yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2018.1メキシコの旅5 スペイン風の街プエブラでサツマイモ菓子カモテを味見、タラベラ焼きを見学

2018年02月28日 | 旅行

2018.1 メキシコの旅5の1 2日目 プエブラ/メキシコ中部地震 カモテ タラベラ焼き
 9:20、バスに戻り、プエブラに向かう。プエブラPueblaはメキシコシティの南東120km、活火山のポポカテペトル山の東40km、ポポカテペトル山の裾野に位置する街である。
 1521年にアステカ王国を滅ぼしたスペインは、間髪を入れず未開の地であったこの土地に本国から農民たちを移住させてスペイン風の街をつくった。それがプエブラで、植民地時代の街並みが世界遺産に登録された
 標高は2100mほどの高原で、メキシコシティの標高2300mほどと余り変わらない。高原はイベリア半島を思い出させるらしい。プエブラも発展を続け、現在の人口はおよそ150万人、メキシコ第4の都市になっている。

 2017年9月、プエブラの南55kmを震源とするマグニチュード7.1のメキシコ中部地震が発生した。死者は360人を越え、負傷者は4700人に及んだ。
 メキシコは、これまでも1985年のメキシコ地震、2003年・2012年のメキシコ南部地震、2017年のチアパス地震など大地震が発生して大きな被害を受けている。
 今回の世界遺産を巡るメキシコツアーは、当初、2日目にクエルナバカ市内+ソチカルコ遺跡の見学だったが、メキシコ中部地震の被災修復のため大聖堂などの見学ができなくなった。そこで、2日目はプエブラ市内+ポポカテペトル山中腹に点在する修道院見学に変更になった。
 どちらも世界遺産であり、コース変更には異論は無い。一刻も早い復興、再建を期待したい。私たちのツアー費用が復興支援の一助になれば幸いである。


 メキシコ自治大学を出て間もなくすると、茶色みの強い畑地の風景になる。林の向こうに民家が点在する。山裾も見えてくる。バスはポポカテペトル山を最高峰とする山塊を上り、3000mほどの丘陵を超え、やがて下りになる。
 再び、畑地と小さな街の風景を繰り返し、途中トイレ休憩を挟み、次第に街の風景が多くなってきて、12:00ごろプエブラに着いた。世界遺産に登録されている旧市街は大型バスが入れないので、市バス停留所近くでバスを降りた。市バスが頻繁に停まる。乗り降りが多い。商店街を行く人も多い。活気を感じる。

 ガイドが菓子店に入り、伝統菓子camotesカモテを指さした。サツマイモはメキシコが原産で、camoteと呼ばれるが、プエブラではサツマイモ菓子もカモテと呼ばれて、人気だそうだ。
 太さ2cm、長さ10cmほどの棒状になっていて、オレンジ、レモン、マンゴ(写真)などの味付けがされている。かけら状のカモテもあり、店員が試食用に小さく切ってくれた。甘く味の付いた乾燥芋のような感じだった。何人かがさっそく買い求めていた。

 次にタラベラ焼きの店に入った。このあたりに良質の粘土が産出し、先住民は質のいい焼き物を作っていたらしい。スペインがメキシコを支配下に置いてほどなく、マヨルカ焼きがメキシコにもたらされた。
 プエブラが開発され、良質の粘土が産出することから、タラベラでマヨルカ焼きが行われ、タラベラ焼きと呼ばれた。先住民の陶工も手伝わされたであろうから、先住民の技巧も加味されたはずだ。


 元を正すと、イベリア半島を支配したイスラム教徒がアラブの陶芸技法を持ち込み、ポルトガルではアズレージョ、スペインではアスレホと呼ばれる単色の上薬をかけたタイルが生まれた。
 レコンキスタ国土回復後、スペインに住み着いたイスラム教徒=ムーア人陶工による上薬をかけた焼き物がマヨルカ島を経由してイタリアに輸出された。ルネサンス期、イタリアで錫釉で多彩色の陶器が生産されるようになり、マヨルカ焼きと呼ばれた。
 イタリア製マヨルカ焼きは、彩りの豊かな絵付けが評判でヨーロッパ中に広まっていった。だから、タラベラ焼きは、スペイン・ムーア人、イタリア人、メキシコ先住民の技術の混成形といえよう。

