yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2023.1京都伏見 稲荷山を歩く

2023年09月28日 | 旅行
日本を歩く>  2023.1 京都 伏見稲荷大社千本鳥居&奥社参拝&稲荷山を歩く


 本殿参拝を終え、千本鳥居を経て稲荷山山頂を目指す。JR稲荷駅あたりが標高30mほど、本殿あたりが標高40mほど、奥社奉拝所=奥の院あたりが標高60mぐらい、稲荷山山頂の標高は233mなので、さほどきつくなさそうである。途中までの千本鳥居は絶景として紹介されているのでに向かう人も多く、ほとんどが普段着か、軽装のウオーキングスタイルである。
 本殿北側の石段参道を上りながら奉納された大きな鳥居をくぐり、左に折れ、右に折れ、鳥居をくぐり、左に折れる(写真)。いくつか社が祀られているが、鳥居も社も素通りする。
 千本鳥居が始まる(写真)。五穀豊穣、商売繁盛、家内安全など奉納者が願をかけて、あるいは満願かなって御礼に奉納した千本(=数え切れない)の鳥居が参道に並べられている。
 高さと幅が絶妙にバランスした朱塗りの鳥居の連続は空間密度を高めて、絶景を演出する。参拝者は参拝よりもこの絶景体験が楽しみのようで、思い思いのポーズで写真を撮り合う。そこに参拝に向かう人と参拝を終えて戻る人が交差するので、あちこちで渋滞が起きる。ときには鳥居の隙間から外に出て通り越したりしながら、参道を上る。途中で参道は二股に分かれる。どちらも千本鳥居が並び、再び合流して奥社奉拝所=奥の院に行ける。


 二股の参道が合流してほどなく奥社奉拝所=奥の院(次頁写真web転載、本殿奥からの眺め)に着く。本殿から10分ほどである。
 本殿の創建は室町時代らしい。江戸時代に桧皮葺入母屋屋根、拝所側の屋根を大きく伸ばした現在の本殿が造営され、1975年に本殿前に拝所が建てられた(前掲写真左が本殿、右が拝所)。拝所で二礼二拍手一礼する。境内は混み合っているが、待たずに参拝できた。
 本殿の裏におもかる石と書かれた石灯籠が2基置かれている。願い事をして灯籠の上の丸い石=空輪を持ち上げ、軽く感じれば願いが叶いやすく、重く感じれば願いが叶いにくいそうだ。健康、健脚、稲荷山参道一周成就を願い、持ち上げる。意外と重い。体勢を整え、丹田に力を入れて持ち上げ、静かに下ろす。苦難に正面から向き合い一心に進めば、願いは叶うということであろうか。
 ふだんはおもかる石に行列が出来るらしいが、待たずに願いごとができた。日ごろの行いか、順調にことが進んでいる。
 
 奥の院参拝を終えて、稲荷山に向かう。上り勾配の参道に奉納された朱塗りの鳥居が続く(写真)。参拝者、観光客は、千本鳥居に比べ少なくなる。
 上り勾配は千本鳥居に比べややきつい。呼吸を整えながら登る。暗くはないが山は神社林で覆われ、参拝者も少ないので、静かである。参道を歩く自分の足音しか聞こえないときもある。
 新設されたらしい公衆トイレを過ぎる。参道の右に左に、社がひしめいている。右手が開け、新池と名づけられた池沿いに社が祀られ、向かいに茶店がある。どの社も黙礼だけして通り過ぎる。
 まもなく三つ辻に出る。奥の院から三つ辻までは5分ぐらいだった。御山参道の矢印を選び、朱塗りの鳥居を登る(次頁写真)。
 参道は鳥居が途切れ茶店、社、鳥居が途切れ茶店、社が繰り返す。ところどころに急階段もあり、たいがいの茶店で参拝者、観光客が一息している。
 三つ辻から7~8分で四つ辻に出る。視界が大きく開け、市街が遠望できる(写真)。長岡京を向いているのだろうか。高架は東海道新幹線か名神高速道路のようだ。
 四つ辻にも茶店があり、賑わっている。参拝者、観光客に混じり、風景を眺めながら一休みする。
 
