川の西は高い石垣が積まれ、石垣沿いに犀星のみちの案内板があったが、大通りの坂道を選んだ。息を切らしながら上ると寺町通りに出る。1616年、加賀藩主3代=前田家4代・利常は城の防備、寺社の管理、一向宗対策として、城下の寺を南東の小立野、北東の卯辰山山麓、そして犀川南西の高台に集めた。南西の寺々が寺町寺院群で、70ほどの寺社があり、寺町台地伝統的建造物群保存地区に指定されている。
 
 寺町通りに並ぶ寺院を山門からのぞきながら北に歩く。1kmほど歩くとにし茶屋街に着く。
 1820年、加賀藩主11代=前田家12代・斉広時代、金沢城下の遊女を浅野川卯辰と犀川石坂の2ヶ所に集め、茶屋町がつくられた。浅野川卯辰は城下の東、犀川石坂は西になるので、ひがし茶屋街、にし茶屋街と呼ばれた(当初は東郭、西郭と呼ばれ、たらしい)。
 ひがし茶屋街は南北約130m、東西約180mに伝統的建造物がよく残っていて、保存の気運も高く整備も進められ、ひがし茶屋街として重要伝統的建造物群保存地区に指定されている(写真、1999年ごろ)。
 金沢観光の目玉の一つで、大勢の観光客で賑わっている。ひがし茶屋街は訪ねたことがあり、昨日の周遊バスからも混雑ぶりが見えたので、今回はにし茶屋街を選んだ。
 にし茶屋街で茶屋を見学したとき、同席した婦人がひがし茶屋街はたいへんな混雑だったので見学をあきらめ、にし茶屋街に来たと話していたから、にし茶屋街の選択は正しかったようだ。

 にし茶屋街はひがし茶屋街に比べ規模は小さく、100mほどで茶屋街は終わってしまう(写真)。伝統的なたたずまいを残す茶屋も少ない。
 反面、観光客が少なく、静かに街並みを楽しみながらかつての茶屋のたたずまいをじっくり鑑賞できる。
 中を公開している「華の宿」を見せてもらった(写真)。主人いわく、ひがし茶屋街は商人が多くにし茶屋街は武士が多かったそうだ。武士の多いにし茶屋街の方が格式が高いことになるが、商人の方が金回りのいいからひがし茶屋街が華やかなつくりになっただろうと想像できる。
 どの茶屋も間口3間≒5.4mほどで、1階の2間は虫籠ほどに細かい格子の出窓、1間は格子戸、2階は明かり取りの付いた雨戸が共通し、整った街並みをつくりだしている。
 茶屋の間口は3間≒5.4mと狭いが、奥行きはおよそ13間≒23.4mと長い。どの茶屋も壁を接して隣り合っているので、採光通風のための坪庭や奥庭が設けられる。坪庭は玉石を並べ、灯籠を配置した植え込みにして、閉じた座敷に対し開かれた息抜き空間になっている。
 2階への階段は客と芸者が並んで上れるよう広めで、内部の造作材は漆塗り、壁は赤や青で鮮やかに仕上げられ、非日常性を演出している(写真)。
 2階座敷で床を背に座ると、お大尽になったような気分に浸れる。いまも宿泊や宴会で使われているから、茶屋の残像がいまに引き継がれたようだ。お大尽の気分で茶屋を後にした。

 にし茶屋街を出て、12:40ごろ犀川大橋を渡る。手元の地図は観光用だから見どころや主要な目印は記されているが、正確さには欠ける。だいたいの方向をにらんで、片町交叉点を左折する。地理に不案内だが、ひたすら北に歩く。長町交叉点手前で右手に水路が現れた。案内表示はないが、武家屋敷街の気配を感じ、水路に沿って右に曲がる。勘は当たった。右に前田家の流れをくむ前田土佐守家資料館、左に大きな商家づくりの老舗記念館が建っている。いずれも復元のようだ。
 このあたりは長町武家屋敷街と呼ばれている。執政を務めた長氏を始め、前田家の家臣が住んでいた地域で、長氏にちなみ長町と呼ばれているらしい。長屋門を構えた多くの元武家屋敷はいまも人が住んでいて公開されていないそうだ。
 水路は大野庄用水と呼ばれ、灌漑用水、治水、火除け・消火、排雪、水力、染料洗いなどその土地ごとにさまざまに利用された。武家屋敷では用水を引き込んで庭園を潤し、曲水もつくられたそうだ。