 メキシコを植民地としたスペインは各地に巨大な教会堂、聖堂の建設を始めたのでタイルの需要が高まり、タラベラ焼きが大量に生産されたこともタラベラ焼き普及の要因になった。
 タラベラ焼きの店の奥ではガラス越しに、職人が絵付けをしていた。手前に絵付けの行程を示す皿が並んでいた。店内に陳列されているタラベラ焼きは、植物文様、幾何学紋様、単色、多彩色、皿、器、壺など多様で、見ているだけでも楽しめる。ただ、焼き物はけっこう重い。まだ見学が始まったばかりなので、見るだけにして店を出た。

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2018.1メキシコの旅4 メキシコ自治大学で壁画運動を先導したリベラ、シケイロスの傑作を見学

2018年02月25日 | 旅行

2018.1 メキシコの旅4 2日目 オリンピックスタジアム メキシコ国立自治大学・中央図書館 シケイロス 岡本太郎
 2018年1月26日(金)、5時に目が覚めた。夜中にも何度か目が覚めた。理由は意外と涼しく乾燥していることと、まだ身体がメキシコ時間に馴染んでいないためである。12時間前後の時差で昼夜が逆転するから、身体が馴染むのを待つしかない・・食事のとき、何度も起きた話をしたら、旅慣れた婦人がいつも睡眠薬を持参していて、ぐっすり寝るようにしていると言っていた。いまだかって睡眠薬を利用したことがないので、その話を聞いて言葉を失った。
 6:30、ロビー階のレストランに降りる。日本のツアーグループがほかにもいた。このホテルは日本の旅行社がよく使うようだ。ビュッフェスタイルで、食材は多かった。野菜、ハム、チーズ、ポテト、オムレツ、チキン、サーモン、果物、ヨーグルト・・など定番のほかにメキシコ風味もあった。食べているうちに明るくなってきたから、日の出は7時前後である。

 7:45、バスに乗り込む。青空が広がっている。暖かいのかな?、長袖下着+長袖ワイシャツ+トレーナーを着ているが、念のためウインドブレーカーと超軽量ダウンも持参した。
 ホテルの近くは渋滞があったが、じきに流れがよくなった。南に30分ほど走る。メキシコ国立自治大学Universidad Nacional Autonoma de Mexicoでバスを降りた。大学の創立は1551年、コルテスの征服が1519年だから、スペインの植民地となって間もなく大学が置かれたことになる。
 日本は室町時代~戦国時代のころである。・・一方でアステカを滅ぼし、収奪、殺戮をしながら、一方で大学をつくる感覚は理解しにくいが・・。1940~1952年に大勢の建築家が集まり、各地に分散していた学部、研究所が統合され、40余の学部・研究所を擁する大学に再編された。いまや30万人に上る学生が学んでいる大学都市となり、ノーベル賞も輩出するほどの名門校に成長した。スペインの残したプラスの遺産といえる。

 メキシコシティの南東およそ100km先にそびえる標高5426mのポポカテペトル山は活火山で、近年も毎年のように噴火を繰り返している。16世紀の大噴火が記録に残っているそうで、スペインはそのときに流れてきた溶岩地帯を開発し、大学をつくったようだ。溶岩地帯は産業的には不毛だから、大学開発は目の付け所がいい。

 8:20、バスを降りる。目の前のオリンピックスタジアムや擁壁、舗装には焦げ茶色の溶岩が使われていた。溶岩は硬いから加工はたいへんだったと思うが、このあと見学する大学構内を含め、地場の?溶岩が多用され、景観が風景に馴染んでいた。