四つ辻に稲荷山参道一周30分の案内がある。一周なので右回りでも左回りでも四つ辻に戻ってくる。右回りを選び、朱塗りの鳥居を進む(写真)。
 鳥居が途切れ、左に岩山に石塔を積み上げ、小さな朱塗りの鳥居を奉納した三の峰=下社神蹟が現れる。白菊大神を祀っていて、狐が守護している。右に茶店があり、参拝者、観光客が一息している。一礼して過ぎる。
 次の鳥居を抜けると伊勢大神を祀った間の峰=荷田社神蹟が石の鳥居を構えている。戸の閉まった茶店がある。一礼して過ぎる。
 再び鳥居を抜けると、社がいくつも並んだ二の峰=中社神蹟に出る。青木大神が祀られている。ここにも茶店が建っていて、参拝者、観光客が休んでいた。一礼して過ぎる。
 朱塗りの鳥居が並ぶ上り勾配を抜けると一ノ峰に出る。狐が守護し、石塔が積まれた岩山の上に末廣大神が祀られている(写真)。二礼二拍手一礼する。
 ここが標高233mの稲荷山山頂で、小さな社がいくつも祀られ、注連縄を巻いた石塔が並んでいる。奉納のようだ。
 向かいには茶店があり、参拝者が品定めをしていた。狐のお守りを買い求めているようだ。


 一ノ峰参拝を終えて、朱塗りの鳥居が並ぶ参道を下る(写真)。勾配がきつくなったり平坦になったり、鳥居が途切れて視界が開けたしながら下る。
 途中になんどか社が祀られていた。それぞれ一礼したり、黙礼したりして過ぎる。茶店もあり、参拝者、観光客が休んだり談笑している。左回りで参道を登ってくる参拝者、観光客にもすれ違う。外国人も少なくない。
 四つ辻に戻る。案内図通りおよそ稲荷山参道一周は30分だった。参拝者、観光客に混じり、遠望を眺めながら一休みする。
 一休み後、三つ辻に下る。三つ辻からは、千本鳥居の参道ではなく北側の参道を下って本殿に向かった。稲荷山参道一周の参拝者、観光客は少なかったが、四つ辻から下る人は多い。参道が狭いし、多くはグループ、仲間連れで歩きがゆっくりである。人混みを避けながら下り、本殿に戻る。12:00過ぎ、およそ90分の行程だった。
 伏見稲荷大社本殿で一礼する。境内右手の参道=神幸道を下る。食事処も並んでいるが混み合っているので、京阪本線伏見稲荷駅に向かう。
  (2023.9)

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2023.1京都 伏見稲荷大社参拝

2023年09月26日 | 旅行
日本を歩く>  2023.1 京都 伏見稲荷大社本殿参拝


 京都2日目、伏見稲荷大社に向かう。伏見稲荷大社は数回訪ねているが、千本鳥居を抜け奥社奉拝所で参拝して戻っていたので、稲荷大神が降臨した稲荷山は歩いていない。今回は稲荷山参道一周を目指す(境内図web転載、上段が稲荷山、中段右に奥社奉拝所)。
 二条城の見える宿からJR二条城駅まで歩き、山陰本線でJR京都駅に出て、JR奈良線に乗り換える。奈良線は若い人、外国人も多く、けっこうな混みようだった。次の東福寺で降りる人も多い。3つめの稲荷駅で下りる。ここで降りる人も多く、駅前はごった返していた。


 伏見稲荷大社の由緒によれば、鎮座は711年2月初午の日である。渡来人秦氏の伊呂具が餅を的にして矢を射ようと餅を投げたところ、餅は白鳥になって伊奈利山に降り立ち、そこに稲が生(な)えたので伊奈利山は稲生(いなり)が転じた稲荷(いなり)と呼ばれ、稲荷山に社が創建された。これが711年2月初午の日で、以降、稲荷大社で五穀豊穣を願う初午祭が2月最初の初午の日に行われるようになったそうだ(諸説がある)。
 中世、近世には五穀豊穣に加え、商売繁盛、家内安全の御利益も信じられ稲荷信仰が広まった。いまでは稲荷神を祀る稲荷神社は全国におよそ3000、境内社として稲荷神を祀る稲荷社は全国に32000といわれ、屋敷神として稲荷社を祀る屋敷も少なくない。伏見稲荷大社は稲荷神社、稲荷社の総本山になる。
 は稲荷大社の神使とされ、稲荷神社、稲荷社では社頭に守護獣として狐の像を置くのが通例である。実際の狐は肉食で油揚げは食べないらしいが、古くから油揚げは狐の好物と信じられ、油揚げが稲荷神に供えられるようになった。江戸時代には油揚げに酢飯を詰めた食材が稲荷寿司と呼ばれ、廉価なため流行ったそうだ。