 大野庄用水沿いに歩いていて、一の橋が架かった角に四季のテーブルという食事処を見つけた(写真)。ガラス越しに武士の献立というポスターが見えた。
 加賀藩に仕えた武士を主人公にした「武家の家計簿」が2003年ごろに出版され、2010年ごろに映画化された。2013年ごろには同じく加賀藩の武士を主人公にした「武士の献立」が出版され、映画化された。
 本も映画も知らなかったが、テレビで武士の家計簿か武士の献立のどちらかが放映されたのを見た記憶がある。武士の献立の料理監修の一人が青木悦子氏で、青木氏のクッキングスクールがこのビルで開かれていて、1階は青木氏がプロデュースしたレストラン・四季のテーブルになっている。
 といったことは店のスタッフに聞きあとでwebで補足したのだが、このときはテレビで見た映画を思いだし、どんな店かとのぞいていたらスタッフが出てきて、お勧めの治部煮丼、海鮮日本海丼を説明してくれた。治部煮は鴨肉がベースなので、日本海の幸を使った海鮮日本海丼をいただくことにした。店内は明るくモダンなつくりで、家具にも気を遣っている。いい店に出会えた。

 四季のテーブルを出て、二の橋で右の路地に入る。左右ともに土塀が続く(写真)。かつての武家屋敷のたたずまいが想像できる。地図には右手が直臣平士武士だった大屋家の屋敷と記されている。もちろん門は閉じている。
 路地はL字型に折れる。L字型の路地は敵を混乱させるため、武家屋敷街ではよく用いられる。車が通りにくいための不便さもあろうが、歩行者は車を気にせず歩くことができる利点もある。左手は鏑木商舗・金沢九谷ミュージアムで、陶磁器が展示、販売されていた。外国人観光客も九谷焼をじっくり眺めていた。武家屋敷の面影が残る店だから、街中の土産店よりも思い出になりそうだ。
 土塀の路地を戻る。大野庄用水の左の坂口邸長屋門をのぞく。かつて召使いの住まいとした長屋と門を結合させたつくりで、武家屋敷では一般的な門形式である。

 三の橋の角に野村家が建っていて、公開されていた。加賀藩重臣野村家の屋敷跡だが、建物は加賀藩の豪商の邸宅の移築である。移築とはいえ豪商がしばしば藩主を招いたそうだから、当時の武家屋敷に匹敵しよう。
 庭は曲水を取り入れた造園で、当初の庭園のままのようだ(写真)。ミシュラン観光地にも取り上げられているそうで、そのためか外国人観光客が大挙して入館してきて、身動きが取れなくなった。外国人であれ日本人であれ、観光に適した人数に制限しないと建築、庭園の良さがつかめないと思う。グループツアーなら、グループを少人数のAコース、Bコース・・などに分けて観光を分散させてはどうだろうか。工夫を期待したい。
 四の橋近くの高田家跡には長屋門、池泉回遊式庭園が復元公開されていた。六の橋右手には足軽だった清水家、高西家を移築し、足軽の暮らしなどを展示した足軽資料館がある。

 ここで長町武家屋敷街の散策を終え、東の坂道をひたすら歩く。400mほど上ると尾山神社に着く。尾山神社を抜けて左=北に進み、尾崎神社で右=東に折れ、大手堀に沿って歩き、ホテル山楽に15:00ごろに着いた。キャリーバッグを受け取り、白鳥路を歩いて兼六園下から周遊バスに乗る。
 余裕を持って15:55発のかがやきに乗った。18:00過ぎ家に着く。新幹線のお陰で北陸がずいぶんと身近になったことを実感した。今日は19800歩だったが、実りの多いいい旅になった。 (2019.1)

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2018.5を歩く5 尾山神社~21世紀美術館~鈴木大拙館

2019年01月04日 | 旅行

石川を歩く>  2018.5 金沢を歩く5 尾山神社/東神門・神門~近江町市場~北國銀行~金沢21世紀美術館~鈴木大拙館

 お堀通りの向かいは尾山神社である。いまの尾山神社の地には、かつて加賀藩主別邸である金谷御殿が建っていた。辰巳用水の落差を利用し、お堀の下に暗渠を通して金谷御殿に水を引き、玉泉院丸庭園に匹敵する庭も作られていたらしい。
 前田利家(1538-1599)没後、加賀藩初代=前田家2代・利長(1562-1614)は利家を神霊として祀ろうとしたが、外様大名の立場を考慮して卯辰山嶺に卯辰八幡宮を建立し、利家を合祀した。
 廃藩後の1873年、旧藩士たちが前田利家とお松を偲び、二人を祀る神社を金谷御殿跡に建立した。これが尾山神社の始まりになる。
 玉泉院丸口から出てお堀通りを渡ると、尾山神社の東南に建つ東神門が階段上に構えている(写真)。金沢城二の丸御殿に建っていた唐門だそうで、風格を偲ばせる唐破風の堂々たる構えであり、重要文化財の指定を受けている。後述の神門との対比が楽しめるが、二の丸の復元整備が進めば、二の丸に移築した方がふさわしいと思う。