 オリンピックスタジアムEstadio Olímpico Universitarioは1952年につくられた。1952年ごろは、1910年に始まった革命が1920年に終結し、政情が安定、経済が発展したころになる。1968年のメキシコオリンピックではここがメインスタジアムになった。オリンピック招致を意図してスタジアムが計画された、という説もある。設計はLuis Martínez del Campo、Rafael Mijares、Pedro Ramírez Vásquezで、メキシコ人の名前らしいから、メキシコの国威を世界にお披露目する、といった思いが込められたのではないだろうか。
 オリンピックスタジアム正面ゲート上の壁画はディエゴ・リベラ(1886-1957)のデザインである。革命後の1920年代から文化運動が盛んになったそうだ。
 リベラやダビッド・アルファロ・シケイロス、ホセ・クレメンテ・オロスコといった画家たちが、誰でも見ることのできる公共建造物の壁に、メキシコの歴史や伝統文化、習俗、自然、革命の意義などを表現する「壁画運動」を展開した。
 抑圧されてきた農民の多くはまだ読み書きができなかったため、見て理解する「壁画運動」は一気に広まっていったようだ。
 昨日、空港からホテルに向かう途中に見た原色を巧に使った外装は、壁画運動の影響か?、あるいはもともとメキシコ人は彩りに長けていたので壁画運動がスムーズに受け入れられたのかも知れない。

 ガイドの説明では、壁画の中央は鷲とコンドルが合体した鳥である。鷲はメキシコを表し・・国旗、国章も使われている・・、コンドルは中南米に好まれる鳥で、メキシコと中南米の融和を意味する。合体した鳥の手前の左は金髪の父、右は黒髪の母、そのあいだに鳩を手にした子どもがいて、平和共存を意味する。右下の蛇の姿をした農耕神ケツァルコトルとトウモロコシは豊穣を意味するそうだ。
 キリスト教会堂・聖堂のステンドグラス、壁画、天井画は、文字の読めない人に聖書の教えを諭す狙いもあるといわれるが、リベラの壁画や「壁画運動」の狙いも共通する。

 オリンピックスタジアムは、インスルヘンテス通りAv.Insurgentes に面してつくられている。Insurgentesは抵抗勢力といった意味である。昨日見学した独立記念塔はレフォルマ≒改革通りに立っていた。ほかに独立通りもあるらしい。改革通り、抵抗通り、独立通りといった名前は、苦難な歴史を後世に伝えようとしているようだ。

 インスルヘンテス通りの下に設けられたアンダーパスを東にくぐると、大学のキャンパスが広がる。格子状の敷石が縦横に伸びていて、広場も矩形であり、建物も直方体、立方体が並んでいる。大学全体が直交格子を基準軸にしているようで、整然とした印象を受ける。直交格子に矩形、直方体、立方体が配置されたら無機的な空間になりそうだが、その直方体、立方体の壁面に巨大な壁画が描かれているので、ダイナミックな躍動感をみなぎらせている。

 その一つ、中央図書館はいまにも空中に舞い上がりそうな迫力である(写真)。デザインは、建築家・画家のフアン・オゴルマン(1905-1987)で、1948年に開館した。オゴルマンはリベラの家をデザインしていて、リベラの絵の影響を受けたそうだ。中央図書館のデザイン、モザイク壁画はリベラの推薦かも知れない。オゴルマンは壁画を最優先にデザインしたようで、壁画部分の窓はほとんど取られていない。
 モザイク壁画のテーマはメキシコの歴史である。中央上部には征服者スペイン王を表す双頭の鷲、鷲の左のリボンには征服された1521、右のリボンに独立を勝ち取った1820が記されている。
 リボンの左中ほどにラテン語のplusの文字と円柱、リボン右にultraと円柱が描かれている。これは、ジブラルタル海峡のヨーロッパ側とアフリカ側に立てられていたヘラクレスの門を意味する。ジブラルタル海峡を出た艦隊がメキシコを征服したことを表しているのだろうか。
 左右の大きな円には、かつてこのあたりが大きな湖で、アステカが島を都として暮らしていた様子を描いているらしい。左にptromeoプトレマイオス、右にcopernicoコペルニクスと記されているが、意味は聞き損なった。神話の世界・天動説と文明世界・地動説のことだろうか。
 円の少し下に血を流した手が描かれていて磔になったイエスを表し、上に描かれた左手の十字架、右手の剣はキリスト教かさもなくば死、を意味している。左下にはフランシスコ会とドミニコ会が描かれ、彼らによってキリスト教の布教が行われたことを表す。スペイン軍による征服に続き、キリスト教により信仰の自由も奪われたことを訴えている。ほかの絵柄にも意味が込められているそうだが、メモしきれなかった。