 JR稲荷駅の正面に朱塗りの大鳥居=一番鳥居が構えている(写真)。駅前は車の往来が多いが、観光客が大鳥居を背にポーズを取りながらスマホを構えるので、車は遠慮がちに走る。
 江戸時代に描かれた「花洛名所図会」には大鳥居、楼門、下拝殿、本殿が西向き一直線に配置されている。大鳥居の創建は分からないが、江戸時代には建てられていて、1972年にコンクリート製の新たな大鳥居が奉納された。
 大鳥居で一礼し、緩やかな勾配の表参道を進むとコンクリート製朱塗りの二番鳥居が建つ。「花洛名所図会」には二番鳥居は描かれていないから、1960年に新たに奉納されたようだ。二番鳥居で一礼する。
表参道は参拝に向かう人、参拝を終えた人、連れを待つ人、スマホをのぞき込む人、人、人、人で歩くペースがままならない。さらに、京阪本線伏見稲荷駅からの参道=神幸道が楼門近くで表参道に合流するので、楼門あたりは人、人、人が倍の混みようになる。
 人混みをすり抜け、大げさにそびえる楼門に近づく。当初の楼門は応仁の乱で焼失したともいわれる。1588年、豊臣秀吉が母・大政所の病気快癒を祈願したところ快復したので、翌1589年に稲荷大社の修復を進め、現在の楼門を寄進した。
 秀吉の楼門は現在地より5間東に建てられ、柿葺き入母屋屋根だったらしい。東に5間の位置では大鳥居~本殿の軸線からずれてしまう。軸線上にもともとの楼門の残骸が残っていたので東5間の場所に建てたとも推測できる。
 1694年、大鳥居~本殿の軸線上の現在地に楼門が移され、前面に石段がつくられた。柿葺きは桧皮葺に葺き替えられ、東と西に長さ5間の回廊が付設されて現在の形になった(写真、楼門・回廊ともに重要文化財)。
 石段上左右に守護獣運の狐が置かれている。狛犬の場合、口は阿吽が一般だが、左の狐は鍵、右の狐は玉をくわえている。鍵も玉も霊徳の象徴だそうだ。
 楼門左右には刀を差し弓を構えた随神が守護している(写真)。楼門で一礼する。


楼門の正面に外拝殿が建つ(写真、重要文化財)。楼門移築、楼門東西回廊建設と同じ、1589年に、桧皮葺入母屋屋根、間口・奥行き4間で建てられた。
 1840年、稲荷祭礼の神輿5基を並べるため、間口5間、奥行き3間に改築された。
 祭礼時以外は神輿は置かれていないので、外拝殿を通して本殿の内拝殿が簾越しに見える。一礼して外拝殿を回り込み、内拝殿に向かう。
 本殿・内拝殿は石段の上に建つ。もともとの本殿は応仁の乱で焼失し、1499年に再建された。間口・奥行きともに5間5尺、桧皮葺切妻屋根、前拝に大きく屋根を伸ばした流造である(写真、重要文化財)。
 元禄時代に、本殿前に桃山様式の唐破風の向拝が付設された。
 1961年、本殿前に銅板葺き入母屋屋根の内拝殿が建てられ、元禄時代に付設された唐破風の向拝が内拝殿前に移設され、現在の形になった(写真)。内拝殿で二礼二拍手一礼する。
 本殿の簡潔なプロポーションに比べ、唐破風の向拝は大げさなデザインに感じる。元禄時代の人々は、大げさなデザインが商売繁盛に御利益があると思ったのかも知れない。
 外拝殿の東に、1882年に能・金剛流宗家から寄進された桧皮葺入母屋屋根の神楽殿が建つ(写真)。ちょうど、吹き放しの舞台で、祈祷者を前に琴、笛、鈴の音に合わせて神楽女が舞を披露していた。しばし舞を眺める。

  (2023.9)

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202.9金管14奏を聴く

2023年09月17日 | 旅行
2023.9 浦和クラシックアンサンブル 金管14奏コンサート


 さいたま市プラザノースホールで浦和クラシックアンサンブルによるコンサート2023が開かれた。演奏直前に演奏会に気づき、無料なので空席はないだろうと思いながら確認したら、まだ席に余裕があるとのことで入場した。6~7割の入りだった。
 プラザノースは区役所、図書館などの複合施設でしばしば行き来するが、ポスターなどは貼ってなかったから、演奏会の案内をもっと工夫すれば、もっと盛り上がると思う。
 演奏は、舞台向かって左にトランペット5名、続いて中央にフレンチホーン2名とチューバ1名、右にトロンボーン4名の14名である。金管楽器だけのアンサンブルなので重厚な響きに包まれた。