 東神門の左先は池泉回遊式の庭園である神苑が広がる。神苑は金谷御殿時代の庭園のようだ。池の手前に前田利家が馬に跨がり、右に槍を振り上げたブロンズ像が飾られている(写真)。
 利家は、織田信長に仕えていたころ名誉ある赤母衣衆に属し、槍の又左として恐れられたそうだ。槍は又左=利家のシンボルであり、背中の母衣は弓矢や石から身を守る絹の袋のイメージであろう。鉄砲の普及で母衣の実用性は無くなったが、名誉ある母衣衆だったことを象徴しているようだ。
 隣に利家夫人お松を彫った石像が飾られている。以前、NHK大河ドラマで利家と松を主人公にした加賀百万石のドラマが放映された。お松といわれると大河ドラマの主人公が浮かんでしまう。石像の印象とあわないが、写真は無いし、記録も少ないから、作者は想像をたくましくしたに違いない。
 拝殿の右の金谷神社には前田家2代利長を始めとして17代までの当主と正室が祀られているそうだ。一礼する。
 拝殿は西向きで建ち、入母屋瓦葺きに千鳥破風をのせ、唐破風の向拝が伸び出した堂々たる構えである(写真)。拝殿の奥に中庭を挟んで流造の本殿が建っているそうだ。拝殿で二礼二拍手一礼する。

 拝殿の西が尾山神社の正面で、境内の先に重要文化財に指定されている神門が建てられている(写真、参道の階段下からの眺め)。初めて尾山神社の神門を見たとき、あまりにもユニークなデザインから金沢の進取さを感じた。
 和風、洋風、中国風の意匠を巧に組み合わせていて、木造骨組みにレンガを積み、1層目は石貼り、2層、3層目は漆喰塗とし、角部を銅板で覆っている。3層目には色つきのギヤマンがはめ込まれていて、神灯を灯すと金沢市街はもとより海を航行する船からも確認できたそうだ(写真)。
 1875年創建にも驚かされる。金沢人の文化の高さと、前田家のへの思慕の深さに改めて感動である。

 尾山神社の神門を下り、右=北に折れて小路を歩く。ところどころに古いたたずまいが残っているが、大きなビルも多い。道は昔ながらのようで、狭く、曲がっている。古い町の都市計画は、昔ながらの住民が多く、利権も複雑で、難しいようだ。
 7~8分歩くと、金沢の台所といわれる近江町市場の看板が見えた(写真)。市場には上通り、中通り、青果通り、鮮魚通りなどの小路が縦横に通り、生鮮食料品、生活雑貨の店が立ち並んでいる。店をのぞきながら、小路を何本か歩く。
 今年の4月、京都の錦市場を歩いたときは外国人がひしめいていたが、近江市場は地元の人が多く金沢の台所らしさを感じることができた。市場を北に抜けると百万石通りで、向かいはかなざわはこまちと呼ばれる商業ビルが建っていた。
 百万石通りは武蔵交叉点から西に折れる。西向かいはめいてつ・エムザと呼ばれる商業ビルが建ち、近江市場の西側もいちば館と呼ばれる再開発ビルが建っている。商業ビルが建ち並ぶ表通りを一歩奥に入ると、小路に小さな店がひしめく市場になる。町並み変化の落差の大きさが街歩きのおもしろさである。
 夕食どきになった。市場の小路や百万石通りをもう一度ぐるりと歩いて、いちば館2階の海鮮市場料理と銘打った市の蔵に入った。刺身盛り合わせ、鰹のたたき、のど黒炭火焼き、蟹と金時草の酢の物、蛍烏賊沖漬けなどを頼む。お勧めの辛口の加賀鳶と肴の相性がいい。値段も手ごろだった。ほどよい気分で店を出る。

 いちば館を出て武蔵交叉点を右に折れる。交差点の角に北國銀行武蔵辻ケ支店が建っている(次頁写真、右がいちば館)。昭和を代表する建築界の重鎮、村野藤吾(1891-1984)の設計で1932年に竣工した。外壁の重々しいレンガタイル、尖塔アーチのデザインは百万石通りの要のようにどっしりとしている。