 他の3面の壁画もそれぞれのテーマが主張されているが中央図書館の壁画見学はここまでで、ガイドは本部棟?を指さした。

 ガラス張りの本部棟?の中ほどの階を突き抜けて、立体的な壁画が挿入されている。ダビッド・アルファロ・シケイロス(1896-1974)の作品である。シケイロスは、壁画で革命に貢献しようとした社会主義リアリズム画家であリ、リベラらとともに「壁画運動」を先導した。壁画には鷲とコンドルが描かれている。メキシコと中南米の融和を訴えている。

 建築学部棟をのぞいたあと、学長棟の壁画を見た。これもシケイロスの作品である。一部修復中だが、民衆の力強さが画面からあふれ出している。タイトルは「民衆から大学へ 大学から民衆へ」で、大学は民衆とともにある、民衆よ立ち上がれといったことを主張しているようだ。

 岡本太郎(1911-1996)はこのころメキシコのホテルから壁画の依頼を受け、メキシコシティに滞在していた。そのときシケイロスの壁画に影響を受けたそうだ。1968~1969年に壁画「明日の神話」を描きあげたが、ホテルが倒産して「明日の神話」が行方不明になってしまった。
 近年になってメキシコシティの倉庫から発見され、修復されて、2008年から渋谷の連絡通路に展示された。「明日の神話」は水爆の悲惨を乗り越え、再生するたくましさがテーマだそうだ。
 メキシコに旅発つ少し前、渋谷で「明日の神話」を見たときはメキシコのホテルの壁画であることも、シケイロスの影響を受けたことも知らなかった。

 ガイドの説明を聞いて、「明日の神話」と「民衆から大学へ・・」が重なり合い、不思議な縁を感じた。

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2018.2 違和感を感じながらe-Tax で確定申告を送信

2018年02月23日 | よしなしごと

2018.2 e-Taxで確定申告

 昨年はマイナンバー制度移行に伴って新規のICカードリーダー・ライターが必要になったことや、デスクトップパソコンがダウンしたのでノートパソコンで作業しようとしたため、ウィンドーズ10でマイクロソフトエッジ画面を立ち上げ、インターネットエクスプローラ画面に切り替えるなど、取っかかりに手間取った。

 今年は、マイナンバー対応ICカードリーダー・ライターはスムーズに作動し、マイクロソフトエッジ画面からインターネットエクスプローラ画面切り替えも支障なく進んだ。
 医療費控除用の明細フォームが新しくなり、昨年より簡略化されていて、記入がスピードアップされた。

 ということで、2時間少々でe-Taxの作業を終えることができた。
 念のため、いったんプリントアウトし、作業内容を保存して、2~3日置いてから送信することにした。

 gooブログでは1年前の記事が送られてくる。e-Tax作業を終えたとき、1年前のe-Taxで確定申告をした記事が送られてきた。記事を懐かしく読み、1年前のドタバタを思い出した。
 今年は比べてスムーズに終わった。プリントアウトした2017年の確定申告内容をもう1回見直し、遺漏がないのを確認した。あとは送信するだけである。

 確定申告書類は5年間の保管が義務づけされている。6年前の分は不要なので処分をした。シュレッダーがないので、手で小さく破いていく。
 ・・・・国会では、1年未満でも保管義務がないので廃棄した・・・、報告を紛失し、探しても見つけられなかった・・・、そのような記録も記憶も無い・・・、などの答弁がまかり通っている。事態が悪くなると、急に病気になったり、雲隠れして連絡が取れなくなってしまうらしい。気になる答弁の一人が国税庁のトップにいる。
 6年前の書類を破く手に力が入る。違和感を強く感じるが、そんな違和感がストレスに残っては泣きっ面に蜂、踏んだり蹴ったり、である。
 早々にe-Taxを送信した。