第1部
ヨージアス・コーブルク行進曲
 作曲者ヨハン・ミヒャエル・ハイドン(1737-1806)は神聖ローマ帝国の作曲家で、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの弟である。神聖ローマ帝国には300?の王国、公国、帝国自由都市があり、その一つのザクセン・コーブルク・ザルトフェルト家の公子フリードリッヒ・ヨシアス(=ヨージアス)に閲兵行進曲として献呈された。兄のハイドンは教科書でも習いよく聴くが、弟ハイドンの行進曲を聴くのは初めてである。金管楽器が神聖ローマ帝国時代の行進曲の勇ましさを響かせていた。


英雄的音楽 Nr11.希望  Nr.2 優美  Nr.8 颯爽
 作曲はドイツバロック時代を代表するゲオルグ・フィリップ・テレマン(1681-1767)で、テレマンの曲もよく聴く。ヘンデル、バッハとも仲が良かったそうだ。英雄的音楽=英雄的行進曲は1728年、47歳のときに管弦楽曲として出版された12曲の行進曲のうち希望、優美、颯爽の4曲が金管14奏で奏でられた。


交響詩「夕暮れに」Op.39
作曲は、スメタナ、ドヴォルザークとともにチェコ国民音楽派草創期を築いたズデニェク・フィビフ(1850-1900)である。スメタナもドヴォルザークもよく聴くが、フィビフは初めてである。
 晩年のフィビフは教え子のアネシュカ・シュルゾヴァーと親密になり、そのころに恋愛日記としてピアノ曲集「気分・印象と追憶」全21巻374曲を作曲した。そのなかの「ジョフィーン島の夕べ」の旋律を用いた「交響詩 夕暮れに」が金管楽器で演奏された。浜辺の夕べを連想させるような、静かなメロディーに感じた。


リュートのための古風な舞曲とアリアより  小舞踏曲 シチリアーナ 優雅なラウラ ベルガマスカ
リュートは15~17世紀にヨーロッパで演奏された弦楽器で、フェルメールの「リュートを調弦する女」にも描かれているが、調弦が難しかったためか次第に演奏されなくなったらしい。
 弦楽器リュートのための作品を管弦楽、弦楽合奏用に編曲したのが、イタリア人オットリーノ・スピーギ(1879-1936)である。スピーギはヴァイオリン奏者、ヴィオラの奏者として活躍し、作曲にも多くの作品を残したそうだ。
 「リュートのための古風な舞曲とアリア」は3集12曲の組曲で、そのうち4曲が金管14奏で演奏された。金管なので重々しさを感じる。リュート演奏は無理だろうが、ギター演奏と比べると楽器による違いが一目瞭然ならぬ一聴瞭然になると思った。


第2部
パイナップル・ラグ
 ラグタイムragtimeとは、19世紀末~20世紀初頭、アメリカを中心に演奏された、黒人音楽の強い影響を受けた音楽ジャンルだそうだ。ラグタイム王と呼ばれたのが、アフリカ系アメリカ人の演奏家、作曲家スコット・ジョプリン(1867-1917)で、パイナップル・ラグは1908年に作曲されたピアノのためのラグタイムである。ラグタイムと金管楽器は相性がよさそうで、躍動感を感じた。


メモリー 

劇団四季のミュージカル「キャッツ」はあまりにも有名で、ミュージカルに疎い私もテレビで猫に扮したダンサーがメモリーを歌うのを聴いたことがある。
 ブロードウェイミュージカル「キャッツ」も劇団四季「キャッツ」も筋書きはほとんど分かっていないが、メモリーはキャッツの劇中劇になっていて、年老いた猫グリザベラの過ぎ去った幸せな過去を懐かしむ場面と過去を懐かしみながらも未来に希望を託す場面で歌われるそうだ。
 金管14奏で、グリザベラが過去を懐かしむ気持ちと未来に希望を託す気持ちを聴いた。


白い色は恋人の色
 1969年にザ・フォーク・クルセダーズの北山修司加藤和彦が作詞・作曲し、ハワイ出身のベッツイとアイダホ出身のクリスが日本語で歌った白い色は恋人の色が大ヒットした。
 そのころ、ザ・フォーク・クルセダーズの歌う帰ってきたヨッパライやイムジン河、悲しくてやりきれないなども大ヒットしていた。
 金管14奏でベッツイ&クリスを懐かしみ、ザ・フォーククルセダーズたちのフォークソングを思い出した。