 近江町市場から白鳥路のホテル山楽まで歩いて10分ほどである。ほろ酔いのいい気分で夜の金沢を歩く。昔ながら酒小売店があったので帰り道を確かめ、ついでに飛騨高山銘酒・久寿玉の小瓶を買った。宿に戻り、高山の屋台~高速道~兼六園・金沢城~尾山神社・近江市場、盛りだくさんな一日を振り返りながら久寿玉をいただく。歩数計は19000歩になっていたので、天然温泉で足の疲れを癒やし、ベッドに入る。

 3日目・木曜、天気よし、9時半ごろ、ホテルにキャリーバッグを預け、白鳥路を歩き石川橋に向かう。散歩、通勤、観光の人が行き交っていて、白鳥路の居心地の良さを裏付ける。
 前田利家像あたりで右に折れ、石川橋をくぐり、お堀通りを南西に下る。長い下り坂で、歩道は広々としているが人通りは少ない。左右の金沢城と兼六園の石垣が高く、お堀通りが広すぎて、景観が散漫に感じる。白鳥路の空間はヒューマンスケールに適っていて居心地がよかったが、お堀通りの空間はヒューマンスケールから外れていて落ち着かない。地元の人は金沢城公園を抜けるコースを選ぶようだ。

 お堀通りを下った正面にユニークなデザインの金沢21世紀美術館が建っている(写真、東正面)。
 金沢大学は金沢城趾に建っていたが1989~2005年にかけて角間地区に移転した。21世紀美術館あたりにあった金沢大学付属中学校、小学校、幼稚園も1995年に平和町に移り、中学校・小学校・幼稚園の跡地に21世紀美術館が計画された。
 設計は当時、若手のホープとして評判の妹島和世・西沢立衛で、2004年に開館した。直系113mの円形平面で、周囲は床から天井まで全面ガラス張りである。敷地を囲む四方から美術館に入ることができ、館内通路は随所で食い違いにずれながら直交していて、有料ゾーン以外では通り抜けて外に出られる空間構成である。
 円形平面内には大中小の四角い光庭が開けられていて、どの展示室も通路を挟んで光り庭に面している(写真)。
 展示室は大中小があり、さらに天井も高中低があり、通路からのぞき込める小窓が設けられていたりして、出展者が作品展示にふさわしい部屋を選択できるのもこの美術館の特徴である(写真、通路から展示室をのぞける)。
 美術館のテーマの一つである「まちの賑わいの創出」を妹島・西沢が見事に空間化したといえよう。
 金沢で研究会・研修会があったとき、数回、21世紀美術館を訪ねているので、無料ゾーンを一回りして表に出た。

 21世紀美術館から南500mほどに鈴木大拙館がある。鈴木大拙(1870-1966)は西田幾多郎(1870-1945)とともに、日本を代表する思想家、哲学者として教科書にも登場した。
 大拙は現金沢市、幾多郎は現かほく市で同じ年に生まれ、金沢第四高等中学で同級という巡り合わせで、ともに帝国大学で哲学を専攻していて、運命的な出会いを感じる。鈴木の本名は貞太郎で、大拙は円覚寺の釈宗演より受けた居士号であり、仏教、宗教に造詣が深かったそうだ。
 鈴木大拙のことば-34には、「あるがままにある」では、草も木もそうである、猫も犬もそうである、山も河もそうである。「ある」が「ある」でないということがあって、それが「あるがまま」に還るとき、それが本来の「あるがままである」である、と記されている。気持ちを無にしないと、理解が遠くなる。

 鈴木大拙館は大拙の生誕地に近い、斜面緑地を背景に計画された。設計は谷口吉生(1937-)で、2011年の開館である。来館者が自由かつ自然な心で鈴木大拙と出会うことがコンセプトになっていて、展示空間=「知る」、学習空間=「学ぶ」も用意されているが、水鏡の庭に浮かぶように計画された思索空間(写真)で「考える」ことに重きを置いている、と感じた。
 思索空間に開け放たれた開口から水面の動きを無心に眺めていると「考え」が次第に「空」になっていく。大拙の哲学を理解するには大拙の本を読み込まなければならないだろうが、谷口吉生は大拙に通じる「空」の体験を意図したと思う。
 玄関の庭、水鏡の庭、露地の庭を回遊し、鈴木大拙館を後にした。 (2019.1)

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