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2018.2 御年86才・人間国宝の野村万作演じる狂言「佐渡狐」、千鳥の掛け合い狂言「浜千鳥」観劇

2018年02月21日 | よしなしごと

2018.2 野村万作の狂言の世界

 マンションの隣の隣の区画に、プラザノースと愛称される区役所、図書館、ホール、セミナールーム、音楽スタジオなどの複合施設がある。
 およそ400人のホールでは幅広い企画が催されていて、稼働率が高い。向かいの図書館には頻繁に寄るので、ポスターでどんな公演があるか分かるし、友の会に加入すると毎月公演案内が届くのでチケット購入などの詳細を確認できる。
 昨年の10月ごろ?、「野村万作の狂言の世界」のポスターを見つけた。11月に「ぶらっとコンサート」を楽しんだあと、受付で狂言のチケットを申し込んだ。中央席はすべて完売だったが、左右列と2階席にはまだ空きがあったので右列・前から2列目の席を購入した。

 狂言の舞台は学校教育以来だから、おおよそ60年ぶりになる。野村万作についても、ヨーロッパやアメリカなど海外公演で喝采を浴びたことや人間国宝として称えられていること、子ども、後輩の指導にも力を入れていることをテレビなどで見知っているていどだった。
 だいぶ前、テレビで放映された「のぼうの城」を見て、野村萬斎の名演技に感心した。萬斎が万作の子どもであることをそのとき知った。
 最近は、萬斎とその子ども(=万作の孫)の裕基が親子でコマーシャルに出ている。裕基も芸達者なようだ。

 狂言を復習した。平安時代、中国から伝わった芸能が猿楽として定着、鎌倉時代にが生まれ、室町時代に観阿弥、世阿弥によって能が大成され、能と能のあいだに演じられる狂言が生まれ、江戸時代に狂言が定式化された・・にわか勉強だから誤差も大きいかな・・。
 狂言では大掛かりな舞台装置は使わず、主役シテ脇役アドによる台詞のやりとりによって、風刺や失敗などの笑いを誘う滑稽な話題が演じられる

 今日の演目は「佐渡狐」と「千鳥」である。
 最初に内藤連による狂言の基本の解説があり、その後、小舞「芦刈」を飯田豪の謡いで内藤連が舞った。
 続いて「佐渡狐」である。奏者を御年86才の野村万作、越後の百姓を岡聡史、佐渡の百姓を月崎晴夫が演じた。
 年貢を納める途中の越後の百姓と佐渡の百姓が登場し、声を掛け合う。越後の百姓が佐渡には狐がいないと馬鹿にすると、佐渡の百姓が狐を見たことがないのに狐がいると強がる。
 どちらが正しいか、領主への取り次ぎ役である奏者に判定してもらうことになった。佐渡の百姓から袖の下をもらった奏者は、佐渡に狐がいると判定する。
 不審に思った越後の百姓が、どんな顔か?、色は何色か?、尻尾はどうなっているか?、鳴き声は?などを次々質問する。狐を知らない佐渡の百姓は返答に困るが、その都度、奏者が答えを教える。3人のテンポのいい掛け合いで、会場は笑いに包まれ、大きな拍手となった。

 「千鳥」は太郎冠者を深田博治、酒屋を石田幸雄が演じた。太郎冠者は飯田豪演じる主から、神事に必要な酒を酒屋から取ってくるように言いつけられる。
 これまでも太郎冠者はなんとか言いつくろって、酒代を払わずに酒を取ってきていた。騙され続けてきた酒屋はなかなか太郎冠者の話に乗ってこない。
 太郎冠者は子どもたちが浜辺で千鳥に籠を架けて捕まえる話をしながら「浜千鳥のとも呼ぶ声は」と節をつけて謡い、酒屋が「ちりちりやちりちり」と節をつけて謡う掛け合いの隙に酒を持ち去ろうとするが、酒樽に手をかけるたびに酒屋に見つかってしまう。
 なんとか酒を手に入れたい太郎冠者は流鏑馬の話をし、調子に乗ってきた酒屋に扇子で目を隠させ、その隙に酒樽を抱えて一目散に退場する。汗びっしょりで、謡い演じる二人の掛け合いに会場は笑いに包まれ、拍手が鳴り響いた。