君は天然色
 1981年、大滝詠一が7曲目のシングル「君は天然色」を発売、同曲はアルバム「A LONG VACATION」にも収録されていて、発売と同時にヒット曲になったと記憶している。失恋の歌にもかかわらず金管14奏は、原曲のイメージ通り明るく軽やかに演奏された。


カーペンターズメドレー  シング イエスタデイワンスモア 青春の輝き トップオブザワールド
 1970年代、日本で、兄リチャードと妹カレンのデュオ・カーペンターズの歌が大ヒットした。歌声が素晴らしい。当時はカセットテープを購入しドライブ中によく聴いた。妹カレンが拒食症で闘病、復帰を繰り返したが、残念ながら亡くなってしまった。
 いまもCDを購入してときどき聴いている。CDには元気なころの二人の顔が印刷されている。二人の顔を思い出しながら金管14奏の4曲を聴いた。


 金管楽器のアンサンブルに拍手が鳴り止まない。演奏者が金管楽器を抱えて舞台に戻ってきて、アンコールにチューリップ 心の旅を演奏してくれた。1973年、チューリップのリーダー財津和夫の作詞作曲で発売され、大ヒットになった。
 今日は懐かしい曲の演奏が続く。そのせいか拍手が鳴り止まない。もう1曲、アンコールに応えますと、ふたたび金管14奏が鳴り響いた。スコットランド民謡オールド・ラング・サイン(編曲蛍の光)である。演奏終了後、惜しみなく拍手を送り、会場を出た。
 (2023.9)

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2023.1京都 晴明神社を歩く

2023年09月13日 | 旅行
日本を歩く>   2023.1 京都 晴明神社・京都府庁を歩く


 平安時代の陰陽師・安倍清明を主人公にした映画「陰陽師」がテレビで放映されたときに見た。野村萬斎が熱演していたが、内容は奇想天外である。
 その安倍清明を祀った晴明神社は、北野天満宮から直線で東に1200~1300mに位置する。北野天満宮→晴明神社→京都府庁→三条通で京料理、をイメージした。
 予習で来るときに夢枕獏原作の「陰陽師」を読み始めた(book546「陰陽師」参照)。「今昔物語」に安倍清明の逸話が紹介されているそうで、原作も奇想天外だった。平安時代は菅原道真の祟りを鎮めるために北野天満宮が崇められたり、陰陽師が天変地異の不思議を解き明かしたりの時代だったようだ。


 北野天満宮前バス停から203番のバスに乗り、堀川今出川バス停で下りる。堀川通を南に歩き、西陣織会館を過ぎる。略図を見ながら元誓願寺通を右に折れる。昔ながらの町屋と新しい建物が並ぶ通りで、地元の方に晴明神社を聞き、葭屋町通を左に折れる。
 少し先に二の鳥居が建ち(上写真)、奥まって晴明神社があった。振り返ると、堀川通に面して一の鳥居が建っていたので堀川通まで行き、一の鳥居で一礼する(前頁下写真)。
 一の鳥居の扁額、石柱脇の提灯などに、五芒星と呼ばれる5つの角を持つ星形が描かれている。陰陽五行説における木火土金水の5元素を現し、桔梗の花を図案化した家紋にも用いられていて、晴明桔梗とも呼ばれる。


 由緒書き+webによれば、諸説があるが、安倍清明(921-1002)は小さいころから陰陽道、天文学を学び、貴族社会で占いの才能を認められ、40歳のころに陰陽師、50歳を過ぎて天文博士を任じられた。61代朱雀天皇に始まり、62代村上天皇、63代冷泉天皇、64代円融天皇、65代花山天皇、66代一条天皇に仕えた。村上天皇のときに唐に渡ったとの説もある。
 一条天皇は、晴明没後の1007年、晴明の屋敷に社殿を建立する。これが晴明神社の始まりになる。当時の晴明神社=晴明の屋敷は、東は堀川通、西は黒門通、北は元誓願寺通、南は中立売通までの広大な敷地だったそうだ。
 現在の地図を測ると、屋敷地は東西160m、南北380mほどになる。安倍清明が朝廷、貴族からいかに信頼されていたかが想像できる。その後の応仁の乱、豊臣秀吉による都の造営、度重なる戦火によって晴明神社の規模は縮小する。氏子の熱心な活動に、小説、映画の影響で支援が高まり、1950年、現在の形に復興され、2003年に千年祭が斎行されたそうだ。