 古典芸能の狂言を楽しんだが、新作歌舞伎のように現代語で今風の話題を風刺した新作狂言も期待したい。将棋やスポーツでも若い世代が旋風を起こしている。萬斎、裕基や若い狂言師の新作狂言で旋風を起こして欲しい。 

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2018.1メキシコの旅3 スペインからの独立を記念した塔を眺め、ディナーでコロナビールを賞味

2018年02月19日 | 旅行

2018.1 メキシコの旅3 1日目 メキシコの歴史 独立記念塔 レフォルマ通り・緑道 コロナビール ディナー
 2018年1月25日(木)、日本時間は夜中の2時で身体は眠たがっているが、メキシコ時間は17:00でまだ日は高い。18:30の夕食まで時間があるので散策に出た。「歩き方」の地図にはすぐそばに独立記念塔が記されている。
 「歩き方」によればメキシコの歴史は、
 紀元前のオルメカ文明、宗教都市、マヤ文明、アステカ文明などの古代文明期
 スペインによる植民地時代
 18世紀、スペインからの独立
 軍人から大統領についたサンタアナの無策によりテキサス戦争に負けるサンタアナ時代
 アメリカによってテキサス、カリフォルニアが併合された国境紛争期
 広大な領土をアメリカに割譲したサンタアナの失政に自由主義的改革運動が起き、内戦の結果、ベニート・ファレスが大統領に選ばれた近代改革期
 ナポレオン3世の圧力でマクシミリアン(1832-1867、スペイン語マクシミリアーノ)が皇帝に就くがフアレス政府が抵抗し、マクシミリアンを処刑、近代化を促進させたベニート・フアレス時代
 ポルフィリオ・ディアス政権は外国資本の誘致による経済開発を進めた結果、外国資本の支配を受けることになったディアス政権期
 ポルフィリオ・ディアスの独裁的な支配に対しフランシスコ・マデロが革命を起こすが、土地改革がなされなかったためビクトリアーノ・ウエルタ将軍が国を掌握しようとし、対してパンチョ・ビージャなどが各地で闘争を起こし、制憲会議の結果、現在の憲法が制定されたメキシコ革命期
 そして現代 になるそうだ。 

 独立記念塔Monumento a la Independenciaは、1810年から始まった独立戦争100周年を記念して1910年に建設された塔である。ガレリア・プラザホテルのドアマンに「歩き方」の図を見せて道順を聞いた。
 ホテル正面入口は幅10mほどのハンブルク通りCalle Hamburgoに面している。ホテルを右に進み、ヴァルソビアVarsoviaと呼ばれる幅10mほどの通りを右に折れ、200mほど歩くとレフォルマ通りPaseo de la Reformaにぶつかる。reformaは改革の意味だそうだから、近代改革を記念して名付けられたようだ。
 この通りの中央は幅20mほどの緑道になっていて、緑に覆われている。メキシコは政治的に混迷が続いたが、幅20mの緑道は高く評価できよう。
 緑道に渡ろうと思ったが、車がけっこうなスピードで途切れない。歩行者用信号は見当たらない。いかにして緑道に渡るか?。ガイドの言葉を思い出しながら、郷に入っては郷に従え、地元の若者が渡ろうとしていたのを見習い、車の途切れた瞬間を縫って小走りに渡った。

 緑道を北に歩くと、ロータリー交叉点の中央に記念塔が見える。高さは48mで、頂部には金の天使像が光輝いている。天使はスペイン語でEl Angelアンヘルになるので、この記念塔もアンヘルと愛称されるそうだ。
 天使はギリシャ神話の勝利の女神ニーケー(=ニケ)がモデルで、右手に勝利のシンボルである月桂樹、左手に自由のシンボルであるちぎれた鎖を高々とかざしている。

 記念塔はロータリー交差点の真ん中に立っていて、回りを4縦列?5縦列?の車が次々と走っているのに、塔の下ではけっっこな人々が写真を撮ったり、歓談したりしている。しばらく眺めていると、車が途切れた瞬間を走り抜けていた。徐行してくれる車もいる。
 郷に入っては郷に従い、車の途切れるのを待ち、手を上げながら、走り抜けた。日本時間では寝ているせいかふらふらしながら、塔の下にたどり着いた。

 見上げると、1段目の台座の正面に手を差し上げた人とライオン、四隅に動作の異なる女神?が座っている。四隅の像は法、正義、戦争、平和を表しているそうだ。これらの像は黒石で表現されている。2段目の台座には1810、1821が刻印されている。これが独立戦争の始まりと独立を勝ち取った年を示す。台座の上には独立戦争を起こし、独立革命の父と慕われるイダルゴ神父の像、独立戦争の英雄たちと女神?の像が配置されている。これらは白石でつくられている。黒が混乱、白が未来を象徴するかのようである。
 土曜にかぎり、塔のなかのらせん階段で天使の足下まで上れるそうだ。塔から街を眺めると、未来が展望できそうである。

 レフォルマ通りは緑道の並木が続いている。マクシミリアーノが皇帝に就いて間もなく、この通りをパリのシャンゼリゼ通りをモデルに整備したそうだ。いまや高層、超高層ビルが建ち並び、その後の発展を見せている。・・翌日、レフォルマ通りに並ぶしゃれた洋館やストリートアートを見た。美術館、博物館も多いそうで、市民の憩いの場になっているらしい。マクシミリアーノは死んで市民にレフォルマ通りを残したということなる。

 ホテルに戻る。ホテルの斜め向かいにサークルKがあった。サークルKはアメリカ発祥のコンビニエンスストアで、メキシコにも多いらしい。成田で両替したペソは50、100、200ペソの紙幣だけで、枕チップ用の10ペソが手元にない。寝しなのビールを買い、小銭をもらうことにした。
 中は日本のコンビニと似ているが、けっこう狭い。奥に飲み物が並んだガラス戸棚が見えた。ビールがどれか分からない。ビールらしい缶を見つけ、通りがかったスタッフにビヤ?と訪ねたら、△□○・・と答え、別のケースの缶を指さした。
 cervezaと書かれていた。ビールをスペイン語ではcervezaというのを思い出した。negromodeloという名前のビールで、5%である・・色は茶色みが濃く、苦みがきいておいしかった・・。15ペソぐらいだったから、120円ぐらい、安い。


 ホテルに戻る。明日の準備をし、ブログを書き出し、ディナーの時間が近づいたのでロビー階に降りた。

 18:30、初めてグループが一堂に会し、初めてのメキシコ料理をいただく。飲み物は、coronaextraビールと白ワインを頼んだ。コロナビールはメキシコビールの定番だそうで、4.5%、色は透明度が高く、どちらかというとピルスナーに近い飲みやすさだった。白ワインはさっぱりした口あたりである。
 前菜は葉物のサラダで、水道水を気にして食べない人もいたが、完食した。主菜はタラのトマトソースで、どこでも味わえる料理だった。デザートのアップルパイも万国共通の味だった。今日はさほどメキシコ料理らしさは感じなかった。

 19:30、チェックインのとき、ウェルカムドリンク券をもらっていたので、バーに寄った。時間が早いせいか、客は数人しかいない。スタッフも準備に忙しそうで、セルヴェッサと声をかけたがどことなく無愛想だった。やたらと賑やかな音楽が流れていたので、早々に部屋に戻った。
 シャワーを浴び・・バスタブのない部屋・・、サークルKの缶ビールを開け、ブログの続きを書く。メキシコ時間21時=日本は真夜中を過ぎ朝に近づいているころベッドに入った。続く

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