 一の鳥居をくぐる。境内に「一条戻橋」が再現されている。もともと堀川一条通に架かっていた橋を1995年に架け替えたので、もとの橋の欄干の親柱を移して再現したそうだ。小説「陰陽師」にも一条戻橋が登場する。隣に式神の石像が置かれている。式神は陰陽師が使う精霊で、小説「陰陽師」では晴明以外には見えないらしい。
 境内はいったん途切れ、葭屋町通を渡り、二の鳥居で一礼して境内に入る。
 境内正面に唐破風の拝殿、その奥に入母屋屋根に千鳥破風を乗せた本殿が構える(次頁写真)。拝殿、本殿は1950年ごろの建築だろうか。二礼二拍手一礼する。
 拝殿右手前に樹齢300年の楠が大きく枝葉を茂らせている。神木だそうだ。陰陽道では魔除け、厄除けの果物とされる桃のブロンズ像も飾られている。
 左手前にはブロンズの安倍清明像が置かれ、境内左に晴明の逸話を描いたパネルが並んでいる。小説、映画のように奇想天外すぎる。


 参拝を終えて戻るとき、「千利休居士聚楽屋敷趾」の石碑に気づいた。豊臣秀吉による聚楽第の完成は1587年である。秀吉は世継ぎを亡くしたので、1591年に甥の秀次に関白の地位と聚楽第を与える。ところが秀吉に秀頼が生まれ、秀次は1595年に切腹させられ、聚楽第は破壊される。
 聚楽第完成のころ、千利休は秀吉との信頼が深く、聚楽屋敷を建て秀吉をよく接待した。ところが、1591年、利休は聚楽屋敷で切腹させられる(book550「利休にたずねよ」参照)。
 秀吉のころ、晴明神社は衰退し、千利休は許しを得て晴明神社一隅に聚楽屋敷を建てたのであろう。となると、千利休はここで切腹したのだろうか。あるいは千利休の聚楽屋敷はいくつかあったのだろうか。どちらにしても、関白に仕立てた甥の秀次、茶の師である千利休を切腹させるとは、秀吉は尋常ではない。 


 晴明神社をあとにして堀川通を南に歩く。堀川をのぞくと遊歩道が整備されていたので、堀川のせせらぎを聞きながら遊歩道を歩くことにして、新しく架け替えられた一条戻橋あたりの石段を下りる。
 堀川遊歩道は、元誓願寺通から二条城南端になる押小路まで整備され、市民の憩いの場になっているようで、散歩の人、ジョギングの人、立ち話の人・・が遊歩道を利用していた(写真)。写真に写る石造アーチは1873年に造られた中立売橋(なかたちうりはし)である。堀川に沿って桜並木が続く。絶景が想像できる。
 遊歩道はかなり深く堀川通を走る車の喧噪は聞こえないが、街並みも見えない。橋ごとに地上の通りを確認し、出水橋で地上に上がり、出水通を東に歩く。


 出水橋から250mほどで京都府庁に着く。新しい庁舎を回り込み、旧本館正面を見る(写真、重要文化財)。
 1904年、東京帝国大学造家学科で辰野金吾の薫陶を受けた松室重光が設計した京都府庁旧本館で、現在も現役で使用されている。煉瓦造・一部石造を構造とした2階建て、屋根はスレート葺き、外観はルネサンス様式でデザインされ、内部は木造で仕上げられている。
 明るい外壁の色調に屋根のねずみ色の色調、縦長に分割した柱割り、窓割りで、端正な感じを受ける。平面は、四角い中庭を囲んで廊下が周り、執務室が並ぶ。
 正面玄関から入り、1階廊下を半周して2階に上がり、2階廊下を半周して正面玄関に戻った。およそ120年間使われてきたからゆがみ、きしみはあるが、近代化を目指した当時の建築家・技術者の設計方針、技術力を実感することできる。
 
 京都府庁旧本館をあとにして釜座通を南に歩く。道路標示を見ながら、丸太町通、竹屋町通、夷川通、二条通、押小路通を過ぎ、御池通で一息し、姉小路通を過ぎ、およそ1300m歩いて三条通の予約しておいた京料理屋に到着する。和を基調にフレンチをアレンジした会席料理を堪能した。ビールで喉を潤し、伊根の舟屋を思い出しながら吟醸伊根満開を味わった。
 ほろ酔いで夜風に吹かれながら堀川通を北に歩き、500mほどで宿に帰った。格子状の町割は歩きやすい。盛りだくさんな半日、歩数も18000、熟睡する。
 (2023.9)  

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2023.1京都 北野天満宮を歩く

2023年09月08日 | 旅行
日本を歩く>  2023.1 京都 二条駅・北野天満宮を歩く


 1月は誕生月、記念月である。コロナ感染者が減少傾向だったので、全国旅割を利用して京都を訪ねた。
 昼どきに京都駅に着く。新幹線コンコースに下りる。にしんそば「松葉」が目に入った(写真)。京都ではにしんそばが名物で、京都に来たときはよく食べる。甘辛く煮た身欠き鰊を具にしたかけそばである。
 アイヌの保存食だった身欠き鰊が北前船で京都に運ばれ、大正時代に広まったそうだ。祇園四条に本店のある総本家松葉京都駅店でにしんそばをいただいた。


 宿は二条城が見える部屋を予約しておいた。バスや地下鉄でも二条城に行きやすいが、山陰本線JR二条駅を見たかったのでJR京都駅から山陰本線に乗り、JR二条駅で下りる。現在の二条駅は山陰本線の高架化にともない1996年に建て替えられた。設計は浦辺鎮太郎(1969-1991)を引き継いだ浦辺設計である。
 浦辺鎮太郎設計の倉敷国際ホテル、倉敷アイビースクエアには数度泊まったし、大原美術館分館も見学し、倉敷文化会館、倉敷市庁舎なども見ている。親しみやすい建築作品である。
 二条駅プラットホームには、大断面集成材で緩やかなカーブの木造トラスが架けられている(次頁写真)。ユニークなデザインと思ったが、木造トラスが短く、列車の後方で下りたら屋根がなく吹きさらしだった。
 予算不足は理由にならない。利用者優先で屋根はかけるべきである。
 当初の二条駅は1988年、伊東忠太(1867-1954)の設計で建てられた。二条城の表玄関になるので、和風を意識してデザインされたそうだ。私が修学旅行、研修旅行で来たときは伊東忠太設計の駅舎を利用したはずだが、遠い記憶になった。
 旧駅舎はJR線高架化にともない移築保存された。現在は改装されて京都鉄道博物館のミュージアムショップとして活用されているそうだ(写真web転載)。旧奈良駅舎のように、駅近くの移築活用の方が記憶が蘇りやすい。


 JR二条駅から東に歩く。左の二条城石垣を眺め、右の神泉苑を通り過ぎ、堀川通を渡り、7~8分で宿に着いた。チェックインし、部屋から二条城東大手門、二の丸御殿を眺める(写真)。
 フロントで京都応援電子クーポンを受け取った。2人×2泊分のQRコードが印刷されていて、スマホで読み取り、パスワード、秘密の質問を設定し、スマホのホーム画面に保存のうえ、2人×2泊分のQRコードを統合するためQRコードの下に記載されているPINコードを一つ一つ入力していく。スマホの小さな入力画面は押し間違いやすく、PINコードの入力で残高統合操作で手間取る。スマホに電子クーポンを登録し終え、宿を出る。


 最初に北野天満宮を目指す。フロントでもらった「京都地下鉄・バスなび」を確かめ、二条城前バス停から50番に乗り、北野天満宮前バス停で下りる。北野天満宮は菅原道真(845-903)を祭神とする全国およそ12000の天満宮・天神社総本社である。
 60代醍醐天皇(59代宇多天皇の第1皇子)のとき、菅原道真は策謀により901年に太宰府に左遷され、903年、太宰府で無念の死を遂げる。
 太宰府に埋葬され、919年に社殿が建立される(現在の太宰府天満宮は1591年造営、国の重要文化財、2011年6月訪問時撮影、紀行文未定)。
 京の都では醍醐天皇の皇子の夭折は道真の祟りと噂され、醍醐天皇は道真を右大臣に復して慰霊する。その後も、清涼殿落雷、平将門の乱、飢饉なども道真の祟りと噂された。 
 947年、62代村上天皇(醍醐天皇14皇子)のとき、神託により(おそらく道真の祟りを鎮めようと)平安京の天門=北西にあたる北野に道真を祀る社殿が建立された。
 987年、66代一条天皇(村上天皇第5皇子である64代円融天皇の第1皇子)は「天満大自在天神」の神号を与え、以来、人々は天神さまと呼び、学問の神として崇めた。
 全国の天満宮、天神社は10000とも12000ともいわれ、北野天満宮はその総本社、太宰府天満宮は総本宮とされる(総本社=総本宮)。


 今出川通りに面して一の鳥居が建つ(前頁写真)。1921年に建てられた石鳥居で高さは11.4mだそうだ。一礼する。
 北向きの参道の右に影向(ようごう)の松が大きく枝を広げている(写真)。説明では、影向は神の降臨を意味し、初雪の日に歌を詠んで神を迎える初雪祭が行われるそうだ。59代宇多天皇とのゆかりで仁和寺が松を植え替えるとも記されている。
 二の鳥居で一礼する(写真)。二の鳥居あたりに豊臣秀吉(1537-1598)が1587年に催した「北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)」で、水を汲んだと伝わる太閤井戸がある。
 九州を平定した秀吉が自らの権威を知らしめるため催したとされる茶会である。このころの秀吉は、利休を茶の師匠のみならず相談役としても信頼していた。なぜ秀吉は利休を切腹させたのか、謎が多い(book550「利休にたずねよ」参照)。
 参道の先に楼門が建つ(写真)。桧皮葺入母屋屋根の2階建てで、左右に随神が飾られている。1階上部に大きな絵兎が飾られ、卯年を祝っている。
 2階の扁額には「文道大祖 風月本主」と記されている。平安時代中期の貴人である慶滋保胤(よししげのやすたね)と大江匡衡(おおえのまさひら)が菅原道真を讃えた言葉だそうだ。
 桃山様式だそうだが、楼門の建設者、建設年代などは記されていない。本殿は豊臣秀頼の寄進であり、本殿参道は楼門参道とは筋違いになっている。妄想する。1.秀吉が大茶湯を催した縁で楼門が桃山様式で建て替えられた、2.秀頼が本殿を寄進するとき、道真の祟りを避けるため参道を筋違いにした。妄想は糸の切れた凧のように頼りない。あとは研究者に任せる。


 楼門で一礼する。参道は北西に折れてから、本殿正面に向かう北向きに変わる。正面に、桧皮葺入母屋屋根に千鳥破風を乗せ、千鳥破風の前に唐破風を伸ばす四脚門の豪壮な桃山様式の中門が構える(写真、重要文化財)。中門の東、西には回廊が巡り、神域を象徴する。
 中門は三光門と呼ばれる。三光は日、月、星の光を意味していて、門を支える桁組に赤い丸=たぶん朝日、白い丸=たぶん夕日、2匹の兎のあいだの三日月を見つけることが出来る。兎は月の象徴ともされる。星の彫刻は見つけられなかったが、夜、屋根の上に北極星が現れるらしく、北極星をあわせて日、月、星の三光との説が一般的である。中門=三光門で一礼する。


 本殿境内の右に松、左に飛梅が植えられている(写真)。
 菅原道真が太宰府に左遷させられときに詠んだ「東風吹かば にほひをこせよ 梅花 主なしとて 春を忘るな」(拾遺和歌集)は教科書でも習う。道真が太宰府に旅立ったあと、道真邸の白梅と松が道真を追って飛び立つ。松は現在の神戸須磨あたりで力尽きるが、白梅は太宰府まで飛んで根付いたとされる。
 北野天満宮の飛梅は、創建時(62代村上天皇のときか?)に道真邸の紅梅を移したとされる。その後は接ぎ木で受け継がれてきたそうだ。梅が咲かないと気づかないが、太宰府天満宮は白梅で、北野天満宮は紅梅である。
 中門、国宝本殿全体は1607年、豊臣秀頼の建立、寄進で、本殿と拝殿を石の間で連結し、拝殿両脇に楽の間を配置する八棟造である(八棟の八は多数の意味で、棟の多い複雑、豪奢な建築様式が八棟造である。本殿と拝殿を石の間で連結する様式は1617年に建立された徳川家康を祀る久能山東照宮以降、権現造と呼ばれる)。
 拝殿は桃山様式で、桧皮葺入母屋屋根に千鳥破風を乗せ、千鳥破風の前に唐破風を伸ばす豪奢な構えである(写真)。拝殿で二礼二拍手一礼する。


 拝殿に沿って東に進み、東廻廊を抜け、東楽の間を過ぎ、朱塗りの塀越しに石の間、本殿を眺める(写真、国宝)。
 本殿北側には梅の木のあいだに社が並ぶ。本殿西側を周り、本殿、石の間、西楽の間、西回廊に沿って歩く。
 道真邸の庭園を再現した「船出の庭」を眺め、中門=三光門に戻って一礼する。二の鳥居で一礼、一の鳥居で一礼して、北野天満宮の参拝を終える。 
 (2023.9)

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